音楽雑文集


by yyra87gata

『エレクトリック・ウォーリアー』  T-REX

 
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 ヤードバーズの敏腕マネージャー、サイモン・ネピアビルの自宅へ直談判したマーク・ボランという美少年は、当時”雑誌モデル”、”アイドルグループの一員”といった肩書きだった。マークは自分の才能と美的感覚を信じ、1960年代のビートニクスで一番有名だったマネージャーを訪ねたのだ。玄関に立ち尽くすサイモンに対し、マークはその場で弾き語りを始めた。サイモンは目の前の小柄な少年が妖精のように見え、ギターが小さなハープに見えたという。チリチリのカーリーヘアーにピカピカと光るサテンのスーツを身にまとったマークは、明らかにそれまでのアーティストにはない輝きを持っていたのだろう。
ブルーズを基調としたヤードバーズやストーンズの音楽や、ビートルズを基調としたリバプールサウンドが流行していたロンドンの音楽シーンには無いメロディーを、その少年は持っていた。ダミ声では無いが、決してきれいな声でもない。独特な声。声が裏返るかどうかの危うさとウィスパー・ボイスを駆使した歌唱法。サイモンは玄関口で40分も見入っていた。
しかし、サイモンは判断する。なんともいえないユニセックスな魅力は、いくらロンドンが時代の最先端を走る街だとしても、マークを受け入れるのは少しばかり時期尚早と思った。サイモンは持ち前の商才と判断力でマークと契約し、自宅録音やデモテープ作りを行い、売り出しの時期を窺うことにした。1965年にソロ名義でデッカレコードよりシングルを発表したが不発に終わる。何かが足りなかった。その何かは、その時の2人には知る由も無い。
T-REXがブレイクするまでの5年間は、“John`s Children”というバンドにコーラスで参加。”THE WHO”の前座などで食いつないでいた。しかし、そのコーラスをしている時、マークの異質な声に反応したトニー・ビスコンティに出会う。このプロデューサーとの運命的な出会いがマークのブレイクに拍車をかけることになる。“何か”を見つけたのだ。
 トニーはグラム・ロックの仕掛け人である。グラム・ロック・・・グラマラス・ロックとは、「女性的な魅惑」「幻惑的な魅力」「魔法のような」という意味があり、マークのためにあるような言葉だった。トニーは同時期にデビッド・ボウイもプロデュースしていたので、グラム・ロックの夜明けを彼らに見たのだ。
1968年、チラノザウルス・レックスがデビュー。1970年にはT-REXと改名し、1弾シングル「ライド・ア・ホワイト・スワン」を発表。魔法使いの弟子にもなったことがあるマークは、ロックの魔法使いになった。そして『エレクトリック・ウォーリアー』(1971)<邦題:電気の武者>を発表。一躍スター街道を突っ走ることになった。
T-REXは、単純なコード進行とブギのリズムで世界中を席巻していった。同時期にデビッド・ボウイは、ストーリー仕立てでミュージカル的な要素があるアルバム『ジギー・スターダスト』(1972)を発表。これも世界中で大ヒットを記録。グラム・ロックは他のアーティストにも侵食し、エルトン・ジョンやリンゴ・スターまでもがブギを歌っていた。
 
 T-REXはその後も『スライダー』(1972)の大ヒットもあり、来日もしている。しかし、その後ブームは終息することになる。もともとグラム・ロックはマスコミが仕掛けたキワモノ的な扱いの音楽だったから、時代の流れに左右しやすいものだったのだ。音楽は大人が聞くAORやフュージョンと子供の聞くパンクミュージックに分かれ、その中にグラム・ロックは存在しなかった。
 
 再起をかけ、巷の評判も上々の作品『地下世界のダンディー』(1977)を発表したが、マークは突然この世から姿を消してしまう。それは、彼が魔法使いの弟子の時、「30歳まで生きられないだろう。」という予言を受け、実際にその通りになってしまったからだ。妻の運転するミニクーパーが街路樹と接触。放り出されたマークは即死。しかし血も流さず、安らかな死だったそうだ。最期まで美しい伝説を残した。グラム・ロックを聴くなら、『エレクトリック・ウォーリアー』から聴くことを薦める。

2005年11月9日
花形
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by yyra87gata | 2012-12-17 12:29 | アルバムレビュー | Comments(0)