音楽雑文集


by yyra87gata


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1970年代は、松田優作のハードボイルドの時代だ。テレビドラマの破天荒な刑事役や東映の遊戯シリーズ、そして角川映画「蘇る金狼」で昇華する。

「気をつけろよ、刺すような毒気がなけりゃ、男稼業もおしまいさ。」こんないかしたキャッチコピーは松田優作しか似合わない。

1980年代からは鈴木清順や森田芳光などと組み、人間ドラマの新境地を開いていくが、私はクールで熱い狙撃者としての優作の方が好みである。

だから、尖った演技に通じるものがある彼の音楽活動にも興味があったし、そんな雰囲気一発で決める彼の唄るスンY TONK BLUES         も含めてファンであった。

神奈川県の地方局であるテレビ神奈川。

地元の企業や店舗のローカルCMが頻繁に流れているが、その中で私の中学時代によく流れていたCMは「横浜シェルガーデン」というライブレストランだった。

ライブを楽しみながら食事を取るという内容だったので、金の無い私には縁遠い所であったが、ライブスケジュールを「Player」誌で確認するとかなり有名どころの名前も挙がっていたので、興味本位で行ってみたことがある。

山下公園の外れ。マリンタワーの近くにそのライブレストランはあった。隣はバンドホテル。いや、正確に言うとバンドホテルの別館に造られたライブハウスが「横浜シェルガーデン」なのだ。

バンドホテルはホテル・ニューグランドと並ぶ横浜の有名なホテルである(であった)。

趣深い外観を持ち、創業は1929年。戦時中は同盟国であったドイツ軍専用のホテルであり、敗戦後はアメリカに接収された。

接収が解かれた後は、その雰囲気から数多くの映画やドラマの舞台になった。また、淡谷のり子の「別れのブルース」、五木ひろしの「よこはま・たそがれ」、いしだあゆみの「ブルー・ライト・ヨコハマ」はバンドホテルが舞台となって制作されたといわれているほど愛されたホテルである。そんなバンドホテルを松田優作は定宿にしていたという噂もあったし、そんな雰囲気の良い場所でライブも観ることができるのかという期待で訪ねた記憶がある。もちろん松田優作を観るためである。

1984年初夏。横浜国大の学園祭でシーナ&ロケットを観た時、配付されていたフライヤーに「松田優作with X・横浜シェルガーデン」の文字。

私は、期待に胸膨らませ、横浜シェルガーデンに向かった。

デートで山下公園を歩くと、港と雰囲気の良いホテルが絵になって、気分も高まったものだが、松田優作を観るために横切る山下公園は確か男友達と行った記憶がある。

古ぼけた洋館の佇まいを奥に見て、その雰囲気に飲まれそうになりながら会場に入ると思っていたより狭い空間に驚いた。

テレビCMではゆったりとした空間で料理に舌鼓を打ちながらラテン系のバンドが楽しそうに演奏している映像だった気がするが、目の前の空間は新宿ロフトのような殺風景な空間に見えた。

優作はバーボン片手にふらふらと現れ、ブルースを歌った。


ひとり飲む酒 悲しくて 映るグラスは 

ブルースの色

たとえばトム・ウェイツなんて聴きたい夜は YOKOHAMA HONKY TONK BLUES


隣で聴いていた黒人の米兵が奇声を上げて喜んでいた。

彼は優作の不安定ながらも味のあるヴォーカルを神の声と讃え、国の母親に聴かせたいと言っていた。

男は「ブルース」をしゃがれ声で「ブルーズ」「ブルーズ」と繰り返す。

そうか、ブルーズなのかと思い、それから私は背伸びして「ブルース」を意識して「ブルーズ」と言うようになった。

バンドホテルはブルーズが似合う。

朽ち果て方もいかしていた。

そんな別館のライブスポットで優作を観ることができた幸運。

後にも先にも彼のワンマンライブを観たのはこの時だけ。

だって、その5年後には帰らぬ人となってしまったから。


 あなたの影を 探し求めて ひとり彷徨っ 
た この街角

本牧あたりの昔の話さ YOKOHAMA 

HONKY TONK BLUES


革ジャンはおって ホロホロトロトロ バー

ボン片手に 千鳥足

ニューグランドホテルの灯りがにじむ セン

チメンタルホンキートンク・マン


ひとり飲む酒 わびしくて 映るグラスは 

過去の色

あなた恋しい たそがれの YOKOHAMA 

HONKY TONK BLUES

        

バンドホテルが解体された後はドン・キホーテが建ち、時代に飲まれたんだなという感慨に耽ったが、それも今では無くなり、東京オリンピックを見据えた大型商業施設が建築中である。

そんな建築現場に建つとブルーズだなぁと感じる。

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2017年11月24日
花形

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# by yyra87gata | 2017-11-24 20:17 | 音楽コラム | Comments(0)

Colours Fabienne


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1980年代の音楽事情はデジタルや打ち込みなどの新しい音楽機器の発達が凄まじく、それまでの音楽を一気に古臭いカビ臭いものへと変換してしまった。

そんなターニングポイントとなった1980年代半ばに、日本の音楽シーンは来るべきバンドブームの前兆があり、余震のようにグラグラと揺れ始めていた。それは、それまで栄華を誇ってきた音楽番組が冬の時代に入り、テレビ各局から消滅していくことから始まった。そしてそれまでの「歌謡曲」と呼ばれるジャンルは消えていった。

洋楽はMTVの登場で歌にドラマ性を求め始めたのも特徴であろう。

CMやテレビドラマのタイアップ曲はそれまでの「歌謡曲」ではないビートの効いたバンドサウンドが主流となり始め、徐々にヒット曲のメソッドが出来上がっていった。

そんな時代の狭間となった頃、レベッカは第2のスタートを切るべく路線変更を行ないミュージックシーンに登場した。

レベッカのデビュー時はギターの小暮体制によるハードロック路線の音楽作りで進んでいたが、音楽性の違いを理由に小暮やドラムの小沼が脱退してしまう。

バンド存続のため、メンバーを再編成し、キーボードの土橋体制によるリスタートが切られるのだが、新たなメンバーでの音楽性はファーストアルバムのそれとは異なり、かなりポップサウンドとなり、ヒット曲を狙うキャッチーなメロディを主としていた。

その時にオーディションで加入したギタリストが古賀森男である。

 リスタートを切ったレベッカは誰が見ても当時のアメリカのマドンナやシンディ・ローパーの様なポップサウンドであり(オマージュ)、NOKKOのヴォーカルと相まって、聴きやすいサウンドに成されたが、その重要なフレーズを担っていたのが古賀のギターである。

 レベッカが飛翔するきっかけとなった「ラブ・イズ・Cash」や「フレンズ」といった作品のダンサブルなカッティングやメロディアスなギターソロは、土橋の作るマドンナを彷彿させる音のフォーマットと一線を画し、オリジナリティ溢れるフレーズだ。だから、古賀のギターワールドがあってこそのレベッカ飛翔と私は勝手に思っている。

バンドサウンドはプロデューサーがどこまでメンバーに「やらせるか」によるもの。

誤解を承知で書くが、売れるためには有名なフレーズをパクってまでも、雰囲気を出してしまえばいいと言う。オリジナルを超えるアレンジで租借すればいいという意見もある。あとは、作り手は良心の呵責にさいなまれるかどうかの話だが、そんなことより売れてナンボの世界でもある。

レベッカは時代の音を反映し、NOKKOの圧倒的なヴォーカルで駆け上っていった。


古賀は自身のバンドFabienne(フェビアン)に専念するため、人気が出始めたレベッカを脱退する。

 『Colours』(1989)はフェビアン2枚目のアルバムである。ファーストの『冒険クラブ』(1988)と並び、古賀ワールド満載のポップなアルバムである。

 少し線の細いヴォーカルだが、デジタルサウンドや打ち込みサウンドがひしめき、ドラムには常にゲートリバーヴが施されている時代の音に反し、心温まるメロディに不意をつかれる。

 そして、古賀のギターはポップなのだ。

 それが例えロックンロールを刻んだとしても、グルーヴはポップサウンドになる。だからこそ、路線変更したレベッカが大ヒットしたことは頷けるのだ。

テクニックも去ることながら、グルーヴがバンドサウンドとして合致した瞬間にしか成し得ない音が必ずある。

 それを体現した古賀森男のサウンドは、唯一無二となるのだ。

 

フェビアンは商業的には成功しなかった。そして、フェビアンは1990年に解散した。

古賀森男はソロミュージシャンとして今も活動中である。

 フェビアンも1999年に再結成しているという。

Colours』をたまに聴くことがあるが、そのたびごとに新しい発見をする。今の時代の音の中に置いてもこのアルバムは聴きやすい。これを普遍性と呼ぶのだろう。

音楽は不思議だ。

声を高らかに「Holy Town」を歌い上げる古賀の姿を見てみたい。

時代に翻弄されない音がそこにあるはずだ。


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2017年10月2日
花形


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# by yyra87gata | 2017-10-02 17:14 | アルバムレビュー | Comments(2)

関西の熱い風

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 GSブームと同時期に関西フォークという呼ばれ方をしたムーブメントが1960年代後半に存在した。高石友也や岡林信康がその中心に位置し、若者が自分の言葉で歌を作り、発表し始めた。今では当り前のようなこの事象。

それまでの日本の歌の世界は職業作家が作った歌を「歌手」が歌うという分業が当り前で、自分で歌を作って発表するといったことは皆無であった。きっとこれは海外からの、特にボブ・ディランに感化された若者の行動がそのムーブメントにつながったのではないだろうか。ディランやビートルズがそうであったように自分の言葉で自分の歌を作る。東のカレッジフォークと共に関西を起点にフォークブームは、素人が自作自演を行なうきっかけとなっていった。

そして、それから数年後、ブルースやソウルの声も上がっていく。ライブハウスからブルースバンドが数々生まれ、その中からプロとしてデビューするバンドも増え始めた。

音楽の中心は東京と考えられていた時代は昔日のものとなり、関西発の音が全国に発信されていった。

その関西発の音楽の中でもこの2つのバンドは伝説となっている。

「ソー・バッド・レビュー」と「上田正樹とサウス・トゥ・サウス」。

関西フォークでは割と標準語で歌詞を作り、標準語で歌われる歌が多い中、このソー・バッド・レビューや上田正樹とサウス・トゥ・サウスは関西弁を駆使し標準語にはないノリをビートに乗せていった。そしてそれは現代のラップにも繋がる言葉遊びも存在した。また、関西弁をあの時代にここまでフューチャーすることができたのは、当時日本のロックと言うものが全然ビジネスになっておらず、超マイノリティな音楽だったので、逆に自由度が大きかったからでは無いだろうか。つまり、それまでの日本のロック業界は、「GS」で失敗していたので、職業作家によってガチガチに作り上げられたGSとは一線を画したかったのかもしれない。

方言丸出しのロックバンド。そのような歌がレコード化されること。まさに、自由なのである。

その言葉の問題だが、東北弁でも、べらんめぇの江戸っ子の言葉でも、九州弁でもない。関西弁はビートに乗りやすいことをソー・バッド・レビューや上田正樹といったバンドマンは知っていたのだろうか。それとも気負い無く生活の歌をビートにのせていっただけなのか。あまりにも音楽的グルーヴにマッチした化学反応ではないか。

関西弁は今でこそ標準語のようにテレビからあふれ出てきているが、1980ごろまでは一つの方言であり、ブラウン管からは今ほど飛び出してはこなかった。

関東の人間からすれば、関西のテレビ局が制作するバラエティーでしか関西弁はお茶の間には入ってこなかったのだ。

「ヤングおー!おー!」「ラブアタック」「プロポーズ大作戦」「パンチDEデート」など。

「新婚さんいらっしゃい」といった長寿番組もあるが、その番組でしか関西弁は登場しなかったし、関西の芸人も今ほど東京の番組に出演していなかった。そして前述の番組を揚げて分かるとおり、殆どがバラエティー番組である。歌の世界に関西弁はそれほど登場していなかったのだ。

では、関西弁はいかにしてお茶の間に入っていったのか。

やはり、1980年ごろのMANZAIブームが起点となり、「オレたちひょうきん族」がドリフや欽ちゃんを駆逐したことで明石家さんまや紳助が台頭し、東京進出により関西弁が本格的に東京に上陸したのだ。

だから、私は、そんな時代背景の中でまだ「オレたちひょうきん族」が生まれる前に、先ほどのソー・バッド・レビューのレコードを聴いた時の衝撃といったらなかったのだ。

これが同じ日本語かと思えるほど、ブルースの八分の六のリズムに心地良く乗る言葉たち。

それまでの関西出身の歌手、例えば沢田研二でも和田アキ子でも歌ってしまえば標準語の歌となっていたので、これほどまでに関西弁を強調した歌というものを私は聴いたことが無かったのだ。

関東圏で生きてきた者にしてみれば、関西弁は外国語の発音に近かった。また、語彙も標準語とはかけ離れている。自分は「わい」あなたは「自分」。もうこれだけでも可笑しい。

今の若者にしてみれば、小さいときから関西弁を聞き、東京の子供でも「めっちゃ」とか平気で使う昨今。そんな人にしてみたら私の驚きなど気にも掛けないことかもしれないが、当時は独立した言葉に聞こえたのだ。

例えば、ソー・バッド・レビューの「おおきにブルース」などはトーキングブルースで、「そやがな・・・おおきに」とか「わいや、わいやがな・・・おおきに」とか、大阪人の口癖をすべて「おおきに」という魔法の言葉で括ってしまったブルース。このような歌は、東京出身の人間は絶対作ることはできない。

また、上田正樹とサウス・トゥ・サウスのアルバム『この熱い魂を伝えたいんや』(1975)の「むかでの錦三」という歌。まずもってこのタイトルのセンス。そういえばソー・バッド・レビューのアルバム『SOOO BAAD REVUE』(1976)に収録されている「青洟小僧」「しょぼくれあかんたれ」「お母ちゃん、俺もう出かけるで」も相当なセンスである。

タイトルだけみていると演歌のような雰囲気もあるが、どの曲も黒いグルーヴが溢れる聴き応えのあるソウルフルな曲ばかりである。

私の高校時代、日比谷野外音楽堂で開かれるイベントに行けば、関西系のバンドが必ず1〜2つは出演していた。その中で上田正樹とサウス・トゥ・サウスもいたし、ソー・バッド・レビューを解散した石田長生がヴォイス・アンド・リズムを率いてソウルフルなギターを奏でていたこともあった。

そんな光景を切り取ってみても、関西のノリは明らかに違っていた。

とにかく客を乗せることが上手い。汗をかきながら身体全体でシャウトし客を鼓舞する。

「乗ってるか!ええか?ええのんか?!」という関西弁が木霊する。

変な意味で関西弁に慣れていない我々は、この言葉は笑福亭鶴光のオールナイトニッポンで鶴光が卑猥な意味としてラジオで話していたから、上田正樹が汗まみれになって「ええか?ええのんか?」と叫んでもニヤニヤ笑ってしまうということもあった。

それほど関西弁は普通に入ってこなかったのだと今改めて思う。

また、東京のバンドは演奏を黙々と行なって、どちらかと言うと技を見せつけるようなバンドが多かったように思うが、関西のバンドはMCを聞いていても「ノリつっこみ」をしたり、バンドメンバー同士での会話を聞いていても漫才をしているようなノリで、どこまで本気なのか分からなくなる時もあった。しかし、演奏に入ると「いなたいビート」の応酬となり泥臭くなっていく。そのギャップが面白かった。

上田正樹の「悲しい色やね-OSAKA BAY BLUES」、BOROの「大阪で生まれた女」、やしきたかじんの「やっぱ好きやねん」など1980年前後から大阪弁を使う歌はバラッドが多くなってきた。

時代の音楽性もあるかもしれないが、ブルースやソウルでは商業的な成功は出来ないということの答えになるかもしれないが、聞き手からすると『SOOO BAAD REVUE』や『この熱い魂を伝えたいんや』というような熱いサウンドを再び聴いてみたいと思う冷たい夏である。

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2017年8月18日
花形


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# by yyra87gata | 2017-08-18 19:57 | 音楽コラム | Comments(0)

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本当にユーミンのチケットは取れなかった。まだチケットぴあも出来る前のこと。会場付近のプレイガイドに並んで直接購入するという頃の話。

中学生や高校生の頃の私は知り合いにコネがあるわけでもなく、朝日新聞の社会面の下段を毎日監視し、コンサート情報を得るしかなかった。そしてひたすら並ぶ・・・。

それまでの邦人アーティストの大御所プロモーターはキョードー系列や日音、労音であったのに対し、1980年前後、ディスクガレージやスマッシュ、フィリップサイドなどといったプロモーターがタケノコのように生まれた。その頃からコンサートチケット争奪戦はあちらこちらで勃発し始めた。コンサートがビジネス化したのだ!

それまでのチケットの取り方としては、良い席で見たければそれなりの会費を払いキョードーや労音の会員になり、先行予約などという飛び道具による取得が一番の近道であった。しかし、中学生や高校生の分際でそんな金があるわけでなく、いつも残り物の集まるプレイガイドに並んでチケットを得るという基本的なやり方が主であった。だから、並んでいても5人くらい前で予定販売枚数が終了するなんてことは日常茶飯事で、ユーミンのコンサートチケットを取った時などは3年目でやっと自分にまで回ってきたのだった。

高校3年の夏休みが始まった日、夜8時、私は友達と関内の駅に集合していた。

日中の照り返しを吸収した路面は生暖かく、蒸し暑い夜であったが、私は友達と2人である建物を目指していた。キョードー横浜の事務所である。

翌日の朝9時に「松任谷由実コンサート リ・インカーネーションツアー1983」の前売りチケットを購入するための行動である。もちろん、徹夜で並ぶのである。

この頃は、プレイガイドやプロモーター事務所に販売予定日前から徹夜で並ぶと言う行為が一般化しており、「甲斐バンドの武道館公演では新宿のプレイガイドに2週間前から徹夜組が出た」とか「オフコースの武道館公演は徹夜で並んだのにも係らず、購入できなかったファンがプレイガイド前で小競り合いになった」などという情報が錯綜していた。

そのような状況であったから、徹夜でもしなければユーミンなんて一生観ることはできないと思ったのだ。

夏の朝は早い。徹夜組は50名ほどだったろうか。当時はコンビニも携帯電話も無く、家から持ってきた弁当やお菓子で食いつなぎ、交代で近所の公衆便所に行く。前後に並ぶファンとは共通の話題となり、ユーミンの話をすれば妙な連帯感も生まれてくる。私の前後はOLさんの2人連れと女子大生の2人連れだったので、お姉さんたちと話す感じがたまらなく甘美な時間であった(そりゃそうだ、男子校だもんな!)。

そして、チケットを手にしたときは単純に嬉しかった。思わずチケットカウンターで友人と快哉をあげた。なんせ3度目の正直だったから。

1983年9月21日・神奈川県民ホール。1階30列目。1階の後ろから2番目という位置だが、中央の位置だったので全てが見渡せる良い席であった。

ユーミンはこのツアーからそれまでのバンドメンバーの何人かを入れ替えていた。今はキーボーディストの重鎮であり、ユーミンのツアーには欠かせない存在となっている武部聡志はこのツアーからバックに起用されたぺーぺーであった。また、ベースの田中章弘も同様(田中章弘は鈴木茂&ハックルバックの印象が強かったので、目の前でユーミンと一緒にステップを踏みながらチョッパーベースを弾いている彼を観たときはびっくりした)。

ギターはお馴染みの市川祥治だが、もう一人のギターは窪田晴男。のちにパール兄弟を結成するのだが、この頃は近田春夫とビブラトーンズのメンバーだった。とにかくカッティングが上手いギタリストで16ビートは当り前、32ビートを織り交ぜながら世界観を作り上げる天才。後にTM NETWORKの大ヒットソング「Get Wild」の疾走感溢れるギターも窪田晴男によるもので、職人である。コンサートでもエッジの効いたカッティングがバンドサウンドを引き締めていた。

さて、そのようなメンバーにガッチリと固められ「リ・インカーネーションツアー」は幕を開けた。電飾フロアが輝くシンプルなステージでオブジェなどまったく無い。そのステージ上をテニスルックやレオタード姿のユーミンがスポーティーに走り回り、歌いまわる。

天井からのライティングは一切無く、ステージ後方から人的作業でバリライトのような動きを演出する。通常のピンスポットと後方からのあおり、地面の電飾という3方面からの光でユーミンが浮き上がって見えることがしばしばあり、幻想的であった。

曲はアルバム『リ・インカーネーション』(1983)を中心に演奏。もちろん荒井由実時代の歌や弾き語りを交えながら巧妙なMCで客を飽きさせない。

MCで「私に無いものは、生活感と歌唱力なのよね~」とぼやいていたが、コンサートにおける歌唱はその会場に宿る観客との呼吸もあるので、上手い下手というものを超越する。だから、歌唱力はたとえなくても、説得力は100%以上であった。

特にエンディングに向けての「キャサリン」~「埠頭を渡る風」~「カンナ8号線」~「REINCARNATION」は、その後のアンコールがいらないほど(アンコールも良かったです)、完成されたパッケージだった。

私は、このコンサートを生録をしており(そういうこと、良くやってました)、何度も聞き返しているが、何回聴いても飽きない。

私はこのツアーのあとも数回ユーミンのコンサートツアーに足を運んでいるが、このコンサートツアーのインパクトは大変大きなものであった。

理由はシンプルである。華美な演出が無く、歌に集中して観る事ができたからである。

歌唱力ではない説得力である。

それが生録した音から伝わってくるのだ。

そういえば、このコンサートの翌年からチケットぴあは電話によるチケット販売システムを構築し、徹夜で並んで席を取るという方法が無くなっていった。

我々は並ばずしてチケットを購入できるようになったが、良い席と悪い席の振り分けが不透明となり、徹夜すれば良い席だったという努力はまったく報われない結果となっていく。

もしかしたら、当時のファンは良い席を取るために並ぶところからコンサートは始まっており、その苦労をコンサート会場で発散していたのかもしれない。

だから、私もチケットぴあが出来るまでのコンサートの方が記憶が鮮明だったりする。

リ・インカーネーションでは無いが、もう一度チケットをプレイガイドで一斉販売する形式を取る方法にしたらどうなるだろう。ネット社会における逆流のコミュニケーション。

・・・混乱して終わるだけか。

2017/8/2

花形


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# by yyra87gata | 2017-08-02 09:24 | コンサートレビュー | Comments(0)
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  中学、高校時代はとにかくレコードを買うためにいかに金を工面するかということに心血を注いだ。

部活や委員会の仕事もあったので、バイトなんて出来ない。かといって小遣いだけではLPレコードを1枚購入するのがやっとである。当然、昼飯を削って金を作ってもタカが知れているし、毎日昼飯を抜くのも辛いものがある。

そんな時に手っ取り早く金を手に入れる方法として考えたことは、自分の持っている不要なものを友達に売るということだった。自分の家にある本や漫画、Tシャツやらトレーディングカード類など・・・それらをノートに書き込んで販売価格を書く。そして、休み時間にみんなに見せると、意外や意外、これが飛ぶように売れた。そして、噂が噂を呼び、隣のクラスのヤツも私のノートを覗きにくるようになった。

「あ、これくれ!」「じゃ、500円ね、商品は明日持ってくるわ」なんてなもん。

そうこうしているうちに、自分で売るものがなくなり始めた時、I君が「俺の家にある要らないものも売ってくんない?」と言い出した。

「お前も同じようにやればいいじゃん」と言うと、「俺は口下手だからなかなかそんなようにできないよ・・・」なんて言いやがる。

「いいよ。その代わり、販売手数料で10%差し引くぜ」と言ったら、I君どころか他にも大勢の委託者が集まってきた。

私のノートは友達の商品で真っ黒になっていった。

これ、本当は学則で禁止されている学内での商品販売行為だったのだが、そんなことはお構いなしに私は売上を伸ばしていた。

因みに・・・大学時代、家内と伊丹十三監督の「マルサの女」という映画を観ていた。その映画の中で、脱税をしている山崎努の息子(小学生)が当時の私と同じことをして友達と商売をしているという逸話が流れたとき、家内は大声で笑っていた。

「ここにもおんなじことしていた人いますよ~」

これって、今考えるとフリーマーケットから派生したメルカリと同じ仕組みだ。

私は約40年前にメルカリの仕組みを実践していたことになるのだ。

ま、そのおかげで、レコードを購入することができたのだが、私の場合、闇雲にヒットアルバムを購入するわけでなく、中古レコード店「ハンター」に通い、誰もが購入しそうなものは敢えて外し、誰も聞きそうにないレコードを選んでいた。

ヒットアルバムは何年経っても在庫はあるだろうし、最悪、友達も持っているだろうから借りることもできるだろう。しかし、マニアックなものは流通が少ないし、一度逃すと次が無いという感覚もあり、そういったレコードがあるとすぐに購入していた。

そんな中、ブルース・スプリングスティーンが『明日なき暴走』(1975)の大ヒットをアメリカで記録した。次作の『闇に吠える街』(1978)も順調なセールスを上げていた時、ようやく日本でもちらほらと話題になってきていた。

私は、『明日なき暴走』も『闇に吠える街』も揃えてはいたが(スプリングスティーンはそんなに有名ではなかったので中古市場にもあまり出回っていなかったので購入するのに苦労した思いがある)、彼のファーストアルバムである『アズベリーパークからの挨拶』(1973)は持っていなかった。

スプリングスティーンは「土曜日の夜、可愛いあの娘とデートするために他の日は犬のように働く」と歌う労働者の匂いがぷんぷんしたミュージシャンだったから、そんな生活習慣の無い日本人にはなかなか理解されなかったのだ。

そんな彼のファーストアルバムはディランの真似事と言われることもあったようだが、私にはただのロックンロール好きの兄ちゃんという印象だった。

『アズベリーパークからの挨拶』は中古盤屋をいくら探してもその盤は無く、ようやく見つけた先が、丁度日本に進出してきたばかりのタワーレコードだった。しかも、その盤はカット盤(B級品)として陳列されていた。

しかし、その時、私はもう1枚欲しいアルバムを見つけてしまっていた。

レーナード・スキナードの『セカンド・ヘルピング』(1974)である。しかし、2枚いっぺんに購入するだけの余裕はない。

そこで、一緒にいた友達のY君に交渉。

「スプリングスティーンのデビュー盤に興味ない?今、すげ~流行っているスプリングスティーンだよ。え?ヒット曲?あ、それは・・・収録されていないな・・・でも、若い息吹というか情熱というか・・・お前が買えばいいって?いやいや俺はレーナードを買おうかと思っててね・・・あ、レーナード貸してあげるから、スプリングスティーンを貸してよ・・・え?レーナード知らないの?・・・おお!知らないミュージシャン2枚も聞く事ができるじゃない。こりゃいいよ、いい!」なんて言いながらY君をその気にさせていた。


ターンテーブルでスプリングスティーンが回っている。

レコードジャケットも折り目がついて本当の挨拶状のようなデザインでお洒落である。

Y君はこのレコードを貸してくれる時に「なんだかよくわからなかったよ・・・、イーグルスを買えば良かった気がする」なんて言ってたっけ。

スプリングスティーンがもがきながらようやくデビューを果たし、それでもレコード制作過程でコロンビアレコード社長のクライブ・ディビスから「今のままじゃヒット曲の要素がまったくないから、何か作れ!」と言われて作った「光で目もくらみ(Blind by the Light)と「夜の精(Spirit in the Night)」。この2曲はアルバムの中で異質な雰囲気となったが、それがアクセントになってアルバムを起伏あるものにしていると思うし、スプリングスティーンの荒削りな部分も際立ち、躍動感を感じることもできる。

このアルバムはすぐにカセットテープに録音し、Y君にレコードは返却したが、カセットテープでは飽き足らず、結局、翌月には自分のレコード棚に収めた記憶がある。

もしかしたら、Y君が私のところに来て「このレコード売ってくんない?」と頼み、それを安く私が購入したのかもしれない・・・。

2017/7/5

花形


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# by yyra87gata | 2017-07-05 15:48 | 音楽コラム | Comments(0)