音楽雑文集


by yyra87gata

『カルメン・マキ & OZ』  カルメン・マキ & OZ

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 日本のロックを語る上で必ず通らなければならないアーティスト達がいる。ロック不毛の地・日本を脱出し、海外を目指したバンドとして、「フラワー・トラベリン・バンド」「イースト」「サディスティック・ミカ・バンド」「ブルース・クリエーション」。ピンク・フロイドを目指し、プログレを定着させた「四人囃子」「コスモス・ファクトリー」。関西ブルーズから「上田正樹とサウス・トゥ・サウス」「ソーバッド・レビュー」「憂歌団」。ストレートなR&Rバンド「キャロル」「クールス」。ソフトロックでは、「シュガー・ベイブ」「愛奴」「センチメンタル・シティ・ロマンス」。地方都市から「めんたんぴん」「サンハウス」「コンディション・グリーン」「紫」。
そして、女性ヴォーカルのロックは、「金子マリ&バックスバニー」と「カルメン・マキ & OZ」に尽きるだろう。
特にカルメン・マキは、ガールズヴォーカルだけでなく、日本のロックヴォーカルに多大な影響を与えていると確信する。
 マキの中域から伸び上がるヴォーカルの特徴は、母音を強調する歌唱法で、ハードロックヴォーカルの定番として今も継承されている。
特に、歌い上げている最中に、母音でメロディーを付けて歌いまわす歌い方をしていた日本人をマキより以前に聴いたことが無い。だいたい日本語でハイトーンビブラートをしていたヴォーカリストなんていなかったのだ。
マキは、高校中退後、寺山修司の天井桟敷のメンバーとなり、「時には母の無い子のように」で歌手デビューを果たした。1969年当時は、ロックというよりフォークであり、紅白歌合戦にも出場している。
しかし、本当に表現したいことは天井桟敷の舞台ではなく、情熱的な歌であり、それはジャニスを聴いた時に決定的になったという。マキは1972年にロックへ転向し、1975年にOZを結成し、ロックヴォーカリストとして再デビューした。
 
 1970年代初頭の日本のロックはサブカルチャーであり、市民権などなかった。GSの衰退とともに忘れ去られた音楽という印象は拭えず、フォークソングのブームでロックは完全に逆風となっていた。そして当時のコンサートは、単独でコンサートを行えるアーティストは限られており、だいたいのコンサートは様々なアーティストが入り混じって出演していた。
「サディスティック・ミカ・バンド、キャロル、荒井由実」の組み合わせだったり、「四人囃子、遠藤賢司、上田正樹とサウス・トゥ・サウス」だったり・・・。
そんな中、絶大なる存在感を示したバンドのひとつがカルメン・マキ & OZ(マキオズ)だった。マキオズのほとんどの詞はマキか加治木剛(ダディ竹千代)、曲は春日“ハチ”博文が担当。メンバーチェンジが多く、流動的だった頃もあるがマキとハチは鉄壁のコンビだった。ラッキー川崎のハモンドや川上重幸のディストーションベースソロなどマキのヴォーカルに負けじとハードな演奏が繰り広げられた(後期メンバー)。
とにかく音がでかいバンドであった。

 ファーストアルバム『カルメン・マキ & OZ』(1975)は、名曲揃いで、マキオズの世界が全編に渡りに打ち出されている。
「六月の詩」「午前1時のスケッチ」「私は風」などは、後世に与えた影響力の強い作品である。特にライブで歌う「私は風」などは、ヴォーカルと演奏が真剣勝負で行われ、見ている僕達にも緊張が走る。そしてその緊張は次第に興奮へと変わり、会場全体が興奮の空間に変革する。圧倒的なマキのヴォーカルは会場の隅々まで埋め尽くしていく。PAやバランスを超越したヴォーカル(浮遊してしまうヴォーカルではなく、地を這うようなヴォーカル?)は、全国広しといえどもマキと清志郎くらいだと思う。
 ファーストアルバムから始まり『閉ざされた街』(1976)『Ⅲ』(1977)『ラストライブ』(1978)と計4作品を残しているマキオズだが、ファーストアルバムのインパクトが一番である。それは、アルバムを重ねるごとにロックからポップス指向に制作意図が変わったのか、軽くなってしまう印象を受けるのは僕だけだろうか。
 今でもマキはライブハウスを中心にライブ活動を続けている。一時期(1983~1992)は音楽シーンから姿を消していたが、アコースティック色を強く打ち出しながら、復活を果たし、盟友・春日博文とのコラボもたまに行っている。
 マキオズから30年経ってしまったが、マキのヴォーカルは良い意味で年を重ねた老練なヴォーカルになった。しかし、あの頃のマキオズをもう一度見てみたいなぁ。

2005年7月13日
花形
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by yyra87gata | 2012-12-15 07:19 | アルバムレビュー | Comments(0)