音楽雑文集


by yyra87gata

『ライブ・イン・ヨーロッパ』  オーティス・レディング

 楽天の田尾監督が1年目で解任された。オリックスと近鉄の合併問題から波及し、新たな球団として誕生した楽天。決して1流と呼べる選手が多いわけでなく、リストラにあった選手の寄せ集めと新人監督にどこか現代の下克上を期待し、みんなが見守った。しかし今回、球団側は営利追求のもとで3年契約の田尾監督を解任してしまった。田尾監督は解任挨拶で3年かけて1流のチームに育て上げられなかった無念さを語っていた。僕は楽天に遠い昔に観た映画《がんばれベアーズ》を思い描いていたが、それも田尾監督の涙とともに流れてしまった。志なかばにして無念だったろう。
 
”志なかばにして・・・”というフレーズがピッタリ来るアーティストとして、僕が真っ先に思い浮かべるのは、“ビッグ・オー”ことオーティス・レディングだ。60年代半ばに突如現れ、疾風の如く去っていった天才。本来ならば黒人差別の公民権運動も落ち着き、黒人が権利を獲得し、70年代の音楽ビジネスで才能が発揮できたはずの彼。類希なる才能とタレント性を持ちながら、不慮の事故で帰らぬ人となってしまったことは、音楽界においても大きな財産を失ったといってもいい。享年26歳。1967年12月10日のことだ。
 オーティスはアメリカ南部の街、メイコンで地元有名バンドの運転手だった。たまにステージに上げてもらい、歌を歌う程度のシンガーだった。そんなバンド生活の中、そのバンドがスタックスのオーディションを受け、見事合格した(その時オーディションでオーティスは歌っていない)。オーティスはスタジオで後片付けをしている最中、スタックスの社長と専属ミュージシャンのスティーブ・クロッパーが談笑しているところへ行き、“自分の歌を聞いてくれ”と懇願した。オーティスの熱心な訴えに折れ、スティーブは自分のギターを貸してやったという。「ジーズ・アームズ・オブ・マイン」をワンコーラス歌ったところで、オーディションは中止。その場で社長は契約、レコーディングを始めてしまった。ギターを貸したスティーブ・クロッパーは呆然として聴いていた。そして直ぐに自らプロデュースをかって出たという。
 オーティスは心のままにヴォーカルを傾け、全身全霊でソウルフルに熱唱する。ハスキーだが、ハイトーンヴォイスは小さい頃から通っていた教会のゴスペル音楽が基調となり、人々の心にすんなり入り込んでくるのだ。

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 彼の真骨頂はライブパフォーマンスだ。『ライヴ・イン・ヨーロッパ』(1967)。1曲目の「リスペクト」からエンジン全開、「シェイク」で踊り狂い、「ファファファファファ」で落とす、最後の「トライ・ア・リトル・テンダネス」まで来ると正気でいられなくなる。ソウル・ミュージックのお手本となるシンガーといってしまえばあまりにも陳腐な表現になってしまう。なぜなら、ソウル・ミュージックに限らず数多くのアーティストがオーティスの影響を受けたからだ。プロデューサーでもありバッキングを固めていたスティーブ・クロッパーは、オーティスにアドバイスを送りながらも自らの奏法が自然とオーティスにリスペクトされていったという。ジミヘンはオーティスのヴォーカルをギターで真剣にコピーした。アレサ・フランクリンやダニー・ハザウェイはオーティスの歌唱法を徹底的に研究した、などという伝説は星の数ほどあるだろう。
オーティスがもしあの飛行機に乗らなかったら、僕達は数多くの名演を見ることができただろう。ストーンズやクラプトンとのセッションやダニー・ハザウェイとのコラボなんて考えてみただけでもわくわくしてしまう。
僕達は残された音源だけで楽しむしかないが、音源が残されていただけでも幸せと思うことにしよう。
 オーティスは全米1位を1回だけ獲得している。名曲「ドッグ・オブ・ザ・ベイ」だが、彼はこの事実を知らない。死んだ後の話だから。無念だね。

2005年9月29日
花形
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by yyra87gata | 2012-12-16 22:21 | アルバムレビュー | Comments(0)