音楽雑文集


by yyra87gata

カテゴリ:音楽コラム( 113 )

音楽とのかかわりかた

 20年前のことだ。大学に入り、程なくして加入したバンドは同じ倶楽部の先輩たちが中心になって作ったバンドだった。「お笑い」あり「下手な演劇」ありのウケれば何でもやろうというバンドで、音楽は二の次だった。そんなバンドでもリーダーのHさんは大学を卒業して今では全然珍しくないが、当時は後ろ指をさされる存在の「フリーアルバイター」でがんばってバンドを維持しようとしていた。Hさん以外はみんな学生だったので、逃げ場はあったのだろうが、何人かはプロになりたいという意識がだんだんと目覚め始めていた。
  僕がそのバンドで活動したのは約2年間だった。都内のライブハウスを中心に活動し、コンテストも頻繁に出場した。そして、コンテストに応募し始めて2年目には、どのコンテストでも決勝大会まで進むレベルにまで達していた。ただの仲良しバンドがだんだん音楽に目覚め始めた時期だった。
 しかし、僕はというと音楽性についてそのバンドに求めるものは無く、みんなで和気藹々に活動できればいいと考えていた。僕は「東京おとぼけキャッツ」や「ビージーフォー」のようなコミックバンドが好きだったので、そのバンドに「楽しいライブ」を求めていた。内輪ウケで十分だった。なぜなら、そのバンドが音楽でブレイクするなんて思えなかったからだ。
その後、そのバンドは僕の好きな「ライブ」よりもコンテストに出場すること、つまり是が非でもプロになりたいという欲求がメンバー内に増殖し、僕のイメージするバンド像から離れて行った。
コンテストという10分程度の限られた時間の中で自分達を表現しなければならない。しかし、そのバンドの良いところはそんな少ない時間で表現できると思えなかった。渋谷公会堂や中野サンプラザ、FM東京ホールなどいろいろな舞台で演奏したが、時間があまりにも短すぎた。結果は押して知るべし。そんなこんなで僕はコンテストに嫌悪感を抱くようになってしまった。
 バンドメンバーはみんな好きだったが、バンドが嫌いになったというのが僕の本音だった。
 僕はバンドリーダーのHさんに手紙を書いて、バンド脱退を告げた。他のバンドメンバーには一切相談もしなかったので、少なからず関係が悪化するかと思ったが、相談してどうなるものでもないし、バンドメンバーのみんなも深く考える性質ではないので、その後もいつものように馬鹿な話ができた。

 僕が脱退した5年後、そのバンドは東芝EMIからデビューした。バンドメンバーはみんな大学を卒業してミュージシャンの道を選んでいった。好きなことをして暮らしていければ最高であるが、そんな簡単なことではなく、食えない日も続いたり、アルバイトしながらライブ活動を続けることもあったようだ。みんな20代で結婚もしておらず、好きなことをしていれば苦労とは思わなかったのだろう。
そんな時、僕は就職をしてその後結婚をした。そのような状況で彼らを見続けていたが、決して負け惜しみではなく、自分の在籍していた頃が一番良かったと感じていた。彼らは「音楽業界」「一般ウケ」などといった型にはめられた分、破天荒さが失せてしまい、こじんまりした印象だけが残ったからだ。
そして音楽界の荒波に揉まれて、そのバンドは3年後には活動停止状態になり、解散した。
音楽業界に残るもの、家を継ぐもの、別の世界に飛び込んでいくものと彼らは様々な生き方を選択していった。丁度、音楽業界は1990年の空前のバンドブームを境に斜陽を迎えていた時期だった。
「バンド活動ができた。ライブができた。CDが出せた。もう何もやることは無いよ。」
バンド活動を終えたときにバンドメンバーのひとりが話してくれた。
音楽については、きれいさっぱり未練は無い・・・そんな心境になったことが無いのでこんなに潔く音楽から足が洗えるものか、と疑ったが、彼は現在も音楽を聴くことすらしないそうである。
やりきってしまった・・・の?
僕は音楽が無い生活は考えたことが無かったので、彼の言葉や音楽の無い生活が信じられなかった。しかし最近、大学時代の音楽倶楽部の友達と再会する機会があり、近況を聞くと、驚くべき答えが返ってきた。みんな口をそろえて言う。当時あんなに活動していた「音楽」は彼らの生活に存在していないのだ。当時触っていたギターやベース、キーボードは部屋の隅に追いやられ、ライブに行くことも無く、年に数回カラオケに行くぐらいだという。当然、当時好きだったミュージシャンを追い続けるわけでもなく、その代わりといっては、妙にアイドルや流行歌に詳しくなっていたりして・・・。つまり、生活に聞こえてくる音楽だけと接しているのだ(音楽と接するというより、惰性で入ってきている?)。
でもそんな彼らを不思議に思っていた僕が逆に不思議がられた。「まだやっているの?」と。
僕は物心ついた頃から音楽に囲まれて生きてきた。小学校低学年からはエレクトーンを習い、楽譜へのアレルギーも無い。中学ではドラムやギターを手にし、音楽へ没頭していった。レコードやラジオを聴きまくり、ライブへと出かけ、それが今でも時間が許す限り続いている。
時間があれば、CDショップや楽器屋へと足を運び、面白そうなイベントがあれば、初めて行くライブハウスにも躊躇無く入り、ティーンエイジャーの中でも平気だ。(成長してないのか?)
最近こんな新聞記事を見た。                         
「フォーク居酒屋・大盛況!サラリーマンの憩いの場。当時燃えたあの歌を生演奏で歌いまくる」
学生時代にギターで弾き語りをしていたあの頃と同じように、呑みながら見ず知らずの人間どうし、みんなでミニコンサート状態になるとか。楽器や音響設備も完備してあり、誰でも参加できるところが受けているらしい。そしてこういった居酒屋が全国的に増えてきている。
団塊の世代が会社から卒業する時期が近づき、先が見えてきた今、本当に楽しかったことは何なのかを確認してみた結果こういった集まりに参加し、疑似音楽倶楽部(疑似バンド)をもう一度体験したい、というサラリーマンの声が印象的だった。
僕は、学生時代から今でも音楽に囲まれて生きてこられた幸せを感じながら、記事を読み終えた。

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 実は、先日浦和のフォークバーに行ったばかりだった。
吉田拓郎を中心とした70年代フォークの巣窟のようなバーである。当然弾き語りができる環境もある。毎月「朝までライブ」というイベントを開催しており、吉田拓郎を中心に100曲くらいをみんなで歌うらしい。かなりディープな印象を持ったが、歌いたい欲求に支配されている団塊の世代やフォークマニアにとって居心地の良い場所なんだと納得した。でも僕はそこに参加することに躊躇している。理由は、現役で音楽をやっているというちょっとの自負と、自分に素直になれていないこと。いや、後者だけかもしれない。

2005年5月19日(木)
花形
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by yyra87gata | 2012-12-14 12:07 | 音楽コラム | Comments(0)

存在

 彼についてはいろいろな人がいろいろな事を書きまくっているので、真っ向勝負する気もないし、他人の意見は意見として受け入れようと思う。というか、気にしないようにするといった方が確かか・・・。何故こんなに回りくどく言っているかというと、それくらい賛否両論が激しく、それでいてデビューから今までずっとスーパースターであり続けているアーティストだからだ。
ボブ・ディランという。
ディランの人となりを紹介するつもりもない。彼の偉業は「計り知れない」としか言えない。
僕は彼についての個人的な印象のみを語ろうと思う。
僕のボブ・ディランの第一印象はとてつもなく格好良かった。最初に聴いたアルバムは『BEFORE THE FLOOD』(放題:偉大なる復活)。1974年にザ・バンドを引き連れて行なったツアーのライブ・アルバム。こんなアルバムを何故突然高校生が聴いたか。答えは簡単。吉田拓郎のラジオで、拓郎が1974年のツアーのバックバンドが9割方「ザ・バンド」に決まっていて、最後の最後にディランに横取りされたと言っていたからだ。拓郎は悔しくてLAに飛び、ディランのライヴを見たそうだ。それはそれはすごいライヴで、「こんなライヴをやられてしまっては、諦めるしかなかった」とラジオで言っていた。僕は、どんなライブパフォーマンスをしたんだろう、という思いでアルバムを購入した。
 全米3位を記録。13曲がディランで、8曲がザ・バンド。いずれも代表曲がずらりと並んでいる。ディランは3曲のアコースティック・セットを除いてザ・バンドをバックバンドにして唄う。ザ・バンドの曲にはディランは参加していない(当然か)。ディランはこのツアーについて、「しんどかった。よい印象をもっていない」と話していたそうだが、僕はたとえようも無いくらい格好良く見えた(聴こえた)。とにかく素晴らしい。当時としては大音量のコンサートだったようで、観客の感動も「うねり」のように伝わってくる稀代のライヴだ。例えば「見張塔からずっと」はイントロを聴くだけで、これから始まるすごいことを予感して興奮してしまう。そしてハイライトは「ライク・ア・ローリング・ストーン」。力強い演奏、気力溢れるボーカル、そして観客の盛り上がり、こんなパフォーマーとオーディエンスの交歓はめったに聴けるものではない。「how does it feel?」と歌うときの観客の歓喜は必聴である。

 ボブ・ディランのライヴにはあたりはずれがあるという。確かに1986年のトム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズをバックに従えパフォーマンスしたライヴは未だに僕のディラン・ライヴのトップだが、1994年のパフォーマンスはかったるい印象のものでしかなかった。アレンジが単調で、やる気があるんだか無いんだかわからなかった。その後、2回の来日公演を観たが、どの公演もいろいろな味付けがされてはいたが、一概に良い悪いと言えないどこか超越した内容だった。しかしそんな中、最近(といっても4年前)のライヴは何故かかなり盛り上がった。伝統芸を観に行く気持ちというか、次はもう再び会えない(死んじゃう)のではないかという恐怖観念というか義務感というか・・・。言い方を変えれば人間国法的な尊ささえ感じてしまう。そんな存在になってきたのか・・・。そんなディランだから、どんなライヴを展開しょうが、愚痴は言いたくなるが文句は無い。きっと僕のような人が大勢観に行くから無理やり盛り上がっているだけなのかもしれない。ちょっと言い過ぎかもしれないけど・・・。
 ディランのライヴは、ヴォーカルが始まるまで何の曲だかわからないことのほうが多い。ほぼ全てにおいてアレンジがなされており、ヴォーカルが始まっても歌のタイトルがわからないこともある。レコードとライヴを完全に分けて考えているようで、ファンにとっては2度おいしい。ファンで無い人が聴くとみんな同じに聴こえてしまい、3曲で飽きる。
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 ディランはいつもしかめっ面だ。苦虫をかんだような顔をしている。そんな顔からこれまた猫を踏んづけたようなヴォーカルが音程も無く出てくる。こんなアーティストに何故惹かれるのだろう。ある人は、「ディランなんてベトナム戦争や公民権運動の時代、つまり60年代の忘れ物だよ・・・。」という。
あながち間違いではないかもしれないが、70年代以降のディランはそれまでのフォーク歌手(プロテストソングの騎士)からロック歌手へ転向し、時代を切り取ることよりもキリスト教へのアプローチや内省的な歌詞も数多く発表された。一言一句ディランの発する言葉は、注目を浴びるので、彼はうんざりしてしまい、あの顔立ちになったと推測される。なぜなら、初期のディランのポートレートは笑っているものが数多く見つけられるからだ。当時の恋人スーズと一緒に撮影された『THE FREEWHEELIN'』(1963)のジャケット写真にいたっては、屈託の無い笑顔で冬のグリニッジビレッジの路地を腕を組みながら歩く普通の若者だ。いつからディランは笑顔を失ったか・・・。彼から笑顔を取ってしまったのは他でもないマスコミを筆頭とした我々ファンかもしれない。
彼をフォークの神様と呼び、プロテストソングの代表者として崇め、上げるだけ上げて時代が変わり、音楽のトレンドが変わると何の未練も無く捨てる。時代遅れだ、という。
クリエイターにとってファンの存在は自分の存在意義を保つことでは表裏一体の存在だ。それを若いうちから体験してしまったディランだから、あんな顔つきになってしまったんだろう。厭世的というか懐疑的というか・・・。ミステリアスでもあり、孤高の存在に仕立てられてしまった。

 ディランは「もう新曲は作らない。もういい。たくさん作ってきたんだから、あとは今までの歌を歌い続けるさ。そんなに簡単に歌なんて出来るもんじゃないんだよ・・・。」と言っていた。
歌手に定年があるのか、才能が枯渇したのかよくわからないが歌を作らないと言い出した。しかしその後、周りのスタッフからけしかけられ、ゴリゴリのフォークアルバム『TIME OUT OF MIND』(1997)を制作したらその年のグラミー賞のベストアルバム賞を受賞してしまった。このこともディランは気に入らなかったらしい。
「俺は何も変1年もすればみんな忘れてしまうんだろう。」
彼らしいコメントだ。

 ディランはいつからか「ネバーエンディングツアー」と称したツアーを開始した。言葉どおり「終り無き旅」である。最小編成のときもあれば、6人編成のときもある。曲は当日に決められ、ディランのおもむくまま展開される。アレンジもヘッドアレンジが施されているだけなので、ディランの感情がそのまま音に反映されている。

クラプトンよろしくリードギターを弾きたがるディラン。独特な3連府を延々弾くことがディランソロの特徴だが、何かに取り憑かれたように弾く姿は滑稽を通り越して圧倒される。たいして上手いソロではないが圧倒される。
そうだ、この存在だ。
ディランという存在。
ボブ・ディランは存在で勝負しているアーティストなんだ。

若くして神様になった男は、自らの存在に悩まされ続けたが、今は存在を消すことや存在を堅持することがディランの生き様という気がする。

次にいつ来日するかわからないが、その時は彼の存在を確認しに会場へ足を運ぶだろう。
ディランがそこにいるから。
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2005年4月23日(土)
花形
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by yyra87gata | 2012-12-14 01:13 | 音楽コラム | Comments(0)

洋楽が楽しめない国民

 むずかしいことはよくわからない。国の問題、宗教の問題、人種の問題など僕たち日本人には「はかり知れない」何か大きな問題を抱えている国々がある。そういった国の音楽と日本の音楽を簡単に比べることは出来ないし、比べようとも思わない。ただ、日本人はそういった「国や宗教などのバックボーン」なんて持ち合わせていないから無責任にノルこともできるし、時として無責任な発言もする。
 
 もともと1つの国が2つに分かれてしまったとき、祖国を離れざるを得ない状況に置かれた人の気持ちはいかばかりか。増してや、分かれた国に恋人がいた場合はどうか。そんな心情を歌った名曲がある。
U2の「with or without you」である。
U2を世界レベルで押し上げた1987年発表の『THE JOSHUA TREE』からのシングルカットである。もちろん世界的に大ヒットを記録した。
君といる、もしくは君なしでは・・・。
国がまっぷたつに分かれた恋人の歌である。何と切ないラブソングであろう。
アイルランドは北アイルランドとの紛争で常に一触即発の状況である。IRAが暗躍し、テロにおびえる毎日である。『WAR』というアルバムに収録された血塗られた日曜日=「Sunday bloody Sunday」(U2の代表曲)は、実際に起きた事件(テロ)を痛烈に訴えている。鋭いビートで、まだU2がパンキッシュだった頃、みんな拳を振りながら歌っていた。どれだけの日本人が意味をわかりながら拳を振っていただろうか。
 
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 U2は、『THE JOSHUA TREE』を境にパンクからアメリカンロック(ルーツミュージック)へのアプローチを行う。そしてテーマを「メディア」や「POP」など、アルバムごとに変え、最新アルバムは『How to Dismantle an Atomic Bomb』(原子爆弾の解体方法)という直球が出てきた。アイロニカルな内容の詩が多いボノだが、常に「平和」をベーステーマにしてきている。それが、今回は直球でやってきた。
音楽性をどうこう言うこともできない程、ピュアな出来である。

 僕たち日本人は3重苦である。
言葉の問題、宗教の問題、人種の問題について欧米社会の国々の歌が通じないことがある。いや、本質が通じない。「文化の違い」などという簡単な言葉では言い尽くせない。言葉が障害になり、宗教観が理解できなければそもそも洋楽など心底楽しめるものではないのだ。映画もしかり。
英語圏はアメリカとイギリスとオーストラリアぐらいかもしれないが、ヨーロッパ圏にしても他の国々にしても宗教観は独自のものがあり、それぞれの神が存在している。
日本は無宗教(多神?)で、神様への感謝などという文化が国民性として根底に無い。常に「神にご加護を・・・」という精神で作られている洋楽や洋画を心底楽しめない国民なのである。哀しいものだ。
それでは欧米人は日本の演歌を楽しめないか・・・いやいや、これが実に楽しんでいるらしい。
言葉の意味さえ理解できれば十分楽しめるということなのだが、つまり、障害は言葉だけでそれ以外の問題(宗教や国や人種)が日本の歌にはあまり関与していないからということだそうだ。日本の歌ってそんなに薄っぺらなんだっけ、と思うがヒットチャートを見直すと納得する。
最近の日本の歌を聴いていても、日常を歌っている歌詞が非常に多いし、「君が好き」だとか「別れる」だとか「君を守り続ける」とか昔からある「シチュエーション」を、「言葉」を変え、「品」を変え表現しているだけだ。「ナンバーワンじゃなくてオンリーワン」なんて歌もあったけど、聞き手も作り手も同じ国民レベルだから何をやっても仕方が無いのかもしれないけど。

 アメリカの人種差別は今でも続いているらしい。そもそもソウルチャートが出来たきっかけは人種差別からきている。
僕はスライ&ザ・ファミリーストーンというファンクグループが大好きだ。彼らはブラックパワーを武器にしてアメリカ音楽界へ真っ向勝負していった。ウッドストックでも強力なキャラクターでステージを展開し、僕はジミヘンよりも印象に残っている。しかし、そんな彼らでも音楽で文化を変えるまでには至らなかった。そんな生易しいものではないということだ。
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 1970年代に入ると、愛と平和を謳うリベラル勢は敗北、そしてベトナム戦争は継続。同時に、保守権力による黒人ゲットーへの弾圧が激しくなる。当然の結果、全米各地で黒人達は暴動を起こす。だがそれは往々にして、自らのコミュニティーの破壊、という結果にのみ終わっていった。ヒッピーカルチャーの全盛に作られた『Stand!』の陽気さと溌剌さは、1971年発表の『There’s a Riot Goin’ On』(邦題:暴動)にはない。スライ・ストーンは自己の内面を凝視するようにつぶやき、時に唸る。サウンドは壊れやすいガラス細工のように繊細だ。もうそこには以前のようなパーティーで踊る類のファンクはない。独り部屋に閉じこもり聞く音楽だ。これほど綿密なファンクが作られることはもうないかもしれない。余りに影響力の大きい、そして音楽史上忘れられてはならないファンクの曲がり角であったのだ。でもそれは、内容もじっくり聞き込んで、いろいろとニュースを聞きかじりながら出せた僕の結論である。リアルタイムで何の情報も無いまま『There’s a Riot Goin’ On』を聴いていたら、
「スライにしてはずいぶん暗い音だなぁ。もう以前のような明るさは無いなぁ。このファンクじゃノレないなぁ・・・。」なんて思っていただろう。やっぱり3重苦である。

 ボブ・ディランやヴァン・モリソン、ニール・ヤング、ルー・リードなんて聞いていると、時々がっくりくる。
音を楽しむ前に詩で苦しんでしまう。でもそこまで聴かなければ、作者に失礼だろう。だから、一生懸命聴く。特にディランとルー・リードは難解だ。ディランは呪文のような詩もあれば、アレン・ギンスバーグやアルチュール・ランボーのような詩もある。アメリカのサブカルチャーもあれば、神に近づいた詩もある。難解である。しかし、読み込んでいくと面白い。時間がかかるけどね。
ルー・リードも同様。ルー・リードはディランの内容に、ゲイやSMといったアンダーグランドな世界が加わる。もう、文化なんだか、性癖なんだかわからない。
まだジャクソン・ブラウンのようにプロテストが明確なものであったり、ブルース・スプリングスティーンのように映画の断片のような男と女の世界、貧困の世相を歌い上げてくれるくらいならわかりやすいのに。
そもそも音楽とは、ひとつの伝達手段だから「音だけで楽しむもの」や「詩を合わせて楽しむもの」なので聞き手が選べばいいものだが、折角送り手が意志をもって発信しているのだから、聞き手(僕)は、出来る限り送り手に近づきたい。

しかし、そう考えると音楽だけをとってみても、日本は平和な国なんだなと再確認した。これは皮肉もこめてね・・・。

2005年3月25日(金)
花形
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by yyra87gata | 2012-12-14 00:27 | 音楽コラム | Comments(0)

ライブハウスについて

 未成年の頃は、何か背伸びをしてみたい年頃なのである。大人のマネをしてタバコを吸ってみたり、ちょっと悪ぶってバイクを乗り回してみたり、異性との付き合いもそのひとつかもしれないな。しかし、ちょっと悪ぶったところで、所詮高校生のすることはたかがしれているし、親や先生の目を気にしている時点で可愛いものなのだ。
僕の高校は、キリスト教の学校。一応進学校だったので、校則は結構厳しかった。下校中の買い食いや喫茶店への立ち寄りは禁止だし、タバコが見つかると常習者は退学処分にまで発展した。みんな隠れて喫茶店でタバコを吸っていたようだが、今思うと相当なリスクだったのだ。そんな中で僕が犯していたリスクは・・・。
ライブハウスへの出入りである。
今の時代であれば、なぁんだと思うことなのだが、当時はライブハウスに行く高校生はそんなにいなかった。
ライブハウスはタバコとアルコールが「つき物」であり、高校生の出入りするようなところではないのである。しかし、現在は高校生が制服姿でライブハウスに行くことも珍しくなくなってきている。それはきっと1990年代初頭のバンドブームから変革したのではないだろうか。バンドは生来不良のやるものと決まっていた。しかし、あの時は猫も杓子もバンドバンドで、親が子供にバンドを奨励していたぐらいだ。団塊の世代が親になり、必然的に起きたブームといえるのかもしれない。そして、ライブハウスがいつの間にか親公認の音楽の発表の場という存在になってしまった。後ろめたさも何も無いもんなぁ。
さて、それはそれとして、そのライブハウスだが、僕が高校時代に通っていた主なところは、
渋谷LIVE INN・・・ブルーズロック系
渋谷Egg Man・・・ポップス系
渋谷クロコダイル・・・ロック系
渋谷ジャンジャン・・・フォーク、ロック系
新宿ロフト・・・ロック系
新宿ピットイン・・・ジャズ
新宿ルイ―ド・・・ポップス系   などである。
ライブハウスでのライブはコンサートと違って、開演時刻も少し遅いが、その分終了時刻も遅かった。
ちょっと前までのホールコンサートは大体18時30分の開演で21時には終わっていた。多分、公共施設の貸し出し時間によるものなのだろうが、とにかく、アンコール含めて21時が目安だったと思う(今は条例の緩和かどうか知らないけれど、割合遅くなってきている)。
しかし、ライブハウスは関係ない。19時くらいからダラダラと始まる。休憩を入れたりしながら、22時くらいまで平気で演奏している。ジャズやブルーズはそれが顕著だった。
高校2年の時、ピンククラウドを渋谷LIVE INNで観たことがある。
彼ら3人はとにかくマイペースな人たちなので、客も十分それを理解しており、全体的にリラックスした雰囲気が漂っていた。19時開演だったが、時間が来ても始まる気配は一向に見えない。その間、客はずーっと立って待っている。タバコを吸いながら、ビールを呑みながら・・・。僕と友人のW君も大人たちに習い、制服姿だったが、煙を吐いていた。
チャーを先頭に舞台に3人が上がったときは、20時を過ぎていた。何とルーズなことか!その後、ライブハウスはバケツの水をひっくり返す勢いの盛り上がりを見せた。みんな若かったし・・・。
1時間ほど演奏すると、おもむろにチャーがMCを入れた。
「ほんじゃあ、ここで休憩を取ります。みんなもリラックスしててくれ。酒を呑むとか・・・。売上に貢献してやってくれ・・・なんちゃって!」
と言ったかと思うと、舞台袖から椅子が3脚とテーブルが運ばれ、ビールが設置された。
なんと彼ら3人は、舞台で休憩を取り始めた!客は大爆笑。野次を飛ばすが、3人は客を無視し続け、タバコを吸いながら談笑している。3人が休んでいるところを客は見ている。変な構図である。
15分ほどした頃、チャーが言う。
「そろそろ、残業に取りかかりますか・・・。」
3人はそれぞれの持ち場に戻り、またまた怒号のライブが始まった。
とても印象深いライブ体験である。コンサート会場には無いノリである。ちなみにこの日のピンククラウドはとにかくぶっとんでいて、ジョニーのドラムソロでは10分間ずーっとスネアを連打していたり、ルイスはベースをリードギターのように弾いていた(ちなみにピンククラウドのコアなファンの間では、ルイスはチャーよりギターが上手いとされている)。その後2回の休憩を挟み、ライブが終了した時は、24時を回っていた。当然、終電もなくなり、僕とW君は歩いて帰った。しかし家に帰らず、そのまま学校に直行し、朝方5時頃に到着、そのまま部室で寝ていた。
 
 
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 大学生になってからは、自分でもライブハウスに出演するようになり、ライブハウスの敷居も低く感じられるようになった。格好良く見えていた舞台の裏が意外にも狭かったり、汚かったりすると昔観たアーティストたちへ妙な親近感がわいてしまう。
ボウイを経て、売れっ子ギタリストである布袋寅泰は、ボウイだけでは食べていけない頃、泉谷しげるのバックをつとめていた頃がある。ライブハウスの狭い舞台や狭い更衣室で、あんな大男(185cmくらいある)が泉谷に怒鳴られて小さくなっていたかと思うと感慨もひとしおだ。
 ライブハウスは客との距離が近いので、ごまかしが効かない。ぽっと出のアイドルが、ライブハウスで勝負にならないのはこういうことだ。
 ビートルズはよく、演奏が上手くないと言われることがあるが、それは全くのガセで、彼らは当時のボーカル・インストゥルメンタル・グループの中では相当上手なバンドだったのだ。その理由は、ハンブルグやリバプールのライブハウスに出まくっていたことに起因する。下積み時代に相当なライブハウス体験をしているのだ。ハンブルグでは1日に3ステージをこなし、異国の小さなクラブの中でもがいていたのだ。当時の実況盤を聴くとリズムこそ危ういが、立派なコーラスとグルーブのある演奏をしている。
ビートルズが売れたことで、同じリバプールからマージービートサウンドがブームになった。二匹目の何とか、というやつだ。しかし、このブームがすぐに終息を向かえる。原因は、みんな演奏が下手だったからだ。ライブハウスにも出ず、いきなりレコーディング(演奏はスタジオミュージシャン)を行い、ヒットパレードに出演した。生演奏のできないバンドにバンドとしての魅力は無い。そんなアーティストは一時的な流行で終わるしかないのだ。そしてこのことは、情けないが、日本のGSブームが踏襲してしまう。だから、GSブームの時に活躍した人で今でも残っている人は、みんな演奏が上手いことで証明される。みんなライブを鬼のようにやってきた人たちだ。
(ザ・ゴールデン・カップス) ミッキー吉野、ルイズ・ルイス加部、柳ジョージ
(ザ・スパイダース) 井上尭之、大野克夫、かまやつひろし
(ブルーコメッツ) 三原綱木、井上大輔(故人)
(フィンガーズ) 成毛 滋
(モップス) 星 勝

 ライブハウスの魅力は、あの狭い空間に潜む爆発寸前のパワーが感じ取れることだ。それはホールや武道館では味わうことの出来ない見えない強力なパワーである。ライブハウスで大きくなったアーティストは多い。矢沢永吉は横浜や川崎、井上陽水やチューリップは博多のライブハウスで修行した。
ライブハウスで大きくなったアーティストは武道館の舞台に立ってもそのことを意識している。
「今日はちょっと大きなハコだけど、いつもと変わらないでやるよ。」(チャーが武道館に初めて立ったときのコメント)
「ライブハウス、武道館へようこそ!」(ボウイ・氷室が武道館に初めて立ったときのコメント)
「今、ここで演っているわけだが、今度ライブハウスというものに挑戦しようと思う!」(1988年コンサートツアー中の吉田拓郎がライブハウス公演に向けたコメント)

 僕は気が向くとライブハウスのスケジュールをインターネットで見る。新しいミュージシャンは良く分からないが、往年の名プレイヤーの名前を見つけるとワクワクしてしまう。まだ、歌っているんだなぁ、と嬉しくなる。間近で名演が堪能できるところがライブハウスの魅力だ。そういえば、昔よく渡辺貞夫を観に行っていたが、新宿厚生年金で観るよりも、六本木ピットインで見た方が感動したものなぁ。グルーブが伝わるというか、ミュージシャンの息づかいまで聞こえるところがいいのかもしれないね。
しかし、最近ライブハウスの経営もキツイようで、古くからの伝統的なハコが消え始めている。大きな資本の入った近代的な小ホールが続々建築されている。小ホールだからいいってモンじゃあないんだよなぁ。ちょっと暗くてタバコのにおいが充満していて、無造作にスピーカーがドカンと置いてある昔ながらのコヤじゃないと雰囲気が出ないね。パワーの源という感じかな。

2005年3月19日(土)
花形
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by yyra87gata | 2012-12-13 00:37 | 音楽コラム | Comments(0)

オイラはドラマー・・・

 僕はびんぼうゆすりをする。嫁さんにいつも注意されるが直らない。それと、机やひざをパシパシ叩く癖がある。何かしらリズムを取ってしまう中学時代から続く癖だ。

 僕がドラムに興味を持ち始め、実際にスティックを握ったのは、中学2年の頃だ。たまたま、隣に座ったE君がドラマーだった。彼はいつも机の端に両手の人差し指を連打していた。足を見るとしっかりキックしている。ドコドコうるさいけど、なぜか格好よく見えてしまった。E君はバンドを組んでおり、アリスやチャー、レインボーなんかを叩いていた(メチャクチャだね)。中学生のバンドだから、今思うとたいしたことではないかもしれないが、ホールを借りて自主コンサートを開催していた。僕はそんな彼を見ながら、ロックやフォークを演ずることに目覚めていったのかもしれない。
僕はその頃エレクトーンを習っていたので、音楽には係わっていたが、ロックというよりムード音楽や映画音楽、クラッシックなど、中学生の男がやる音楽かぁ?というものばかりで、少々飽き飽きしていた。しかもエレクトーンはメロディ、リズム、ベースを独りでやってしまうので自己完結型の楽器であり、仲間が増えない。流行歌を弾いていても、自分で勝手にアレンジして弾いていても、発表の場が無く、友達に聞かせてもフーンって感じだ。
そこへもってきて、世の中はニューミュージック・ブームとテクノ・ブームが入り乱れ、イギリスからはパンクやパブロックなど新しい形態の音楽が入ってきていた。もう、榊原郁恵ちゃんやキャンディーズの音楽を聴いている場合ではなかった。親戚の女の子からよしだたくろうやかぐや姫のLPを借りまくり、深夜放送を聴き始めたのもこの頃だ。自然と「僕もバンドがやりたい!」と思うようになっていった。
ギターは中学1年から音楽の時間で習っていたが、のめりこむことは無かった。それよりも、バンドが組みたいと思っていたところへE君の登場である。僕は見よう見まねで彼をコピーした。彼も快く教えてくれた。
「これ、8ビートね。これ、基本だから。右手は一定のリズムだよ。左手は間に入れるんだよ・・・。」なんていいながら、僕とE君の席はいつもうるさかった。
ドン・パ・ド・ドンパ  ドン・パ・ド・ドンパ ドン・パ・ド・ドンパ
「これ、ツーバスね!コージーかっきー!(コージー・パウエル 格好いい!)」
ドコドコドコドコ・・・・タタンタタンタタタタタ!
休み時間になると机で特訓。授業が終わると、音楽室にある小太鼓と大太鼓を駆使して簡易ドラムを作り、叩きまくりの毎日。
そのうち、ブラスバンド部がドラムを購入したので一気にヒートアップ。ブラバンの練習が終わると、
「俺達が片付けるから貸してくれ・・・。」と言って毎日叩いていた。
僕はエレクトーンを習っていたから、手と足がバラバラに動くということはある程度理解できていた。しかし、頭でわかってはいても実際にやってみるとこれがなかなか難しいもので体がついていかない。
「何か簡単な曲をコピーすればいいんだよ。スローなバラードより8ビートの方が叩きやすいよ。そうだな・・・甲斐バンドの『ヒーロー』なんか簡単かもよ。」
僕の課題曲は『ヒーロー』になった。
ドン・パ・ド・ドンパ  ドン・パ・ド・ドン ドコドコドコ 「ヒーロー!」ってな感じ。

 8ビートをマスターするとバラードの課題曲が与えられた。アリスの「遠くで汽笛を聞きながら」だ。
E君は一生懸命教えてくれた。右手は4つで足がシンコペーションをしながらキックする、なんてことは練習あるのみである。リズム感は決して悪くは無いので本当に練習漬けになった。

 文化祭でE君は引っ張りだこだった。ドラムを上手に叩けるやつはそんなにいない。ましてや、僕が中学の頃の文化祭はハードロックを演奏する環境が無かったので、フォークソングに毛がはえた軽い音楽が主流だった。E君は3~4つのバンドをかけ持ちしていた。
文化祭の当日、僕はE君のドラムを客席から見ていた。すると彼が曲間に出てきてマイクで言った。
「すいません。僕、ドラムばっかりなんで、たまにはピアノを弾きたいんですよ。というか、ピアノも弾けるんだぞ、っていうところを見せたいんだよね。んでもって、今からピアノを弾きます。曲はアリスの『遠くで汽笛を聞きながら』です。はーなー!(僕のこと)いる?叩いて!」
「?!」聞いてないよ・・・。
手招きされて、ドラムに座らされた。バンドのメンバーはE君がこの曲をやることに同意しており、練習もしていた。知らないのは僕だけだった。
E君が一生懸命この曲を教えてくれたのは、こういう裏があったんだとその時になって思った。
戸惑っている僕をよそに、ピアノはもうイントロを弾き、そしてヴォーカルが歌い始めた。
えーい、もうどうにでもなれ!という気持ちで一生懸命叩いた。
E君の指導が良かったのか、何とか間違えず、1曲叩ききることが出来た。
しかし、ひどい話だ。もし、僕がいなかったらどうしていたんだろう。
こうして中学2年の秋に僕はドラムデビューを果たした。

 それからというもの、みんなの中で僕は「ドラマー」という認識になった。
バンドの誘いもあり、多いときでは3つのバンドに在籍していた。いろいろな音楽も聴くようになり、ドラムを中心に聴くようにもなった。当時の人気ドラマーは、コージー・パウエルであったり、イアン・ペイスであったり、みんなハードロックのドラマーだった。しかし僕はどちらかというと、当時から古いロックを好んで聴いていたので、サイモン・カーク(FREE)やレボン・ヘルム(THE BAND)、デビッド・ガリバルディ(TOWER OF POWER)など、同世代では誰も知らないようなドラマーが好きだった。
僕のドラマーの好みは、ちゃんとドラミングが歌っている、という日本で言えば村上ポンタのようなドラムだ。テクニックがいくらあっても、歌っていないドラムを聴くと、興ざめしてしまうからだ。

 Gパンの後ポケットにスティックを2本さして歩くと何か格好良い気がしたものだ。友達を待つ間にちょっと手すりかなんかを叩いていたりして・・・(そんなCMが昔あったなぁ)。
結局、僕は中学2年から高校2年までずーっとドラマーだった。本当は高校3年の文化祭でもドラムを叩きたかったが、バンドのヴォーカルがあまりにも下手だったので、僕がヴォーカルをとる事になった。その時のドラムは迷うことなくE君に頼んだ。E君は快く引き受けてくれた。僕との友人関係もあったんだろうが、それよりも今まで誰も叩いたことの無い体育館でコンサートが出来るという企画(前コラムを参照)が彼の心を動かした。

 僕は大学に入っても、ドラマー志望だった。大学のクラブ活動であるフォークソング倶楽部の入部手続きの時も「ドラム希望」と記入した。
倶楽部では1年生(初心者)の為に楽器講座という「簡易的な楽器教室」が開催されていた。当然、僕はドラム講座を選択し、ドンパンドンパン叩いていた。
楽器講座はある意味、1年生の力量を試す空間でもあるので、欠員補充をしたい先輩バンドは鋭い視線を送りながら1年生の演奏を見ていた。僕はそんなことも気にすることなくドンパンドンパン叩いていた。先輩のNさんからもっと丁寧にタム回しをした方がいいよ、とか、同期のAさんからは肩の力を抜いて叩かないと疲れるよ・・・とかアドバイスを受けていた。
先輩のMさんが
「俺のバンド、ドラムがいなくなっちゃったから、お前、入らない?好きな音楽やってもいいぞ。俺達はチューリップとか世良公則とかやってるんだよ。」
「はぁ、僕はFREEとかTHE BANDとか好きなんすよ。」
「?」
会話にならなかった。

新入生歓迎コンパでは、必ず1年生は潰される。そして、2年生の下宿へ運ばれることが慣例となっていた。僕も御多分に漏れずしっかり運ばれた。自然反芻運動を繰り返しながらすっぱい気分で先輩の下宿で寝かされていた。
朝方、気分もだいぶ良くなってきたので、倒れている同期の男の横で立てかけてあったエレキギターを爪弾いていた。そこに、家主である先輩のNさんが帰ってきた。
僕はたわいない話をしながら、ギターを弾き続けていた。先輩はそれをじっと見ていた。
次の日、二日酔いの頭で学校に行き、倶楽部練習を始めようとした矢先、4年生のT先輩(女性)に声をかけられた。
「花形君ってギター弾くんだってね。うちのバンドで弾かない?」
「えーっ、でも、僕はドラムがやりたくて・・・。」
「えーっ、そうなの?でもギター弾けるんでしょ?うちのバンド、ギターがいなくなっちゃったから、探してるのよ・・・。やってよ!」
僕を誘ってくれたT先輩は、後にプロデビューするくらい上手なドラマーだったのだ。僕も倶楽部のバンドをいろいろと見てきた中で、上手だなぁと思っていたバンドであった。そこへギタリストとして加入することは僕にとって大変なプレッシャーだった。

 結局僕はドラマーの道を諦め、ギタリストになった。
しかし、どうしてT先輩は僕がギターを弾けるとわかったのか・・・。
答えは簡単だった。僕がギターを弾いているところを見ていたN先輩とT先輩が付き合っていて、情報が流れていたらしい。

 あれからずーっとギターばかり弾いている。
でも、今でもドラマーにはあこがれてしまう。
コンサートに行っても、ドラマーやベーシストに目がいってしまう。ギタリストなんて実はあまり興味が無かったりして・・・。いやいや・・・。
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2005年3月10日(木)
花形
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by yyra87gata | 2012-12-12 21:20 | 音楽コラム | Comments(0)
  
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 アナログ盤からCDへ、そして音楽配信、i-PODなど・・・。ソフトもハードの進化によりどんどん形を変えていくので、たった30年前の「シングル志向からアルバム志向への変遷」などといった音楽文化はもう風化した思い出となり、時代は高速で変化してしまう。例えば、46分10曲のアナログ盤が技術の進化で74分ぎりぎりまで収録するCDへと替わったことは、作り手も聞き手も音楽への接し方が変化したに違いない。僕はアナログ盤愛好家なので、音楽を集中して聴くことが出来る時間が46分で切れてしまう。体内時計がそうなってしまったのだ。だから現在制作されているCDをまるまる1枚、一気に聞くことができない。途中で飽きてしまうのだ。それに加えて「日本盤にのみボーナストラック付」なんて宣伝文句があったとしても全然ありがたくなく、アルバムとして曲を聴くという行為から離れてしまうことになる。ボーナスはあくまでもおまけなのだ。作り手だってアルバム制作時にボーナストラックを考えているのだろうか・・・。販売サイドの思惑がプンプン臭うので、ピュアな作り手の気持ちが曲がって伝わるのでないか、とも考えてしまう。作り手がボーナストラック前提で制作しているのであれば、アホらしいモンキービジネスだ。だから、良い音楽が必ず売れるというわけではなく、セールスプロモーション次第でいかようにも評価がくだされることについて、聞き手は真剣に考える必要があるのではないか。とにかく、僕の中で“アルバム”が“アルバム”として成立しなくなってきているのだ。

 例えばアナログ盤のA面からB面にひっくり返すあの瞬間もアルバムを楽しむ空間だと思う。早くB面が聴きたい時や今日はA面だけでいいやと思う時などその時の自分の「気持ち」が反映される。が、CDだとこうはいかない。ダーッと1曲目からエンディングまで走りきってしまう。山や谷はあるだろうが、ブツ切れのイメージというか、個々が独立しているというか・・・。だらだらと惰性で聴いてしまい、集中力が途切れるのは僕だけだろうか。せっかくの音楽が、BGMと化してしまうのだ。
そんなことだから、最近の音楽を聴いているとコンセプトアルバムが少なくなってきているような気がする。コンセプトアルバムとは、1曲目から最後の曲までしっかり聴かないと作り手の意図が伝わらない、というアルバムだ。物語を音楽で聴くようなアルバム。それが最近は、制作できなくなってきているのではないか。考えてもみて欲しい。映画でもないのに、約80分(CD)も音楽のみをじっと聴き続けるなんて、相当な集中力が必要だ。
作り手もアルバム制作にしっかり意味を持たせ、聞き手が聞きやすい時間で作ってほしいものだ。ただダラダラと出来上がった曲を収録するのはいかがなものか・・・。
   
 ビートルズ『SGT・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』(1967)、サディスティック・ミカ・バンド『黒船』(1974)、クィーン『オペラ座の夜』(1975)、デビッド・ボウイ『ジギー・スターダスト』(1972)・・・。
音楽に引き込まれ、時を忘れるという瞬間がある。コンセプトアルバムはそれを体験させてくれる。ベスト盤でもライヴ盤でもない1つの物語を読むような感覚で音楽を聴く。現在の15曲入りのCDではそれは困難だろう。74分じゃ大河ドラマだよ。最近、コンセプトアルバムってあるんだろうか。

2005年1月14日(金)
花形
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by yyra87gata | 2012-12-12 20:32 | 音楽コラム | Comments(0)
 高校3年の1年間は今までで一番音楽を聴いた年かもしれない。昼飯を抜いた金で中古レコードを買い漁り、FMでエアチェックしたカセットテープをいつも繰り返し聴いていた。この頃に聞いた音楽はいまだに自分の重要な位置を占めており、そこが自分の音楽の基準となっていることも否めない。要は学校も自由登校になり日々の勉強への締め付けも減り(みんな受験勉強というやつをしている)、僕のような宙ぶらりんの生徒にしてみると非常に時間が自由に使えたのだ。
 高校を卒業し、長い長い春休みが始まった。もっと時間が自由に使えるようになった。僕の友達はほとんど代々木や駿河台に勉強の場を変えていた。僕も流れに任せて代々木に通うようになった。でもそれも2ヶ月もすると足は代々木ではなく、御茶ノ水の方に向くことが多くなった。駿台予備校に友達が行っており、「代ゼミよりレベルが高くて良い授業をしているよ」と言ってきた。勉強には相変わらず興味が無く、代ゼミにしてもみんなが行くから付き合いで行っていたくらいだったので、そんなに言うなら違いをみてみるべぇということで参戦してみた。確かにレベルは高く、追いつけないほどのスピードであり、きびしい環境に落としこむにはもってこいの予備校という印象であった。予備校の授業が終わると、頭を休めるために決まって楽器屋に直行していた。お茶の水は楽器屋天国なのである。明治大学の学食で安いランチを食べた後、御茶ノ水の坂の上から靖国通りまで坂を下る。その間に約15件の楽器屋があった。エレキからアコギから専門書から・・・楽しい世界が待っていた。つまり、駿台予備校なんて最初の1週間で行かなくなり、楽器屋三昧だったのだ。
そんな時期に、アコースティックギターの専門店で超有名な「カワセ楽器」という店に通っていたことがある。アコースティックギター販売の老舗で、プロも御用達の店である。僕も石川鷹彦や加藤和彦を見かけたことがある。試奏している人もちょっと近寄りがたい雰囲気の人が多い。うーん、プロっぽい。そんな店なので、最初に入ったときは緊張したものだ。普通の楽器屋なのにオーラが出ている気がした。ガラス張りのショーケースにはヴィンテージもののマーチンD45やD28、ギブソンJ45が並んでいる。試奏なんてしようものなら、買わなければいけない雰囲気さえ漂っていた(これは今でも・・・)。
 カワセ楽器でよく耳にした音楽がある。クロスビー、スティルス&ナッシュである(CS&Nと表記)。マーチンの鈴なりのサウンドが耳につく。アコースティックギターのアンサンブルのお手本のようなバンドであり、コーラスも特徴があり絶妙であった。その音は、目の前に飾ってあるこのギターでないと出ない音なんだろう、なんて思いながら曲を聴いていた。
 
 僕が18歳のとき、世の中は80年ポップスの全盛期にさしかかっていた。でも、僕は1969年発表の
「クロスビー、スティルス&ナッシュ」でアコースティックサウンドに開眼していた。80年代の分厚い音と、打ち込みの応酬に辟易していたときに聞く空間のあるアコースティックサウンドは衝撃だった。僕はそれまで自分の中でアコースティックサウンドは、拓郎やボブディランの弾き語りでしかなかった。当時のアコースティックサウンドのとらわれ方は、「四畳半フォークと呼ばれるしみったれた音楽=フォーク」のような位置づけで、決して「流行の音」ではなかった。アンプラグドなんて言葉は存在すらしていない。
CS&Nはそんな僕に衝撃を与えた。
 変則チューニングもこの時初めて知った。そして、ガロはCS&Nのコピーだったことも初めて知った。
CS&Nの素晴らしさは今さら強調するまでもないが、面白いのは彼らの歌声は決してぴったりとマッチしておらず、各人が勝手に歌っているだけなのにもかかわらず、なぜか全体としてのまとまりを感じさせるという点にある。特に「Helplessly Hoping」では各人の声の定位が違うことによって、そのことをはっきりと聴き取ることができる。各人がお互いの個性を尊重しながら、かつグループとしての一体感を感じさせるというこの手法は、“束縛”も“孤独”もない理想の人間関係を作り上げようとする試みなのだろう。 

 僕は3人の中でスティーブン・スティルスが一番好きだ。バッファロースプリングフィールドの時代からリーダー的な役割を担い、アル・クーパーやマイク・ブルームフィールドと共に発表した『スーパーセッション』(1969)など、数多い名演奏を残したとても有名な人だ。

 
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 彼の音楽性は、もって生まれた才能というよりは「学習」によって培われた部分が大きく、そうした秀才的な音楽が人の心に響く為には、同時代性のような他の要素がなければなかなか厳しいのではないだろうか。はっきり言って彼のヴォーカルというのもあまりうまいわけではなく、伸びのない荒々しい声は時として耳障りだったりすることもある。しかし、往年の傑作ではその声がとても心地よく響いてしまうのだから、音楽というのは不思議なものである。
 また、スティルスのすごいところは、ってウッドストックの時に45万人の前でアコギ1本だけで変則チューニングの「青い瞳のジュディ:組曲」を歌いきったところだ。CS&Nのステージであったが、あれはスティルスの一人舞台といっても良い。デビッド・クロスビー、グラハム・ナッシュがコーラスを決めているが、スティルスは鬼気迫る演奏とメインボーカルを披露している。ウッドストックの映画は何度も繰り返し観たものだが、CS&Nのシーンは瞬きもしないで観ていた。暗い画面だが、ボーッと浮き上がるような3人の映像。スティルスがシャウトするとき、八重歯がはっきり映り子供のような顔になる、そんな細かいところまで憶えてしまった。
CS&Nは1969年に結成されてから、旧友ニール・ヤングも加わったCSN&Yも含め、数々のアルバムを不定期に発表している。時には、クロスビー&ナッシュになってみたり、スティルスとヤングが組んでみたりと、変幻自在の動きを見せている。でも、アルバム的に見れば1969年、1975年、1982年・・・とアルバムを発表しているが、年を経るにつれアコースティック色が薄らぎ、コーラスアンサンブルが上手なグループという印象だけになった。ちょっと残念という印象。僕はアコースティックギターグループでCS&Nほどソウルフルなヴォーカルと絶妙なコーラスアンサンブルは聴いたことが無い。同じアコースティックギターバンドでも「PPM」や「アメリカ」の演奏する曲とは一線を画している。アコースティックギターで十分ロックができるバンドである。原点回帰を望むところだ。
 
 最近、カワセ楽器でマーチンD45を弾いたとき、くしくもBGMはあの時のCS&Nだった。僕が弾いていたギターの音色はBGMと同じ。他でギターを試奏していた人も自然とCS&Nを爪弾き始めた。
目が合ってしまい、お互い照れくさく笑った。



2004年12月25日
花形
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by yyra87gata | 2012-12-12 20:27 | 音楽コラム | Comments(0)

外タレ初体験?

 80年代は音楽と映像がリンクし始めた年代である。アーチストもレコード会社もMTVと呼ばれるプロモーション・ビデオに力を入れ、セールスを伸ばす戦略がとられ始めた。ビジュアルに訴えたことで得をした人、損をした人、ひきこもごもである。

 MTVが出てくるまでは、音楽の映像は映画でしか見ることができなかった。
「レッド・ツェッペリン/狂熱のライブ」「ウッドストック/愛と平和の3日間」「ヤァヤァヤァ!ビートルズがやってくる」「HELP!4人はアイドル」「レット・イット・ビー」「トミー」「真夏の夜のジャズ」「バングラディッシュ救済コンサート」 「ラストワルツ」「ポールマッカートニー&ウィングス/ロックショー」くらいが1980年までの主な音楽映画である。上記の作品を組み合わせ、名画座で1年に1回は特集が組まれていた。それをありがたがって毎回観に行くのである。
 クラプトンやジミヘンが動いていることに感動し、ジミーペイジのギターを構える姿にシビレ、ポジションを確認した。忘れないように急いで家に帰って、ギターのストラップを長くしたものである。映画館から家までの間、目に、頭の石に映像を刻んでおかなければならなかった。
 《ベストヒットUSA》が1980年頃から始まり、音楽の映像がグッと身近になった。しかし、そこに出てくる映像はあくまでもプロモーション・ビデオなわけで、どうしようもない音楽をくちパクで合わせるC調な歌が目立っていたように思う。要はただ単に、80年代ポップスが好きじゃないだけなんだけど・・・。
作り手は歌だけに集中していればよかった70年代と比べ、ビジュアルという仕事が増えてしまった。ビジュアルに向いてないアーチストもいるわけで、そんな人たちは苦痛な時代になったんだろうなぁ。

 僕はセールスプロモーションのビデオが嫌いだ。曲の解釈を撮影側の押し付けでイメージさせられることが嫌だからだ。よく映画より本で読んだほうが良かった、という場面に出くわすが、まさにあれと一緒である。音を聞きイメージを膨らませる。このギターは誰だろう?このリズムの刻み方はきっとあの人だろう、などと予想を立てながら聞く楽しみもあった。
映像の話に戻そう。・・・MTVが流行る前は音楽の映像はほとんどがライブだったように思う。
《ベストヒットUSA》の中にも「タイムマシーン」というコーナーがあり、ロックのクラッシックな映像を流していた。その映像はまさにライブであった。まがい物ではない、純粋な音楽という感覚で見ることができた。

 ビデオデッキが家庭に普及される前の時代、音楽を見ることは、イコール、ライブ演奏を見るか、前述の映画くらいしかなかった。そんな時、あるスポットが各地に出現した。
「ビデオ上映会」
ビデオを鑑賞するためのスペースが渋谷や新宿を中心に竹の子のように出現した。よく大手楽器店の店頭スペースでもビデオは上映されていたが、それはセールスプロモーション用のヒット曲のオンパレードであり、「ビデオ上映会」のマニアックなラインアップとは一線を画していた。僕の心は躍った。海外からの直輸入ビデオがほとんどなので英語、フランス語、スペイン語の字幕が出てくる。
クィーンのデビュー当時のスペイン公演の映像は、字幕がスペイン語だった。日本でイギリスのバンドをスペイン語字幕で見る。変な気分。
当時の僕達は、海外のアーチストは、レコードでしか聞いたことが無いため、動いているところを観たときは、素直に感動したものだ。ああやって弾いていたのか・・・とため息がもれる。
エリック・クラプトンとジェフ・ベックのギターバトル(シークレット・ポリスマンズコンサート)、ボブ・マーリーの地鳴りがするほどのライブ、ジョン・レノンのライブ(ワン・トゥ・ワン)、ボブ・ディランのローリングサンダーレビュー、ジャクソン・ブラウンのノーニュークスコンサート、キッスのデトロイト公演'78・・・
2本~3本観て800円くらいだった。

 学校の帰りによく見に行き、帰りの道玄坂のロック喫茶「BYG」でタバコをくゆらせることが当時の日常だった。
「上映会」は1本いくら、という換算で料金が決まっていたため、組み合わせにより見たくも無い作品を見せられる映画館とは違い、お得感があった。

 d0286848_2093463.jpg 1984年くらいからビデオデッキが急速に家庭に普及し始めた。その瞬間から「ビデオ上映会」が街から消えていった。ミュージックビデオの普及やレーザーディスクの開発など、ソフト面での充実とハード面でのデジタル化が音楽を変えていった。そして僕達の生活も変わっていった。
気軽に海の向こうのアーチストを見ることができる。そこには、苦労もなく当たり前の日常があり、片手間にディランやスティービー・ワンダーが拝める。便利になった分、真剣に見なくなったのも事実。昔は映像に飢えていた。所定の場所に行き、しかるべきものを支払い、食い入るように見ていたあの時代。人間は満たされてしまうと、駆り立てるものがなくなると、とたんにヤワになってしまう。

「ビデオ上映会」は僕の外タレの原点かもしれない。

2004年12月17日
花形
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by yyra87gata | 2012-12-12 20:09 | 音楽コラム | Comments(0)

高中正義という作曲家

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1976年くらいからクロスオーバーという新しい音楽ジャンルが生まれ、後にフュージョンという名前に変わっていく。海の向こうでは、スタジオミュージシャンやジャズミュージシャンがシンガーのバックではなく、自分の音を主張し始めていた。スタジオやジャズクラブでプレイしていたリー・リトナー、ラリー・カールトンといったプレイヤーはこぞってリーダーアルバムを発表。また、ジェフ・ポーカロやスティーブ・ルカサーといったLAのスタジオミュージシャンはボズ・スキャッグスのバックバンドを経て、TOTOを結成した。空前のスタジオミュージシャンブームが起きる。日本でもショーグンやパラシュートなど裏方がクローズアップされてきた。
スタジオミュージシャンになりたくてなっている人はそんなにいないという。少なからずも人前で演奏したことがあり、何らかの事情でスタジオの仕事をしている人がほとんどだ。人前に立ち、リーダーアルバムを出すことができるなら、みんなそうしたいだろう。なにせギャラが違う。注目度も違う。
 日本のスタジオミュージシャンの火付け役は、キャラメルママ組(林立夫、鈴木茂、細野晴臣、松任谷正隆、坂本龍一、)と関西組(村上秀一、大村憲司、佐藤博、田中章弘)に大別される。シティポップなキャラメルママとジャージーな関西組はその当時の日本のポップスを席巻した。
それまでのフォークブームが終わると、新しく出てきたミュージシャンがニューミュージックというブームに乗ってTVにどんどん出演していた。「テレビに出ない」は70年代初頭のフォークシンガーのことで、70年後期のニューミュージックはいかにテレビと共存していくか、に賭けられたと思う。そんな中にフォークでもニューミュージックでもない男がテレビで脚光を浴びた。それまでシンガーのバックで弾いていた男が表舞台に躍り出た。こんな出方をしたミュージシャンはあとにも先にもこの男しかいない。

 パイオニアのステレオのCMから流れる音は、時代を代表する音だった。ちょび髭を生やし、目は針のように細く、アロハシャツ。一見、韓国人ぽい風貌(実は父親が中国人なので大陸的な顔なのだ)。決してルックスが良いとは思えないが、ギターを弾く姿はギター少年の憧れであった。高中正義。スタジオの仕事をこなしながら、フライドエッグ(ベース担当)、サディスティック・ミカ・バンド、サディスティックスを経てソロになった。1978年から1979年にかけて、フュージョンブームに王手をかけたアルバム『ジョリージャイブ』(1979)はテレビCM効果もあり、大ヒットした。1曲目に収録された「ブルーラグーン」は本人登場のパイオニアステレオのCMソングであり、当時の楽器屋に行けば必ず聴けるフレーズであった。

 高中は品川の生まれで下町の中でも小学校から私立(小野学園)に通うボンボンである。60年代後半のエレキブームのときにすでにエレキギターを持っていたことからもこのことが証明できる。ビートルズの映画を見て「これだ!」と音楽に開眼し、ベンチャーズのノーキーエドワーズにエレキの洗礼を受ける、当時の典型的な音楽少年である。18歳の時、アマチュアバンドでギターを弾いているところを成毛滋とつのだひろに声をかけられ、フライドエッグを結成。成毛は当時飛ぶ鳥を落とす勢いのギタリストであり、高中はベーシストとしてプロの第一歩を歩んだ。同時期にスタジオミュージシャンとして数多くのフォークアルバムに名を連ね、特に井上陽水のアルバムではギターとベース両方で参加している。そのスタジオワークに目をつけたのが、またもや、つのだひろ。新しく加藤和彦とサディスティック・ミカ・バンドを結成する時、高中はギタリストとしてラインアップされた。高中の名前が全国区になる第一歩である。
 七色の髪、ど派手なスーツはこの頃からトレードマークだったようだ。余談だが、よしだたくろうの1973年のツアーで全国を廻ったときのことである。地味なフォーク畑のミュージシャンに異端児が紛れ込んだ形になり(とにかくどこでも目立つ)、夜の街でも高中はいつもチンピラに絡まれていたらしい。たくろうや柳田ヒロは肩を組み、あさっての方向に逃げて行ったらしい。
 
 高中はギタリストであると同時に、重要な作曲家である。サディスティック・ミカ・バンドの「黒船」、よしだたくろうの「落陽」のフレーズ、井上陽水の「氷の世界」のスタジオワーク・・・ソロになる前にすでに後世にまで残る楽曲に絡んでいる。当時のスタジオはキメのフレーズ以外は各ミュージシャンに頼るところが大きく、作曲能力も求められていたようだ。
 高中のギターテクニックは、目を見張るほど達者というわけではない。サンタナに影響されたお決まりのフレーズもあるし、早弾きをすればアルビン・リー(テン・イヤーズ・アフター)のごとく弦をかきむしる。突拍子もないフレーズや超高速早弾きを好む「浅はかなアマチュアギタリスト達」や「ルックス重視の女性」からは過小評価されている感もある。
しかし、ここで思い出さなければならない。どんなにがんばってもスタジオミュージシャンはスタジオミュージシャンでしかないわけだが、高中は類まれなる感性と作曲能力で浮上したギタリストなのだ。彼よりテクニックがあるギタリストはごまんといるだろうが、そのギタリストのフレーズが高中の作曲したフレーズほど人々の頭に残っているだろうか。
 1年前、「クロスオーバー'03」というイベントがあった。そのイベントにはカシオペアやT-スクエア、パラシュートなど日本のそうそうたるミュージシャンが結集した。高中正義はトリをつとめた。約1時間のステージだったが、イベントということもあり代表曲ばかりを演奏した。圧巻はほとんどの客がみんな彼のフレーズを口ずさんでいたということである。ギターのフレーズをみんなで口ずさむなんて、何て素敵なんだろうと思った。

 ジャズミュージシャンには、わざとフレーズを難解にして、自分を誇示する輩がいる。高中と同様にテレビCMに出演しても、高中ほど商業的成功を収めなかった渡辺香津美がその人だろう。テクニック重視で、メロディーラインが難解になってしまう。しかし高中は臆面も無くわかりやすく、憶えやすいメロディーを作る。そこが彼の魅力だと思う。高中の視点は別世界にあるのだろう。歌もののバックから始まっているためか、詞を活かすフレージングを作ってきたせいか、親しみやすさが感じられる。加藤和彦、吉田拓郎、井上陽水、矢沢永吉、中森明菜、松任谷由実・・・彼がバックを務めた一握りのアーチスト達である。歌心がわからないと良いフレーズなんて出てきやしない。
作曲家として高中正義を最初から聞きなおしてみると結構驚くよ。

2004年12月16日
花形

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by yyra87gata | 2012-12-12 20:01 | 音楽コラム | Comments(9)
 渋谷・道玄坂を登ったところに、ヤマハ渋谷本店がある。僕は高校の3年間、土日の大半をこの楽器屋で過ごしていた。今ではなくなってしまったが、店頭LIVEなる催し物があり、只でライブを見ることができた。もちろん、アマチュアバンドばかりだが、少なくても自分より上手な人たちばかりだったので、飽きることは無かった。ビートルズ風の人、クロスオーバーと呼ばれるインストの人、NSPみたいなフォークグループなど、多彩な音楽が土曜の昼下がりを包んでくれた。あと2年早ければ、山下達郎率いるシュガーベイブや、チャーのスモーキーメディスンなんてバンドを見ることができたそうだ。

 その日も本店に彼女を連れ立って、あても無くライブを見に行った。東急本店の方向から道玄坂に向かおうとしていた時、あるライブハウスの前に、いつもとは違う人だかりができていた。屋根裏というライブハウス。ちょっと異様な雰囲気。みんな目が血走っていた。中には「入れろー!」って叫んでいるやつもいる。隣で彼女の顔が曇る。僕はなんだかわくわくしている。
貼り紙には「当日券・売り切れ!」とある。「誰?」
RCサクセション(ゲスト春日博文・OZ)、とだけ乱暴な字で書かれていた。

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 そのあと、渋谷ヤマハ本店で何を見たのか全然憶えていない。RCが気になってしょうがなかったから。
まだ隔週発行だった「ぴあ」や「あんぐる」を読み漁り、RCの名前を探しまくった。屋根裏3日間連続公演は終わったばかりだった。
 RCがエレキバンドになっているということは、「新譜ジャーナル」で知っていたが、まさかあんな騒ぎになっているとは思わなかった。屋根裏なんてあんな天井の低いライブハウスが3日間満杯なんて信じられなかった。いてもたってもいられずに、プレイガイドにコネを持つ(プレイガイドに彼女がバイトしているだけだ)W君に頼んで、次のRCのライブを見に行くことにした。彼女とではなく、W君と一緒に行った。
 今は無き、久保講堂である。大変なライブだった。それまで見てきたライブのどのライブよりも音が大きかった。ハードロックのでかい音は倍音になり、結構大きな音でも慣れてくると気持ちよくなってくるものなんだけど、この日のRCの音は、生音がでかいというか、生身の音というか・・・。気に障る位とんがっていた。「僕の好きな先生」はそこには無かった。そして、この模様は『RHAPSODY』というアルバムになった。


 RCは不思議なバンドだ。清志郎は今でもたまにTVに出てくるけど、一貫して自然体である。人付き合いが下手で、平気で人を傷つける言葉を吐くんだけど、すごくナイーブで小心者。だから、ステージで大爆発しちゃう。RCは、そんな清志郎の周りに同じような輩が集まってできたようなバンドだ。
 TVKの「ヤングインパルス」「ファイティング80」という番組にもよく出ていたが(確かコーナーを持っていたんじゃないかな)、あまり話さないんだよ。司会の宇崎竜堂は、サングラスの奥でいつも目を白黒させていた。
RCは、とにかく売れなかったんだ。最初のシングルがちょっと話題になっただけで、あとは陽水の前座とか、矢沢永吉の前座だった。そこでいつでも毒づいているから、客からは総スカンを喰らっていた。喜んでいたのは泉谷しげるだけだったらしい。
 でもRCは紆余曲折しながら人員整理を行い、古井戸からチャボを引き入れ、再生した。音楽性が変わったように思われるかもしれないが、フォークギターがエレキギターになっただけで、RCは昔から、ロックだったんだ。時代が追いついたなんていったら、格好つけすぎ?
 シングル「雨あがりの夜空に」(1980)が当たり、ライブ会場はどんどん大きくなっていった。当時、野外イベントの目玉はいつもRCで、必ずトリのバンドを喰っていた。「ジャムジャム80」では、トリのアリスの頃には客なんて残っていなかったもん。RCサクセションは、長い暗黒時代から脱出した。
 
 うなぎ昇りの人気の中、アルバム『PLEASE』(1980)をリリース。『PLEASE』は、がっかりするくらい音の細いアルバムだ。いや、それまでのフォーク・スタイルだった頃のRCも「ライブは鬼気迫るのに、レコードになるとつまらないバンド」などと云われていた。カッティングの技術の問題からか、RCのサウンドはレコードになると音痩せして、その迫力が充分に伝わらないところがあった。しかし、『PLEASE』は、その音の物足りなさを差し引いても、珠玉のアルバムだ。仕事が無い時代に書きためていた曲が山のようにあり、煮詰まることはなかったと云う。

「別れたりはしない、嘘をついたりしない。上等の果実酒、暖かいストーブ、この部屋の中。
ダーリン、ミシンを踏んでいる」 ~「ダーリンミシン」

「モーニングコールをよろしく。たのむよ明日の朝、モーニングコールをよろしく。
本物の君のキスで目を覚ませる朝が来るまで、電話で我慢するさ」 
~「モーニングコールをよろしく」

「歌うのはいつもつまらないラヴソング、おいらが歌うのは安っぽいラヴソング。
そうさおまえが好きさ。おいらそれしか言えない」 ~「たとえばこんなラヴ・ソング」

 清志郎の書くラブ・ソングは、少しもつまらなくない。詞ヅラだけ見るとちょっと気恥ずかしいのだが、清志郎の歌になると恥ずかしくなくなってしまうところが不思議だ。パンク・メイクになってからのイメージと、あたたかい詞のギャップが、一筋縄ではいかないスゴさを醸し出してもいた。ロックは詞だ。

「あの夜初めて聞いたおまえのナンバー、唇にくっついたままそのまま」
「Sweet Soul Musicあのいかれたナンバー。シートにしみ込んでるおまえの匂い、他の女とは区別がつくさ」 ~「Sweet Soul Music」
当時、こんなにファンキーで素敵なナンバーを、あんなにもソウルフルに歌っているシンガーは他にいなかった。サム&デイヴや、オーティスの匂いがプンプンする。
「ぼくはタオル、汗をふかれる。冷や汗あぶら汗どろどろの。ぼくはタイル、便所のスリッパとなかよしこよしのお友達。ぼくはスルメ、浜に吊るされて、カラカラに干されて、あきらめても干されて、でもまだ干されてる」 ~「ぼくはタオル」
なんだこの詞は?と思ったけど・・・、清志郎らしい比喩法だ。

「オンエアーしてください。見たいのはロックショー。Yeahミスター・テレビ局のプロデューサー。ぼくは
毎日ほんとに孤独なんだ。友達はテレビだけ」 ~「ミスター・TVプロデューサー」

「いい事ばかりはありゃしない、昨日は白バイにつかまった」 ~「いい事ばかりはありゃしない」

「どっかの山師が俺が死んでるって言ったってさ、よく言うぜあの野郎、よく言うぜ。あきれて物も言えない」 ~「あきれて物も言えない」

ホリプロで飼い殺しにされていた頃のナンバーだろうか。
「ぼくはタオル」は、ホされていることへの怨みつらみが、「いい事ばかりはありゃしない」は、やることなすことうまくいかないことへの愚痴が、「あきれて物も言えない」は、自分を過小評価した奴への苦言がこめられている。
 ちなみに「あきれて物も言えない」の「どっかの山師」とは、泉谷しげるのこと。
 泉谷はもともと渋谷のライブハウス「青い森」にRCを観に来るファン(客)だった。泉谷の客を客とも思わない態度の芸風は、RCに感化されたところからきていると、泉谷もコメントしている。
 客だった泉谷は、いつの間にか「青い森」の《ゲテモノ大会》で歌い出し、レコード『泉谷しげる登場』もリリース。「春夏秋冬」のヒットもあり、その後フォーライフの一角を担うなど、順調に売れていった。
その泉谷がどん底にあったRCを見て、「清志郎はもう終わりだ」と云ったことに腹を立てて、この歌は作られた。もともとは「どっかの山師」ではなく「びっこの山師」と歌われていた。
そして説明不要の名曲「トランジスタ・ラジオ」

Woo 授業をサボって
日の当たる場所にいたんだよ
寝ころんでたのさ 屋上で
たばこの煙とても青くて
内ポケットにいつも トランジスタ・ラジオ
彼女 教科書広げてるとき
ホットなナンバー空にとけてった
Ah こんな気持ちうまくいえたことがない   ないあいあい

 のどかな高校生活。どこにでもいそうな落ちこぼれ。ロックン・ロールが大好きで。
自分の高校生活がだぶる。違うところは、僕は男子校だったから彼女が学校にいなかったことだけ。
曲は相当つまらないんだけど、あんなこっ恥ずかしい詞を臆面も無く歌えるところにシビレタ。

 いま、僕はちょっと大人になって「俺は○○(某ミュージシャン)と一緒につるんでた不良だった」という手合いと出くわすことがたまにある。「不良って云っても、俺ぁ根っからのワルだったけど、アイツはそれ程でもなかった」「大体音楽をやってるヤツがいくら「昔ワルだった」って云ったって、たかがしれてるんだよ」と、やっかみ半分か、ちょっと見下したような、有名になったそのミュージシャンをハンパ者扱いする。
 でも、僕は違うと思う。
 音楽をやってたからナマっちょろいんじゃなくて、音楽に目覚めたから、いつまでもワルぶったくだらない人生を歩まずに済んだんじゃないか…と。
 ギターは家にこもって一生懸命練習しなくちゃ上達しない。不良だろうが、ガリ勉だろうが、みんな毎日「運指練習」をして上手くなったことに変わりはない。それができないヤツは、何をやったって続かない。ハンパ者はどっちだ。・・・だったら、ロックに夢中になった不良って、いいよな。
清志郎はどんなに売れてなくてもアルバイトはしなかったらしい。バンドマンはアルバイトなんてしちゃいけないんだそうだ。売れなかったら女に食わしてもらえばいい、という考え。ある意味ピュアだったりする。そんなピュアな清志郎の「トランジスタ・ラジオ」である。
この歌は、授業をサボって煙草を吸ってたことを云いたいんじゃない。

君の知らないメロディ
聴いたことのないヒット曲

君の知らないメロディ
聴いたことのないヒット曲…
 
ベイ・エリアやリバプールから届いたこんなイイ音楽を、な~んで君はわかってくんないかなぁ… 
教科書を広げてる彼女との気持ちのずれ。
青春って、確かにそんなどうでもいいようなかなしさがある。

RCが好きになった頃、どうも彼女と別れた気がする。

2004年12月9日
花形
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by yyra87gata | 2012-12-12 18:55 | 音楽コラム | Comments(1)