大瀧詠一を弾き語ると・・・
2012年 12月 17日
大瀧詠一である。テンションコードが多い分には練習時間を増やせば解決できるが、独特なあのリズム感が僕のギターを狂わせた。大滝の作る洋楽的音頭や50’sポップスをどうやって弾き語るか・・・。やるほうもやるほうだが、そこは怖いもの知らずの中学生。めちゃくちゃになりながらも弾き語る。雑音としか思えない中学生のファルセットは近所のネコの発情期と間違えられる。
お袋が「いい加減にしなさい!」と部屋に怒鳴り込んできた。
はっぴいえんどのリードヴォーカルでデビューし、バンド解散後は自宅兼スタジオの福生からナイアガラ・レーベルを立ち上げ、セールスには関係なくやりたい音楽を追及。霞を食べて生きているのではないか、と思うほど商業的に成功しなかった。マニアックすぎるアメリカンポップスへの傾倒に、世間はついていくことが出来なかった。大瀧自身も売れないことに対し、マゾヒスティックな喜びを感じていたと語っている。そんなことからも大滝詠一は仙人のようだった。
その後、大瀧は歌謡曲畑に進出し、70年後半から80年代初頭のヒットチャートを賑わした。小泉今日子や森進一、大瀧の永遠のアイドルである小林旭にも曲を提供し、大ヒットしていた。いきなりの登場にナイアガラファンは驚きとともに本当の大滝の実力を確認した。しかし発表される大滝作品は、往年の名曲のフレーズやフィル・スペクターに代表されるウォールサウンドに彩られた独特なものが多く、オールディーズ・ファンは妙に頷いてしまう作品が多かった。
CD開花の年である1981年にアナログレコーディング最後の『ロング・バケーション』(1981)を発表。デジタルに懐疑的だった大瀧の作品が日本初のCDになったことは奇妙な縁だ。世の中がデジタル・レコーディングに進む中、大瀧はあくまでもアナログにこだわり続け『イーチ・タイム』(1984)を発表し、そして長い冬眠に入ってしまう。デジタル・レコーディングは性に合わないという理由らしいが、天邪鬼な性格とオールディーズにこだわり続けた結果の行動だ。
僕が弾き語りで親から注意を受けた作品はナイアガラ・レーベルの『ナイアガラ・ムーン』(1975)や『ナイアガラ・カレンダー』(1978)だったが、ナイアガラ・レーベルを立ち上げる前にソロアルバムを発表している。『大瀧詠一』(1971)である。はっぴいえんど在籍中に発表したアルバムで、参加ミュージシャンもはっぴいえんどのアルバムそのものである。日本語のロックを提唱していた頃の作品で、日本語の語呂にあわせたリズムと無理やり乗せたメロディーはフォークソング全盛時には理解されない作品のひとつだった。大瀧は以前ラジオでこう語っていた。
「ファーストの頃ははっぴいえんどもやっていたから、自分の本当にやりたい音楽というより、日本語のロックにこだわりすぎていたかもしれない。だけど、ナイアガラを始めたときに思ったんだよ。妥協はいかんぞ、と。それで楽器のテンションを気にし始めて、例えばブラスで一番良く響くキーは何かとか、ストリングスはどう絡めれば効果的か、を考え始めちゃったんだよ。だから曲先行ばっかりだった。おまけにキーは決まっちゃってるから、ヴォーカルをそのキーに合わせる、なんてバカな現象に陥ったんだよ。でも関係なかったね。俺は自分の声も楽器のひとつとして認めていたから。だから、たまに声が出ないところもあったけど、いいんだよそれで。音楽としてみんなハイテンションだから・・・。」
そういう意味で言えば、ファーストははっぴいえんどが好きな人は聴きやすい。ナイアガラは大瀧のコアなファンしか聴けない作品もある、ということ。ちなみに僕はファースト派である。
親に怒鳴られたあの日、今思うと当たり前だったのだ。ありえないキーの高さの曲を鶏が絞め殺されるような声で歌っていたのだから。そんなものをおぼえたてのギターで弾き語りをしたのでは、近所迷惑もはなはだしいのだ。
2005年11月17日
花形