音楽雑文集


by yyra87gata

カテゴリ:音楽コラム( 111 )

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  中学、高校時代はとにかくレコードを買うためにいかに金を工面するかということに心血を注いだ。

部活や委員会の仕事もあったので、バイトなんて出来ない。かといって小遣いだけではLPレコードを1枚購入するのがやっとである。当然、昼飯を削って金を作ってもタカが知れているし、毎日昼飯を抜くのも辛いものがある。

そんな時に手っ取り早く金を手に入れる方法として考えたことは、自分の持っている不要なものを友達に売るということだった。自分の家にある本や漫画、Tシャツやらトレーディングカード類など・・・それらをノートに書き込んで販売価格を書く。そして、休み時間にみんなに見せると、意外や意外、これが飛ぶように売れた。そして、噂が噂を呼び、隣のクラスのヤツも私のノートを覗きにくるようになった。

「あ、これくれ!」「じゃ、500円ね、商品は明日持ってくるわ」なんてなもん。

そうこうしているうちに、自分で売るものがなくなり始めた時、I君が「俺の家にある要らないものも売ってくんない?」と言い出した。

「お前も同じようにやればいいじゃん」と言うと、「俺は口下手だからなかなかそんなようにできないよ・・・」なんて言いやがる。

「いいよ。その代わり、販売手数料で10%差し引くぜ」と言ったら、I君どころか他にも大勢の委託者が集まってきた。

私のノートは友達の商品で真っ黒になっていった。

これ、本当は学則で禁止されている学内での商品販売行為だったのだが、そんなことはお構いなしに私は売上を伸ばしていた。

因みに・・・大学時代、家内と伊丹十三監督の「マルサの女」という映画を観ていた。その映画の中で、脱税をしている山崎努の息子(小学生)が当時の私と同じことをして友達と商売をしているという逸話が流れたとき、家内は大声で笑っていた。

「ここにもおんなじことしていた人いますよ~」

これって、今考えるとフリーマーケットから派生したメルカリと同じ仕組みだ。

私は約40年前にメルカリの仕組みを実践していたことになるのだ。

ま、そのおかげで、レコードを購入することができたのだが、私の場合、闇雲にヒットアルバムを購入するわけでなく、中古レコード店「ハンター」に通い、誰もが購入しそうなものは敢えて外し、誰も聞きそうにないレコードを選んでいた。

ヒットアルバムは何年経っても在庫はあるだろうし、最悪、友達も持っているだろうから借りることもできるだろう。しかし、マニアックなものは流通が少ないし、一度逃すと次が無いという感覚もあり、そういったレコードがあるとすぐに購入していた。

そんな中、ブルース・スプリングスティーンが『明日なき暴走』(1975)の大ヒットをアメリカで記録した。次作の『闇に吠える街』(1978)も順調なセールスを上げていた時、ようやく日本でもちらほらと話題になってきていた。

私は、『明日なき暴走』も『闇に吠える街』も揃えてはいたが(スプリングスティーンはそんなに有名ではなかったので中古市場にもあまり出回っていなかったので購入するのに苦労した思いがある)、彼のファーストアルバムである『アズベリーパークからの挨拶』(1973)は持っていなかった。

スプリングスティーンは「土曜日の夜、可愛いあの娘とデートするために他の日は犬のように働く」と歌う労働者の匂いがぷんぷんしたミュージシャンだったから、そんな生活習慣の無い日本人にはなかなか理解されなかったのだ。

そんな彼のファーストアルバムはディランの真似事と言われることもあったようだが、私にはただのロックンロール好きの兄ちゃんという印象だった。

『アズベリーパークからの挨拶』は中古盤屋をいくら探してもその盤は無く、ようやく見つけた先が、丁度日本に進出してきたばかりのタワーレコードだった。しかも、その盤はカット盤(B級品)として陳列されていた。

しかし、その時、私はもう1枚欲しいアルバムを見つけてしまっていた。

レーナード・スキナードの『セカンド・ヘルピング』(1974)である。しかし、2枚いっぺんに購入するだけの余裕はない。

そこで、一緒にいた友達のY君に交渉。

「スプリングスティーンのデビュー盤に興味ない?今、すげ~流行っているスプリングスティーンだよ。え?ヒット曲?あ、それは・・・収録されていないな・・・でも、若い息吹というか情熱というか・・・お前が買えばいいって?いやいや俺はレーナードを買おうかと思っててね・・・あ、レーナード貸してあげるから、スプリングスティーンを貸してよ・・・え?レーナード知らないの?・・・おお!知らないミュージシャン2枚も聞く事ができるじゃない。こりゃいいよ、いい!」なんて言いながらY君をその気にさせていた。


ターンテーブルでスプリングスティーンが回っている。

レコードジャケットも折り目がついて本当の挨拶状のようなデザインでお洒落である。

Y君はこのレコードを貸してくれる時に「なんだかよくわからなかったよ・・・、イーグルスを買えば良かった気がする」なんて言ってたっけ。

スプリングスティーンがもがきながらようやくデビューを果たし、それでもレコード制作過程でコロンビアレコード社長のクライブ・ディビスから「今のままじゃヒット曲の要素がまったくないから、何か作れ!」と言われて作った「光で目もくらみ(Blind by the Light)と「夜の精(Spirit in the Night)」。この2曲はアルバムの中で異質な雰囲気となったが、それがアクセントになってアルバムを起伏あるものにしていると思うし、スプリングスティーンの荒削りな部分も際立ち、躍動感を感じることもできる。

このアルバムはすぐにカセットテープに録音し、Y君にレコードは返却したが、カセットテープでは飽き足らず、結局、翌月には自分のレコード棚に収めた記憶がある。

もしかしたら、Y君が私のところに来て「このレコード売ってくんない?」と頼み、それを安く私が購入したのかもしれない・・・。

2017/7/5

花形


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by yyra87gata | 2017-07-05 15:48 | 音楽コラム | Comments(0)

ディランにみるブルース


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 ブルースはもともと黒人の労働歌から派生したものなので、小難しい歌詞が並ぶわけでは無い。そしてそれは、賛美歌やゴスペルのような神へのリスペクトを歌い上げるものでもない。どちらかと言えば、同じフレーズを繰り返し、人間のみじめさや憂いを醸し出す表現が多く、時に攻撃の言葉で彩られる。しかし、決してそのフレーズは白人に聴かれてもわからないような隠語やスラングを使い、笑顔で白人に対時しながら心の中で中指を立てて歌う。そんな刃のような歌だ。

虐げられた世界・・・貧困、差別、諦め・・・未来の無いプランテーションの中だけの世界。そんな苦境の中でも、農民は働いていれば幾ばくかの食料を得ることが出来る。動きを止めたら死に直結する下層社会に生きる彼らの上階で白人はパーティーを開いていた。そんな不平等を裁く者は無く、司法、警察も全て白人寄りで動くとなれば、気概のある黒人から黒人開放の運動が起きても何ら不思議では無い。その運動が最終的に暴力なのか、歌という表現なのか・・・。

ブルースはアメリカの作り上げた社会の汚点から派生した歌といえる。

ブルースのスタンダードは数多くある。

“Key to the Highway”というトラディショナルブルースがある。誰が作ったかもわからない歌だ。

この歌詞の中の“Key”は「鍵」?。“Highway”は「ハイウェイ」?

「ハイウェイの鍵」では意味が通じないが、黒人の境遇を慮ると、ハイウェイは自由な土地に続く道かもしれない。ハイウェイの先には自由があって、そのハイウェイに乗る権利を得るということでしっくりする。

それが証拠に、

Cause when I leavehere, baby. I won’t be back, no I won’t be back anymore.”

とある。つまり、もうここには帰ってこないよ、ということは、新たな希望の土地に行くと言うことであるからだ。


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 “Further on up the road”は、古くから歌い継がれるブルースのスタンダードである。フレディ・キングやTボーン・ウォーカー、ジェームズ・ブラウン、ゲイリー・ムーアなどがカバーしており、中でもエリック・クラプトンは映画「ラスト・ワルツ」の中でザ・バンドと競演している姿が印象的である。

さて、この“Further on up the road”だが、直訳すれば「この道のずっと先で…」となる。そして“Someone's gonna hurt you like hurt me”と続く。

「お前が俺にしたようにお前も誰かに傷つけられるぞ!」となる。

これも、まさにブルース。

You gotto reap just you sow. That old saying is true.”

蒔いた種を 刈り入れることになる 古い諺は真実だ」

因果応報の世界なのである。

こういったブルースの世界・・・魂の叫びは多くの人の心を動かすもので、そんな黒人音楽に共感した白人の若者たちは、1960年初頭よりエレキギターを手に取り始めた。

ホワイトブルースの誕生である。

その流れはアメリカよりもイギリスのバンドであるビートルズやローリング・ストーンズ、ヤードバーズやアニマルズなどがいち早く反応し、その流れを作り上げて行った。

そう、ホワイトブルースの主流はイギリスにあった。

それはアメリカの闇である差別が生んだ副産物である。

なぜなら、アメリカで中々歌う場所に恵まれなかった黒人のマディー・ウォーターズやオーティス・スパンが次々に渡英。特にソニーボーイ・ウィリアムソンⅡのイギリス公演にはバックミュージシャンとして若いヤードバーズが務めたことも大きな転機となったからだ。それまでのイギリスはアメリカでいうところのロカビリー~スキッフルブームで沸いていたが、刺激を求める若者はその軽さに飽き飽きしており、1950年代よりアレクシス・コーナーやジョン・メイオールが演じるブルースに火が点き始めていたのだ。

そして、1960年代半ばから後半にかけて、ブルース・ブレイカーズからクリームへと渡り歩いたエリック・クラプトンやヤードバーズから派生したレッド・ツェッペリンへの系譜がブリティッシュブルースを確立していくことになる。


同時期のアメリカでは、ロックンロールリバイバルに踊り、アメリカンポップスが花開いていたが、すぐにビートルズ旋風やブリティッシュ・インベイジョンの影響で蔑んでいた黒人の音楽を彼らから知ることになった。だから、音楽業界と前時代の大人たちは真っ向から黒人音楽に立ち向かうことになってしまったのだ。

しかし、白人はここでもパブリッシュという仕組みで黒人音楽で金儲けを始めていくから抜け目ないというかなんというか・・・。

そのような音楽のマグマが沸騰しかけていた頃、ボブ・ディランはサードアルバム『The Times They Are A-Changin'』(邦題「時代は変わる」)(1964)の中に衝撃的な作品を収録する。

“Only a Pawn in Their Game”(邦題「しがない歩兵」)は、黒人解放運動家が暗殺された事件を歌った作品だが、それまでの歌には無い表現がこの歌には組み込まれている。

冒頭のブルースしかり、黒人開放を訴える歌しかり・・・その事象をあるときはオブラートに包みながら、あるときは赤裸々に表現することが今までの歌にはなされてきた。しかし、ディランは「Only a Pawn in Their Game」の中で、黒人を虐げた者、暗殺をした白人のことについて、その男もある意味被害者なんだと訴えた。

しょせんそのプア・ホワイトは、大きな仕組みの中に組み込まれたただの駒に過ぎないのだと・・・。

貧しい白人は「お前は黒人にならなかっただけでもいいだろう・・・文句は言うな」とリッチな白人に言われるだけ。そして、「そのしがない歩兵はバカな上官の言うことが絶対なのだから、そのこと事体が一番の不幸なんだ!」と歌う。

黒人開放を事象だけ捉える歌はごまんとあるが、そのような作品とは一線を画す仕上りに、ディランの非凡さが際立つ作品となっている。

ディランは詩の世界が評価されているが、音楽の基本はブルースの3コードが意外と多い。但し、ディランのそれはトラディショナルブルースと違い、難解な歌詞が延々と紡がれている。

ディランを代表とするプロテストソングは、ただ嘆いたり憂いたりするだけでなく、政治的抗議のための歌であることから1960年代から派生したこれもひとつのホワイトブルースと読み替えても良いのではないだろうか。

白だ黒だと規制し、歌で意見を表現しなければならない境遇・・・。

歌の持つ力が遺憾なく発揮されるとも言えるが、住みにくい世界にこそ生まれた至宝の産物かもしれない。

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2017/6/21

花形


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by yyra87gata | 2017-06-21 19:57 | 音楽コラム | Comments(0)

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私は出張先のビジネスホテルで映画を良く観る。多い時では月に15本くらい観る時もある。

先日、出張先で観たクライムホラー映画。2016年の作品「ミュージアム」(主演:小栗旬)は、雨の日に起こる猟奇殺人を追う刑事と犯人との壮絶な駆け引きの映画だ。

映画の内容はともかくとして、その映画の英語タイトルに目が行く。

THE SERIAL KILLER IS LAUGHING IN THE RAIN. ”

邦題タイトルの「ミュージアム」は猟奇殺人を衆人に晒すという犯人の残虐性から来るタイトルだが、英語タイトルはどちらかというと「雨」というストーリーのキーワードに触れたタイトルで、なるほどな、と思った。


さて、このタイトルを見た時に思ったことは、かつてニール・セダカのヒット曲で雨の歌がこんなタイトルだったな、と。(・・・全然映画と関係ないんだけどね)

邦題「雨に微笑を」、“LAUGHTER IN THE RAIN”である。

のどかでおおらかなポップスの大ヒット曲である。

のどかでおおらかなミドルテンポの具現化したものこそニール・セダカ私が最初にこの歌に触れたのは、小学生の頃に弾いたエレクトーンでのこと。譜面の端に記載されたアーティスト名を見るとニール・セダカとある。

私は、小学生ながらエレクトーンを弾いていたおかげで1950年〜1970年あたりのアメリカンポップスは熟知していた。だから、その曲の制作者にニール・セダカとあることにビックリしたのだ。

なぜなら私の中のニール・セダカ像は、「おお!キャロル」「カレンダーガール」や「悲しき慕情」といった脳天気なアメリカンポップスの人というイメージだったからで、白人の作り出す重厚なオーケストレーションや軽やかなピアノのタッチ、ロックンロールのビートなど古き良き時代の音を具現化したものこそ彼の持ち味という印象があったからだ。

そして、後日「雨に微笑を」のヴォーカル入りを聴いた時に再び驚いた。

なんと、柔らかなヴォーカルなのか。女性が歌っていると錯覚した人も多かったのでは無いだろうか。そこにはニール・セダカのやさしい高音が心地良く響いていた。


1950年代から1960年代中盤まで、アメリカの古き良きポップスはニール・セダカやポール・アンカ、当時作曲家デビューした新進気鋭のキャロル・キングなどが活躍するゴールデン・エラがあったのだ。

アメリカは太平洋戦争に勝利し、朝鮮戦争を終え、ゆったりとした時間が流れていた時・・・そこにはまだベトナム戦争も始まる前の裕福なアメリカがあり、急速に発達した楽器(エレクトリックギターやベース、電子オルガンなど)で、どんどん新しい音楽やビートが生まれていった。

シナトラがスウィングしながら軽やかに歌い、若手のプレスリーが新しいビートを刻む。アメリカンポップスが一番輝いていた時かもしれない。

しかし、その輝きもビートルズやローリング・ストーンズの登場で音楽地図が塗り替えられていった。第一次ブリティッシュ・インベイジョンの到来だ。シンプルな力強いビートと下世話な歌詞にティーンエイジャーは狂喜乱舞し、大人たちは眉を顰めた。

あんな髪の長いヒッピーのような男が鶏を絞めたような声で叫んでいるものが音楽なのか、と。

そして、その激流(ブリティッシュ・インベイジョン)はあっさりとアメリカンポップスを飲み込んでしまい、ポール・アンカやニール・セダカは一気に時代遅れの音楽に成り下がってしまった。

それからというものニール・セダカは、ブリティッシュ・インベイジョンに影響を受けたアメリカ版ビートルズであるモンキーズに曲を提供するといった皮肉な仕事もこなし、ドサ回り公演を経験するまで落ち込んで行った。

ひと晩39ドルでピアノを弾くという仕事まで請けた大スターは、再起を誓いつつ家族とともにイギリスに渡ることとなる。そのサポートをしたのがエルトン・ジョンであり、そこから起死回生の大ヒット曲が1974年に生まれた。

かつて自分を栄光の座から引き摺り下ろしたイギリスの音楽シーン・・・そのイギリスで再起の芽を掴んだニール・セダカ。

因みにこの「雨に微笑みを」はハリッウッド録音で、若手実力ミュージシャンだったラス・カンケル(Dr)、リー・スクラー(B)、ダニー・コーチマ(G)、ディーン・パークス(G)、ジム・ホーン(Brass)がバックを固めている。上質で丁寧なつくりだ。

LAUGHTER IN THE RAIN


Strolling along country roads with mybaby
It starts to rain, it begins to pour
Without an umbrella we're soaked to the skin
I feel a shiver run up my spine

I feel the warmth of her hand in mine

Oo, I hear laughter in the rain,
walking hand in hand with the one I love.
Oo, how I love the rainy days
and the happy way I feel inside.

After a while we run under a tree.
I turn to her and she kisses me.
There with the beat of the rain on the leaves
softly she breathes and I close my eyes.

Sharing our love under stormy skies

Oo, I hear laughter in the rain,
walking hand in hand with the one I love.
Oo, how I love the rainy days
and the happy way I feel inside.


突然の土砂降り・・・

冷たい雨の中、君が僕の手を包む

愛する人と行けば、こんな雨だって素敵なものさ

雨に微笑みを・・・

幸せは近くにあるものさ


雨は様々な苦難に書き換えられる。

突然襲ったブリティッシュ・インベイジョンに耐えながら・・・。

しかし、愛する家族は彼を応援し続け、彼は再起を果たす。

歌詞だけを見るととても甘いラブソングだが、そこにはニール・セダカの生き様が記されている。

一番の苦境に立ったときにこんなに優しいメロディーをあの柔らかいヴォーカルで歌うことができるミュージシャン。

だから、今でも現役でステージに立つことができるのだ。

音楽家生活60年を超えるレジェンドである。

妙な内容の映画から想起した素敵な歌の紹介でした。

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2017年5月31日
花形


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by yyra87gata | 2017-05-31 16:29 | 音楽コラム | Comments(0)

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“カセットテープに好きな曲を録音し、好きなあの娘に送る” なんてことをみんなやってたでしょ。


好きなミュージシャンやシンガーのベストセレクションとか、ラブソングだけを編集して送るとか。中にはオリジナルの曲を弾き語りしたものを録音して送る、なんてしたことある人!今すぐ白状しなさい!ある・・・でしょ?


今、そんなものを再生されたら、舌かんで死にたくなる・・・女房に知られる前に処分しなきゃ!と思った人、いるでしょ!


いいじゃありませんか。青春の思い出、若気の至り、暴走する青い性・・・ちょっと違うか・・・ま、ほろ苦い思い出の人もいるでしょうね。


で、相談を受けたわけです。

高校2年の文化祭だったか…。


アタシは中学、高校と6年間一貫教育の男子高に通っておりまして(聞くだけで汗臭そうでしょ)、女子との接点なんてまずありえないんですよ!男子高の門は、硬く固く堅く閉ざされているのです。

でも、年に1回の文化祭の時だけその門は開かれ、女子が校舎内を闊歩することができるわけです。で、そんな中、狼のような男たちは女子がキョロキョロしながら廊下の奥から歩いて来るのが見えると、狙いをつけたり、焦ったり、緊張したりするわけです。まったく俯瞰から見たら青臭い空間であります。


そんな夢のような文化祭の終わりには必ずフォークダンス大会(古っりぃ~)があって、女子と合法的に手を握るチャンスが来るわけです。チャンスは平等だお。


ここで、学校の外に彼女がいるやつは(当たり前だよ、学校内に彼女がいたらゲイだ!)、けっこう余裕をかましながら他校の女子高生と踊るわけですが、彼女いない歴16年の男子はガチガチに緊張しながら手汗かきまくりで踊るわけです。青いというか、情けない。


アタシは外に彼女がいたのですが、丁度この文化祭の前に振られてしまっていて、ヤサグレていた時期でありました。だから、楽しそうにダンスをしている友達を横目に野次を飛ばすことしか出来ませんでした。哀しいのぉ。


さて、文化祭も終わり、ダンスの興奮も冷めやらぬ男と女は、お互いに連絡先を交換します。そして男は次の段階に移ります。そうです、校外でのデートなわけです。


「どうやったら彼女にすることができるか」から始まり、「どうやったらキスまでもっていけるか」となり、「どうやったら・・・」となるわけです。


で、当時の青年誌、我々のバイブルであった「GORO」や「スコラ」などの“そういった特集記事”を回し読みするわけです。

最初のデートではマックなんて行っちゃだめ!から始まり、彼女をスマートにエスコートするには…なんて項目がいっぱい書いてある訳です。はい。


彼女を押し倒したとき、彼女の身体に全体重を乗せないように腕立て伏せだけはやって、腕の筋力だけは鍛えておきましょう、なんてアドバイスを真面目に信じていたやつもいましたかんね!


中にはデートの台本まで書く兵(つわもの)もいて、アタシはその友達とロープレした事がありますよ。もちろん、アタシは女役でしたが。


で、そんなことばっかり考えている高校生なわけですが、彼女への一番のアプローチグッズはカセットテープなわけです。


 


 “この前の文化祭で一緒に踊った娘で彼女にしたい娘がいるんだけど、カセットテープに雰囲気の良い音楽を入れるには何の曲がいいんだろうか” という相談が来ました。


 お前さぁ・・・自分の顔を見てから相談に来いよ、と思いながらも真面目な顔でアタシは応えます。


 “お前が好きな歌手やバンドの歌でいいんじゃないの?自分が良く知っている歌手の方が無理しなくて良いと思うけど” と的確なアドバイスをしたつもりなのですが、


それじゃ、駄目なんだ!と。俺は中島みゆきとさだまさししか聞いてない!とぬかしやがったわけです。


 笑いをこらえながら、“それでも、みゆきやさだまさしの歌の中にも明るい恋愛の歌はあるだろう”と伝えると、その娘は洋楽志向なんだ!というのであります。


好きな音楽は、エアサプライであったり、ホール&オーツだったり・・・。


そりゃ、全然違うわな・・・(溜息)。


で、何曲か候補を出したわけです。彼女はきっと「ベストヒット・U・S・A」を好んで見ていると仮定し、最新のヒットチャートより古めの歌を選曲しました。


例えばビートルズだったら「If I Fell」とか鉄板でしょ?でもそいつ、壊滅的に英語が出来なくて、今のお前の気持ちをストレートに表しているのはビートルズだったら「Please Please Me」かな、って教えてやったら“どうぞ、どうぞ私に”ってどういう意味だ?って不思議そうな顔をするわけ。


アタシは眩暈がしましたよ。


「僕が君に尽くすように、君も僕を喜ばせてくれよ!」という意味だよ、って教えると“「どうぞどうぞ」”じゃないのか・・・だって。

で、そんなこんなで46分テープに数曲を収録し、彼の想いは完成したわけです。


そのテープの中で私が一番好きだった歌がレオ・セイヤーの「星影のバラード(More Than I Can Say)」なんよね。


もともとはバディ・ホリーのバックバンドのクリケッツのメンバーだったソニー・カーティスとジェリー・アリソンの歌で、レオ・セイヤーが1980年にカバーしてヒットさせたんだよ。でも、時期的にジョン・レノンが長い休養から復活して、そん時に出した「スターティング・オーバー」が1位をずっと独走していたから、結果的に2位どまりになってしまった不運な歌なんだけどね。


でもこの歌、1970年代のテクノサウンドにも飽きて、落ち着きを求める人に支持された名曲であります。ゆったりとした時間の中で気持ちの良い8ビートなわけです。


Woh, woh, yeah, yeah
I love you more than I can say
I love you twice as much tomorrow, woh
Love you more than I can say

Woh, woh, yeah, yeah
I miss you every single day
Why must my heart be full of sorrow, oh
I love you more than I can say

Ah don't you know I need you so
So tell me please I gotta know
Do you mean to make me cry
Am I just another guy

Woh, woh, yeah, yeah
I love you more than I can say
Why must my life be filled with sorrow, woh, woh
Love you more than I can say

Ah don't you know I need you so
So tell me please I gotta know
Do you mean to make me cry
Am I just another guy

Woh, woh, yeah, yeah
I love you more than I can say
I love you twice as much tomorrow, woh
Love you more than I can say
I love you more than I can say
I love you more than I can say, oh...



情熱的で、狂おしいまでのラブソングです。



“くる日もくる日も君が恋しい なぜこんなに悲しい思いをしなくちゃいけないのか

言葉ではいえないほど愛してるよ〝


こんな歌詞日本語で歌ったら演歌ですがな。フォークソングで言ったら中島みゆきも真っ青な世なんだけど、英語でさらりと歌ってしまうと、これがスマートなわけです。

レオ・セイヤーのハスキーだけど高音が伸びる独特な声にマッチしていますな。名曲であります。

さて、カセットテープを携えて、彼女のもとに向かった友達ですが、なんだかんだ言いながら2~3回デートしたんじゃないかな。
付き合っている時も授業なんて上の空で、次のテープを作ってく
れ!なんてオーダーが来ていましたから・・・。

友達はアタシに非常に感謝していたが、アタシではなくレオ・セイヤーに感謝すべきだよ。なぁ!


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2017年5月15日

花形



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by yyra87gata | 2017-05-15 16:27 | 音楽コラム | Comments(0)
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 みんな家に帰るとき「帰るコール」ってする?アタシはする。しないと怒られるから。
じゃ、もう一つ質問ね。「帰れコール」ってしたことある?アタシは1回だけしたことがあるの。中学3年の時に単身で参加した1979年夏の吉田拓郎のオールナイトコンサート。愛知県伊勢湾の沖に浮かぶ篠島ってところで、当時新人でこのコンサートにゲストで来てた長渕剛に向けて「帰れ!」ってしたの。で、この時は周りの大人たちにつられてアタシは叫んでいたわけ。
要は「おまえなんか観たくない。おまえはいいから、早く拓郎を出せ!」というコールね。
長渕は可哀想だったんだ。きっと初めてあんなに大勢の人の前に出て歌ったんじゃないかね。とにかく彼はテンパってたよ。弦とか切ってたし。か細い声でアルペジオで暗いフォークソングなんて歌ってるから、獰猛な拓郎ファンには全然響かないのね。で、どこからとも無く「帰れコール」が鳴り響いちゃったわけ。でも、長渕は果敢に観客に向かって「帰らんぞ!」とか叫んでるんだけど、そんな抵抗をすると集団ヒステリー状態の観客には逆に火が点いてしまって・・・。30分くらいのステージだったんだけど、お互い後味が悪かったんじゃないかね。アタシはガキだったから周りの大学生の兄ちゃん達とあいつを打ち負かしたなんていい気になっていたかもしれない・・・。
 長渕は主催のユイ音楽工房の新人ということで呼ばれたんだと思うんだけど、厳しい洗礼だったね。
で、その「帰れコール」を拓郎は舞台裏で聞いていたのか。それともホテルで休憩していて、そのことを後から聞いたのか。ちょっと気になったね。

 なんでかというと、日本で一番「帰れコール」を浴びたミュージシャンは何を隠そう吉田拓郎なんだよ。だから、長渕が「帰れコール」の洗礼を受けた時、きっと拓郎は感慨深く感じたんだと思うよ。
でもそれは多分「時代は変わっちまったな」って思ったんじゃないかね。なぜなら、それは、拓郎がかつて受けた「帰れコール」と長渕剛が受けた「帰れコール」の意味が違うからよ。
 どう違うかって?
 1970年代初頭の日本のロックやフォーク好きの連中って凄く頭が固いというか拘りが強いというか。それこそ全共闘、全学連など学生運動とかで鍛えられちゃってて、「反体制」とか「30歳以上の大人は信用しない」とか真面目な顔して語るわけ。そんで、当時の反戦運動としてべ平連(ベトナムに平和を!市民連合)のデモとか・・・そういう人々が集会に集まるといろいろと総括し合い、常に「朝まで生テレビ」状態になるわけ。
そして、それが音楽集会の中でもあって、高石友也とか岡林信康とかが歌った後、観客が今の歌についてどうなんだ、とか、海の向こうのディランはどうだとか、討議しあうんだって。そりぁ、そういうユースホステルの夜のミーティングみたいなものが好きな人ならいいけど、普通は面倒くさいよね。だいたいこれが嫌で労音主催のコンサートには出たくないって言って岡林は失踪しちゃったんだから・・・。
 で、そういう面倒くさい人。つまり音楽を音楽として感じていない人がロックとフォークのファンには多かったってことなんだけど、それは「反体制」というものに属するものを支持するということだけなわけ。
1971年第3回中津川フォークジャンボリーは3日間の予定が最後まで消化できずに終了することになったのも、コンサートの運営方法とかに不満をもった観客にステージを占拠されるという事件が起きたからなんだよ。
だって当時のロックやフォーク好きは「アングラ」なわけ。
アンダーグランド・・・言葉そのままだよね。サブカルもいいところで、そんな観客の前に「風」なんていうヒット曲をテレビの歌謡番組で歌っていたはしだのりひことシューベルツなんて登場したら、そりゃ、最高の餌食なわけよ。もう「帰れ帰れ」の大騒ぎ。
現在のように演者からのベクトルではなく、観客主導で開催されているイベントだから、気に食わなかったらもう「帰れ帰れ」なのよ。
で、こん時の観客の目当ては岡林信康なわけ。「岡林を早く出せ!」ってなもん。マイノリティーの主導者というか代弁者というか。別に岡林は成りたくてなったわけではなく、祭り上げられてしまったと言うのもあるんだけど、そういった面でも出演者側もしらけちゃってるわけ。だって、メインステージとサブステージなんて風に1軍と2軍みたいに分けられちゃって・・・。
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 第3回中津川フォークジャンボリーの伝説は、サブステージの電源が落ちてしまったというアクシデントも手伝い、今までのそういった鬱積を晴らすかのように拓郎が2時間も「人間なんて」を叫ぶ暴挙に出て、メインステージがざわつくということとになり、この瞬間に中々出てこない岡林から拓郎へとリーダーが交代したと言われているのね。別に拓郎はリーダーになりたくて歌っていたわけでは無いんだけど、結果的にそうなっちゃったわけ。ほら、ここでも騒いでいる人たちは拘りの強いフォークファンやロックファンだから・・・。
でも、ここから拓郎の苦悩が始まるわけよ。
 拓郎ってフォークソングが大嫌いな人なのね。もともとリズム&ブルースの人だし、アメリカンポップを好んで聴く人だから。でも妙なことから時代の寵児にされてしまい、奉られるんだけど、「結婚しようよ」「旅の宿」という大ヒットを発表したが最後、面倒くさい連中が「拓郎は体制派になった。けしからん!」ということで「帰れコール」が始まるわけ。女の子はキャーキャー、男は「帰れ!帰れ!」。
 ま、付け足しで言うと拓郎はベビーフェイスだったから女を取られた男の嫉妬という意見もあったけど、とにかく出るコンサート出るコンサートで「帰れ!帰れ!」の雨あられ。拓郎が出るから入場料を払って「帰れ!」を言いに行く人も多かったとか。

 では、なぜこんなに彼らは神経質だったのか。
 俺たちの大切なフォークやロックをグループサウンズの二の舞にしたくないと言うのが本音なんだよね。
1965年、ビートルズやベンチャーズが日本で大ヒットし、誰も彼もがエレキギターを手にし、テレビでは「勝ち抜きエレキ合戦」が高視聴率を記録。なんせ人気絶頂の若大将もエレキを弾いて「しあわせだなぁ~」なんて生ぬるい台詞をつぶやいていたわけですよ。
で、当然、歌謡曲の世界はここぞとばかりにエレキバンドを生み出していき、最初はオリジナル重視だったスパイダースや尾藤イサオのバックバンドから独立したブルーコメッツ、内田裕也から独立したタイガース、横浜本牧の不良バンドのゴールデンカップスなどが注目されたわけだが、そのうち金になると思った芸能事務所がちょっとルックスが良ければ職業作詞家と作曲家に歌を作らせ、華美な衣装を着せてすぐにデビューなんてことをやっちゃったわけ。金になるから。で、1965年からタイガースが解散する1968年までがGSブームと言われているから、それはそれは嵐のような音楽ブームだったわけよ。アタシ、ガキだったけどうっすら覚えているもん。オックスの真木ひでとがでかい口を開けて叫んで、そのあとぶっ倒れてたもんなぁ。あれ、何だったんだろう。
 で、フォークやロックが好きな人は拘りが強いから、金儲けのための音楽は歌謡曲(体制)と一緒だ。ヒット曲=体制だ、ということになり、女に受ける音楽=歌謡曲=体制ということになるわけよ。
で、GSは金儲けに走った芸能界にしゃぶりつくされて衰退してしまったわけですよ。
とにかくそんなようなことがあるから、マイナーなやつがメジャーになると、とたんに牙を剥くんだよ。音楽性で拒否し、しかもそれがヒットしたら怒る。「あいつは体制側だ!」とか言っちゃって。
 でもさぁ、こういう客が好むミュージシャンって売れたら駄目なわけだから、当然生活できなくなるよね。その生活補償を彼らはしてくれるんだろうか・・・なんてくだらないことをアタシは考えちゃう。
 
 時代のせいにしてしまうことが一番簡単だけど、拓郎は貧乏くじを引いたよね。
でも、その洗礼を受け、「関係ねぇよ!俺は自分のやりたいようにやる。テレビに納得がいかない内容なら出ない!マスコミ?音楽雑誌以外取材はお断り!」なんてことで、我を出して自分を守っていきながら逆に歌謡界やマスコミを操作したことで拓郎は周りを納得させていったんだよね。だから、今の今まで一線なわけだ。そういう意味で言ったらあの「帰れコール」は彼の血になったのかもね。本人は嫌がると思うけど。
 つまり、篠島で長渕が受けた「帰れコール」はお前なんか見たくないという単純な帰れコール。ま、今の時代に「帰れコール」があるのかどうかわかんないけど、たいていがお前なんか見たくないから「帰れ」だよね。だから拓郎が受けたのとはちょっと違うのよね。
 で、拓郎って言ったらディランでしょ。
ディランも「帰れコール」受けたね。
1965年、ロックバンドを従えて観客の前に立ち演奏を始めたら、
「おいおい、ディランがそんなやかましくてどうすんだよ!いままでのフォークソングを歌ってくれよ!裏切り者!」ってな具合でブーイングの嵐。
この場合も観客は裏切られた感が満載なんだけど、自分の思い描くディランじゃないから怒っているわけでディランがその観客のためにフォークギター1本で歌ってやればその場はおさまるよね。ディランの気持ちはおさまんないけど・・・。
でも、このパターンも拓郎とは違うよね。
こうやってサンプルで紹介するとどう見ても拓郎の「帰れコール」は理不尽な気がするね。
やっぱり女に受けたやっかみかな?
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2017年5月9日
花形

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by yyra87gata | 2017-05-09 19:09 | 音楽コラム | Comments(0)

エルビスの功績

 
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 アメリカ合衆国は、かつての南アフリカ共和国のアパルトヘイトやナチスドイツのアウシュビッツ収容所のユダヤ人迫害にも劣らない人種差別国家である。建国以来、州によってはつい最近まで差別行為が法律で規定されていたからだ(人種間結婚の禁止法など)。
 差別が歴然と存在していた間、黒人はいつも奴隷扱いであった。それは今から約150年前の南北戦争最中に、第16代リンカーン大統領が奴隷解放宣言を行なったことでも公然の事実として受け止めることができる。
そして、その宣言をしても相変わらず白人至上主義者は存在し、白人は黒人に限らず有色人種を下に見た社会を構築していった。奴隷制度を解除しても彼らに公民権を与えない・・・つまり公職には就けず参政権も選挙権も無いという扱いで彼らをアメリカ国民としていた。「自由の国アメリカ」と呼ばれることが多いが聴いて呆れる話だ。
つまりは、国力は安い賃金で労働する黒人によって成り立つという観点から、「奴隷」と言う言葉を外したに過ぎなかったのだ。
 ミシシッピの農場で指を血だらけにしながら綿花を摘む黒人労働者は、労働歌としてブルースを生んだ。貧弱なアコースティックギターを奏でながら生死を彷徨う心の叫びは、デルタ地区の過酷な土地が生み出した魂の歌である。
 そのような黒人の叫びは奴隷解放宣言から約100年後の1963年のキング牧師を中心とした公民権運動となり、1964年の公民権法の制定で法律上の差別は無くなったが、その後も相変わらず生活上での差別は無くならなかった。
 
 音楽に目を向けると、その昔、ビルボードが「レイス・ミュージックチャート」と呼ぶ黒人専門チャートを作っていたが、1950年頃からリズム&ブルースという言葉に変わり、それはソウルミュージックという言葉に変換されていった。これは黒人音楽の変遷のひとつであるが、そんな黒人の作り出すグルーヴに共感を得た白人が作り出した音楽がある・・・。
「ブルー・アイド・ソウル」・・・つまり黒人には青い眼がいないことから白人が演奏する黒人のような音楽のことを総称する言葉。
1960年あたりから出てきたこの音楽で一気にアメリカのポピュラー音楽は花開いたと言ってもいいだろう。
白人至上主義者は、黒人の音楽の良さを知ろうとしないし、黒人の作る音楽を同じラジオ番組から流されることに不快を示していた。ブラックチャートなど、もってのほかである。しかし、このブルー・アイド・ソウルの出現は画期的だった。
 ジェリー・リーバーやマイク・ストーラーのコンビは黒人白人分け隔てなく名曲を制作したし、ジャニスもボズもローラ・ニーロもみんなブルー・アイド・ソウルである。それこそ海を渡ったイギリスのザ・ローリングストーンズもアニマルズもスタイルカウンシルもシンプリーレッドもみんなみんなブルー・アイド・ソウルだ。
音楽に色は着いていない。
 そもそも音楽のジャンルなどレコード会社が勝手に作ったもので、音を楽しむ主体はリスナーである。販売目的のためのただの「言葉」に縛られること事態がナンセンスで、作り手もこれに悩まされることが多いのだ。
特に軽音楽の世界は歴史も浅く、「ロックンロール」という形態(ジャンル?)が生まれてから70年も経っていない。その起源がビル・ヘイリーなのかバディ・ホリーなのかチャック・ベリーなのかは置いておいて・・・つまり、それがどうしたということだ。
何度も書くが、音楽に色は着いていない。

「黒人が考え出して、白人が儲ける・・・」こんな言葉が黒人社会の中で語られていた時、最後まで人種差別の厳しかったミシシッピ州出身で、小さい頃から黒人に囲まれて育ったミュージシャンこそエルビス・プレスリーである。
彼の歌い方やダンスは「卑猥」と顰蹙を買い、テレビでは腰の動きを映されなかった逸話などまさに黒人のグルーヴを宿したアーティストである。
エルビスが醸し出す毒のあるパフォーマンスが一気に全米に広がり、それは海を渡ってヨーロッパにも広がった。全世界にそのムーブメントを広めたエルビスは、黒人の文化の伝承者としてブルー・アイド・ソウルなどと叫ばれる前に黒人音楽を租借し、その範疇を超え、その勢いが音楽という文化だけに留まらず、黒人開放への一助を担ったと言っても過言では無いだろう。

 U2のボノが以前インタビューで応えている。
「エルビスには2つの文化が混ざり合うという面白い瞬間がある。
白人音楽のメロディやコード進行というヨーロッパ文化と、黒人音楽のリズムというアフリカ文化が出会ってあのような体の動きをさせたこと。この瞬間からビートルズやローリング・ストーンズが生まれたんだ。原点はエルビスだよ。そして政治家にも黒人が進出したろ、戦争をするブッシュより平和を語るオバマを支持するね」

 政治家は真実を隠すために嘘をつき、芸術家は真実を伝えるために嘘をつくこともある。
 時代を創ったミュージシャンこそアーティストと呼ぶに相応しい。
「音楽」という文化で政治までを変える一端を担った稀有な事象として捉えてよいだろう。これがエルビスの功績である。

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2017/5/2
花形
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by yyra87gata | 2017-05-02 11:39 | 音楽コラム | Comments(0)
 
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 ローザ・ルクセンブルク。ポーランド出身、ドイツで活躍したマルクス主義の政治理論家で、革命家でもある。1918年のドイツ革命期において機関紙「赤旗」を発刊し皇帝時代に言われ無き罪で捕まった政治犯の特赦や死刑の廃止を訴え続けた。その後、仲間とドイツ共産党を作り上げたが、極右勢力であり、後にナチスに変革する団体であるドイツ義勇団に逮捕され、惨殺されている。
彼女は革命半ばにして命は潰えることになるが、最後まで自由を訴え続けた。

 1984年、NHK「ヤング・ミュージック・フェスティバル」に登場した奇抜な格好の4人。テロップには「ローザ・ルクセンブルグ」とあり、「ルクセンブルク」では無いのかと思ったのもつかの間、ファンキーな音がブラウン管から解き放たれた。
土着民の歌う労働歌にも聞こえるし、交尾のために雄が雌を挑発するような獣のようにも聞こえる。しかし、歌っている内容は中国人のことを歌っている・・・。
こんなインパクトはRCサクセションの清志郎が化粧して「愛しあってるか~い!」って久保講堂で叫んだ時に等しかった。
 その光景は音と共にただただ奇抜に映り、私の脳裏に日光写真のように焼きついた。
1986年に2枚のフルオリジナルアルバムが出た。2月にファーストアルバム『ぷりぷり』、12月にセカンドアルバムの『ROSA LUXEMBURG II』を発表。そして、翌年の8月にはあっさり解散してしまった。
ヴォーカルの久富隆司(以下どんと)とギターの玉城宏志の音楽性の違いが原因と言われているが、そんなことは本人だけが知っていることだからここでは語らない。
どんとの描く世界は抽象的の中にピンポイントで言いたいことを鋭く突くという特徴がある。ちょっと聴いているだけでは仮の歌詞なのではと思うほど意味不明な言葉が並ぶこともある。リズムに旋律をつけているような自由な発想。きっとそんなところを矢野顕子や細野晴臣は高評価し、彼らをプロの世界にいざなったのだ。
そして、どんとの自由奔放なキャラと玉城のハードロックギターがケンカをしながら音を紡いでいるところに彼らの魅力があった。そのバンドを見過ごしたこと・・・解散を聞いた時の私の落胆はとても大きかった。ライブに中々行けず、もっぱら彼らの2枚のアルバムを聴いて過ごす日々が続いた後でのいきなりの解散宣言。その解散は「宝島」で知ったのかそれとも「ロッキング・オン」だったか・・・。

 解散後のどんとの動きは早かった。その年の11月には新バンド「ボ・ガンボス」でデビューライブを披露している。ガンボとはアメリカ南部のごった煮スープのことで、どんとの様々な音楽の具が詰まったごった煮スープのような個性溢れるバンドとでもいうのか・・・。
 その後、彼らを日比谷野音で観る機会があったが、そこにはローザ・ルクセンブルグの持つ緊張感は無かった。どんとの自由な世界が繰り広げられ、観客一体となったある種コミューンのような雰囲気に包まれていた。
 私がローザに衝撃をくらったあの時から時間も経ち、環境も考え方も変わった中で欲している音はどんどん変化していく。だからそのライブで私は少々戸惑ったことは事実だが、受け入れるか受け入れないかは自分で決めればいい話。
 ボ・ガンボスは成功を収め2000年1月にどんとが急逝するまで独自の道を走り続けた。

 約30年前のローザ・ルクセンブルグをターンテーブルに乗せると、あのNHKの衝撃が思い出される。オリジナリティとテクニックが融合したすごいアマチュアだった。
私は忘れることはないだろう。
音楽という思想は、人それぞれの中に存在する。もちろんローザ・ルクセンブルグもボ・ガンボスも・・・。
ローザ・ルクセンブルクの有名な言葉
「Freiheit ist immer die Freiheit des Andersdenkenden.(自由とはつねに、思想を異にする者のための自由である)」
 
 この思想がローザ・ルクセンブルグにもボ・ガンボスにも息づいているに違いない。
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2017/03/29
花形
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by yyra87gata | 2017-03-29 18:47 | 音楽コラム | Comments(0)
 
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 我が家に本格的にビデオデッキが投入されたのは1985年の4月でした。本格的にと言う言葉を使ったのは以前1度だけモニターでSONYベータマックスが2週間ばかり置かれたことがあり、お袋が「こんな高いもの買えない」といって返却してしまった(この話は 「キャンディーズが我が家にやってきた」 http://hanatti.exblog.jp/17460755/ に詳しい)からです。
さて、価格もこなれ、ビデオデッキが一般家庭に普及すると同時に、ちまたではレンタルビデオ店が流行り始めました。
 私は大学に入学し、慣れないエレキギターなるものを任された時でありましたので、とにかくギタリストのビデオでも見て勉強しようとせっせとレンタルビデオ店に通い始めたのであります。
そして、やっぱりみんなが影響を受けたというエリック・クラプトンの弾き方が一番しっくりくるんだろうな、などと思いながら何本か確認する毎日でありました。
ある日いつものようにビデオを借りてきて調子よくデッキに放り込みました。
それは、レイドバックしたサウンドを勉強でもしようかと思い「エリック・クラプトン1977 On whistle Test」という音楽番組での生ライブを収録したもの。
目を凝らして観ていたその瞬間、画面からは聞いたことも無いような流れるフレーズと滑らかなトーンが溢れてきます。
ふむふむ、ブルースに魂を捧げ、ドラッグに溺れながらも復活を遂げた男の行き着く先にはこのような穏やかな世界がひろがっているのかと思いつつ画面に見入っていました。
カメラはその男の背後から狙います。
うん?セミアコ弾いている。意外だね、この頃だったらクラプトンはブラッキーかブラウニーというストラトキャスターを使用していたと思っていたから・・・ね。
カメラが回りこんだその瞬間「?」マークが私の頭に飛び散りました。
「誰だ、これ?」
クラプトンと信じて観ていた映像が別人になっているのです。
慌てて、デッキからビデオテープを取り出しました。
背表紙に「Carlton Live」とあります。
これ、ビデオ屋がクラプトンとカールトンのスペルを読み間違えて貸し出し用のケースに収めたんだ、と認識。確かにClaptonとCarlton、似ていると言えば似ています。
やられた!と思いましたが、まぁラリー・カールトンのレコードも持っていたし、いっちょ観てみるかとビデオを再生しました。
まぁ、それはそれは難しいフレーズをいとも簡単に弾いていらっしゃってエレキギター初心者の私にしてみたら異次元のプレイヤーであります。
ロックギタリストのように音を歪ませ両手を使ってせっせと16分音符や32分音符の応酬というわけでもなく、時にメロディアスに時にエモーショナルなプレイをギブソンES-335から奏でているのであります。
弾けはしないけど心地良い。そんなフレーズの応酬です。

 ラリー・カールトンはクルセイダーズやフォープレイ、ジョニ・ミッチェルやスティーリー・ダンなどのセッションプレイヤーとして有名ですが、私が中学の頃はアルバム『Larry Carlton』邦題「夜の彷徨」(1977)が大ヒットしており、私もアルバムは購入しておりました。
私はその頃エレクトーンを習っておりましたので、アルバムの中の超有名曲「Room335」を課題曲に取り入れ、練習しておりましたのです。
 あの頃の彼のサウンドはジャズとポップが融合し始めたクロスオーバーというジャンルに差し掛かっており、コテコテのジャズギタリストという印象よりもイージーリスニングに近い感じでした。また同時期にリー・リトナーも『The Captain's Journey』(1978)を発表。このアルバムも大ヒットしました。
そうです、あの頃はラリー・カールトンとリー・リトナーが一大ブームになっていたのです。
リー・リトナーのアルバムの方はラテンっぽいカッティングやフレーズが多く、エレクトーンには合わせ辛いと思いあまり聴かなかったのですが、ラリー・カールトンは本人のリーダーアルバム以外にも様々なミュージシャンとのセッションが多かったので耳に残っていました。
しかし、クラプトンと思って聴いていたらいきなりカールトンが出てきた時はびっくりしました。思い込んで聴いていればいるほどそのギャップに驚かされます。

 私が良く行くリハーサルスタジオのロビーにはライブ映像を流すモニターがあります。
そこではロックからフュージョン、ジャズに至るまで様々な音楽が映し出されています。
 ある日のモニター。
随分上手に「Room335」を弾く細身の男が映し出されました。頭はスキンヘッドで遠くから見るとマッチ棒がギターを弾いているみたい。でも、流れ出る音は伸びやかなサウンドです。
一人前にヴィンテージのギブソンES-335を弾いているじゃないですか。
最近の素人は凄いね、なんて思っていたら・・・本人でした!
いつからあんなに禿げ上がったんだろう。
私の知っているカールトンはサーファーのようなレイヤードのロングヘアーだったのに!
またしても予期せぬ出会いにびっくりした次第です。カールトンよりもリー・リトナーの方が先に禿げ上がると思っていただけにびっくりデス。
思いこんで観たり聴いたりしていると、その裏切られ方が半端でないという例をカールトンから学びました。
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2017/3/14
花形
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by yyra87gata | 2017-03-14 19:08 | 音楽コラム | Comments(0)
 
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 はっぴいえんどのサードアルバム『HAPPY END』(1973)はロスアンゼルスのサンセット・サウンド・レコーダースで録音された。
メンバー間では解散を意識し、バンド活動を継続することは不可能に近い状態の中、大瀧詠一がアメリカに行く話に乗る形でレコード制作へと展開していったと言う。
しかし、燃え尽き症候群状態のバンドにコミュニケーションは薄く、レコーディングというフィルターを通してアメリカの「16チャンネルのスタジオ視察体験旅行」の様相を呈していた。
 このレコーディングにおいて、最新の機器と本場のレコーディング事情を勉強しながらアルバムを制作することが出来たことは4人の大きな財産になったし、なによりもこのアルバム制作が無ければ鈴木茂の『BAND WAGON』(1975)の誕生は無かったと鈴木本人も語っている。ひょんなところから出た話が実は日本の軽音楽に相当影響を与えることになったのだ。

 そして、このレコーディングではその後の日本のロック市場に大きな足跡を残したメンバーが参加した。
リトルフィートのメンバーであるギターのローウェル・ジョージとピアノのビル・ペインである。
 リトルフィートは西海岸を代表するロックバンドであったが、イーグルスやザ・ドゥービーブラザースと比較すると商業的にはそれほど成功していない。もちろん、日本でも浸透度は低い。しかし、日本人ミュージシャンのセッションとなるとそれは逆転する。
 彼らは、この『HAPPY END』を皮切りに鈴木茂『BAND WAGON』、矢野顕子『JAPANESE GIRL』(1976)に大きく携わり、これらのアルバムがその後の日本の軽音楽に与えた影響から鑑みても非常に重要な水先案内人となった。もちろん、リトルフィートの面々はそんな重要な役割を担っているなどと思ってもいなかったろうし、当時は「遠く西の島から黄色い人たちが観光ついでにレコードを作りに来た」くらいにしか思っていなかったと思う。
 1972年当時のアメリカにおける日本の存在など、「侍」や「芸者」「ハラキリ」という認識の方が強かっただろうし、経済的にも1ドル360円固定の時代である。沖縄も返還されていないし、容易に日本人がアメリカ本土を訪れることも無かったはずで、実は見えないところでまだ戦争は終わっていなかった時代なのだ。そんな時に長髪のひょろひょろとしたヒッピーのような若者がやってきた・・・。しかも仏頂面で、なんでもロックを作ると言い出した。何を言っているんだこのJAPは?
しかも、サンセット・サウンド・レコーダースはザ・ビーチボーイズの『ペットサウンズ』(1966)やバッファロースプリングフィールドのレコーディングを行なったところで、有名なスタジオでもある。そんな伝統あるスタジオで日本人がレコーディング?
現地のスタッフも多分興味本位で集まった(集められた)のだと思料する。
 
 『HAPPY END』制作については、いろいろな文献が出ているので割愛するが、ローウェル・ジョージというギタリストが与えた影響というものに触れてみたい。
鈴木茂はロックギターの小僧。高校時代からベンチャーズからブリティシュロックやブルースまでドライブしたサウンドで弾きまくっていた。そんな噂は東京中に知れ渡り、大学生だった細野晴臣の目に止まった。鈴木茂は高校時代の盟友、林立夫と一緒に細野とバンドを組みアートロックやサイケデリックロックの演奏を楽しんだ。そして、時が経ち、はっぴいえんどのギタリストとして迎えられロスアンゼルスのスタジオで録音するまでになっていた。
 その鈴木茂が慣れないスタジオで緊張しながらリハーサルを繰り返していた。ギターアンサンブルを行なうためのアレンジを施す。当初はっぴいえんど側はレコーディング・コーディネーターにライ・クーダーをオーダーしていたが、そのオーダーは反故にされ、代わりに大柄で無精髭をはやした男がスタジオに来ていた。
リトルフィートのローウェル・ジョージである。
鈴木茂はスタジオでギターを弾きまくっている。すると、のそのそとその男は鈴木茂の前に来て、目の前にどっかりと座り込んだ。そして
「おまえ、すんげ~上手いなぁ。どうやって弾いてんだ?」といったそうだ。
鈴木茂が最初ぶん殴られるかと思ってびびったらしいが、褒められていることに気付き、素直に喜んでしまい、それから交流が始まったという。これだ。このジョージの言葉が日本に新しいアメリカの風を呼び込んだともいえるのだ。鈴木茂とローウェル・ジョージは情報を交換し合い、アンサンブルを固めていったと言う。
そして、鈴木茂のスライド奏法にはローウェル・ジョージが見える瞬間があったり、コンプレッサーの直列2個繋ぎなどいろいろな面で影響を受けたのではないかと思われる。
 
 ブリティッシュ・ブルースを弾きまくっていた少年は、5年もの間にアーシーで粘っこいフレーズをスライドで弾きこなせるまでになっていた。そしてリトルフィートとの交友が後のアルバム制作へと繋がっていくのだ。
だから『HAPPY END』制作時にもし当初の予定通りライ・クーダーが来ていたら、日本の軽音楽の歴史は別の方向に変わっていたかもしれない。

 リトルフィートは良くも悪くもローウェル・ジョージのバンドである。メンバー交代も起きるので、それまでの音楽性がガラリと変わってしまうこともある。オリジナルメンバーで構成された2枚目までとロイ・エストラーダの代わりにケニー・グラッドニー、ポール・バレア、サム・クレイトンが加入し名盤と謳われるサードアルバム『Dixie Chicken』(1973)を発表した頃とテイストは変わっている。その後ジョージのドラッグが重度となり、リハーサルやステージに支障をきたすようになっていく。当然ジョージ抜きのジャムセッションを繰り返すメンバー。いつしかその演奏がメインディッシュとなっていき、長いインプロヴィゼイションが彼らの持ち味になってしまうという皮肉な結果に。
ちょうど日本に来日した1978年頃は、ジャムセッションで鍛えた演奏力を武器に一番脂がのりきっていた頃といわれているが、ジョージは翌年ドラッグの過剰摂取による心不全でこの世を去った。
元々はフランク・ザッパのギタリストからスタートしたジョージだが、常にドラッグとの戦いであった(フランク・ザッパ&マザーズ・オブ・インベンションの脱退もドラッグが原因と言われている)。
 才能を自らの手で摘み取ってしまったわけだが、そのような事例は1970年代末期までは当たり前のように存在していた。
事故、自殺、ドラッグ過剰摂取・・・ジョージの死は1970年代最後の年の6月に報じられたが、私はあまり驚かなかった。ジョージは死んでいてもおかしくないくらいドラッグ過剰摂取を報じる記事を見ていたからかもしれない。
それよりもその年の1月に自殺したダニー・ハザウェイの方が、インパクトが強かった。あまりにも突然だったし・・・。

 リトルフィートはセッションミュージシャンの集まりのようなバンドである。それぞれがテクニックを有し、しっかりと与えられた楽曲に自分たちのグルーヴを投影する。そんな天才集団を発掘する機会となった『HAPPY END』はエポックメイキング的な作品である。
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2017/2/28
花形
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by yyra87gata | 2017-02-28 17:28 | 音楽コラム | Comments(0)

日本武道館

 
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 1964年の東京オリンピック、柔道の競技会場として建設され、その後は日本の武道の聖地として位置づけられている日本武道館(以下武道館ね)。
その大きさと立地から企業や学校の入社式や入学式、株主総会などにも使用される多目的建造物である。私は予備校の入校式(そんなもん行くなよ!)でアリーナ。大学の入学式で1階席。卒業式で2階席といった具合に着席し、その席の場所からもわかるようにどんどんメイン舞台から離れていったことが私の勉学に対する姿勢を表している気がする。・・・どうでもいい話だが。

 武道館は、多目的建造物という括りであればご存知の通り音楽会場にも数多く使用されている。私が武道館を一番利用しているのはまさにこの音楽鑑賞の場所であって、決して柔道でも剣道でも新年書初め大会でもない。
 中学生の頃から音楽鑑賞を目的にちょくちょく通い始め、昨年のクラプトンで50回を数えた。もう通い慣れたので緊張などしないが、学生の頃は武道館の敷地である北の丸公園に入ったあたりから気分は高揚し始めたものだ。いや、九段下の改札を出て、帰りの切符を確保するために事前に切符を購入する時にはすでに興奮していたかもしれない。
 1980年前後の当時の首都圏の音楽会場事情としては、代々木オリンピックプールでコンサートは開催していなかったし、東京国際フォーラムも横浜アリーナも横浜パシフィコも埼玉アリーナも無かった。NHKホールが音楽専門の会場では一番大きく、その次は中野サンプラザや渋谷公会堂といったパブリックなホールであった。だから、武道館レベルでの収容人数がある会場が今ほど無く、武道館公演と聞くだけで興奮したものだったのだ。

 武道館が日本の音楽会場のメッカとなった瞬間は、間違いなく1966年にビートルズがコンサートを開催した時だろう。ジョンが「ミスター・ムーンライト」を叫んだ瞬間に日本全国のミュージシャンの憧れの場所になったに違いない。いや、ビートルズ派で無いミュージシャンだとしても、少なくとも「凄いことをしてくれた」と思っただろう。日本の武道の殿堂で髪の毛の長い外国人がそれまでの日本には無いやかましい音楽をかき鳴らした。そして、ティーン・エイジャーはその騒音よりも大きな騒音で彼らを快く迎え入れたのだから。
 ビートルズ公演。
武道館の競技スペースに彼らの舞台が設営されており、そこに堅忍不抜で技を極める武道家の姿は無く、ただ聴衆の収容人数だけを考え、コンサート会場として使用したに過ぎない。増してや、もともと音楽を奏でる建物では無いので、音はぐるぐる回るし、大きな音を供給するPAシステムも無い時代である。が、しかし「ビートルズが立った舞台、いつかは俺も武道館のステージに立ちたい」と思うミュージシャンが続出したことは事実なのだ。
しかし、武道館はフォークソングの音楽集会に使用されることはあっても日本のミュージシャンが単独で公演をすることは無かった。1970年代半ばまではフォークだ、ロックだと騒いでいるのは一部のリスナーに過ぎず、音楽ビジネスとして成立していないサブカルチャーであった日本の軽音楽に、収容人数約1万人を超える武道館は大きすぎた。だから、観客収容人数の関係から大物外国人ミュージシャンが来日した時に使用される会場という認識が我々の世代は強いと思う。

 武道館で日本人単独公演を初めて行なったミュージシャンは誰だとよく話題になるが、実はバンドで言えばGSブーム全盛時のタイガースが1968年に公演を行なっている。そして単独アーティストの公演となると西城秀樹が1975年に武道館公演を開催した。
日本の音楽も成熟し、フォークからニューミュージックへと移っていった1970年後半。よく、南こうせつだ、とか矢沢永吉だとか騒いでいたが、「日本シンガーソングライター初」とか「日本ロックアーティスト初」といってレコードを売り出す文句に使われただけのことで何の意味もなさない。
そんなことよりも、私が「日本武道館」と聞いて思い出すことがある。
 1982年1月12日に開催された浜田省吾の公演である。
その告知はいきなり街中に貼り出された。そして、そのポスターには「浜田省吾 日本武道館公演 1月12日」とデカデカと記載されていた。
「浜田省吾?ちょっと前に『風を感じて』のヒットはあったけど武道館?これ、絶対ガラガラだろう!客なんか入んねぇよ」
「無謀というかなんというか・・・」
私の周りの人間はみんな口々にその公演を非難した。
しかし、ふたを開けてみたらチケットは即日完売。たった1日だけの公演ではあったが、武道館公演を成功させたと言う事実がその後の音楽雑誌の紙面を飾り、その公演を収めたライブアルバム『ON THE ROAD』(1982)もヒットした。
武道館公演に賭けた男の仕事。それ以降の浜田省吾の人気を不動のものにしていく。高校生だった私は、これもひとつの販売戦略なのだと思いつつも、武道館という存在が作り出す目に見えない力を目の当たりにした瞬間であった。
 
 私は武道館には神々しい音楽の神様が宿っていると信じている。
武道館はお世辞にも音楽を聞かせる会場としては決して良い環境とはいえないが、会場に一歩足を踏み入れて、北スタンド側を潰して設営された大きな舞台が目の前に飛び込んでくると今でもわくわくする。
イントレが組まれ、照明が吊られ、スピーカーが舞台の左右にうず高く並べられている。白い柵で舞台と客席は仕切られ、ブロック毎に分けられたパイプ椅子が整然と並ぶ。そんな荘厳な場所でアリーナ席のEブロックやFブロックといった中央の席に座るときの優越感といったら無い(現在はいつの頃からか席の呼び名が変わり、前からABCと3つに分かれて区分けされている。しかし私はいまだにA~Zまでの区分けが染み付いている)。武道館公演は特別なコンサートであり、その感情はきっとこれからも変わらないだろう。
 ちなみに私が今まで見た武道館で一番興奮したものは、1991年4月のジャンボ鶴田VS三沢光晴。「三冠統一ヘビー級選手権60分1本勝負。
この時のジャンボはすごかった。鳥肌が立つほど強かった。いまでは2人とも天に召されてしまったが。

 あ、音楽で言えば・・・1986年のボブ・ディラン公演か。
バックをトム・ぺティ&ザ。ハートブレイカーズで固め、超絶にかっこよかった。確か、3時間半位演奏していた気がする。
あんなディラン後にも先にも見たことが無い。

 2020年の東京オリンピックでは空手の会場になることが決定した日本武道館。まずは良かった。
老朽化だから取り壊すなんてことは無いようにメンテナンスをお願いしたい。渋谷公会堂も中野サンプラザも大阪フェスティバルホールもみんな老朽化でなくなってしまったからね。

2017/01/30
花形
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by yyra87gata | 2017-01-30 21:48 | 音楽コラム | Comments(0)