音楽雑文集


by yyra87gata

カテゴリ:アルバムレビュー( 157 )

『29』  奥田民生

 とにかくだらだらなのだ。このだらだらが許せない人は聴いてはいけないのだ。歌唱法から演奏からだらだらと弛緩したサウンドが耳にこびりつく。
これがネクスト・ジェネレーションのロックなのかぁ、と意気込んで聴いてみたものの、うーん・・・だらだらでしかないのだ。
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『29』(1995)。
僕は、このアルバムが発表された年に父親になった。だからかもしれないが、このアルバムに収録されている「息子」という歌が気になってしょうがなかった。僕の子供は娘なので、父親が息子に想う同性の親子愛についてはよくわからないのだが、父と子供という観点からこの歌を聴くと非常にわかったような気になった。
「わかったような」と書いたのは、もちろんしっかりと「わからなかった」のであり、親が子供に託す歌としてすばらしいものだとは思うのだが、当時の僕は、子供に対して立派な言葉(歌)をかけてあげられるほど大人ではなかったので、「わかったような」ふりをしていたのかもしれない。
親が子供に何かを託す・・・こういう人になって欲しい、と生まれたばかりの乳児に歌が歌えるか・・・僕には無理だった。
(しかし、子供に対して何かを残してやりたいという気持ちはあったので、後年、妻と一緒に娘に送るため歌を書いたことがある)
ちょうどそんな時、僕は再びこの『29』を聴きなおしており、「息子」が際立って聴こえたのだ。

 『29』は奥田民生のデビューアルバム。「愛のために」が記録的なヒットとなり、大成功のソロデビューとなった。それまで活動を共にしていたユニコーンは、おりからのバンドブームの追い風を受けていたというものの、僕の中ではひとつのビートバンドという認識でしかない。ゴールデン枠のバラエティ番組の主題歌を担当していたから、お茶の間に顔は知られていたが、僕自身に興味が無かったので印象は薄かった。
奥田民生は、ソロになってヒットをぶっ飛ばしたときのほうが、インパクトがあった。「愛のために」にはテレビやラジオから頻繁に流れ、連日僕らの耳に届いた。続くシングル「息子」もTVCMに起用されヒットを飛ばし、アルバムはミリオンセラーになる。

そして2年後、井上陽水と一緒にアルバム『ショッピング』(1997)を発表。パフィーに「アジアの純真」を書き下ろし、小泉今日子に書き下ろしていた「月ひとしずく」も収録されていた。
同時期、僕の娘は2人に増えていた。

 この『29』と『ショッピング』の組み合わせを聴けば、奥田ワールドの片鱗が理解できる。
つまり、この2作品は、例のだらだら感もパフィーの音を作り出すプロデュース感覚も、両方詰まったものなのだ。とにかく奥田の音楽性は、ありとあらゆる音楽を彼が租借して生まれてくるものなので、ちょっと音楽をかじった人間はニヤリとさせられる場面がたくさんある。70年代の歌謡曲やレイドバック・サウンド、映画音楽、ラグタイム、アメリカン・ハードロックからグランジまで五目御飯の様相でアルバムは進む。そういう意味で『29』は1990年代のJ-POPに掲げられたモニュメントである。このJ-POPという軽い言葉も奥田民生を表現する意味で適切かもしれない。

しかし、この頃の奥田民生の顔って「よしだたくろう」(若い時ってことよ)そっくりだ。
だらだら感や音楽性はぜんぜん違うけれど、表情がそっくり。広島で育つとあの顔になるのかな。ちなみに奥田は拓郎の高校の後輩である・・・。

2007年1月4日
花形
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by yyra87gata | 2012-12-24 12:49 | アルバムレビュー | Comments(0)
 1980年代のMTVブームの中心に位置したテレビ音楽番組に《ベストヒットU・S・A》がある。僕は、毎週土曜日の深夜11時過ぎになるとテレビの前に陣取り、目を皿のようにして画面に見入っていた。
この番組は、海外の音楽事情を映像で確認できる貴重なものだったので、自分の趣味ではない音楽が流れていても決して席を立つことはなかった。
そして、外タレの貴重なインタビューやランキングなど、いろいろなメニューがある中で僕のお気に入りは“タイムマシーン”というコーナーだった。
このコーナーは、時代を彩ったオールディーズを紹介するコーナーで、時代的にビデオではなく、ほとんどがフィルム制作されたものだった。演出もあまり練られておらず、どちらかというとノンフィクションの実録映画を見ているようなのだが、これが当時の臨場感を醸し出しており、妙に新鮮だった。
ツェッペリンの「コミュニケーション・ブレークダウン」(モノクロ映像)やクラプトンの「タルサ・タイム」(‘77年あたりのコンサート映像)、ディランのローリング・サンダー・レビューなどの映像が僕をわくわくさせた。
ある日の《ベストヒットU・S・A》。
いつものように小林克也の低い声で“タイムマシーン”というコールのあと、飛び出てきた映像は、なんとインディアンだった。
ロングストレートのブラックヘアーを細い紐のバンダナできっちりまとめ、Gジャンはザックリと袖が落とされ、そこから太い二の腕が出ている。力こぶの部分にも細い紐が巻かれていた。そしてギターを叩き壊さんばかりにストロークし、叫ぶインディアン。
僕は、テレビ局が映像を間違えたかと思った。
映像は、コンサート会場を捉えていた。野外コンサート。みんな上半身裸になり、踊り狂っている。何なんだこのバンド・・・しかも、よく聴くとどこか聞き覚えのある歌。
“カモン・ベイビー・ドゥ・ザ・ロコモーション・・・”
これは、リトル・エヴァの「ロコモーション」ではないのか(キャロル・キングとジェリー・ゴフィンの作品)。
日本では伊藤ゆかりがヒットさせた有名な歌だ。それをこのインディアンが何故?

 このインディアンとは、マーク・ファーナー。グランド・ファンク・レイルロード(以降GFR)のヴォーカル&ギタリストだ。3人編成(後期は4人)のこのバンドは、アメリカを代表するバンドで、日本でも相当な人気だったようだ。1971年の初来日、雷雨の中、後楽園球場で行われたコンサートは伝説となった。漏電するマイクに感電しながらマークは歌い続け、新聞沙汰にもなった。あまりにも爆発的な音で、遠く早稲田でも曲が聴けたという噂。かつてギネスブックに、世界最大音量を出すバンドとして認定されていたくらいなので、真実かもしれない。
 
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 GFRの人気を決定づけたアルバムは、誰が何と言おうと『アメリカン・バンド』(1973)である。
カウベルのカウントと基本の8ビートリズムを刻むドラムソロから始まるノリの良いタイトル曲は、堂々全米1位に輝いた。ギミックを使わず、ストレートなロックを展開するこのバンドの特徴はひと言で言って“わかりやすい”と言うことだ。風貌や音楽性を述べるならば、アメリカの片田舎の兄ちゃんが集まってロックンロールに夢中になっている、としか言いようが無いのだが、これぞ本来のロックンロールかもしれない。
 『アメリカン・バンド』はそれまで発表してきた田舎っぽいロックとは違い、キーボードを入れた4人編成期の作品である。3人の頃の荒削りな分は多少減ったかもしれないが、音楽的にはそれまでのアルバムよりも幅が広がり、聴き易くなったことがヒットの要因であろう。また、その聴き易さを引き出したプロデューサー、トッド・ラングレンの力も大きいと思う。音の魔術師であるトッドにかかれば、シンプルなロックを洗練されたロックに変えてしまうこともたやすいことなのかもしれない。
しかも、「ロコモーション」を取り上げるなんざ、並大抵のセンスではない。
「ロコモーション」発表当時でさえ、この曲は立派なナツメロで、若いバンドが取り上げる作品ではない。この曲を採用した経緯は、レコーディング中にマークがスタジオに入る際に鼻歌で「カモン・ベイビー・ドゥ・ザ・ロコモーション・ウィズ・ミー」と歌っていたところをマネージャに呼び止められ、真剣にレパートリーにしないか、と説得され、アレンジを施したという。当初、メンバーはこの作品を扱うことに抵抗したという。なぜ、ロックの懐メロをやらなければならないのか、と。
「ご機嫌な新しいダンス・ロコモーションを踊ろう」という古臭いフレーズのこの曲を今さら歌えといわれても、それは納得のいくものではなかったのだ。しかし、そこは、プロデューサーのトッド・ラングレンの腕の見せ所。彼はハンドクラップにのせたアカペラの導入部を作り、強弱を付け、ハードロックにこの曲を消化させ、古くささを一掃した。
レイルロード(線路)にロコモーション(機関車)はあまりにもはまりすぎだが、ひとつ間違えればめちゃくちゃ格好悪いところを、ギリギリのラインで収め、パワーに変えることができたのだ。

 GFRは1980年代半ばに再結成後、再来日した。1980年代のお手軽な音楽に真っ向立ち向かっていたが、時代の音ではなく、懐古趣味で集まったファンに迎えられる。マークは一人、気をはいていたが、音楽は変わりようが無い。「アメリカン・バンド」は「ロコモーション」のように力強く海を渡ったが、「インサイド・ルッキングアウト(孤独の叫び)」を続け、最後は「ハート・ブレイカー」になった。
 『アメリカン・バンド』のジャケットはゴールドに黒い文字でタイトルとグループ名が記されているのみ。
あくまでもシンプルである。

2006年12月28日
花形
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by yyra87gata | 2012-12-24 12:45 | アルバムレビュー | Comments(0)
 時は1980年。ちょうどロックも曲がり角にさしかかっていた時分のことだ。
なぜなら、この年、ツェッペリンのジョン・ボーナムは死亡し、バンドは後に解散を表明したし、パープルはリッチー・ブラックモアの脱退が響いて人気は低迷し、解散(1976)。エアロスミスに至っては、看板ギタリストのジョー・ペリーの脱退が響き、発表されたアルバムは酷評。時代錯誤のハードロックと揶揄され、メンバーはドラッグ漬の日々だったとか。
世界中の音楽界はテクノが席巻し、ポリスやコステロといったニューウェイヴの時代に移っていった。アメリカの歌姫であるリンダ・ロンシュタットやポール・マッカートニーでさえ、ニューウェイヴの波に飲まれた。そして、リズムマシーンと打ち込みの時代に突入し、ドラマーは失業して行ったのだ。
無味乾燥なリズムは、新しい時代を表現したかもしれないが、僕の耳には平坦な音の繰り返しに過ぎなかった。

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 そんな時代に敢えてソフトロックの範疇から一人アーティストがデビューを飾った。
クリストファー・クロス。
デビューアルバムは、『CHRISTOPHER CROSS』(1980)邦題:南から来た男。
大物ゲストの参加で話題になった新人のデビューであった。ギター・ソロにラリー・カールトン、ジェイ・グレイドンなど。コーラスでは、ニコレット・ラーソン、マイケル・マクドナルド、ヴァレリー・カーター、ドン・ヘンリー&J・D・サウザー・・・。
プロデューサーがエア・プレイ系でなく M・オマーティアンというのも意外だった。
但し、参加メンバーの名前を見るだけで、音が聴こえてくるようだが、一番驚いたことは、C・クロスの歌声だ。風貌とは似つかない声が意外性を生んだ。頭髪の薄いちょっと太った年齢不詳の男がいきなりボーイソプラノで爽やかに歌い、ひとたびギターを弾き始めれば、バリバリ弾きだす。意外の連続であった。
 当時の最先端だったアクティブ・ピックアップEMGを搭載したバレー・アーツのギターで速弾きを決める。ちょっと出たお腹にギターを乗せ、弾きまくる。C・クロスは、バークレー卒業ということもあり、ギターの腕前も基礎に忠実な運指を見せた。スタイル的にはちっとも格好良くないのだが、ついついMTVでは、彼の姿(指)を見入ってしまう。

 このアルバムは、グラミー賞でロックやフォーク、ジャズ、クラシックなどのカテゴリー枠を超えた全ジャンルの作品が対象である「最優秀レコード」、「最優秀アルバム」、「最優秀ソング」、「最優秀新人」の主要4部門を総なめにしてしまった。1958年からはじまるグラミー賞の長い歴史の中でその4部門を独占したアーティストはクリストファー・クロスだけである。

 僕はこのアルバムを聴くたびに、あの頃の時代を感じるのだ。アレンジや曲調ははっきり言って驚くほどスタンダード。奇をてらったものは無く、むしろ正統派のAORである。その作品がニューウェイヴの中で輝いていたのかな、と。カミソリのような鋭いビートが街にあふれる中、落ち着いたポップスが人々の安息の地になったのか・・・。
このアルバムの後、C・クロスは映画《ミスター・アーサー》のテーマソング「ニューヨーク・シティ・セレナーデ」をヒットさせ、これは日本でも大ヒットした。
 僕は1986年の彼のライブに行ったことがあるが、相変わらずの美声がよみうりランド・イーストの野外ステージから夏の夕空に響き渡った。目を閉じて聴くと心地よいが、どうもあの風貌で歌われてもなぁ、なんて思ってライブを観ていたが、ステージにかける真面目な姿勢には好感が持てた。
ラストソングの「Ride Like The Wind」では、ギターが壊れるんじゃないかと思うほど弾きまくっていたが、体をのけぞらせていても運指はしっかりクラシックギターのようにしっかりしていた。
けっして取り乱さず、収まりの良いショーだった。カップリングでその後登場したグレン・フライのアメリカンなライブが、ダルに見えた。同じアメリカ人でこうも違うか、といった感じ。

 最近、C・クロスの話題を耳にしないが、元気に歌っているんだろうか。相変わらず太っているんだろうか。

2006年12月8日
花形
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by yyra87gata | 2012-12-24 12:41 | アルバムレビュー | Comments(0)

『BIG WAVE』  渡辺美里

 1985年6月15日。東京国立競技場では全国の民放各社の協賛による“All Together Now”が開催された。
はっぴいえんどやサディスティック・ミカ・バンド(ヴォーカルはユーミン)の再結成やオフコース、チューリップ、こうせつ、さだまさし、イルカなどのベテラン組。吉田拓郎は司会も勤めた。
若手の中では、山下久美子と白井貴子が同じステージに立ち、佐野元春、サザンオールスターズがトリをつとめた。他にもチェッカーズやアルフィー、ラッツ&スター、アン・ルイスなどが出演。総勢約50組のアーティストが一同に会したイベントだった。
その伝説的なイベントの中に同年5月にシングルデビューしていたシンガーがいた。しかし、このイベントでは、彼女の名前はパンフレットにも載らず、誰も彼女のことを認識していない。
彼女とは、白井貴子のバックコーラスというポジションを与えられた渡辺美里である。
しかし、彼女のコーラスは目立つことなく、5万人の観衆の声に消されていた。

 美里に転機が訪れたのは、やはり小室哲哉作曲の「My Revolution」との出会いだろう。
デビュー時からライブハウスでは話題になっていたものの、今一歩のところだった彼女が、この作品でオリコン1位を記録した。「My Revolution」は、テレビドラマ「セーラー服通り」の主題歌としてタイアップされ、ターゲットが見事にはまった。1986年1月のことだ。
美里は同時期に全国18ケ所19公演のコンサートツアーを開始する。“19歳の秘かな欲望”と題された。そしてこの年の夏、西武球場での伝説のスタジアムライブが開始された。
このスタジアムライブは2005年まで20年続く大イベントとなった(今年は球場を離れ、"山中湖シアターひびき"のこけら落とし公演としてイベントが行なわれた)。
 
 僕が渡辺美里の歌声を生で聴いたのは、今まで2回。しかし、“All Together Now”は、印象など全く無いし、1993年泉谷しげる提唱により開催された武道館公演“日本を救え”(奥尻島・雲仙普賢岳のチャリティーコンサート)の時も、彼女は大勢の中のひとりだった。
つまり、渡辺美里の単独ライヴを生で観たことが無いのだ。
 単独公演を生で観ると全然迫力が違うということは、テレビやLDの中で見た時のグルーヴで感じ取ることができる。歌の上手さは昔から定評があるし、表現力のある声は彼女の魅力だ。昭和と平成をまたいだ実力派ヴォーカリストの一人だ。
 
 そんな美里のアルバムの中で僕は『BIG WAVE』(1993)を推す。美里のアルバムの中では埋もれがちになるこの作品は、ロック色が強く、バンドが生み出すグルーヴと美里のヴォーカルのせめぎ合いが実にスリリングな出来になっている。
1曲目の「ブランニューヘブン」からエンジン全開。2曲目の大げさなインストはロックコンサートの始まりを予感させる。その後はラストまでコンサートを体験しているような感覚に陥る。非常に曲順が気持ち良い。
美里の主要な曲を作る作曲家といえば奇才・岡村靖幸。アップビートからスロウまで、僕たちを楽しませてくれる。彼が歌う作品は何を言っているかわからない、という人も美里の歌になった瞬間ファンになることも多いという。靖幸ちゃんごめん。
岡村靖幸の作るメランコリックな8ビートロック「BIG WAVEやってきた」やアフロビートを強調した「ジャングル・チャイルド」などは、美里のヴォーカルがいくつも表情を変える。また、小林武史も曲を提供しており、当時は仰々しいアレンジと思った作品だったが、今聴いても古さを感じさせないところは見事である。
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 アルバムを最近聴きなおして、1993年の西武球場公演を観ておけばよかったと13年経って思う今日この頃である。

2006年11月9日
花形
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by yyra87gata | 2012-12-24 12:16 | アルバムレビュー | Comments(0)
 僕はギブソンのアコースティック・ギターを購入しようと思ったことが何度かある。拓郎やジョン・レノンが使っているところを見て単純に格好良いと思ったし、色艶もよくアメ色に輝くジャンボギターを抱え、シャウトするミックなんか見ていると喉から手が出るくらい欲しくなったものだ。しかし、最後の最後にギブソンのアコースティック・ギターに手が出なかった理由は、いくつかある。
ギブソンのアコは、前述の通りシンガー向きなんじゃないか、ということ。
そういえばギタリストでギブソンのアコを好んで使う人ってあまりいない気がする。
日本人では、吉川忠英や佐橋佳幸、チャボなど数えるくらい。(ギタリスト向きではないのかなぁ)
そして、
「ギブソンのアコースティック・ギターは、当たり外れの差が激しいのであまりお勧めできませんねぇ。でも、ジャキジャキとカッティングをした時の快感はギブソンでしか味わえませんよ。」
「ネックが細いからエレキギターを弾いている人からアコに移る場合は好評ですね。」
「見た目が派手ですからステージング向きですね。」
・・・すべて行きつけの楽器屋さんの言葉。
確かにマーチンと比べると恐ろしく雑に作られている気がする。テキトー。
でも、先ほどの楽器屋さんの言葉で、ギブソンでしか味わえない快感の音というところは、同意する。

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 ギブソンJ50というサイド&バックがマホガニーで形成された有名なモデルの極上の音を堪能するなら、ジェームス・テイラーの『スィート・ベイビー・ジェームス』(1970)を聴くべき。
ストローク、アルペジオ、カーター・ピッキングなどどんな弾き方をしても、ギブソンJ-50の音が心地よく響く。低音がちょっとつぶれ、自然とコンプレッサーがかかったような音。高音はシャリシャリと軽い。
この音に魅了されたミュージシャンはたくさんいるだろう。
ジェームス・テイラーの落ち着いたヴォーカルが、1970年代初頭の疲れきったアメリカを癒す。
そう、あの頃はみんな疲れきっていたのだ。歌は内省的になり、内へ内へと発信の矛先を変えていった。そんな私小説のような作風にファットな音よりも、軽い乾いた音がマッチした。
ジェームス・テイラーの朴訥としたヴォーカルが、フォークともカントリーともいえない雰囲気を醸し出していた。
 ベトナムや公民権で揺れ動くアメリカでは、メッセージ性の無い音楽は認められなかった時期があるという。しかし、ジェームス・テイラーやキャロル・キング、ジャクソン・ブラウン、ジョニ・ミッチェルといったアーティストを好むファンは、メッセージ性がなくとも日々の生活や人物描写に優れ、音楽的に高度であれば、その作品を評価した。これがシンガー・ソングライター・ブームである。
 『スィート・ベイビー・ジェームス』の中にジェームス・テイラーの実体験を基に制作された「ファイヤー・アンド・レイン」という作品がある。この作品は、彼が重度の心身症で長期療養していた時代にそこで知り合ったガール・フレンドが、後年亡くなった事を知った際に作られたもので、
“僕は炎や雨をくぐりぬけてきた…でも、また君と会える日を夢見てきた”
それは、彼女の死がまるで自分の責任とも言わんばかりに歌い上げる。
こういった内省的な部分は、誰にもあることで、その共感が彼の作品の評価になった。

 ギブソンの特徴的な乾いた音が、心に響く。そんなアルバムである。

2006年10月30日
花形
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by yyra87gata | 2012-12-24 12:14 | アルバムレビュー | Comments(0)
~CCRの風景~
 あの日の自分に逢うために、僕は足を速めた。
忘れかけていた記憶が少しずつ甦り、あの時代を感じることができる場所の前に着いた時、店の中からは懐かしい音楽が流れていた。
あの日の友と別れてからもう20年以上も経っていた。
その友から突然の連絡。どこで調べたのか、電話の向うに聞こえる友の声は、ちょっとだけ年輪を重ね、ハスキーになっていた。

 「最近、どうよ。」彼の口癖は20年前と一緒だ。
当時と変わらないヘアスタイルに白髪が交じり、顔には年輪に不相応なシワが刻まれていたが、時々見せる“えくぼ”はあの時のままだ。
その日僕たちは、深夜まで語り合った。僕と彼とは、中学と高校そして何にも属さなかった2年間、合わせて8年間を過ごした。その後、彼はアメリカに渡り、音信が途絶えた。
そんな彼との思い出話は1日という時間では語りつくせない。
BGMはあの頃のアメリカンミュージックが流れていた。

 店にあったギターを鳴らし、2人で当時の歌を歌う。
CCRは彼の十八番だった。
ジャキジャキとカッティングを響かせながら、ジョン・フォガティのように声をつぶしながら歌う。
彼は、アメリカ人になりたいと言っていたことを一緒に歌っている時、ふと思い出した。
アメリカに渡ってグリーンカードをもらって、向うで生活したいとよく言っていたのだ。
グリーンカードは今、彼の手の中にある。
CCRの明るい歌が店内に響いた。

 1960年代後半から1970年代前半の短期間、CCRはアメリカンロックの頂点に立ち続けた。シンプルな演奏とカントリーミュージック、スワンプ・ミュージックを基調としたロックはアメリカ人の琴線に触れ、大ブームになったバンドだ。
シンプルな詩と音がストレートに届く。そして、音楽が歴史に意味を持たせることができた時代に花開いたバンドのひとつだ。社会派とも言われ、ただのガレージバンドではなかった。

 彼の歌声は止まらなかった。
「プラウド・メアリー」「スージーQ」「ルッキング・アウト・マイ・バック・ドア」・・・。
ひと通り歌い終わって、一息入れた時、彼は口を開いた。
「俺、手術するんだよ。胃癌らしい。来月あたり・・・。どうなるか、わからないじゃん。だからこうやって会いにきたってわけ。また、来月電話するよ。」
そして、見送られることを拒否し、彼は店を出て行った。

彼と別れた後、店のBGMはCCRの『ペンデュラム』(1970)が流れ始めた。
店のマスターは涙をこらえていた。
アルバムの中の「雨をみたかい」のフレーズ。

「俺は知りたくもない  そんな雨を見たことがある奴のことなんて
 俺は知りたくもない  そんな雨を見たことのある奴のことなんて
 晴れた日に降る雨のことなんて・・・」

ここに歌われている「雨」はベトナム戦争のナパーム弾のことを指しているが、
今の僕とマスターには、彼を襲う「病魔」に聞こえた。


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2006年9月29日
花形
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by yyra87gata | 2012-12-23 11:00 | アルバムレビュー | Comments(0)
 80年代を代表するアイドルは誰がなんといっても松田聖子に尽きるだろう。アイドル豊作だったあの頃、松田聖子は頭ひとつ出ていた。見た目の可愛らしさやしぐさ、”ぶりっ子”などという言葉も生まれた。そして髪形も大流行し、みんな聖子ちゃんになっていた。
彼女の売れた要因は、彼女の持つ魅力に尽きると思うのだが、加えて楽曲提供者がバラエティに富み、聴いているもの、観ているものを飽きさせなかったということだろう。
作家陣は当時の(今でも)ポップス界の大御所が並ぶ。大瀧詠一、呉田軽穂(松任谷由実)、細野晴臣、尾崎亜美、松本隆など。そして僕は数多いビッグネームの中で、財津和夫の作ったシングル3曲が好きだった。「チェリーブラッサム」「夏の扉」「白いパラソル」。
財津の作る歌謡曲は、大瀧や細野の作るアメリカンポップスの焼き直しのようなポップスではなく、どちらかというとチューリップの延長線上の匂いがしたが、歌謡曲にアプローチした財津サウンドではなく、あくまでも財津ポップスがそこにあった。
松田聖子が少女から大人になる微妙な年頃での発表・・・彼女の表現力と財津の音楽性がぶつかり合い、派手ではないが、とても印象的な作品に仕上がったのではないだろうか。

 財津和夫はチューリップ活動中からソロアルバムの発表や、他のアーティストへの楽曲提供を行なっている。財津のサウンドはチューリップで見せる音とそれ以外でみせる音のギャップが面白く、前述の松田聖子の例や彼のソロアルバムでみせるいろいろな音楽性が僕達を楽しませてくれた。
『宇宙塵』(1978)『I need you and YOU』(1979)の初期2枚のソロアルバムはチューリップには無い内省的な内容だった。特に『宇宙塵』は財津ひとりですべてのパートをこなし、こじんまりとまとまっている印象。自宅録音ではないかと思うほど、プライベートな音がした。
長いインターバルを経て出したサードアルバムの『シティー・スイマー』(1986)は、AOR色の強いゴージャスな作りのアルバムだ。
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 杉真理、松尾清憲、ケラ、呉田軽穂らが曲を提供。タイトルからもわかるように都会の情景を重厚なサウンドにのせている。シティーポップという言葉は軽いイージーリスニングを想起させる時もあるが、このアルバムは重い。財津がビートルズを代表としたブリティッシュ・ポップに影響を受けているせいもあるかもしれないが、イギリスの空のように重い。また、チューリップでは聴く事が出来ないギターの激しいソロやハードな曲調、原みどりとのデュエットなど、財津和夫の新境地を見出す作品である。
 アルバム発表と並行して行なわれたコンサートでは、シンガー財津の存在が大きくクローズアップされた。チューリップではキーボードやギターを演奏し、バンドの一員として音楽を奏でていたが、このコンサートではハンドマイクで歌い上げる財津を見ることができた。ファルセットと地声を行き来する独特な歌唱法の財津和夫はソフトロックの部類という先入観があったが、片やツインギターが左右でライトハンド奏法を決めたときはさすがに驚いた。財津も負けじと声を出していた。
この頃、財津が率いていたチューリップは、オリジナルメンバーがいない第3期のメンバーで活動していた。財津よりひとまわりも歳が若いメンバー、しかもギタリストが不在だった。そんなこともあってギターサウンドに飢えていたのではないだろうか。
それまで良きにつけ悪きにつけチューリップという呪縛が財津にはあったのかもしれないが、メンバーも一新し、好きなことを好きなだけやろうという意志が見えたコンサートだった。

 松田聖子に書いた「白いパラソル」はその後『Z氏の悪い趣味』(1987)でセルフカバーしている。セルフカバーアルバムは自分史でもあるし、プライベートな自分を映し出す作品でもある。「夏の扉」ではなく「白いパラソル」をカバーするところが財津らしい。

 社交的(?)なソロアルバム『シティー・スイマー』は、松田聖子や他のアーティストへの曲提供がトリガーとなり、完成されたものではないだろうか。

2006年6月28日
花形
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by yyra87gata | 2012-12-23 00:18 | アルバムレビュー | Comments(0)

『Communication』 FLYING KIDS

 とにかく時間が無くなった。大学を卒業し就職した時、1日の半分以上が会社の時間になった。音楽に囲まれていた生活がガラリと変わった。バンド活動も無くなり、通勤時にウォークマンで音楽に触れる程度。今から思うとよく途中で破裂しなかったと思う。
それだけ新しい生活に忙殺されていたのだろうし、音楽と同じくらい車も好きだったのでそれにかかわる仕事だから、それなりに集中できていたのかもしれない。
そんな時に会社から帰ってきた観たテレビ番組。これは何だ?
“平成名物TV イカすバンド天国”。
三宅悠司と相原勇が司会。村上秀一や吉田健、伊藤銀次、萩原健太らが審査員になってアマチュアバンドの批評をする。勝ち抜いてチャンピオンになるとメジャーデビューの道が開かれるという、わかりやすい番組だった。
この番組はあれよあれよと言う間に大ブームとなり、一大バンドブームが起きた。
インディーズシーンからメジャーへの可能性が広がったので、アマチュアミュージシャンたちは色めき立った。原宿ホコ天やライブハウスは活況を呈し、番組に出たバンドのステージには黒山の人だかりが出来上がった。
しかし、あの頃のバンド達は今何処へ。
BEGINは相変わらず独自路線で活躍中だが・・・
たま、ジッタリンジン、KUSUKUSU、ノーマジーン、THE NEWS、マルコシアス・バンプ、人間椅子、
remote、宮尾すすむと日本の社長、ブランキー・ジェットシティー・・・。いっぱいいたなぁ。

 僕は、そんな現象を結構冷ややかな目で見ていた。なぜなら、僕がかつて活動していたバンドはバンドコンテストで数度入賞し、事務所から声をかけられ、それでも地道にライブハウスで客を増やしていたバンドだったので、ポッと出のバンドが売れることに違和感があったのだ。
一般人から見たらテレビのバンドも僕らのようなバンドも同じようなものなのかもしれないが、当事者からするとテレビのおかげでマイノリティなアマチュア音楽がいきなりメジャー化したことによる勘違い野郎の増殖は耐え難いものがあった。下手くそでビジュアルだけに力を入れて、そんなバンドにファンがついて・・・でも1年も持たない。消費される音楽がそこに出来上がっただけ。なんだかなぁ。
だからモンキービジネスって言われるんだよ。
でもそんな中、僕はあるバンドだけは注目していた。
FLYING KIDSである。浜崎のシャープなヴォーカル。既成概念に囚われないキーワードをファンクビートに乗せて歌い放つ。
シンプルなリズム(ドラムは確かタムなんて無かったんじゃないか)、ファンキーなベースとギターがバンドのグルーヴを生み出し、“イカ天”の中では突出していた。
デビュー盤『続いていくのかな』(1990)で登場した時は、詞の世界でも僕たちを驚かせてくれた。例えば「我思うゆえに我あり」などは旧日本語の語感をソウルビートにのせ、力強いメッセージを伝えた。逆にヒット曲「幸せであるように」は、思いっきり素直な歌詞にマーヴィン・ゲイを彷彿とさせる緩やかなソウルミュージックを奏でる。

 ちょっとクセのあるヴォーカルに好き嫌いが出そうだが、別に万人向けでなくてもいいわけだし、もともとロックはマイノリティな音楽だったし、なんて考えながら・・・。

 1992年。“ぴあ”の20周年アニバーサリーフリーコンサートに出演した彼ら。
トリのピンククラウドの前に登場したが、完全に客をくっていた。
浜崎のヴォーカルが夕暮れの空に溶けていった。いいバンドだなぁと改めて思ったものだ。

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 『Communication』(1994)は、そんな彼らの9作目のアルバムである。「セクシー・フレンド・シックスティーンナイン」は三菱FTO(自動車)のCMに起用され“かなりキテール・カンジテール”という言葉がちょっとだけ流行った。今は普通となったラップっぽい歌い方もスゲー格好良かった(よく聴くと、浜崎のヴォーカルってチャーに似てるんだよね)。
このアルバムでも相変わらずのファンク・ミュージックはノリが良く、充実の域に達している。
惜しまれて解散してしまった彼らだが、僕はこの『Communication』が一番彼ららしいアルバムと言う気がする。
FLYING KIDSは魅力的なバンドだった。アマチュアっぽい演奏の中に異様に尖った浜崎のヴォーカルがミックスされる。きっと浜崎は上手いプレイヤーをバックに歌っても面白くないのかもしれないな。ま、そんなことどうでもいいか・・・。

2006年9月15日
花形
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by yyra87gata | 2012-12-22 21:00 | アルバムレビュー | Comments(0)
 ハモンドの前に立つと必ずプロコルハルムの「白い影」を弾いてしまう。
ピアノの前に立つと自然とビートルズの「レット・イット・ビー」のイントロが出てきてしまう。
では、アナログシンセの前では・・・ヴァン・ヘイレンの「ジャンプ」なのである。
あの軽快なイントロを弾くだけで一気に「ジャーンプ!」なのである。何の変哲も無いシンセフレーズだが、80年代のロック小僧はみんな反応してしまう。
エディが間奏でいくらギターの速弾きを駆使しても「ジャンプ」の中ではあのシンセフレーズの前に全てがひれ伏してしまう。それだけ印象的なフレーズだ。
(プロモーション・ビデオで楽しそうにシンセを弾いていたのはエディ・ヴァン・ヘイレン本人だったけれど・・・)

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 『1984』(1984)はコンパクトにまとめられた80年代ロックの名盤だ。40分にも満たない収録時間にロックがギュッと詰め込まれている。
ダラダラと74分もCD回して結局ノルことができないアルバムに比べると、きついテキーラをワンショットで呑み干し、口から火を吹きながら体が瞬時に熱くなる、そんなアルバムである。
それまでの『VAN HALEN』(1978)、『WOMEN AND CHILDREN FIRST』(1980)では、新人バンドにありがちな勢いとトリッキーなエディのギタープレイにばかり耳がいってしまい、名プロデューサー、テッド・テンプルマンをしても特徴を伝えきれず、不完全燃焼であった。アルバムセールスはそこそこ伸び、全米チャートも駆け上るが、何故か今ひとつだった。
その原因はオリジナルのヒット曲がでないことにある。ヴァン・ヘイレンのイメージはキンクスの「ユー・リアリ・ガッタ・ミー」やロイ・オービソンの「オー!プリティ・ウーマン」といったカバー曲をヒットさせていたが、オリジナルのヒットは皆無だった。だから、いくらデイヴがパフォーマンスをしても、ライヴ会場だけの世界で完結してしまう。
 しかし、『1984』は捨曲なしの名曲ぞろい。「ジャンプ」「パナマ」「ホット・フォー・ティーチャ―」・・・。
シングルチャート1位を同アルバムから3曲も記録。名実ともにアメリカンNO1に就いた瞬間だった。
但し、アルバムチャートは最高位2位なんだよね。1位はあのマイケル・ジャクソンの『スリラー』(1983)。「ビート・イット」ではエディがギターを弾いているから皮肉なもんだね。
さて、このヴァン・ヘイレン・・・。
『1984』のアルバムを境にリード・ヴォーカリストが代わってしまった。
デイヴ・リー・ロスからサミー・ヘイガーへ。
僕はヴァン・ヘイレンといったら、断然デイヴのヴォーカルを推す。
あのアホらしいまでのパフォーマンス。エアロのスティーブン・タイラーやKISSのポール・スタンレーと同じ匂いを持つあの獣の匂い。
ヴォーカリストというより、エンターテイナー・・・というよりロックスターなのだ。
デイヴはコンサート中にサーフボードに乗って観客の中に飛び込み、人の波に乗る。観客に運ばれ、ステージへと戻る。人の海となった会場は大興奮。んなアホな。

 『1984』は、お手軽にカラッとした気分になるにはもってこいの1枚である。
おまけに、デイヴのバカっぽさが目に浮かぶくらいわかりやすい作品。

2006年9月2日
花形
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by yyra87gata | 2012-12-22 20:55 | アルバムレビュー | Comments(0)
 いつもの曲がり角を右に曲がると、そこから乾いたドラムの音が聞こえる。そしていつも窓を開けっぱなしにして、上半身裸の男がせわしなく16ビートを刻んでいる。
自転車で通学していた僕は、いつもその曲がり角に近づくとちょっとだけ胸が高鳴った。
そのビートは非常に黒いものに聞こえたが、実はタワー・オブ・パワーのリズムをその男は叩いていたのだ。なぜなら友達を連れて、男の部屋を覗きに行った時、友達はすぐに『ヴァンプ・シティ』(1972)の「You’re still a young man」と『タワー・オブ・パワー』(1973)の「What is HIP」という曲のリズムだ、と断定したからだ。その後、友達の家に行き、彼の部屋でタワー・オブ・パワーを初めて聴いた時、その特徴的なリズムが聞こえ、なんともいえない高揚感が僕を襲った。
僕はそれまで、よしだたくろうや陽水、海外ではビートルズ、フリーといった比較的わかりやすい音楽を好んで聴いていたが、ブラスの効いたセンスのある重厚なロックを初めて聴いた時、ちょっとだけ大人のロックを体験した気がした。特にその頃の僕はドラムを始めたばかりだったので、当時人気のジョン・ボーナムやイアン・ペイスのレコードを何回も聴くより、間近で見る上半身裸の男のリズムの方がためになった。見て憶えることは早い。特に音階の無い楽器なので、筋肉の動きや手首の返しなど、とにかく見よう見まねである。16ビートを刻みながら、スネアを連打する。パラディドルを憶えたのもその上半身裸の男のおかげだ。そして、いつしか好きなドラマーにタワー・オブ・パワーのデビッド・ガリバルディが加わった(本当は上半身裸の男なんだけど・・・)。

 タワー・オブ・パワーはシカゴやブラッド・スェット&ティアーズと並ぶブラスロックの雄で、サンフランシスコを中心に活動し、フィルモアなど有名なライヴハウスにも出演(ジミ・ヘンの前座もやったことがあるですぜ)していた。
セカンドアルバム『ヴァンプ・シティ』(エンジニアはあのスティーブ・クロッパーですぜ)発表後は、舞台を全米、そして全世界へと活動範囲を広げていった。総勢10名に及ぶメンバーでブラスロックにファンクとソウルを融合させ、はじけまくる。ロックのオーケストレーションが体験できるバンドなのである。
ヴォーカルが弱いという風評もあったが、そんなことよりも、彼らの出すグルーヴは白人離れしたノリの良さだ。
しかし、70年代も後半に差し掛かる頃、ディスコ・ミュージックの波に押され、音楽性が微妙に変化していった。レコード会社もワーナーからコロンビアへそして80年代に入るとエピックへと移籍。同時にメンバーも大きく替わっていった。
 この状況は、彼らが白人のグループだったことが大きく起因している。ディスコ・ミュージックへの音楽地図に対応しきれなかったことが彼らを劣勢にさせた。もし、彼らが黒人であったら、ソフトロックへの変更(クール&ザ・ギャング)やギラギラのダンスミュージックへの変更(アース・ウィンド&ファイヤー)が出来ただろう。しかし、白人がやってもサマにならず、すぐに誰かの真似と揶揄されるだけだったかもしれない。
そんな彼らは音楽を求め、ホーンセクションを切り離しながら、様々なアーティストのバッキングをつとめた。リトル・フィートやヒューイ・ルイス&ザ・ニュースなど・・・。そして日本のアーティストのバッキングにも参加している。RCサクセションの70年代の名盤「シングルマン」もタワー・オブ・パワーのホーンセクションだ・・・。これは買いだよ。
  
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 『ベリー・ベスト・オブ・タワー・オブ・パワー ワーナー・イヤーズ』(2001)は、タワーの一番美味しいところを収録したベスト盤である。『ヴァンプ・シティ』も名盤だが、ワーナーの頃のタワーは全て聴いてもらいたいので、あえてベスト盤をお勧めする。

2006年8月17日
花形
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by yyra87gata | 2012-12-22 20:52 | アルバムレビュー | Comments(0)