人気ブログランキング | 話題のタグを見る

音楽雑文集


by yyra87gata
モヤモヤしていたことを吐き出してみた_d0286848_07490120.jpeg

 わかろう、わかろうと努力した・・・。もしくは、あまり深く触れようとしなかったこと。その件には触らず過ごしてきたこと。なんだかモヤモヤしていたこと。

①ジョージ・ハリスンのインド音楽

画像

 ビートルズを聞き始めた中学時代。ジョンとポールの声の違いも判らなかったあの頃。たまに名画座で上映される映画と音楽雑誌で見ることができる彼らの姿、そしてレコードだけが唯一の情報源。
 友達と貸し借りを繰り返し、デビュー盤から『レット・イット・ビー』まで揃えた時は、快哉をあげたものだった。
 私の中学生の洋楽は、ビートルズの占める割合が非常に高い。わかりやすい音楽と歌詞はわかりづらいボブ・ディランのそれと対照的で、気軽に聴いていた気もする。しかしながら、唯一気が重くなる時があった。
 1960年半ばからビートルズはインドに傾倒していく。瞑想でもしていなければ、狂気のスケジュールをこなしていたあの頃の4人は、正気でいられなかったのかもしれない。
その中でもジョージは深くインドにのめりこんだ。きっとジョンとポールという天才を目の前に、後輩という立場や控え目な性格も相まって精神的におかしくなっていたのかもしれない。そのスパイラルから抜け出すためにインドという摩訶不思議な世界に入っていったのか。
 インドは1960~1970年代に流行り病のように若者の心に侵入した。ビートルズやストーンズといった世界的なアイコンがインドを経験し、日本でも横尾忠則が「インドで瞑想してきた」などというエッセイを発表していた。
かくゆう私も本などで理解をしようと試みたことがあるが、ファッションとして捉えることはできても、ジョージのように魂、そして音楽というところまではいかなかった。
 そもそもあのシタールの音が私はどうも苦手なのだ。
コーラルのエレキシタールあたりで軽音楽にアクセントをつける位ならば大いに結構なのだが、ジョージのそれは、ホンモノに近い。
 例えば1965年の『Rubber Soul』で聞かれる「Norwegian Wood」のバックで奏でられるシタールはとても良い効果音。あのフレーズをギターでもピアノでもなく、シタールというのはとても雰囲気が出る。
 1966年の『Revolver』の収録曲「Love You To」は、『Revolver』自体が録音トラックの進化や革新的な音作りと相まって他の曲にも対抗する為にあそこまでホンモノ感を出したのかなと自分を納得させた。
しかし、1967年の『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』ではジョンとポールの曲以外で唯一の曲がジョージの「Within You, Without You」。
これはもう頭を抱えた。わからない。何が良いのかさっぱりわからない。
 『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』は名盤だと思うが、唯一あのインドの曲が全くわからない。
レコーディングでもジョージとインドの人たちで作って、他の3人は参加していないそうだ。モヤモヤしてしまった。
ジョンは「Within You, Without You」を「ジョージのベストソングの一つだ」と言ったそうだが、本当だろうか。ジョンはLSDでもやってキメていたのではないだろうか。
ジョージってナイーブというか、常に不安定というイメージ。だから何かにすがりたいという気持ちが溢れてきてしまうのか。
 インドに縋ること、つまり、インド音楽とビートルズというより、ジョージの不安定さの音楽表現というところなのか。そんな内面のところまで考えていなかった中学時代の私は、ビートルズのアルバムでインドの音が入ると、モヤモヤしてしまうのであった。

②ボブ・ディランの歌い方

画像

 影響なのかどうかわからないが、ディランの歌唱に似せたであろうミュージシャンの歌唱は面白いものだ。
 1978年にデビューしたサザンオールスターズ。それまでの日本のロックやポップスで桑田佳祐のような歌い方をするシンガーはいなかった。英語訛りのような日本語で、1回聞いただけではわからない歌詞や歌いまわし。洋楽好きが作り上げたヴォーカルスタイルが唯一無二となり、サザンは大ヒットしていく。
 私は桑田佳祐のあの特徴的なヴォーカルスタイルを初めて聞いた時、ボブ・ディランを重ねていた。日本語のイントネーションは無視し、洋楽のアプローチで歌う桑田。
 そもそも日本の歌は日本語一音に一つの音符を当てているが、英語のそれは単語に音符を乗せるメソッドであるから、それを具現化した桑田はコロンブスの卵のようなものだ。
それまでの日本語のロックの代名詞は「GS」や「はっぴいえんど」や「キャロル」であったが、どれも音符には日本語一音という事を考えると、ノリが野暮ったく感じる。
しかし、言葉の響きやアクセントなどを一切無視し、まくし立てる様に歌う様は新しい日本の歌という形で若者たちに受け入れられていったのである。
 桑田がボブ・ディランの影響を受けたかどうかは定かではないが、あの歌いまわしは近いものがあると思う。但し、桑田はめちゃくちゃに唄っているようで実は音程を外さず、しっかりと音楽を綴っているが、ディランはどうだろうか。

画像

 だみ声で主旋律がよくわからない浮遊するようなヴォーカルスタイル。フォールと呼ばれる歌詞の最後を意図的に落とすという歌唱法を多用している。
また、1番と2番の歌い方が違うことなど日常茶飯事。リズムもずれることもしばしば。
それがライブになれば、輪をかけて強調される。もうその時の気分で歌っているとしか思えない。
 しかしながら、『ナッシュビル・スカイライン』(1969)では澄んだ声に変身し、『セルフ・ポートレイト』(1971)では音程を外すことなく綺麗にシンガーに徹する面も見せている。
プロレスで言うならば、反則技のオンパレードの様で実は正統派の戦い方もできるタイガー・ジェット・シンのような歌唱だ。
 上手く歌うことができる、そんな一面もありながら、ディランの歌唱は謎のまま今に至っている。これでいいのか?と思わせる歌唱。
 そうは言っても彼の伝説的な存在感とノーベル文学賞を受賞してしまうほどの歌詞。これについては、否定できない事実である。ディラン本人も歌詞と曲が相まって初めて自分の作品だという事を主張しているが、曲という事はあの歌唱があってのことであるから、それも含めたディランミュージックとして受け止めるしかないだろう。
 しかし、誰もが心の中で「歌、これで合っている?これでいいの?」って思っているはず。
 ディランは商業的に成功した音楽家であると思うが、常に全米TOP40を騒がせる存在ではない。歌のパワーが時代に合った60年代にオピニオンリーダーになり、それが60年続いているということ。
ちなみに、冒頭のディランの歌唱に似せたシンガーで何人か思い浮かぶが、萩原健一の晩年の歌唱法もディラン同様理解不能だった。
 感情の赴くままに、と言ったらそれまでだが、エンターテイメント、若くは商業的に捉えるならば、あまりにも芸術的(?)で突出している。
 商業音楽は販売重視なので万人受けが必要である。物真似をしてもやり過ぎは良くない事の例である(ディランの物真似にしか聞こえなかったもので)。
ちなみにディランの歌唱でモヤモヤしている人は世界中に沢山いると思うが、それはそれで認めざるを得ない存在になっているから、良しとしよう。

③歌い方、歌唱法が変わってしまう人
中島みゆき、長渕剛。

画像

 歳をとると肺活量や喉の老化により、声が出なくなる。それを補うために原曲とは違う節回しで歌唱するシンガーが増える。やたらとフェイクしたり、後乗り(アトノリ)にして誤魔化してみたり。
しかし、中島みゆきも長渕剛も老化による歌唱法の変化とは思えない。
なぜなら若い時よりも声を張り上げて歌っているから。
 特に中島みゆきは、曲によっては字余りソングで叫ぶように歌っているときなど、若き吉田拓郎を彷彿とさせる。中島みゆきもアマチュアの頃は拓郎ファンだったようだから、歌唱法として見た場合、歌い方の真似なんて簡単にできるんだろうな、と深く考えないようにしている。
 ちなみに私はフォーキーな頃の中島みゆきは好きだが、テレビドラマ「家なき子」の主題歌「空と君のあいだ」あたりのみゆきは拓郎が歌っているみたいで、モヤモヤしていた。
とにかくシャウトしていたから。

 長渕剛はデビューの頃は叙情的な作品もあり、可愛らしいフォークソングもあった。
フォークの良き兄貴という感じで、女性からの人気もあったが、「とんぼ」あたりの反社的な演技に相まって、歌の内容も変わって来た。そして、いつしか体を鍛え始め、筋肉を身にまとい、ブルース・スプリングスティーンみたいな体つきになっていた。同時に歌い方も相当変化した。男のファンが大幅に増えた。
 中島みゆきにしても長渕剛にしても長い経歴のミュージシャンであるから、作風の変化も当然あるだろうから、あとはどの時期が好きなのかということだけだが、ファンはどの時期も好きなのだろうが、私としては初期に良く聴いていたため、今の2人の歌い方はしっくりこない。
しかし、この2人くらい歌い方が変わったシンガーっていないのではないか。

 吉田拓郎、井上陽水、矢沢永吉、ユーミン、さだまさし、小田和正、ドリカム・・・長きにわたって活動しているミュージシャンだが、歌い方の変化は少ないと思う。
 そういえば、ミスチルの桜井和寿は桑田とデュエットした「奇跡の地球」あたりで歌い方が変わった気がする。その後の桜井は桑田のようなアクセントで歌い始めた。ディランと桑田の歌唱でも述べたフォールも良く使われている。
それが良いか悪いかという問題は、ファンが決めることだから、どうでもいいが。

 歌唱についてはそのシンガーの特徴ということもあるから、余計なお世話で、どうでも言いことかもしれない。
ただモヤモヤしていたことを書き連ねていたら長くなってしまっただけ。ごめん。

2024年3月14日
花形


# by yyra87gata | 2024-03-16 18:06 | 音楽コラム | Comments(0)
ビートルズが再結成しない理由を教えてください_d0286848_05582595.gif

「フリー・アズ・ア・バード」という曲がある。
1994年のビートルズの『アンソロジー』企画でポールとジョージとリンゴが集まり新曲をレコーディングすることを企画した。しかし、ジョンの代わりになる人はいないのでジョンの未発表曲にポールは目を付けた。そしてヨーコがポールにジョンの未発表曲4曲を渡した。
それが、「フリー・アズ・ア・バード」「リアル・ラブ」「グロー・オールド・ウィズ・ミー」「ナウ・アンド・ゼン」である。
このうち「フリー・アズ・ア・バード」「リアル・ラブ」が『アンソロジー』(1995)として発表された。
 ジョンの意志はよくわからないが、3人で曲を作ってしまった・・・ビートルズという実体のないバンドで。

 私は1995年発表された「フリー・アズ・ア・バード」が再結成の宣言も無いビートルズ名義で企画盤の中にしれっと収められたことに怒りを覚えた。
ジョンの録り残した音源。そこにポールやジョージ、リンゴが加わり1曲に仕上げてしまったこと・・・ビートルマニアのジェフ・リンも加わって。
 「グロー・オールド・ウィズ・ミー」は、ジョンのアウトテイクをヨーコやプロデューサーのジャック・ダグラスがリズムマシンやエフェクトを加えながらジョンとヨーコ名義の『ミルク・アンド・ハニー』(1984)に収録された。これはわかる。『ダブル・ファンタジー』(1980)からの流れでジョンとヨーコが発表することの自然さである。
では何故、ジョンの未発表曲にポールとジョージとリンゴが手を加えたらビートルズとして発表できるのか。

 そもそもビートルズの膨大なアウトテイクを集めまくって作った『アンソロジー』は、ビートルズの海賊盤が横行していることの対抗策としてEMI側がビートルズ側と協議しながら作った企画と聞く。だから中途半端なアウトテイクや録音状態の悪いライブ音源も時代順に雑然と並べられた。しかし全世界のビートルズファンはこれを手放しに受け入れた。
ジョンがいなくなりオリジナルメンバー4人のビートルズはもう見ることができない中で、何かレアな音源がリリースされればファンは単純に喜ぶ。そういうものだ。
 私はそもそもが、このアウトテイクを集めて商売している事に懐疑的だ。要は正規盤に収める事が出来なかったクオリティーの曲をファンだったら何でも買うだろ、という作り手の商売根性が好きではないからだ。いくらEMI側が海賊盤対策と言ってもそもそもがまともな音源ではないのだから無視していれば良いのだ。
 レコード会社はよくボーナストラックと称してこの手の商売をすることがあるが、ライブ音源などを収録するならまだしも、私はアウトテイクなどを聞かされても特段感動もない。 また、変なミックスなどされていたら、元の曲のイメージが壊れてしまう事も多々あり、聞かなければ良かったと思う事もある。
だから、そんな中途半端な曲の中にジョンの意志確認もできない中、ポールとジョージとリンゴが録音した「フリー・アズ・ア・バード」をビートルズ再結成の宣言もないまま収録したことに対して私は怒り覚えたのだ。中途半端な曲の中にジョンとの疎通もない中途半端な曲を収録しているとしか思えない。いったい誰が金儲けしているんだ?
 ビートルズの公式記録では未だに1970年で活動は終わっている。そんなバンドが新曲を発表していることにモンキービジネスの匂いがプンプンする。

 ジョンの意志を汲んで曲は完成されたと言うのであれば、「グロー・オールド・ウィズ・ミー」と同様にジョン・レノン 名義で発表するべきなのである。
きっと政治的な金が絡む問題だから儲けを優先させる為に、なし崩しでビートルズ名義にした事は想像に容易いが、作り手のジョンはそれを本当にそれを望むだろうか。
 音源を持つヨーコはジョンの残された作りかけの作品を一曲でも世のジョン・レノン ファンに届けたいという純粋な気持ちがあったと思うが、その気持ちは本当に尊重されたのだろうか。 ジョン・レノン名義よりビートルズ名義の方が多くの人に届くと判断したのなら、なぜビートルズ再結成を発表しないのか。いくらジョンのデモテープを元に3人がレコーディングしたからと言ってもビートルズの曲として発表するならば「再結成」を発表し、けじめをつけて欲しかった。
 
 その後ジョージも鬼籍に入り、ポールとリンゴの2人がAIを使って昨年「ナウ・アンド・ゼン」を作り上げた。
ジョンの郷愁漂う素敵な作品だが、素直に受け入れられないのは、『アンソロジー』企画でもなく、ビートルズという1970年に解散したグループ名で未だにいけしゃあしゃあと発表されたからだ。 ビートルズは再結成が出来ない決まりでもあるのだろうか。 契約の問題?税金の問題?「フリー・アズ・ア・バード」「リアル・ラブ」「ナウ・アンド・ゼン」は『ダブル・ファンタジー』の後に発表された『ミルク・アンド・ハニー』のようにジョンの未発表音源として発表するべきだと思うのだが、どうだろう。

 ポールもリンゴももうすぐ鬼籍に入るだろう。 もしかしたら、どちらかの未発表曲がAIやビートルマニアのジェフ・リンの手により発表される時も再び「ビートルズ」として発表するのだろうか。
いにしえに終わりを告げたグループ名はいつの間にかゾンビのように生き返り未来永劫生き続ける?
 私の中でビートルズは1970年の『レット・イット・ビー』で終わっている。後に『レット・イット・ビー・ネイキッド』(2003)なる余計なお世話というアルバムが出たが、フィル・スペクターによる大袈裟なオーケストレイションがあっての『レット・イット・ビー』を聞いてきた者としては『ネイキッド』はただのアウトテイクなのだ。だいたい曲のイントロやアウトロを切ったり貼ったり、余計な音を消し込んだり、ライブ音源とミックスさせたり、とビートルズの楽曲は粘土細工じゃないって思わず叫んだよ。

 世の中の音楽ファンは、昨年発表されたジョンが残した音源を元にAIも導入して作成した「ナウ・アンド・ゼン」を肯定的に迎え入れた。
 リンゴは2020年のインタビューで「もしジョンとジョージが死んでいなかったら、きっと再結成の可能性はあったと思う。ポールと僕はまだその道を歩んでいるからね。ジョンもその道を進んでいたと思う。ジョージはわからないけど。でも僕たちはまだ自分が好きなことをやっていたと思う」と、再結成の可能性を否定しなかった。
 それぞれの音楽性があるから再結成なんて簡単なものではないことは十分理解できる。
それでもリミックスの『ネイキッド』はまだ許せるが、新曲を収録した『アンソロジー』はアウトテイクのなれの果てとして受け入れるか。
 今回の「ナウ・アンド・ゼン」は「ビートルズ最後の新曲」という売り文句まで作っている。やはり納得がいかない。「ナウ・アンド・ゼン」が郷愁を感じる良い楽曲という事も合わせて、私はジョン・レノン名義で発表するのが筋だと思うのだ。

 ビートルズが好きな人には余計なお世話かもしれないが、私のビートルズ感には「フリー・アズ・ア・バード」「リアル・ラブ」そして「ナウ・アンド・ゼン」も存在しない。

2024/2/16  花形


# by yyra87gata | 2024-02-16 05:52 | 音楽コラム | Comments(0)
拓郎へのひねくれたラブレター_d0286848_13554005.jpg
 「拓郎はCBSソニーまでだね。フォーライフからの拓郎は面白く無いんだよ。陽水も一緒ね。ポリドールの頃がいいんだよ。フォーライフに移ってからの陽水は言葉に溺れちゃって何を唄っているのかわからない…」
フォークファンにとっては、ニューミュージックですら違和感があったと聞くから、最近の拓郎や陽水なんて全くわからないだろうね。
そういうファンはそのミュージシャンが好きであるが故、自分の理想像が完全に出来上がってしまっている。
多感な少年の時期。なんでも目新しく、感動していた頃の音楽って忘れられないし、今その音楽を聴いたら直ぐにあの頃に戻ることができる。だから、ミュージシャンもその姿や音でないと自分との整合性と合わない。故に「1億総評論家」になってしまうことは良くあることなのだ。

 僕はいつから拓郎をちょっと離れた位置で観るようになったのか。
もちろん今でも拓郎ファンであることは変わらないが、僕のファンの定義は無条件に拓郎を許せるということではない。嫌なものは嫌と言えるファン。
拓郎との出会いは小学生の頃だったが、本格的にファンになったのは中学生の時に友人から借りたレコード『よしだたくろう オン・ステージ ともだち』(1971)と親戚のお姉さんから借りた『元気です』(1972)の2枚。これを死ぬほど聴いた。
そして、篠島オールナイトコンサートへの参加。
もう、これで決まりである。
 篠島での燃えるようなステージを目の当たりにして、あの姿が拓郎のベンチマークになってしまったことが僕の悲劇かもしれない。
篠島コンサートを首を長くして待っている間にそれまでのレコードを聴きまくったが、一番しっくりしたのは当時のニューアルバム『ローリング30』(1978)。
 フォーライフレコードの社長業とミュージシャン活動を並行しながらの苦労話は当時のラジオ放送から聴こえてきていたが、相当な孤独感があったと思う。だからその分、ステージに賭ける想いに跳ね返っていたのだろう。鬼気迫るヴォーカルとは当時の拓郎のことを表していると思っていた。
常に日本の音楽シーンを切り拓き、フォーク、ニューミュージック、歌謡曲といったジャンルを飛び越えた世界に唯一無二の存在感を誇る拓郎。そんな拓郎が1980年に入り「ファミリー」「アジアの片隅で」等の大曲を発表した時、我々は度肝を抜かれた。それは我々の想像を上回る大曲だったからだ。
 1970年代(以下70年代)のコンサートのアンコール曲は「人間なんて」が定番で、最後の最後に叫んで散る様が拓郎のコンサートの真骨頂だった。その「人間なんて」を封印し、新たに提示された2曲。
特に「アジアの片隅で」は時代を具体的に斬り、そのメッセージ性は悲しいかな現在にも通じる普遍的な内容になっている。
レゲェの軽いリズムに重い言葉たち。アジテーションの叫びが我々ファンの心を掴んだ。

 1980年代(以下80年代)は、コンサートもどんどん大規模になり、盟友かまやつひろしはこの頃の拓郎バンドを「まるでローリングストーンズを観ているようだ」と唸った。
しかし、拓郎の中ではある意味で白けていたという。
「落陽」をやれば盛り上がる。予定調和の盛り上がりに辟易し、コンサートのマンネリ化に空虚感を感じるようになり、ついには1985年の引退説が浮上したのだ。
 私の中での拓郎は、もう既にこの頃から一歩引いて見ていたと思う。
なぜなら、私は前にも述べた通り篠島で洗礼を受けている。あのヴォーカルが目に焼き付いている。そして、『元気です』『ローリング30』の完成度を中々超えることないスタジオアルバムにイライラしていたからだ。
もちろんアルバムの中には入魂した曲も、しなやかな曲もあり楽しませてもらったが、アルバムのトータル性からして私の中で中々超えられない壁として2枚は立ちはだかっていた。
そんな事を言うことは本当のファンじゃないという人がいるかもしれない。
いやいや、盲目的に全てを受け入れている方がよっぽど気持ち悪い。少なくとも然るべきお金を払ってアルバムを買い、コンサートに赴いているわけだから自分の意見を持っていて何がおかしい。自分がファンと言えばファンだ。僕の理想像は僕の中だけのものだ。

 80年代の音は、デジタル化が急加速した。シンセサイザーの発達や妙にエコーの効いたドラムマシーンなど。そんな時代のトレンドに70年代からミュージシャンはさぞ戸惑ったことだろう。それは、暑苦しい70年代ミュージシャンの曲、特にヴォーカルがデジタルの音にマッチしないのだ。
拓郎がいくら熱く叫んでも、煌びやかで軽い音楽に溶け込まない。ちなみに70年代からのミュージシャンでこの現象に上手く対応できたのはユーミンぐらいではないだろうか。彼女のヴォーカルはもともとノンビブラートで、無機質。一つの楽器にすら聞こえるからデジタルへの移行も自然だった気がする。

 1985年のつま恋。「ONE LAST NIGHT in つま恋」と題されたイベントは、拓郎引退の噂が流れる中、拓郎は「生涯最良の日にしたい」とだけ言い、オールナイトコンサートを敢行した。
拓郎引退を阻止すべく、集まったゲストミュージシャン。70年代の同窓会と言う趣であった。解散した「かぐや姫」「愛奴」「新六文銭」の再結成やゆかりのあるミュージシャンとのセッション。私は目の前で繰り広げられる音楽に息苦しさを覚えていた。
ドラムはゲートリバーブが効きすぎて軽いし、いつものびのびと拓郎のバックで弾きまくる青山徹のギターの音があまりにもか細く、バンドサウンドに溶け込んでいない。そしてなにより、拓郎本人がステージ上で一番冷めているように見えた。
にやにや笑うだけで意気込みも何もない。引退するようなしないような・・・そんな中途半端なコンサートを一晩中見せられた気がした。
そしてそのコンサートから3年間・・・拓郎はコンサートツアーを休止した。
その間もアルバムが発表されたが、本人もあまり記憶が無いという。

 それでも1988年にミュージックシーンに帰って来た時、僕は素直に喜んだ。歳を重ねたヴォーカルも良いものだと思った。相変わらずスタジオアルバムには満足していなかったが・・・。
拓郎って、やっぱりライブの人なんだと思った。あの燃えるようなヴォーカルなんだと。
しかし、私もとうとう口に出して拓郎を批判するようになったのは、拓郎が髪を切ったあたりからか・・・。
「男達の詩」(1991)・・・世界初となる1曲収録のシングルCD。そういえば「唇をかみしめて」(1983)はA面のみのシングル盤だった(こういう彼のこだわりは好きなんだけどね)。
この歌が出た時のアルバム『detente』(1991)は非常に聴きやすい良いアルバムという記憶があるが、ライブであまり良い印象が無い。いや、拓郎は決して悪くなかった。悪いのは客。
拓郎も歳を取り、観に来ている客も歳を取った。
いい歳こいたおっさんが、濁声でたくろーとさけびながら、相変わらずの「朝までヤレー!」の声援。そして新曲「男達の詩」を宴会で音頭を取る調子の間で手拍子しているのを偶然見てしまい、なんてかっこ悪いんだと思ったんだよね。これについては、拓郎に罪は無いんだけど・・・。
そんなオヤジファンに支えられている髪の短くなった拓郎って、僕の好きな拓郎なのか?なんて思うようになった。
加えて、この頃のバンドで元オフコースの清水仁と松尾一彦がいて、これも嫌だった。軽い声のコーラスで「神田川」を妙なロックアレンジにしていたけど、これでホントにいいの?って拓郎に聞きたかった。
ウェーイかんだがわ~ ウェーイかんだがわ なんてコーラス、ギャグかと思った。

 1983年辺りの「王様達のハイキングツアー」ってなんだかめちゃくちゃで、唯一の伝達手段であった拓郎のラジオを鵜呑みにしてしまえば、かなりヤバい大人たちだった。
話をかなり盛っているかもしれないが、「拓郎は天狗になってやしないか」なんて思いながら、笑って聞いていた。そういうところも含めて大好きだったんだよな。
しかし、1985年のつま恋を境に冷めた口調のMCになってしまい、叫ぶ観客がいると「もう少し大人になりなよ」なんて口調。照れ隠しとはわかっていても、なんだか突き放されている感じがして、歌に対してもこみ上げるものが少なくなっていった。
そんなこんなで、コンサートで1曲か2曲でも物凄いヴォーカルが聴ければ、「それで良し」としていた自分もいる。拓郎が意識を変えたのと同時に聞き手も大人になって来たというのもあるし。
 拓郎も以前ラジオで素直に吐露していたが、ステージで盛り上がる「落陽」や「春だったね」を超える歌を作らないとミュージシャンとしても辛いんだと。一生懸命作るんだけど、客は昔の俺を求めるんだ、と。
頂点に立ったミュージシャンの永遠の悩みかもしれないが、言わせてもらえば、こっちだって金をはたいて素晴らしい姿の拓郎を期待しながら観に行くわけ。どんなにつまらないアルバムを出されても「ライブパフォーマンスの人」だから、ステージでは何かやってくれるのではないかと期待するわけ。それが本当のファンってものでしょう。冷めた関係であれば、アルバムも買わないし、ライブだって行かない。しかしファンだから嫌でも行動してしまうのだわ。

 最新アルバム『ah-面白かった』(2022)は本当につまらなかった。
良い曲もあるが、スタジオでヴォーカルを録音していないという緊張感の無さや、全体的に鳥山雄司のパソコンの中で作るデモ音源のようですべてにおいてスケールが小さい。
もし、コロナ禍で無ければ、ちゃんとミュージシャンを呼んでスタジオでしっかり作ったのだろう、と思うと本当に惜しい作品だ。ラジオで拓郎がアルバムを自画自賛していたが、きっと本当はつらかったんだろう、という気持ちにもなった。
拓郎のオリジナルアルバムはこれで終わりかよ、ってマジで思ったもんな。

 そんな中、ニューアルバムの曲に限定して湾岸スタジオでスタジオライブを行なった、というニュースが入り、それが2022年の年末に発表された。
ライブがやりたかった無念さが染み出ているパフォーマンスで、本当にライブの人なんだと思う内容だった。
あんなにつまらないスタジオアルバムが、こんなに良いものだったのかと聴き直してしまう内容だった。
本人にしてみれば、スタジオアルバムだって良い!と言いたいだろうが、ツラツラと書いてきた通り、スタジオアルバムの拓郎を僕はあまり評価していない。しかし、ライブは絶品だ。だから、この「Live at WANGAN STUDIO 2022 -AL “ah-面白かった” Live Session-」は、拓郎からの最後の贈り物なのか、と思った。

 拓郎は、2022年12月16日のラジオのレギュラー放送終了を以て現役引退を報道されていた。拓郎は1度だって引退なんて言ってないんだけどね。
だからか、その2か月後の2023年2月18日にいきなりラジオに戻って来た。普段着の声で特番のラジオに帰って来た。何事も無かったかのように篠原ともえと女優の奈緒をゲストに迎え、普通の放送を行なった。歓喜するファン。僕は半ば呆れたが、彼にとっては区切りをつけるなんてこと自体がナンセンスなんだろう。なぜなら、つい先日の12月15日にも特番ラジオに出演し、来年の2月のオールナイトニッポンの特番にも出演予定だとか。引退報道が出てから1年に2回もラジオ放送をやっていることが引退なのか?マスコミ諸君。あなたたちももう少し拓郎を研究しなさい。拓郎は風のように生きるという事が座右の銘なんだから。
80歳になったって、スタジオでもラジオでも、なんでもいい。
生で歌う瞬間があれば、それが拓郎の生きる道だし、永遠の嘘をつき続けてほしいのだ。生で歌い続けることが拓郎らしいでしょ。

 今年も相変わらずの気ままな吉田拓郎に「拓ちゃん最高ナンバーワン」の称号を与える。
これが私の2023年最後の拓郎記事。

2023年12月28日
花形

# by yyra87gata | 2023-12-30 13:55 | 音楽コラム | Comments(0)

ALL TOGETHER NOW 1985年の歌

ALL TOGETHER NOW 1985年の歌_d0286848_10032783.jpg
2023年も終わろうとしている。

今年はジャニーズの性加害問題に端を発し、テレビとジャニーズとの関係性が露呈され、芸能界の闇でエンタメ界は溢れた。

そんな年末の風物詩は紅白歌合戦だが、ジャニーズ問題の影響からか、出演者選定も苦慮の跡が見受けられる。だいたい紅白にクイーンが入るのであれば、そもそもNHKの姿勢も視聴率稼ぎの「その場凌ぎ」としか思えない。既に紅白に老若男女問わず楽しめる音楽番組という造りに無理があるのだから、時間帯で分けるとか演出を工夫すればいいのに。

第一、今更「くれない紅勝て」「白勝て」も無いだろうというのが本音。それを大晦日の一家団欒に当てはめるのがもう時代には合ってないと思料する。

最近の子供はサザンオールスターズのことを「おじいちゃんとおばあちゃんがやってるバンド」というらしい。まさにその通り。

そして、おじいちゃん、おばあちゃんのアイドルである桑田佳祐も今年の紅白に出るのではないかという噂もある。それもユーミンを伴って。

2人は1985年と1986年の2年連続で日本テレビの特番「メリークリスマスショー」で共演している。その時に作った「Kissin Chiristmas(クリスマスだからじゃない)」は今年レコーディングし直されて、2023年ヴァージョンとして20231210日に発表した。

1985年あたりのユーミンはメガヒットの女王であるし、桑田佳祐はKUWATABANDを組んでサザンオールスターズではできなかった音楽の幅を醸成しており、ともに脂が乗っている時期であった。

確かに、バブルの香りもするし、今風の歌ではないが、ユーミン世代やサザン世代は胸が熱くなる楽曲だろう。この曲で紅白に出るのでは、という噂もある。

この2人のライン。つまり、ミュージシャン通しのコラボレーションが表立って行われ始めた時期は、1980年代半ばあたりか・・・。

19856月。

日本全国の民放が集まり、一つの大きなイベントが国立競技場で行われた。

国際青年年記念 ALLTOGETHER NOW である。

このイベントには20組ほどのミュージシャンやバンドが参加し、観客は63,000人。

後日AMラジオ、FMラジオ共に大々的に放送された。

はっぴいえんどやサディスティック・ミカ・バンド(ヴォーカルはユーミン)の再結成や、佐野元春とサザンオールスターズ、オフコースと吉田拓郎、チェッカーズとチューリップなど組合せの妙も楽しむことができた。

そして、このイベントの為に、小田和正、財津和夫、松任谷由実が「今だから」という新曲をレコーディング。演奏はサディスティック・ミカ・バンド。編曲は坂本龍一という豪華な陣営で作り上げ、ライブでも3人が横並びで熱唱し会場を盛り上げた。

※「今だから」は当時シングル盤として発表され、最近ではユーミンのニューアルバム『ユーミン天晴』(2023)にも収録されている。

ALL TOGETHER NOW 1985年の歌_d0286848_10031795.jpg

この1985615日の熱気あるステージは、数多く語り継がれてきたが、僕は、最後に出演者全員でシングアウトした「ALLTOGETHER NOW」という歌にとても感動した記憶がある。

ちょうど「We are the World」が世界的にヒットし、シンガーがワンセンテンス毎に歌っていくという歌唱法を模したものであったが、歌そのものが素晴らしいのだ。武道館を一人で満杯に出来るミュージシャンたちが横並びで一つの見知らぬ歌を歌っているという事だけでも感動できた。

そしてこの歌は権利の問題からか、発表されずあの瞬間で終わってしまった。

本当に残してほしい歌、今でも語り継ぐことが出来る歌と確信する。

紅白で歌う歌ってこういう歌なんじゃないだろうか。


作詞:小田和正 

作曲:吉田拓郎

編曲:坂本龍一

あなたの望む自由まで 奪わない

あなたの選ぶ人生を  拒まない

でも誰かが泣いている 明日を待てない人がいる

心を寒くさせないで  子供たち

大地も海も優しさを  求めてる

ただ時ははかなく過ぎ 何かを心に感じよう

今こそ その手に 小さな勇気を持て

愛の歌よ風に乗り 遥かに届け

今こそ その手に 小さな勇気を持て

愛の歌よ風に乗り 遥かに届け

力も尽きて うずくまる者たちよ

涙も枯れて 立ちつくす者たちよ

でも君の瞳は美しい そう君の命は永遠なのだ

今こそ その手に 小さな勇気を持て

愛の歌よ風に乗り 遥かに届け

20231219

花形


# by yyra87gata | 2023-12-27 10:04 | 音楽コラム | Comments(0)
 
甲斐よしひろ 『翼あるもの』_d0286848_12195783.jpg
 カバーアルバムが一般化したのはいつか?
 2000年以降でいえば徳永英明の『Vocalist』(2005)のシリーズは7作を数え、中性的なハスキーヴォイスで女性ヴォーカルの楽曲をパフォーマンスしている。
 福山雅治の『The Golden Oldies』(2002)はテレビ番組「福山エンヂニヤリング」内で福山がカバーした日本の名曲をアルバム化したもの。
最近ではさだまさしのデビュー50周年を記念して『みんなのさだ』(2023)で複数のミュージシャンがさだまさしをカバーしている。トリビュートというジャンルだ。昔は亡くなったミュージシャンのトリビュートアルバムが通例だったが、最近では先程のさだまさし同様ユーミンや加山雄三など存命のミュージシャンのトリビュートアルバムも多く発表されている。

 日本で最初にオリコン1位を記録したカバーアルバムは吉田拓郎の『ぷらいべえと』(1977)である。
この作品が製作されるきっかけは、吉田拓郎が所属していたフォーライフレコードが倒産の危機にあり、制作スタッフ側から何か発表して売上を上げなければ!という中で吉田拓郎がボブ・ディランのカバーアルバム『セルフ・ポートレート』(1970)を思い出し、そのアイデアで作り上げたもの。
 新曲が当時全く用意できなかったので作曲家として書いた曲をセルフカバーしたり、風呂で良く口ずさんでいた歌をカバーしたりと急ごしらえの作品となった。しかし、これが大ヒットしフォーライフは倒産の危機を免れた。
しかし、当時カバーアルバムは今ほど世間に受け入れられるものではなかった。特にシンガーソングライターが他人の歌を歌うという事は、才能の枯渇やら安易な楽曲制作と言われたからだ。
しかし、そんなカバーアルバムが一般的でなかった時代、製作当初から「カバーアルバム」を作る企画として制作された作品が、1978年発表の甲斐よしひろ『翼あるもの』である。

 この作品は甲斐よしひろが甲斐バンド在籍中に発表され、レコーディングミュージシャンはメンフィス録音のためすべて現地のミュージシャンで行なわれた。また、レコード会社も甲斐バンドが所属している東芝EMIではなくポリドールレコードだったため、甲斐バンド解散説も出たいわくつきのアルバムである。(後に甲斐よしひろがバンドの雰囲気を変えるためにわざとポリドールとワンポイント契約までしてソロアルバムを作ったと言及した)
 このアルバムが作られた頃、甲斐よしひろはNHK-FM「サウンドストリート」のパーソナリティーを務めており、その選曲は毎週とてもユニークなラインアップだった。甲斐は日本のフォークやロックに造詣が深く、お喋り以上に選曲も楽しみなプログラムを放送していた。
だから、『翼あるもの』は放送での選曲センスで制作されたものだろうと思料する。

『翼あるもの』 ( )内は原曲のミュージシャン
Side A
1.グッド・ナイト・ベイビー(キングトーンズ)
 メンフィスのノリのファンキーなブラスで日本のドゥワップを明るく歌い上げる。
この曲が好きで中学時代に音楽の授業で弾き語りしたら先生から「もう少し学生らしい歌を歌え」と怒られた記憶がある。

2.えんじ(森山達矢)
 ザ・モッズのヴォーカリスト森山達矢の楽曲。森山のアマチュア時代の歌なので、誰の歌だかよくわからなかった。

3.10$の恋(憂歌団)
 この歌はよく番組でオンエアしていた。
所謂コールガールの歌なのだが、
「お前にゃすべての男が親戚みたいなものだから 愛しいお前に会うために ちょっとの金を わたすだけ」という歌詞が大人だなぁと中学生の私は感嘆した。

4.サルビアの花(早川義夫)
 伝説のバンドジャックスを解散し、ソロアルバム『かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう』(1969)に収録。数多くのミュージシャンにカバーされた名曲。

5.喫茶店で聞いた会話(かまやつひろし)
 シングル『四つ葉のクローバー』(1971)のB面。歌詞に3億円強奪犯のことやYOKOというワードが頻繁に出てくるところが時代を表している。

Side B
1.ユエの流れ(ザ・フォーク・クルセーダーズ)
 マリオ清原の楽曲をザ・フォーク・クルセーダーズがカバーしたものを甲斐よしひろがカバー。

2.あばずれセブン・ティーン(浜田省吾)
 アメリカンポップスな作品なのでレコーディングミュージシャンたちのノリも良い。浜田省吾が同じプロダクションだった山口百恵にこの歌を作ったがボツにされたので、浮いてしまったため、甲斐が録音させてもらった。このアルバム制作時、浜田省吾はこの歌をレコーディングしていないので、1980年のアルバム『Home Bound』でセルフカバーしている。

3.恋のバカンス(ザ・ピーナッツ)
 ここらへんのジャパン・ポップスを持ってくるセンスが素晴らしい。甲斐少年が一番多感な頃の歌。甲斐はテレビ番組「シャボン玉ホリデー」での歌は全部歌えると豪語していた。

4.マドモアゼル・ブルース(ザ・ジャガーズ)
 GSも外さないところが甲斐よしひろ。しかもザ・ジャガーズをもってくるあたり、痒い所に手が届く選曲。『翼あるもの』から出した唯一のシングル盤のA面。(B面は「ユエの流れ」)
「シルクのドレスを着せてあげたい」のリフレインは、甲斐よしひろが作ったかのような熱唱で、カバーとはこういうもの、という良い例。

5.薔薇色の人生(甲斐バンド)
 ヒットシングル『裏切りの街角』(1975)のB面。セルフカバー。君と過ごした日々が薔薇色だったと回想する歌。メンフィスの乾いたサウンドとはかけ離れたエンディング。

 このアルバムのレコーディングミュージシャンで特筆すべきは、ギターにレジー・ヤング、ドラムにラリー・ロンデンを迎えている事。プレスリーのレコーディングで有名。流石メンフィス。
そして、ハービー・マンの『メンフィス・アンダーグランド』(1969)に参加している名うてのミュージシャンが揃っている事。
 甲斐よしひろの伸びやかなハスキーヴォイスとメンフィスのミュージシャン、選曲の妙。どれを取っても納得のいくアルバムだ。
甲斐よしひろ 『翼あるもの』_d0286848_12203185.jpg

 このアルバムが発表された後、中島みゆきは『おかえりなさい』(1979)というセルフカバーアルバムを。(オリコン2位)
尾崎亜美は『POINTS』(1983)から2009年まで合計5枚のセルフカバーアルバムを。
井上陽水は『9.5カラット』(1984)でセルフカバー。155万枚売上。
竹内まりや『REQUEST』(1987)セルフカバーアルバム。4年かけてミリオンセラー。
 他にも小田和正、玉置浩二、泉谷しげる、谷村新司、さだまさし、椎名林檎などセルフカバーアルバムを発表するミュージシャンは後を絶たない。セルフカバーブームが訪れた。
 セルフカバーには2種類あり、他人に書いた曲を自分で歌うというパターンと一度自身で発表した楽曲を再録音するというパターン。
 私は前者は本人歌唱が世に出ていないのである意味新曲として受け止められるが、後者は一度発表した作品の録り直しなので、リスナーは一度その歌を受け入れている訳だから「余計なお世話」と感じてしまうのだ。初めて聴いた時の感動や思い出を勝手に書き換えないで欲しいということだ。
また、後者のセルフカバーはその時代の音に変わるので、その時は良くても変化を付けた事で色褪せるのも早い気がしてならない。ヴォーカルだけは老いた筈だし、失望する割合も大きい。そういった意味で私は後者のセルフカバー否定論者であるが、カバーアルバムは違う。カバーする人の解釈で新たな歌が生まれる。
歌を愛しているからこそのカバーであるから、元歌の作詞家や作曲家は作家冥利に尽きるだろう。
 甲斐よしひろがその楽曲にもう一つの命を授け、新たな歌を生み出しているのだ。
(因みに甲斐バンドもセルフカバーを発表しているが、それには全然興味が湧かない)

1978年の『翼あるもの』は今でも全然色褪せない新たな命を授けた作品である。

2023年11月4日
花形

# by yyra87gata | 2023-11-06 12:03 | アルバムレビュー | Comments(0)