音楽雑文集


by yyra87gata

文化祭大作戦

 高校時代、僕の部屋には押入れから屋根裏へ続く天板があった。屋根裏は、僕の宝物の隠し場所だった。彼女からの手紙もあれば、Hな本も隠していた。でも、一番の宝物はエレキギターだった。友達のS君からもらったグレコのテレキャスターモデルだ。白いボディを彼は篠島コンサートでの拓郎のギターのように赤く塗ってしまった。素人仕事なので塗装にムラがあり、明らかに失敗作。
彼はその後、拓郎バンドのギタリスト(青山徹)に憧れ、彼が使用していたカワイ・ムーンサルトというギターを購入した(ミーハー)。結果的に今まで使っていたテレキャスターが邪魔になった(塗装失敗で嫌になった)ので僕にくれた。
僕は困った。僕の家では高校生がエレキギターを持つことはご法度だったのである。それは親父が高校教師・生徒指導部ということに起因している。バイクとエレキは不良の始まりなんだそうだ。
 フォークは良くてエレキは駄目なんて基準はそもそも間違っているのだが、そんなこと当時の親父に言ったら、こてんぱんにされてしまうのは目に見えていたので、子供は当然親の目を盗んで行動した。
テレキャスターは古いトランジスタラジオにつなげて、親のいない時間に鳴らしていた。いつもひずんだ音でクラプトンやフリーを弾き、拓郎や陽水を気取って歌っていた。親の不意の帰宅に焦ったことがあったが、ステレオを鳴らしていた、といってごまかしていた。

 高校3年生は受験生。僕の学校は一応進学校で、頭の良いやつはずば抜けて良い。スポーツもせず、1日中勉強しているやつって本当にいる。そんな中で僕は完全にドロップアウトを決めていた。僕の学校は1学期ごとにクラスが替わる。成績順にクラス分けされる。ひどい時は席順もテストの出来不出来で決まったこともあった。別にそれに対して不満は無かったが(関心が無かった)、周りのみんなが受験モードに入っていき、バンドメンバーがベースやギターをケースにしまっていく光景を見るのが嫌だった。もちろん我が家でも大学受験の話は常にあったが、僕は聞き流していた。それより、今やりたいことをやる、という刹那的な感情で生きていた。
高校3年生は、受験シフトになり、かなり自由登校が認められていた。来ないやつは全然学校に来なかった。しかし僕は毎日学校に行き、生徒会役員でもないのに生徒会室に朝から夕方までずーっと入りびたって、たまにタバコをくゆらせていた。すると、文化祭が近づくにつれ何人かのおちこぼれが僕の周りに集まってきた。・・・「何か面白そうなことやろうぜ。」

 高校生がライブハウスに出ることなんか夢のような時代だ。唯一の発表の場は文化祭になる。僕は文化祭の実行委員に名乗りをあげた。体育館ででかい音が出したい!うちの体育館は講堂ではないので、舞台を作らなければならないが、それでも音が出したい!拓郎は同時期に全国体育館ツアーの真っ只中だった。それもひとつの引き金になった。そして、そんな企画に合わせるかのように体育館だけではなく、ライブハウスを作る案もあがった。
 文化祭でライブ演奏会はそれまでにもあった。しかし、フォークギター中心であったり、ブラスバンド部の発表であったり。純粋なエレクトリックバンドのライブは無かった。カトリックの学校だったからかもしれないが、ものすごく保守的。当然、ハードロックやヘビメタなんてやっているやつはいないし、できる雰囲気じゃなかった。(先輩のバンド名で「死神」ってのがあったけど、学校側からクレームが入りバンド名を改名させられてた。・・・文化祭には「天使」ってバンド名で出てた・笑)
文化祭実行委員は秘密裏に「こと」を進めていった。音楽授業の一環だった自作自演をコンテスト形式で行うことを企画。全校生徒の前で発表会を行なう。音楽の授業カリキュラムを大々的に行なうだけなので、学校的には問題は無いはず。企画書には「体育館での音楽演奏・自作自演コンテスト他」と書き、学校へ提出。この「他」という文字に大きな意味があった。
 有名人を呼ぼう、と言うことになり、親父がTBSに勤めているやつがいたので、当時《ぴったしカンカン》で人気だった「久米宏」をオーダーした。しかし実際に来ることになったのは当時、新人アナウンサーだった「生島ヒロシ」だった。「久米さん」は、どうもスケジュールと予算が合わなかったらしい。そして、売れて無くてもミュージシャンを呼ぼう、と言うことになり、「ヒストリー」という「NSP」みたいなグループを呼ぶことになった。ぜんぜん売れてなかったが、そんなことは問題ではなかった。これらは、完全に学校向けの企画であり、体育館にでっかい舞台を組み上げるための理由付けなのだ。舞台を作り上げ、マイクやPA、楽器類を揃える予算を学校から引き出すための企画でしかない。そんなことを知らない学校側はOKを出した。僕って策士。
 PAや楽器類の調達も限られた予算なので、若い馬鹿野郎たちは頭より行動が先に出る。運んでもらうと運搬料を取られるので、機材は渋谷のレンタル会社に取りに行った。電車でバスドラや大きなベースアンプを運ぶことはかなりきつかったが、自分ができる高校最後の祭りだったから苦労とも思わなかった。暴走する青いなんとか・・・みたい。

 僕の唯一の学校側の理解者は、音楽教師と美術教師だった。いつも放課後になるとどちらかの部屋に行き、いろいろな文化やアーチストの話を聞いた。僕が生徒会室を占拠していたときも、たまに顔を出してくれ、いろいろとアドバイスをしてくれた。あとあと聞いてみると、学生運動の闘志だったらしく、非常に具体的で合理的な物の考え方をし、慣習をぶっこわすことが大好きだったようだ。
しかし、他の教師からは廊下ですれちがうたびに、受験のことをチクチク言われた。そして優等生たちに聞こえよがしに、僕たちと付き合うことを禁じる発言をする。でもそんなこと気にしてはいなかった。馬鹿だと思われても理屈じゃなかった。
ライブハウスはどこでやるか・・・。
音楽教師は音楽室のライブハウス化について目をつぶってくれた。そして、ひとつだけ条件を出した。「俺も歌わせろ」みんなコケた。ビートルズを一緒にセッションすることで合意。
ライブハウスについては、ブラスバンド部の発表会ということにして、音楽室を占拠した。もちろんブラバンの連中は知らない。ブラバンの発表をさせておき、演奏終了後にバンド形態にステージを早変りさせることを企画する。一番の問題はドラムセットとベースアンプの大物類。動く舞台は意外にも近くにあった。野球部の動くバッティングネットにでかい車輪がついている。そのネットは取り外しがきき、そこに教壇の天板を載せれば上手い具合に動く舞台になった。アホはアホなりに考えると突拍子も無いことを思いつく。

 文化祭前日、体育館に大きな舞台が組まれた。レンタルのニッケンのオヤジ達は2時間で立派な舞台を作ってくれた。そこに、ドラムやベースアンプ、ギターアンプを雑然と並べる。舞台美術なんてまったく考えていなかった。ただそこで演奏できればいいと思っていたから。

 文化祭は体育館に全校生徒が着席し、校長の挨拶から始まった。異例ともいえるでかい舞台にみんな興奮していた。
自作自演コンテスト。中学1年から高校3年まで約15組のエントリーがあった。高校3年でエントリーしたのは、僕ともう1人の弾き語りだけだった。審査員は校長をはじめとする教師連中だ。
歌詞をプロジェクターでスクリーンに映るようにしたので、教科書に出てくるような歯の浮いた歌詞がたくさん目に飛び込んできた。キレイに歌うことで教師達はフンフンうなずいていた。「おもしれぇか、こんな歌、本当の気持ちを歌えよ!」なんて裏から野次を飛ばしていたのは、僕の親友のMだった。
僕はというと「学校の1日」を歌詞にあらわし、いつも一緒に悪さをするTとMの3人で出場した。生徒達からは声援と教師からは苦笑を買っていた。特に校長のことを歌った部分では、拍手をする教師もいた。結果は4位。いいんだか悪いんだかわからない位置。校長から表彰楯を渡されたが、校長は笑っていなかったなぁ。
 「生島ヒロシ」や「ヒストリー」の公演も滞りなく終了し、生徒達はそれぞれの催し物に散開していく。
これからが勝負!まずは体育館でのライブ。
その場で作った「スケジュール表」を掲示板に貼り、ライブ強行である。
高校最後の文化祭で僕は体育館のステージに立っていた。全員高校3年生で組んだバンド。もちろん教師たちは白い目で見ていた。1時間、めいっぱい拓郎を歌った。客はそこそこいたので歌っていて気持ちがよかったが、途中で電源を抜かれるんじゃないか、内心ヒヤヒヤしていた。結局、文化祭開催2日間とも体育館でライブができた。体育館で、でかい音で演奏できたことに、十分満足した。
僕達は体育館での演奏を終えると、そのまま音楽室(ライブハウス)へ移動。ブラバンの演奏にむりやり参加し、そのままの流れでバンド演奏会が始まった。
 みんなやりたくてうずうずしていたから、出演希望者は当初の予想の3倍となり、2日間の開催期間中で出番が1回という有様だった。でも普段、数学や物理ばっかりやっているガリ勉くんが、ディープパープルのキーボードを弾いていたり、野球しか能のないやつが、意外にビリージョエルを完璧に歌ったりと、結構楽しめた。僕は高中正義やYMOなどその頃流行っていたインストゥルメンタルを演奏した。音楽室は文化祭の間、音が止むことは無かった。
あとから聞いた話だが、例の音楽教師は近隣住民への騒音対策として、事前に案内文を作成し、ブラスバンド部の連中を使って、ビラ配りをしてくれていた。泣けた。

 学校は毎年3月になると1年間の締めくくりとして、生徒全員にアルバムを配布する。その中に、体育館でエレキギターを持って、マイクに叫んでいる僕の写真がデカデカと載った。
両親はそのページを見ていたが、何のコメントも無かった。但し、親父が一言
「高校生活は楽しかったようだな・・・。これからどうするんだ・・・。」
僕はどこにも属さないサンデー毎日になっていた。

2004年12月10日
花形
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by yyra87gata | 2012-12-12 18:58 | その他 | Comments(0)