音楽雑文集


by yyra87gata

ピンクフロイドとプロレス

 d0286848_22172850.jpg僕は全日派だ。猪木が日本プロレスを離れ、新日を作った時、馬場さんを裏切るひどいやつだと小学生ながらに思ったものだ。僕の祖父が大の馬場ファンだったので、その影響で僕も馬場やデビューしたばかりのジャンボ鶴田を応援していた。
僕は川崎大師の生まれなので、よく川崎市体育館にプロレスを見に行った。馬場や鶴田はもちろん天龍源一郎はまだ新人だった。アントン・ヘーシンクやビル・ロビンソン、ドリー・ファンク・Jrが外人勢としてよく来日していし、もちろんブッチャーやシークなどのヒール軍団も豊富でデストロイヤーが丁度ベビーフェイスに鞍替えした頃だった。
 そしてこの頃から、レスラーの登場テーマが流れるようになっていった。よりエンターテイメント性を高める効果もあったのか、テーマソングが会場に響き渡ると観客は条件反射でレスラーの名前を叫びまくった。
印象深いところでは、ファンクス「スピニング・トゥー・ホールド」(クリエイション)、ミル・マスカラス「スカイ・ハイ」(ジグソー)、ジャンボ鶴田「ハッスル」(バンザイ)、ブルーザー・ブロディー「移民の歌」(レッド・ツェッペリン)など。でもテーマソングが鳴り響いた瞬間に会場を恐怖のどん底に落とし入れたテーマソングは、何といってもピンクフロイドの「吹けよ風、呼べよ嵐」だ。登場レスラーはアブドーラ・ザ・ブッチャーである。子供心にこのテーマが鳴ると緊張したものだった。
 ブッチャーは本当に悪かった。袴みたいなレスリングパンツと先の尖ったシューズ、おでこには幾スジもの傷が刻まれ、馬場さんがチョップを入れると血がピューと飛んだ。ブッチャーも懐にいつも凶器を忍ばせていた。釘やらハリガネやらフォークやら。まだ若手の鶴田や天龍が血祭りにあげられていた。ブッチャーは僕ら子供を恐怖のどん底に陥れる危険な人物だった。だから少し大きくなってピンクフロイドの「吹けよ風、呼べよ嵐」をレコードで聴いた時、妙に緊張したものだった。トラウマになってしまったのか今でも少し緊張する。
 
 ピンクフロイドはデビュー当初、サイケデリックな印象とシド・バレットの天才的感覚で話題になり、アルバム『夜明けの口笛吹き』(1967)でデビュー。しかしこれからという時にシドは精神に異常をきたしてしまい、バンド継続ができなくなる。リーダーとなったロジャー・ウォーターズが新たなギタリスト、デイヴ・ギルモアを呼び、長いバンドキャリアを始める事になるが、当初はサイケデリックバンドとしてジミヘンやクリームの前座バンドとして活動していた。ピンクフロイドはサイケデリック音楽からの脱皮を図るべく、作品のテーマを煮詰め表現方法を模索し、プログレッシブロックというジャンルを築いていった。それはあたかもクラッシックの組曲の如く、ロックミュージックを組み立て、加えてライトショーの導入や大規模なステージ演出を施し人気を不動のものにしていった。『神秘』(1968)や『原子心母』(1970)を次々に発表し、『狂気』(1973)は全米チャート741週ランク・イン、全世界3000万枚以上のセールス等、天文学的な記録を誇る伝説的なアルバムになった。『狂気』がもたらした成功とその裏にあるメンバーへのプレッシャーが次作の制作に影響していったことは、『ザ・ウォール』(1979)とそのステージを見れば明白だ。無責任な中傷や過度な期待がメンバーの神経をすり減らし、かつてのシドのようにロジャーは壁に向かって話をするようになった。“であれば、ステージに壁を作ってしまえ!そして最後にその壁は崩されていくのだ!”パラノイヤの境地だ。
 そんな内省的な重苦しいキャラクターのバンドとは露知らず、ブッチャーのテーマソングという意識だけで聴いていた小学生時代。中学で『原子心母』や『狂気』を聴き、その難解さに目を白黒させたことが懐かしい。
目を白黒させたで思い出した・・・。
 祖父と川崎体育館に全日を見に行ったある日。会場に早く到着したので、となりの公園で遊んでいたらブッチャーと馬場がとても仲良さそうにキャッチボールをしていた。その夜2人は血みどろで戦っていた。小学生の僕は目を白黒させた。

2005年9月27日
花形
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by yyra87gata | 2012-12-16 22:18 | 音楽コラム | Comments(0)