音楽雑文集


by yyra87gata

歌は世相をあらわすもの

  
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 歌は世相を表すものと言いますが、最近社会に対する不満を正面きって歌う人がいなくなりましたね。
1960年代、アメリカでは戦争や公民権運動でディランやニール・ヤングなどがギターを手に「そういう社会」を歌にしました。その火は日本にも届き、1960年代末から1970年代初頭には自作自演のプロテストソングが流行しました。
 当時の日本においては、安保闘争やベトナム戦争、公害問題、高度成長期駆け抜けた後のインフレなどかなり社会は不安定な時期に直面しており、学生運動が盛んに行なわれていた頃です。
さて、現在に目を向けると学生運動こそ無いものの、情勢はその頃とあまり変わっていない気がします。
現在では、憲法改正や原発問題、災害等。格差社会からの失業、将来不安などで若者が希望を持てない社会になり、親へのパラサイト、ニートという逃げ場で暮らす若者・・・。
 加えて、大人たちはバブルが弾けても生活水準を下げられない現実に四苦八苦の生活を余儀なくされている。アホな政治家や役人に振り回され続けたここ30年なのです。当然年金なども期待できず、若者に限らず一般市民は不安な将来を抱えているのです。そして、なによりも我々大人たちの大罪は「ゆとり世代」を作ってしまったことかもしれません。もちろん「ゆとり世代」という考え方を出すこと自体は悪いことでは無いのかも知れませんが、誰もそれを検証することが考えられなかったことが罪なのです。文化的な生活を重視し、詰め込み主義の勉強からしっかりとモノを考えることが出来る人間の創造・・・。ぜんぜん具体的でないです。一方面だけの捉え方しかしていないので、検証することすら考えていない。詰め込み式ではなく自ら考えることができる教育という考え方は立派でも、その先が見えていないなら政権が変われば全て終了という浅い改革となってしまうし現にそうなったのです。
この「ゆとり世代」の発案者は、教育思想を変えるということは国を変えてしまうに等しいことと理解していたのでしょうか。一番の被害者は誰なのかと言うこと私たちは認識しなければいけません。

 歌は世相を表すものと言いますが、70年代初頭の攻撃的な歌は当時の若者のパワーを感じることが出来ます。それに比べて今の歌を眺めていると、ヒットチャートはジャニーズとAKBに浸っているという状況。腹の底から社会を歌う人などは皆無です。
所謂金にならない音楽(メッセージ色の強い歌)は、誰も出したがらないんでしょうね。
(70年代初頭はメッセージソングやプロテストソングが商売になると思って出していた人なんていなかったでしょうし・・・、サブカルチャーの世界ですからね・・・)
 若者の心情を吐露した尾崎豊や原発反対を替え歌で表現した清志郎は1980年代末。ここで日本はバブル経済を迎え、そういうメッセージ色の濃い歌はうやむやになり聞こえなくなっていきました。みんなバブル景気に浮かれていたのでしょう。そしてバブルは弾け、みんなで肯定しあい、傷口を舐めあい、片や勝ち組と称した一部の人間はITと株とFXでアブク銭を稼ぎ、六本木ヒルズでシャンパンを飲み干します。
私はそれまでの詩的表現が絶滅危惧種のような扱いになり中々世に出て来なくなったターニングポイントとなったのは、ドリカムが出てきた時、ちょうどバブル期~バブル崩壊時期辺りにあると思います。
当時私は日本の音楽に危機感を覚えていました。それは、その頃の歌がやたらと会話調の歌詞が多くなったと感じたからです。ドリカムもユーミンの台頭ということで吉田美和の伸びやかなヴォーカルに気を取られておりましたが、詩の世界があまりにも日常すぎてずいぶん日本のポップスも変わったものだと思ったものでした。
また同時期に竹の子のように一斉に出てきた「どんなときも」「愛は勝つ」「それが大事」「世界に一つだけの花」などの肯定ソングをみんなで歌う姿に恐怖すら感じました。
 そして、私は、妙な歌詞の真打である森高千里が歌う歌詞にとてつもない違和感を覚えたのです。詩的表現をまったく感じることができない森高の歌。
「夏休みには二人してサイパンへ行ったわ」とか「うちにかぎってそんなことはないはず」とか、もう歌詞という概念が無いように感じます。日記をそのまま歌にしてしまった感じでしょうか。
 詩的表現とは感性と表現力の創造物で、聴いている様々なリスナーがそれぞれの感じ方を持つことができる総合芸術だと思います。つまり、森高以降の詞はただの感想や描写に過ぎないのであります。
しかし、森高千里人気は一大ブームとなり、影響を受けたアマチュアミュージシャンはそんなの歌にするなよ、といった内容の歌をライブハウスで、しかもカラオケで歌うという珍妙なシーンが良く見られたのも1990年代でありました。

 歌は世相を表すものと言いますが、2000年を迎え小泉内閣は規制緩和という名の下に様々な改革を起こしました。しかしその労働環境の規制緩和から格差社会を生み、有効求人倍率の低下。ようやく若者が叫びだしたのがこの頃からかもしれません。ラップという手法で心情を訴える若者たち。言葉の妙を上手く表現する若者。
 しかし、それはあくまでもラップであり、誰もが口ずさめ、長く歌い継がれる歌ではありません。
メッセージソングやプロテストソングを流行歌として捉えることは間違いかも知れませんが、少なくともラップは特殊過ぎます。
しかし、この頃からラップとも取れない早口言葉のようなビートバンドが溢れ始めました。
長ったらしい歌詞。しかも言葉遊びのように言葉を羅列し、簡単な事象をわざと回りくどくしながら日常生活の言葉で綴るのです。とにかく歌詞が多い。Aメロはお経のように畳み込むような歌詞。サビの部分でギャーッて叫ぶ。そして再び字数多い歌詞が16分音符に踊ります。これが現代の詩的表現なのでしょうか。ラップにメロディが乗っただけなのでしょうか。
また一方で気が抜けた炭酸飲料のような歌い方をするシンガーが最近増えました。流行りなのでしょう。ウィスパーボイスかなんか知りませんが、腹から声が出てないというか、朝飯食ってねぇだろうって突っ込みたくなる声で歌う人のことです。しかもそういうヴォーカルは、だいたいがどうでもいいような日常を歌い、ラブソングであれば「君を守るよ」とか「感謝する」とかの決まり文句を歌っています。これは件の「草食男子」「ゆとり世代」というトレンドから来るものでしょうか。でもこうやって控えめに歌う人たちってSNSで育っているから承認意識だけは人一倍強い。なんだか面倒くさいです。

 歌は世相を表すものと言いますが。
なんでも手元の携帯電話で事足りてしまう世の中。社会人が辞表をメールで送る常識。
合理的に考えているようでそれは非常に無礼なことが常識化していく今後。
歌だけはそんな世相に惑わされず作り手の信念が伝わる芸術であってほしいです。
人から金を取っているならば、鼻歌みたいな歌を聞かせるなよ、と言うことです。
 
 最近、アイスのガリガリ君が10円値上げしました。その謝罪を込めたテレビCMに高田渡の「値上げ」が使われていました。独特の朴訥な歌いまわしに説得力を感じ、これこそ今に通じるメッセージソングと合点いたしました。
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2016年6月8日
花形
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by yyra87gata | 2016-06-08 18:03 | 音楽コラム | Comments(0)