音楽雑文集


by yyra87gata

『スターダスト・ランデヴー LIVE AT 神宮球場』  井上陽水&安全地帯

 僕は大学時代に1年間だけ、テレビ局のADをしていたことがある。卒業した先輩の依頼で、今はお台場に行ってしまったテレビ局の番組を担当していた。新宿区河田町にあったそのテレビ局は《夜のヒットスタジオ》と《ミュージック・フェア》という人気音楽番組を持っていた。但し、僕が担当していた番組は日曜の朝6時くらいから放映しているスポンサーもつかない《テレビ美術館》という地味な番組だった。《夜ヒット》や《Mフェア》のスタジオを横目に絵画や彫刻の作品を淡々と撮り続けていた。アナウンサーは当時2年目だった阿部知代さん。約20年も前のことだ。
 さてスタジオを行き来する中で、やっぱり僕は《夜ヒット》や《Mフェア》のスタジオに足が向いてしまう。時間を見つけては見学していたので、腰からガムテやナグリをさげたウェストポーチを下げていると、たまに手伝わされることもあった。今ほど、警備も厳重ではなく、おおらかな時代だったのだ。
ある日の《Mフェア》収録日でのこと。その日のゲストは安全地帯。「ワインレッドの心」がヒットし、続けざまにヒット曲を飛ばしている時だった。ちなみに司会は長門裕之と南田洋子の2人ではなく、古手川祐子。
ゲネプロが終り、本番。矢萩渉の粘っこいギターが鳴り響き、「ワインレッドの心」が演奏された。その時、バンド演奏にミスがあり、演奏中にもかかわらず玉置浩二は歌うのをやめてしまった。それに気づくメンバー。演奏は中断。NGとなった。こんなことはよくある話で、すぐに“テイク2”ということになるのだが、玉置は何を思ったか、ディレクターの方に頭を深々と下げ、そのあとでバンドメンバーに怒鳴った。僕は遠くから見ていたからよく聞き取れなかったが、どうも気合を入れなおしている様子だった。
 
 安全地帯は北海道で結成された。地道なバンド活動が花開くまでには時間も結構かかった遅咲きのグループである。井上陽水のバックバンドを経験し、「ワインレッドの心」がヒットするまでにかなりの時間を要したと聞く。僕は高校時代に井上陽水のコンサートで彼らを目撃している。確かドラムは上原“ユカリ”裕が担当していたし、キーボードにも川嶋バナナがいたので純然たる安全地帯ではなかったのかもしれないが、パーカッションとコーラスを担当していた玉置はどこか居心地が悪そうだった。
 でもそんな彼らが、人気音楽番組で堂々と歌っているところを見ると歌の力ってすごいと単純に関心してしまった。
 1986年8月20・21日、神宮球場で安全地帯は、井上陽水とジョイントコンサートを行っている。今回はバックバンドとしてではなく、対バンである。その模様は『スターダスト・ランデヴー 井上陽水・安全地帯LIVE AT 神宮』(1986)で聴くことができる。
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 安全地帯の成功の裏には、タイアップがあげられる。もともと、実力派のバンドなので一発屋には終わらず、あるきっかけでヒットが生まれれば、それを持続できることを証明した。
「オン・マイ・ウェイ」(1982)ブリジストン、「ワインレッドの心」(1983)サントリー、「We`re alive」
(1983)ブリジストン、「恋の予感」(1984)JAL、「熱視線」(1985)オートラマ、「Yのテンション」(1984)ビクター、「想い出につつまれて」(1984)大阪ガス、「碧い瞳のエリス」(1985)・「プルシアンブルーの肖像」(1986)・「Friend」(1986)大王製紙、「じれったい」(1987)・「HongKong」(1987)・「I love youからはじめよう」(1988)・「黄昏はまだ遠く」(1991)太陽誘電、「月に濡れたふたり」(1988)・「微笑みに乾杯」(1988)・「I’m dandy」(1989)、「太陽」(1989)JT、と枚挙にいとまがない。この短期間でこれだけのタイアップは当時のテレビからいかに安全地帯が露出していたかがわかる。
 個人的に言えば、井上陽水とのタイアップが一番の成功だった気がするし、そのアルバムである神宮球場のライブはよい意味での師弟関係を聴くことができる。

2006年3月9日
花形
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by yyra87gata | 2012-12-19 13:03 | アルバムレビュー | Comments(0)