音楽雑文集


by yyra87gata

『ゲット・ナーバス』  パット・ベネター

 「ジュリアードは退屈だった。毎日、毎日基礎トレーニングに明け暮れたわ。でもあの頃のトレーニングが私のヴォーカルに活きたのよ。」
1985年のグラミー賞、ロック・フィメール部門で1981年から5年連続で受賞したパット・ベネターのコメントである。名門ジュリアード音楽院でクラッシックのヴォイス・トレーニングを行い、3オクターブ半の声域を持つロック・ヴォーカリストとして1979年26歳の遅咲きのデビューだったが、瞬く間にトップシンガーに躍り出た。それまでの女性ロッカーのイメージは、ジャニス・ジョップリンかグレイス・スリックを引きずったシンガーか、ピンナップガールのアイドルポップ歌手しか存在しなかった。
 ルックスと実力が備わった女性ロック・ヴォーカリストの一人者という意味では、パット・ベネターに異論を唱える人はいないだろう。澄んだ声にスリムなボディ、ライヴではドスの効いたヴォーカルも飛び出す。ブルース色もなく、正統派のロック・ヴォーカリストだ。80年代初頭の女性ヴォーカルはパット以外考えられなかった。
 『ゲット・ナーバス』(1982)は大成功作『プレシャス・タイム』(1981)の後なので、期待と共に不安もあったが、ハードなギターで押し切るそれまでの曲調から、よりドラマティックな広がりのあるアレンジが
施されている。サイド・ギターのスコット・シーツが抜けてキーボードのチャーリー・ジョルダノが加わったことが第一の要因である。また、ビリー・スタインバーグとニール・ジェラルド(パットの夫)の共作が4曲あることもこのアルバムのバリエーションに役立っている。
また、次作の『トロピコ』(1984)はヒットシングル「ウィ・ビロング」が受賞こそは逃したもののグラミー賞で従来のロック部門ではなくポップ部門でノミネートされたことからも、『ゲット・ナーバス』は最後のロックアルバムといえるかもしれない。

 パットのターニングポイントは1984年。マドンナの出現により音楽地図が塗り変わっていく。それまでのリンダ・ロンシュタットやデボラ・ハリーを追い抜いてのロッククィーンの座を、マドンナによって降ろされるとは思わなかったろう。しかも隠された因縁があったのだ。
1983年にメジャーデビューしたマドンナは、当初はディスコミュージックのシンガーに過ぎなかった。しかし、次第にそのルックス、ファッション、セックスアピールを武器に、1984年には「ライク・ア・バージン」で一気にスターダムへ駆け上がる。クラッシックのヴォイス・トレーニングを施したパットのヴォーカルに比べマドンナのそれは稚拙なものであったが、勢いと時代の流れによりマドンナはスタジアム級の会場を満員にするアーティストに成長していった。その影には「ライク・ア・バージン」の作曲者トム・ケリーとビリー・スタインバーグの2人がキーマンとなっていた。しかしこの2人は1985年にリリースされたパットの7枚目のアルバム『セブン・ザ・ハード・ウェイ』のオープニングナンバー「セックス・アズ・ア・ウェポン」の作曲者でもあるのだ。この歌の過激な歌詞は話題を巻き起こし、「セックスを武器にするのはやめなさい!」といった強烈なメッセージはまるでマドンナを皮肉っているかのようだった。この歌に対し、ビリー・スタインバーグは「ライク・ア・バージン」以前からパットのブレーンとして数多くの曲をパットのアルバムに提供していた事実もあり、間違ってもマドンナの後追いをしたとはパットも思われたくはなかっただろう。そういうバックグラウンドがあるので逆に「ライク・ア・バージン」をパットが先に録音するなんてめぐり合せもあったかもしれない。同じ作家チームが「ライク・ア・バージン」と「セックス・アズ・ア・ウェポン」という全く正反対の意味を持つ曲を、パット・ベネターとマドンナという好対照なシンガーに提供していたことは、ある種因縁めいている。残念ながら「セックス・アズ・ア・ウェポン」はポップチャートで28位どまり、アルバムのセールスもパットにとっては満足のいく結果とはいえなかった。そしてパットからマドンナへと時代も変わっていった。
全米トップ40で湯川れい子が「タイトルに"セックス"という言葉が入っているだけでオンエアすることを尻込みする保守的な地域もアメリカにある。曲の本当のメッセージが伝わってないようだ。」語っていた。
本質でロックしているアーティストが、必ずしも売れるとは限らない良い例かもしれない。

2005年10月18日
花形
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by yyra87gata | 2012-12-16 23:32 | アルバムレビュー | Comments(0)