音楽雑文集


by yyra87gata

カテゴリ:音楽コラム( 108 )

  
d0286848_20305025.jpg
 アナログ盤からCDへ、そして音楽配信、i-PODなど・・・。ソフトもハードの進化によりどんどん形を変えていくので、たった30年前の「シングル志向からアルバム志向への変遷」などといった音楽文化はもう風化した思い出となり、時代は高速で変化してしまう。例えば、46分10曲のアナログ盤が技術の進化で74分ぎりぎりまで収録するCDへと替わったことは、作り手も聞き手も音楽への接し方が変化したに違いない。僕はアナログ盤愛好家なので、音楽を集中して聴くことが出来る時間が46分で切れてしまう。体内時計がそうなってしまったのだ。だから現在制作されているCDをまるまる1枚、一気に聞くことができない。途中で飽きてしまうのだ。それに加えて「日本盤にのみボーナストラック付」なんて宣伝文句があったとしても全然ありがたくなく、アルバムとして曲を聴くという行為から離れてしまうことになる。ボーナスはあくまでもおまけなのだ。作り手だってアルバム制作時にボーナストラックを考えているのだろうか・・・。販売サイドの思惑がプンプン臭うので、ピュアな作り手の気持ちが曲がって伝わるのでないか、とも考えてしまう。作り手がボーナストラック前提で制作しているのであれば、アホらしいモンキービジネスだ。だから、良い音楽が必ず売れるというわけではなく、セールスプロモーション次第でいかようにも評価がくだされることについて、聞き手は真剣に考える必要があるのではないか。とにかく、僕の中で“アルバム”が“アルバム”として成立しなくなってきているのだ。

 例えばアナログ盤のA面からB面にひっくり返すあの瞬間もアルバムを楽しむ空間だと思う。早くB面が聴きたい時や今日はA面だけでいいやと思う時などその時の自分の「気持ち」が反映される。が、CDだとこうはいかない。ダーッと1曲目からエンディングまで走りきってしまう。山や谷はあるだろうが、ブツ切れのイメージというか、個々が独立しているというか・・・。だらだらと惰性で聴いてしまい、集中力が途切れるのは僕だけだろうか。せっかくの音楽が、BGMと化してしまうのだ。
そんなことだから、最近の音楽を聴いているとコンセプトアルバムが少なくなってきているような気がする。コンセプトアルバムとは、1曲目から最後の曲までしっかり聴かないと作り手の意図が伝わらない、というアルバムだ。物語を音楽で聴くようなアルバム。それが最近は、制作できなくなってきているのではないか。考えてもみて欲しい。映画でもないのに、約80分(CD)も音楽のみをじっと聴き続けるなんて、相当な集中力が必要だ。
作り手もアルバム制作にしっかり意味を持たせ、聞き手が聞きやすい時間で作ってほしいものだ。ただダラダラと出来上がった曲を収録するのはいかがなものか・・・。
   
 ビートルズ『SGT・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』(1967)、サディスティック・ミカ・バンド『黒船』(1974)、クィーン『オペラ座の夜』(1975)、デビッド・ボウイ『ジギー・スターダスト』(1972)・・・。
音楽に引き込まれ、時を忘れるという瞬間がある。コンセプトアルバムはそれを体験させてくれる。ベスト盤でもライヴ盤でもない1つの物語を読むような感覚で音楽を聴く。現在の15曲入りのCDではそれは困難だろう。74分じゃ大河ドラマだよ。最近、コンセプトアルバムってあるんだろうか。

2005年1月14日(金)
花形
[PR]
by yyra87gata | 2012-12-12 20:32 | 音楽コラム | Comments(0)
 高校3年の1年間は今までで一番音楽を聴いた年かもしれない。昼飯を抜いた金で中古レコードを買い漁り、FMでエアチェックしたカセットテープをいつも繰り返し聴いていた。この頃に聞いた音楽はいまだに自分の重要な位置を占めており、そこが自分の音楽の基準となっていることも否めない。要は学校も自由登校になり日々の勉強への締め付けも減り(みんな受験勉強というやつをしている)、僕のような宙ぶらりんの生徒にしてみると非常に時間が自由に使えたのだ。
 高校を卒業し、長い長い春休みが始まった。もっと時間が自由に使えるようになった。僕の友達はほとんど代々木や駿河台に勉強の場を変えていた。僕も流れに任せて代々木に通うようになった。でもそれも2ヶ月もすると足は代々木ではなく、御茶ノ水の方に向くことが多くなった。駿台予備校に友達が行っており、「代ゼミよりレベルが高くて良い授業をしているよ」と言ってきた。勉強には相変わらず興味が無く、代ゼミにしてもみんなが行くから付き合いで行っていたくらいだったので、そんなに言うなら違いをみてみるべぇということで参戦してみた。確かにレベルは高く、追いつけないほどのスピードであり、きびしい環境に落としこむにはもってこいの予備校という印象であった。予備校の授業が終わると、頭を休めるために決まって楽器屋に直行していた。お茶の水は楽器屋天国なのである。明治大学の学食で安いランチを食べた後、御茶ノ水の坂の上から靖国通りまで坂を下る。その間に約15件の楽器屋があった。エレキからアコギから専門書から・・・楽しい世界が待っていた。つまり、駿台予備校なんて最初の1週間で行かなくなり、楽器屋三昧だったのだ。
そんな時期に、アコースティックギターの専門店で超有名な「カワセ楽器」という店に通っていたことがある。アコースティックギター販売の老舗で、プロも御用達の店である。僕も石川鷹彦や加藤和彦を見かけたことがある。試奏している人もちょっと近寄りがたい雰囲気の人が多い。うーん、プロっぽい。そんな店なので、最初に入ったときは緊張したものだ。普通の楽器屋なのにオーラが出ている気がした。ガラス張りのショーケースにはヴィンテージもののマーチンD45やD28、ギブソンJ45が並んでいる。試奏なんてしようものなら、買わなければいけない雰囲気さえ漂っていた(これは今でも・・・)。
 カワセ楽器でよく耳にした音楽がある。クロスビー、スティルス&ナッシュである(CS&Nと表記)。マーチンの鈴なりのサウンドが耳につく。アコースティックギターのアンサンブルのお手本のようなバンドであり、コーラスも特徴があり絶妙であった。その音は、目の前に飾ってあるこのギターでないと出ない音なんだろう、なんて思いながら曲を聴いていた。
 
 僕が18歳のとき、世の中は80年ポップスの全盛期にさしかかっていた。でも、僕は1969年発表の
「クロスビー、スティルス&ナッシュ」でアコースティックサウンドに開眼していた。80年代の分厚い音と、打ち込みの応酬に辟易していたときに聞く空間のあるアコースティックサウンドは衝撃だった。僕はそれまで自分の中でアコースティックサウンドは、拓郎やボブディランの弾き語りでしかなかった。当時のアコースティックサウンドのとらわれ方は、「四畳半フォークと呼ばれるしみったれた音楽=フォーク」のような位置づけで、決して「流行の音」ではなかった。アンプラグドなんて言葉は存在すらしていない。
CS&Nはそんな僕に衝撃を与えた。
 変則チューニングもこの時初めて知った。そして、ガロはCS&Nのコピーだったことも初めて知った。
CS&Nの素晴らしさは今さら強調するまでもないが、面白いのは彼らの歌声は決してぴったりとマッチしておらず、各人が勝手に歌っているだけなのにもかかわらず、なぜか全体としてのまとまりを感じさせるという点にある。特に「Helplessly Hoping」では各人の声の定位が違うことによって、そのことをはっきりと聴き取ることができる。各人がお互いの個性を尊重しながら、かつグループとしての一体感を感じさせるというこの手法は、“束縛”も“孤独”もない理想の人間関係を作り上げようとする試みなのだろう。 

 僕は3人の中でスティーブン・スティルスが一番好きだ。バッファロースプリングフィールドの時代からリーダー的な役割を担い、アル・クーパーやマイク・ブルームフィールドと共に発表した『スーパーセッション』(1969)など、数多い名演奏を残したとても有名な人だ。

 
d0286848_20264948.jpg
 彼の音楽性は、もって生まれた才能というよりは「学習」によって培われた部分が大きく、そうした秀才的な音楽が人の心に響く為には、同時代性のような他の要素がなければなかなか厳しいのではないだろうか。はっきり言って彼のヴォーカルというのもあまりうまいわけではなく、伸びのない荒々しい声は時として耳障りだったりすることもある。しかし、往年の傑作ではその声がとても心地よく響いてしまうのだから、音楽というのは不思議なものである。
 また、スティルスのすごいところは、ってウッドストックの時に45万人の前でアコギ1本だけで変則チューニングの「青い瞳のジュディ:組曲」を歌いきったところだ。CS&Nのステージであったが、あれはスティルスの一人舞台といっても良い。デビッド・クロスビー、グラハム・ナッシュがコーラスを決めているが、スティルスは鬼気迫る演奏とメインボーカルを披露している。ウッドストックの映画は何度も繰り返し観たものだが、CS&Nのシーンは瞬きもしないで観ていた。暗い画面だが、ボーッと浮き上がるような3人の映像。スティルスがシャウトするとき、八重歯がはっきり映り子供のような顔になる、そんな細かいところまで憶えてしまった。
CS&Nは1969年に結成されてから、旧友ニール・ヤングも加わったCSN&Yも含め、数々のアルバムを不定期に発表している。時には、クロスビー&ナッシュになってみたり、スティルスとヤングが組んでみたりと、変幻自在の動きを見せている。でも、アルバム的に見れば1969年、1975年、1982年・・・とアルバムを発表しているが、年を経るにつれアコースティック色が薄らぎ、コーラスアンサンブルが上手なグループという印象だけになった。ちょっと残念という印象。僕はアコースティックギターグループでCS&Nほどソウルフルなヴォーカルと絶妙なコーラスアンサンブルは聴いたことが無い。同じアコースティックギターバンドでも「PPM」や「アメリカ」の演奏する曲とは一線を画している。アコースティックギターで十分ロックができるバンドである。原点回帰を望むところだ。
 
 最近、カワセ楽器でマーチンD45を弾いたとき、くしくもBGMはあの時のCS&Nだった。僕が弾いていたギターの音色はBGMと同じ。他でギターを試奏していた人も自然とCS&Nを爪弾き始めた。
目が合ってしまい、お互い照れくさく笑った。



2004年12月25日
花形
[PR]
by yyra87gata | 2012-12-12 20:27 | 音楽コラム | Comments(0)

外タレ初体験?

 80年代は音楽と映像がリンクし始めた年代である。アーチストもレコード会社もMTVと呼ばれるプロモーション・ビデオに力を入れ、セールスを伸ばす戦略がとられ始めた。ビジュアルに訴えたことで得をした人、損をした人、ひきこもごもである。

 MTVが出てくるまでは、音楽の映像は映画でしか見ることができなかった。
「レッド・ツェッペリン/狂熱のライブ」「ウッドストック/愛と平和の3日間」「ヤァヤァヤァ!ビートルズがやってくる」「HELP!4人はアイドル」「レット・イット・ビー」「トミー」「真夏の夜のジャズ」「バングラディッシュ救済コンサート」 「ラストワルツ」「ポールマッカートニー&ウィングス/ロックショー」くらいが1980年までの主な音楽映画である。上記の作品を組み合わせ、名画座で1年に1回は特集が組まれていた。それをありがたがって毎回観に行くのである。
 クラプトンやジミヘンが動いていることに感動し、ジミーペイジのギターを構える姿にシビレ、ポジションを確認した。忘れないように急いで家に帰って、ギターのストラップを長くしたものである。映画館から家までの間、目に、頭の石に映像を刻んでおかなければならなかった。
 《ベストヒットUSA》が1980年頃から始まり、音楽の映像がグッと身近になった。しかし、そこに出てくる映像はあくまでもプロモーション・ビデオなわけで、どうしようもない音楽をくちパクで合わせるC調な歌が目立っていたように思う。要はただ単に、80年代ポップスが好きじゃないだけなんだけど・・・。
作り手は歌だけに集中していればよかった70年代と比べ、ビジュアルという仕事が増えてしまった。ビジュアルに向いてないアーチストもいるわけで、そんな人たちは苦痛な時代になったんだろうなぁ。

 僕はセールスプロモーションのビデオが嫌いだ。曲の解釈を撮影側の押し付けでイメージさせられることが嫌だからだ。よく映画より本で読んだほうが良かった、という場面に出くわすが、まさにあれと一緒である。音を聞きイメージを膨らませる。このギターは誰だろう?このリズムの刻み方はきっとあの人だろう、などと予想を立てながら聞く楽しみもあった。
映像の話に戻そう。・・・MTVが流行る前は音楽の映像はほとんどがライブだったように思う。
《ベストヒットUSA》の中にも「タイムマシーン」というコーナーがあり、ロックのクラッシックな映像を流していた。その映像はまさにライブであった。まがい物ではない、純粋な音楽という感覚で見ることができた。

 ビデオデッキが家庭に普及される前の時代、音楽を見ることは、イコール、ライブ演奏を見るか、前述の映画くらいしかなかった。そんな時、あるスポットが各地に出現した。
「ビデオ上映会」
ビデオを鑑賞するためのスペースが渋谷や新宿を中心に竹の子のように出現した。よく大手楽器店の店頭スペースでもビデオは上映されていたが、それはセールスプロモーション用のヒット曲のオンパレードであり、「ビデオ上映会」のマニアックなラインアップとは一線を画していた。僕の心は躍った。海外からの直輸入ビデオがほとんどなので英語、フランス語、スペイン語の字幕が出てくる。
クィーンのデビュー当時のスペイン公演の映像は、字幕がスペイン語だった。日本でイギリスのバンドをスペイン語字幕で見る。変な気分。
当時の僕達は、海外のアーチストは、レコードでしか聞いたことが無いため、動いているところを観たときは、素直に感動したものだ。ああやって弾いていたのか・・・とため息がもれる。
エリック・クラプトンとジェフ・ベックのギターバトル(シークレット・ポリスマンズコンサート)、ボブ・マーリーの地鳴りがするほどのライブ、ジョン・レノンのライブ(ワン・トゥ・ワン)、ボブ・ディランのローリングサンダーレビュー、ジャクソン・ブラウンのノーニュークスコンサート、キッスのデトロイト公演'78・・・
2本~3本観て800円くらいだった。

 学校の帰りによく見に行き、帰りの道玄坂のロック喫茶「BYG」でタバコをくゆらせることが当時の日常だった。
「上映会」は1本いくら、という換算で料金が決まっていたため、組み合わせにより見たくも無い作品を見せられる映画館とは違い、お得感があった。

 d0286848_2093463.jpg 1984年くらいからビデオデッキが急速に家庭に普及し始めた。その瞬間から「ビデオ上映会」が街から消えていった。ミュージックビデオの普及やレーザーディスクの開発など、ソフト面での充実とハード面でのデジタル化が音楽を変えていった。そして僕達の生活も変わっていった。
気軽に海の向こうのアーチストを見ることができる。そこには、苦労もなく当たり前の日常があり、片手間にディランやスティービー・ワンダーが拝める。便利になった分、真剣に見なくなったのも事実。昔は映像に飢えていた。所定の場所に行き、しかるべきものを支払い、食い入るように見ていたあの時代。人間は満たされてしまうと、駆り立てるものがなくなると、とたんにヤワになってしまう。

「ビデオ上映会」は僕の外タレの原点かもしれない。

2004年12月17日
花形
[PR]
by yyra87gata | 2012-12-12 20:09 | 音楽コラム | Comments(0)

高中正義という作曲家

  d0286848_19595315.jpg 



1976年くらいからクロスオーバーという新しい音楽ジャンルが生まれ、後にフュージョンという名前に変わっていく。海の向こうでは、スタジオミュージシャンやジャズミュージシャンがシンガーのバックではなく、自分の音を主張し始めていた。スタジオやジャズクラブでプレイしていたリー・リトナー、ラリー・カールトンといったプレイヤーはこぞってリーダーアルバムを発表。また、ジェフ・ポーカロやスティーブ・ルカサーといったLAのスタジオミュージシャンはボズ・スキャッグスのバックバンドを経て、TOTOを結成した。空前のスタジオミュージシャンブームが起きる。日本でもショーグンやパラシュートなど裏方がクローズアップされてきた。
スタジオミュージシャンになりたくてなっている人はそんなにいないという。少なからずも人前で演奏したことがあり、何らかの事情でスタジオの仕事をしている人がほとんどだ。人前に立ち、リーダーアルバムを出すことができるなら、みんなそうしたいだろう。なにせギャラが違う。注目度も違う。
 日本のスタジオミュージシャンの火付け役は、キャラメルママ組(林立夫、鈴木茂、細野晴臣、松任谷正隆、坂本龍一、)と関西組(村上秀一、大村憲司、佐藤博、田中章弘)に大別される。シティポップなキャラメルママとジャージーな関西組はその当時の日本のポップスを席巻した。
それまでのフォークブームが終わると、新しく出てきたミュージシャンがニューミュージックというブームに乗ってTVにどんどん出演していた。「テレビに出ない」は70年代初頭のフォークシンガーのことで、70年後期のニューミュージックはいかにテレビと共存していくか、に賭けられたと思う。そんな中にフォークでもニューミュージックでもない男がテレビで脚光を浴びた。それまでシンガーのバックで弾いていた男が表舞台に躍り出た。こんな出方をしたミュージシャンはあとにも先にもこの男しかいない。

 パイオニアのステレオのCMから流れる音は、時代を代表する音だった。ちょび髭を生やし、目は針のように細く、アロハシャツ。一見、韓国人ぽい風貌(実は父親が中国人なので大陸的な顔なのだ)。決してルックスが良いとは思えないが、ギターを弾く姿はギター少年の憧れであった。高中正義。スタジオの仕事をこなしながら、フライドエッグ(ベース担当)、サディスティック・ミカ・バンド、サディスティックスを経てソロになった。1978年から1979年にかけて、フュージョンブームに王手をかけたアルバム『ジョリージャイブ』(1979)はテレビCM効果もあり、大ヒットした。1曲目に収録された「ブルーラグーン」は本人登場のパイオニアステレオのCMソングであり、当時の楽器屋に行けば必ず聴けるフレーズであった。

 高中は品川の生まれで下町の中でも小学校から私立(小野学園)に通うボンボンである。60年代後半のエレキブームのときにすでにエレキギターを持っていたことからもこのことが証明できる。ビートルズの映画を見て「これだ!」と音楽に開眼し、ベンチャーズのノーキーエドワーズにエレキの洗礼を受ける、当時の典型的な音楽少年である。18歳の時、アマチュアバンドでギターを弾いているところを成毛滋とつのだひろに声をかけられ、フライドエッグを結成。成毛は当時飛ぶ鳥を落とす勢いのギタリストであり、高中はベーシストとしてプロの第一歩を歩んだ。同時期にスタジオミュージシャンとして数多くのフォークアルバムに名を連ね、特に井上陽水のアルバムではギターとベース両方で参加している。そのスタジオワークに目をつけたのが、またもや、つのだひろ。新しく加藤和彦とサディスティック・ミカ・バンドを結成する時、高中はギタリストとしてラインアップされた。高中の名前が全国区になる第一歩である。
 七色の髪、ど派手なスーツはこの頃からトレードマークだったようだ。余談だが、よしだたくろうの1973年のツアーで全国を廻ったときのことである。地味なフォーク畑のミュージシャンに異端児が紛れ込んだ形になり(とにかくどこでも目立つ)、夜の街でも高中はいつもチンピラに絡まれていたらしい。たくろうや柳田ヒロは肩を組み、あさっての方向に逃げて行ったらしい。
 
 高中はギタリストであると同時に、重要な作曲家である。サディスティック・ミカ・バンドの「黒船」、よしだたくろうの「落陽」のフレーズ、井上陽水の「氷の世界」のスタジオワーク・・・ソロになる前にすでに後世にまで残る楽曲に絡んでいる。当時のスタジオはキメのフレーズ以外は各ミュージシャンに頼るところが大きく、作曲能力も求められていたようだ。
 高中のギターテクニックは、目を見張るほど達者というわけではない。サンタナに影響されたお決まりのフレーズもあるし、早弾きをすればアルビン・リー(テン・イヤーズ・アフター)のごとく弦をかきむしる。突拍子もないフレーズや超高速早弾きを好む「浅はかなアマチュアギタリスト達」や「ルックス重視の女性」からは過小評価されている感もある。
しかし、ここで思い出さなければならない。どんなにがんばってもスタジオミュージシャンはスタジオミュージシャンでしかないわけだが、高中は類まれなる感性と作曲能力で浮上したギタリストなのだ。彼よりテクニックがあるギタリストはごまんといるだろうが、そのギタリストのフレーズが高中の作曲したフレーズほど人々の頭に残っているだろうか。
 1年前、「クロスオーバー'03」というイベントがあった。そのイベントにはカシオペアやT-スクエア、パラシュートなど日本のそうそうたるミュージシャンが結集した。高中正義はトリをつとめた。約1時間のステージだったが、イベントということもあり代表曲ばかりを演奏した。圧巻はほとんどの客がみんな彼のフレーズを口ずさんでいたということである。ギターのフレーズをみんなで口ずさむなんて、何て素敵なんだろうと思った。

 ジャズミュージシャンには、わざとフレーズを難解にして、自分を誇示する輩がいる。高中と同様にテレビCMに出演しても、高中ほど商業的成功を収めなかった渡辺香津美がその人だろう。テクニック重視で、メロディーラインが難解になってしまう。しかし高中は臆面も無くわかりやすく、憶えやすいメロディーを作る。そこが彼の魅力だと思う。高中の視点は別世界にあるのだろう。歌もののバックから始まっているためか、詞を活かすフレージングを作ってきたせいか、親しみやすさが感じられる。加藤和彦、吉田拓郎、井上陽水、矢沢永吉、中森明菜、松任谷由実・・・彼がバックを務めた一握りのアーチスト達である。歌心がわからないと良いフレーズなんて出てきやしない。
作曲家として高中正義を最初から聞きなおしてみると結構驚くよ。

2004年12月16日
花形

[PR]
by yyra87gata | 2012-12-12 20:01 | 音楽コラム | Comments(9)
 渋谷・道玄坂を登ったところに、ヤマハ渋谷本店がある。僕は高校の3年間、土日の大半をこの楽器屋で過ごしていた。今ではなくなってしまったが、店頭LIVEなる催し物があり、只でライブを見ることができた。もちろん、アマチュアバンドばかりだが、少なくても自分より上手な人たちばかりだったので、飽きることは無かった。ビートルズ風の人、クロスオーバーと呼ばれるインストの人、NSPみたいなフォークグループなど、多彩な音楽が土曜の昼下がりを包んでくれた。あと2年早ければ、山下達郎率いるシュガーベイブや、チャーのスモーキーメディスンなんてバンドを見ることができたそうだ。

 その日も本店に彼女を連れ立って、あても無くライブを見に行った。東急本店の方向から道玄坂に向かおうとしていた時、あるライブハウスの前に、いつもとは違う人だかりができていた。屋根裏というライブハウス。ちょっと異様な雰囲気。みんな目が血走っていた。中には「入れろー!」って叫んでいるやつもいる。隣で彼女の顔が曇る。僕はなんだかわくわくしている。
貼り紙には「当日券・売り切れ!」とある。「誰?」
RCサクセション(ゲスト春日博文・OZ)、とだけ乱暴な字で書かれていた。

d0286848_18555978.jpg
 そのあと、渋谷ヤマハ本店で何を見たのか全然憶えていない。RCが気になってしょうがなかったから。
まだ隔週発行だった「ぴあ」や「あんぐる」を読み漁り、RCの名前を探しまくった。屋根裏3日間連続公演は終わったばかりだった。
 RCがエレキバンドになっているということは、「新譜ジャーナル」で知っていたが、まさかあんな騒ぎになっているとは思わなかった。屋根裏なんてあんな天井の低いライブハウスが3日間満杯なんて信じられなかった。いてもたってもいられずに、プレイガイドにコネを持つ(プレイガイドに彼女がバイトしているだけだ)W君に頼んで、次のRCのライブを見に行くことにした。彼女とではなく、W君と一緒に行った。
 今は無き、久保講堂である。大変なライブだった。それまで見てきたライブのどのライブよりも音が大きかった。ハードロックのでかい音は倍音になり、結構大きな音でも慣れてくると気持ちよくなってくるものなんだけど、この日のRCの音は、生音がでかいというか、生身の音というか・・・。気に障る位とんがっていた。「僕の好きな先生」はそこには無かった。そして、この模様は『RHAPSODY』というアルバムになった。


 RCは不思議なバンドだ。清志郎は今でもたまにTVに出てくるけど、一貫して自然体である。人付き合いが下手で、平気で人を傷つける言葉を吐くんだけど、すごくナイーブで小心者。だから、ステージで大爆発しちゃう。RCは、そんな清志郎の周りに同じような輩が集まってできたようなバンドだ。
 TVKの「ヤングインパルス」「ファイティング80」という番組にもよく出ていたが(確かコーナーを持っていたんじゃないかな)、あまり話さないんだよ。司会の宇崎竜堂は、サングラスの奥でいつも目を白黒させていた。
RCは、とにかく売れなかったんだ。最初のシングルがちょっと話題になっただけで、あとは陽水の前座とか、矢沢永吉の前座だった。そこでいつでも毒づいているから、客からは総スカンを喰らっていた。喜んでいたのは泉谷しげるだけだったらしい。
 でもRCは紆余曲折しながら人員整理を行い、古井戸からチャボを引き入れ、再生した。音楽性が変わったように思われるかもしれないが、フォークギターがエレキギターになっただけで、RCは昔から、ロックだったんだ。時代が追いついたなんていったら、格好つけすぎ?
 シングル「雨あがりの夜空に」(1980)が当たり、ライブ会場はどんどん大きくなっていった。当時、野外イベントの目玉はいつもRCで、必ずトリのバンドを喰っていた。「ジャムジャム80」では、トリのアリスの頃には客なんて残っていなかったもん。RCサクセションは、長い暗黒時代から脱出した。
 
 うなぎ昇りの人気の中、アルバム『PLEASE』(1980)をリリース。『PLEASE』は、がっかりするくらい音の細いアルバムだ。いや、それまでのフォーク・スタイルだった頃のRCも「ライブは鬼気迫るのに、レコードになるとつまらないバンド」などと云われていた。カッティングの技術の問題からか、RCのサウンドはレコードになると音痩せして、その迫力が充分に伝わらないところがあった。しかし、『PLEASE』は、その音の物足りなさを差し引いても、珠玉のアルバムだ。仕事が無い時代に書きためていた曲が山のようにあり、煮詰まることはなかったと云う。

「別れたりはしない、嘘をついたりしない。上等の果実酒、暖かいストーブ、この部屋の中。
ダーリン、ミシンを踏んでいる」 ~「ダーリンミシン」

「モーニングコールをよろしく。たのむよ明日の朝、モーニングコールをよろしく。
本物の君のキスで目を覚ませる朝が来るまで、電話で我慢するさ」 
~「モーニングコールをよろしく」

「歌うのはいつもつまらないラヴソング、おいらが歌うのは安っぽいラヴソング。
そうさおまえが好きさ。おいらそれしか言えない」 ~「たとえばこんなラヴ・ソング」

 清志郎の書くラブ・ソングは、少しもつまらなくない。詞ヅラだけ見るとちょっと気恥ずかしいのだが、清志郎の歌になると恥ずかしくなくなってしまうところが不思議だ。パンク・メイクになってからのイメージと、あたたかい詞のギャップが、一筋縄ではいかないスゴさを醸し出してもいた。ロックは詞だ。

「あの夜初めて聞いたおまえのナンバー、唇にくっついたままそのまま」
「Sweet Soul Musicあのいかれたナンバー。シートにしみ込んでるおまえの匂い、他の女とは区別がつくさ」 ~「Sweet Soul Music」
当時、こんなにファンキーで素敵なナンバーを、あんなにもソウルフルに歌っているシンガーは他にいなかった。サム&デイヴや、オーティスの匂いがプンプンする。
「ぼくはタオル、汗をふかれる。冷や汗あぶら汗どろどろの。ぼくはタイル、便所のスリッパとなかよしこよしのお友達。ぼくはスルメ、浜に吊るされて、カラカラに干されて、あきらめても干されて、でもまだ干されてる」 ~「ぼくはタオル」
なんだこの詞は?と思ったけど・・・、清志郎らしい比喩法だ。

「オンエアーしてください。見たいのはロックショー。Yeahミスター・テレビ局のプロデューサー。ぼくは
毎日ほんとに孤独なんだ。友達はテレビだけ」 ~「ミスター・TVプロデューサー」

「いい事ばかりはありゃしない、昨日は白バイにつかまった」 ~「いい事ばかりはありゃしない」

「どっかの山師が俺が死んでるって言ったってさ、よく言うぜあの野郎、よく言うぜ。あきれて物も言えない」 ~「あきれて物も言えない」

ホリプロで飼い殺しにされていた頃のナンバーだろうか。
「ぼくはタオル」は、ホされていることへの怨みつらみが、「いい事ばかりはありゃしない」は、やることなすことうまくいかないことへの愚痴が、「あきれて物も言えない」は、自分を過小評価した奴への苦言がこめられている。
 ちなみに「あきれて物も言えない」の「どっかの山師」とは、泉谷しげるのこと。
 泉谷はもともと渋谷のライブハウス「青い森」にRCを観に来るファン(客)だった。泉谷の客を客とも思わない態度の芸風は、RCに感化されたところからきていると、泉谷もコメントしている。
 客だった泉谷は、いつの間にか「青い森」の《ゲテモノ大会》で歌い出し、レコード『泉谷しげる登場』もリリース。「春夏秋冬」のヒットもあり、その後フォーライフの一角を担うなど、順調に売れていった。
その泉谷がどん底にあったRCを見て、「清志郎はもう終わりだ」と云ったことに腹を立てて、この歌は作られた。もともとは「どっかの山師」ではなく「びっこの山師」と歌われていた。
そして説明不要の名曲「トランジスタ・ラジオ」

Woo 授業をサボって
日の当たる場所にいたんだよ
寝ころんでたのさ 屋上で
たばこの煙とても青くて
内ポケットにいつも トランジスタ・ラジオ
彼女 教科書広げてるとき
ホットなナンバー空にとけてった
Ah こんな気持ちうまくいえたことがない   ないあいあい

 のどかな高校生活。どこにでもいそうな落ちこぼれ。ロックン・ロールが大好きで。
自分の高校生活がだぶる。違うところは、僕は男子校だったから彼女が学校にいなかったことだけ。
曲は相当つまらないんだけど、あんなこっ恥ずかしい詞を臆面も無く歌えるところにシビレタ。

 いま、僕はちょっと大人になって「俺は○○(某ミュージシャン)と一緒につるんでた不良だった」という手合いと出くわすことがたまにある。「不良って云っても、俺ぁ根っからのワルだったけど、アイツはそれ程でもなかった」「大体音楽をやってるヤツがいくら「昔ワルだった」って云ったって、たかがしれてるんだよ」と、やっかみ半分か、ちょっと見下したような、有名になったそのミュージシャンをハンパ者扱いする。
 でも、僕は違うと思う。
 音楽をやってたからナマっちょろいんじゃなくて、音楽に目覚めたから、いつまでもワルぶったくだらない人生を歩まずに済んだんじゃないか…と。
 ギターは家にこもって一生懸命練習しなくちゃ上達しない。不良だろうが、ガリ勉だろうが、みんな毎日「運指練習」をして上手くなったことに変わりはない。それができないヤツは、何をやったって続かない。ハンパ者はどっちだ。・・・だったら、ロックに夢中になった不良って、いいよな。
清志郎はどんなに売れてなくてもアルバイトはしなかったらしい。バンドマンはアルバイトなんてしちゃいけないんだそうだ。売れなかったら女に食わしてもらえばいい、という考え。ある意味ピュアだったりする。そんなピュアな清志郎の「トランジスタ・ラジオ」である。
この歌は、授業をサボって煙草を吸ってたことを云いたいんじゃない。

君の知らないメロディ
聴いたことのないヒット曲

君の知らないメロディ
聴いたことのないヒット曲…
 
ベイ・エリアやリバプールから届いたこんなイイ音楽を、な~んで君はわかってくんないかなぁ… 
教科書を広げてる彼女との気持ちのずれ。
青春って、確かにそんなどうでもいいようなかなしさがある。

RCが好きになった頃、どうも彼女と別れた気がする。

2004年12月9日
花形
[PR]
by yyra87gata | 2012-12-12 18:55 | 音楽コラム | Comments(1)

原田真二っていいよね。

 僕が中学2年生の2学期。原田真二は9月10月11月と3ヶ月連続でシングルを発表した。鮮烈なデビューだった。ファースト・アルバム『フィール・ハッピー』(1978)は拓郎がプロデュースしており、そのことからもフォーライフレコードの力の入れようも半端じゃなかった。但し、原田真二の風貌はアルバムのジャケ写も含めて、男の自分が「原田真二ってイイよな」なんて、とても云える雰囲気じゃなかったくらいベビーフェイスだった。
 
d0286848_18522963.jpg
 当時のフォーライフは拓郎も『ローリング30』(1978)を発表したことぐらいしか良い話題が無く、泉谷は脱退するし、陽水は大麻でパクられるしと、いいことがまったく無かった。そこへ救世主「原田真二」の登場である。
広島生まれの高校生が、フォーライフのカセットオーディションに合格し、デビューのきっかけを掴んだ。カセットを聞いた拓郎は、ぶっとんで、「俺がプロデュースする!」と云ったとか・・・。デビュー前から音楽性については折り紙つきだったのだ。また、青山学院に入学も決まり、育ちの良さが際立っていた。チャーなんて高校でてるかどうかわかんないし、ツイストは大阪芸大の兄ちゃんだからね。

でも西城秀樹や郷ひろみと同じ様に女の子にきゃーきゃー騒がれていた分、正当な評価はされてなかったんじゃないだろうか。その前年、チャーが『気絶するほど悩ましい』を出して、ロックが歌謡曲(アイドル)に歩み寄って行った感がある時代。森進一のように歌謡曲の方からフォークに近付いて行ったのには抵抗はなかったんだけど、その逆はとても日和った感じがしてイヤだった。桑名正博が変な歌謡曲を歌っていたし、ゴダイゴなんてロックだか歌謡曲だかわかんなかったし・・・。
 で、チャー、世良公則とツイスト、原田真二、サザンオールスターズと、テレビにも出るロック・アーティストが続々と輩出されて、《ザ・ベストテン》や《夜のヒットスタジオ》なんかでもフツーに観るようになって。《紅白歌合戦》にも出てたし、確か《全員集合!》でも観た記憶がある。

 まあそれぞれ個性もあって、そこはそれ、アイドルと一線を画したものはちゃんとあったけど、メロディー・メーカーとしては原田真二がアタマひとつ抜き出ていたように思う。ポール・マッカートニーとかエルトン・ジョン的アプローチが見えた。他のアーティストたちがギターで作曲しているのに対して、原田真二はピアノで作っていたからかもしれない。

 「てぃーんず ぶるーす」の、| DM7 D6 | DM7 D | E6 E | E6 E7 | なんてコード展開は、ギターで作曲する人にはなかなか浮かばないよなぁ。。。って、素直に感心していた。響きもお洒落で。

 『フィール・ハッピー』を聴いてるとね、結構洋楽のパクリも多いんだよ。「キャンディ」を聴いてると「ミッシェル」を思い出す… なんてレベルのものじゃなくて、モロ持って来ちゃったみたいな。でもそれが筒美京平的というか、うまいことやってる。そんなことも含めて、あのアルバムでの松本隆とのコラボレートは、ある種の金字塔的成果が上がってると思う。但し、アレンジャーの青山徹とはガチガチにぶつかってたらしい。同郷ということもあり、拓郎が気を利かせて青山を呼んだらしいけど、歳が近い分この配置は裏目ったらしい。もう一人のギタリストである鈴木茂は大人だからね、問題はおきなかったらしいけど。
 あ、あと、ピアノで演奏しながらも、Tレックスやファンクサウンドみたいなのも好きだったと思うな。そんなエッセンスが原田真二のサウンドの発想には、そこはかとなく詰まっている。メロディと同時にリズムを感じ取ることができるんだよ。
 原田真二のターニングポイントは、どこか・・・。自分の才能と、売り込み方のギャップに悩んだのかな。その後、フォーライフを離れるわけだが、どんどんマニアックな方向に進んでいくし、どんどんオリジナリティが失われていった気もする。「見つめてCarry On」なんて、プリンスの曲そのままでぶったまげた。

 それからの原田真二は、全然パッとしなかった。相変わらず良い歌は作っていたんだけどな。
決して良い歌が売れるわけではないという日本の音楽事情の中で、原田真二は沈んで行った。そのあたり、サザンと対照的。世良公則の消え方とも違うし、職人芸を極めていったチャーとも違う。

 何年か前に東京ドームの前にあるプリズムホールという小さいホールで、原田真二のパフォーマンスを観た。バンドと呼ぶには中途半端な編成で、打ち込みの嵐。彼はまるでマイケル・ジャクソンだった。ムーンウォークだってやっちゃうんだから。でも同じ時間、本家は後ろのドームで本当にムーンウォークをしていたんだ。哀しいね。 
 でも、苦労もしたのか、客のつかみがとっても巧くて。往年のヒット曲もまったく色褪せてないし、初めて聴く歌も、そんなに悪くは無かった。ただ、マイケルから3kmも離れてないところで同じような歌は聴きたくなかったな。

中学生のときに聴いたサウンドは確実に耳に残っている。昔から隠れ原田真二ファンとして言わせて貰えば、最初の頃の原田真二は本当に天才だと思った。これは今でも変わらない。ホントにイイんだって。
 そういう意味では、デビュー時のあの人気は彼に何をもたらしたのかな…。悪いことばかりじゃないとも思うけど。

 
 ちょっと前、松田聖子とどーのこーの書かれてたね。
もう少しきちんと彼の曲や才能が取り沙汰されればいいのに。
だけど、「懐かしのアイドル」的なテレビ番組では見たくないね。



2004年12月7日
花形
[PR]
by yyra87gata | 2012-12-12 18:53 | 音楽コラム | Comments(4)
 クラプトンを好きになる年代がある、って知ってる?
ビートルズは音楽の教科書にも載っているくらいなので、英語を習い始める中学生になると大勢の人が身近になり、好きになる確率が高くなる。有名な曲も多く、歌詞もそんなに難しくないから英語に興味を持たせるために教師も親も推奨するくらいだ。ストーンズはちょっと歌詞もきわどいし、ビートルズじゃ飽き足りないどちらかというと男の子に人気があるバンドで、教師も親も顔をしかめる。ビートルズもストーンズと同じくらい悪いことをしているのにね・・・。「見てくれ」って大事だわ。

 さて、クラプトン。クラプトンを聞き始める時期だけど、僕は圧倒的に大学生から聞き始める人が多いと思う。もちろん中学生から聞き始める早熟な方もいるようだが、それはきっとエレキギターを弾いている一部の人間に過ぎないのではないか。
クラプトンはハンサムだし、ダンディで格好良いが、中学生や高校生が熱狂するようなタイプではない。ちょっと恋愛を経験している、もしくは進行形の人がはまっていくに相応しい枯れたヴォーカルの魅力で、ラブソングを自分に置き換えられる人が対象のような気がする。ギターは抜群に上手いが、女性は特にそんなところ見てもいないし、聞いちゃいない。渋い声で絞り上げるように歌う姿にしびれてしまうのだろう。いやぁでも、顔かな。でも今は少し肉が付いちゃって・・・。
男性は男性で、「クラプトン=趣味の良い音楽=女の子とのデートに欠かせないマストな音楽」というミーハーなアイテムとして使用している感もある。要はロックなんて気にせず、音楽として聴いている男性がデート用のBGMとして用意するっちゅうこと。これがビートルズやストーンズだとあまりにもポピュラーすぎて、女の子にひねりが無いと思われるのでデートミュージックにならんでしょ。そんな見栄っ張りな男性の気持ちが、功を奏して案外売れている要因だったりして。
車の中で「クラプトン聞く?」って聞かれるのと「ストーンズ聞く?」とか「ツェッペリン聞く?」っていう会話は明らかに前者の方がおさまりがいいものね。だから、勘違いファンが増えるんだわ。
1994年のツアーは、ゴリゴリのブルース・ツアーだった。「レイラ」も無ければ、「ワンダフル・トゥナイト」「サンシャイン・ラブ」もないブルースオンリーのツアーだった。クラプトンの一番やりたい音楽だ。
『フロム・ザ・クレイドル』(ゆりかごから・・・)というアルバムは前編ブルースのアルバムで、クラプトンのコアなファンでは、話題になった。そのツアーだった。しかし前年のグラミー賞を「ティアーズ・イン・へブン」で総なめにしているから、日本のにわかファンはヒット曲を期待する。このツアー、やけにカップルが多かったんだよね。みーんな、「レイラ」とか期待して・・・。最初から最後までずーっとブルース。女の子なんてあくびしてたもんな。男の方はみんな女の子の顔色を伺いながら焦ってるし・・・。僕はそれを見ながらゲラゲラ笑ってた。

 僕は高校時代からクラプトンを聞き始めたが、世に言う3大ギタリストの一角という認識で聞き始めた。しかし、最初に聞いたクラプトンは当時発表されたばかりの『バックレス』というアルバムで、レイドバックしたアメリカン・カントリーのようなアルバムだった。「これが3大ギタリスト?」と思ってしまうのも無理はない。3大ギタリストと呼ばれるクラプトンは、ヤードバーズやクリームの時期を指すと知ったのはあとになってからだ。
「ヴォーカルのうまいギタリストだなぁ」と思い、あれから四半世紀経ってしまった。
嫁さんに初めてクラプトンを聞かせたときは、ギターなんて聞いちゃいなかった。「ワンダフル・トゥナイト」の渋いボーカルと写真で見るひげ面の渋いクラプトンで彼女は一発でファンになった。そういえば、嫁さんも大学生から聴き始めているな。
そんなもんなんだよ。
ギタリストとしてのクラプトンという認識よりもボーカリストとしての認識が多くを占め(特に「ティアーズ・イン・ヘブン」以降)、老若男女が武道館を埋め尽くす中、高校生以下は今も昔もいなかった。

 ブルースを追いかけ、十字路で悪魔に魂を売り渡す寸前まで行った男。若くして神と呼ばれ、その重圧と戦い、時には天使の薬が体を蝕んだ男。親友の妻に恋をし、苦しみ、歌を捧げ、果ては自分のものにするが、その蜜月も長くは続かず自分逃避をはじめる男。よわっちい男だ。

 そんなこと考えて聞いてる人なんて、ごくわずかだわな。そんなこと考えて聞き始めたら、逆にセールス落ちるかもしれないし、世の中の購買層はそんなこと考えて聞いてないもんね。
①良いと思ったから聴く②流行っているから聴いておかなくては、と思う③大学生になったんだから今更J-POPじゃないだろう・・・
こんな感じで分かれて、クラプトンのセールスはググーンと上がっていくのだ。

 ちょっと強引な意見だが、あながち間違ってないと思う。
効果測定するなら、他のアーティスト名をクラプトンのところに当てはめてみるといい。一番しっくり来るのがクラプトンなんだよ。

d0286848_1811345.jpg

2004年12月6日
花形
[PR]
by yyra87gata | 2012-12-12 18:01 | 音楽コラム | Comments(0)
  
d0286848_17433216.jpg
振り上げたこぶしを下ろせず、どうしていいかわからない時ってあるよね。ものにあたってみたり、ペットにあたってみたり。馬鹿正直な人ほどこの現象に陥るのだ。でも怒ることができる人はまだましさ。怒ることもせず、逃避してしまう人も世の中には大勢いると思う。しかも、自分を正当化して周りを巻き込んで・・・。この点になってくると、馬鹿なやつはおいつけない。

 ジョンとポールはとても仲良しだった。少なくても1966年のライブをやっていた頃までは。その後、お互いはそれぞれの才能をそれまで以上に開花させていく。「サージェント・ペパー~」を境にがらっと音楽性が変わったことは、何も録音技術の発展だけに起因するものではない。明らかにポールの中で、何かが変わった。アマチュア時代から好きな音楽として良くも悪くもインスパイヤーされていた、R&BやR&Rに加えてもっとオリジナリティなメロディーが開花していった。残りの3人はまだその変化に気づかず、特にジョンは詞の世界の方にディープダイブしていく。
B・エプスタインが死に、4人だけになったビートルズは、糸が切れた凧のように4人がばらばらに行動するようになる。インドにいくやつ、映画に出るやつ、妻子と離別するやつ、そしてより高度な音楽にのめりこむやつ。
舵取りのいない、まとまりの無いバンドはそれでも修正を図ろうとする。何か4人で一緒に行動すれば元通りの関係になるかもしれない、とポールは独り想う。出した答は「映画」。
関係を修復させるために意図したポールだったが、他の3人は「面白そうだ」という物見遊山で集まり、筋書きの無い実験的な映画に、悪ふざけでもしているかのように出演(「マジカル・ミステリー・ツアー」)。ポールの意図は通じず、逆に以前から3人の中に潜んでいた「ポールは仕切り屋」というレッテルを決定付けられてしまう。でも一番の被害者はそんな映画を見せられた観客であることに4人は気づいていない。そこに彼らの奢りがある。
 この頃からレコーディングでも4人が顔を合わせることが少なくなった。2枚組の通称ホワイトアルバムは、通し番号で綴られたシンプルな装丁である。中には4人のメンバーのアップ写真が4枚入っている。見ようによっては遺影に見える。バラバラの写真。一つのフレームにさえ入らないのか。しかし、ポールはこのホワイトアルバムについて、「もう一度真っ白な状態からやり直したかった」と言っている。
転がり始めた石は、坂道の途中で止めることが困難になってきた。ジョンはヨーコと出会う。ジョージはマハリシ・ヨギと出会う。リンゴは映画三昧(奥さんも女優)。そんな中、テレビの企画で生のビートルズを特集する企画が生まれる。ポールはゲットバック・セッションを提案する。なんとわかりやすいタイトルか・・・。4人はそれぞれの思いで集まった。
ジョンはヨーコを引き連れ、ジョージはセッション2日にしてぶちきれ、脱退を口走る。ポールの意図は仇となりかえってくる。5人目のビートルズとしてジョージはビリー・プレストンという第三者を連れてくることで機嫌が直るというへんてこな解決策。
 ポールの中では「ゲット・バック(戻って来い)」と叫び始めたが、セッションが終了する頃は「レット・イット・ビー(なすがまま)」になってしまった。
 ジョンもジョージもこの頃はいつでも辞めたいと思っていた。2人とも新しいパートナーとニューワールドに旅立ちたかった。
 でも解散を言い放ったのは、意外にもポールだった。バンド継続に力を注ぎ、それでも結果が見えないので、自分の手で息の根を止めてしまった。他の3人は怒った。裁判沙汰にもなった。
 こうやってファンに語られたニュースを綴るとポールはビートルズのためにがんばって、他の3人がビートルズから離れていったみたいだね。
そうだとしても、善悪を語りたがる人が世の中にはいて、ジョンを狂わせたヨーコのせいだとか、インドがビートルズを駄目にしたということを真面目に論じている。アホか。

 私は、原因は良くも悪くもポールにあると思う。なぜなら、ポールは3人と比べて、レベルの違う音楽家だったということだ。ポールのその才能にジョンは途中から気づき始めた。明らかに自分とはレベルが違う、と。そして、タイミングが重なっただけ。東洋の魔女との出会いだ。ジョンはポールから逃避していく。   
いつからジョンは平和主義者になったんだろう。いつからLOVE & PEACEなんて叫ぶようになったんだろう。音楽的に行き場を無くし、丁度ベトナム戦争が激化してきたから、これ幸いと運動に走ってしまったのではないかと勘ぐってしまう。
 ポールは昔から仕切り屋だ。そんなポールに嫌気がさしていたところに、ジョンは戦線離脱。ジョージとリンゴも行き場をなくした。
「ゲットバック・セッション」と呼ばれる映画「レット・イット・ビー」を見ても、しゃべっているのはポールばっかり。あとの3人はやる気が見えず、ジョージにいたってはチョーキングを指摘され、険悪なシーンもある。いやいや、解散の責任は誰にも無い。4人が大金を手にし、30歳という大人になっただけかもしれないな。

 振り上げたこぶしを下ろせず、どうしていいかわからない時ってあるよね。バンドにあたってみたり、世の中にあたってみたり。馬鹿正直なポールほどこの現象に陥るのだ。でもポールのように怒ることができる人はまだましさ。怒ることもせず、逃避してしまうジョンみたいな人も世の中には大勢いると思う。しかも、自分を正当化して平和運動を巻き込んで・・・。この点になってくると、ジョージやリンゴはおいつけない。
2004/12/4
花形
[PR]
by yyra87gata | 2012-12-12 17:43 | 音楽コラム | Comments(0)