音楽雑文集


by yyra87gata

カテゴリ:アルバムレビュー( 158 )

ライブハウスでのライブはコンサートと違って、開演時刻も少し遅いが、その分終了時刻も遅かった。ちょっと前までのホールコンサートは大体18時30分の開演で21時には終わっていた。多分、公共施設の貸し出し時間によるものなのだろうが、とにかく、アンコール含めて21時が目安だったと思う(今は条例の緩和かどうか知らないけれど、割合遅くなってきている)。
しかし、ライブハウスは関係ない。19時くらいからダラダラと始まる。休憩を入れたりしながら、22時くらいまで平気で演奏している。ジャズやブルーズはそれが顕著だった。
高校2年の時、ジョニー・ルイス&チャーを今は無き渋谷LIVE INNで観たことがある。
彼ら3人はとにかくマイペースな人たちなので、客も十分それを理解しており、全体的にリラックスした雰囲気が漂っていた。19時開演だったが、時間が来ても始まる気配は一向に見えない。その間、客はずーっと立って待っている。タバコを吸いながら、ビールを呑みながら・・・。僕と友人のW君も大人たちに習い、制服姿だったが、煙を吐いていた。
チャーを先頭に舞台に3人が上がったときは、20時を過ぎていた。何とルーズなことか!その後、ライブハウスはバケツの水をひっくり返す勢いの盛り上がりを見せた。みんな若かったし・・・。
1時間ほど演奏すると、おもむろにチャーがMCを入れた。
「ほんじゃあ、ここで休憩を取ります。みんなもリラックスしててくれ。酒を呑むとか・・・。売上に貢献してやってくれ・・・なんちゃって!」
と言ったかと思うと、舞台袖から椅子が三脚とテーブルが運ばれ、ビールが設置された。
なんと彼ら3人は、舞台で休憩を取り始めた!客は大爆笑。野次を飛ばすが、3人は客を無視し続け、タバコを吸いながら談笑している。3人が休んでいるところを客は見ている。変な構図である。
15分ほどした頃、チャーが言う。
「そろそろ、残業に取りかかりますか・・・。」

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3人はそれぞれの持ち場に戻り、またまた怒号のライブが始まった。
とても印象深いライブ体験である。コンサート会場には無いノリである。ちなみにこの日の彼らはとにかくぶっとんでいて、ジョニーのドラムソロでは10分間ずーっとスネアを連打していたり、ルイスはベースをリードギターのように弾いていた(ちなみにコアなファンの間では、ルイスはチャーよりギターが上手いとされている)。その後2回の休憩を挟み、ライブが終了した時は、24時を回っていた。当然、終電もなくなり、僕とW君は歩いて帰った。しかし家に帰らず、そのまま学校に直行し、朝方5時頃に到着、そのまま部室で寝ていた。
 このルーズさが日本のロックにはなかった。ロカビリー、GS、アートロック、関西ブルース、クロスオーバー・・・。ジャンルはいろいろあるが、無数のバンドの中でリラックスしながら音楽に接し、開放された精神(フリースピリット)を提唱してきた3人はどこにも属さない独自の創作作業(音楽)という神々しさがあった。
常にライブで勝負する3人が残したスタジオワークは、まさにライブそのもので、ほとんど一発録りに近い。また、3ピースということもあり、音楽性が制限されがちに聞こえるが、ただのロックに終わることなく、多彩な音楽性を披露してくれる。それは、チャーの音楽センスもさることながら、ルイズ・ルイス加部の実践主義(GS~バークレー音楽院)、ジョニー吉長のヴォーカルセンス(GS~イエロー)がトライアングルを形成している。
 デビュー盤は2万枚限定のデビューコンサートのライブだった(日比谷野外音楽堂で1979年7月に無料で行われ、観客動員は14,000人を超えた。この記録は未だに破られていない)。
2枚目の『トライスクル』(1980)は多種多様な音楽が散りばめられ、彼らの底力を知ることが出来る。
特に「ストーリーズ」の時代性、「ソング・イン・マイ・ハート」の3人で演奏しているとは思えないほどの緻密なアレンジ、「バルコニー」「スクーター」に聞かれる音楽の幅、「フィンガー」に代表されるジミヘンを彷彿させるスピード感。
ジョニー・ルイス&チャーの孤高さが漂う作品である。孤高なんだけど自然体。また、それが格好良い。
そう、御託は必要ないのだ。彼らは「格好良い」の一言で済んでしまうアーティストである。文句あっか。

2005年6月29日
花形
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by yyra87gata | 2012-12-15 06:49 | アルバムレビュー | Comments(0)
  今、小室というと小室哲哉になってしまうが、我々の世代は小室等なのである。小室哲哉は「コムロ」または「TK」、小室等は「小室さん」というイメージであるな。ま、そんなわけで小室等なのである。
小室さんは昔から仙人のような風貌で、30年前からおじいちゃんの匂いがするのは僕だけだろうか。「あれしろ、これしろ、人生とは~」などといった説教くさい歌が多いフォークソングの中で現代詩人・谷川俊太郎と組んで和歌のような詩に曲をつけてみたり、別役実や寺山修司といった演劇系の人ともよく組んで曲作りをしていた。独自といえば独自だが、他にやっている人を見たことが無いだけか・・・。
70年代初頭のフォークソングやロックは、まだ日本では確立されていない音楽であり、サブカルチャーであった。小室さんはその中でフォーク代表みたいな顔役で、テレビやラジオでのスポークスマン的役割だったように思う。当時のテレビで岡林信康や吉田拓郎に話を聞きに行っても、悪態をつかれるだけのようなイメージがあるが、小室さんだったら分別ある大人ということで接してくれる気がしない?
だからというわけではないかもしれないが、テレビやラジオの仕事、特にフォークシンガーの中でもテレビの仕事が多かったように思う。
ドラマ「木枯らし紋次郎」や「高原へいらっしゃい」などの音楽は超有名。そして、毎年必ずどこかの局のテレビドラマの音楽を担当していた。「吉井川」「熱い嵐」「想い出づくり」「早朝スケッチブック」「蝉しぐれ」など数多くのドラマ音楽を手がけた。また、TBSの夕方のニュース番組「テレポート6」のテーマソングやドキュメント番組やCMのナレーション、果てはNHK連続ドラマ小説「まんてん」に役者として出演など、ただのフォークシンガーの活動ではない。
 そんな小室さんの1枚は、1978年のライブを収めた『東京旅行・東京23区コンサート』である。東京23区の区民会館クラスのホールを23箇所廻るコンサートで、各会場にはその地区にちなんだゲストを呼んでいる。ゲストはミュージシャンに留まらず、劇作家や映画監督、弁士までもが飛び出す。
心温まる歌や叙情的な歌、シニカルな歌などが長年日本を見続け、サブカルチャー側からの視点で切りつけてくる。小室さんは酔うと「何故、戦争はおきる?」とクダを巻く。しかし、それは普段おとなしい温和な人柄からくる反動であり、平和運動もおこなっている日常からの叫びともいえる。
 
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23区コンサートといった精力的で地道な活動は、1回にとどまらず、3年後の1981年には第2回目が行われた。ライブをやっている人ならわかるだろうが、短期間に同じエリアでライブを行うことの難しさといったらない。しかも23回のライブを3ヶ月弱で廻るんだから恐れ入る。
僕は、2回目の23区コンサートに参加した(新宿区)。その日は丁度ツアーの千秋楽で、会場も日本青年館。各会場に呼ばれたゲストも一同に集結し、盛り上がった。そしてゲストの人たちが口々に
「小室さん、こんなに人が集められるんですね。私の時は両国公会堂で、人が集まらなくて苦労しましたよね。」(谷山浩子)
「舞台で靴を脱がされて、靴下で演奏しましたな。あれは、葛飾でしたっけ。」(井上尭之)
「僕には23区廻ってコンサートをする勇気も無ければ、根気も無い。」(井上陽水)
「打ち上げで連れて行ったところは、ゲイバーでしたね。でも、僕は途中で彼女(?)と消えてしまったんですけど・・・。」(三上 寛)と、東京旅行を振り返る。
『23区コンサート』はLP2枚組みで発表された。曲間にはコルグのギターチューナーのカチャカチャといったSEが入っており、フォークコンサートの雰囲気を醸し出している。
 宇崎竜童は1997年と1998年の2年間、23区コンサートを開催した。もちろん小室さんに影響されてのことらしい。こういった地道な活動と文化は継承されるものだ。
小室さんは未だ現役。長女のこむろゆいと一緒のステージにも立つ。僕の長女が聞いていたアニメの歌が素直でステキだったので歌詞カードを見たら、歌はこむろゆいだった。小室さんのDNAを引き継いでいるな・・・。

2005年6月27日
花形
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by yyra87gata | 2012-12-14 15:57 | アルバムレビュー | Comments(0)
 グラハム・セントラル・ステーション(以下GCS)ばかり聞いていた時期がある。大学2年の頃だ。底抜けに明るいファンクもあれば、地響きの轟くものもある。スライ&ザ・ファミリーストーンの頃のラリー・グラハムとは一味違ったファンクサウンドである。
 
 スライはウッドストックの頃が躁状態のファンクであり、時代も黒人復興に燃えていた。そこへベトナム戦争の終結や、やり場の無い敗北感がアメリカを包み、スライ自体も『STAND』(1971)で燃え尽きてしまった。『STAND』は全米で大ヒットしたが、明るいファンキーさは微塵も無く、自閉的な黙り込むファンクである。そして、スライの精神状態が崩れ、バンドの要ともいえるラリー・グラハムを解雇してしまった。この決断にファンは驚き、みんなスライから離れていった。  
 そんなラリー・グラハムはGCSを結成する。スライ時代では得意のチョッパー・ベースと低音のボーカルでスライをサポートしていたが、GCSではそれを前面に押し出していった。ラリーは、ベーシストであれば知らない人はいない「チョッパー・ベース」(スラップ・ベースともいう)の生みの親とも言われている。ルイス・ジョンソンの方が先にチョッパーをしていたという説もあるが、一般的に広めた(セールス面)のは、ラリーに他ならない。また、根本的にラリーのチョッパーとルイスのチョッパーは別物で、ルイスやマーカス・ミラーのチョッパーは親指で弦をはじき、プリングオンやオフを繰り返し、流れるようなフレーズで、テクニカルに聞こえることが特徴だ。しかし、ラリーのそれは、親指でベース、人差し指でスネアの役割をもち、弦をはじくことでベースとドラムを同時に演奏している、つまりそこにリズムが存在しており、フィルイン程度に使われるチョッパーとは考え方が違うのだ。
 さて、このGCSだが、1974年から1979年までが本来の活動期間である。短い活動期間の原因としては、時代と共にブラックミュージックの細分化が始まり、ファンクブームが下火になったことや、ディスコサウンド、打ち込みサウンドなどの流行が生楽器を食い荒らしてしまったことによるものが大きい。
 GCSは、アルバムのCD化に伴い、1992年頃に再結成をし、初来日を果たしているが、新作は出ておらず、ライブのみの再結成となっている。
僕は、彼らの3回の来日の公演を全て見てきているが、単純明快、とにかく楽しい。ベースソロを弾きながら会場を練り歩き、地響きのようなエフェクトをかけて(ディストーションやフランジャー)リードギターのように操る。ジミヘンのような荒っぽさもあるが、しっかりとしたショーマンシップがあり、決して独りよがりな演奏はしない。ちなみに僕のカミサンは臨月でライブに参加し、練り歩いていたラリーを呼び止め、出っぱったおなかをさわってもらっていた。その2週間後に長女は無事に生まれた。
 
 ラリーはいつもにこやかに、音楽を心から楽しんでいるようだ。ラリーを始め、メンバーも結構な年齢(60歳前後)だが、いまだにパワフルなファンクを楽しませてくれる。ゴリゴリのファンクの新作が聴きたいなぁ。
 GCSのお勧めは、7枚全部といいたいところだが、セカンドアルバムの 『RELEASE YOURSELF』(1974・邦題:魂の解放)と5枚目の『NOW DO U WANTA DANCE』(1977・邦題:ダンス!ダンス!ダンス!)の2枚。リラックスして聴くことが出来る。ファンク入門としても最適。

 
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それから、日本の70年代の歌謡曲がいかにここらへんの音楽をパクっていたかがわかるよ。特にアレンジ面でのラッパやベースラインの動き方など、訴えられても返答できない作品がいっぱい。皆さん、本物をききましょう!



2005年6月25日
花形
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by yyra87gata | 2012-12-14 15:47 | アルバムレビュー | Comments(0)
「ラジオで聞いて、とてもいい曲でした。どこまでも伸びるハリのある高音ヴォーカルに魅了されました。歌の内容も女性心理をついていて・・・。でもレコードジャケットを見てビックリしました。雷様みたいなヘアースタイルで、伏し目がちな目?えっ?これちゃんと開いているんですか?」
「デビューした時は、アンドレ・カンドレなんて名前だったんですよね。で、歌っている歌がカンドレ・マンドレ?何じゃこりゃ、って感じ。でも再デビューして、名前を変えて正解でしたね。」
「ファーストアルバムは階段に座っていて、遠目ではよくわからなかったんですよ。セカンドアルバムは土手かなんかを歩いていて、下から子供に石を投げられているんですよね。そんでもってこのアルバム。楽屋かなんかでギターの練習でもしているんでしょうか。白黒だから寒々としてて、まさにタイトルどおりですね。でも安上がりな写真ばっかりですね。ちなみに弾いてるギブソンも清志郎のものですし。」
「このアルバムが売れるまでは、苦しい生活だったらしいよ。小室等さんのところに下宿してて、そっとおかわりを出していたんだって。そうそう、RCサクセションの前座もやってたんだって。だけど、このアルバムが大ヒットしたら、前座が逆になっちゃったらしいよ。でも清志郎とはずっと仲良しで、お互いのアパートを行き来して、曲を作ってたんだってさ。このアルバムに入っている「帰れない二人」と「待ちぼうけ」って曲は2人で作ったんだよ。だから、RCって全然売れなくても、このアルバムが売れたおかげで清志郎は食いつないでいられたんだってさ。2曲でもすごい印税だったらしいよ。」
「そうそう、日本で一番最初に100万枚を超えたアルバムなんだよね。ミリオンセラーってやつ。1年半もチャートインして、何回も何回も1位になって、都合35週間1位だったんだよ。当時は1万枚でもヒット、10万枚なんていったら大ヒットだったんだって。それが最終的には131.4万枚だよ。人生狂うよね。」
「まだこの頃の詞はストレートな表現が多くて、フォークソングって感じがいいですな。最近の陽水は言葉に溺れちゃってて、何を言ってんだかさっぱりわかんないことがあるんですわ。」
「星勝のアレンジが光っているアルバムだ。モップスなんて全然売れなくなってきちゃったから、ヒロミツはタレントになっちゃったし。星は彼に付いて、アレンジャーとして成功してよかったよ。」
「そういえば、高中正義はベースとギター両方で参加してるんだぜ。やつがベース弾くとギターみたいにブインブインとランニングして、落ち着かない時もあるよ。」
「拓郎は相当あせったらしいわよ。レコードセールスで抜かれちゃったから、当然、長者番付でもひっくり返されて。ましてや金沢の方で事件も起こしちゃったから、世間的にも評判悪くなっちゃって・・・。」
「拓郎は、そういうどん底の時に森進一と組んで「襟裳岬」出したんだよね。あれよあれよという間にレコード大賞だもんね。あん時、ジージャンとジーパンで授賞式に出たんだよ。うちのばあちゃんが「行儀悪い」って言ってたっけ。」
「そうそう、拓郎はこのアルバムをすごく意識してさ、すぐに『今はまだ人生を語らず』を制作したんだよな。必死だったらしいよ。」
「でも、このアルバムはいいよね。売れるわけだよ。捨てる曲が無いもんね。たまに聞くと中学生のあの頃に還れるよ。」
「弾き語りしたくなる曲ばっかり入っているのです。個人的には「桜三月散歩道」の台詞が好きなんですけど。」
「マニアだね~。」
以上、『氷の世界』(井上陽水)に関する街の声でした。


2005年6月20日
花形



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by yyra87gata | 2012-12-14 15:39 | アルバムレビュー | Comments(0)
 70年代の音楽の終焉は、歌詞に表れた。山下達郎は「レッツ・ダンス・ベイビー」(1978年)の中で“ブルースは似合わない、速いステップで・・・”と歌い、それまでの関西ブルースの終焉を・・・。斉藤哲夫は「吉祥寺」(1973年)の中で“ロングヘアーに疲れた~”と歌い、荒井由実は「いちご白書をもう一度」(1975年)で“就職が決まって髪を切ってきたとき、もう若くないさと君に言い訳したね”と歌った。長髪=フォーク&ロック=若者文化という図式が崩壊していった。
退廃を信条としていた60年代~70年代の若者文化は日本だけに限らない。むしろ、ベトナム戦争や公民権運動に揺れていたアメリカの文化が日本に派生したものともいえる。映画「卒業」(1967年)に見るラストシーンの不安気な2人の表情は、愛を勝ち取った充実感はなく、ドロップアウトしていく表情としてその後のアメリカ(ベトナム戦争の深刻化、人種問題、ヒッピー・・・)を暗示させた。
“1969年物のスピリッツ(精神)は切らしております”とアメリカの退廃を歌うイーグルスの「ホテル・カリフォルニア」(1976年)は、まさにその象徴である。
そして、ロックの終焉と呼ばれたコンサートが、1977年感謝祭の日にサンフランシスコ・ウインターランドで行われた。ザ・バンドの解散コンサートである。“ラスト・ワルツ”と題され、映画「タクシー・ドライバー」の監督で有名なマーティン・スコセッシがメガホンをとった。

 
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 ザ・バンドは1人のアメリカ人と4人のカナダ人から編成されているが、音楽性はルーツ・ミュージック、ブルース、ゴスペルからフォーク・ロックといったアメリカのコアな音楽を得意としていた。
1968年夏発表の『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』は、まだ発表されたばかりのこのアルバムを、アル・クーパーは「今年のベストアルバム」と宣言。ブルース一辺倒だったエリック・クラプトンをはじめ、当時のプレイヤーたちに大きなショックと多大な影響を与えたアルバムである。ボブ・ディランとの有名な「地下室セッション」で培われた、土臭い田舎っぽい演奏とアバウトなハーモニー、老成された音楽は、1968年時点のロック界には無いものだったから、その衝撃の大きさは想像する以上だったことだろう。そしてザ・バンドはデビュー時からどこか特別なアーティストとして音楽シーンに君臨することになった。
『ラスト・ワルツ』は、ザ・バンドがデビューしたホールで行われた。古いゴシック調の装飾が施されたホールで、ライブが始まる前までは本当にワルツのダンスが行われシャンデリアが最後のきらびやかさを放っていた。ワルツのパーティーのようにくるくると思い出が回り、それまでのアメリカンロックが散っていった。
ザ・バンドが数多くのミュージシャンとの交流があったことは、“ラスト・ワルツ”のゲスト陣を見れば一目瞭然だ。ボブ・ディラン、エリック・クラプトン、ニール・ヤング、ジョニ・ミッチェル、ヴァン・モリソン、マディ・ウォーターズ、Dr・ジョンなど60年代~70年代を彩ったアーティストがザ・バンドのコンサートを盛り上げた。
ウッドストック文化の象徴であったアーティストが年を取り、熟年に。当時の文化として「40歳以上の人間は信じるな」と叫んでいた中で、その先導をきっていた彼らが、その歳になろうとしていた。そんなジレンマの中でみんながもがいていたのかもしれない。
ザ・バンドの答えは、解散だった。リーダーのロビー・ロバートソンはインタビューで切々と語っていた。
「やるべきことは、すべてやってしまった。もうあのようなロード(過酷なコンサートツアー)には出たくないんだ。俺達は10年以上もそんな生活を繰り返していた。ジャニスやジミのようにはなりたくないんだ。」

『ラスト・ワルツ』(1978)は、当初3枚組LPで発売。2002年のCDは完全盤として発表され、4枚組BOXとなった。BOXには、当日深夜まで行われたジャムセッションの音源など映画にも出てきていない楽曲も収録された。アルバムとして聴くこともお勧めだが、DVD(映画)で映像を観ていただくほうがより一層楽しめると思う。

2005年6月18日
花形
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by yyra87gata | 2012-12-14 15:32 | アルバムレビュー | Comments(0)

ユーミンの3枚

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★『ミスリム』(1974) 荒井由実

 荒井由実のデビューアルバムは『ひこうき雲』である。もともと加橋かつみのスタジオミュージシャンとして音楽業界に入ったユーミンは、その洗練された作曲センスをキティレコードに認められ、レコードデビューする。バックミュージシャンはキャラメルママ(細野和臣、林立夫、鈴木茂、松任谷正隆)。デビュー作らしく初々しいヴォーカルと緊張感が漂っている。その緊張感を持続させつつ、少しだけの余裕とユーミンとしてブレークする寸前の勢いがセカンドアルバムの『ミスリム』から感じ取ることができる。バッキングはデビュー作と同様にキャラメルママ。そしてコーラスアレンジには山下達郎が参加している。
そしてサードアルバム『コバルトアワー』は、荒井由実の最大ヒットである「あの日に帰りたい」を収録する大ヒットアルバムになった。四畳半フォークと呼ばれた時代からニューミュージックへの転機にもなる歴史的なアルバムともいえる。その意味で『ミスリム』は誰にも翻弄されていない、荒井由実の等身大のアルバムではないだろうか。1曲目の「生まれた街」のセンスの良いアレンジはキャラメルママの真骨頂であるし、「瞳を閉じて」や「やさしさに包まれたなら」のメロディーラインなど丁寧に作られたアルバムである。


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★『時のないホテル』(1980) 松任谷由実

 結婚し、あっさり荒井姓を松任谷姓に変え、松任谷由実として2~3作を発表した頃のこと。聞き手は変化を求める上で「荒井の方が良かった。いや、松任谷になって洗練された。」などと比較を始める。しかし、名前を変えただけで音楽性なんて簡単に変わるものではない。18歳で音楽業界に入り、大学卒業間もなくファーストアルバムから親交の深かった松任谷正隆と結婚。かなり狭い世界の中で一般的な男女間の作品を創作している、といえる。もちろん独自の調査や優秀なブレーンがいるのだろうが、音楽性・世界観と言う意味でデビューからこの『時のないホテル』までが僕の中では「荒井由実作品」だと思っている。なぜならこの頃までの作風が「一途な気持ち、ちょっとだけヤキモチを妬かせる」など少女から女に変わるティーンエイジャーから大学生がモチーフであり聞き手のターゲットになっているからだ。この後の『水の中のASIAへ』『昨晩お会いしましょう』『パールピアス』へと続く流れはOLの気持ちを歌い、男を手玉に取る(?)くらいの強い女性像歌う作風に変化していき、メガセールスの女王として君臨していく。
そういう意味で『時のないホテル』は荒井由実の完成形として認識できるのではないだろうか。作風も内省的な曲が多く、賛否両論あるが、ひとつひとつの曲の水準は非常に高く、いまだにコンサートで取り上げられている曲も多い。「よそゆき顔で」「5cmの向こう岸」の詞は秀逸である。


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★『昨晩お会いしましょう』(1981) 松任谷由実

 1981年発表のこの作品は、2000年までの約20年間を突っ走る魁となった作品で、完成度が高い。何故2000年かというと、2000年以降はドリカムや若手アーティストへの世代交代が騒がれ、ユーミンの作風が定まらなくなってきた。また、プロデューサーを松任谷正隆から外人へ変更し、一層混迷し、セールスが激減したからである。セールスの伸びないユーミンはありえないことなのだ。
話を戻すと、この『昨晩お会いしましょう』以降の作品にはそれぞれのテーマがあり(OLのつぶやき、輪廻転生、任侠恋愛、リゾートミュージック、愛の戦争、宇宙観など)、その時代時代の男女間の定番を作り上げてきた。それは新井由実時代には無かったことである。
逆にいうと『昨晩お会いしましょう』から作風変化は無く、この1枚で完成形とも言える。後はテーマ別の金太郎飴状態だ。1流のミュージシャンとスタジオ、環境面においても最高の状態の中でユーミンワールドが開かれていく作品。そしてニューミュージックというカテゴリーからユーミンというジャンルを作り上げた頃の作品である。「カンナ8号線」「夕闇をひとり」「A HAPPY NEW YEAR」など秀作が並ぶ。

2005年6月16日
花形
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by yyra87gata | 2012-12-14 15:05 | アルバムレビュー | Comments(0)
 1972年7月21日に発表されたこのアルバムは、アルバム・チャートの第1位を13週連続で独占した。前作の『人間なんて』に収録された「結婚しようよ」と本作収録の「旅の宿」のヒット、そしてこの『元気です。』のビッグ・セールスによりテレビというメディアを使わなくてもヒット曲は生まれるということが証明され、フォークソングが広く世間に認知されることになったいわくつきのアルバムである。なぜなら、一様にフォークシンガーはTVに出演することが無く、ラジオの世界で生きており、テレビ=ヒット=体制といった図式がフォークファンには刷り込まれており、フォークが売れるなんて誰も思っていなかったのだ。フォークファンのコアは学生運動に疲れ、反体制を声高に訴えていた。

 決して美男子とはいえない横顔の大写しのモノクロジャケットからは、やる気や高揚感がみなぎるといった雰囲気は微塵も感じられない。うつろな瞳とぼてっとした唇は、どこか不満気な表情だ。これは当時の音楽業界へのフラストレーションやフォークソングに対する世間のとらえ方、レコードセールスが良いと「裏切り者」扱いされるフォークファンなど、たくろうには様々な疑問があり、それが表情に表れているようだ。
しかし、レコードに針を落とすと、そこには屈託の無いよしだたくろうの世界が広がる。
1曲目の「春だったね」の軽快なメロディとリズムが、これから始まるたくろうワールドのイントロとして耳に残る。字余りでたくろう独特の歌いまわしは、それまでのフォークや歌謡曲には無いものだ。
(くもりぃいガラスのぉ、まあどをたたいてぇ、きみのぉ時計をとめてぇみたい・・・)なんて歌うアーティストはそれまでいなかった。きれいなコーラスとIVYルックで歌っていたカレッジフォークのシンガーはきっと眉をひそめたに違いない。しかし、そんなノリの歌のあとに「せんこう花火」や「夏休み」などといった叙情的な作品も並ぶ。「加川良の手紙」「馬」のようなコミカルな歌。「親切」「まにあうかもしれない」「祭りのあと」「ガラスの言葉」のような内省的な歌など、15曲の歌たちはどれも外す事は出来ない。
 d0286848_1502130.jpgバッキングも松任谷正隆と石川鷹彦を中心に、林立夫、後藤次利、小原礼、猫のメンバーなど実力と若さがみなぎった演奏でたくろうを支えている。中でも石川鷹彦の演奏は秀逸だ。「リンゴ」「旅の宿」「高円寺」などフォークギターの弾き語りの王道を、印象深いフレーズで構築している。マーチンD18の乾いた音が、70年代アコースティックサウンドのスタンダードになった瞬間である。
そういう意味でいくと『元気です。』は、たくろうの代表アルバムでもあり、フォークソングの代表アルバムという言い方もできるのではないか。
 
 たくろうは自身のライナーノーツで、
「もうフォークなんて関係ない。俺は俺だ。「帰れ!」なんて言ってはいけない。自分の歌を歌うだけだ・・・」
フォークファンに向けてこのようなニュアンスの言葉を綴っている。フォークファンは黙るしかなかった。その後、ある事件をきっかけにたくろうバッシングはコアなフォークファンからマスコミへ移行することになるが、それもフォークブームを作り上げてしまった代償というべきか。音楽とは関係ないところで彼のとりまく環境が激変した結果・・・。それにしてはあまりにも大きな傷を追うことになるが・・・。この件について詳しく書いてもこの『元気です。』には関係ないので割愛するが、要は有名税としては高く付いたということ。
そんなことより、フォークブームの魁となった勢いのあるアーティストの生の声を聴いてみよう。

2005年6月14日
花形
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by yyra87gata | 2012-12-14 15:01 | アルバムレビュー | Comments(0)
 いつだって中古レコード屋「ハンター」とイシバシ楽器がデートのお決まりのコースだった。もちろん、映画やコンサート、公園のお散歩もあるけれど、必ず中古レコード屋や楽器屋があると、「ちょっと寄ろう。」ということになる。
 別々の高校に通っていた2人は、話す内容は、お互いの学校生活の報告会になる。その報告が終わるとお互いの趣味の話になる。彼女は文学少女だったので、流行作家から純文学までいろいろな話材を持っていた。僕も本は好きだったが彼女ほどの読書量は無く、途中からちんぷんかんぷんになることもしばしばあった。
  僕はというと、音楽の話に終始し、ロックやフォークの話を一生懸命つばを飛ばしながら話していたんだと思う。特に流行っている音楽には目もくれず、ちょっと古臭いロックを好み、音楽評論家を気取って難しい言葉で語っていたんだろう。それでも彼女は興味深く聞いてくれていた(んだと思う)。
加えて、ロック喫茶に入り浸っていると、彼女より喫茶店で知り合った大学生の兄ちゃんやヒッピーの姉さんなんかと話に花が咲く。彼女も音楽は好きだったが、一般的な流行歌を好む普通の高校生だったので、そんな輩をある種、奇異な目で見ていた。僕がタバコを吸うことも良く思ってなかった。
楽器屋で下手くそなエレキギターをかき鳴らし、それをいつも後ろから見守っていてくれていた彼女が振り返るとそこにいなかったことに気づいたのは、クリームのサンシャイン・ラブのソロを弾いている時だった。
パンクという音楽は嫌いじゃなかった。世の中の不満をぶつけるために音楽でしか表現できない「ひ弱さ」が、可愛いじゃない。せいいっぱいカッコつけてるじゃない。音楽で世の中を変えようと本気で思っているところが愛しいじゃない。
その年はなぜかパティスミス・グループの『イースター』(1978)を好んで聞いていた。1981年はMTVが台頭し、音楽がドンドン軽くなっていった。シンセドラムを聴いて吐き気を催した。そんなときに、『イースター』は心にしみた。不器用ながらも精魂込めて歌うカボソイ烏(カラス)のようなパティが、けっして上手くはないグループを従え、軽い時代を全否定するかのごとくパフォーマンスする。痛快に思えた。でも、何故心にしみたんだろう。

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彼女は戻ってこなかった。別れる理由さえいわなかった。
そんな時に『イースター』である。飾らない音と詞が、飾りすぎていた自分と対比したとき、何とも恥ずかしく思えてきた。高校生の恋愛なんて背伸びして、つっぱって、強がって、格好だけで行動して・・・。男は子供だ。
そんな時に『イースター』である。
アルバムに合わせながら、ギターを弾いたとき、涙があふれた。

2004年12月7日
花形  
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by yyra87gata | 2012-12-12 18:49 | アルバムレビュー | Comments(0)