音楽雑文集


by yyra87gata

関西の熱い風

d0286848_19552033.jpg
 GSブームと同時期に関西フォークという呼ばれ方をしたムーブメントが1960年代後半に存在した。高石友也や岡林信康がその中心に位置し、若者が自分の言葉で歌を作り、発表し始めた。今では当り前のようなこの事象。

それまでの日本の歌の世界は職業作家が作った歌を「歌手」が歌うという分業が当り前で、自分で歌を作って発表するといったことは皆無であった。きっとこれは海外からの、特にボブ・ディランに感化された若者の行動がそのムーブメントにつながったのではないだろうか。ディランやビートルズがそうであったように自分の言葉で自分の歌を作る。東のカレッジフォークと共に関西を起点にフォークブームは、素人が自作自演を行なうきっかけとなっていった。

そして、それから数年後、ブルースやソウルの声も上がっていく。ライブハウスからブルースバンドが数々生まれ、その中からプロとしてデビューするバンドも増え始めた。

音楽の中心は東京と考えられていた時代は昔日のものとなり、関西発の音が全国に発信されていった。

その関西発の音楽の中でもこの2つのバンドは伝説となっている。

「ソー・バッド・レビュー」と「上田正樹とサウス・トゥ・サウス」。

関西フォークでは割と標準語で歌詞を作り、標準語で歌われる歌が多い中、このソー・バッド・レビューや上田正樹とサウス・トゥ・サウスは関西弁を駆使し標準語にはないノリをビートに乗せていった。そしてそれは現代のラップにも繋がる言葉遊びも存在した。また、関西弁をあの時代にここまでフューチャーすることができたのは、当時日本のロックと言うものが全然ビジネスになっておらず、超マイノリティな音楽だったので、逆に自由度が大きかったからでは無いだろうか。つまり、それまでの日本のロック業界は、「GS」で失敗していたので、職業作家によってガチガチに作り上げられたGSとは一線を画したかったのかもしれない。

方言丸出しのロックバンド。そのような歌がレコード化されること。まさに、自由なのである。

その言葉の問題だが、東北弁でも、べらんめぇの江戸っ子の言葉でも、九州弁でもない。関西弁はビートに乗りやすいことをソー・バッド・レビューや上田正樹といったバンドマンは知っていたのだろうか。それとも気負い無く生活の歌をビートにのせていっただけなのか。あまりにも音楽的グルーヴにマッチした化学反応ではないか。

関西弁は今でこそ標準語のようにテレビからあふれ出てきているが、1980ごろまでは一つの方言であり、ブラウン管からは今ほど飛び出してはこなかった。

関東の人間からすれば、関西のテレビ局が制作するバラエティーでしか関西弁はお茶の間には入ってこなかったのだ。

「ヤングおー!おー!」「ラブアタック」「プロポーズ大作戦」「パンチDEデート」など。

「新婚さんいらっしゃい」といった長寿番組もあるが、その番組でしか関西弁は登場しなかったし、関西の芸人も今ほど東京の番組に出演していなかった。そして前述の番組を揚げて分かるとおり、殆どがバラエティー番組である。歌の世界に関西弁はそれほど登場していなかったのだ。

では、関西弁はいかにしてお茶の間に入っていったのか。

やはり、1980年ごろのMANZAIブームが起点となり、「オレたちひょうきん族」がドリフや欽ちゃんを駆逐したことで明石家さんまや紳助が台頭し、東京進出により関西弁が本格的に東京に上陸したのだ。

だから、私は、そんな時代背景の中でまだ「オレたちひょうきん族」が生まれる前に、先ほどのソー・バッド・レビューのレコードを聴いた時の衝撃といったらなかったのだ。

これが同じ日本語かと思えるほど、ブルースの八分の六のリズムに心地良く乗る言葉たち。

それまでの関西出身の歌手、例えば沢田研二でも和田アキ子でも歌ってしまえば標準語の歌となっていたので、これほどまでに関西弁を強調した歌というものを私は聴いたことが無かったのだ。

関東圏で生きてきた者にしてみれば、関西弁は外国語の発音に近かった。また、語彙も標準語とはかけ離れている。自分は「わい」あなたは「自分」。もうこれだけでも可笑しい。

今の若者にしてみれば、小さいときから関西弁を聞き、東京の子供でも「めっちゃ」とか平気で使う昨今。そんな人にしてみたら私の驚きなど気にも掛けないことかもしれないが、当時は独立した言葉に聞こえたのだ。

例えば、ソー・バッド・レビューの「おおきにブルース」などはトーキングブルースで、「そやがな・・・おおきに」とか「わいや、わいやがな・・・おおきに」とか、大阪人の口癖をすべて「おおきに」という魔法の言葉で括ってしまったブルース。このような歌は、東京出身の人間は絶対作ることはできない。

また、上田正樹とサウス・トゥ・サウスのアルバム『この熱い魂を伝えたいんや』(1975)の「むかでの錦三」という歌。まずもってこのタイトルのセンス。そういえばソー・バッド・レビューのアルバム『SOOO BAAD REVUE』(1976)に収録されている「青洟小僧」「しょぼくれあかんたれ」「お母ちゃん、俺もう出かけるで」も相当なセンスである。

タイトルだけみていると演歌のような雰囲気もあるが、どの曲も黒いグルーヴが溢れる聴き応えのあるソウルフルな曲ばかりである。

私の高校時代、日比谷野外音楽堂で開かれるイベントに行けば、関西系のバンドが必ず1〜2つは出演していた。その中で上田正樹とサウス・トゥ・サウスもいたし、ソー・バッド・レビューを解散した石田長生がヴォイス・アンド・リズムを率いてソウルフルなギターを奏でていたこともあった。

そんな光景を切り取ってみても、関西のノリは明らかに違っていた。

とにかく客を乗せることが上手い。汗をかきながら身体全体でシャウトし客を鼓舞する。

「乗ってるか!ええか?ええのんか?!」という関西弁が木霊する。

変な意味で関西弁に慣れていない我々は、この言葉は笑福亭鶴光のオールナイトニッポンで鶴光が卑猥な意味としてラジオで話していたから、上田正樹が汗まみれになって「ええか?ええのんか?」と叫んでもニヤニヤ笑ってしまうということもあった。

それほど関西弁は普通に入ってこなかったのだと今改めて思う。

また、東京のバンドは演奏を黙々と行なって、どちらかと言うと技を見せつけるようなバンドが多かったように思うが、関西のバンドはMCを聞いていても「ノリつっこみ」をしたり、バンドメンバー同士での会話を聞いていても漫才をしているようなノリで、どこまで本気なのか分からなくなる時もあった。しかし、演奏に入ると「いなたいビート」の応酬となり泥臭くなっていく。そのギャップが面白かった。

上田正樹の「悲しい色やね-OSAKA BAY BLUES」、BOROの「大阪で生まれた女」、やしきたかじんの「やっぱ好きやねん」など1980年前後から大阪弁を使う歌はバラッドが多くなってきた。

時代の音楽性もあるかもしれないが、ブルースやソウルでは商業的な成功は出来ないということの答えになるかもしれないが、聞き手からすると『SOOO BAAD REVUE』や『この熱い魂を伝えたいんや』というような熱いサウンドを再び聴いてみたいと思う冷たい夏である。

d0286848_19561682.jpg
2017年8月18日
花形


[PR]
# by yyra87gata | 2017-08-18 19:57 | 音楽コラム | Comments(0)

d0286848_09210801.jpg

本当にユーミンのチケットは取れなかった。まだチケットぴあも出来る前のこと。会場付近のプレイガイドに並んで直接購入するという頃の話。

中学生や高校生の頃の私は知り合いにコネがあるわけでもなく、朝日新聞の社会面の下段を毎日監視し、コンサート情報を得るしかなかった。そしてひたすら並ぶ・・・。

それまでの邦人アーティストの大御所プロモーターはキョードー系列や日音、労音であったのに対し、1980年前後、ディスクガレージやスマッシュ、フィリップサイドなどといったプロモーターがタケノコのように生まれた。その頃からコンサートチケット争奪戦はあちらこちらで勃発し始めた。コンサートがビジネス化したのだ!

それまでのチケットの取り方としては、良い席で見たければそれなりの会費を払いキョードーや労音の会員になり、先行予約などという飛び道具による取得が一番の近道であった。しかし、中学生や高校生の分際でそんな金があるわけでなく、いつも残り物の集まるプレイガイドに並んでチケットを得るという基本的なやり方が主であった。だから、並んでいても5人くらい前で予定販売枚数が終了するなんてことは日常茶飯事で、ユーミンのコンサートチケットを取った時などは3年目でやっと自分にまで回ってきたのだった。

高校3年の夏休みが始まった日、夜8時、私は友達と関内の駅に集合していた。

日中の照り返しを吸収した路面は生暖かく、蒸し暑い夜であったが、私は友達と2人である建物を目指していた。キョードー横浜の事務所である。

翌日の朝9時に「松任谷由実コンサート リ・インカーネーションツアー1983」の前売りチケットを購入するための行動である。もちろん、徹夜で並ぶのである。

この頃は、プレイガイドやプロモーター事務所に販売予定日前から徹夜で並ぶと言う行為が一般化しており、「甲斐バンドの武道館公演では新宿のプレイガイドに2週間前から徹夜組が出た」とか「オフコースの武道館公演は徹夜で並んだのにも係らず、購入できなかったファンがプレイガイド前で小競り合いになった」などという情報が錯綜していた。

そのような状況であったから、徹夜でもしなければユーミンなんて一生観ることはできないと思ったのだ。

夏の朝は早い。徹夜組は50名ほどだったろうか。当時はコンビ二も携帯電話も無く、家から持ってきた弁当やお菓子で食いつなぎ、交代で近所の公衆便所に行く。前後に並ぶファンとは共通の話題となるユーミンの話をすれば、妙な連帯感も生まれてくる。私の前後はOLさんの2人連れと女子大生の2人連れだったので、お姉さんたちと話す感じがたまらなく甘美な時間であった(そりゃそうだ、男子校だもんな!)。

そして、チケットを手にしたときは単純に嬉しかった。思わずチケットカウンターで友人と快哉をあげた。なんせ3度目の正直だったから。

1983年9月21日・神奈川県民ホール。1階30列目。1階の後ろから2番目という位置だが、中央の位置だったので全てが見渡せる良い席であった。

ユーミンはこのツアーからそれまでのバンドメンバーの何人かを入れ替えていた。今はキーボーディストの重鎮であり、ユーミンのツアーには欠かせない存在となっている武部聡志はこのツアーからバックに起用されたぺーぺーであった。また、ベースの田中章弘も同様(田中章弘は鈴木茂&ハックルバックの印象が強かったので、目の前でユーミンと一緒にステップを踏みながらチョッパーベースを弾いている彼を観たときはびっくりした)。

ギターはお馴染みの市川祥治だが、もう一人のギターは窪田晴男。のちにパール兄弟を結成するのだが、この頃は近田春夫とビブラトーンズのメンバーだった。とにかくカッティングが上手いギタリストで16ビートは当り前、32ビートを織り交ぜながら世界観を作り上げる天才。後にTM NETWORKの大ヒットソング「Get Wild」の疾走感溢れるギターも窪田晴男によるもので、職人である。コンサートでもエッジの効いたカッティングがバンドサウンドを引き締めていた。

さて、そのようなメンバーにガッチリと固められ「リ・インカーネーションツアー」は幕を開けた。電飾フロアが輝くシンプルなステージでオブジェなどまったく無い。そのステージ上をテニスルックやレオタード姿のユーミンがスポーティーに走り回り、歌いまわる。

天井からのライティングは一切無く、ステージ後方から人的作業でバリライトのような動きを演出する。通常のピンスポットと後方からのあおり、地面の電飾という3方面からの光でユーミンが浮き上がって見えることがしばしばあり、幻想的であった。

曲はアルバム『リ・インカーネーション』(1983)を中心に演奏。もちろん荒井由実時代の歌や弾き語りを交えながら巧妙なMCで客を飽きさせない。

MCで「私に無いものは、生活感と歌唱力なのよね~」とぼやいていたが、コンサートにおける歌唱はその会場に宿る観客との呼吸もあるので、上手い下手というものを超越する。だから、歌唱力はたとえなくても、説得力は100%以上であった。

特にエンディングに向けての「キャサリン」~「埠頭を渡る風」~「カンナ8号線」~「REINCARNATION」は、その後のアンコールがいらないほど(アンコールも良かったです)、完成されたパッケージだった。

私は、このコンサートを生録をしており(そういうこと、良くやってました)、何度も聞き返しているが、何回聴いても飽きない。

私はこのツアーのあとも数回ユーミンのコンサートツアーに足を運んでいるが、このコンサートツアーのインパクトは大変大きなものであった。

理由はシンプルである。華美な演出が無く、歌に集中して観る事ができたからである。

歌唱力ではない説得力である。

それが生録した音から伝わってくるのだ。

そういえば、このコンサートの翌年からチケットぴあは電話によるチケット販売システムを構築し、徹夜で並んで席を取るという方法が無くなっていった。

我々は並ばずしてチケットを購入できるようになったが、良い席と悪い席の振り分けが不透明となり、徹夜すれば良い席だったという努力はまったく報われない結果となっていく。

もしかしたら、当時のファンは良い席を取るために並ぶところからコンサートは始まっており、その苦労をコンサート会場で発散していたのかもしれない。

だから、私もチケットぴあが出来るまでのコンサートの方が記憶が鮮明だったりする。

リ・インカーネーションでは無いが、もう一度チケットをプレイガイドで一斉販売する形式を取る方法にしたらどうなるだろう。ネット社会における逆流のコミュニケーション。

・・・混乱して終わるだけか。

2017/8/2

花形


[PR]
# by yyra87gata | 2017-08-02 09:24 | コンサートレビュー | Comments(0)
d0286848_15472240.jpg
  中学、高校時代はとにかくレコードを買うためにいかに金を工面するかということに心血を注いだ。

部活や委員会の仕事もあったので、バイトなんて出来ない。かといって小遣いだけではLPレコードを1枚購入するのがやっとである。当然、昼飯を削って金を作ってもタカが知れているし、毎日昼飯を抜くのも辛いものがある。

そんな時に手っ取り早く金を手に入れる方法として考えたことは、自分の持っている不要なものを友達に売るということだった。自分の家にある本や漫画、Tシャツやらトレーディングカード類など・・・それらをノートに書き込んで販売価格を書く。そして、休み時間にみんなに見せると、意外や意外、これが飛ぶように売れた。そして、噂が噂を呼び、隣のクラスのヤツも私のノートを覗きにくるようになった。

「あ、これくれ!」「じゃ、500円ね、商品は明日持ってくるわ」なんてなもん。

そうこうしているうちに、自分で売るものがなくなり始めた時、I君が「俺の家にある要らないものも売ってくんない?」と言い出した。

「お前も同じようにやればいいじゃん」と言うと、「俺は口下手だからなかなかそんなようにできないよ・・・」なんて言いやがる。

「いいよ。その代わり、販売手数料で10%差し引くぜ」と言ったら、I君どころか他にも大勢の委託者が集まってきた。

私のノートは友達の商品で真っ黒になっていった。

これ、本当は学則で禁止されている学内での商品販売行為だったのだが、そんなことはお構いなしに私は売上を伸ばしていた。

因みに・・・大学時代、家内と伊丹十三監督の「マルサの女」という映画を観ていた。その映画の中で、脱税をしている山崎努の息子(小学生)が当時の私と同じことをして友達と商売をしているという逸話が流れたとき、家内は大声で笑っていた。

「ここにもおんなじことしていた人いますよ~」

これって、今考えるとフリーマーケットから派生したメルカリと同じ仕組みだ。

私は約40年前にメルカリの仕組みを実践していたことになるのだ。

ま、そのおかげで、レコードを購入することができたのだが、私の場合、闇雲にヒットアルバムを購入するわけでなく、中古レコード店「ハンター」に通い、誰もが購入しそうなものは敢えて外し、誰も聞きそうにないレコードを選んでいた。

ヒットアルバムは何年経っても在庫はあるだろうし、最悪、友達も持っているだろうから借りることもできるだろう。しかし、マニアックなものは流通が少ないし、一度逃すと次が無いという感覚もあり、そういったレコードがあるとすぐに購入していた。

そんな中、ブルース・スプリングスティーンが『明日なき暴走』(1975)の大ヒットをアメリカで記録した。次作の『闇に吠える街』(1978)も順調なセールスを上げていた時、ようやく日本でもちらほらと話題になってきていた。

私は、『明日なき暴走』も『闇に吠える街』も揃えてはいたが(スプリングスティーンはそんなに有名ではなかったので中古市場にもあまり出回っていなかったので購入するのに苦労した思いがある)、彼のファーストアルバムである『アズベリーパークからの挨拶』(1973)は持っていなかった。

スプリングスティーンは「土曜日の夜、可愛いあの娘とデートするために他の日は犬のように働く」と歌う労働者の匂いがぷんぷんしたミュージシャンだったから、そんな生活習慣の無い日本人にはなかなか理解されなかったのだ。

そんな彼のファーストアルバムはディランの真似事と言われることもあったようだが、私にはただのロックンロール好きの兄ちゃんという印象だった。

『アズベリーパークからの挨拶』は中古盤屋をいくら探してもその盤は無く、ようやく見つけた先が、丁度日本に進出してきたばかりのタワーレコードだった。しかも、その盤はカット盤(B級品)として陳列されていた。

しかし、その時、私はもう1枚欲しいアルバムを見つけてしまっていた。

レーナード・スキナードの『セカンド・ヘルピング』(1974)である。しかし、2枚いっぺんに購入するだけの余裕はない。

そこで、一緒にいた友達のY君に交渉。

「スプリングスティーンのデビュー盤に興味ない?今、すげ~流行っているスプリングスティーンだよ。え?ヒット曲?あ、それは・・・収録されていないな・・・でも、若い息吹というか情熱というか・・・お前が買えばいいって?いやいや俺はレーナードを買おうかと思っててね・・・あ、レーナード貸してあげるから、スプリングスティーンを貸してよ・・・え?レーナード知らないの?・・・おお!知らないミュージシャン2枚も聞く事ができるじゃない。こりゃいいよ、いい!」なんて言いながらY君をその気にさせていた。


ターンテーブルでスプリングスティーンが回っている。

レコードジャケットも折り目がついて本当の挨拶状のようなデザインでお洒落である。

Y君はこのレコードを貸してくれる時に「なんだかよくわからなかったよ・・・、イーグルスを買えば良かった気がする」なんて言ってたっけ。

スプリングスティーンがもがきながらようやくデビューを果たし、それでもレコード制作過程でコロンビアレコード社長のクライブ・ディビスから「今のままじゃヒット曲の要素がまったくないから、何か作れ!」と言われて作った「光で目もくらみ(Blind by the Light)と「夜の精(Spirit in the Night)」。この2曲はアルバムの中で異質な雰囲気となったが、それがアクセントになってアルバムを起伏あるものにしていると思うし、スプリングスティーンの荒削りな部分も際立ち、躍動感を感じることもできる。

このアルバムはすぐにカセットテープに録音し、Y君にレコードは返却したが、カセットテープでは飽き足らず、結局、翌月には自分のレコード棚に収めた記憶がある。

もしかしたら、Y君が私のところに来て「このレコード売ってくんない?」と頼み、それを安く私が購入したのかもしれない・・・。

2017/7/5

花形


[PR]
# by yyra87gata | 2017-07-05 15:48 | 音楽コラム | Comments(0)

ディランにみるブルース


d0286848_19395733.jpg


 ブルースはもともと黒人の労働歌から派生したものなので、小難しい歌詞が並ぶわけでは無い。そしてそれは、賛美歌やゴスペルのような神へのリスペクトを歌い上げるものでもない。どちらかと言えば、同じフレーズを繰り返し、人間のみじめさや憂いを醸し出す表現が多く、時に攻撃の言葉で彩られる。しかし、決してそのフレーズは白人に聴かれてもわからないような隠語やスラングを使い、笑顔で白人に対時しながら心の中で中指を立てて歌う。そんな刃のような歌だ。

虐げられた世界・・・貧困、差別、諦め・・・未来の無いプランテーションの中だけの世界。そんな苦境の中でも、農民は働いていれば幾ばくかの食料を得ることが出来る。動きを止めたら死に直結する下層社会に生きる彼らの上階で白人はパーティーを開いていた。そんな不平等を裁く者は無く、司法、警察も全て白人寄りで動くとなれば、気概のある黒人から黒人開放の運動が起きても何ら不思議では無い。その運動が最終的に暴力なのか、歌という表現なのか・・・。

ブルースはアメリカの作り上げた社会の汚点から派生した歌といえる。

ブルースのスタンダードは数多くある。

“Key to the Highway”というトラディショナルブルースがある。誰が作ったかもわからない歌だ。

この歌詞の中の“Key”は「鍵」?。“Highway”は「ハイウェイ」?

「ハイウェイの鍵」では意味が通じないが、黒人の境遇を慮ると、ハイウェイは自由な土地に続く道かもしれない。ハイウェイの先には自由があって、そのハイウェイに乗る権利を得るということでしっくりする。

それが証拠に、

Cause when I leavehere, baby. I won’t be back, no I won’t be back anymore.”

とある。つまり、もうここには帰ってこないよ、ということは、新たな希望の土地に行くと言うことであるからだ。


d0286848_19414100.jpg



 “Further on up the road”は、古くから歌い継がれるブルースのスタンダードである。フレディ・キングやTボーン・ウォーカー、ジェームズ・ブラウン、ゲイリー・ムーアなどがカバーしており、中でもエリック・クラプトンは映画「ラスト・ワルツ」の中でザ・バンドと競演している姿が印象的である。

さて、この“Further on up the road”だが、直訳すれば「この道のずっと先で…」となる。そして“Someone's gonna hurt you like hurt me”と続く。

「お前が俺にしたようにお前も誰かに傷つけられるぞ!」となる。

これも、まさにブルース。

You gotto reap just you sow. That old saying is true.”

蒔いた種を 刈り入れることになる 古い諺は真実だ」

因果応報の世界なのである。

こういったブルースの世界・・・魂の叫びは多くの人の心を動かすもので、そんな黒人音楽に共感した白人の若者たちは、1960年初頭よりエレキギターを手に取り始めた。

ホワイトブルースの誕生である。

その流れはアメリカよりもイギリスのバンドであるビートルズやローリング・ストーンズ、ヤードバーズやアニマルズなどがいち早く反応し、その流れを作り上げて行った。

そう、ホワイトブルースの主流はイギリスにあった。

それはアメリカの闇である差別が生んだ副産物である。

なぜなら、アメリカで中々歌う場所に恵まれなかった黒人のマディー・ウォーターズやオーティス・スパンが次々に渡英。特にソニーボーイ・ウィリアムソンⅡのイギリス公演にはバックミュージシャンとして若いヤードバーズが務めたことも大きな転機となったからだ。それまでのイギリスはアメリカでいうところのロカビリー~スキッフルブームで沸いていたが、刺激を求める若者はその軽さに飽き飽きしており、1950年代よりアレクシス・コーナーやジョン・メイオールが演じるブルースに火が点き始めていたのだ。

そして、1960年代半ばから後半にかけて、ブルース・ブレイカーズからクリームへと渡り歩いたエリック・クラプトンやヤードバーズから派生したレッド・ツェッペリンへの系譜がブリティッシュブルースを確立していくことになる。


同時期のアメリカでは、ロックンロールリバイバルに踊り、アメリカンポップスが花開いていたが、すぐにビートルズ旋風やブリティッシュ・インベイジョンの影響で蔑んでいた黒人の音楽を彼らから知ることになった。だから、音楽業界と前時代の大人たちは真っ向から黒人音楽に立ち向かうことになってしまったのだ。

しかし、白人はここでもパブリッシュという仕組みで黒人音楽で金儲けを始めていくから抜け目ないというかなんというか・・・。

そのような音楽のマグマが沸騰しかけていた頃、ボブ・ディランはサードアルバム『The Times They Are A-Changin'』(邦題「時代は変わる」)(1964)の中に衝撃的な作品を収録する。

“Only a Pawn in Their Game”(邦題「しがない歩兵」)は、黒人解放運動家が暗殺された事件を歌った作品だが、それまでの歌には無い表現がこの歌には組み込まれている。

冒頭のブルースしかり、黒人開放を訴える歌しかり・・・その事象をあるときはオブラートに包みながら、あるときは赤裸々に表現することが今までの歌にはなされてきた。しかし、ディランは「Only a Pawn in Their Game」の中で、黒人を虐げた者、暗殺をした白人のことについて、その男もある意味被害者なんだと訴えた。

しょせんそのプア・ホワイトは、大きな仕組みの中に組み込まれたただの駒に過ぎないのだと・・・。

貧しい白人は「お前は黒人にならなかっただけでもいいだろう・・・文句は言うな」とリッチな白人に言われるだけ。そして、「そのしがない歩兵はバカな上官の言うことが絶対なのだから、そのこと事体が一番の不幸なんだ!」と歌う。

黒人開放を事象だけ捉える歌はごまんとあるが、そのような作品とは一線を画す仕上りに、ディランの非凡さが際立つ作品となっている。

ディランは詩の世界が評価されているが、音楽の基本はブルースの3コードが意外と多い。但し、ディランのそれはトラディショナルブルースと違い、難解な歌詞が延々と紡がれている。

ディランを代表とするプロテストソングは、ただ嘆いたり憂いたりするだけでなく、政治的抗議のための歌であることから1960年代から派生したこれもひとつのホワイトブルースと読み替えても良いのではないだろうか。

白だ黒だと規制し、歌で意見を表現しなければならない境遇・・・。

歌の持つ力が遺憾なく発揮されるとも言えるが、住みにくい世界にこそ生まれた至宝の産物かもしれない。

d0286848_19463352.jpg


2017/6/21

花形


[PR]
# by yyra87gata | 2017-06-21 19:57 | 音楽コラム | Comments(0)

d0286848_16281823.jpg
 

私は出張先のビジネスホテルで映画を良く観る。多い時では月に15本くらい観る時もある。

先日、出張先で観たクライムホラー映画。2016年の作品「ミュージアム」(主演:小栗旬)は、雨の日に起こる猟奇殺人を追う刑事と犯人との壮絶な駆け引きの映画だ。

映画の内容はともかくとして、その映画の英語タイトルに目が行く。

THE SERIAL KILLER IS LAUGHING IN THE RAIN. ”

邦題タイトルの「ミュージアム」は猟奇殺人を衆人に晒すという犯人の残虐性から来るタイトルだが、英語タイトルはどちらかというと「雨」というストーリーのキーワードに触れたタイトルで、なるほどな、と思った。


さて、このタイトルを見た時に思ったことは、かつてニール・セダカのヒット曲で雨の歌がこんなタイトルだったな、と。(・・・全然映画と関係ないんだけどね)

邦題「雨に微笑を」、“LAUGHTER IN THE RAIN”である。

のどかでおおらかなポップスの大ヒット曲である。

のどかでおおらかなミドルテンポの具現化したものこそニール・セダカ私が最初にこの歌に触れたのは、小学生の頃に弾いたエレクトーンでのこと。譜面の端に記載されたアーティスト名を見るとニール・セダカとある。

私は、小学生ながらエレクトーンを弾いていたおかげで1950年〜1970年あたりのアメリカンポップスは熟知していた。だから、その曲の制作者にニール・セダカとあることにビックリしたのだ。

なぜなら私の中のニール・セダカ像は、「おお!キャロル」「カレンダーガール」や「悲しき慕情」といった脳天気なアメリカンポップスの人というイメージだったからで、白人の作り出す重厚なオーケストレーションや軽やかなピアノのタッチ、ロックンロールのビートなど古き良き時代の音を具現化したものこそ彼の持ち味という印象があったからだ。

そして、後日「雨に微笑を」のヴォーカル入りを聴いた時に再び驚いた。

なんと、柔らかなヴォーカルなのか。女性が歌っていると錯覚した人も多かったのでは無いだろうか。そこにはニール・セダカのやさしい高音が心地良く響いていた。


1950年代から1960年代中盤まで、アメリカの古き良きポップスはニール・セダカやポール・アンカ、当時作曲家デビューした新進気鋭のキャロル・キングなどが活躍するゴールデン・エラがあったのだ。

アメリカは太平洋戦争に勝利し、朝鮮戦争を終え、ゆったりとした時間が流れていた時・・・そこにはまだベトナム戦争も始まる前の裕福なアメリカがあり、急速に発達した楽器(エレクトリックギターやベース、電子オルガンなど)で、どんどん新しい音楽やビートが生まれていった。

シナトラがスウィングしながら軽やかに歌い、若手のプレスリーが新しいビートを刻む。アメリカンポップスが一番輝いていた時かもしれない。

しかし、その輝きもビートルズやローリング・ストーンズの登場で音楽地図が塗り替えられていった。第一次ブリティッシュ・インベイジョンの到来だ。シンプルな力強いビートと下世話な歌詞にティーンエイジャーは狂喜乱舞し、大人たちは眉を顰めた。

あんな髪の長いヒッピーのような男が鶏を絞めたような声で叫んでいるものが音楽なのか、と。

そして、その激流(ブリティッシュ・インベイジョン)はあっさりとアメリカンポップスを飲み込んでしまい、ポール・アンカやニール・セダカは一気に時代遅れの音楽に成り下がってしまった。

それからというものニール・セダカは、ブリティッシュ・インベイジョンに影響を受けたアメリカ版ビートルズであるモンキーズに曲を提供するといった皮肉な仕事もこなし、ドサ回り公演を経験するまで落ち込んで行った。

ひと晩39ドルでピアノを弾くという仕事まで請けた大スターは、再起を誓いつつ家族とともにイギリスに渡ることとなる。そのサポートをしたのがエルトン・ジョンであり、そこから起死回生の大ヒット曲が1974年に生まれた。

かつて自分を栄光の座から引き摺り下ろしたイギリスの音楽シーン・・・そのイギリスで再起の芽を掴んだニール・セダカ。

因みにこの「雨に微笑みを」はハリッウッド録音で、若手実力ミュージシャンだったラス・カンケル(Dr)、リー・スクラー(B)、ダニー・コーチマ(G)、ディーン・パークス(G)、ジム・ホーン(Brass)がバックを固めている。上質で丁寧なつくりだ。

LAUGHTER IN THE RAIN


Strolling along country roads with mybaby
It starts to rain, it begins to pour
Without an umbrella we're soaked to the skin
I feel a shiver run up my spine

I feel the warmth of her hand in mine

Oo, I hear laughter in the rain,
walking hand in hand with the one I love.
Oo, how I love the rainy days
and the happy way I feel inside.

After a while we run under a tree.
I turn to her and she kisses me.
There with the beat of the rain on the leaves
softly she breathes and I close my eyes.

Sharing our love under stormy skies

Oo, I hear laughter in the rain,
walking hand in hand with the one I love.
Oo, how I love the rainy days
and the happy way I feel inside.


突然の土砂降り・・・

冷たい雨の中、君が僕の手を包む

愛する人と行けば、こんな雨だって素敵なものさ

雨に微笑みを・・・

幸せは近くにあるものさ


雨は様々な苦難に書き換えられる。

突然襲ったブリティッシュ・インベイジョンに耐えながら・・・。

しかし、愛する家族は彼を応援し続け、彼は再起を果たす。

歌詞だけを見るととても甘いラブソングだが、そこにはニール・セダカの生き様が記されている。

一番の苦境に立ったときにこんなに優しいメロディーをあの柔らかいヴォーカルで歌うことができるミュージシャン。

だから、今でも現役でステージに立つことができるのだ。

音楽家生活60年を超えるレジェンドである。

妙な内容の映画から想起した素敵な歌の紹介でした。

d0286848_16291545.jpg

2017年5月31日
花形


[PR]
# by yyra87gata | 2017-05-31 16:29 | 音楽コラム | Comments(0)