音楽雑文集


by yyra87gata

カテゴリ:音楽コラム( 105 )

 
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 ローザ・ルクセンブルク。ポーランド出身、ドイツで活躍したマルクス主義の政治理論家で、革命家でもある。1918年のドイツ革命期において機関紙「赤旗」を発刊し皇帝時代に言われ無き罪で捕まった政治犯の特赦や死刑の廃止を訴え続けた。その後、仲間とドイツ共産党を作り上げたが、極右勢力であり、後にナチスに変革する団体であるドイツ義勇団に逮捕され、惨殺されている。
彼女は革命半ばにして命は潰えることになるが、最後まで自由を訴え続けた。

 1984年、NHK「ヤング・ミュージック・フェスティバル」に登場した奇抜な格好の4人。テロップには「ローザ・ルクセンブルグ」とあり、「ルクセンブルク」では無いのかと思ったのもつかの間、ファンキーな音がブラウン管から解き放たれた。
土着民の歌う労働歌にも聞こえるし、交尾のために雄が雌を挑発するような獣のようにも聞こえる。しかし、歌っている内容は中国人のことを歌っている・・・。
こんなインパクトはRCサクセションの清志郎が化粧して「愛しあってるか~い!」って久保講堂で叫んだ時に等しかった。
 その光景は音と共にただただ奇抜に映り、私の脳裏に日光写真のように焼きついた。
1986年に2枚のフルオリジナルアルバムが出た。2月にファーストアルバム『ぷりぷり』、12月にセカンドアルバムの『ROSA LUXEMBURG II』を発表。そして、翌年の8月にはあっさり解散してしまった。
ヴォーカルの久富隆司(以下どんと)とギターの玉城宏志の音楽性の違いが原因と言われているが、そんなことは本人だけが知っていることだからここでは語らない。
どんとの描く世界は抽象的の中にピンポイントで言いたいことを鋭く突くという特徴がある。ちょっと聴いているだけでは仮の歌詞なのではと思うほど意味不明な言葉が並ぶこともある。リズムに旋律をつけているような自由な発想。きっとそんなところを矢野顕子や細野晴臣は高評価し、彼らをプロの世界にいざなったのだ。
そして、どんとの自由奔放なキャラと玉城のハードロックギターがケンカをしながら音を紡いでいるところに彼らの魅力があった。そのバンドを見過ごしたこと・・・解散を聞いた時の私の落胆はとても大きかった。ライブに中々行けず、もっぱら彼らの2枚のアルバムを聴いて過ごす日々が続いた後でのいきなりの解散宣言。その解散は「宝島」で知ったのかそれとも「ロッキング・オン」だったか・・・。

 解散後のどんとの動きは早かった。その年の11月には新バンド「ボ・ガンボス」でデビューライブを披露している。ガンボとはアメリカ南部のごった煮スープのことで、どんとの様々な音楽の具が詰まったごった煮スープのような個性溢れるバンドとでもいうのか・・・。
 その後、彼らを日比谷野音で観る機会があったが、そこにはローザ・ルクセンブルグの持つ緊張感は無かった。どんとの自由な世界が繰り広げられ、観客一体となったある種コミューンのような雰囲気に包まれていた。
 私がローザに衝撃をくらったあの時から時間も経ち、環境も考え方も変わった中で欲している音はどんどん変化していく。だからそのライブで私は少々戸惑ったことは事実だが、受け入れるか受け入れないかは自分で決めればいい話。
 ボ・ガンボスは成功を収め2000年1月にどんとが急逝するまで独自の道を走り続けた。

 約30年前のローザ・ルクセンブルグをターンテーブルに乗せると、あのNHKの衝撃が思い出される。オリジナリティとテクニックが融合したすごいアマチュアだった。
私は忘れることはないだろう。
音楽という思想は、人それぞれの中に存在する。もちろんローザ・ルクセンブルグもボ・ガンボスも・・・。
ローザ・ルクセンブルクの有名な言葉
「Freiheit ist immer die Freiheit des Andersdenkenden.(自由とはつねに、思想を異にする者のための自由である)」
 
 この思想がローザ・ルクセンブルグにもボ・ガンボスにも息づいているに違いない。
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2017/03/29
花形
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by yyra87gata | 2017-03-29 18:47 | 音楽コラム | Comments(0)
 
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 我が家に本格的にビデオデッキが投入されたのは1985年の4月でした。本格的にと言う言葉を使ったのは以前1度だけモニターでSONYベータマックスが2週間ばかり置かれたことがあり、お袋が「こんな高いもの買えない」といって返却してしまった(この話は 「キャンディーズが我が家にやってきた」 http://hanatti.exblog.jp/17460755/ に詳しい)からです。
さて、価格もこなれ、ビデオデッキが一般家庭に普及すると同時に、ちまたではレンタルビデオ店が流行り始めました。
 私は大学に入学し、慣れないエレキギターなるものを任された時でありましたので、とにかくギタリストのビデオでも見て勉強しようとせっせとレンタルビデオ店に通い始めたのであります。
そして、やっぱりみんなが影響を受けたというエリック・クラプトンの弾き方が一番しっくりくるんだろうな、などと思いながら何本か確認する毎日でありました。
ある日いつものようにビデオを借りてきて調子よくデッキに放り込みました。
それは、レイドバックしたサウンドを勉強でもしようかと思い「エリック・クラプトン1977 On whistle Test」という音楽番組での生ライブを収録したもの。
目を凝らして観ていたその瞬間、画面からは聞いたことも無いような流れるフレーズと滑らかなトーンが溢れてきます。
ふむふむ、ブルースに魂を捧げ、ドラッグに溺れながらも復活を遂げた男の行き着く先にはこのような穏やかな世界がひろがっているのかと思いつつ画面に見入っていました。
カメラはその男の背後から狙います。
うん?セミアコ弾いている。意外だね、この頃だったらクラプトンはブラッキーかブラウニーというストラトキャスターを使用していたと思っていたから・・・ね。
カメラが回りこんだその瞬間「?」マークが私の頭に飛び散りました。
「誰だ、これ?」
クラプトンと信じて観ていた映像が別人になっているのです。
慌てて、デッキからビデオテープを取り出しました。
背表紙に「Carlton Live」とあります。
これ、ビデオ屋がクラプトンとカールトンのスペルを読み間違えて貸し出し用のケースに収めたんだ、と認識。確かにClaptonとCarlton、似ていると言えば似ています。
やられた!と思いましたが、まぁラリー・カールトンのレコードも持っていたし、いっちょ観てみるかとビデオを再生しました。
まぁ、それはそれは難しいフレーズをいとも簡単に弾いていらっしゃってエレキギター初心者の私にしてみたら異次元のプレイヤーであります。
ロックギタリストのように音を歪ませ両手を使ってせっせと16分音符や32分音符の応酬というわけでもなく、時にメロディアスに時にエモーショナルなプレイをギブソンES-335から奏でているのであります。
弾けはしないけど心地良い。そんなフレーズの応酬です。

 ラリー・カールトンはクルセイダーズやフォープレイ、ジョニ・ミッチェルやスティーリー・ダンなどのセッションプレイヤーとして有名ですが、私が中学の頃はアルバム『Larry Carlton』邦題「夜の彷徨」(1977)が大ヒットしており、私もアルバムは購入しておりました。
私はその頃エレクトーンを習っておりましたので、アルバムの中の超有名曲「Room335」を課題曲に取り入れ、練習しておりましたのです。
 あの頃の彼のサウンドはジャズとポップが融合し始めたクロスオーバーというジャンルに差し掛かっており、コテコテのジャズギタリストという印象よりもイージーリスニングに近い感じでした。また同時期にリー・リトナーも『The Captain's Journey』(1978)を発表。このアルバムも大ヒットしました。
そうです、あの頃はラリー・カールトンとリー・リトナーが一大ブームになっていたのです。
リー・リトナーのアルバムの方はラテンっぽいカッティングやフレーズが多く、エレクトーンには合わせ辛いと思いあまり聴かなかったのですが、ラリー・カールトンは本人のリーダーアルバム以外にも様々なミュージシャンとのセッションが多かったので耳に残っていました。
しかし、クラプトンと思って聴いていたらいきなりカールトンが出てきた時はびっくりしました。思い込んで聴いていればいるほどそのギャップに驚かされます。

 私が良く行くリハーサルスタジオのロビーにはライブ映像を流すモニターがあります。
そこではロックからフュージョン、ジャズに至るまで様々な音楽が映し出されています。
 ある日のモニター。
随分上手に「Room335」を弾く細身の男が映し出されました。頭はスキンヘッドで遠くから見るとマッチ棒がギターを弾いているみたい。でも、流れ出る音は伸びやかなサウンドです。
一人前にヴィンテージのギブソンES-335を弾いているじゃないですか。
最近の素人は凄いね、なんて思っていたら・・・本人でした!
いつからあんなに禿げ上がったんだろう。
私の知っているカールトンはサーファーのようなレイヤードのロングヘアーだったのに!
またしても予期せぬ出会いにびっくりした次第です。カールトンよりもリー・リトナーの方が先に禿げ上がると思っていただけにびっくりデス。
思いこんで観たり聴いたりしていると、その裏切られ方が半端でないという例をカールトンから学びました。
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2017/3/14
花形
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by yyra87gata | 2017-03-14 19:08 | 音楽コラム | Comments(0)
 
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 はっぴいえんどのサードアルバム『HAPPY END』(1973)はロスアンゼルスのサンセット・サウンド・レコーダースで録音された。
メンバー間では解散を意識し、バンド活動を継続することは不可能に近い状態の中、大瀧詠一がアメリカに行く話に乗る形でレコード制作へと展開していったと言う。
しかし、燃え尽き症候群状態のバンドにコミュニケーションは薄く、レコーディングというフィルターを通してアメリカの「16チャンネルのスタジオ視察体験旅行」の様相を呈していた。
 このレコーディングにおいて、最新の機器と本場のレコーディング事情を勉強しながらアルバムを制作することが出来たことは4人の大きな財産になったし、なによりもこのアルバム制作が無ければ鈴木茂の『BAND WAGON』(1975)の誕生は無かったと鈴木本人も語っている。ひょんなところから出た話が実は日本の軽音楽に相当影響を与えることになったのだ。

 そして、このレコーディングではその後の日本のロック市場に大きな足跡を残したメンバーが参加した。
リトルフィートのメンバーであるギターのローウェル・ジョージとピアノのビル・ペインである。
 リトルフィートは西海岸を代表するロックバンドであったが、イーグルスやザ・ドゥービーブラザースと比較すると商業的にはそれほど成功していない。もちろん、日本でも浸透度は低い。しかし、日本人ミュージシャンのセッションとなるとそれは逆転する。
 彼らは、この『HAPPY END』を皮切りに鈴木茂『BAND WAGON』、矢野顕子『JAPANESE GIRL』(1976)に大きく携わり、これらのアルバムがその後の日本の軽音楽に与えた影響から鑑みても非常に重要な水先案内人となった。もちろん、リトルフィートの面々はそんな重要な役割を担っているなどと思ってもいなかったろうし、当時は「遠く西の島から黄色い人たちが観光ついでにレコードを作りに来た」くらいにしか思っていなかったと思う。
 1972年当時のアメリカにおける日本の存在など、「侍」や「芸者」「ハラキリ」という認識の方が強かっただろうし、経済的にも1ドル360円固定の時代である。沖縄も返還されていないし、容易に日本人がアメリカ本土を訪れることも無かったはずで、実は見えないところでまだ戦争は終わっていなかった時代なのだ。そんな時に長髪のひょろひょろとしたヒッピーのような若者がやってきた・・・。しかも仏頂面で、なんでもロックを作ると言い出した。何を言っているんだこのJAPは?
しかも、サンセット・サウンド・レコーダースはザ・ビーチボーイズの『ペットサウンズ』(1966)やバッファロースプリングフィールドのレコーディングを行なったところで、有名なスタジオでもある。そんな伝統あるスタジオで日本人がレコーディング?
現地のスタッフも多分興味本位で集まった(集められた)のだと思料する。
 
 『HAPPY END』制作については、いろいろな文献が出ているので割愛するが、ローウェル・ジョージというギタリストが与えた影響というものに触れてみたい。
鈴木茂はロックギターの小僧。高校時代からベンチャーズからブリティシュロックやブルースまでドライブしたサウンドで弾きまくっていた。そんな噂は東京中に知れ渡り、大学生だった細野晴臣の目に止まった。鈴木茂は高校時代の盟友、林立夫と一緒に細野とバンドを組みアートロックやサイケデリックロックの演奏を楽しんだ。そして、時が経ち、はっぴいえんどのギタリストとして迎えられロスアンゼルスのスタジオで録音するまでになっていた。
 その鈴木茂が慣れないスタジオで緊張しながらリハーサルを繰り返していた。ギターアンサンブルを行なうためのアレンジを施す。当初はっぴいえんど側はレコーディング・コーディネーターにライ・クーダーをオーダーしていたが、そのオーダーは反故にされ、代わりに大柄で無精髭をはやした男がスタジオに来ていた。
リトルフィートのローウェル・ジョージである。
鈴木茂はスタジオでギターを弾きまくっている。すると、のそのそとその男は鈴木茂の前に来て、目の前にどっかりと座り込んだ。そして
「おまえ、すんげ~上手いなぁ。どうやって弾いてんだ?」といったそうだ。
鈴木茂が最初ぶん殴られるかと思ってびびったらしいが、褒められていることに気付き、素直に喜んでしまい、それから交流が始まったという。これだ。このジョージの言葉が日本に新しいアメリカの風を呼び込んだともいえるのだ。鈴木茂とローウェル・ジョージは情報を交換し合い、アンサンブルを固めていったと言う。
そして、鈴木茂のスライド奏法にはローウェル・ジョージが見える瞬間があったり、コンプレッサーの直列2個繋ぎなどいろいろな面で影響を受けたのではないかと思われる。
 
 ブリティッシュ・ブルースを弾きまくっていた少年は、5年もの間にアーシーで粘っこいフレーズをスライドで弾きこなせるまでになっていた。そしてリトルフィートとの交友が後のアルバム制作へと繋がっていくのだ。
だから『HAPPY END』制作時にもし当初の予定通りライ・クーダーが来ていたら、日本の軽音楽の歴史は別の方向に変わっていたかもしれない。

 リトルフィートは良くも悪くもローウェル・ジョージのバンドである。メンバー交代も起きるので、それまでの音楽性がガラリと変わってしまうこともある。オリジナルメンバーで構成された2枚目までとロイ・エストラーダの代わりにケニー・グラッドニー、ポール・バレア、サム・クレイトンが加入し名盤と謳われるサードアルバム『Dixie Chicken』(1973)を発表した頃とテイストは変わっている。その後ジョージのドラッグが重度となり、リハーサルやステージに支障をきたすようになっていく。当然ジョージ抜きのジャムセッションを繰り返すメンバー。いつしかその演奏がメインディッシュとなっていき、長いインプロヴィゼイションが彼らの持ち味になってしまうという皮肉な結果に。
ちょうど日本に来日した1978年頃は、ジャムセッションで鍛えた演奏力を武器に一番脂がのりきっていた頃といわれているが、ジョージは翌年ドラッグの過剰摂取による心不全でこの世を去った。
元々はフランク・ザッパのギタリストからスタートしたジョージだが、常にドラッグとの戦いであった(フランク・ザッパ&マザーズ・オブ・インベンションの脱退もドラッグが原因と言われている)。
 才能を自らの手で摘み取ってしまったわけだが、そのような事例は1970年代末期までは当たり前のように存在していた。
事故、自殺、ドラッグ過剰摂取・・・ジョージの死は1970年代最後の年の6月に報じられたが、私はあまり驚かなかった。ジョージは死んでいてもおかしくないくらいドラッグ過剰摂取を報じる記事を見ていたからかもしれない。
それよりもその年の1月に自殺したダニー・ハザウェイの方が、インパクトが強かった。あまりにも突然だったし・・・。

 リトルフィートはセッションミュージシャンの集まりのようなバンドである。それぞれがテクニックを有し、しっかりと与えられた楽曲に自分たちのグルーヴを投影する。そんな天才集団を発掘する機会となった『HAPPY END』はエポックメイキング的な作品である。
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2017/2/28
花形
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by yyra87gata | 2017-02-28 17:28 | 音楽コラム | Comments(0)

日本武道館

 
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 1964年の東京オリンピック、柔道の競技会場として建設され、その後は日本の武道の聖地として位置づけられている日本武道館(以下武道館ね)。
その大きさと立地から企業や学校の入社式や入学式、株主総会などにも使用される多目的建造物である。私は予備校の入校式(そんなもん行くなよ!)でアリーナ。大学の入学式で1階席。卒業式で2階席といった具合に着席し、その席の場所からもわかるようにどんどんメイン舞台から離れていったことが私の勉学に対する姿勢を表している気がする。・・・どうでもいい話だが。

 武道館は、多目的建造物という括りであればご存知の通り音楽会場にも数多く使用されている。私が武道館を一番利用しているのはまさにこの音楽鑑賞の場所であって、決して柔道でも剣道でも新年書初め大会でもない。
 中学生の頃から音楽鑑賞を目的にちょくちょく通い始め、昨年のクラプトンで50回を数えた。もう通い慣れたので緊張などしないが、学生の頃は武道館の敷地である北の丸公園に入ったあたりから気分は高揚し始めたものだ。いや、九段下の改札を出て、帰りの切符を確保するために事前に切符を購入する時にはすでに興奮していたかもしれない。
 1980年前後の当時の首都圏の音楽会場事情としては、代々木オリンピックプールでコンサートは開催していなかったし、東京国際フォーラムも横浜アリーナも横浜パシフィコも埼玉アリーナも無かった。NHKホールが音楽専門の会場では一番大きく、その次は中野サンプラザや渋谷公会堂といったパブリックなホールであった。だから、武道館レベルでの収容人数がある会場が今ほど無く、武道館公演と聞くだけで興奮したものだったのだ。

 武道館が日本の音楽会場のメッカとなった瞬間は、間違いなく1966年にビートルズがコンサートを開催した時だろう。ジョンが「ミスター・ムーンライト」を叫んだ瞬間に日本全国のミュージシャンの憧れの場所になったに違いない。いや、ビートルズ派で無いミュージシャンだとしても、少なくとも「凄いことをしてくれた」と思っただろう。日本の武道の殿堂で髪の毛の長い外国人がそれまでの日本には無いやかましい音楽をかき鳴らした。そして、ティーン・エイジャーはその騒音よりも大きな騒音で彼らを快く迎え入れたのだから。
 ビートルズ公演。
武道館の競技スペースに彼らの舞台が設営されており、そこに堅忍不抜で技を極める武道家の姿は無く、ただ聴衆の収容人数だけを考え、コンサート会場として使用したに過ぎない。増してや、もともと音楽を奏でる建物では無いので、音はぐるぐる回るし、大きな音を供給するPAシステムも無い時代である。が、しかし「ビートルズが立った舞台、いつかは俺も武道館のステージに立ちたい」と思うミュージシャンが続出したことは事実なのだ。
しかし、武道館はフォークソングの音楽集会に使用されることはあっても日本のミュージシャンが単独で公演をすることは無かった。1970年代半ばまではフォークだ、ロックだと騒いでいるのは一部のリスナーに過ぎず、音楽ビジネスとして成立していないサブカルチャーであった日本の軽音楽に、収容人数約1万人を超える武道館は大きすぎた。だから、観客収容人数の関係から大物外国人ミュージシャンが来日した時に使用される会場という認識が我々の世代は強いと思う。

 武道館で日本人単独公演を初めて行なったミュージシャンは誰だとよく話題になるが、実はバンドで言えばGSブーム全盛時のタイガースが1968年に公演を行なっている。そして単独アーティストの公演となると西城秀樹が1975年に武道館公演を開催した。
日本の音楽も成熟し、フォークからニューミュージックへと移っていった1970年後半。よく、南こうせつだ、とか矢沢永吉だとか騒いでいたが、「日本シンガーソングライター初」とか「日本ロックアーティスト初」といってレコードを売り出す文句に使われただけのことで何の意味もなさない。
そんなことよりも、私が「日本武道館」と聞いて思い出すことがある。
 1982年1月12日に開催された浜田省吾の公演である。
その告知はいきなり街中に貼り出された。そして、そのポスターには「浜田省吾 日本武道館公演 1月12日」とデカデカと記載されていた。
「浜田省吾?ちょっと前に『風を感じて』のヒットはあったけど武道館?これ、絶対ガラガラだろう!客なんか入んねぇよ」
「無謀というかなんというか・・・」
私の周りの人間はみんな口々にその公演を非難した。
しかし、ふたを開けてみたらチケットは即日完売。たった1日だけの公演ではあったが、武道館公演を成功させたと言う事実がその後の音楽雑誌の紙面を飾り、その公演を収めたライブアルバム『ON THE ROAD』(1982)もヒットした。
武道館公演に賭けた男の仕事。それ以降の浜田省吾の人気を不動のものにしていく。高校生だった私は、これもひとつの販売戦略なのだと思いつつも、武道館という存在が作り出す目に見えない力を目の当たりにした瞬間であった。
 
 私は武道館には神々しい音楽の神様が宿っていると信じている。
武道館はお世辞にも音楽を聞かせる会場としては決して良い環境とはいえないが、会場に一歩足を踏み入れて、北スタンド側を潰して設営された大きな舞台が目の前に飛び込んでくると今でもわくわくする。
イントレが組まれ、照明が吊られ、スピーカーが舞台の左右にうず高く並べられている。白い柵で舞台と客席は仕切られ、ブロック毎に分けられたパイプ椅子が整然と並ぶ。そんな荘厳な場所でアリーナ席のEブロックやFブロックといった中央の席に座るときの優越感といったら無い(現在はいつの頃からか席の呼び名が変わり、前からABCと3つに分かれて区分けされている。しかし私はいまだにA~Zまでの区分けが染み付いている)。武道館公演は特別なコンサートであり、その感情はきっとこれからも変わらないだろう。
 ちなみに私が今まで見た武道館で一番興奮したものは、1991年4月のジャンボ鶴田VS三沢光晴。「三冠統一ヘビー級選手権60分1本勝負。
この時のジャンボはすごかった。鳥肌が立つほど強かった。いまでは2人とも天に召されてしまったが。

 あ、音楽で言えば・・・1986年のボブ・ディラン公演か。
バックをトム・ぺティ&ザ。ハートブレイカーズで固め、超絶にかっこよかった。確か、3時間半位演奏していた気がする。
あんなディラン後にも先にも見たことが無い。

 2020年の東京オリンピックでは空手の会場になることが決定した日本武道館。まずは良かった。
老朽化だから取り壊すなんてことは無いようにメンテナンスをお願いしたい。渋谷公会堂も中野サンプラザも大阪フェスティバルホールもみんな老朽化でなくなってしまったからね。

2017/01/30
花形
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by yyra87gata | 2017-01-30 21:48 | 音楽コラム | Comments(0)

ディランとノーベル賞

 
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 「テレビに出ない」なんて40年も前に拓郎は言い放ったわけ。で、これはいろいろと話が造られていってセンテンスだけが生き残っちゃったんだけど、真意としては、少ない出演時間では自分の音楽性は表現できるものでは無い。一つの作品をテレビサイズに分割して3分間で歌うことは本意ではないと。だから、テレビに出るのであれば、それなりの時間を割いてくれるのならば出る、などなど。
歌謡曲全盛の時代にフォークだかロックだかよくわからない若造が、何を生意気なことを言っているんだということで当時の芸能界は騒然となったわけ。
拓郎も若くて血気盛んだからマスコミ相手にラジオで「あんまり人のことをかぎ回ると、あんたら地獄へ行くよ」などと叫ぶ。もう、公然とケンカしている。
 例えばテレビに出てインタビューに答えても、都合の良いように編集をされてしまうから、自分の意志とは違った内容がオンエアされることもあったという。そして、拓郎はマスコミ不信に陥る。
でも、そんな芸能界も拓郎人気には擦り寄って行かなければならないこともあり、拓郎のワンマンショーをテレビでオンエアしたり、歌謡曲の歌手への作曲依頼をしたりと持ちつ持たれつの関係もあった。
そして、2000年を過ぎ、拓郎も50を過ぎたあたりからテレビの中で若いアイドルと笑顔で気楽に歌う姿が毎週流れるようになった。時代は変わる。

 で、ディランなわけ。
ディランってもう怪物なんだよね。特に英語圏でない日本人からしてみたら、あのダミ声で滅茶苦茶に聞こえる歌唱をアメリカ人は何故あんなに有り難がって聴くのか。
「分からない」=「怪物」なの。歌っていることも難解だし。
 2016年12月10日の「NHKスペシャル」はディラン特集。もちろんノーベル文学賞を受賞したからNHKもわざわざ特集を組んでみたわけだが、ハッキリ言って想像通りの内容だったというか何と言うか・・・。
「ディランのこと・・・なにも分からない」ということが分かった番組だった。
 ディランの文学という観点から詩を切り取るが、その詩に対して予言的だとか神仏的だとか、意見は出るが、あくまでも第三者の想像を出ていない。そして勝手に語る。しかも、ディランが書き残したメモを見ながら、詩の構成について論じ始める。もうこうなっては詩の本質から離れていく。誰も中身を語ることが出来ない・・・つまりはディランが沈黙しているからこういう番組になるんだ。

 だって冒頭の拓郎じゃないけど、「テレビに出ない」ってディランはいまだに言っていて、既に30年以上テレビの取材を受けていないということをナレーターは絶望的に語っていた。
 ディランって今75歳。30年前・・・45歳からテレビの取材を受けず、「ネバーエンディングツアー」と呼ばれる終わることの無いツアーに出ている。もう、まさに現代の吟遊詩人なのだ。
ツアーバンドを引き連れ、時にはバスで、時には列車でアメリカ~世界を旅する。曲順などステージに上がる前に決めることも多々あるそうだ。
ディランが歌いたいようにバックミュージシャンは合わせていく。ドラム、ベース、ギター×2、スチールギターという編成で、最近ではディランがピアノを弾く。
ある程度決め事はあるのだろうが、それぞれのプレイヤーは全てディランの頭の中とシンクロしながら、それぞれにディランが憑依したようにプレイしている。
そんなステージを繰り広げながら、ニューアルバムを制作している現実。
 市井の戯言などは気にしない爺さんになっているんだ。
ディランはいまだにライク・ア・ローリング・ストーン(転がる石のように)であり、
ノー・ディレクション・ホーム(帰る家はない)なのだ。
 
 ディランは過去にもNHKの特集番組を組まれたことがある。1978年初来日の時だ。
「ルポルタージュニッポン ボブ・ディランがやってきた」。なんだか海の向こうから黒船でもやってきたかのようなタイトルだが、まさに黒船に匹敵するインパクトだったのだろう。しかし、この時もディランは何も語らない。せいぜい初来日の記者会見の一部が流れただけで、番組構成はディランについて人々が勝手に自分の目線で語ると言うもの。
つまり、38年前の番組と今回の番組は手法こそ違え「ディランってよくわかんないね」ということがわかったんだ。
 私はディランをずっと聴き続けてきているから、今回の番組の雑さ加減なんて想像通りだったわけだが、ディランを知らない一般人は「結局この人、偉いの?」「村上春樹の方が良かったんじゃないの?」なんて感想が溢れるという結果に陥るだろうなと危惧する。
 
「テレビに出ない!」「授賞式は先約があるから出ない!」そうやって75歳の偏屈爺さんが正式に言っているんだから放っておけばいいのだ。
 今回のノベール賞騒ぎで、いつものように流浪の旅に出ているディランに連絡がつかないから「変な爺さん」って大勢の人に擦り込まれてしまったわけだが、ディランにしてみたら、迷惑な話で「ほっといてくれ!」って思うかもしれないな。

でもそんなディラン・・・ノーベル賞の授賞式の受賞コメントが紹介されている。非常に的を得たディランの言葉。
そして表彰式にてディランチルドレンとも言えるパティ・スミスの「激しい雨」のパフォーマンス。
力強さと可愛らしさが同居したパティの歌唱は感動的だった。途中演奏を止めてしまうアクシデントはあったにせよ、歌っている詩に感銘してしまい言葉を失ってしまうなんて、言葉の力を見た思いだった。

 「ディランの受賞スピーチ」(全文)
皆さん、こんばんは。スウェーデン・アカデミーのメンバーとご来賓の皆さまにご挨拶申し上げます。

本日は出席できず残念に思います。しかし私の気持ちは皆さまと共にあり、この栄誉ある賞を受賞できることはとても光栄です。ノーベル文学賞が私に授与されることなど、夢にも思っていませんでした。私は幼い頃から、(ラドヤード)キップリング、(バーナード)ショー、トーマス・マン、パール・バック、アルベール・カミュ、(アーネスト)ヘミングウェイなど素晴らしい作家の作品に触れ、夢中になってのめり込みました。いつも深い感銘を与えてくれる文学の巨匠の作品は、学校の授業で取り上げられ、世界中の図書室に並び、賞賛されています。それらの偉大な人々と共に私が名を連ねることは、言葉では言い表せないほど光栄なことです。

その文学の巨匠たちが自ら「ノーベル賞を受賞したい」と思っていたかどうかはわかりませんが、本や詩や脚本を書く人は誰でも、心のどこかでは密かな夢を抱いていると思います。それは心のとても深い所にあるため、自分自身でも気づかないかもしれません。

ノーベル文学賞を貰えるチャンスは誰にでもある、といっても、それは月面に降り立つぐらいのわずかな確率でしかないのです。実際、私が生まれた前後数年間は、ノーベル文学賞の対象者がいませんでした。私はとても貴重な人たちの仲間入りをすることができたと言えます。

ノーベル賞受賞の知らせを受けた時、私はツアーに出ている最中でした。そして暫くの間、私は状況をよく飲み込めませんでした。その時私の頭に浮かんだのは、偉大なる文学の巨匠ウィリアム・シェイクスピアでした。彼は自分自身のことを劇作家だと考え、「自分は文学作品を書いている」という意識はなかったはずです。彼の言葉は舞台上で表現するためのものでした。つまり読みものではなく語られるものです。彼がハムレットを執筆中は、「ふさわしい配役は? 舞台演出は? デンマークが舞台でよいのだろうか?」などさまざまな考えが頭に浮かんだと思います。もちろん、彼にはクリエイティヴなヴィジョンと大いなる志がまず念頭にあったのは間違いないでしょうが、同時に「資金は足りているか? スポンサーのためのよい席は用意できているか? (舞台で使う)人間の頭蓋骨はどこで手配しようか?」といったもっと現実的な問題も抱えていたと思います。それでも「自分のやっていることは文学か否か」という自問はシェイクスピアの中には微塵もなかったと言えるでしょう。

ティーンエイジャーで曲を書き始めた頃や、その後名前が売れ始めた頃でさえ、「自分の曲は喫茶店かバーで流れる程度のもので、あわよくばカーネギー・ホールやロンドン・パラディアムで演奏されるようになればいいな」、という程度の希望しか持っていませんでした。もしも私がもっと大胆な野望を抱いていたなら、「アルバムを制作して、ラジオでオンエアされるようになりたい」と思っていたでしょう。それが私の考えうる最も大きな栄誉でした。レコードを作ってラジオで自分の曲が流された時、それは大観衆の前に立ち、自分のやり始めたことを続けられるという夢に近づいた瞬間でした。

そうして私は自分のやり始めたことを、ここまで長きに渡って続けてきました。何枚ものレコードを作り、世界中で何千回ものコンサートを行いました。しかし何をするにしても常に中心にあるのは私の楽曲です。多種多様な文化の多くの人々の間で私の作品が生き続けていると思うと、感謝の気持ちでいっぱいです。

ぜひお伝えしておきたいことがあります。ミュージシャンとして私は5万人の前でプレイしたこともありますが、50人の前でプレイする方がもっと難しいのです。5万人の観衆はひとつの人格として扱うことができますが、50人の場合はそうはいきません。個々人が独立したアイデンティティを持ち、自分自身の世界を持ち、こちらの物事に向き合う態度や才能の高さ低さを見抜かれてしまうのです。ノーベル委員会が少人数で構成されている意義を、私はよく理解できます。

私もシェイクスピアのようにクリエイティヴな試みを追求しながらも、「この曲にはどのミュージシャンが合っているか? レコーディングはこのスタジオでいいのか? この曲はこのキーでいいのか?」などという、避けて通れぬ人生のあらゆる俗的な問題と向き合っています。400年経っても変わらないものはあるのです。

「私の楽曲は文学なのか?」と何度も自問しました。

この難題に時間をかけて取り組み、最終的に素晴らしい結論を導き出してくれたスウェーデン・アカデミーに本当に感謝しています。

ありがとうございました。





どうっすか。ここでもディランは問いかけているね。「私の楽曲は文学なのか?」と。

 さっきから、ディランのことが分かったような感じで書いているんじゃねぇよ、って?
私?わかんないよ、ディラン。でも分かろうと努力しているよ。体系的にアルバムを聞くとその時々のキーワードが出てきたり、独特な歌いまわしがあったり。ディランはプロデューサーによっても作品は全然変わって来るし。
しかし、私の意見はディランが詩を評価されノーベル文学賞を取ろうが取るまいがそれはどうでもいいことで、ディランも問いかけていたように私はディランの音と一緒に詩を長年聴いているから、彼の詩と文学が合致できないんだよね。
人が評価することだからいろいろと意見はあって良いものだけど、ディランの楽曲は文学じゃないと思うよ。そんなことより、彼の「時代を読んだ痛烈な着眼点」と「それに呼応する楽曲」。そして「彼そのもの」。
どちらかと言うと彼の生き様を見ていることが好きなのかもしれない。

だから、詩の世界は研究者にお任せしますよ。

 改めて書くけど、ディランは現代の吟遊詩人なんだよ。ギター一本でどこにでも行き、西に悲劇があれば、東にそれを伝え、北に愛があれば、南で花が開くように歌う。戦争、人種差別から家庭、恋人の笑顔まで物語を創作していく。それがディラン。
ノーベル賞はどうでもいい。
彼があと何年ステージ立ってくれるかだけ。
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2016年12月12日
花形

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by yyra87gata | 2016-12-12 20:12 | 音楽コラム | Comments(0)

はじめてのライブハウス

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 昔のライブハウスの敷居は、高かった気がします。
今ほどライブハウスの数もなかったから、バンドマンは狭き門を一生懸命くぐろうとしたのかもしれません。
今から35年前くらい・・・1980年あたり・・・私の高校時代、ライブハウスに出る友達なんていませんでしたね。ライブハウスは、プロのミュージシャンを観に行くことはあったとしても、我々が出るところではなかったです。だから、今の高校生がライブハウスをパーティー会場にしたり、それこそ高校生バンドが何組も出演したりしていると隔世の感がありますな。
ですから、ライブハウスとはそんな場所だったので、アタシが初めてライブハウスに出た時・・・それはそれは驚きの連続でありました。
 
 アタシは大学に入り、音楽サークルに席を置きのんびりとドラムでも叩いて過ごそうかと思っていたのですが、ひょんなことから先輩のバンドに入れられ、エレキギターを担当することになってしまいました(この話はアタシの『はなっちの音日記「オイラはドラマー・・・」、「輸入ギターについて」』に詳しいっす)。
当時のアタシはフォークギターこそ弾き語りレベルで弾ける腕前はあったと思いますが、エレキギター、しかもリードギターなんて、あーた、全然やったことない。しかもそもそもエレキギターを持っていない。そんなアタシに何故エレキギターを?と思いながらも先輩の言うことは絶対でありましたので目を泳がせながら頷くしかありませんでした。
 さて、そんなこんなでギターも購入し(ギブソンSGだよ、ビンテージだよ、父ちゃんを無断で連帯保証人にしてクレジットで買っちゃった!やる時はやるのよ)、エフェクターも買わなくちゃということで歪みものはBOSSのロッカーディストーション(これ名機だったなぁ。ペダルで歪みが変えられるんだぜ)、空間系はローランドのSDE1000(ラックのディレイですな。アタシ、コンパクトエフェクターってあんまり好きじゃないのよ。シールドに刺さってる小さい箱って引きずるとなんか犬の散歩みたいでしょ。とにかく「ギターマガジン」とか一気に読みまくって当時揃えられる最善を尽くしたのさ)を揃え、先輩のバンドに参加したのであります。
 アタシの指はフォークギターに慣れていた指ですから運指は遅いわ、強く指板を押さえるから柔らかいエレキの弦に四苦八苦しました。
「お前のギター、チューニング合ってるか?なんかピッチ悪ぃぞ!」と先輩から怒鳴られ、
「いや~チューニングメーターであわせてますからね~」とか応えながらポーンとギターを爪弾くとジャストチューニング。
先輩は首を傾げ、「お前の弾き方が悪ぃんだな。もっとちゃんと弾け!」とか言われる始末。
アタシは心の中で『だから何で俺をエレキギターで誘ったんだよ!ドラムだったらチューニングも無いし(実はあるのよ)、楽だったのになぁ~』なんて思いながら、引きつった笑顔で「がんばりまっす!うっす!」なんて言いながらやってました。

 人間やる気になればなんとかなるもので、そこそこ練習はしましたが、当時からはったりだけは効かせるテクニックを持ち合わせていたアタシは、何となくエレキギターの重責をこなしていったのであります。
当時の我々の発表の場は学校のサークルですから当然学内。大講堂を貸し切って学生相手に披露することがいいところです。
 ようやく柔らかい弦にも慣れてきた頃・・・エレキを弾き始めて2ヶ月位・・・アタシを強引に誘った先輩がサークル内のバンドとは別のバンド(つまり学校外で活動しているバンドですな)にギターの欠員が出たからお前入れ、と言うのです。
ちなみにアタシはちょっと調子に乗っていた頃だったので、別の先輩からのバンドの誘いもあり、そのバンドに加入することも決定していました。
しかし、最初のバンドに誘って頂いた強引な先輩(強引先輩)の命令には従わなければなりませんので、学校外のバンドにも入ることになりました。
ちなみに、私を誘う2名の先輩は2名とも完全プロ志向の人で、音楽のことやいろいろなことを教えてくれましたが、唯一ギターの弾き方だけは教えてくれませんでした。なんで?
さて、その強引先輩のバンドはオリジナル中心で、カバーをやるとしたら全てブルース・スプリングスティーンでした。
 時は1985年。『ボーン・イン・ザ・USA』(1984)でブルースは調子に乗っていた時期であります。しかし、強引先輩も他のバンドメンバーもそんな『ボーン・イン・ザ・USA』には目もくれず、『明日なき暴走』(1975)や『リバー』(1980)といった埃っぽいロックンロールを好んでおり、ラインアップもその頃の歌が並びました。
私は手渡されたブルースのソングリスト5~6曲。オリジナルの譜面7~8曲を見ながら
「これいつやるんですか?」と質問。
「うん?今度のリハまでにやってきてよ。ライブハウスのブッキングはこっちに任せろ。あー、ノルマとか気にしなくていいから・・・」
強引だ。今度のリハって4日後じゃん。しかも、22時~24時というめちゃくちゃなスタジオの取り方・・・。強引だ。強引だ。強引だ。

 私はその強引先輩のことはとても好きな先輩だったんですよ。ホント兄貴みたいな感じで・・・。でも、正直、バンドを3つもやってると力の入り具合や優先順位がプレイに出てしまって・・・恐る恐る脱退を伝えたのであります。
「なに!?そっちのバンドの方がいいってことか?そんなにいいのか!」と言われたとき条件反射のように
「そりゃ、もう!」と応えてしまい。『しまった!』と思いましたが、あとの祭り。
強引先輩から返ってきた言葉は笑いを噴出しながら・・・
「そりゃ、もう!か!・・・よし、わかった。じゃ、これだけは許してくれ。もう、ライブハウスには話を通してしまっているから。出ることが決まっているからキャンセルはできないのね。そこまで付き合ってくれ。年末までに2回ある。それでいいか」
私は頭を下げ、初めての「ライブハウス」という言葉に緊張しておりました。

 私が最初に出演したライブハウスは西荻窪にあったWATT。今から11年前の2005年11月で閉店してしまったライブハウスであります。
 狭い楽屋に3つのバンドが詰め込まれ、出演前に化粧を決める女やヘアスプレーをバンバン吹きまくる男。出番前からかなり酔っ払っているジャンキーみたいヤツが蠢く妙な場所でありました。私は緊張しながらもポーカーフェイスで立ちすくんでおりましたが、そんなところを強引先輩に見抜かれ、バカにされておりました。
ギターアンプはライブハウスの備え付けを使用しました。マーシャルとローランドのジャズコーラス・・・どちらも好きなアンプではなかったのですが、リハーサルスタジオで使ったことがあるジャズコーラスを選びました。サウンドチェックでアンプの調整をしましたが、やはりこのアンプ、私の好きな音が出ない。ヴォリュームをちょっとでも上げるとピーヒョロヒョロヒョロと横笛のようなハウリングが出る始末。『いっつもそうだよ、このアンプ・・・ヴォリュームレベルが2とか3とかって・・・おかしくない?ミリ単位のヴォリュームってどうなの?』なんて思いながら冷や汗をかいていました。『きっとPAの人は嘲笑してんだろうな』なんて思いながらね。
出番であります。サウンドチェックの時もかなり緊張し、モニターの音なんて殆ど聞こえていなかったのですが、もうここまで来たらそんなことも気にしてられません。とにかくベースとドラムの音を聞くことに注力し、無我夢中のプレイでありました。
途中、『照明が当たると客席って見えないもんだな』とか、『ヴォーカルがMCをしている間は、ただ突っ立っていればいいのかな』とか、しょうもないことをひたすら考えておりました。これがライブハウス初出演の感想です。あっという間の40分でありました。地に足が着いていないということでしょうね。

 そしてそのバンドと2回目のライブハウス。つまり今日でお別れね~の演奏。
場所はなんと新宿LOFT。まだ西新宿にあったころのLOFTであります。
『いや、あーた、LOFTなんて名門ライブハウスに私みたいな素人が出ていいのですか?!』なんて思いながら、いつものポーカーフェイスで「おはようございまーす」なんて言いながら店内に颯爽と入っていったのであります。するとモヒカン刈りの大男がジャックダニエルをラッパ飲みしていたり、リスカ跡が痛々しい戸川純の従姉妹みたいな女の子が中空を仰いでいたり・・・あれれれれ、アタシ、場違いだなぁなんて思いながら強引先輩を探したのであります。そして、このライブハウスも名前の割りに楽屋は超絶に狭く、3つもバンドが出演となれば殺気立ってきます。
アタシは平和主義者なのでそんな陣地取りみたいな事で争ったりするのは嫌なのでさっさと荷物をおいて外で一服してましたがね。
 で、サウンドチェック。またもや恐怖のジャズコーラスが鎮座ましましておりますでやんす。
『ひょ~え~!また、お前か!終わった。・・・とっつあん、燃えたよ、燃え尽きた、真っ白にな・・・』なんて気持ちになりやした。
恐る恐るシールドを突っ込み、ゆっくりヴォリュームのメモリを上げました。そのジャズコーラスはいつも使っていたJC120よりも大きなJC160という高出力のモデルだったので、『そりゃあハウリング祭りだわ』なんて気分でメモリを1から2~3位に動かしました。
ピンピン。弦を弾くと大きなスピーカーが4つ搭載されたアンプから可愛い音が出ます。
「おおっ。こ、これは・・・」口走る私。
ディストーションを踏み込み大きな音を出そうかと思った瞬間、PAのトークバックが話しかけてきました。
「あの~ヴォリュームそんなもんですか?それ、最高レベルですか?」
「えっ?はい?あの~ハウっちゃうかな~?大丈夫かな?あれれれ」焦るアタシ。ド緊張。
ギターのヴォリュームを最大にしてジャズコーラスJC160のつまみを上げてみました。
グォーン!というドライブした音が出る。全然ハウらない!
「えーっと、これで・・・」とアタシ。
「はい。OKです。ちゃんと音、出るじゃないですか。シールドかなんかの不具合ですか?・・・じゃ、始めてください。あとはこっちで調整しますから・・・」・・・いい人だ。
アタシは後にも先にもこんなにすばらしいジャズコーラスに会った事はありません。とにかく、気持ちよいクリーントーンでエフェクターのノリも良いすばらしいJC160だったのれす。
 持って帰りたいと思ったもんなぁ。・・・でけぇよ。

 LOFTの白と黒のチェックの舞台。ちょっと前までは、客席からシナロケとかARBとか暴威とか見てたのに、自分がそこに立っていると思うとなんだか不思議な感覚になりましたね。別にプロでもないのにこんなところに立っちゃっていいのかしら、なんてね。
 強引先輩とのバンドは綺麗にその新宿LOFTで終わりました。
その先輩はその後、サックスプレイヤーとして様々なミュージシャンと共にLOFTからホール、果ては武道館まで上り詰めるんですが・・・、それはまた別の話であります。
 
 新宿ロフトが今年40周年を迎えたそうであります。今は場所を歌舞伎町に変えてしまったようですが、老舗のライブハウスの名前は消さないで欲しいですね。
好きなライブハウスって油断してるとどんどん無くなっちゃうからね。

2016年11月28日
花形
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by yyra87gata | 2016-11-28 17:15 | 音楽コラム | Comments(0)
 
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 吉田拓郎のイベントといえば「朝までやるぞ!」でおなじみのオールナイトコンサートである。
拓郎が主催したオールナイトコンサートといえば、1975年にかぐや姫と一緒に開催した「つま恋」。1979年の「篠島」。そして、1985年に再び「つま恋」で開催した3回がある(1987年に南こうせつのサマーピクニックにゲスト出演したオールナイトコンサートもあるが、それは除外)。
 1975年の「つま恋」については、私は参加していないのでビデオや当時の記事、拓郎やこうせつのラジオでの発言、実際に参加された人の話を元に記載するが、このイベントは5万人とも6万人とも言われる観客が一堂に会した当時の日本最大の規模のものだった。チケットが売り切れ、実行することが決定した後もその規模感をつかめる関係者が誰一人もいないという今思えば恐ろしいものだ。
当時もアメリカのウッドストックやイギリスのワイト島フェスティバルの話は海の向こうからのニュースで聞こえていたが、誰もそんなイベントに参加していないし、オールナイトコンサートで45万人とか60万人も集まるということ自体、当時の日本では誰も想像すら出来ない。そのような中、開催された「つま恋」は、日本ビッグイベントの礎となった。

 拓郎はウッドストックがやりたかったわけではなかったという。前年にアメリカでボブ・ディランのライブを観て、大勢の観客が一人のミュージシャンを目当てに集まるという、今となっては至極当たり前のコンサート形式を目の当たりにしただけだ。
 当時の日本は、フォークもロックもマイナーな存在で一人のミュージシャンがコンサートホールを満杯にすることなどできなかった。そして、そのため何組ものミュージシャンが対バン形式で巡業する。当然、客は好みのミュージシャンでは盛り上がるが、そうでないと無駄な時間を過ごすことになる。そんな苛立ちを演者側の拓郎は読み取っていたのだ。だから、自分のファンのためだけのコンサートツアーができないものかという試行錯誤をしていた。
 また、大勢のミュージシャンが出演すると音響も照明も画一化されてしまう悩み。そして、会場ごとに設備も異なるため満足のいく演出も出来ない。また、興業主とのやりとりや運営面での制限も出てくる。
自分のためのコンサート・・・つまり、音響、照明から特殊効果、グッズ販売などのコンサート運営に至るまでのノウハウが無い当時の成熟していない日本の若い音楽。そのノウハウを知るために渡米し、ディランのためだけに遠方から集まるファンの群れを見ながら日本でのビジョンを思い描いたという。

 6万人とも7万人とも言われている観客動員数からもそれは読み取れる(主催者側が人数を抑えて発表するのが通例だが、何故か警察は主催者側発表より少ない5万人と発表した)。PAシステムやインフラ、果てはトイレの数からスタッフの弁当の数まで未開の問題だったという。

 拓郎が夕方ステージに登場。明らかに目は泳ぎ、声は震えている。一生懸命声を前に出しているが、それは緊張からか、どこかおぼつかない。1時間30分のステージ予定時間を半分の時間で終え、さっさと舞台袖に引き上げて来た時、拓郎は緊張で憔悴していた。
 拓郎はそれまでのステージで「帰れコール」の洗礼を一番受けてきたミュージシャンだった。
フォークのプリンスとしてデビューし、第三回中津川フォークジャンボリーでそれまでの岡林信康の地位を揺るがし、ニューリーダーとなるが、「結婚しようよ」「元気です」「旅の宿」などの大ヒットによりフォークのコアのファンからは商業主義とのレッテルを貼られ「帰れコール」の的となっていた。入場料を払い、拓郎が出てくると「帰れ」を連呼する集団。そのような今では想像がつかない状況を肌で感じている拓郎は「つま恋」が決まっても「5万人が攻めてきたらどうしようか」などといった思いが常にあったという。

 かぐや姫のステージ・・・1975年の4月に解散したばかりの3人であったが、拓郎の声掛けにより、急遽再結成。ファンを驚かせたという。
ステージでは、南こうせつお得意のお祭り騒ぎを行なっているが、どこか地に足が着いていない状況で、とにかくステージを進行させることだけに集中していたという。それほどまでに闇に蠢く5万人という群集は演者を狂わせたのだ。

 舞台裏では各地のイベンターや芸能プロダクションの社長達は、日本で初めて行なわれているビッグイベントに興奮していた。普段は仏頂面の社長たちもその時は拓郎やこうせつたちのセコンドの如く彼らに水を与え、タオルで仰ぎながらサポートしていたという。まだ見ぬ頂を誰しもが感じていたのだ。

 ビッグイベントの黎明期は「中津川フォークジャンボリー」や「箱根アフロディーテ」「椛の湖フォークジャンボリー」などが各地で開催されていたが、その集大成が1975年のつま恋であることは間違いない。このビッグイベントがその後のイベントのアイコンとなり数々のイベント生んでいった。
そして、各地のイベンターも拓郎と一緒に大きくなっていったといっても過言では無い。
それまでの労音や民音、または、いかがわしい興業主が介在する興業の世界にイベンターという新たな職業が生まれた。それまでの権利問題など相当な苦労はあったであろうが、若者の音楽は若者がプロデュースしていくと言う気概だけで突き進んだという。
1975年の「つま恋」はコンサートだけでなく、その周辺環境をも変えていったターニングポイントだったのだ。

 拓郎のコンサートは男臭い。轟音が響き、それは大津波のように全てを飲み込んでいく。1975年と1979年の2回のイベントについては、「演奏者」「観客」どちらかが倒れるまでやる、という勢いがあり、コンサート自体は和気藹々と進む中にも緊張感もあり、終演間際になると観客は集団ヒステリー状態となっていく。
特に1979年の篠島は島という閉ざされた空間の中でのイベントであったので、拓郎も観客も逃げ場は無いという気分がアドレナリンを増幅させていた。
 走り続けてきた70年代との決別。そしてその集大成とも言えるアルバム『ローリング30』(1978)を体現したイベントが篠島だった。
ラストの「人間なんて」で拓郎は観客に向かい感謝を述べると共に、「お前らも元気で生きろよ。負けんなよ」と叫び続けた。声が枯れても叫び続けた。
演奏が終了し、真っ赤な朝日が昇ったとき、70年代が終わったと感じた夏であった。
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 拓郎のオールナイトイベントは4年ごとに行なわれるオリンピックのようなものだ、という話を聞いたことがある。1979年の次の開催は1983年・・・。
1983年頃の拓郎はコンサートとレコーディングに忙殺。フォーライフの社長も辞め、ミュージシャンに徹していた。しかし、オールナイトイベントを企画しようとした矢先に候補地であった「つま恋」でガス爆発事故が発生。開催に「待った」がかかってしまった。
時間だけが流れて行く中、1984年が過ぎ、拓郎の言動に変化が起きていた。
予定調和だけのコンサート・・・特定の曲を演奏すれば盛り上がる・・・それ以外の曲の立場は?70年代を追い続ける拓郎マニアたちの勝手な偶像崇拝。拓郎の表現したい曲とファンの求める曲とのギャップ。冷めた感覚の拓郎の言葉がラジオから頻繁に聞こえた。
また、「王様達のハイキング」と題したこの頃のコンサートツアー。
拓郎はこのコンサートツアーで母親に苦言を呈されている。「王様」と自分で名乗ることの恥ずかしさ。傲慢さ。母親の言葉が胸に突き刺さった。
そしてプライベートな問題も加わり・・・。拓郎は疲れきっていた

 オールナイトイベントは突然発表された。1985年夏開催。前回の1979年から6年の年月が経っていた。場所は「つま恋」。
イベント開催発表後、「拓郎引退」「拓郎最終公演は、つま恋のオールナイト」等のニュースが新聞紙面に踊った。それに対して拓郎は沈黙を続けた。
拓郎からは「人生最良の日にしたい・・・」というコメントだけが発表され、その言葉だけが一人歩きをしていた。
 
 1985年夏。つま恋。
何の気負いも無く、その人はゆっくりと少々猫背な姿勢で我々の前に現れた。そして、マイクで「愛しているぜ!」と、いきなり叫んだ。
「今日は俺の人生最良の日にしたい。それを手伝ってくれるミュージシャンを・・・」
と、メンバー紹介が始まった。
いつものイベントなら雄叫びと共に「ああ青春」から始まっていたが、ちょっと調子が狂った。
1985年6月に発表されたアルバム『俺が愛した馬鹿』のレコードジャケットにはテレキャスターのデザイン。そして見開きには拓郎自身を葬るかのように墓標が描かれていた。
そう、引退説が確実視されたのは、このイベント直前に発表されたアルバムのデザインにも関係している。拓郎は、死に場所を求めてこのイベントを開催したのか。
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 拓郎はそれまでのイベントのような気負いも無く、リラックスしながらステージを進めていく。ゲスト出演するミュージシャンたちは、口を揃えて「拓郎、引退するな!」とコメントを入れる。当の本人はにこやかにその風景を見ているだけ。
そんな雰囲気で進められているので、客もそれまでのイベントには無いとても落ち着いたものであった。そこには1979年の「篠島」と同じ緊張感は存在していない。
あの頃とは時代も違うし、我々の置かれた場所も違う。そして一番の違いは拓郎のテンションだ。
とにかく叫ばない。淡々と歌う。ゲストが来たらまるで「さんまのまんま」の明石家さんまの如くゲストのエピソードを話し、歌に入る。
 
 2部が終了し、深夜0時を過ぎてもコンサートは淡々と進む。途中近隣住民から苦情が入り、PAの音量を下げるという一幕もあった。そんなこともあり、なぜか冷めた印象のイベントだった。
 太陽が昇っても全ての曲が終了していなかった。いつまでやるのか、という雰囲気になっていた客もいた。それは誰しもが拓郎と叫びたかったのかもしれない。オールナイトコンサートをやりきる達成感を味わいたかったのかもしれない。
 最後の曲は「人間なんて」でも「アジアの片隅で」でもなく、「明日に向かって走れ」だった。早い8ビートにアレンジされ、歌い回しが変わっていた。そして延々続く青山徹のギターソロ。
演奏が終了し、拓郎が舞台袖に消えた時、私は「拓郎はもうステージには上がらないのではないか」と思った。最後まで肩の力が抜けたステージだったからだ。
但し、拓郎の最後のオールナイトは決して不完全燃焼のイベントではなかった。ただそれまでのイベントとは趣が違っていたということだけだ。ただ、それだけだ。

 それから2年間拓郎はステージに立たなかった。映画出演。テレビのレギュラー出演などそれまでの活動とは異なった動きを見せていた。
それは、本格的に全国ツアーを再開した1988年4月まで沈黙した。そして1988年のステージは衣装もスーツとなり、随分大人の雰囲気になってステージに帰ってきた。それまでのパワーで押すタイプではなくなっていた。

 拓郎のコンサートに行くと、いまだに観客の中から「朝までやれー!」という野次が飛ぶ。70歳を超えたミュージシャンと同年代の観客。それは到底無理なことだが、本音でもある。
拓郎は笑ってスルーし、「あんたらそんなことしたら、もう死ぬよ!」とつぶやく。
でもその言葉には「朝まで伝説」を駆け抜けた男だから言える凄みもある。
 時代を創り、切り開いてきた男の仕事である。

2016/11/4 花形

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by yyra87gata | 2016-11-04 20:12 | 音楽コラム | Comments(0)
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 1989年の冬。昭和から平成に変わった年、かなり長い期間、私はヨーロッパにいた。
卒業旅行と称し、友人と2人でバックパッカーを実践していたのだ。
イギリス、スペイン、ポルトガル、ソ連という4カ国。とにかく、興味のある国だけを回った。車好きであれば、ドイツやイタリアなどが加わるのだろうが、自動車の会社に就職することも決まっていたから、その選択肢はあえて外した。
 イギリスはビートルズやブリティッシュロックに浸りたかったこと、スペイン、ポルトガルは食事が一番美味しそうだったこと、ソ連は予算の関係上アエロフロート(ソ連の航空会社)を使用したから寄ってみただけ(モスクワ・クレムリン宮殿の周りなどは人がいるんだけど音が一切しない。本当に共産国家という統制下の街で怖かった)。
単純な理由だ。

 さて、ロンドン。音楽漬けになるぞと誓い、ヒースローから地下鉄で中心街に向かう。「Underground」と書かれた地下鉄。駅の壁には2種類のポスターがところ狭しと貼られている。
シンプリーレッドの『ニュー・フレーム』(1989)とエルビス・コステロの『スパイク』(1989)だ。
ピカデリーサーカスでは、その2つのニューアルバムを宣伝するポップや大型ポスターが出迎えてくれた。
ホテルに入り、映りの悪いテレビを点けた。
すると早速コステロがインタビューを受けている画面だ。ニューアルバム『スパイク』の話をしている。ポール・マッカートニーが自身のアルバムでコステロと共演したから、その流れで『スパイク』でも何曲かベースを弾いてくれた、と笑いながら話していた。
 コステロを初めて見たインパクトは、衝撃だった。スタイルはバディ・ホリーがパンクを歌っているのかと思うほど似ていたし、ヴォーカルもミッドレンジがやけに響く声だと思い、ただただ叫ぶだけの破壊的なパンクスでは無いな、なんて思ったものだ。そんなコステロが今、ちょっと贅肉を付けてゴージャスな洋服を着てブラウン管で笑っている。
 『スパイク』は、ちょうどインディーズからメジャーレーベルに移った作品で、バックバンドのアトラクションズも解散状態だったから、有名なミュージシャンが寄ってたかってコステロの辛らつな歌をエンターテイメントに仕上げていた。
時代が変わったんだな、と思ったものだった。
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 ロンドンは「セカンド・サマー・オブ・ラブ」の真っ只中だった。
とにかくダンス、アシッド、レイブである。大人もガキも街中で「アシーッド!」と叫んでいやがった。
「サマー・オブ・ラブ」は1967年にアメリカで生まれたヒッピー文化を指す。それは、時代性や政治、社会性が絡み合い文化となり昇華し1970年過ぎには消滅してしまった。いくら叫んでも、いくら踊っても、いくら髪飾りに花を付けてもベトナム戦争は終わらず、人種差別は無くならない。平和にならないからだ。
しかし、その20年後ロンドンで第二の「サマー・オブ・ラブ」が発生したのだ。最初は郊外の森の中で集団が大音量のダンスミュージックで夜通し何日も踊り狂う。集団ヒステリーと捉えられたこともあった。
エクスタシー(ドラッグ)をフューチャーし、集団で盛り上がるダンスを繰り広げる。イギリスではエクスタシーは使用禁止薬物であったが、当時のエクスタシーは現在のLSD効果のあるそれとは違い、もう少しソフトな効き目だったという。レッドブルを飲むかの如く手軽に高揚感、一体感を感じるドラッグとしてレイブミュージックには欠かせないものであり、音楽を頭と体で楽しむものとして認識されていた。そこに時代性も無ければ政治も無い。あるのは刹那である。
 私はビートルズやレッド・ツェッペリンを生んだ音楽の都としてロンドンを捉えていたのだが、訪問した時期があまりにも悪すぎた。ギターをかき鳴らし、メッセージを伝える前時代的な音楽・・・ひと昔もふた昔も前の化石の音楽を見る目で若者はそれらを語る。
音楽は楽器を持ってやるなどナンセンス。それよりもリズムに身を委ねるべきだ、と立ち寄ったディスコ「ウィスキー・ア・ゴー・ゴー」の受付の兄ちゃんに言われた。
そんな時代だ・・・、コステロが太るのも分かる気がした。

 では何故その頃、シンプリーレッドが大ヒットしたか。回帰なんだろう。
シンプリーレッドは、日本でもブルー・アイド・ソウルのバンドと認識され、ホール&オーツのイギリス版という知名度だった。ヴォーカルのミック・ハックネルはシルキー&ハスキーな声で、落ち着いた佇まいだが、実はセックス・ピストルズ好きの生粋のパンクス。デビュー当初はパンクに近い元気な音楽を発表していたが、時代と共にポップさを増し、「ホールディング・バックイヤーズ」で全米1位に輝いた。そして、ハロルド・メルヴィンの1972年のヒット曲「二人の絆」(If You Don't Know Me By Now)で2度目の全米1位となる。
時代が求めた生の声と郷愁の音楽なのだと思う。

 ロンドンでディスコ(今で言うクラブ)に行けば、レイブだった。
ライブハウスの老舗「マーキー」に行けばアイリッシュからの活きの良いバンドと観客にダイブするグランジのバンド。
確実に進化した音楽の地図。

 私はちょっと疲れてしまい、ハマー・スミス・オデオンでモータウンの雄「フォー・トップス」を楽しんだ。
 そして、次の日長距離バスでリバプールに向かった。
 ウォークマンにはビートルズではなく、買ったばかりのシンプリーレッドとエルビス・コステロが入っていた。

2016年7月25日
花形
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by yyra87gata | 2016-07-25 20:21 | 音楽コラム | Comments(2)

かまやつひろしの代表曲

  
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 1970年代当時の吉田拓郎は、下駄も履いてなければ、腰から手ぬぐいも垂らしていない。どちらかと言えば、デザイナーズブランド(メンズビギやJUN)を愛用し、車もジャガーに乗っていた。
しかし、世間の認識は長髪で薄汚く、バンカラなイメージであった。なぜこのような誤解が生まれてしまったか。
①フォーク界のプリンスという触れ込みで拓郎は認知されていた。フォークは、かぐや姫に代表される四畳半フォークと拓郎や泉谷しげるのように強いメッセージを伝えるものに大別されており、そこにバンカラのイメージがついた。
②大晦日の夜。日本国民の半分以上が「輝け日本レコード大賞」と「NHK紅白歌合戦」に酔いしれる日。1974年のレコード大賞でブラウン管から飛び出てきた映像は、「襟裳岬」の大賞受賞に喜ぶ森進一。そしてその後ろに並ぶのは、作曲家でGジャン、Gパン姿の拓郎。仰々しすぎるスーツを着た編曲家の馬飼野俊一の横でGパンの後ろのポケットに両手を突っ込み居心地悪そうに並んでいる。その姿に歌謡界しか知らないお茶の間は仰天した。
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③拓郎がかまやつひろしに書き下ろした「我が良き友よ」のフレーズ。
「下駄を鳴らしてヤツが来る  腰に手ぬぐいぶら下げて・・・」
かまやつひろしの大ヒットで知られるこの歌のモデルは、拓郎の大学時代の友人である。バンカラそのものの歌を、何故お洒落なシンガーであるかまやつひろしに贈ったかは不明だが、この歌の作者が拓郎ということで、拓郎のイメージにつながったか・・・。
④かまやつひろしが当時出演していたTVドラマ「時間ですよ」シリーズの中で彼は薄汚いバンカラな役回りで、それを視聴者が拓郎とシンクロしたという説。
  
 人々のイメージはどこで生まれるかなど皆目見当もつかないが、少なくとも何らかの要因は「フォークシンガー=汚い」というイメージと「我が良き友よ」という歌にあるに違いない。

 そして、私は③に着目したい。
何故、拓郎は「我が良き友よ」をかまやつひろしに贈ったのか。単純にかまやつがアルバムを制作するからその依頼に応えただけというならそれまでだが、前述のとおり、あまりにもかまやつひろしのイメージとかけ離れている歌なので・・・拓郎はそこに化学反応を求めたのだろうか。
かまやつひろしは、この曲を元にし、アルバム『ああ、我が良き友よ』(1975)を発表した。タイトルどおりこのアルバムには多くのミュージシャンが参加している。拓郎以外にも松本隆、細野晴臣、井上陽水、大瀧詠一、堀内譲、遠藤賢司、加藤和彦の名前が並ぶ。
そして、このアルバムにも収録されたが、「我が良き友よ」のシングル盤(B面)に、日本のポップスの金字塔となる歌が収録された。
「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」である。
かまやつ渾身のトーキングブルースである。

 「あの当時、シングルのB面って何やっても良かったの。だから、どうしようかなって思っていたら、なんとタワー・オブ・パワーが来日しているって聞きつけたんで、たまたま呼び屋の人が知り合いで、ダメもとで電話して、レコーディングしてもらえないかって言ったらOKになっちゃって。でも、レコーディングが明日とか明後日って話になっちゃって。曲なんか作ってなかったから、好きなコード進行だけ書いて、タワー・オブ・パワーのメンバーに渡して。で、今度は、詞をどうしようかってことになって。そのときゴロワーズを吸ってたから、じゃあこれって」
こんな流れで制作された作品。

 出会いがしらのようなエピソードだが、時代を先取りした作品となった。
シンプルなコード展開だが、ブラスはイントロからサビまでリズムを作りながら、強弱をつける。
ギターソロやコーラスなど、曲に絡みつくフレーズを創出しているが、かまやつひろしの即興とは思えない言葉が芯となり、全てが彩りとなっていく。
「我が良き友よ」はオリコンチャート1位となり、70万枚の大ヒットを記録した。そのB面にこのようなマニアックな作品を入れてしまう彼のセンス。
70万人のうちの1人である私は当時中学生であったが、B面の「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」を聴いた瞬間、全然意味がわからなかった。いったい何が言いたいのか・・・。
脈絡も無いフレーズが言葉遊びのように音符の上で踊るのだ。
しかし、大人になるに従い、この世界がわかってくると、なんとも洒落た歌だなぁなんて思いながら未成年の分際で紫煙をくゆらせている。わかったようなフリをしていただけかもしれないが、歌ってそういうもんだろ、なんて思いながらよくターンテーブルを回していた。

作詞:かまやつひろし  作曲:かまやつひろし  

ゴロワーズというタバコを吸ったことがあるかい
ほらジャン・ギャバンがシネマの中ですってるやつさ
よれよれのレインコートのエリを立てて
短くなる迄 奴はすうのさ
そうさ短くなる迄すわなけりゃダメだ
短くなるまですえばすうほど
君はサンジェルマン通りの近くを
歩いているだろう

ゴロワーズというタバコを吸ったことがあるかい
ひと口すえば君はパリにひとっとび
シャンゼリーゼでマドモアゼルにとびのって
そうだよ エッフェル塔と背くらべ
ちょっとエトワールの方を向いてごらん
ナポレオンが手を振ってるぜ
マリーアントワネットも
シトロエンの馬車の上に立ち上って
ワインはイカガとまねいてる

君はたとえそれがすごく小さな事でも
何かにこったり狂ったりした事があるかい
たとえばそれがミック・ジャガーでも
アンティックの時計でも
どこかの安い バーボンのウィスキーでも
そうさなにかにこらなくてはダメだ
狂ったようにこればこるほど
君は一人の人間として
しあわせな道を歩いているだろう

君はある時何を見ても何をやっても
何事にもかんげきしなくなった自分に
気が付くだろう
そうさ君はムダに年をとりすぎたのさ
できる事なら一生
赤ん坊でいたかったと思うだろう
そうさすべてのものがめずらしく
何を見ても何をやってもうれしいのさ
そんなふうな赤ん坊を
君はうらやましく思うだろう


 今改めて聞くと、1990年代のアシッドジャズのメソッドを全て注入した作品なのだ。
そんな時空を超えた作品をかまやつひろしは1970年代半ばにサラリと作ってしまっていた。
だから、そんな洒落っ気がある洋楽志向のかまやつひろしになぜ拓郎は「我が良き友よ」を贈ったのか。
拓郎はかまやつにこの曲を贈る時に「かまやつさんにぴったりの曲が出来た」といって渡したという。
バンカラなキャラでもない人が飄々と歌うところに化学反応を求めたのか。ヒットを狙う拓郎の目がそう読んだとしか思えない。
しかし、その曲があったからこそ、「ゴロワーズ・・・」も生まれたわけだから、今となってはそんな疑問は良しとしようか。
 しかし、六本木や青山あたりで時代の最先端の芸術家たちと遊んでいたかまやつひろしにバンカラな先輩の歌を歌わせた拓郎・・・いまだに疑問である。
結局、「拓郎がバンカラキャラ」という誤解を生じさせたことについては、何の解決もないが。

2016/07/20
花形
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by yyra87gata | 2016-07-20 17:15 | 音楽コラム | Comments(0)

ミッキー吉野とゴダイゴ

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 1980年代のインタビューでミッキー吉野は「銀河鉄道999」も「ビューティフルネーム」もヒットを狙って発表したという。つまり、当てに行く、ということだ。
(ちなみにゴダイゴの作曲はほとんどがタケカワユキヒデであるが、アレンジはすべてミッキー吉野が行なっており、彼はバンドではプロデューサー的なミュージシャンだ)
ゴダイゴは、1978年に日本テレビ系のドラマ「西遊記」の音楽を担当しており、そのオリジナルサウンドトラックであるアルバム『西遊記』(1978)で大ヒットを記録していた。彼らは精力的にテレビ音楽番組に出演し、お茶の間でもスーパースターになっており、その流れでいけば作品を出せば全てヒットするという図式は出来上がっていただろう。しかし、ミッキー吉野があえて「ヒットを狙って行った」という意志に彼の才覚があるのだ。
その才覚とは、彼の中にある10代の頃から天才キーボーディストとして謳われた現場力や実践力にあるのではないか。

 ゴダイゴ結成前のミッキー吉野を語る上でのキーワードは、「横浜」「GS」「薬物中毒・逮捕~渡米」「名門バークリー音楽大学卒業」「多忙なスタジオミュージシャン時代」などが挙げられる。
天才キーボーディストとしてゴールデンカップスで名声を得たが、時代性もあり、薬物との接触によりドロップアウト。音楽を見つめ直す意味でのバークリー音楽大学への進学。そして帰国。
ミッキーが帰国した時、日本の音楽マーケットにかつてのGSは存在せず、歌謡界とフォークブームが音楽界を席巻していた。そんな市場だから再浮上の時を見極め、まずは日本の音楽界の中でスタジオワークをこなした。70年代の彼は、まさに歌謡界のレコーディングスタジオを渡り歩き、何千と言うレコーディングで現場感を磨いていた時期だった。そして様々な音楽を実践する傍らミッキー吉野グループを率い、後にタケカワユキヒデをヴォーカリストとして迎え入れ、ゴダイゴ結成へとつながっていく。
ゴダイゴは、Go(生き)die(死)go(再び生きる)を実践した自らの音楽人生をグループ名に配したことからもその思い入れが伺い知れる。

 ミッキー吉野の楽曲に対するアプローチは、音の整理とヴォーカルを活かしたアレンジに尽きる。ストリングス、ブラス共に、アメリカの映画音楽のようなおおらかな作りが、かつてのゴールデン・エラを彷彿させる音となるのだ。
だから、ゴダイゴの演奏はある意味癖が無く、どこか懐かしい洋楽の香りがする楽曲が多い。
ミッキーは語る。
「70年代初頭にバークリーに行き、その肩書きで仕事が入ってくるという状況になったのは多分俺が最後だと思う。俺より前に行っている人・・・例えば渡辺貞夫さんとか秋吉敏子さんとか・・・まぁ、ジャズの人は向こう(アメリカ)に行って本場のジャズを学ぶという大義があり、向こうの進んだ音楽を学んできて日本に広めたという功績があると思うんだけど、俺の場合はジャズというよりもっと広い意味での音楽、つまりポピュラー音楽なわけで・・・。バークリー帰りのミュージシャンというだけで肩書きになったものなんだよ。何で渡米したか?ま、日本にいられなくなった事情というのもあるんだけど・・・」

 ミッキー吉野の音楽アプローチは、日本の軽音楽におけるキーボードの歴史そのものである。ピアノ、オルガン、ハモンドなどGS時代から現代に至る中、ローランド社と一緒にキーボードを進化させていった功績は大きい。
1960年代から1970年代はトランジスタの進化からデジタルへと変革し、コンパクトな固体や音色の多様化などキーボードの限界域が一気に広がった時代だ。
そして、そのキーボードの開発については研究員もさることながら、音楽の現場を渡り歩いてきたミッキー吉野の意見はかなり重要視されたことだろう。
日本のロックの夜明け・・・ミッキー吉野は、むりやり日本に太陽を昇らせてしまった数多くのミュージシャンの一人なのだ。そういえば、ゴダイゴのギタリストである浅野孝巳はグレコギターの開発(GO‐Ⅲモデル)に携わっている。
海の向こうで生まれた物を日本のモノづくり精神で進化させる1970年代は楽器にしろ、自動車にしろ、日本の開発力がそこかしこに花開いた時代であったのだ。
 
 私とゴダイゴの出会いは映画館だ。中学2年、三軒茶屋の名画座で観た長谷川和彦監督のデビュー作「青春の殺人者」である。そのサウンドトラックをゴダイゴが担当していた。日本のATGというマイナーな映画にもかかわらず、音楽は英語だったので、外国のバンドが演奏しているかと思ったものだ。
映画のエンディング。薄暗い夜明け。水谷豊が不安そうな表情でトラックの荷台にしがみついているシーンでエンディングロールが流れる。そこに「音楽 ゴダイゴ」と出てきた。
そしてその映画を観てから数ヶ月後にはテレビでチャーのバックを・・・。
テレビのテロップに「演奏 ゴダイゴ」と。
とどめは日本テレビのドラマ「西遊記」のテロップに「音楽 ゴダイゴ」。
まさに昇り調子の1977年から1978年だったのだ。

 ゴダイゴでのミッキー吉野は、アレンジャーとプレイヤーだが、彼の作曲作品で私は布施明の「君は薔薇より美しい」(1979)を推す。
レコーディングミュージシャンは、そのものずばり一番乗りに乗っている時のゴダイゴ。とにかくブラスアレンジがこの上なく気持ちよい。
 タケカワユキヒデのように浮遊するヴォーカルとは違い、布施明のストレート且つ有り余る声量で歌い上げるこの作品は、大変ダイナミックな歌謡曲として多くの人々の記憶に留められているだろう。
そして、まるでラスベガスのゴージャスなステージで歌われるようなこの作品は、布施明というヴォーカリストにとてもマッチし、大ヒットした。
数多くのミュージシャンにカバーもされたようだが、この作品はミッキー吉野のアレンジと布施明のヴォーカルが光るエバーグリーンミュージックなのである。
 
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  ミッキー吉野・・・山あり谷ありのバンド人生だったはず。実力派GSグループのゴールデンカップスから始まり、ミッキー吉野グループで試行錯誤を繰り返し、ゴダイゴへと進化。その後もセッションミュージやンとして数多くのシンガーのバックを務めた。
 そして、ゴダイゴは今年もツアーに出る。規模は小さくなっているが、オリジナルメンバーと追加メンバーを合わせ、6人で演奏する。
 オリジナルメンバーが全員揃っているバンド・・・レジェンドの域である。
まさにGo(生き)die(死)go(再び生きる)なのだ。

2016年7月7日
花形
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by yyra87gata | 2016-07-07 17:03 | 音楽コラム | Comments(0)