音楽雑文集


by yyra87gata

『ひらく夢などあるじゃなし』 三上 寛

 中島みゆきの情念とは違う。あがた森魚のエレジーとも違う。森田童子の孤独感、NSPの寂寥感、遠藤賢司の狂気とも違う。怨念と情念が狂気に変革した三上寛は、どこにも属さない道を歩く。
 ギター1本、3カポAmで“がなりまくる”パフォーマンスは、1度見たら忘れられない。長髪全盛のフォーク時代に角刈りで小太りのスタイル、ガラガラ声で登場。1度聴いたら心の隅にすり込まれてしまう。
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難解な詞は、小説の一片の様でもあり、三上の描く人間の深層心理を表現するスピリチュアル・ミュージックの様でもある。三上の作品にはほとんど旋律が無く、トーキング・ブルースのような語り口調である。いや、叫び口調?である。迫り来る言葉が、ぐさりと聞き手に突き刺さり、後戻りなどできなくなるほど濃厚で熱い言葉で満ちあふれている。
「小便だらけの湖」「ひびけ電気釜!」「夢は夜ひらく」「オートバイの失恋」「パンティストッキングのような空」「なんてひどい歌なんだ」「誰を怨めばいいのでございましょうか」「BANG!」「青森県北津軽郡東京村」「気狂い」・・・。タイトルだけ並べてみても、三上ワールドが広がってくる。寺山修司に影響を受けた彼の詩は、三上のキャラクターとも相まって寺山の世界を超えた高みに存在しているのではないか。
太宰治の断罪と寺山の人間の深層心理に潜む世界を、三上は詩の世界で凝縮している。三上寛は恐ろしい詩人である。
 僕が三上寛の詞を認識したのは、ギターを弾き始めて、その歌詞が理解できるようになってからである。当たり前の話だが、歌詞の内容がわからなければ、ただの叫びだからだ。しかし、三上の歌をコピーすることはできず、ただ圧倒されて聴くのみであった。僕が三上を聴いた頃はイギリスではパンクが流行し、世間の不満を爆音とともに表現していたのだが、その表現とも違う狂気がそこにあった。社会に対する不満というより人間(生きていること)への不満に聞こえた。これを中学生が声高らかに歌おうものなら、奇異の目で見られただろう。でも僕は三上寛を追いかけた。
アルバム『ひらく夢などあるじゃなし』(1972)は絶望のアルバムだ。この世の果てにある世界を歌ったアルバムかもしれない。しかし、悲しい歌を聴いて悲しい気持ちになれるということは、自分が幸せだからということも言える。本当に悲しかったら、悲しい歌を聴いて笑ってしまうかもしれない。”そんな甘っちょろいこと歌って・・・”。
僕はミッション系の学校に通っていたので、授業で聖書を読む時間があった。聖書では救いの神が現れて人々に手を差しのべる場面がいくつも登場する。そのたびに神はありがたい教えを伝える。僕は信者でもなんでもなかったので、お伽話を読む感覚で聖書を捉えていたが、信者は感謝の気持ちを表しながら読んでいる。そんな中、僕は三上の詩を経験し神の教えに懐疑的になった。
三上寛の詩は正論の生きる教えではなく、本音の生きる道を歌っていた。”嘘をついてはいけません。地獄に堕ちます”と聖書で言われていたことが”嘘だらけの世の中で生きていくには嘘をつきましょう。そうすればこの世の天国に行けます”三上は歌う。放送コードなんて関係なく、自分の気持ちを表現する三上に僕は羨望の眼差しを送っていたと思う。僕は聖書を読むことが普通のこと(学校で決められたこと)だと思っていたが、三上寛の詩を見た後ではなぜか笑ってしまってまともに見ることができなくなっていた。
日本のフォークシンガーの中でも特異な存在である三上寛は、今もライブハウスを中心に活動している。聞き手の常識や社会通念など一切無視した三上ワールドは健在のようである。ただうるさいだけのパンクや形だけのハードコアの連中は、襟を正して三上寛のライブに集合すべし。

2005年10月17日
花形
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by yyra87gata | 2012-12-16 23:26 | アルバムレビュー | Comments(0)