音楽雑文集


by yyra87gata

『GO HOME』  YMO

 
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 3人のミュージシャン。坂本龍一は、70年代半ばからセッションミュージシャンで実力をつけ、特にフュージョン畑で名をあげていた。細野晴臣は、はっぴいえんど、キャラメルママ、ソロと活動を続け、決してテクニシャンではないが、センスの良いベースを聴かせてくれた。高橋ユキヒロは、ブレッド&バターのバックバンド、サディスティック・ミカ・バンド、サディスティックスと活動をつづけ、ウェットなリズムが特徴で、別の顔としてファッションデザイナーとしても有名だ。

 みんなサングラスをかけ、もみ上げを剃り、人民服を着て、無表情で演奏している。汗の出ない音楽だ。ピコピコとチッチキ・チッチキ・チッチキという音が耳に残る。
YMOは僕達の生活に突然やってきた。
ドラム、ベース、ギター、キーボードがバンド編成の常識と考えていた僕には見た目の違和感があった。バンドにギターがいないという不可思議さ。キーボードが2人とドラムという構成に?マークがつきっぱなしだ。今でこそユニットなどというわかったようなわからない言葉が巷に溢れているが、当時はバンドのできそこないみたいな印象でしかなかった。
そしてその編成は、今では当たり前となっている“うちこみ”や“シークェンサー”と呼ばれる技術が、3人バンドを強調させていた。
技術の進歩により、音楽地図が変化した良い例かもしれない。
 
言葉(英語)がなかなか達者でないと世界レベルには到達しない日本の音楽。だから、ナベサダやヒノテルのようなジャズは海外に出やすいイメージがある。サディスティック・ミカ・バンドやイースト、フラワー・トラベリン・バンドが世界の門を叩いたが、中々どうしてうまくいかなかった。東洋のイロモノとして捉えられていたようだ。
ならば、YMOは・・・!
YMOはワールドツアーを2回行なっている。アメリカやヨーロッパのライヴハウスを中心に“東洋のクラフトワーク”と揶揄されながら・・・。
日本でも最初、イロモノで捉えられていたのだが、世界のトレンドはすでにテクノだったわけでその時流にしっかり乗っかった形となった。そして海外ツアーで評価を受けた。言葉もたいして使わないし・・・。
YMOのワールドツアーはYMOの意表をついた演奏とファッションに世界が驚いたが、同時にサポートメンバーも評価された。キーボードの矢野顕子の存在。ヴォーカルも担当した彼女のミュージシャンシップは、その後、海外からの共演リクエストが相次いだ。また、渡辺香津美のギターは度肝を抜いたようで、技術面でこんなにすごい日本人がいるのかというコメントがここかしこで聞かれた。また、コンピュータープログラマーの松武秀樹はどでかいスーパーコンピューターの山の前に立ち、YMOのサポートメンバーとして同じ舞台に立った。楽器を触らないミュージシャンが舞台に立つことも珍しかったし、僕はこれまた違和感だらけだった。
 
 テクノブームはYMOを先頭に、いろいろなバンドを排出した。プラスティックス、ヒカシュー、ジューシーフルーツなどが時代の顔に加わった。また、スネークマン・ショーなどの企画がヒットし、原宿のピテカントロプスは、時代の最先端を気どる輩の溜まり場になった。でもブームはそんなに長くは続かない。2年もすれば、彼らもどんどん新しい方向に進んでいくし、技術の発展とともに音楽形態も変化する。80年代に入り、ユーザーはテクノポップよりも生の音を求め始めた。軽い音楽とMTVの波に押される形でテクノは呑まれていった。プリンスやマドンナ、まだ色の黒かったマイケル・ジャクソンが画面で踊る。デュラン・デュランやフランキー、パワーステーションの重厚なサウンドが街中を埋めた。
YMOの散開ライブが武道館で開催されたのは1983年のことだ。テクノの終焉である。
時代の音として認識するのであれば、2枚組のCD『GO HOME』(1999)がおすすめ。細野晴臣監修のライナー付。デジタル・リマスターされ、コンプリート・ベストに相応しい曲構成。このアルバムでYMOの歴史・仕事が確認できる。
コンピュータープログラマーはいつしかマニュピュレーターと名前を変えた。
坂本龍一はテクノカットから白髪まじりのロングヘアーになっていた。

2006年2月15日
花形
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by yyra87gata | 2012-12-19 12:45 | アルバムレビュー | Comments(0)