音楽雑文集


by yyra87gata

『1981.12.19 LIVE AT BUDOUKAN』  柳ジョージ&レイーウッド

 日本武道館は、70年代のフォークやロックミュージシャンの憧れの場所として認識されていると思う。古くはビートルズが演奏した場所として特別な想いがよぎるミュージシャンもいるだろうし、いつか武道館を満杯にさせるんだ、と心に誓って音楽活動をしていたミュージシャンもいるだろう。
80年代になると音楽がビジネスとして成熟し、広告や企業の戦略の一環として扱われることになり、ファンでもない人間が会場を埋め尽くす現象も少なからず出てくるようになった。武道館をファンで満杯にさせる、という軸がずれてきた。そんな時代になっても武道館や東京ドームは、ミュージシャンの憧れの地だったのだろうか。
 武道館公演を夢見たバンドの中で、結果的にグループ解散の場所に武道館を選んだ柳ジョージ&レイニー・ウッド。その公演はあまりにも潔いライヴだった。1981年12月19日のことだ。
 柳ジョージは最後まで謙虚に振舞っていた。会場を埋め尽くすファンは誰もが彼らを支援していた。
「お客さん一人一人に支えられてここまで来ることができた。」という感謝の言葉を散りばめながら、バンドの卒業式が行われたのだ。

 柳ジョージは、レイニーウッドというパートナーにめぐり合うまでの間パワーハウス~ゴールデン・カップス~ソロと音楽活動を続けてきたが、その道のりは決して楽なものではなかった。
横浜の匂いのする男臭いブルーズロックが世間に受け入れられるには、柳ジョージが音楽活動を始めてから9年を要した。派手な活動は無く、地道に横浜のライブハウスに出演したり、カップス時代のミッキー吉野とのセッションで食いつないだりしながら武道館を夢見ていた。しかし、武道館のステージに初めて柳ジョージが立った時は萩原健一のバックバンドとしてだった。1978年のことである。「熱狂雷舞」と題されたこのツアーは、萩原健一と柳ジョージ&レイニーウッドのセメントマッチの如く、お互いが一歩も譲らない緊張感とグルーヴを出し続けた素晴らしいものとなった《アルバム『熱狂雷舞』(1979)萩原健一》。しかし、柳ジョージの心中は、満足よりも悔しさだったという。
 柳ジョージ自らがセンターに立ち、満員の武道館の観客に立つ日はそれから2年後だった。
70年代後半はいかにTVと共存していくかを考えたバンドが勝ち組になっていった。柳ジョージのヒット曲はほとんどがCMタイアップ。音楽番組にも積極的に出演した。その甲斐あって「雨に泣いている-WEEPPNG IN THE RAIN」「微笑の法則~スマイル・オン・ミー」「さらばミシシッピー」と立て続けにヒットを飛ばし、柳ジョージとレイニーウッドは全国区のバンドに成長していった。

 ラストコンサートは、卒業式である。今まで応援してくれた観客に向けて答辞という演奏を送り続けた。「雨に・・・」のホンキートンクな生ピアノ、程よい厚みのストリングス、ブレークから思いっきり間を溜めて入る、ギター・ソロは、柳ジョージの真骨頂だ。「本牧綺談」に歌われている本牧は、まだ米軍キャンプがあって、割とリッチな階級の将校などが、家族と住んでいる地区だった。アメリカ文化を感じ取ることができる歌はほかにもある。「フェンスの向こうのアメリカ」「青い瞳のステラ~1962年夏・・・」柳ジョージの少年時代の思い出を歌っているものだ。まだ日本が豊かでなかった時代に、鉄のフェンスの向こうには、一面の芝生とカラフルな家。見たことのない玩具や子供用の自転車。フェンス越しに垣間見た別世界(現在では、この米軍居住区は日本に返還されて、マイカル本牧となっている)。漠然とあこがれるアメリカのイメージの原点が柳ジョージの歌に多く歌われているのだ。
 武道館解散コンサートを収めた『1981.12.19 LIVE AT BUDOUKAN』(1982)は、柳ジョージの原点かもしれない。ちなみにこのアルバムは一切ダビングも手直しもされていないライブ盤で、生の彼らが刻まれている。
 
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2005年8月30日
花形
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by yyra87gata | 2012-12-16 11:29 | アルバムレビュー | Comments(0)