音楽雑文集


by yyra87gata
d0286848_10493076.jpg

 アメリカと北朝鮮の代表2人が核ミサイルのボタンに指を乗せていた頃、お花見で盛り上がる日本では、一部のマスコミだけに緊張が走ったが、概ねどのテレビ局も普段どおりのバラエティ番組の中で荒唐無稽な笑いを提供していた。
そんな2017年4月14日の午後、ソロ公演のため来日していたイアン・マッカロク(エコー&ザ・バニーメン)はマネージャーと2人、無許可で日本を出国してしまった。招聘元のスタッフはもちろん、英国から連れてきていたスタッフにも話をせずにである。
戦争開始を危惧し身の危険を感じての行動なのだろうが、スタッフはもとよりファンに対する礼儀もあったものではない。
しかし、この不届きな行動・・・決して褒められたものでは無いが、果たして・・・。
核戦争の危機感をあまりにも感じ取れていない日本。
何をしでかすか分からない北朝鮮の代表と、つい1週間前に中国主席との会談中にミサイルをシリアに向けて砲撃したアメリカの代表の手元には常に核ミサイル発射装置があり、アメリカNBCは4月15日をXデイとして報道していた。
そのような報道が飛び交う中、北朝鮮とアメリカの戦場になると予想される日本の緊張感の無さといったら。
いたずらに報道を煽る必要はないが、イアン・マッカロクの取った行動を非難することができない気もする。
 
 さて、このようなマイナスな書き出しで始めてしまったが、イアン・マッカロク率いるエコー&ザ・バニーメン。
1970年代後半に結成され1980年代後半まで一線で活躍し、後世のバンドへの影響力は非常に高いものがある。
ジャンル的にはネオ・サイケやオルタナティブ・ロックと称され、コールドプレイやニルヴァーナへの影響力は多大だと言われている。
バンドとしては、アメリカでの商業的成功は成し得なかったが、世界中に根強いファンを持ち、メンバーの死亡などで一度は解散状態に陥ったが今でもマイペースに活動を続けている。

 私が彼らを最初に聞いたのは1983年頃だったか。
部屋でFENを流していたら、聞き覚えのあるヴォーカルが妙な唄を歌っていると思った。
「ドアーズにこんな唄があったか」という第一印象。「モリソンは死んでいるのだから、なにか未発表音源でも見つかったのか・・・」
それがアルバム『ポーキュパイン』(1983)との出会い。エコー&ザ・バニーメンのヴォーカルであるイアン・マッカロクは、ドアーズのジム・モリソンと間違えるくらい曲調や声のトーンが似ていたのだ。
そして、続けてイギリスのどこかで行なわれたライブ音源が放送されたのだが、テレヴィジョンの「フリクション」をトム・ヴァーラインのヴォーカルのように不安定に歌っていたのだ。このヴォーカルは只者では無いと思った。
 当時アメリカではマイケル・ジャクソンの『スリラー』(1982)をはじめ、ケニー・ロギンス、ジャーニー、ホール&オーツなどがメガヒットを連発。洋楽テレビ音楽番組の「ベストヒットUSA」は華やかなラインアップで彩られていた。
そんな弛緩した私の頭の中に入り込んできたエコー&ザ・バニーメンである。

 私はもともとニューヨークパンクが好きである。ニューヨークパンクはパティ・スミスしかりベルベット・アンダーグランドしかり、唄という作品で人間そのものを表現し、それが悲痛なロックであり静寂なバラッドであり、ポエトリー・リーディングであり、音楽表現の自由さが無限大にあるところに惹かれていた。
そんな中でイギリス、しかもリバプール出身のエコー&ザ・バニーメンの演奏はとても異質に感じられたのだ。
当時のイギリスのニューウェーブの筆頭はポリスであり、もう一つの流れとしてパンクバンドであったザ・ジャムから派生したスタイルカウンシルが人気を二分していたが、エコー&ザ・バニーメンからはイギリスの匂いよりニューヨークの匂いがした。モッドな雰囲気も無かったし・・・。
そして翌年、アルバム『オーシャン・レイン』(1984)が発表され、その中の「キリング・ムーン」は彼らの代表曲となった。
この「キリング・ムーン」・・・切ない男のラブソングだ。

 「蒼い月の下で出会い、一瞬のうちに私を魅了した貴方。
  貴方は残酷にも私にキスをした。魔法のような世界に私をいざなう。
  そして宝石をちりばめた空にキリング・ムーンが昇ってくる。
  運命・・・意志ではどうにもならないもの・・・どんなことが起きようと私は待つ
  貴方が私に身を委ねるまで・・・」

 「キリング・ムーン」に魅了され、何度も聞き込んでいたが、後に発表された12インチの「オール・ナイト・ヴァージョン」がこれまた特筆ものなのだ。
重厚なストリングスとVOXのビザールギターのチープな音のコラボレーション。
イントロを聴くだけで神経がどんどん覚醒されていく。9分にも及ぶ超大作。白眉のパフォーマンスである。
そして、この「オール・ナイト・ヴァージョン」を収録したアルバムが『まぼろしの世界(12inch+LIVE)』(1988)である(原題「NEW LIVE AND RARE))。
1988年の来日時に編集盤として制作された企画盤で、タイトル曲の「まぼろしの世界」は言わずと知れたドアーズの名曲である。イアンのヴォーカルは、ジム・モリソンが憑依した如く鬼気迫るヴォーカルとなっており、しかもこの曲のプロデュースはドアーズのキーボーディストであるレイ・マンザレクが務めているという懲りよう。
他にも、ビートルズやストーンズなどのロックの名曲をカバー。
特筆は前述したテレヴィジョンの「フリクション」まで収録されていること。これは嬉しい1曲である。
41分と最近のアルバムと比べると短い収録時間のアルバムだが、おなかいっぱいになること間違い無しである。

 逃げるように帰ってしまったイアン・マッカロクだが、もう再び日本に来ることは無いだろう。
とりあえず現段階ではミサイルは飛んでいないが、緊張は続いている。
 
2017年04月17日
花形
[PR]
# by yyra87gata | 2017-04-17 10:51 | アルバムレビュー | Comments(0)

清志郎のSF

 
d0286848_11382568.jpg

 SFって苦手なんだよ。夢が無い人と思われるかもしれないけど。SFって科学的な空想を模索しながら架空の世界を構築してるわけだけど、なんだかよくわからないんだよね。
アタシのSFなんて小学生の頃に見たウルトラセブンで止まってるし(今、再放送してて、たまに見ることがあるんだが、あれは人間ドラマだね。子供の見るドラマでは無いよ)、宇宙戦艦ヤマトだって御伽噺の世界だわ。だいたい空を飛ぶのに空気抵抗がハンパ無い船の格好という荒唐無稽さに当時の小学生の頃のアタシは苦笑してたから。
 だから同時期に流行ってたスターウォーズなんていまだに見たいと思わないし、みんながその話題をしていても「オイラは放っておいてくれ」ってな感じ。
超現実主義だから宇宙人がやってきてドンパチする映画なんて、途中で飽きちゃうから見ないようにしてるもん。だいたいSF映画を撮り始めてから何十年経ったかわかんないけど、相変わらず宇宙人って人間の姿をしていたり、蛸のお化けみたいだったりで、想像力が乏しすぎやしないかと思うわ。
ま、こういう文を書いているとなんてつまらないヤツだと思われるかもれないが・・・、音楽についてのSFはちょっと敏感になるのね。
 
 アタシの知ってるSFの音楽って2つあんの。
まずひとつは、1975年、リチャード・オブライエン作のロック・ミュージカル『ロッキー・ホラー・ショー』の代表曲「Science Fiction, Double Feature」。この曲は往年のSF作品の代表的な事柄を書き並べた不思議な曲。おどろおどろしいロック・ミュージカルの素敵な序章なのよ。
往年のSFへのオマージュであり、ポップ&サブカルチャーな作品として1970年代当時の社会規範、道徳観、通念をぶち壊しながら表現した。
「様々な不思議な世界がありますよ~これから2本立て(映画館)で始まりまっせ~」って感じ。ま、往年のSF作品を知っていたらもう少し楽しめたかもしれないが、アタシはそんなものよりカルチャーパワーの方に重きを置いてしまうので良しとするのだ。いいの、いいの。
 で、もうひとつのSF。
1986年3月にシングルで発表された「忌野清志郎&ジョニー・ルイス&チャー」の「SF」。
「県立地球防衛軍」というアニメのテーマソングを何故かこの面子でやっている。で、アタシは何故か1985年の11月と12月の2回、こいつらを観ているのだ。
 1985年11月24日、一ツ橋大学文化祭(小平祭)、兼松講堂。アタシの目当ては、泉谷しげる。BOOWYは「暴威」から「BOOWY」に名前を変えてメジャーデビューしたばかりだったが、6人から4人になってビートバンドっぽくなっているという情報。でも、あまり気に留めていなかった。布袋がギターを弾いているから聴いていたけど、どうしても氷室のヴォーカルが「ヒデキ感激!」に聴こえてしまって・・・ま、いいか。そんで、ゲストに忌野清志郎とクレジットされていたが、きっと泉谷のステージに乱入して2曲くらい歌って毒づいて帰っていくのだろうな、と思っていたからこれもあんまり期待していなかった。
 当時の泉谷のバックは最強で、ギターは布袋寅泰、ベースは吉田健、ドラムは友田真吾(SHI-SHONEN)。185センチクラスの身長のギタリストとベーシストに挟まれた泉谷は、捕まった宇宙人みたいだったけど、パワフルな演奏と今までに聴いたことも無い布袋の宇宙的な空間の音作りが泉谷のメッセージにフィットして新しい音の塊になっていたのだ。
 で、寒い中、彼女と2人で開場を待ってたの。あ、彼女って今のうちの家人だけど、当時から泉谷が好きな変な女子大生で、みんながサザンとかユーミンとか騒ぎ始めると不機嫌になる人なのね。今でもそうだけど、大っ嫌いみたい。だからうちの娘たちもサザンとか全然聴かないし・・・同世代の中で浮くって言ってた。あ、話が反れたね。
で、とにかく寒くて震えながら待ってたのよ。そしたら、文化祭(小平祭)の実行委員みたいな大学生がメガホン持って出てきて、「BOOWYは来れなくなりました。でも泉谷しげるはあります。BOOWYご希望のお客様はチケットの払い戻しします!」って。
「なんだよ、BOOWYが来れないなら布袋も来れねぇのか?泉谷の弾き語りなんて観たくねぇな~」と思い、アナウンスしていたそいつに聞いたの「泉谷ってちゃんとバンドでやりますか?」
「あ~はい。バンドでリハーサルしてました。BOOWYの人も来てましたよ」だって。
「じゃ、観るべぇか」みたいな感じ。
 で、開場。
程なくして・・・いきなりJL&Cが出てきたのね。もうクリビツテンギョー。
「おっ!これは得した!やった~!」なんて言って彼女と小躍りしたのよ。そしたら例の地を這うような声と共に清志郎も出てきたわけ。
「イエ~~~!オマエら!よーく聴け~!泉谷なんか聴かなくていい!俺を聴いて帰れ~!」
なんだこの挨拶。
 驚きましたよ。大好きなJL&Cと清志郎が一緒にやる。
演奏曲はRCのレパートリーからカップスまで(ルイズルイスに敬意を表して)。で、新曲の「SF」とフォークソングみたいな「かくれんぼ」という歌も披露したの。
なんで、こんなバンドが出来たんだろうってみんなが首を傾げていたら清志郎は
「俺のな、可愛い可愛い、ミニちゃんのタイヤが減ってきて・・・車検も通さなくてはならなくて・・・で、しょうがないからジョニー・ルイス&チャーにお願いしてシングルを作ることになった!だからレコードが出たら必ずみんなは買うように!」って言ってた。
いや~演奏はスリリングだし、清志郎のヴォーカルは圧倒的だし、ささっと50分くらいやって帰っちゃったけど、インパクトはもの凄かったね。
もちろんその後に出てきた泉谷も凄く良かったけどね。
リハの詰め方は置いておいて、演奏のインパクトでは清志郎、JL&Cだったね。
d0286848_113995.jpg

 時は1ヵ月後。
武道館でイベントがあって、チケットが只で手に入ったから当時のバンドリーダーと2人で行ったのね。
資生堂ギャッツビーという商品のお披露目イベントだったと思う。「ギャッツビーライブIN 武道館The Day of Rock 」っていうイベントだったから。
出演者はBOOWY、シーナ&ロケット、ARB、そして清志郎、JL&C。
そこで感じたこと。
清志郎のヴォーカルの凄さだったの。
当時の武道館って今ほど音も良くないし、ぐるぐる回ってしまうからアリーナの後ろの方だとはっきりと歌詞が聞き取れなかったりしたんだよ。で、案の定BOOWYの氷室は何言ってるかわかんないし、シーナのヴォーカルも浮遊してた。石橋稜のヴォーカルはバリトンなんだけど、逆にコモッてしまって通らないわけ。
バンドリーダーと「何言ってるかわかんないね」なんて話をしながら帰ろうかと思っていたらようやく清志郎たちが出てきたわけ。相変わらずの高圧的な態度で。笑っちゃうんだけど。
で、いきなり「イエ~~~!」って叫んだのよ。
もう、アタシとリーダーはひっくり返りましたよ。
すげ~。ちゃんと声が通っている・・・。
バンドの音もしっかり筋の通った音。チャカポコしてないわけ。チャーなんて歪みものとワウくらいしか使ってないんじゃないかね。とにかくシンプルな音だったし、マーちゃんのベースもゴリゴリしてたから(チューンだったかね)、とにかく耳障りなわけ。で、清志郎のヴォーカルも耳障りなわけ。
で、あの巨大な風呂場のような武道館に入るとしっかりクリアに聞こえたわけよ。
いや~参ったね。もう。
 でも、そん時のライブでは「SF」は演奏してないんだよ。まったく商売っ気の無い人たちで、自由だわ。そういえば「自由」って曲が最初の曲だったかね・・・。
だっていきなり出てきて「俺は付き合いにくいぜー!誰の言うこともきかね~!」って叫んじゃうんだもん。
笑うしかないね。
d0286848_11401096.jpg

 しかし、この頃のライブってFMとかでオンエアしていて、エアチェックしたから手元に音源はあるんだけど、「SF」とか「かくれんぼ」はCD化されないのかね。切望するわ。

2017/4/4
花形
[PR]
# by yyra87gata | 2017-04-04 11:41 | コンサートレビュー | Comments(0)
 
d0286848_18454844.jpg

 ローザ・ルクセンブルク。ポーランド出身、ドイツで活躍したマルクス主義の政治理論家で、革命家でもある。1918年のドイツ革命期において機関紙「赤旗」を発刊し皇帝時代に言われ無き罪で捕まった政治犯の特赦や死刑の廃止を訴え続けた。その後、仲間とドイツ共産党を作り上げたが、極右勢力であり、後にナチスに変革する団体であるドイツ義勇団に逮捕され、惨殺されている。
彼女は革命半ばにして命は潰えることになるが、最後まで自由を訴え続けた。

 1984年、NHK「ヤング・ミュージック・フェスティバル」に登場した奇抜な格好の4人。テロップには「ローザ・ルクセンブルグ」とあり、「ルクセンブルク」では無いのかと思ったのもつかの間、ファンキーな音がブラウン管から解き放たれた。
土着民の歌う労働歌にも聞こえるし、交尾のために雄が雌を挑発するような獣のようにも聞こえる。しかし、歌っている内容は中国人のことを歌っている・・・。
こんなインパクトはRCサクセションの清志郎が化粧して「愛しあってるか~い!」って久保講堂で叫んだ時に等しかった。
 その光景は音と共にただただ奇抜に映り、私の脳裏に日光写真のように焼きついた。
1986年に2枚のフルオリジナルアルバムが出た。2月にファーストアルバム『ぷりぷり』、12月にセカンドアルバムの『ROSA LUXEMBURG II』を発表。そして、翌年の8月にはあっさり解散してしまった。
ヴォーカルの久富隆司(以下どんと)とギターの玉城宏志の音楽性の違いが原因と言われているが、そんなことは本人だけが知っていることだからここでは語らない。
どんとの描く世界は抽象的の中にピンポイントで言いたいことを鋭く突くという特徴がある。ちょっと聴いているだけでは仮の歌詞なのではと思うほど意味不明な言葉が並ぶこともある。リズムに旋律をつけているような自由な発想。きっとそんなところを矢野顕子や細野晴臣は高評価し、彼らをプロの世界にいざなったのだ。
そして、どんとの自由奔放なキャラと玉城のハードロックギターがケンカをしながら音を紡いでいるところに彼らの魅力があった。そのバンドを見過ごしたこと・・・解散を聞いた時の私の落胆はとても大きかった。ライブに中々行けず、もっぱら彼らの2枚のアルバムを聴いて過ごす日々が続いた後でのいきなりの解散宣言。その解散は「宝島」で知ったのかそれとも「ロッキング・オン」だったか・・・。

 解散後のどんとの動きは早かった。その年の11月には新バンド「ボ・ガンボス」でデビューライブを披露している。ガンボとはアメリカ南部のごった煮スープのことで、どんとの様々な音楽の具が詰まったごった煮スープのような個性溢れるバンドとでもいうのか・・・。
 その後、彼らを日比谷野音で観る機会があったが、そこにはローザ・ルクセンブルグの持つ緊張感は無かった。どんとの自由な世界が繰り広げられ、観客一体となったある種コミューンのような雰囲気に包まれていた。
 私がローザに衝撃をくらったあの時から時間も経ち、環境も考え方も変わった中で欲している音はどんどん変化していく。だからそのライブで私は少々戸惑ったことは事実だが、受け入れるか受け入れないかは自分で決めればいい話。
 ボ・ガンボスは成功を収め2000年1月にどんとが急逝するまで独自の道を走り続けた。

 約30年前のローザ・ルクセンブルグをターンテーブルに乗せると、あのNHKの衝撃が思い出される。オリジナリティとテクニックが融合したすごいアマチュアだった。
私は忘れることはないだろう。
音楽という思想は、人それぞれの中に存在する。もちろんローザ・ルクセンブルグもボ・ガンボスも・・・。
ローザ・ルクセンブルクの有名な言葉
「Freiheit ist immer die Freiheit des Andersdenkenden.(自由とはつねに、思想を異にする者のための自由である)」
 
 この思想がローザ・ルクセンブルグにもボ・ガンボスにも息づいているに違いない。
d0286848_18465264.jpg


2017/03/29
花形
[PR]
# by yyra87gata | 2017-03-29 18:47 | 音楽コラム | Comments(0)
 
d0286848_1965141.jpg

 
 我が家に本格的にビデオデッキが投入されたのは1985年の4月でした。本格的にと言う言葉を使ったのは以前1度だけモニターでSONYベータマックスが2週間ばかり置かれたことがあり、お袋が「こんな高いもの買えない」といって返却してしまった(この話は 「キャンディーズが我が家にやってきた」 http://hanatti.exblog.jp/17460755/ に詳しい)からです。
さて、価格もこなれ、ビデオデッキが一般家庭に普及すると同時に、ちまたではレンタルビデオ店が流行り始めました。
 私は大学に入学し、慣れないエレキギターなるものを任された時でありましたので、とにかくギタリストのビデオでも見て勉強しようとせっせとレンタルビデオ店に通い始めたのであります。
そして、やっぱりみんなが影響を受けたというエリック・クラプトンの弾き方が一番しっくりくるんだろうな、などと思いながら何本か確認する毎日でありました。
ある日いつものようにビデオを借りてきて調子よくデッキに放り込みました。
それは、レイドバックしたサウンドを勉強でもしようかと思い「エリック・クラプトン1977 On whistle Test」という音楽番組での生ライブを収録したもの。
目を凝らして観ていたその瞬間、画面からは聞いたことも無いような流れるフレーズと滑らかなトーンが溢れてきます。
ふむふむ、ブルースに魂を捧げ、ドラッグに溺れながらも復活を遂げた男の行き着く先にはこのような穏やかな世界がひろがっているのかと思いつつ画面に見入っていました。
カメラはその男の背後から狙います。
うん?セミアコ弾いている。意外だね、この頃だったらクラプトンはブラッキーかブラウニーというストラトキャスターを使用していたと思っていたから・・・ね。
カメラが回りこんだその瞬間「?」マークが私の頭に飛び散りました。
「誰だ、これ?」
クラプトンと信じて観ていた映像が別人になっているのです。
慌てて、デッキからビデオテープを取り出しました。
背表紙に「Carlton Live」とあります。
これ、ビデオ屋がクラプトンとカールトンのスペルを読み間違えて貸し出し用のケースに収めたんだ、と認識。確かにClaptonとCarlton、似ていると言えば似ています。
やられた!と思いましたが、まぁラリー・カールトンのレコードも持っていたし、いっちょ観てみるかとビデオを再生しました。
まぁ、それはそれは難しいフレーズをいとも簡単に弾いていらっしゃってエレキギター初心者の私にしてみたら異次元のプレイヤーであります。
ロックギタリストのように音を歪ませ両手を使ってせっせと16分音符や32分音符の応酬というわけでもなく、時にメロディアスに時にエモーショナルなプレイをギブソンES-335から奏でているのであります。
弾けはしないけど心地良い。そんなフレーズの応酬です。

 ラリー・カールトンはクルセイダーズやフォープレイ、ジョニ・ミッチェルやスティーリー・ダンなどのセッションプレイヤーとして有名ですが、私が中学の頃はアルバム『Larry Carlton』邦題「夜の彷徨」(1977)が大ヒットしており、私もアルバムは購入しておりました。
私はその頃エレクトーンを習っておりましたので、アルバムの中の超有名曲「Room335」を課題曲に取り入れ、練習しておりましたのです。
 あの頃の彼のサウンドはジャズとポップが融合し始めたクロスオーバーというジャンルに差し掛かっており、コテコテのジャズギタリストという印象よりもイージーリスニングに近い感じでした。また同時期にリー・リトナーも『The Captain's Journey』(1978)を発表。このアルバムも大ヒットしました。
そうです、あの頃はラリー・カールトンとリー・リトナーが一大ブームになっていたのです。
リー・リトナーのアルバムの方はラテンっぽいカッティングやフレーズが多く、エレクトーンには合わせ辛いと思いあまり聴かなかったのですが、ラリー・カールトンは本人のリーダーアルバム以外にも様々なミュージシャンとのセッションが多かったので耳に残っていました。
しかし、クラプトンと思って聴いていたらいきなりカールトンが出てきた時はびっくりしました。思い込んで聴いていればいるほどそのギャップに驚かされます。

 私が良く行くリハーサルスタジオのロビーにはライブ映像を流すモニターがあります。
そこではロックからフュージョン、ジャズに至るまで様々な音楽が映し出されています。
 ある日のモニター。
随分上手に「Room335」を弾く細身の男が映し出されました。頭はスキンヘッドで遠くから見るとマッチ棒がギターを弾いているみたい。でも、流れ出る音は伸びやかなサウンドです。
一人前にヴィンテージのギブソンES-335を弾いているじゃないですか。
最近の素人は凄いね、なんて思っていたら・・・本人でした!
いつからあんなに禿げ上がったんだろう。
私の知っているカールトンはサーファーのようなレイヤードのロングヘアーだったのに!
またしても予期せぬ出会いにびっくりした次第です。カールトンよりもリー・リトナーの方が先に禿げ上がると思っていただけにびっくりデス。
思いこんで観たり聴いたりしていると、その裏切られ方が半端でないという例をカールトンから学びました。
d0286848_1974845.jpg


2017/3/14
花形
[PR]
# by yyra87gata | 2017-03-14 19:08 | 音楽コラム | Comments(0)
 
d0286848_17271731.jpg

 はっぴいえんどのサードアルバム『HAPPY END』(1973)はロスアンゼルスのサンセット・サウンド・レコーダースで録音された。
メンバー間では解散を意識し、バンド活動を継続することは不可能に近い状態の中、大瀧詠一がアメリカに行く話に乗る形でレコード制作へと展開していったと言う。
しかし、燃え尽き症候群状態のバンドにコミュニケーションは薄く、レコーディングというフィルターを通してアメリカの「16チャンネルのスタジオ視察体験旅行」の様相を呈していた。
 このレコーディングにおいて、最新の機器と本場のレコーディング事情を勉強しながらアルバムを制作することが出来たことは4人の大きな財産になったし、なによりもこのアルバム制作が無ければ鈴木茂の『BAND WAGON』(1975)の誕生は無かったと鈴木本人も語っている。ひょんなところから出た話が実は日本の軽音楽に相当影響を与えることになったのだ。

 そして、このレコーディングではその後の日本のロック市場に大きな足跡を残したメンバーが参加した。
リトルフィートのメンバーであるギターのローウェル・ジョージとピアノのビル・ペインである。
 リトルフィートは西海岸を代表するロックバンドであったが、イーグルスやザ・ドゥービーブラザースと比較すると商業的にはそれほど成功していない。もちろん、日本でも浸透度は低い。しかし、日本人ミュージシャンのセッションとなるとそれは逆転する。
 彼らは、この『HAPPY END』を皮切りに鈴木茂『BAND WAGON』、矢野顕子『JAPANESE GIRL』(1976)に大きく携わり、これらのアルバムがその後の日本の軽音楽に与えた影響から鑑みても非常に重要な水先案内人となった。もちろん、リトルフィートの面々はそんな重要な役割を担っているなどと思ってもいなかったろうし、当時は「遠く西の島から黄色い人たちが観光ついでにレコードを作りに来た」くらいにしか思っていなかったと思う。
 1972年当時のアメリカにおける日本の存在など、「侍」や「芸者」「ハラキリ」という認識の方が強かっただろうし、経済的にも1ドル360円固定の時代である。沖縄も返還されていないし、容易に日本人がアメリカ本土を訪れることも無かったはずで、実は見えないところでまだ戦争は終わっていなかった時代なのだ。そんな時に長髪のひょろひょろとしたヒッピーのような若者がやってきた・・・。しかも仏頂面で、なんでもロックを作ると言い出した。何を言っているんだこのJAPは?
しかも、サンセット・サウンド・レコーダースはザ・ビーチボーイズの『ペットサウンズ』(1966)やバッファロースプリングフィールドのレコーディングを行なったところで、有名なスタジオでもある。そんな伝統あるスタジオで日本人がレコーディング?
現地のスタッフも多分興味本位で集まった(集められた)のだと思料する。
 
 『HAPPY END』制作については、いろいろな文献が出ているので割愛するが、ローウェル・ジョージというギタリストが与えた影響というものに触れてみたい。
鈴木茂はロックギターの小僧。高校時代からベンチャーズからブリティシュロックやブルースまでドライブしたサウンドで弾きまくっていた。そんな噂は東京中に知れ渡り、大学生だった細野晴臣の目に止まった。鈴木茂は高校時代の盟友、林立夫と一緒に細野とバンドを組みアートロックやサイケデリックロックの演奏を楽しんだ。そして、時が経ち、はっぴいえんどのギタリストとして迎えられロスアンゼルスのスタジオで録音するまでになっていた。
 その鈴木茂が慣れないスタジオで緊張しながらリハーサルを繰り返していた。ギターアンサンブルを行なうためのアレンジを施す。当初はっぴいえんど側はレコーディング・コーディネーターにライ・クーダーをオーダーしていたが、そのオーダーは反故にされ、代わりに大柄で無精髭をはやした男がスタジオに来ていた。
リトルフィートのローウェル・ジョージである。
鈴木茂はスタジオでギターを弾きまくっている。すると、のそのそとその男は鈴木茂の前に来て、目の前にどっかりと座り込んだ。そして
「おまえ、すんげ~上手いなぁ。どうやって弾いてんだ?」といったそうだ。
鈴木茂が最初ぶん殴られるかと思ってびびったらしいが、褒められていることに気付き、素直に喜んでしまい、それから交流が始まったという。これだ。このジョージの言葉が日本に新しいアメリカの風を呼び込んだともいえるのだ。鈴木茂とローウェル・ジョージは情報を交換し合い、アンサンブルを固めていったと言う。
そして、鈴木茂のスライド奏法にはローウェル・ジョージが見える瞬間があったり、コンプレッサーの直列2個繋ぎなどいろいろな面で影響を受けたのではないかと思われる。
 
 ブリティッシュ・ブルースを弾きまくっていた少年は、5年もの間にアーシーで粘っこいフレーズをスライドで弾きこなせるまでになっていた。そしてリトルフィートとの交友が後のアルバム制作へと繋がっていくのだ。
だから『HAPPY END』制作時にもし当初の予定通りライ・クーダーが来ていたら、日本の軽音楽の歴史は別の方向に変わっていたかもしれない。

 リトルフィートは良くも悪くもローウェル・ジョージのバンドである。メンバー交代も起きるので、それまでの音楽性がガラリと変わってしまうこともある。オリジナルメンバーで構成された2枚目までとロイ・エストラーダの代わりにケニー・グラッドニー、ポール・バレア、サム・クレイトンが加入し名盤と謳われるサードアルバム『Dixie Chicken』(1973)を発表した頃とテイストは変わっている。その後ジョージのドラッグが重度となり、リハーサルやステージに支障をきたすようになっていく。当然ジョージ抜きのジャムセッションを繰り返すメンバー。いつしかその演奏がメインディッシュとなっていき、長いインプロヴィゼイションが彼らの持ち味になってしまうという皮肉な結果に。
ちょうど日本に来日した1978年頃は、ジャムセッションで鍛えた演奏力を武器に一番脂がのりきっていた頃といわれているが、ジョージは翌年ドラッグの過剰摂取による心不全でこの世を去った。
元々はフランク・ザッパのギタリストからスタートしたジョージだが、常にドラッグとの戦いであった(フランク・ザッパ&マザーズ・オブ・インベンションの脱退もドラッグが原因と言われている)。
 才能を自らの手で摘み取ってしまったわけだが、そのような事例は1970年代末期までは当たり前のように存在していた。
事故、自殺、ドラッグ過剰摂取・・・ジョージの死は1970年代最後の年の6月に報じられたが、私はあまり驚かなかった。ジョージは死んでいてもおかしくないくらいドラッグ過剰摂取を報じる記事を見ていたからかもしれない。
それよりもその年の1月に自殺したダニー・ハザウェイの方が、インパクトが強かった。あまりにも突然だったし・・・。

 リトルフィートはセッションミュージシャンの集まりのようなバンドである。それぞれがテクニックを有し、しっかりと与えられた楽曲に自分たちのグルーヴを投影する。そんな天才集団を発掘する機会となった『HAPPY END』はエポックメイキング的な作品である。
d0286848_1728893.jpg


2017/2/28
花形
[PR]
# by yyra87gata | 2017-02-28 17:28 | 音楽コラム | Comments(0)