音楽雑文集


by yyra87gata

カテゴリ:音楽コラム( 108 )

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 1989年の冬。昭和から平成に変わった年、かなり長い期間、私はヨーロッパにいた。
卒業旅行と称し、友人と2人でバックパッカーを実践していたのだ。
イギリス、スペイン、ポルトガル、ソ連という4カ国。とにかく、興味のある国だけを回った。車好きであれば、ドイツやイタリアなどが加わるのだろうが、自動車の会社に就職することも決まっていたから、その選択肢はあえて外した。
 イギリスはビートルズやブリティッシュロックに浸りたかったこと、スペイン、ポルトガルは食事が一番美味しそうだったこと、ソ連は予算の関係上アエロフロート(ソ連の航空会社)を使用したから寄ってみただけ(モスクワ・クレムリン宮殿の周りなどは人がいるんだけど音が一切しない。本当に共産国家という統制下の街で怖かった)。
単純な理由だ。

 さて、ロンドン。音楽漬けになるぞと誓い、ヒースローから地下鉄で中心街に向かう。「Underground」と書かれた地下鉄。駅の壁には2種類のポスターがところ狭しと貼られている。
シンプリーレッドの『ニュー・フレーム』(1989)とエルビス・コステロの『スパイク』(1989)だ。
ピカデリーサーカスでは、その2つのニューアルバムを宣伝するポップや大型ポスターが出迎えてくれた。
ホテルに入り、映りの悪いテレビを点けた。
すると早速コステロがインタビューを受けている画面だ。ニューアルバム『スパイク』の話をしている。ポール・マッカートニーが自身のアルバムでコステロと共演したから、その流れで『スパイク』でも何曲かベースを弾いてくれた、と笑いながら話していた。
 コステロを初めて見たインパクトは、衝撃だった。スタイルはバディ・ホリーがパンクを歌っているのかと思うほど似ていたし、ヴォーカルもミッドレンジがやけに響く声だと思い、ただただ叫ぶだけの破壊的なパンクスでは無いな、なんて思ったものだ。そんなコステロが今、ちょっと贅肉を付けてゴージャスな洋服を着てブラウン管で笑っている。
 『スパイク』は、ちょうどインディーズからメジャーレーベルに移った作品で、バックバンドのアトラクションズも解散状態だったから、有名なミュージシャンが寄ってたかってコステロの辛らつな歌をエンターテイメントに仕上げていた。
時代が変わったんだな、と思ったものだった。
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 ロンドンは「セカンド・サマー・オブ・ラブ」の真っ只中だった。
とにかくダンス、アシッド、レイブである。大人もガキも街中で「アシーッド!」と叫んでいやがった。
「サマー・オブ・ラブ」は1967年にアメリカで生まれたヒッピー文化を指す。それは、時代性や政治、社会性が絡み合い文化となり昇華し1970年過ぎには消滅してしまった。いくら叫んでも、いくら踊っても、いくら髪飾りに花を付けてもベトナム戦争は終わらず、人種差別は無くならない。平和にならないからだ。
しかし、その20年後ロンドンで第二の「サマー・オブ・ラブ」が発生したのだ。最初は郊外の森の中で集団が大音量のダンスミュージックで夜通し何日も踊り狂う。集団ヒステリーと捉えられたこともあった。
エクスタシー(ドラッグ)をフューチャーし、集団で盛り上がるダンスを繰り広げる。イギリスではエクスタシーは使用禁止薬物であったが、当時のエクスタシーは現在のLSD効果のあるそれとは違い、もう少しソフトな効き目だったという。レッドブルを飲むかの如く手軽に高揚感、一体感を感じるドラッグとしてレイブミュージックには欠かせないものであり、音楽を頭と体で楽しむものとして認識されていた。そこに時代性も無ければ政治も無い。あるのは刹那である。
 私はビートルズやレッド・ツェッペリンを生んだ音楽の都としてロンドンを捉えていたのだが、訪問した時期があまりにも悪すぎた。ギターをかき鳴らし、メッセージを伝える前時代的な音楽・・・ひと昔もふた昔も前の化石の音楽を見る目で若者はそれらを語る。
音楽は楽器を持ってやるなどナンセンス。それよりもリズムに身を委ねるべきだ、と立ち寄ったディスコ「ウィスキー・ア・ゴー・ゴー」の受付の兄ちゃんに言われた。
そんな時代だ・・・、コステロが太るのも分かる気がした。

 では何故その頃、シンプリーレッドが大ヒットしたか。回帰なんだろう。
シンプリーレッドは、日本でもブルー・アイド・ソウルのバンドと認識され、ホール&オーツのイギリス版という知名度だった。ヴォーカルのミック・ハックネルはシルキー&ハスキーな声で、落ち着いた佇まいだが、実はセックス・ピストルズ好きの生粋のパンクス。デビュー当初はパンクに近い元気な音楽を発表していたが、時代と共にポップさを増し、「ホールディング・バックイヤーズ」で全米1位に輝いた。そして、ハロルド・メルヴィンの1972年のヒット曲「二人の絆」(If You Don't Know Me By Now)で2度目の全米1位となる。
時代が求めた生の声と郷愁の音楽なのだと思う。

 ロンドンでディスコ(今で言うクラブ)に行けば、レイブだった。
ライブハウスの老舗「マーキー」に行けばアイリッシュからの活きの良いバンドと観客にダイブするグランジのバンド。
確実に進化した音楽の地図。

 私はちょっと疲れてしまい、ハマー・スミス・オデオンでモータウンの雄「フォー・トップス」を楽しんだ。
 そして、次の日長距離バスでリバプールに向かった。
 ウォークマンにはビートルズではなく、買ったばかりのシンプリーレッドとエルビス・コステロが入っていた。

2016年7月25日
花形
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by yyra87gata | 2016-07-25 20:21 | 音楽コラム | Comments(2)

かまやつひろしの代表曲

  
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 1970年代当時の吉田拓郎は、下駄も履いてなければ、腰から手ぬぐいも垂らしていない。どちらかと言えば、デザイナーズブランド(メンズビギやJUN)を愛用し、車もジャガーに乗っていた。
しかし、世間の認識は長髪で薄汚く、バンカラなイメージであった。なぜこのような誤解が生まれてしまったか。
①フォーク界のプリンスという触れ込みで拓郎は認知されていた。フォークは、かぐや姫に代表される四畳半フォークと拓郎や泉谷しげるのように強いメッセージを伝えるものに大別されており、そこにバンカラのイメージがついた。
②大晦日の夜。日本国民の半分以上が「輝け日本レコード大賞」と「NHK紅白歌合戦」に酔いしれる日。1974年のレコード大賞でブラウン管から飛び出てきた映像は、「襟裳岬」の大賞受賞に喜ぶ森進一。そしてその後ろに並ぶのは、作曲家でGジャン、Gパン姿の拓郎。仰々しすぎるスーツを着た編曲家の馬飼野俊一の横でGパンの後ろのポケットに両手を突っ込み居心地悪そうに並んでいる。その姿に歌謡界しか知らないお茶の間は仰天した。
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③拓郎がかまやつひろしに書き下ろした「我が良き友よ」のフレーズ。
「下駄を鳴らしてヤツが来る  腰に手ぬぐいぶら下げて・・・」
かまやつひろしの大ヒットで知られるこの歌のモデルは、拓郎の大学時代の友人である。バンカラそのものの歌を、何故お洒落なシンガーであるかまやつひろしに贈ったかは不明だが、この歌の作者が拓郎ということで、拓郎のイメージにつながったか・・・。
④かまやつひろしが当時出演していたTVドラマ「時間ですよ」シリーズの中で彼は薄汚いバンカラな役回りで、それを視聴者が拓郎とシンクロしたという説。
  
 人々のイメージはどこで生まれるかなど皆目見当もつかないが、少なくとも何らかの要因は「フォークシンガー=汚い」というイメージと「我が良き友よ」という歌にあるに違いない。

 そして、私は③に着目したい。
何故、拓郎は「我が良き友よ」をかまやつひろしに贈ったのか。単純にかまやつがアルバムを制作するからその依頼に応えただけというならそれまでだが、前述のとおり、あまりにもかまやつひろしのイメージとかけ離れている歌なので・・・拓郎はそこに化学反応を求めたのだろうか。
かまやつひろしは、この曲を元にし、アルバム『ああ、我が良き友よ』(1975)を発表した。タイトルどおりこのアルバムには多くのミュージシャンが参加している。拓郎以外にも松本隆、細野晴臣、井上陽水、大瀧詠一、堀内譲、遠藤賢司、加藤和彦の名前が並ぶ。
そして、このアルバムにも収録されたが、「我が良き友よ」のシングル盤(B面)に、日本のポップスの金字塔となる歌が収録された。
「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」である。
かまやつ渾身のトーキングブルースである。

 「あの当時、シングルのB面って何やっても良かったの。だから、どうしようかなって思っていたら、なんとタワー・オブ・パワーが来日しているって聞きつけたんで、たまたま呼び屋の人が知り合いで、ダメもとで電話して、レコーディングしてもらえないかって言ったらOKになっちゃって。でも、レコーディングが明日とか明後日って話になっちゃって。曲なんか作ってなかったから、好きなコード進行だけ書いて、タワー・オブ・パワーのメンバーに渡して。で、今度は、詞をどうしようかってことになって。そのときゴロワーズを吸ってたから、じゃあこれって」
こんな流れで制作された作品。

 出会いがしらのようなエピソードだが、時代を先取りした作品となった。
シンプルなコード展開だが、ブラスはイントロからサビまでリズムを作りながら、強弱をつける。
ギターソロやコーラスなど、曲に絡みつくフレーズを創出しているが、かまやつひろしの即興とは思えない言葉が芯となり、全てが彩りとなっていく。
「我が良き友よ」はオリコンチャート1位となり、70万枚の大ヒットを記録した。そのB面にこのようなマニアックな作品を入れてしまう彼のセンス。
70万人のうちの1人である私は当時中学生であったが、B面の「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」を聴いた瞬間、全然意味がわからなかった。いったい何が言いたいのか・・・。
脈絡も無いフレーズが言葉遊びのように音符の上で踊るのだ。
しかし、大人になるに従い、この世界がわかってくると、なんとも洒落た歌だなぁなんて思いながら未成年の分際で紫煙をくゆらせている。わかったようなフリをしていただけかもしれないが、歌ってそういうもんだろ、なんて思いながらよくターンテーブルを回していた。

作詞:かまやつひろし  作曲:かまやつひろし  

ゴロワーズというタバコを吸ったことがあるかい
ほらジャン・ギャバンがシネマの中ですってるやつさ
よれよれのレインコートのエリを立てて
短くなる迄 奴はすうのさ
そうさ短くなる迄すわなけりゃダメだ
短くなるまですえばすうほど
君はサンジェルマン通りの近くを
歩いているだろう

ゴロワーズというタバコを吸ったことがあるかい
ひと口すえば君はパリにひとっとび
シャンゼリーゼでマドモアゼルにとびのって
そうだよ エッフェル塔と背くらべ
ちょっとエトワールの方を向いてごらん
ナポレオンが手を振ってるぜ
マリーアントワネットも
シトロエンの馬車の上に立ち上って
ワインはイカガとまねいてる

君はたとえそれがすごく小さな事でも
何かにこったり狂ったりした事があるかい
たとえばそれがミック・ジャガーでも
アンティックの時計でも
どこかの安い バーボンのウィスキーでも
そうさなにかにこらなくてはダメだ
狂ったようにこればこるほど
君は一人の人間として
しあわせな道を歩いているだろう

君はある時何を見ても何をやっても
何事にもかんげきしなくなった自分に
気が付くだろう
そうさ君はムダに年をとりすぎたのさ
できる事なら一生
赤ん坊でいたかったと思うだろう
そうさすべてのものがめずらしく
何を見ても何をやってもうれしいのさ
そんなふうな赤ん坊を
君はうらやましく思うだろう


 今改めて聞くと、1990年代のアシッドジャズのメソッドを全て注入した作品なのだ。
そんな時空を超えた作品をかまやつひろしは1970年代半ばにサラリと作ってしまっていた。
だから、そんな洒落っ気がある洋楽志向のかまやつひろしになぜ拓郎は「我が良き友よ」を贈ったのか。
拓郎はかまやつにこの曲を贈る時に「かまやつさんにぴったりの曲が出来た」といって渡したという。
バンカラなキャラでもない人が飄々と歌うところに化学反応を求めたのか。ヒットを狙う拓郎の目がそう読んだとしか思えない。
しかし、その曲があったからこそ、「ゴロワーズ・・・」も生まれたわけだから、今となってはそんな疑問は良しとしようか。
 しかし、六本木や青山あたりで時代の最先端の芸術家たちと遊んでいたかまやつひろしにバンカラな先輩の歌を歌わせた拓郎・・・いまだに疑問である。
結局、「拓郎がバンカラキャラ」という誤解を生じさせたことについては、何の解決もないが。

2016/07/20
花形
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by yyra87gata | 2016-07-20 17:15 | 音楽コラム | Comments(0)

ミッキー吉野とゴダイゴ

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 1980年代のインタビューでミッキー吉野は「銀河鉄道999」も「ビューティフルネーム」もヒットを狙って発表したという。つまり、当てに行く、ということだ。
(ちなみにゴダイゴの作曲はほとんどがタケカワユキヒデであるが、アレンジはすべてミッキー吉野が行なっており、彼はバンドではプロデューサー的なミュージシャンだ)
ゴダイゴは、1978年に日本テレビ系のドラマ「西遊記」の音楽を担当しており、そのオリジナルサウンドトラックであるアルバム『西遊記』(1978)で大ヒットを記録していた。彼らは精力的にテレビ音楽番組に出演し、お茶の間でもスーパースターになっており、その流れでいけば作品を出せば全てヒットするという図式は出来上がっていただろう。しかし、ミッキー吉野があえて「ヒットを狙って行った」という意志に彼の才覚があるのだ。
その才覚とは、彼の中にある10代の頃から天才キーボーディストとして謳われた現場力や実践力にあるのではないか。

 ゴダイゴ結成前のミッキー吉野を語る上でのキーワードは、「横浜」「GS」「薬物中毒・逮捕~渡米」「名門バークリー音楽大学卒業」「多忙なスタジオミュージシャン時代」などが挙げられる。
天才キーボーディストとしてゴールデンカップスで名声を得たが、時代性もあり、薬物との接触によりドロップアウト。音楽を見つめ直す意味でのバークリー音楽大学への進学。そして帰国。
ミッキーが帰国した時、日本の音楽マーケットにかつてのGSは存在せず、歌謡界とフォークブームが音楽界を席巻していた。そんな市場だから再浮上の時を見極め、まずは日本の音楽界の中でスタジオワークをこなした。70年代の彼は、まさに歌謡界のレコーディングスタジオを渡り歩き、何千と言うレコーディングで現場感を磨いていた時期だった。そして様々な音楽を実践する傍らミッキー吉野グループを率い、後にタケカワユキヒデをヴォーカリストとして迎え入れ、ゴダイゴ結成へとつながっていく。
ゴダイゴは、Go(生き)die(死)go(再び生きる)を実践した自らの音楽人生をグループ名に配したことからもその思い入れが伺い知れる。

 ミッキー吉野の楽曲に対するアプローチは、音の整理とヴォーカルを活かしたアレンジに尽きる。ストリングス、ブラス共に、アメリカの映画音楽のようなおおらかな作りが、かつてのゴールデン・エラを彷彿させる音となるのだ。
だから、ゴダイゴの演奏はある意味癖が無く、どこか懐かしい洋楽の香りがする楽曲が多い。
ミッキーは語る。
「70年代初頭にバークリーに行き、その肩書きで仕事が入ってくるという状況になったのは多分俺が最後だと思う。俺より前に行っている人・・・例えば渡辺貞夫さんとか秋吉敏子さんとか・・・まぁ、ジャズの人は向こう(アメリカ)に行って本場のジャズを学ぶという大義があり、向こうの進んだ音楽を学んできて日本に広めたという功績があると思うんだけど、俺の場合はジャズというよりもっと広い意味での音楽、つまりポピュラー音楽なわけで・・・。バークリー帰りのミュージシャンというだけで肩書きになったものなんだよ。何で渡米したか?ま、日本にいられなくなった事情というのもあるんだけど・・・」

 ミッキー吉野の音楽アプローチは、日本の軽音楽におけるキーボードの歴史そのものである。ピアノ、オルガン、ハモンドなどGS時代から現代に至る中、ローランド社と一緒にキーボードを進化させていった功績は大きい。
1960年代から1970年代はトランジスタの進化からデジタルへと変革し、コンパクトな固体や音色の多様化などキーボードの限界域が一気に広がった時代だ。
そして、そのキーボードの開発については研究員もさることながら、音楽の現場を渡り歩いてきたミッキー吉野の意見はかなり重要視されたことだろう。
日本のロックの夜明け・・・ミッキー吉野は、むりやり日本に太陽を昇らせてしまった数多くのミュージシャンの一人なのだ。そういえば、ゴダイゴのギタリストである浅野孝巳はグレコギターの開発(GO‐Ⅲモデル)に携わっている。
海の向こうで生まれた物を日本のモノづくり精神で進化させる1970年代は楽器にしろ、自動車にしろ、日本の開発力がそこかしこに花開いた時代であったのだ。
 
 私とゴダイゴの出会いは映画館だ。中学2年、三軒茶屋の名画座で観た長谷川和彦監督のデビュー作「青春の殺人者」である。そのサウンドトラックをゴダイゴが担当していた。日本のATGというマイナーな映画にもかかわらず、音楽は英語だったので、外国のバンドが演奏しているかと思ったものだ。
映画のエンディング。薄暗い夜明け。水谷豊が不安そうな表情でトラックの荷台にしがみついているシーンでエンディングロールが流れる。そこに「音楽 ゴダイゴ」と出てきた。
そしてその映画を観てから数ヶ月後にはテレビでチャーのバックを・・・。
テレビのテロップに「演奏 ゴダイゴ」と。
とどめは日本テレビのドラマ「西遊記」のテロップに「音楽 ゴダイゴ」。
まさに昇り調子の1977年から1978年だったのだ。

 ゴダイゴでのミッキー吉野は、アレンジャーとプレイヤーだが、彼の作曲作品で私は布施明の「君は薔薇より美しい」(1979)を推す。
レコーディングミュージシャンは、そのものずばり一番乗りに乗っている時のゴダイゴ。とにかくブラスアレンジがこの上なく気持ちよい。
 タケカワユキヒデのように浮遊するヴォーカルとは違い、布施明のストレート且つ有り余る声量で歌い上げるこの作品は、大変ダイナミックな歌謡曲として多くの人々の記憶に留められているだろう。
そして、まるでラスベガスのゴージャスなステージで歌われるようなこの作品は、布施明というヴォーカリストにとてもマッチし、大ヒットした。
数多くのミュージシャンにカバーもされたようだが、この作品はミッキー吉野のアレンジと布施明のヴォーカルが光るエバーグリーンミュージックなのである。
 
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  ミッキー吉野・・・山あり谷ありのバンド人生だったはず。実力派GSグループのゴールデンカップスから始まり、ミッキー吉野グループで試行錯誤を繰り返し、ゴダイゴへと進化。その後もセッションミュージやンとして数多くのシンガーのバックを務めた。
 そして、ゴダイゴは今年もツアーに出る。規模は小さくなっているが、オリジナルメンバーと追加メンバーを合わせ、6人で演奏する。
 オリジナルメンバーが全員揃っているバンド・・・レジェンドの域である。
まさにGo(生き)die(死)go(再び生きる)なのだ。

2016年7月7日
花形
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by yyra87gata | 2016-07-07 17:03 | 音楽コラム | Comments(0)

歌は世相をあらわすもの

  
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 歌は世相を表すものと言いますが、最近社会に対する不満を正面きって歌う人がいなくなりましたね。
1960年代、アメリカでは戦争や公民権運動でディランやニール・ヤングなどがギターを手に「そういう社会」を歌にしました。その火は日本にも届き、1960年代末から1970年代初頭には自作自演のプロテストソングが流行しました。
 当時の日本においては、安保闘争やベトナム戦争、公害問題、高度成長期駆け抜けた後のインフレなどかなり社会は不安定な時期に直面しており、学生運動が盛んに行なわれていた頃です。
さて、現在に目を向けると学生運動こそ無いものの、情勢はその頃とあまり変わっていない気がします。
現在では、憲法改正や原発問題、災害等。格差社会からの失業、将来不安などで若者が希望を持てない社会になり、親へのパラサイト、ニートという逃げ場で暮らす若者・・・。
 加えて、大人たちはバブルが弾けても生活水準を下げられない現実に四苦八苦の生活を余儀なくされている。アホな政治家や役人に振り回され続けたここ30年なのです。当然年金なども期待できず、若者に限らず一般市民は不安な将来を抱えているのです。そして、なによりも我々大人たちの大罪は「ゆとり世代」を作ってしまったことかもしれません。もちろん「ゆとり世代」という考え方を出すこと自体は悪いことでは無いのかも知れませんが、誰もそれを検証することが考えられなかったことが罪なのです。文化的な生活を重視し、詰め込み主義の勉強からしっかりとモノを考えることが出来る人間の創造・・・。ぜんぜん具体的でないです。一方面だけの捉え方しかしていないので、検証することすら考えていない。詰め込み式ではなく自ら考えることができる教育という考え方は立派でも、その先が見えていないなら政権が変われば全て終了という浅い改革となってしまうし現にそうなったのです。
この「ゆとり世代」の発案者は、教育思想を変えるということは国を変えてしまうに等しいことと理解していたのでしょうか。一番の被害者は誰なのかと言うこと私たちは認識しなければいけません。

 歌は世相を表すものと言いますが、70年代初頭の攻撃的な歌は当時の若者のパワーを感じることが出来ます。それに比べて今の歌を眺めていると、ヒットチャートはジャニーズとAKBに浸っているという状況。腹の底から社会を歌う人などは皆無です。
所謂金にならない音楽(メッセージ色の強い歌)は、誰も出したがらないんでしょうね。
(70年代初頭はメッセージソングやプロテストソングが商売になると思って出していた人なんていなかったでしょうし・・・、サブカルチャーの世界ですからね・・・)
 若者の心情を吐露した尾崎豊や原発反対を替え歌で表現した清志郎は1980年代末。ここで日本はバブル経済を迎え、そういうメッセージ色の濃い歌はうやむやになり聞こえなくなっていきました。みんなバブル景気に浮かれていたのでしょう。そしてバブルは弾け、みんなで肯定しあい、傷口を舐めあい、片や勝ち組と称した一部の人間はITと株とFXでアブク銭を稼ぎ、六本木ヒルズでシャンパンを飲み干します。
私はそれまでの詩的表現が絶滅危惧種のような扱いになり中々世に出て来なくなったターニングポイントとなったのは、ドリカムが出てきた時、ちょうどバブル期~バブル崩壊時期辺りにあると思います。
当時私は日本の音楽に危機感を覚えていました。それは、その頃の歌がやたらと会話調の歌詞が多くなったと感じたからです。ドリカムもユーミンの台頭ということで吉田美和の伸びやかなヴォーカルに気を取られておりましたが、詩の世界があまりにも日常すぎてずいぶん日本のポップスも変わったものだと思ったものでした。
また同時期に竹の子のように一斉に出てきた「どんなときも」「愛は勝つ」「それが大事」「世界に一つだけの花」などの肯定ソングをみんなで歌う姿に恐怖すら感じました。
 そして、私は、妙な歌詞の真打である森高千里が歌う歌詞にとてつもない違和感を覚えたのです。詩的表現をまったく感じることができない森高の歌。
「夏休みには二人してサイパンへ行ったわ」とか「うちにかぎってそんなことはないはず」とか、もう歌詞という概念が無いように感じます。日記をそのまま歌にしてしまった感じでしょうか。
 詩的表現とは感性と表現力の創造物で、聴いている様々なリスナーがそれぞれの感じ方を持つことができる総合芸術だと思います。つまり、森高以降の詞はただの感想や描写に過ぎないのであります。
しかし、森高千里人気は一大ブームとなり、影響を受けたアマチュアミュージシャンはそんなの歌にするなよ、といった内容の歌をライブハウスで、しかもカラオケで歌うという珍妙なシーンが良く見られたのも1990年代でありました。

 歌は世相を表すものと言いますが、2000年を迎え小泉内閣は規制緩和という名の下に様々な改革を起こしました。しかしその労働環境の規制緩和から格差社会を生み、有効求人倍率の低下。ようやく若者が叫びだしたのがこの頃からかもしれません。ラップという手法で心情を訴える若者たち。言葉の妙を上手く表現する若者。
 しかし、それはあくまでもラップであり、誰もが口ずさめ、長く歌い継がれる歌ではありません。
メッセージソングやプロテストソングを流行歌として捉えることは間違いかも知れませんが、少なくともラップは特殊過ぎます。
しかし、この頃からラップとも取れない早口言葉のようなビートバンドが溢れ始めました。
長ったらしい歌詞。しかも言葉遊びのように言葉を羅列し、簡単な事象をわざと回りくどくしながら日常生活の言葉で綴るのです。とにかく歌詞が多い。Aメロはお経のように畳み込むような歌詞。サビの部分でギャーッて叫ぶ。そして再び字数多い歌詞が16分音符に踊ります。これが現代の詩的表現なのでしょうか。ラップにメロディが乗っただけなのでしょうか。
また一方で気が抜けた炭酸飲料のような歌い方をするシンガーが最近増えました。流行りなのでしょう。ウィスパーボイスかなんか知りませんが、腹から声が出てないというか、朝飯食ってねぇだろうって突っ込みたくなる声で歌う人のことです。しかもそういうヴォーカルは、だいたいがどうでもいいような日常を歌い、ラブソングであれば「君を守るよ」とか「感謝する」とかの決まり文句を歌っています。これは件の「草食男子」「ゆとり世代」というトレンドから来るものでしょうか。でもこうやって控えめに歌う人たちってSNSで育っているから承認意識だけは人一倍強い。なんだか面倒くさいです。

 歌は世相を表すものと言いますが。
なんでも手元の携帯電話で事足りてしまう世の中。社会人が辞表をメールで送る常識。
合理的に考えているようでそれは非常に無礼なことが常識化していく今後。
歌だけはそんな世相に惑わされず作り手の信念が伝わる芸術であってほしいです。
人から金を取っているならば、鼻歌みたいな歌を聞かせるなよ、と言うことです。
 
 最近、アイスのガリガリ君が10円値上げしました。その謝罪を込めたテレビCMに高田渡の「値上げ」が使われていました。独特の朴訥な歌いまわしに説得力を感じ、これこそ今に通じるメッセージソングと合点いたしました。
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2016年6月8日
花形
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by yyra87gata | 2016-06-08 18:03 | 音楽コラム | Comments(0)
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  他人から見たらどうでもいい私の「持論」。
バンドはオリジナルメンバーを好む。特にバンドの華であるヴォーカルが交代することを良しとせず、もし変わるのであれば、そのバンド名を使用して欲しくないと思う。
また、オリジナルでレコーディングされた楽曲を好み、セルフカバーを嫌う。ライブ時にアレンジを施すことはこの限りではなく、それはそれで楽しむことが出来る。

  さて、このような拘りをもってしまうと往年のバンドは殆ど見る機会が無くなる。
なぜならバンドメンバーが死んでるか、メンバーチェンジか・・・。
ストーンズはさすがにメンバーが変わっていても、初来日(1990)だけは観覧したが、ビル・ワイマンが抜けた2回目からの来日には足を運んでいない。イーグルスもドン・フェルダーが抜けてしまったら興味が無くなった(厳密に言うとバーニーが抜けた時点でイーグルスじゃないんだけどね)。
ディープ・パープル、ジャーニー、TOTOなどヴォーカルが変わってしまうバンドは、新たなヴォーカリストを迎えたら、なんだかそのバンドのコピーバンドを観る感じになる(極端かなぁ?)。
だからU2とかってある意味凄いと思う。

  先日、海外出張の帰りの飛行機の中で、「THE WHO LIVE IN HYDE PARK」を観た。このコンサートは、バンド結成50周年を迎えた2015年6月26日にTHE WHOのホームタウンであるロンドン、ハイドパークにて65,000人の観衆を集め開催された大イベントである。
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  深夜便の飛行機は中々寝付かれないので、差し障りない懐メロでも聞きながら寝ようかと思っていたのだ。そう、私にとってTHE WHOはオリジナルメンバーが2人も死んでしまった伝説のバンドなのである。だから、先ほどの拘りからすると、大好きなドラマーであるキース・ムーンや大好きなベーシストであるジョン・ウェットウィッスルを失った現在のバンドに興味は無くなっていたのだ。
THE WHO は偉大なバンドであるし、大好きなバンドだっただけに当時のレコードやフィルムを見ることはあっても、オリジナルメンバーのいない今のTHE WHOが来日した時にライブに足を運ぼうという気持ちすら起きない。
しかし、このコンサートを飛行機の小さな画面で見て・・・興奮した。
眠るどころか脳内興奮状態に陥ってしまった。

  オリジナルメンバーは、ロジャー・ダルトリー、ピート・タウンゼントのTHE WHOだが、彼らの音楽は色褪せることなく生きていた。
そして、それを再現するバックミュージシャンたち。
ドラムはザック・スターキー。キース・ムーンとリンゴ・スターはドラッグ仲間。まさかそのリンゴの息子があんなに上手く叩いているとは・・・感嘆。
聞くところによるとザックはキースからドラムを直に習ったそうで、本当にキースそのもののプレイだった(マシンガンのようなタム回し、クラッシュシンバルでのリズム取りなど)。
ベースはピノ・パラディーノ。ジェフ・ベックやジョン・メイヤーなど様々なセッションをこなす職人。ジョンが亡くなってからTHE WHOを支えてきた男だ。派手さが無いところもジョン譲りか。
また、ピート・タウンゼントの息子もギターやキーボードで参加している。

そして、オリジナルの2人は・・・
  ピート・タウンゼントなんかジジィになって体のラインもおじいさんのようなんだけど、決めポーズは格好良いんだよ。パワーコードをかき鳴らし、ギターがエリック・クラプトンモデルというのが許せないんだけど(この人はギブソン系のギターが似合うと思うんだが)・・・。
  ロジャー・ダルトリーもサングラスなんてかけて、遠目で見てると老眼鏡のようにも見えるんだけど、ちゃんと声が出ているんだよ。わーっ!て叫べるジジィなんだ。
 すげぇ人たちだなぁと思いながら、小さい画面を食い入るように見ていた。

  そういえば、THE WHOは、リード・ヴォーカルとリード・ギターとリード・ベースがいるバンドといわれ、その理由はキース・ムーンのリード・ドラムが存在していたからだと結論付けられている。
キースの独創的なプレイを活かすのは、ジョンの安定しながらも楽曲を広げるフレーズを持つリード・ベースだ。だから、ピートはパワーコードでギターをかき鳴らしながらもオーケストレーションの様な音の波動を組み立てることにイマジネーションを膨らませることができたのだ。そして、ムーグのシンセサイザーやシーケンサーをいち早くロックのビートに取り入れ、70年代のロックに昇華させることに成功したのだと思う。
デビューしたてのただただ破壊的な演奏の根底だけはそのままに、ピートの天才的な音楽創作、メンバー個々の相手の演奏を慮る耳の良さがアンサンブルとなり、THE WHOは世界的なバンドに成長していった。
メンバーの奇怪な行動、暴力、ドラッグ、破壊行為、ケンカなど何度も解散の危機に瀕しながらもロックの王道を歩んできたバンド。ある意味、セックス・ドラッグ・ロックンロールを体現し、全世界のロックフォロワーを作った。ジョー・ペリーもゲディ・リーもみんなTHE WHOに影響を受けて育ったのだ。

  2名の尊い天才は旅立ってしまったが、残された2名の天才は、2世を従え演奏を続けている。
演奏を見終わった後、思ったことが一つ。
よくアメリカンロックが好きか、ブリティッシュ・ロックが好きかなどと他愛の無い話をすることがあるが、THE WHOを認めることが出来ない人(好き嫌いではなく)は、ブリティッシュ・ロックが好きじゃないのでは、と。
THE WHOの生き様や言動、もちろん音楽も・・・イギリスのソウルという気がしてならない。
労働者階級の代弁者、シニカル、反骨精神、モッズ、どんよりとしたロンドンの天気・・・。

  50周年記念コンサートが私のTHE WHO愛に火をつけてしまい、日本に帰ってきてから2週間、ずっとTHE WHOばかりを聴いている。もちろん「トミー」「キッズ・アー・オールライト」「アメイジング・ジャーニー」を見直し、胸を躍らせている。

 そして、今日もターンテーブルにTHE WHOを乗せるのであった。
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2016年5月25日
花形
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by yyra87gata | 2016-05-25 20:52 | 音楽コラム | Comments(2)

マーチンD45

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 楽器屋さんに行ってもそんなにギターが欲しいと思わなくなりました。
何故でしょうか。
もし楽器屋さんに入ったとしても、新品のコーナーは素通りしてしまいますね。ヴィンテージの固体を探し、その楽器の前でため息でもつきながらうっとりと眺めるでしょうね。
そう、ある種、工芸品を見る境地であります。
それはエレキギターでもアコースティックギターでもエレキベースでも一緒です。
「良い色に退色している」とか、「クラッキング(塗装のヒビ)が絶妙」とかそんな気持ちで眺めています。
こんな私は、ギターヴィンテージ館なんて出来たら、すぐに行くでしょう。
 
 さて、楽器屋さんですが、ヴィンテージを見ていて陥ってはいけないミスが一つあります。それは、つい試奏してしまうことです。
「これは」と思うギターを手にした場合、次に脳内で変換されることは「今、貯金いくらある?持っているギターを下取りに出したらいくらになる?月々いくらまでならローンで払える?」なんて思いが一気に想起されてしまうのです。
ちなみに、私は一時期かなりの数のギターを所有しておりましたが、現在は整理に整理を重ね、数本しか残っておりません。
アコースティックギターはマーチンD45(1976)とD28(1976)、国産のキャッツアイ(1979)。エレキギターは、ギブソンSG std(1965)とESP製のロン・ウッドが所有していたストラト(1985)だけです。あと、フェンダーのジャズベが1本(2000)。
なんとシンプルなラインアップ!
気まぐれでギターを購入していた時期が懐かしい。
ギブソンもギルドもオベイションもヤマハもグレコもモーリスもマーチンD18、D19、D28・・・も、みんな処分してしまいました。

 私はここ最近(20年以上)アコースティックギターしか弾かなくなり、2年前にマーチンD45を手に入れてしまってからは、楽器屋さんに行っても興味をそそるのはマーチンのD45のみ。しかも1983年以前に生産された固体のみ。これが、中々出回っておりません。そういう意味でD45以外のギターを購入する気持ちは無くなってしまったので、楽器屋さんから足も遠ざかってしまっているのでしょう。
そして、このD45ですが、たとえ希望の品があったとしても相場からして900,000円~1,500,000円位します。60年代後半のモデルが出てくれば一気に3,500,000円~∞。
1930年代のモデルなど出ようものなら、価格はつけられないでしょう。
だから、D45が欲しいといっても中々手に入れることは出来ないのです。
D45ならいくらでも欲しいのですがね。

 まぁ、そうは言っても金に糸目をつけなければ欲しいギターも無いことは無いですが、歳も歳です。高いギターを残され、私が死んだときに処分に困ることを考えると家人に迷惑はかけられませんので・・・。気持ち的には「整理」の段階に入っているのです。
そして、現在所有する楽器たちを最期まで弾くかなぁなんて思っているわけです。

 さて、そのアコースティックギターの中でもマーチンD45な訳ですが、手にしてみてわかったことがありました。
造りが良い事は皆様もご承知でしょうが、何と言っても重量感があるということです。そしてそれは貝のバインディングが全体に施されていることで、木と木をがっちりと繋いでいるのであります。飾りだけと思っていては大間違いです。ストロークをした瞬間ボディ全体がバランスよく響きあうのであります。
 マーチンD28はアコースティックギターのお手本の様なギターと言われます。しかし、このD28、実はかなりのドンシャリなのであります。私の所有するD28もD45も1976年製でありますが、弾き比べると音の違いや倍音などびっくりするくらい違う個性を持っております。
 同じスプルースの表板でサイドバックはローズウッドです。D45はD28のゴージャス版という位置づけですから同じ材料で作られています。
但し、D45はD28と同じレベルのスプルースやローズウッドを使用せず、厳選された木を使っていると言われています。そういった厳選された木材を貝がガッチリ詰め込まれて、重厚な音になっているのでしょうか。
 こんなことがありました。レコーディングで派手派手しいストロークをD45で録っていました。録った歌をプレイバックして聞いてみると、ギターの音が芳醇過ぎてしまい、とてもトゥマッチな印象を受けました。後日、そのトラックにD28で録り直してみると上手くはまるのです。
そのギターの特性を生かした使い方をしないと、いくら音が良くても音楽的にならないと言うこともあるのです。
 
 私はD45を購入するにあたり、迷いはありませんでした。私は一時期ネットを使い、都内のどこの店舗に何年式のD45が在庫しているとか、試奏できるか、などを常に把握しておりました。そして時間があれば弾きに行くこともありました。
 当時の私はD28を2台所有しており、弾き分けておりました(同じモデルでも音の特徴はぜんぜん違いました)。D28は標準的なギターなので、安心してプレイすることもできましたし、満足していたのですが、あまり出回らない1970年代のD45が4本も同じ店に現れたのです。これは事件です。アコースティック専門店でもせいぜい1本か2本、それも最近のモデルや新品が並ぶということはあっても1970年代のD45が4本揃うことは珍しいです。増してや、正規代理店の黒澤楽器だってそんなことは中々無いことです。
 D45が4本並ぶと壮観です。私は店長さんに1本1本弾いてもらい、真ん前で音を聞き比べました。そうです、アコースティックギターは、自分で弾いて聴く音と、ギターの前で聴く音が異なります。まずは出音を聴くのであります。
どれも甲乙つけがたいのですが、私は4本の中で一番汚く、キズがある固体と、一番綺麗なボディの2本に目が行きました。
2本とも980,000円のタグがついています。税金込みで1,058,400円。やっぱり7ケタかぁ~、なんて思いながら、試奏を始めました。
私の所有するD28とは全然違う音の出方。これは7ケタの価値が十分あると思いました。
「何で急にこんなにD45が増えたんですか?」と私。
「これ、実は委託販売の物件で、1人のオーナーが持ち込まれたのですよ」と店長は言う。
なるほど、そういうことか。
店長は綺麗な方のギターを勧めてくれましたが、私は汚れている方が気になっています。
すると店長が・・・
「お客様が弾いている方はもう少ししたら価格を下げようと思っているんです。ネットにはまだ出しませんが、予定で880,000円ですね。ほら、綺麗な方は放っておいても売れるじゃないですか・・・」
「なるほど。しかも、私の気に入った方は税込みで100万切るじゃないですか!」
こんな会話をして、その日は店を出ました。
それからは、いても立ってもいられないのです。ネットで在庫を確認する日々。
3日後、綺麗なD45にSOLDの文字が!
(やっぱり売れたか、そうだよな。あれは良かった。綺麗だったし、でもちょっと音がバラついていたんだよな)なんて思いながら、もう一本の方に頭はスイッチ。
そして、週末、車にギターを詰め込んで楽器屋さんに赴いたのでした。
「これ、買います。で、このギター委託販売で出しますんで、よろしく」
車のトランクから「マーチンD28(1981)」「オベイション・レジェンド1767」「ヤマハSA-1000」を運び入れました。
そして契約。
 私は、D45を抱きながら、店の中でポロポロと爪弾いていました。店長さんはマーチンに詳しく、いろいろと裏話を教えてくれます。こういう会話が一番楽しいです。
ふと目線を壁に向けると見慣れぬD45が。
「あれ、こんなD45、ありましたっけ?」
「今日、さっき入庫したんですよ。80年式だからSQネック、ペグがシャーラーに変わっただけで作りは1970年代と一緒です。弾いてみます?」
弾いてみると、これが、音がでかい。弦高が若干高目だが、調整は効く。価格を聞いてびっくりしました。委託販売品でしたが、すぐにでも現金化したい人のようで、相場より格段に安い設定。
これは、買いです。
でも、私はすでに購入したばかり。そこですぐに私と同じくD45を探しているミュージシャンに連絡を入れたのでした。そして、翌日にはその方がゲットしておりました。

 D45をライブで使用しているミュージシャンは意外と少ないです。
CSN&Y、ライ・クーダー、ガロ、加藤和彦、石川鷹彦、伊勢正三、さだまさし、南こうせつ、杉田二郎、坂崎幸之助、高見沢俊彦、玉置浩二、桜井和寿、清水國明・・・
というか、けっこう古いミュージシャンが多いですね。
ライブにD45を真綿に包むようにもってきて、ハードなステージをするなんて馬鹿げているのでしょうね。
私の使用する楽器は生涯現役です。どんなに演奏コンディションが悪かったとしても、必要であれば弾くでしょう。楽器は鳴らしてナンボですからね。

 2年経った私のD45はけっこう私との歴史が刻まれています。ピックによるスレはもちろん、ぶつけたり、倒したり、引っ掛けたり。でも元気に今日も鳴り響いております。
そして先ほどのミュージシャンと一緒に2人でD45をかき鳴らしております。


2016月4月6日
花形
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by yyra87gata | 2016-04-06 18:30 | 音楽コラム | Comments(0)

ロングヘアー

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 ジョンレノンのような長い髪に憧れてはいたが、校則が厳しくせいぜい耳が隠れる程度だった。教師に見つかると生徒指導部に呼ばれ竹刀で思いっきり尻を叩かれた。しかし、なぜか髪を切ることに抵抗を感じていた。それは反骨のアイデンティティとして髪を伸ばすことが正当化されていた最後の時代だったからか。
時は1980年初頭。テクノブームの中、あんなに汚い髪を垂らしていた細野晴臣や坂本龍一がみんな耳を出す始末。ニューウェイブの波は音楽と共にファッションも変えていった。
しかし、そんなウェーブを横目で見ながらせっせと髪を伸ばす日々。
 高校を卒業し、晴れて何の制約も無くなった時、髪も髭も伸ばし始めた。
そして私は高校時代から続けていた活動として、何かにとりつかれたように渋谷の街を徘徊していた。
汚いベルボトムジーンズに破れかけたバッシュやブーツで足元を固め、上半身はたいていよれよれのTシャツにGジャン。そんな格好で道玄坂のヤマハ本店を中心にBYGやディスクロードなどのロック喫茶に屯っていた。
金が無くなると妙なところから妙なアクセサリーを仕入れてきて、いきなり露天商。
警察とヤクザの見回りに怯えながらも、調子が良いときは日に5桁の金を稼いだ。
なんか反体制の中で生きていたという実感があったのだと思う。

 歌は世情を反映する。
髪をなぜ伸ばしたか・・・反体制。
就職を意識し始めると髪を切る・・・体制。

 ジローズの「戦争を知らない子供たち」では「若すぎるからと許されないなら、髪の毛が長いと許されないなら・・・」と若者からの主張を大人たちは排斥する描写がある。
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 しかし、1972年よしだたくろうは「結婚しようよ」で
「僕の髪が肩まで伸びて・・・」と歌い、全国的に大ヒットした。
男が肩まで髪を伸ばすことが普通では無い時代、敢えてそう歌い、あたかもニューファミリーと位置づけられる。新しい文化がそこに芽生え、これがお茶の間レベルの若者主導型音楽の出発点となったのではないか。さすれば、そのアンサーソングは「いちご白書をもう一度」であり、その中で
「就職が決まって髪を切ってきたときに、もう若くないさと君に言い訳したね」
である。
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 夢を諦め、就職する方向となったとき、髪を切らねばという敗北感がにじみ出ている。
斉藤哲夫の「吉祥寺」では「ロングヘアーが疲れた君は・・・」と歌い、時代が変わりつつあること、そして自身の成長なども合わせた描写なのだろう。
髪を伸ばすという行為と髪を切るという行為。
今の時代では到底予想もつかないだろうが、1980年代まではそういう葛藤がかなりあった。

 これが、アメリカだとデビット・クロスビーの「オールモースト・カット・マイ・ヘアー」は徴兵に応じることで髪を切りかけたという歌。日本のそれより重い。反戦・・・プロテストソングに髪が良く使われるのはこういったことも多く含まれている。
髪を伸ばすこと。伸ばすことが主張だった時代。今では「ロンゲ」なんて言い方をするが、私ら世代は「ロングヘアー」。

 1980年後半まで髪を伸ばしていた私は、アルバイトでは接客業に就けなかった。コンビ二の店員すらできなかった。今の時代、そんな贅沢言っていたらバイトなんていなくなってしまう。ロングヘアーのタクシー運転手や寿司職人だっている時代だ。
私のようなロングヘアーの学生はみんな肉体労働のアルバイトに集中したものだ。

 今の時代と比べることは無意味であるが、なぜあの時代、若者は長い髪に固執していたのだろう。
そしていつからロングヘアーがアナクロなイメージとなり、絶滅したのだろう。
ロンゲとロングヘアーは違うんだよ、と言っていること自体がノイローゼと疑われるか。

2016年3月10日
花形
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by yyra87gata | 2016-03-10 19:21 | 音楽コラム | Comments(2)

矢沢の思い出

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 サントリープレミアムモルツの広告の中で66歳の矢沢永吉がポーズをつけている。ダンディな佇まいであり、ここ何十年も変わらない姿でもある。
この姿を維持するためにどれほどの努力をしているのか。しかし、きっと本人は「矢沢」が好きだから苦労とも思っていないのだろう。
 私が初めて矢沢を目撃したのはコンサートでは無く道の上だった。私が大学生の頃、表参道を歩いていると、前から前身グレーのスウェットスーツに身を包み、異様なオーラを出しながら早足でウォーキングしてくる男がいた。
その男が私の3m近くまで来た。そこには、目深に被ったフードの奥に汗まみれの矢沢がいたのだ。
私は「あっ!」と驚き、一瞬にして中学生の頃の自分に戻った。
“永ちゃんだ!わーっ!サ・サイン?あ、握手?”そんな思いが私の中で反芻する。その横を矢沢は何かに取り憑かれたように一点を見つめ足早に通り過ぎていった。その顔には玉の様な汗が付着し、歩くたびに滴り落ちていた。減量に苦しむボクサーのように誰も寄せ付けず、そしてその男に私は声も掛けられず、彼の後姿を目で追っていた。
 矢沢はどこでも矢沢だった。

 私は小学校の音楽の先生が好きだった。その先生は矢沢好きで、その影響から『A DAY』(1976)から聞き始めたが、中学に進学し、矢沢永吉の話題を友人たちにすると、皆ちょっと冷めた感想を述べ始めた。
時は1970年代半ば。日本のロックなどほとんど認知もされず、市場的にも成熟していない。「日本のロックなんて」とよく言われた時代だった。なぜなら経営側は“儲からない”からであり、聞く側は“カッコわるい、洋楽の真似でしょ”と言った具合。
しかし、私は“音楽に国境もジャンルも無い”という意識で幅広く音楽を聴いていたので、何故日本のロックが軽く見られるのかということが理解できなかった。「矢沢よりエアロスミスだよ」などと言われても比べるものでも無いと思ったが、一般的にそういう意見が多く、私の考えなど話にならなかった。
そういった時代の中、矢沢は独り奮闘していたのだと思う。

 私が中学2年の夏、矢沢永吉は後楽園球場でコンサートを行なった。キャロル解散後、1975年にソロデビューし、年を重ねるごとに「渋谷公会堂」「日比谷野外音楽堂」「日本武道館」とスケールアップしていき、3年で「後楽園球場」にたどり着いた。
「日比谷野外音楽堂」のバッキングメンバーはサディスティックス。翌年発表したアルバム『ドアを開けろ』(1977)や『ゴールドラッシュ』(1978)はそのメンバーに木原・相沢(NOBODY)のギターや坂本龍一など豪華なメンバーが絡み、70年代の矢沢の集大成となった。
矢沢は常日頃から「ビッグになる」と公言し、有言実行で本当にでかくなっていった。そして同時期に激論集「成りあがり」を発表。矢沢の人気は頂点を極めていった。
 富士山山麓に豪邸を建て、地下のガレージに無造作にポルシェが停まっている写真などを見たとき、私は、本当にロックスターなのだと思った。イギリスやアメリカのロックスターが大豪邸に住み、フェラーリーやポルシェを下駄代わりに使うことは当たり前と思っていたが、日本でそれを実現した人がいるのかと思い、とても驚いたものだ。
 テレビに出るといっても音楽番組には出ず、NHK教育テレビ(若い広場)でインタビュー。そんなことする日本のミュージシャンなんていなかった。
“音楽なんてレコード聴けばわかる”“コンサートに来てくれれば絶対楽しませてやる”
“テレビに出て語るということ、・・・つまり、矢沢そのものの声を届けたい。週刊誌やわけのわからない活字でいい加減に伝えて欲しくない。だから音楽に懸ける思いは自分の言葉で伝えたい”
ものすごく、自分がわかっている人なんだと思った。セルフプロデュースがしっかり出来る人。だから、ブレない。

 そんな矢沢がアメリカに行って勝負すると言った。“アメリカを視野に入れている”とテレビで唾を飛ばしながら語る姿を見て、私は“ちょっと危ういな”なんて思ったりもした。いくらなんでも日本のミュージシャンが外国で勝負するなんて誰も考えていない時代だ。
それまでにアメリカで日本のミュージシャンがヒットを飛ばすなんて坂本九しかいなかった。その坂本九の「上を向いて歩こう」にしても、たまたま1962年イギリスのケニー・ボールが来日し、そのメロディーを気に入り母国に持ち帰ってレコーディングしたことが始まりで、その流れからアメリカのDJが元歌を調べ始め、最終的にキャピトルと契約し、ヒットした。つまり、“売った”のではなく“売れた”ということだ。・・・そんなフロックはさておき、矢沢は殴りこみをかけると言う。
ジャズのインストゥルメンタルならまだしも、言葉の問題があるだろうと矢沢ファンの私でさえ思ったくらいだから、一般の音楽ファンは呆れたコメントを垂れ流していた。

 1980年渡米。レコード会社も移籍し、アメリカではアサイラムと契約した。そして2年後、本当にドゥービー・ブラザースのメンバーを連れて凱旋公演を行なった。この模様はテレビ中継もされ、矢沢があの頃のままのテンションでバンドメンバーと英語で会話しているところも放映された。本当にびっくりした。なぜ、ドゥービーだったのかは置いておいても、ロックのトップミュージシャンが矢沢のバックにいることが衝撃だった。それまでは、ジャズの世界であれば、渡辺貞夫や日野皓正などはリー・リトナーやジョン・スコフィールドと競演したとか、デイブ・グルーシンとアルバムを作ったなどという話はあったが、ロックのジャンルで世界と渡り合っているミュージシャンなどいなかった。しかも、バックバンドにしているなんて考えられなかった。
私が高校3年の夏の出来事だった。

 それから、私はバンド仲間や音楽好きと話をする中で、「日本のロック?ぜんぜん駄目だよ。でも矢沢は別。好き嫌いは別としてあれには何も言えない」という言葉を多く聞くようになった。認めさせてしまう行動力と結果が矢沢の生きる糧なのか。
 そんな矢沢でもアメリカでの当初の活動は、決して順風満帆ではなかったようだ。アメリカに渡り発表したアルバム『YAZAWA』(1981)は、アメリカでは2,000枚しか売れなかったというし、レコーディングをしていても意思の疎通が中々上手くいかなかった。しかし、その後『YAZAWA It's Just Rock'n Roll』(1982)の中の「ROCKIN' MY HEART」がヒット。1982年の凱旋公演につながる。矢沢は、日本で相変わらず長者番付トップを維持していたが、アメリカからは離れようとせず、結果的に『FLASH IN JAPAN』(1987)を発表。全米での売上げ枚数は5万枚となり、彼の言う「おとしまえ」をつけた形となった。
私が大学2年の初夏のことだった。

 それからの矢沢の弾け方はここに記す必要も無いだろう。イギリス・ウェンブリースタジアムでロッドやボン・ジョビと競演、2014年までに日本武道館公演は132回を数え最多公演記録を更新中である。
オーケストラとの競演やディズニーでの歌唱など矢沢のフィールドは限りなく広がっている。そしてハードなコンサートに向けての準備も怠らない。66歳の鋼の身体は1日では成り立たないのだ。
 サントリープレミアムモルツの広告の中の66歳の矢沢永吉は、今でも表参道をウォーキングしているのだろうか。

2016/1/8
花形
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by yyra87gata | 2016-01-08 17:09 | 音楽コラム | Comments(2)

ワイルドなルー・リード

  
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 今回はルー・リード。この人もう死んじゃったからこの世にいないんだけど、ものすごく変わった人。
でも、安心してください。名盤ありますよ。
『トランスフォーマー』(1972)は一番とっつきやすい作品で、ヒット曲もあります。「ワイルドサイドを歩け」なんて格好良いです。男のアルバムです。っていうか、ジェンダーフリーな内容というか、火遊びというか、とにかく“こんなすごいことやるかい?さぁ、ワイルドに行こうぜ・・・へへっ”と挑発する歌です。ま、ロック精神ですね。

 で、ルー・リードなんですが、詳しいプロフィールは各自ググってもらえればいいので、ここでは書きませんが、とにかく破滅型の人です。でもちょっとだけ書きますと、ベルベットアンダーグランドとして1965年にデビューし、ニューヨーク・パンクのみならず、その後のロンドン・パンクやオルタナティブ・ロックの源流を作った人と言われてます。アンディ・ウォーホールやパティ・スミス、ジョン・ケイルなどと活動を共にしておりましたが、奇行といいますか、乱暴者といいますか、とにかく思い込んだら突っ走ってしまう人のようで・・・もう少し自分を抑えられていたら・・・あ、それじゃ、この人の存在価値がないですね。
日本で言うなら内田裕也さんみたいな人です。鏡に映った自分の顔にガンつけられたから鏡をパンチしたら血だらけになったというとんでもないエピソードが裕也さんにもありますが、ルー・リードはそんなエピソードの塊みたいな人です。ま、本人いたって素直な人・・・いや、自分に素直な人。
でもって、今回はいろいろなエピソードを記載しますので、その後、是非『トランスフォーマー』を聴いてみてください。なにかを感じると思います。そんでもって、ちゃんとロックの殿堂入りもしていますから、ある意味、常識を逸した最後の「音楽家&詩人」だったかもしれません。

 名言とエピソード転記します。いろんなところから集めてきましたので、信憑性に欠けるかもしれませんが、洒落で読んでいただければ幸いであります。

~名言~
「音楽がすべてだ。みんなそのために死ぬべきだ。他のものなら何でも命を投げ出すというのに、どうして音楽じゃだめなんだ?」

「生きるということは、ポニーにサンスクリット語を読み聞かせるのに似ている」

「過去にこだわるには、人生はあまりにも短すぎる。僕は未来を見つめたい」

「現実を扮装するなんて俺には理解できない。
何かをよりきめ細かにみせるために化粧を使うなんて理解できない」

「ダンスに行きたがる人もいれば、働かなければならない人もいる。
悪魔のような母親さえいる。
奴らは君にこう告げる、すべてはただの汚物だと」

「ロックンロールの歌を通して出来ることがたくさんあると常に信じている。
ロックの歌にシリアスな歌詞を書くこともできるんだ。
もしビートを失わずにやれたらな」

「ロックンロールとは、パワフルでエモーショナルで簡潔で表情豊かで直接的なものなんだ。なぜならロックンロールには、人間の鼓動の基本があるからさ。その部分に、人間は即座に共鳴できるんだよ」

「すべては必然だと思うんだ。あらゆることは起こるべく時に起こるんだ」

「怒りについて、夜明けとともに訪れる罪の意識について、奴らに教えろ。
花について、許すことの美しさについて、奴らに教えろ」

なんか、いいでしょ。詩人ですな。でもこの後、ちょっと趣が変わるのであります。

「俺は酒を飲むことでドラッグを止めようとした」

「俺は他人のノスタルジアが好きじゃない」

「目には目をは基本だ」

「最初に学ぶのは、常に待たなければいけないということ」

「僕が君の鏡になろう 君という人間を映し出してやる もし君が知らないのなら」

「俺の1週間はお前の1年に勝る」

「人生はマヨネーズソーダのようなもの 人生は部屋のない空間のようなもの。
人生はベーコンとアイスクリームのようなもの。
君のいない人生なんてそんなもんさ」

「俺が男だか女だかわからないって?それを聞いてお前はなにをしてくれる?」

「最後に質問がある。何故、俺は日本人に人気が無いんだろう?」

知らんがな!ってなりますよね。なんか、破滅的になってきたでしょ。
では、続いてエピソード編。すごいよ。

~エピソード~

「スピード(幻想麻薬)を打ちまくって3日に1度しか眠らず、あらゆるドラッグから引き起こされる症状をソングライティングに反映するという実験を試みていた」

「ステージ上でのヘロイン注射」

「彼はバイセクシュアルだとされ、10代の頃に電気ショック療法を受けている」

「レストランでボウイと喧嘩になってボウイをボコボコにして立ち去り。残されたボウイは泣きながら植木鉢を破壊した」

「パティ・スミスに“あんたみたいな嫌な人間がどうしてあんなに美しい音楽を書けるの?”と難癖を付けられた」

「朝日新聞の記者がインタビューをするために楽屋に入った時、ちょっと咳き込んだ。ルー・リードが"風邪引いてるのか?"って訊くと、その記者は心配してもらってると思って「ちょっと」って答えたら、「今すぐここから出てけ!」って怒鳴られた」

「ある日本人が、ニューヨークのゲームセンターに行ったらルー・リードがいたので、“握手して下さい!”と声をかけたら、数秒後に、“お前が声かけたからハイスコア逃しただろ!”と言ってぶん殴られた」

「ルーリードの90年来日時の記事で、都内移動中に右翼の街宣車に遭遇し同行記者に、“彼らは三島(由紀夫)のようなものか?”と尋ねた」

「アート・リンゼイのライヴを見に行き、楽屋でずっと黙りこくっていたが、ようやく口を開けたら“君は歌うのと同時にギターを弾こうと考えたことがないのか?”と聞いた」

「ノイズだけで1時間という『Metal Machine Music』(邦題:無限大の幻覚)(1975)出したあと"あれは冗談でした"って言った」

「カンフー好きが高じて2004年の来日公演では自分のカンフーの師匠をステージに上げて演舞させたが、バンド・メンバーたちは困惑しメンバーの1人は“よくわからないけど、ルーの希望だから”と苦笑いしていた。あまりの不評に、翌年からは演舞はなくなった」

「エフェクターボードの第一人者ピート・コーニッシュのボードを愛用しており、空間系の音作りでは数十通りもすぐに出せるように調整されていた。しかし、レコーディング中、ワンフレーズに悩み、数時間もかけた挙句、コードを引き抜きアンプに直でつないで“これ”と言って30秒で終了した」

「スーザン・ボイルに“お前の歌い方、嫌いだから”と自分の曲「パーフェクト・デイ」をカバーするのを止めさせて泣かせた」

「でも、その後カバーの許可を出した上、スーザンのビデオのプロデュースまでやった」

「新宿厚生年金で、1曲目「スゥイート・ジェーン」のイントロを中断して、“何故スリーコードの曲しか書かないのかと訊かれるけど、ほら、これはコード4つだ”と弾いてみせた」

 なんか、楽しくなってくるでしょ。
この人、何度も書くけど、自分に素直なんだよね。だから太くて短い人生(ワイルドサイド)を歩いた、と言うより走りきったんだろうね。

 ちなみに私は、『ベルリン』(1973)を中学生の時に聞き、全然わからなかったんだけど、
男になってから聞き直したら、なんかしっくりきた。

ワイルドだろ~。(古いな・・・)

2016/1/5
花形

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by yyra87gata | 2016-01-05 08:19 | 音楽コラム | Comments(0)

岡村靖幸とYouTube

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YouTubeという媒体はミュージシャン側からしてみれば厄介なものなのかもしれないが、音楽を検索する側からするとこの上なく便利なツールである。
CDショップに行かずして音楽が検索できるだけでなく、中にはレア音源などをアップしている方もいて得した気分になることもある。それが著作権法に違反しているかどうかはともかくとして、とにかくそのような流れがネットでは出来上がっていることは事実なのである。
さて、いつものように私はYouTubeに向かい、好きな音楽を検索していた。
すると約30年前の岡村靖幸のライブがアップされていた。1987年のライブで彼がまだプロのシンガーになって2年目の映像だ。
曲はデビュー曲の「Out of Blue」(1986)。
この曲、私には個人的な思いがあり、特別な曲だ。

当時大学生だった私が初めてラジオで聴いたこの曲。1986年の年末、岡村靖幸がラジオに出演していてなにやら妖しい雰囲気でこの曲を紹介していた。
ラジオなので映像が見えない分、新人とは言いつつ “ものすごい自信”と“世界を変えてやる”といった大それたことを真面目に語る彼に対しどんな人なんだろうと思いながら、興味を馳せた。
音楽はそれまで日本になかったファンクリズムと妙にメロディアスな楽曲がマッチし、私は彼の音楽の虜になったが、私の周りで彼を理解する人もおらず、1人ウォークマンを聴く日々が続いた。
その後はたまに出るTV(「笑っていいとも」にも出ていたのを見たことがある!挙動不審で異様な雰囲気だった!)で彼の動向をチェックするくらいでライブにも足を運ばなかった。なんせ、女性人気がすさまじく、気後れしていたのかもしれない。
ただ、音源だけは常に聴いていた。
そして、1989年4月発表のシングルCD「ラブタンバリン」で岡村靖幸に改めて開眼する事件が起きた。それは「ラブタンバリン」ではなく、そのカップリングで収録されたデビュー曲「Out of Blue」のライブヴァージョンを聴いたときだ。
このアレンジにやられたのだ。がむしゃらにオベーションを弾く岡村に分厚いバンドサウンドがかぶってくる。けっして安定しているリズムではないが、鬼気迫る演奏という表現が合うパフォーマンスがスピーカーから響き、私は何度もリフレインした。
重厚感のベースと鋭いギターカッティング。最後のサックスソロに至る盛り上がりは格別。どことなく親近感のわくソロだったということも気に入った要因のひとつだった。
その時から私の岡村靖幸のベストパフォーマンスとして記憶され、常にヘビロテのヴァージョンとなった。

時が経ち・・・
最近YouTubeで音楽を検索していると岡村靖幸にたどり着いた。そこには「Out of Blue」のライブが掲載されていた。
コレは、と思い再生。
音源は・・・あのCDシングルのまんまそのまま。ということは、あのシングルカップリング曲はこのライブビデオからの音源だったということがわかった。
そういえば、岡村靖幸のライブは何度か見たが、ライブビデオまでチェックはしていなかった。

さて、映像は順調に進む。私の好きなエンディングに向けてバッキングメンバーのパフォーマンスにも力が入る。グイグイ引っ張るベースと正確なカッティングを施すギター。
そして、決め手のサックスソロ。いつもウォークマンで聴いていたあの音源の画像がこんなに簡単に見れるなんて良い時代だと思いながら・・・

あれ?小島さん?
私が大学時代に最初に組んだ(入れてもらった)バンドのサックス奏者が岡村靖幸の横で吹きまくっているではないか。
ありゃりゃりゃ。一気に学生時代に逆戻り。なんで?え?そりゃそうだ、1年間ずっと小島さんのサックスを聞いていたんだ、そりゃ、岡村靖幸の曲だけどどこか親近感があったのはこのせいかよ・・・って。
片方の肩を落としながら前かがみで吹くスタイルはあの頃のまま。でもその映像自体が1987年のライブだけど。
小島さんはその後永井真理子や宮原学、泉谷しげる、吉田拓郎のバックを経てハウンドドッグに入る。しかし岡村靖幸のバックもやっていたとは知らなかった。
でも、ずっと好きだったヴァーションが実は身内が吹いていたと言うところにちょっと感動した。

小島さんはもうこの世にはいないが、この映像で甦ることを知り、YouTubeに感謝した。
甦る記憶と共にこのライブヴァージョンは永遠のものになった。

※ライブ:岡村靖幸 イケナイコトカイ Love φ Sex 88 DATE

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2015年11月30日
花形

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by yyra87gata | 2015-11-30 14:25 | 音楽コラム | Comments(0)