音楽雑文集


by yyra87gata

ウォークマンがもたらした音楽環境

 SONYのウォークマンが登場した時、僕は中学生だった。外で音楽を聞くこと自体、非日常的。
家のステレオでヘッドホンを使用して聴いている感覚よりも、外で歩きながら聴くそれは同じ歌でも全然別物の音楽になることもその時知った。
僕はウォークマンでプログレを聴く時は必ず電車の一番前に陣取って、迫り来るレールと景色を歌にシンクロさせて独り悦に浸ることが好きだった。YESやRUSHなどの目まぐるしい展開が電車の速度に合う時、普段の何気ない景色がSFの世界に早変わりする。別にSF好きではないのだが、音はイマジネーションを想起させる。
また、下町のうらびれた商店街を歩く時、BBキングやロバート・ジョンソンなどを聴いていると、アメリカのダウンタウンやハーレムに来た感覚になる。昼間から道端で酒を飲んでクダをまいているおっさんにも人生があるのだな、改めて思ってしまう。映像と音がシンクロすると物語が誕生するのだ。

 ウォークマンがもたらした街の音楽文化は、それからいろいろ変革し、アイポッドやハードディスクなるモノに進化しているようだ。そんな中、1000曲入る携帯型のステレオがあると聴いた時、僕は、全然便利と思わなかった。かえって気持ち悪いと思った。音楽に支配されている気がしたのだ。そして、アーティストが一生懸命作った音楽を消費している気にもなった。
 
d0286848_12535317.jpg
 昔はカセットテープでA面B面を使い分けながら必死に録音し、何回も巻き戻しては繰り返し聴いた。MDになり頭出しの簡便さに驚き、ずいぶん手軽になったものだと妙に歳を取った気分にもなった。しかし、曲を簡単に飛ばすことができるメカニズムは飛ばされる作品を作ることになり、聞き手は音楽と真正面から対峙しなくなる。聞き手が曲を簡単に選べることは操作上便利かもしれないが、作り手にしてみれば、たまったものじゃない。昔は1枚のレコードを擦り切れるくらい何回も聴いたものだし、テープは伸びるまで聴いたのだ。だから、作り手も46分のアルバムに全神経を集中させ制作した。今のように74分ギリギリまで曲を突っ込むことは、捨て曲を作り手自らが作り出している気もする。
CDについても同じことが言える。レコードやテープは1度聴き始めたら、ある程度覚悟を決めてその作品と向かい合うのだ。何だか大げさになってきたが、僕は今でも音楽を聴く時は正直いって疲れる。疲れるくらい集中する。だから、車の中では音楽をあまり真剣に聞かないように、ラジオを流しているくらいだ。
 そういえばウォークマンを聴いていた頃は、通学時によく利用していたが、学校につく頃はヘトヘトになっていた。
 ウォークマンで聴いたアルバムで僕が一番感動した作品は、QUEENの『オペラ座の夜』(1975)
である。コンセプトアルバムの代表で、とにかくどの曲も濃い。A面1曲目の「デス・オン・トゥー・レッグス」から7曲目の「シーサイド・ランデヴー」までの流れるような構成、そしてB面1曲目「預言者の歌」から始まるアルバムの聴きどころは、「ボヘミアン・ラプソディ」で花開き、「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」でひれ伏してしまう。
 ウォークマンのステレオ効果で、頭の中にブライアンのギターがこだまする。「預言者の歌」や「ボヘミアン・ラプソディ」の重厚なコーラスが明確なステレオで割り振られ、臨場感が増す。
ウォークマンが登場する前は、ヘッドホンは、騒音対策的な役割が大きかったように思う。
しかし、ウォークマンの登場でヘッドホンが日常的になり、音楽の細部にわたる音が僕達の体に入り込んでくるようになった。QUEENやYESやRUSHの音楽を楽しむ場合、ヘッドホンで音に集中できる環境を作ることも一考である。

2006年3月2日
花形
[PR]
by yyra87gata | 2012-12-19 12:55 | 音楽コラム | Comments(0)