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音楽雑文集


by yyra87gata

原田真二っていいよね。

 僕が中学2年生の2学期。原田真二は9月10月11月と3ヶ月連続でシングルを発表した。鮮烈なデビューだった。ファースト・アルバム『フィール・ハッピー』(1978)は拓郎がプロデュースしており、そのことからもフォーライフレコードの力の入れようも半端じゃなかった。但し、原田真二の風貌はアルバムのジャケ写も含めて、男の自分が「原田真二ってイイよな」なんて、とても云える雰囲気じゃなかったくらいベビーフェイスだった。
 
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 当時のフォーライフは拓郎も『ローリング30』(1978)を発表したことぐらいしか良い話題が無く、泉谷は脱退するし、陽水は大麻でパクられるしと、いいことがまったく無かった。そこへ救世主「原田真二」の登場である。
広島生まれの高校生が、フォーライフのカセットオーディションに合格し、デビューのきっかけを掴んだ。カセットを聞いた拓郎は、ぶっとんで、「俺がプロデュースする!」と云ったとか・・・。デビュー前から音楽性については折り紙つきだったのだ。また、青山学院に入学も決まり、育ちの良さが際立っていた。チャーなんて高校でてるかどうかわかんないし、ツイストは大阪芸大の兄ちゃんだからね。

でも西城秀樹や郷ひろみと同じ様に女の子にきゃーきゃー騒がれていた分、正当な評価はされてなかったんじゃないだろうか。その前年、チャーが『気絶するほど悩ましい』を出して、ロックが歌謡曲(アイドル)に歩み寄って行った感がある時代。森進一のように歌謡曲の方からフォークに近付いて行ったのには抵抗はなかったんだけど、その逆はとても日和った感じがしてイヤだった。桑名正博が変な歌謡曲を歌っていたし、ゴダイゴなんてロックだか歌謡曲だかわかんなかったし・・・。
 で、チャー、世良公則とツイスト、原田真二、サザンオールスターズと、テレビにも出るロック・アーティストが続々と輩出されて、《ザ・ベストテン》や《夜のヒットスタジオ》なんかでもフツーに観るようになって。《紅白歌合戦》にも出てたし、確か《全員集合!》でも観た記憶がある。

 まあそれぞれ個性もあって、そこはそれ、アイドルと一線を画したものはちゃんとあったけど、メロディー・メーカーとしては原田真二がアタマひとつ抜き出ていたように思う。ポール・マッカートニーとかエルトン・ジョン的アプローチが見えた。他のアーティストたちがギターで作曲しているのに対して、原田真二はピアノで作っていたからかもしれない。

 「てぃーんず ぶるーす」の、| DM7 D6 | DM7 D | E6 E | E6 E7 | なんてコード展開は、ギターで作曲する人にはなかなか浮かばないよなぁ。。。って、素直に感心していた。響きもお洒落で。

 『フィール・ハッピー』を聴いてるとね、結構洋楽のパクリも多いんだよ。「キャンディ」を聴いてると「ミッシェル」を思い出す… なんてレベルのものじゃなくて、モロ持って来ちゃったみたいな。でもそれが筒美京平的というか、うまいことやってる。そんなことも含めて、あのアルバムでの松本隆とのコラボレートは、ある種の金字塔的成果が上がってると思う。但し、アレンジャーの青山徹とはガチガチにぶつかってたらしい。同郷ということもあり、拓郎が気を利かせて青山を呼んだらしいけど、歳が近い分この配置は裏目ったらしい。もう一人のギタリストである鈴木茂は大人だからね、問題はおきなかったらしいけど。
 あ、あと、ピアノで演奏しながらも、Tレックスやファンクサウンドみたいなのも好きだったと思うな。そんなエッセンスが原田真二のサウンドの発想には、そこはかとなく詰まっている。メロディと同時にリズムを感じ取ることができるんだよ。
 原田真二のターニングポイントは、どこか・・・。自分の才能と、売り込み方のギャップに悩んだのかな。その後、フォーライフを離れるわけだが、どんどんマニアックな方向に進んでいくし、どんどんオリジナリティが失われていった気もする。「見つめてCarry On」なんて、プリンスの曲そのままでぶったまげた。

 それからの原田真二は、全然パッとしなかった。相変わらず良い歌は作っていたんだけどな。
決して良い歌が売れるわけではないという日本の音楽事情の中で、原田真二は沈んで行った。そのあたり、サザンと対照的。世良公則の消え方とも違うし、職人芸を極めていったチャーとも違う。

 何年か前に東京ドームの前にあるプリズムホールという小さいホールで、原田真二のパフォーマンスを観た。バンドと呼ぶには中途半端な編成で、打ち込みの嵐。彼はまるでマイケル・ジャクソンだった。ムーンウォークだってやっちゃうんだから。でも同じ時間、本家は後ろのドームで本当にムーンウォークをしていたんだ。哀しいね。 
 でも、苦労もしたのか、客のつかみがとっても巧くて。往年のヒット曲もまったく色褪せてないし、初めて聴く歌も、そんなに悪くは無かった。ただ、マイケルから3kmも離れてないところで同じような歌は聴きたくなかったな。

中学生のときに聴いたサウンドは確実に耳に残っている。昔から隠れ原田真二ファンとして言わせて貰えば、最初の頃の原田真二は本当に天才だと思った。これは今でも変わらない。ホントにイイんだって。
 そういう意味では、デビュー時のあの人気は彼に何をもたらしたのかな…。悪いことばかりじゃないとも思うけど。

 
 ちょっと前、松田聖子とどーのこーの書かれてたね。
もう少しきちんと彼の曲や才能が取り沙汰されればいいのに。
だけど、「懐かしのアイドル」的なテレビ番組では見たくないね。



2004年12月7日
花形
Commented by ジョー at 2015-08-19 21:05 x
いい記事でした。
たしかに原田真二の才能はすごかったですね。
作曲能力は日本ポップス史上屈指じゃないかな。
Commented by yyra87gata at 2015-08-21 10:56
ありがとうございます。
最近はヴォーカルがきつそうですが、まだまだ頑張ってもらいたいミュージシャンです。
Commented by ジョー at 2015-08-30 18:57 x
すいません、また適当なこと書いてました…。

過去の記憶を頼りに書いたものの、「フィール・ハッピー」を聴いてみて(フライングのないよう図書館で借りましたw)、

作曲能力は日本ポップス史上屈指

という評価は訂正いたします。
十代としては非常に高いレベルの楽曲群ですが、若者の特権でもある空回り的な部分も随所に見られ、思ったよりずっと冷静に聴けてしまいました。
屈指という評価はちょっと甘すぎで、いいメロディを作るアーティストの一人ぐらいでしょうか。

彼はデビュー当初からすでに自分を持っていて、それはそれでいいことなのですが、結局周囲のアドバイスも的を得ていて、売れたシングル群は非常に彼の声にマッチしていたと思います。
逆にやりたいことをやりだした彼の特にライヴを見ると、ちょっと声が負けてしまっている感が否めません。

音楽だけじゃないですが、やりたいことと、得意なことや合っていることが一致しない難しさはありますよね。

しかし、あの時代に春一番のごとく日本人離れした曲をお茶の間に吹かせた風の威力は大きかったなとやはり思います。
Commented by yyra87gata at 2015-08-31 13:39
コメントありがとうございます。そうなんです。「フィール・ハッピー」は拓郎がプロデュースし、アマチュアだった彼をプロの作家(松本隆や鈴木茂など)が全面サポートした結果の作品なのです。2枚目の「ナチュラル・ハイ」は本格洋楽志向となり、ヒット曲を一切入れないという暴挙に出て(若さからか…)、セールス的にまったくな結果になりました。
そして、レコード会社移籍につながり、表舞台からフェードアウトしていったんですよ。
ただ間違い無いことは、時代を代表するポップミュージシャンであることです。
by yyra87gata | 2012-12-12 18:53 | 音楽コラム | Comments(4)