音楽雑文集


by yyra87gata

カテゴリ:音楽コラム( 112 )

日本武道館

 
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 1964年の東京オリンピック、柔道の競技会場として建設され、その後は日本の武道の聖地として位置づけられている日本武道館(以下武道館ね)。
その大きさと立地から企業や学校の入社式や入学式、株主総会などにも使用される多目的建造物である。私は予備校の入校式(そんなもん行くなよ!)でアリーナ。大学の入学式で1階席。卒業式で2階席といった具合に着席し、その席の場所からもわかるようにどんどんメイン舞台から離れていったことが私の勉学に対する姿勢を表している気がする。・・・どうでもいい話だが。

 武道館は、多目的建造物という括りであればご存知の通り音楽会場にも数多く使用されている。私が武道館を一番利用しているのはまさにこの音楽鑑賞の場所であって、決して柔道でも剣道でも新年書初め大会でもない。
 中学生の頃から音楽鑑賞を目的にちょくちょく通い始め、昨年のクラプトンで50回を数えた。もう通い慣れたので緊張などしないが、学生の頃は武道館の敷地である北の丸公園に入ったあたりから気分は高揚し始めたものだ。いや、九段下の改札を出て、帰りの切符を確保するために事前に切符を購入する時にはすでに興奮していたかもしれない。
 1980年前後の当時の首都圏の音楽会場事情としては、代々木オリンピックプールでコンサートは開催していなかったし、東京国際フォーラムも横浜アリーナも横浜パシフィコも埼玉アリーナも無かった。NHKホールが音楽専門の会場では一番大きく、その次は中野サンプラザや渋谷公会堂といったパブリックなホールであった。だから、武道館レベルでの収容人数がある会場が今ほど無く、武道館公演と聞くだけで興奮したものだったのだ。

 武道館が日本の音楽会場のメッカとなった瞬間は、間違いなく1966年にビートルズがコンサートを開催した時だろう。ジョンが「ミスター・ムーンライト」を叫んだ瞬間に日本全国のミュージシャンの憧れの場所になったに違いない。いや、ビートルズ派で無いミュージシャンだとしても、少なくとも「凄いことをしてくれた」と思っただろう。日本の武道の殿堂で髪の毛の長い外国人がそれまでの日本には無いやかましい音楽をかき鳴らした。そして、ティーン・エイジャーはその騒音よりも大きな騒音で彼らを快く迎え入れたのだから。
 ビートルズ公演。
武道館の競技スペースに彼らの舞台が設営されており、そこに堅忍不抜で技を極める武道家の姿は無く、ただ聴衆の収容人数だけを考え、コンサート会場として使用したに過ぎない。増してや、もともと音楽を奏でる建物では無いので、音はぐるぐる回るし、大きな音を供給するPAシステムも無い時代である。が、しかし「ビートルズが立った舞台、いつかは俺も武道館のステージに立ちたい」と思うミュージシャンが続出したことは事実なのだ。
しかし、武道館はフォークソングの音楽集会に使用されることはあっても日本のミュージシャンが単独で公演をすることは無かった。1970年代半ばまではフォークだ、ロックだと騒いでいるのは一部のリスナーに過ぎず、音楽ビジネスとして成立していないサブカルチャーであった日本の軽音楽に、収容人数約1万人を超える武道館は大きすぎた。だから、観客収容人数の関係から大物外国人ミュージシャンが来日した時に使用される会場という認識が我々の世代は強いと思う。

 武道館で日本人単独公演を初めて行なったミュージシャンは誰だとよく話題になるが、実はバンドで言えばGSブーム全盛時のタイガースが1968年に公演を行なっている。そして単独アーティストの公演となると西城秀樹が1975年に武道館公演を開催した。
日本の音楽も成熟し、フォークからニューミュージックへと移っていった1970年後半。よく、南こうせつだ、とか矢沢永吉だとか騒いでいたが、「日本シンガーソングライター初」とか「日本ロックアーティスト初」といってレコードを売り出す文句に使われただけのことで何の意味もなさない。
そんなことよりも、私が「日本武道館」と聞いて思い出すことがある。
 1982年1月12日に開催された浜田省吾の公演である。
その告知はいきなり街中に貼り出された。そして、そのポスターには「浜田省吾 日本武道館公演 1月12日」とデカデカと記載されていた。
「浜田省吾?ちょっと前に『風を感じて』のヒットはあったけど武道館?これ、絶対ガラガラだろう!客なんか入んねぇよ」
「無謀というかなんというか・・・」
私の周りの人間はみんな口々にその公演を非難した。
しかし、ふたを開けてみたらチケットは即日完売。たった1日だけの公演ではあったが、武道館公演を成功させたと言う事実がその後の音楽雑誌の紙面を飾り、その公演を収めたライブアルバム『ON THE ROAD』(1982)もヒットした。
武道館公演に賭けた男の仕事。それ以降の浜田省吾の人気を不動のものにしていく。高校生だった私は、これもひとつの販売戦略なのだと思いつつも、武道館という存在が作り出す目に見えない力を目の当たりにした瞬間であった。
 
 私は武道館には神々しい音楽の神様が宿っていると信じている。
武道館はお世辞にも音楽を聞かせる会場としては決して良い環境とはいえないが、会場に一歩足を踏み入れて、北スタンド側を潰して設営された大きな舞台が目の前に飛び込んでくると今でもわくわくする。
イントレが組まれ、照明が吊られ、スピーカーが舞台の左右にうず高く並べられている。白い柵で舞台と客席は仕切られ、ブロック毎に分けられたパイプ椅子が整然と並ぶ。そんな荘厳な場所でアリーナ席のEブロックやFブロックといった中央の席に座るときの優越感といったら無い(現在はいつの頃からか席の呼び名が変わり、前からABCと3つに分かれて区分けされている。しかし私はいまだにA~Zまでの区分けが染み付いている)。武道館公演は特別なコンサートであり、その感情はきっとこれからも変わらないだろう。
 ちなみに私が今まで見た武道館で一番興奮したものは、1991年4月のジャンボ鶴田VS三沢光晴。「三冠統一ヘビー級選手権60分1本勝負。
この時のジャンボはすごかった。鳥肌が立つほど強かった。いまでは2人とも天に召されてしまったが。

 あ、音楽で言えば・・・1986年のボブ・ディラン公演か。
バックをトム・ぺティ&ザ。ハートブレイカーズで固め、超絶にかっこよかった。確か、3時間半位演奏していた気がする。
あんなディラン後にも先にも見たことが無い。

 2020年の東京オリンピックでは空手の会場になることが決定した日本武道館。まずは良かった。
老朽化だから取り壊すなんてことは無いようにメンテナンスをお願いしたい。渋谷公会堂も中野サンプラザも大阪フェスティバルホールもみんな老朽化でなくなってしまったからね。

2017/01/30
花形
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by yyra87gata | 2017-01-30 21:48 | 音楽コラム | Comments(0)

ディランとノーベル賞

 
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 「テレビに出ない」なんて40年も前に拓郎は言い放ったわけ。で、これはいろいろと話が造られていってセンテンスだけが生き残っちゃったんだけど、真意としては、少ない出演時間では自分の音楽性は表現できるものでは無い。一つの作品をテレビサイズに分割して3分間で歌うことは本意ではないと。だから、テレビに出るのであれば、それなりの時間を割いてくれるのならば出る、などなど。
歌謡曲全盛の時代にフォークだかロックだかよくわからない若造が、何を生意気なことを言っているんだということで当時の芸能界は騒然となったわけ。
拓郎も若くて血気盛んだからマスコミ相手にラジオで「あんまり人のことをかぎ回ると、あんたら地獄へ行くよ」などと叫ぶ。もう、公然とケンカしている。
 例えばテレビに出てインタビューに答えても、都合の良いように編集をされてしまうから、自分の意志とは違った内容がオンエアされることもあったという。そして、拓郎はマスコミ不信に陥る。
でも、そんな芸能界も拓郎人気には擦り寄って行かなければならないこともあり、拓郎のワンマンショーをテレビでオンエアしたり、歌謡曲の歌手への作曲依頼をしたりと持ちつ持たれつの関係もあった。
そして、2000年を過ぎ、拓郎も50を過ぎたあたりからテレビの中で若いアイドルと笑顔で気楽に歌う姿が毎週流れるようになった。時代は変わる。

 で、ディランなわけ。
ディランってもう怪物なんだよね。特に英語圏でない日本人からしてみたら、あのダミ声で滅茶苦茶に聞こえる歌唱をアメリカ人は何故あんなに有り難がって聴くのか。
「分からない」=「怪物」なの。歌っていることも難解だし。
 2016年12月10日の「NHKスペシャル」はディラン特集。もちろんノーベル文学賞を受賞したからNHKもわざわざ特集を組んでみたわけだが、ハッキリ言って想像通りの内容だったというか何と言うか・・・。
「ディランのこと・・・なにも分からない」ということが分かった番組だった。
 ディランの文学という観点から詩を切り取るが、その詩に対して予言的だとか神仏的だとか、意見は出るが、あくまでも第三者の想像を出ていない。そして勝手に語る。しかも、ディランが書き残したメモを見ながら、詩の構成について論じ始める。もうこうなっては詩の本質から離れていく。誰も中身を語ることが出来ない・・・つまりはディランが沈黙しているからこういう番組になるんだ。

 だって冒頭の拓郎じゃないけど、「テレビに出ない」ってディランはいまだに言っていて、既に30年以上テレビの取材を受けていないということをナレーターは絶望的に語っていた。
 ディランって今75歳。30年前・・・45歳からテレビの取材を受けず、「ネバーエンディングツアー」と呼ばれる終わることの無いツアーに出ている。もう、まさに現代の吟遊詩人なのだ。
ツアーバンドを引き連れ、時にはバスで、時には列車でアメリカ~世界を旅する。曲順などステージに上がる前に決めることも多々あるそうだ。
ディランが歌いたいようにバックミュージシャンは合わせていく。ドラム、ベース、ギター×2、スチールギターという編成で、最近ではディランがピアノを弾く。
ある程度決め事はあるのだろうが、それぞれのプレイヤーは全てディランの頭の中とシンクロしながら、それぞれにディランが憑依したようにプレイしている。
そんなステージを繰り広げながら、ニューアルバムを制作している現実。
 市井の戯言などは気にしない爺さんになっているんだ。
ディランはいまだにライク・ア・ローリング・ストーン(転がる石のように)であり、
ノー・ディレクション・ホーム(帰る家はない)なのだ。
 
 ディランは過去にもNHKの特集番組を組まれたことがある。1978年初来日の時だ。
「ルポルタージュニッポン ボブ・ディランがやってきた」。なんだか海の向こうから黒船でもやってきたかのようなタイトルだが、まさに黒船に匹敵するインパクトだったのだろう。しかし、この時もディランは何も語らない。せいぜい初来日の記者会見の一部が流れただけで、番組構成はディランについて人々が勝手に自分の目線で語ると言うもの。
つまり、38年前の番組と今回の番組は手法こそ違え「ディランってよくわかんないね」ということがわかったんだ。
 私はディランをずっと聴き続けてきているから、今回の番組の雑さ加減なんて想像通りだったわけだが、ディランを知らない一般人は「結局この人、偉いの?」「村上春樹の方が良かったんじゃないの?」なんて感想が溢れるという結果に陥るだろうなと危惧する。
 
「テレビに出ない!」「授賞式は先約があるから出ない!」そうやって75歳の偏屈爺さんが正式に言っているんだから放っておけばいいのだ。
 今回のノベール賞騒ぎで、いつものように流浪の旅に出ているディランに連絡がつかないから「変な爺さん」って大勢の人に擦り込まれてしまったわけだが、ディランにしてみたら、迷惑な話で「ほっといてくれ!」って思うかもしれないな。

でもそんなディラン・・・ノーベル賞の授賞式の受賞コメントが紹介されている。非常に的を得たディランの言葉。
そして表彰式にてディランチルドレンとも言えるパティ・スミスの「激しい雨」のパフォーマンス。
力強さと可愛らしさが同居したパティの歌唱は感動的だった。途中演奏を止めてしまうアクシデントはあったにせよ、歌っている詩に感銘してしまい言葉を失ってしまうなんて、言葉の力を見た思いだった。

 「ディランの受賞スピーチ」(全文)
皆さん、こんばんは。スウェーデン・アカデミーのメンバーとご来賓の皆さまにご挨拶申し上げます。

本日は出席できず残念に思います。しかし私の気持ちは皆さまと共にあり、この栄誉ある賞を受賞できることはとても光栄です。ノーベル文学賞が私に授与されることなど、夢にも思っていませんでした。私は幼い頃から、(ラドヤード)キップリング、(バーナード)ショー、トーマス・マン、パール・バック、アルベール・カミュ、(アーネスト)ヘミングウェイなど素晴らしい作家の作品に触れ、夢中になってのめり込みました。いつも深い感銘を与えてくれる文学の巨匠の作品は、学校の授業で取り上げられ、世界中の図書室に並び、賞賛されています。それらの偉大な人々と共に私が名を連ねることは、言葉では言い表せないほど光栄なことです。

その文学の巨匠たちが自ら「ノーベル賞を受賞したい」と思っていたかどうかはわかりませんが、本や詩や脚本を書く人は誰でも、心のどこかでは密かな夢を抱いていると思います。それは心のとても深い所にあるため、自分自身でも気づかないかもしれません。

ノーベル文学賞を貰えるチャンスは誰にでもある、といっても、それは月面に降り立つぐらいのわずかな確率でしかないのです。実際、私が生まれた前後数年間は、ノーベル文学賞の対象者がいませんでした。私はとても貴重な人たちの仲間入りをすることができたと言えます。

ノーベル賞受賞の知らせを受けた時、私はツアーに出ている最中でした。そして暫くの間、私は状況をよく飲み込めませんでした。その時私の頭に浮かんだのは、偉大なる文学の巨匠ウィリアム・シェイクスピアでした。彼は自分自身のことを劇作家だと考え、「自分は文学作品を書いている」という意識はなかったはずです。彼の言葉は舞台上で表現するためのものでした。つまり読みものではなく語られるものです。彼がハムレットを執筆中は、「ふさわしい配役は? 舞台演出は? デンマークが舞台でよいのだろうか?」などさまざまな考えが頭に浮かんだと思います。もちろん、彼にはクリエイティヴなヴィジョンと大いなる志がまず念頭にあったのは間違いないでしょうが、同時に「資金は足りているか? スポンサーのためのよい席は用意できているか? (舞台で使う)人間の頭蓋骨はどこで手配しようか?」といったもっと現実的な問題も抱えていたと思います。それでも「自分のやっていることは文学か否か」という自問はシェイクスピアの中には微塵もなかったと言えるでしょう。

ティーンエイジャーで曲を書き始めた頃や、その後名前が売れ始めた頃でさえ、「自分の曲は喫茶店かバーで流れる程度のもので、あわよくばカーネギー・ホールやロンドン・パラディアムで演奏されるようになればいいな」、という程度の希望しか持っていませんでした。もしも私がもっと大胆な野望を抱いていたなら、「アルバムを制作して、ラジオでオンエアされるようになりたい」と思っていたでしょう。それが私の考えうる最も大きな栄誉でした。レコードを作ってラジオで自分の曲が流された時、それは大観衆の前に立ち、自分のやり始めたことを続けられるという夢に近づいた瞬間でした。

そうして私は自分のやり始めたことを、ここまで長きに渡って続けてきました。何枚ものレコードを作り、世界中で何千回ものコンサートを行いました。しかし何をするにしても常に中心にあるのは私の楽曲です。多種多様な文化の多くの人々の間で私の作品が生き続けていると思うと、感謝の気持ちでいっぱいです。

ぜひお伝えしておきたいことがあります。ミュージシャンとして私は5万人の前でプレイしたこともありますが、50人の前でプレイする方がもっと難しいのです。5万人の観衆はひとつの人格として扱うことができますが、50人の場合はそうはいきません。個々人が独立したアイデンティティを持ち、自分自身の世界を持ち、こちらの物事に向き合う態度や才能の高さ低さを見抜かれてしまうのです。ノーベル委員会が少人数で構成されている意義を、私はよく理解できます。

私もシェイクスピアのようにクリエイティヴな試みを追求しながらも、「この曲にはどのミュージシャンが合っているか? レコーディングはこのスタジオでいいのか? この曲はこのキーでいいのか?」などという、避けて通れぬ人生のあらゆる俗的な問題と向き合っています。400年経っても変わらないものはあるのです。

「私の楽曲は文学なのか?」と何度も自問しました。

この難題に時間をかけて取り組み、最終的に素晴らしい結論を導き出してくれたスウェーデン・アカデミーに本当に感謝しています。

ありがとうございました。





どうっすか。ここでもディランは問いかけているね。「私の楽曲は文学なのか?」と。

 さっきから、ディランのことが分かったような感じで書いているんじゃねぇよ、って?
私?わかんないよ、ディラン。でも分かろうと努力しているよ。体系的にアルバムを聞くとその時々のキーワードが出てきたり、独特な歌いまわしがあったり。ディランはプロデューサーによっても作品は全然変わって来るし。
しかし、私の意見はディランが詩を評価されノーベル文学賞を取ろうが取るまいがそれはどうでもいいことで、ディランも問いかけていたように私はディランの音と一緒に詩を長年聴いているから、彼の詩と文学が合致できないんだよね。
人が評価することだからいろいろと意見はあって良いものだけど、ディランの楽曲は文学じゃないと思うよ。そんなことより、彼の「時代を読んだ痛烈な着眼点」と「それに呼応する楽曲」。そして「彼そのもの」。
どちらかと言うと彼の生き様を見ていることが好きなのかもしれない。

だから、詩の世界は研究者にお任せしますよ。

 改めて書くけど、ディランは現代の吟遊詩人なんだよ。ギター一本でどこにでも行き、西に悲劇があれば、東にそれを伝え、北に愛があれば、南で花が開くように歌う。戦争、人種差別から家庭、恋人の笑顔まで物語を創作していく。それがディラン。
ノーベル賞はどうでもいい。
彼があと何年ステージ立ってくれるかだけ。
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2016年12月12日
花形

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by yyra87gata | 2016-12-12 20:12 | 音楽コラム | Comments(0)

はじめてのライブハウス

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 昔のライブハウスの敷居は、高かった気がします。
今ほどライブハウスの数もなかったから、バンドマンは狭き門を一生懸命くぐろうとしたのかもしれません。
今から35年前くらい・・・1980年あたり・・・私の高校時代、ライブハウスに出る友達なんていませんでしたね。ライブハウスは、プロのミュージシャンを観に行くことはあったとしても、我々が出るところではなかったです。だから、今の高校生がライブハウスをパーティー会場にしたり、それこそ高校生バンドが何組も出演したりしていると隔世の感がありますな。
ですから、ライブハウスとはそんな場所だったので、アタシが初めてライブハウスに出た時・・・それはそれは驚きの連続でありました。
 
 アタシは大学に入り、音楽サークルに席を置きのんびりとドラムでも叩いて過ごそうかと思っていたのですが、ひょんなことから先輩のバンドに入れられ、エレキギターを担当することになってしまいました(この話はアタシの『はなっちの音日記「オイラはドラマー・・・」、「輸入ギターについて」』に詳しいっす)。
当時のアタシはフォークギターこそ弾き語りレベルで弾ける腕前はあったと思いますが、エレキギター、しかもリードギターなんて、あーた、全然やったことない。しかもそもそもエレキギターを持っていない。そんなアタシに何故エレキギターを?と思いながらも先輩の言うことは絶対でありましたので目を泳がせながら頷くしかありませんでした。
 さて、そんなこんなでギターも購入し(ギブソンSGだよ、ビンテージだよ、父ちゃんを無断で連帯保証人にしてクレジットで買っちゃった!やる時はやるのよ)、エフェクターも買わなくちゃということで歪みものはBOSSのロッカーディストーション(これ名機だったなぁ。ペダルで歪みが変えられるんだぜ)、空間系はローランドのSDE1000(ラックのディレイですな。アタシ、コンパクトエフェクターってあんまり好きじゃないのよ。シールドに刺さってる小さい箱って引きずるとなんか犬の散歩みたいでしょ。とにかく「ギターマガジン」とか一気に読みまくって当時揃えられる最善を尽くしたのさ)を揃え、先輩のバンドに参加したのであります。
 アタシの指はフォークギターに慣れていた指ですから運指は遅いわ、強く指板を押さえるから柔らかいエレキの弦に四苦八苦しました。
「お前のギター、チューニング合ってるか?なんかピッチ悪ぃぞ!」と先輩から怒鳴られ、
「いや~チューニングメーターであわせてますからね~」とか応えながらポーンとギターを爪弾くとジャストチューニング。
先輩は首を傾げ、「お前の弾き方が悪ぃんだな。もっとちゃんと弾け!」とか言われる始末。
アタシは心の中で『だから何で俺をエレキギターで誘ったんだよ!ドラムだったらチューニングも無いし(実はあるのよ)、楽だったのになぁ~』なんて思いながら、引きつった笑顔で「がんばりまっす!うっす!」なんて言いながらやってました。

 人間やる気になればなんとかなるもので、そこそこ練習はしましたが、当時からはったりだけは効かせるテクニックを持ち合わせていたアタシは、何となくエレキギターの重責をこなしていったのであります。
当時の我々の発表の場は学校のサークルですから当然学内。大講堂を貸し切って学生相手に披露することがいいところです。
 ようやく柔らかい弦にも慣れてきた頃・・・エレキを弾き始めて2ヶ月位・・・アタシを強引に誘った先輩がサークル内のバンドとは別のバンド(つまり学校外で活動しているバンドですな)にギターの欠員が出たからお前入れ、と言うのです。
ちなみにアタシはちょっと調子に乗っていた頃だったので、別の先輩からのバンドの誘いもあり、そのバンドに加入することも決定していました。
しかし、最初のバンドに誘って頂いた強引な先輩(強引先輩)の命令には従わなければなりませんので、学校外のバンドにも入ることになりました。
ちなみに、私を誘う2名の先輩は2名とも完全プロ志向の人で、音楽のことやいろいろなことを教えてくれましたが、唯一ギターの弾き方だけは教えてくれませんでした。なんで?
さて、その強引先輩のバンドはオリジナル中心で、カバーをやるとしたら全てブルース・スプリングスティーンでした。
 時は1985年。『ボーン・イン・ザ・USA』(1984)でブルースは調子に乗っていた時期であります。しかし、強引先輩も他のバンドメンバーもそんな『ボーン・イン・ザ・USA』には目もくれず、『明日なき暴走』(1975)や『リバー』(1980)といった埃っぽいロックンロールを好んでおり、ラインアップもその頃の歌が並びました。
私は手渡されたブルースのソングリスト5~6曲。オリジナルの譜面7~8曲を見ながら
「これいつやるんですか?」と質問。
「うん?今度のリハまでにやってきてよ。ライブハウスのブッキングはこっちに任せろ。あー、ノルマとか気にしなくていいから・・・」
強引だ。今度のリハって4日後じゃん。しかも、22時~24時というめちゃくちゃなスタジオの取り方・・・。強引だ。強引だ。強引だ。

 私はその強引先輩のことはとても好きな先輩だったんですよ。ホント兄貴みたいな感じで・・・。でも、正直、バンドを3つもやってると力の入り具合や優先順位がプレイに出てしまって・・・恐る恐る脱退を伝えたのであります。
「なに!?そっちのバンドの方がいいってことか?そんなにいいのか!」と言われたとき条件反射のように
「そりゃ、もう!」と応えてしまい。『しまった!』と思いましたが、あとの祭り。
強引先輩から返ってきた言葉は笑いを噴出しながら・・・
「そりゃ、もう!か!・・・よし、わかった。じゃ、これだけは許してくれ。もう、ライブハウスには話を通してしまっているから。出ることが決まっているからキャンセルはできないのね。そこまで付き合ってくれ。年末までに2回ある。それでいいか」
私は頭を下げ、初めての「ライブハウス」という言葉に緊張しておりました。

 私が最初に出演したライブハウスは西荻窪にあったWATT。今から11年前の2005年11月で閉店してしまったライブハウスであります。
 狭い楽屋に3つのバンドが詰め込まれ、出演前に化粧を決める女やヘアスプレーをバンバン吹きまくる男。出番前からかなり酔っ払っているジャンキーみたいヤツが蠢く妙な場所でありました。私は緊張しながらもポーカーフェイスで立ちすくんでおりましたが、そんなところを強引先輩に見抜かれ、バカにされておりました。
ギターアンプはライブハウスの備え付けを使用しました。マーシャルとローランドのジャズコーラス・・・どちらも好きなアンプではなかったのですが、リハーサルスタジオで使ったことがあるジャズコーラスを選びました。サウンドチェックでアンプの調整をしましたが、やはりこのアンプ、私の好きな音が出ない。ヴォリュームをちょっとでも上げるとピーヒョロヒョロヒョロと横笛のようなハウリングが出る始末。『いっつもそうだよ、このアンプ・・・ヴォリュームレベルが2とか3とかって・・・おかしくない?ミリ単位のヴォリュームってどうなの?』なんて思いながら冷や汗をかいていました。『きっとPAの人は嘲笑してんだろうな』なんて思いながらね。
出番であります。サウンドチェックの時もかなり緊張し、モニターの音なんて殆ど聞こえていなかったのですが、もうここまで来たらそんなことも気にしてられません。とにかくベースとドラムの音を聞くことに注力し、無我夢中のプレイでありました。
途中、『照明が当たると客席って見えないもんだな』とか、『ヴォーカルがMCをしている間は、ただ突っ立っていればいいのかな』とか、しょうもないことをひたすら考えておりました。これがライブハウス初出演の感想です。あっという間の40分でありました。地に足が着いていないということでしょうね。

 そしてそのバンドと2回目のライブハウス。つまり今日でお別れね~の演奏。
場所はなんと新宿LOFT。まだ西新宿にあったころのLOFTであります。
『いや、あーた、LOFTなんて名門ライブハウスに私みたいな素人が出ていいのですか?!』なんて思いながら、いつものポーカーフェイスで「おはようございまーす」なんて言いながら店内に颯爽と入っていったのであります。するとモヒカン刈りの大男がジャックダニエルをラッパ飲みしていたり、リスカ跡が痛々しい戸川純の従姉妹みたいな女の子が中空を仰いでいたり・・・あれれれれ、アタシ、場違いだなぁなんて思いながら強引先輩を探したのであります。そして、このライブハウスも名前の割りに楽屋は超絶に狭く、3つもバンドが出演となれば殺気立ってきます。
アタシは平和主義者なのでそんな陣地取りみたいな事で争ったりするのは嫌なのでさっさと荷物をおいて外で一服してましたがね。
 で、サウンドチェック。またもや恐怖のジャズコーラスが鎮座ましましておりますでやんす。
『ひょ~え~!また、お前か!終わった。・・・とっつあん、燃えたよ、燃え尽きた、真っ白にな・・・』なんて気持ちになりやした。
恐る恐るシールドを突っ込み、ゆっくりヴォリュームのメモリを上げました。そのジャズコーラスはいつも使っていたJC120よりも大きなJC160という高出力のモデルだったので、『そりゃあハウリング祭りだわ』なんて気分でメモリを1から2~3位に動かしました。
ピンピン。弦を弾くと大きなスピーカーが4つ搭載されたアンプから可愛い音が出ます。
「おおっ。こ、これは・・・」口走る私。
ディストーションを踏み込み大きな音を出そうかと思った瞬間、PAのトークバックが話しかけてきました。
「あの~ヴォリュームそんなもんですか?それ、最高レベルですか?」
「えっ?はい?あの~ハウっちゃうかな~?大丈夫かな?あれれれ」焦るアタシ。ド緊張。
ギターのヴォリュームを最大にしてジャズコーラスJC160のつまみを上げてみました。
グォーン!というドライブした音が出る。全然ハウらない!
「えーっと、これで・・・」とアタシ。
「はい。OKです。ちゃんと音、出るじゃないですか。シールドかなんかの不具合ですか?・・・じゃ、始めてください。あとはこっちで調整しますから・・・」・・・いい人だ。
アタシは後にも先にもこんなにすばらしいジャズコーラスに会った事はありません。とにかく、気持ちよいクリーントーンでエフェクターのノリも良いすばらしいJC160だったのれす。
 持って帰りたいと思ったもんなぁ。・・・でけぇよ。

 LOFTの白と黒のチェックの舞台。ちょっと前までは、客席からシナロケとかARBとか暴威とか見てたのに、自分がそこに立っていると思うとなんだか不思議な感覚になりましたね。別にプロでもないのにこんなところに立っちゃっていいのかしら、なんてね。
 強引先輩とのバンドは綺麗にその新宿LOFTで終わりました。
その先輩はその後、サックスプレイヤーとして様々なミュージシャンと共にLOFTからホール、果ては武道館まで上り詰めるんですが・・・、それはまた別の話であります。
 
 新宿ロフトが今年40周年を迎えたそうであります。今は場所を歌舞伎町に変えてしまったようですが、老舗のライブハウスの名前は消さないで欲しいですね。
好きなライブハウスって油断してるとどんどん無くなっちゃうからね。

2016年11月28日
花形
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by yyra87gata | 2016-11-28 17:15 | 音楽コラム | Comments(0)
 
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 吉田拓郎のイベントといえば「朝までやるぞ!」でおなじみのオールナイトコンサートである。
拓郎が主催したオールナイトコンサートといえば、1975年にかぐや姫と一緒に開催した「つま恋」。1979年の「篠島」。そして、1985年に再び「つま恋」で開催した3回がある(1987年に南こうせつのサマーピクニックにゲスト出演したオールナイトコンサートもあるが、それは除外)。
 1975年の「つま恋」については、私は参加していないのでビデオや当時の記事、拓郎やこうせつのラジオでの発言、実際に参加された人の話を元に記載するが、このイベントは5万人とも6万人とも言われる観客が一堂に会した当時の日本最大の規模のものだった。チケットが売り切れ、実行することが決定した後もその規模感をつかめる関係者が誰一人もいないという今思えば恐ろしいものだ。
当時もアメリカのウッドストックやイギリスのワイト島フェスティバルの話は海の向こうからのニュースで聞こえていたが、誰もそんなイベントに参加していないし、オールナイトコンサートで45万人とか60万人も集まるということ自体、当時の日本では誰も想像すら出来ない。そのような中、開催された「つま恋」は、日本ビッグイベントの礎となった。

 拓郎はウッドストックがやりたかったわけではなかったという。前年にアメリカでボブ・ディランのライブを観て、大勢の観客が一人のミュージシャンを目当てに集まるという、今となっては至極当たり前のコンサート形式を目の当たりにしただけだ。
 当時の日本は、フォークもロックもマイナーな存在で一人のミュージシャンがコンサートホールを満杯にすることなどできなかった。そして、そのため何組ものミュージシャンが対バン形式で巡業する。当然、客は好みのミュージシャンでは盛り上がるが、そうでないと無駄な時間を過ごすことになる。そんな苛立ちを演者側の拓郎は読み取っていたのだ。だから、自分のファンのためだけのコンサートツアーができないものかという試行錯誤をしていた。
 また、大勢のミュージシャンが出演すると音響も照明も画一化されてしまう悩み。そして、会場ごとに設備も異なるため満足のいく演出も出来ない。また、興業主とのやりとりや運営面での制限も出てくる。
自分のためのコンサート・・・つまり、音響、照明から特殊効果、グッズ販売などのコンサート運営に至るまでのノウハウが無い当時の成熟していない日本の若い音楽。そのノウハウを知るために渡米し、ディランのためだけに遠方から集まるファンの群れを見ながら日本でのビジョンを思い描いたという。

 6万人とも7万人とも言われている観客動員数からもそれは読み取れる(主催者側が人数を抑えて発表するのが通例だが、何故か警察は主催者側発表より少ない5万人と発表した)。PAシステムやインフラ、果てはトイレの数からスタッフの弁当の数まで未開の問題だったという。

 拓郎が夕方ステージに登場。明らかに目は泳ぎ、声は震えている。一生懸命声を前に出しているが、それは緊張からか、どこかおぼつかない。1時間30分のステージ予定時間を半分の時間で終え、さっさと舞台袖に引き上げて来た時、拓郎は緊張で憔悴していた。
 拓郎はそれまでのステージで「帰れコール」の洗礼を一番受けてきたミュージシャンだった。
フォークのプリンスとしてデビューし、第三回中津川フォークジャンボリーでそれまでの岡林信康の地位を揺るがし、ニューリーダーとなるが、「結婚しようよ」「元気です」「旅の宿」などの大ヒットによりフォークのコアのファンからは商業主義とのレッテルを貼られ「帰れコール」の的となっていた。入場料を払い、拓郎が出てくると「帰れ」を連呼する集団。そのような今では想像がつかない状況を肌で感じている拓郎は「つま恋」が決まっても「5万人が攻めてきたらどうしようか」などといった思いが常にあったという。

 かぐや姫のステージ・・・1975年の4月に解散したばかりの3人であったが、拓郎の声掛けにより、急遽再結成。ファンを驚かせたという。
ステージでは、南こうせつお得意のお祭り騒ぎを行なっているが、どこか地に足が着いていない状況で、とにかくステージを進行させることだけに集中していたという。それほどまでに闇に蠢く5万人という群集は演者を狂わせたのだ。

 舞台裏では各地のイベンターや芸能プロダクションの社長達は、日本で初めて行なわれているビッグイベントに興奮していた。普段は仏頂面の社長たちもその時は拓郎やこうせつたちのセコンドの如く彼らに水を与え、タオルで仰ぎながらサポートしていたという。まだ見ぬ頂を誰しもが感じていたのだ。

 ビッグイベントの黎明期は「中津川フォークジャンボリー」や「箱根アフロディーテ」「椛の湖フォークジャンボリー」などが各地で開催されていたが、その集大成が1975年のつま恋であることは間違いない。このビッグイベントがその後のイベントのアイコンとなり数々のイベント生んでいった。
そして、各地のイベンターも拓郎と一緒に大きくなっていったといっても過言では無い。
それまでの労音や民音、または、いかがわしい興業主が介在する興業の世界にイベンターという新たな職業が生まれた。それまでの権利問題など相当な苦労はあったであろうが、若者の音楽は若者がプロデュースしていくと言う気概だけで突き進んだという。
1975年の「つま恋」はコンサートだけでなく、その周辺環境をも変えていったターニングポイントだったのだ。

 拓郎のコンサートは男臭い。轟音が響き、それは大津波のように全てを飲み込んでいく。1975年と1979年の2回のイベントについては、「演奏者」「観客」どちらかが倒れるまでやる、という勢いがあり、コンサート自体は和気藹々と進む中にも緊張感もあり、終演間際になると観客は集団ヒステリー状態となっていく。
特に1979年の篠島は島という閉ざされた空間の中でのイベントであったので、拓郎も観客も逃げ場は無いという気分がアドレナリンを増幅させていた。
 走り続けてきた70年代との決別。そしてその集大成とも言えるアルバム『ローリング30』(1978)を体現したイベントが篠島だった。
ラストの「人間なんて」で拓郎は観客に向かい感謝を述べると共に、「お前らも元気で生きろよ。負けんなよ」と叫び続けた。声が枯れても叫び続けた。
演奏が終了し、真っ赤な朝日が昇ったとき、70年代が終わったと感じた夏であった。
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 拓郎のオールナイトイベントは4年ごとに行なわれるオリンピックのようなものだ、という話を聞いたことがある。1979年の次の開催は1983年・・・。
1983年頃の拓郎はコンサートとレコーディングに忙殺。フォーライフの社長も辞め、ミュージシャンに徹していた。しかし、オールナイトイベントを企画しようとした矢先に候補地であった「つま恋」でガス爆発事故が発生。開催に「待った」がかかってしまった。
時間だけが流れて行く中、1984年が過ぎ、拓郎の言動に変化が起きていた。
予定調和だけのコンサート・・・特定の曲を演奏すれば盛り上がる・・・それ以外の曲の立場は?70年代を追い続ける拓郎マニアたちの勝手な偶像崇拝。拓郎の表現したい曲とファンの求める曲とのギャップ。冷めた感覚の拓郎の言葉がラジオから頻繁に聞こえた。
また、「王様達のハイキング」と題したこの頃のコンサートツアー。
拓郎はこのコンサートツアーで母親に苦言を呈されている。「王様」と自分で名乗ることの恥ずかしさ。傲慢さ。母親の言葉が胸に突き刺さった。
そしてプライベートな問題も加わり・・・。拓郎は疲れきっていた

 オールナイトイベントは突然発表された。1985年夏開催。前回の1979年から6年の年月が経っていた。場所は「つま恋」。
イベント開催発表後、「拓郎引退」「拓郎最終公演は、つま恋のオールナイト」等のニュースが新聞紙面に踊った。それに対して拓郎は沈黙を続けた。
拓郎からは「人生最良の日にしたい・・・」というコメントだけが発表され、その言葉だけが一人歩きをしていた。
 
 1985年夏。つま恋。
何の気負いも無く、その人はゆっくりと少々猫背な姿勢で我々の前に現れた。そして、マイクで「愛しているぜ!」と、いきなり叫んだ。
「今日は俺の人生最良の日にしたい。それを手伝ってくれるミュージシャンを・・・」
と、メンバー紹介が始まった。
いつものイベントなら雄叫びと共に「ああ青春」から始まっていたが、ちょっと調子が狂った。
1985年6月に発表されたアルバム『俺が愛した馬鹿』のレコードジャケットにはテレキャスターのデザイン。そして見開きには拓郎自身を葬るかのように墓標が描かれていた。
そう、引退説が確実視されたのは、このイベント直前に発表されたアルバムのデザインにも関係している。拓郎は、死に場所を求めてこのイベントを開催したのか。
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 拓郎はそれまでのイベントのような気負いも無く、リラックスしながらステージを進めていく。ゲスト出演するミュージシャンたちは、口を揃えて「拓郎、引退するな!」とコメントを入れる。当の本人はにこやかにその風景を見ているだけ。
そんな雰囲気で進められているので、客もそれまでのイベントには無いとても落ち着いたものであった。そこには1979年の「篠島」と同じ緊張感は存在していない。
あの頃とは時代も違うし、我々の置かれた場所も違う。そして一番の違いは拓郎のテンションだ。
とにかく叫ばない。淡々と歌う。ゲストが来たらまるで「さんまのまんま」の明石家さんまの如くゲストのエピソードを話し、歌に入る。
 
 2部が終了し、深夜0時を過ぎてもコンサートは淡々と進む。途中近隣住民から苦情が入り、PAの音量を下げるという一幕もあった。そんなこともあり、なぜか冷めた印象のイベントだった。
 太陽が昇っても全ての曲が終了していなかった。いつまでやるのか、という雰囲気になっていた客もいた。それは誰しもが拓郎と叫びたかったのかもしれない。オールナイトコンサートをやりきる達成感を味わいたかったのかもしれない。
 最後の曲は「人間なんて」でも「アジアの片隅で」でもなく、「明日に向かって走れ」だった。早い8ビートにアレンジされ、歌い回しが変わっていた。そして延々続く青山徹のギターソロ。
演奏が終了し、拓郎が舞台袖に消えた時、私は「拓郎はもうステージには上がらないのではないか」と思った。最後まで肩の力が抜けたステージだったからだ。
但し、拓郎の最後のオールナイトは決して不完全燃焼のイベントではなかった。ただそれまでのイベントとは趣が違っていたということだけだ。ただ、それだけだ。

 それから2年間拓郎はステージに立たなかった。映画出演。テレビのレギュラー出演などそれまでの活動とは異なった動きを見せていた。
それは、本格的に全国ツアーを再開した1988年4月まで沈黙した。そして1988年のステージは衣装もスーツとなり、随分大人の雰囲気になってステージに帰ってきた。それまでのパワーで押すタイプではなくなっていた。

 拓郎のコンサートに行くと、いまだに観客の中から「朝までやれー!」という野次が飛ぶ。70歳を超えたミュージシャンと同年代の観客。それは到底無理なことだが、本音でもある。
拓郎は笑ってスルーし、「あんたらそんなことしたら、もう死ぬよ!」とつぶやく。
でもその言葉には「朝まで伝説」を駆け抜けた男だから言える凄みもある。
 時代を創り、切り開いてきた男の仕事である。

2016/11/4 花形

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by yyra87gata | 2016-11-04 20:12 | 音楽コラム | Comments(0)
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 1989年の冬。昭和から平成に変わった年、かなり長い期間、私はヨーロッパにいた。
卒業旅行と称し、友人と2人でバックパッカーを実践していたのだ。
イギリス、スペイン、ポルトガル、ソ連という4カ国。とにかく、興味のある国だけを回った。車好きであれば、ドイツやイタリアなどが加わるのだろうが、自動車の会社に就職することも決まっていたから、その選択肢はあえて外した。
 イギリスはビートルズやブリティッシュロックに浸りたかったこと、スペイン、ポルトガルは食事が一番美味しそうだったこと、ソ連は予算の関係上アエロフロート(ソ連の航空会社)を使用したから寄ってみただけ(モスクワ・クレムリン宮殿の周りなどは人がいるんだけど音が一切しない。本当に共産国家という統制下の街で怖かった)。
単純な理由だ。

 さて、ロンドン。音楽漬けになるぞと誓い、ヒースローから地下鉄で中心街に向かう。「Underground」と書かれた地下鉄。駅の壁には2種類のポスターがところ狭しと貼られている。
シンプリーレッドの『ニュー・フレーム』(1989)とエルビス・コステロの『スパイク』(1989)だ。
ピカデリーサーカスでは、その2つのニューアルバムを宣伝するポップや大型ポスターが出迎えてくれた。
ホテルに入り、映りの悪いテレビを点けた。
すると早速コステロがインタビューを受けている画面だ。ニューアルバム『スパイク』の話をしている。ポール・マッカートニーが自身のアルバムでコステロと共演したから、その流れで『スパイク』でも何曲かベースを弾いてくれた、と笑いながら話していた。
 コステロを初めて見たインパクトは、衝撃だった。スタイルはバディ・ホリーがパンクを歌っているのかと思うほど似ていたし、ヴォーカルもミッドレンジがやけに響く声だと思い、ただただ叫ぶだけの破壊的なパンクスでは無いな、なんて思ったものだ。そんなコステロが今、ちょっと贅肉を付けてゴージャスな洋服を着てブラウン管で笑っている。
 『スパイク』は、ちょうどインディーズからメジャーレーベルに移った作品で、バックバンドのアトラクションズも解散状態だったから、有名なミュージシャンが寄ってたかってコステロの辛らつな歌をエンターテイメントに仕上げていた。
時代が変わったんだな、と思ったものだった。
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 ロンドンは「セカンド・サマー・オブ・ラブ」の真っ只中だった。
とにかくダンス、アシッド、レイブである。大人もガキも街中で「アシーッド!」と叫んでいやがった。
「サマー・オブ・ラブ」は1967年にアメリカで生まれたヒッピー文化を指す。それは、時代性や政治、社会性が絡み合い文化となり昇華し1970年過ぎには消滅してしまった。いくら叫んでも、いくら踊っても、いくら髪飾りに花を付けてもベトナム戦争は終わらず、人種差別は無くならない。平和にならないからだ。
しかし、その20年後ロンドンで第二の「サマー・オブ・ラブ」が発生したのだ。最初は郊外の森の中で集団が大音量のダンスミュージックで夜通し何日も踊り狂う。集団ヒステリーと捉えられたこともあった。
エクスタシー(ドラッグ)をフューチャーし、集団で盛り上がるダンスを繰り広げる。イギリスではエクスタシーは使用禁止薬物であったが、当時のエクスタシーは現在のLSD効果のあるそれとは違い、もう少しソフトな効き目だったという。レッドブルを飲むかの如く手軽に高揚感、一体感を感じるドラッグとしてレイブミュージックには欠かせないものであり、音楽を頭と体で楽しむものとして認識されていた。そこに時代性も無ければ政治も無い。あるのは刹那である。
 私はビートルズやレッド・ツェッペリンを生んだ音楽の都としてロンドンを捉えていたのだが、訪問した時期があまりにも悪すぎた。ギターをかき鳴らし、メッセージを伝える前時代的な音楽・・・ひと昔もふた昔も前の化石の音楽を見る目で若者はそれらを語る。
音楽は楽器を持ってやるなどナンセンス。それよりもリズムに身を委ねるべきだ、と立ち寄ったディスコ「ウィスキー・ア・ゴー・ゴー」の受付の兄ちゃんに言われた。
そんな時代だ・・・、コステロが太るのも分かる気がした。

 では何故その頃、シンプリーレッドが大ヒットしたか。回帰なんだろう。
シンプリーレッドは、日本でもブルー・アイド・ソウルのバンドと認識され、ホール&オーツのイギリス版という知名度だった。ヴォーカルのミック・ハックネルはシルキー&ハスキーな声で、落ち着いた佇まいだが、実はセックス・ピストルズ好きの生粋のパンクス。デビュー当初はパンクに近い元気な音楽を発表していたが、時代と共にポップさを増し、「ホールディング・バックイヤーズ」で全米1位に輝いた。そして、ハロルド・メルヴィンの1972年のヒット曲「二人の絆」(If You Don't Know Me By Now)で2度目の全米1位となる。
時代が求めた生の声と郷愁の音楽なのだと思う。

 ロンドンでディスコ(今で言うクラブ)に行けば、レイブだった。
ライブハウスの老舗「マーキー」に行けばアイリッシュからの活きの良いバンドと観客にダイブするグランジのバンド。
確実に進化した音楽の地図。

 私はちょっと疲れてしまい、ハマー・スミス・オデオンでモータウンの雄「フォー・トップス」を楽しんだ。
 そして、次の日長距離バスでリバプールに向かった。
 ウォークマンにはビートルズではなく、買ったばかりのシンプリーレッドとエルビス・コステロが入っていた。

2016年7月25日
花形
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by yyra87gata | 2016-07-25 20:21 | 音楽コラム | Comments(2)

かまやつひろしの代表曲

  
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 1970年代当時の吉田拓郎は、下駄も履いてなければ、腰から手ぬぐいも垂らしていない。どちらかと言えば、デザイナーズブランド(メンズビギやJUN)を愛用し、車もジャガーに乗っていた。
しかし、世間の認識は長髪で薄汚く、バンカラなイメージであった。なぜこのような誤解が生まれてしまったか。
①フォーク界のプリンスという触れ込みで拓郎は認知されていた。フォークは、かぐや姫に代表される四畳半フォークと拓郎や泉谷しげるのように強いメッセージを伝えるものに大別されており、そこにバンカラのイメージがついた。
②大晦日の夜。日本国民の半分以上が「輝け日本レコード大賞」と「NHK紅白歌合戦」に酔いしれる日。1974年のレコード大賞でブラウン管から飛び出てきた映像は、「襟裳岬」の大賞受賞に喜ぶ森進一。そしてその後ろに並ぶのは、作曲家でGジャン、Gパン姿の拓郎。仰々しすぎるスーツを着た編曲家の馬飼野俊一の横でGパンの後ろのポケットに両手を突っ込み居心地悪そうに並んでいる。その姿に歌謡界しか知らないお茶の間は仰天した。
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③拓郎がかまやつひろしに書き下ろした「我が良き友よ」のフレーズ。
「下駄を鳴らしてヤツが来る  腰に手ぬぐいぶら下げて・・・」
かまやつひろしの大ヒットで知られるこの歌のモデルは、拓郎の大学時代の友人である。バンカラそのものの歌を、何故お洒落なシンガーであるかまやつひろしに贈ったかは不明だが、この歌の作者が拓郎ということで、拓郎のイメージにつながったか・・・。
④かまやつひろしが当時出演していたTVドラマ「時間ですよ」シリーズの中で彼は薄汚いバンカラな役回りで、それを視聴者が拓郎とシンクロしたという説。
  
 人々のイメージはどこで生まれるかなど皆目見当もつかないが、少なくとも何らかの要因は「フォークシンガー=汚い」というイメージと「我が良き友よ」という歌にあるに違いない。

 そして、私は③に着目したい。
何故、拓郎は「我が良き友よ」をかまやつひろしに贈ったのか。単純にかまやつがアルバムを制作するからその依頼に応えただけというならそれまでだが、前述のとおり、あまりにもかまやつひろしのイメージとかけ離れている歌なので・・・拓郎はそこに化学反応を求めたのだろうか。
かまやつひろしは、この曲を元にし、アルバム『ああ、我が良き友よ』(1975)を発表した。タイトルどおりこのアルバムには多くのミュージシャンが参加している。拓郎以外にも松本隆、細野晴臣、井上陽水、大瀧詠一、堀内譲、遠藤賢司、加藤和彦の名前が並ぶ。
そして、このアルバムにも収録されたが、「我が良き友よ」のシングル盤(B面)に、日本のポップスの金字塔となる歌が収録された。
「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」である。
かまやつ渾身のトーキングブルースである。

 「あの当時、シングルのB面って何やっても良かったの。だから、どうしようかなって思っていたら、なんとタワー・オブ・パワーが来日しているって聞きつけたんで、たまたま呼び屋の人が知り合いで、ダメもとで電話して、レコーディングしてもらえないかって言ったらOKになっちゃって。でも、レコーディングが明日とか明後日って話になっちゃって。曲なんか作ってなかったから、好きなコード進行だけ書いて、タワー・オブ・パワーのメンバーに渡して。で、今度は、詞をどうしようかってことになって。そのときゴロワーズを吸ってたから、じゃあこれって」
こんな流れで制作された作品。

 出会いがしらのようなエピソードだが、時代を先取りした作品となった。
シンプルなコード展開だが、ブラスはイントロからサビまでリズムを作りながら、強弱をつける。
ギターソロやコーラスなど、曲に絡みつくフレーズを創出しているが、かまやつひろしの即興とは思えない言葉が芯となり、全てが彩りとなっていく。
「我が良き友よ」はオリコンチャート1位となり、70万枚の大ヒットを記録した。そのB面にこのようなマニアックな作品を入れてしまう彼のセンス。
70万人のうちの1人である私は当時中学生であったが、B面の「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」を聴いた瞬間、全然意味がわからなかった。いったい何が言いたいのか・・・。
脈絡も無いフレーズが言葉遊びのように音符の上で踊るのだ。
しかし、大人になるに従い、この世界がわかってくると、なんとも洒落た歌だなぁなんて思いながら未成年の分際で紫煙をくゆらせている。わかったようなフリをしていただけかもしれないが、歌ってそういうもんだろ、なんて思いながらよくターンテーブルを回していた。

作詞:かまやつひろし  作曲:かまやつひろし  

ゴロワーズというタバコを吸ったことがあるかい
ほらジャン・ギャバンがシネマの中ですってるやつさ
よれよれのレインコートのエリを立てて
短くなる迄 奴はすうのさ
そうさ短くなる迄すわなけりゃダメだ
短くなるまですえばすうほど
君はサンジェルマン通りの近くを
歩いているだろう

ゴロワーズというタバコを吸ったことがあるかい
ひと口すえば君はパリにひとっとび
シャンゼリーゼでマドモアゼルにとびのって
そうだよ エッフェル塔と背くらべ
ちょっとエトワールの方を向いてごらん
ナポレオンが手を振ってるぜ
マリーアントワネットも
シトロエンの馬車の上に立ち上って
ワインはイカガとまねいてる

君はたとえそれがすごく小さな事でも
何かにこったり狂ったりした事があるかい
たとえばそれがミック・ジャガーでも
アンティックの時計でも
どこかの安い バーボンのウィスキーでも
そうさなにかにこらなくてはダメだ
狂ったようにこればこるほど
君は一人の人間として
しあわせな道を歩いているだろう

君はある時何を見ても何をやっても
何事にもかんげきしなくなった自分に
気が付くだろう
そうさ君はムダに年をとりすぎたのさ
できる事なら一生
赤ん坊でいたかったと思うだろう
そうさすべてのものがめずらしく
何を見ても何をやってもうれしいのさ
そんなふうな赤ん坊を
君はうらやましく思うだろう


 今改めて聞くと、1990年代のアシッドジャズのメソッドを全て注入した作品なのだ。
そんな時空を超えた作品をかまやつひろしは1970年代半ばにサラリと作ってしまっていた。
だから、そんな洒落っ気がある洋楽志向のかまやつひろしになぜ拓郎は「我が良き友よ」を贈ったのか。
拓郎はかまやつにこの曲を贈る時に「かまやつさんにぴったりの曲が出来た」といって渡したという。
バンカラなキャラでもない人が飄々と歌うところに化学反応を求めたのか。ヒットを狙う拓郎の目がそう読んだとしか思えない。
しかし、その曲があったからこそ、「ゴロワーズ・・・」も生まれたわけだから、今となってはそんな疑問は良しとしようか。
 しかし、六本木や青山あたりで時代の最先端の芸術家たちと遊んでいたかまやつひろしにバンカラな先輩の歌を歌わせた拓郎・・・いまだに疑問である。
結局、「拓郎がバンカラキャラ」という誤解を生じさせたことについては、何の解決もないが。

2016/07/20
花形
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by yyra87gata | 2016-07-20 17:15 | 音楽コラム | Comments(0)

ミッキー吉野とゴダイゴ

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 1980年代のインタビューでミッキー吉野は「銀河鉄道999」も「ビューティフルネーム」もヒットを狙って発表したという。つまり、当てに行く、ということだ。
(ちなみにゴダイゴの作曲はほとんどがタケカワユキヒデであるが、アレンジはすべてミッキー吉野が行なっており、彼はバンドではプロデューサー的なミュージシャンだ)
ゴダイゴは、1978年に日本テレビ系のドラマ「西遊記」の音楽を担当しており、そのオリジナルサウンドトラックであるアルバム『西遊記』(1978)で大ヒットを記録していた。彼らは精力的にテレビ音楽番組に出演し、お茶の間でもスーパースターになっており、その流れでいけば作品を出せば全てヒットするという図式は出来上がっていただろう。しかし、ミッキー吉野があえて「ヒットを狙って行った」という意志に彼の才覚があるのだ。
その才覚とは、彼の中にある10代の頃から天才キーボーディストとして謳われた現場力や実践力にあるのではないか。

 ゴダイゴ結成前のミッキー吉野を語る上でのキーワードは、「横浜」「GS」「薬物中毒・逮捕~渡米」「名門バークリー音楽大学卒業」「多忙なスタジオミュージシャン時代」などが挙げられる。
天才キーボーディストとしてゴールデンカップスで名声を得たが、時代性もあり、薬物との接触によりドロップアウト。音楽を見つめ直す意味でのバークリー音楽大学への進学。そして帰国。
ミッキーが帰国した時、日本の音楽マーケットにかつてのGSは存在せず、歌謡界とフォークブームが音楽界を席巻していた。そんな市場だから再浮上の時を見極め、まずは日本の音楽界の中でスタジオワークをこなした。70年代の彼は、まさに歌謡界のレコーディングスタジオを渡り歩き、何千と言うレコーディングで現場感を磨いていた時期だった。そして様々な音楽を実践する傍らミッキー吉野グループを率い、後にタケカワユキヒデをヴォーカリストとして迎え入れ、ゴダイゴ結成へとつながっていく。
ゴダイゴは、Go(生き)die(死)go(再び生きる)を実践した自らの音楽人生をグループ名に配したことからもその思い入れが伺い知れる。

 ミッキー吉野の楽曲に対するアプローチは、音の整理とヴォーカルを活かしたアレンジに尽きる。ストリングス、ブラス共に、アメリカの映画音楽のようなおおらかな作りが、かつてのゴールデン・エラを彷彿させる音となるのだ。
だから、ゴダイゴの演奏はある意味癖が無く、どこか懐かしい洋楽の香りがする楽曲が多い。
ミッキーは語る。
「70年代初頭にバークリーに行き、その肩書きで仕事が入ってくるという状況になったのは多分俺が最後だと思う。俺より前に行っている人・・・例えば渡辺貞夫さんとか秋吉敏子さんとか・・・まぁ、ジャズの人は向こう(アメリカ)に行って本場のジャズを学ぶという大義があり、向こうの進んだ音楽を学んできて日本に広めたという功績があると思うんだけど、俺の場合はジャズというよりもっと広い意味での音楽、つまりポピュラー音楽なわけで・・・。バークリー帰りのミュージシャンというだけで肩書きになったものなんだよ。何で渡米したか?ま、日本にいられなくなった事情というのもあるんだけど・・・」

 ミッキー吉野の音楽アプローチは、日本の軽音楽におけるキーボードの歴史そのものである。ピアノ、オルガン、ハモンドなどGS時代から現代に至る中、ローランド社と一緒にキーボードを進化させていった功績は大きい。
1960年代から1970年代はトランジスタの進化からデジタルへと変革し、コンパクトな固体や音色の多様化などキーボードの限界域が一気に広がった時代だ。
そして、そのキーボードの開発については研究員もさることながら、音楽の現場を渡り歩いてきたミッキー吉野の意見はかなり重要視されたことだろう。
日本のロックの夜明け・・・ミッキー吉野は、むりやり日本に太陽を昇らせてしまった数多くのミュージシャンの一人なのだ。そういえば、ゴダイゴのギタリストである浅野孝巳はグレコギターの開発(GO‐Ⅲモデル)に携わっている。
海の向こうで生まれた物を日本のモノづくり精神で進化させる1970年代は楽器にしろ、自動車にしろ、日本の開発力がそこかしこに花開いた時代であったのだ。
 
 私とゴダイゴの出会いは映画館だ。中学2年、三軒茶屋の名画座で観た長谷川和彦監督のデビュー作「青春の殺人者」である。そのサウンドトラックをゴダイゴが担当していた。日本のATGというマイナーな映画にもかかわらず、音楽は英語だったので、外国のバンドが演奏しているかと思ったものだ。
映画のエンディング。薄暗い夜明け。水谷豊が不安そうな表情でトラックの荷台にしがみついているシーンでエンディングロールが流れる。そこに「音楽 ゴダイゴ」と出てきた。
そしてその映画を観てから数ヶ月後にはテレビでチャーのバックを・・・。
テレビのテロップに「演奏 ゴダイゴ」と。
とどめは日本テレビのドラマ「西遊記」のテロップに「音楽 ゴダイゴ」。
まさに昇り調子の1977年から1978年だったのだ。

 ゴダイゴでのミッキー吉野は、アレンジャーとプレイヤーだが、彼の作曲作品で私は布施明の「君は薔薇より美しい」(1979)を推す。
レコーディングミュージシャンは、そのものずばり一番乗りに乗っている時のゴダイゴ。とにかくブラスアレンジがこの上なく気持ちよい。
 タケカワユキヒデのように浮遊するヴォーカルとは違い、布施明のストレート且つ有り余る声量で歌い上げるこの作品は、大変ダイナミックな歌謡曲として多くの人々の記憶に留められているだろう。
そして、まるでラスベガスのゴージャスなステージで歌われるようなこの作品は、布施明というヴォーカリストにとてもマッチし、大ヒットした。
数多くのミュージシャンにカバーもされたようだが、この作品はミッキー吉野のアレンジと布施明のヴォーカルが光るエバーグリーンミュージックなのである。
 
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  ミッキー吉野・・・山あり谷ありのバンド人生だったはず。実力派GSグループのゴールデンカップスから始まり、ミッキー吉野グループで試行錯誤を繰り返し、ゴダイゴへと進化。その後もセッションミュージやンとして数多くのシンガーのバックを務めた。
 そして、ゴダイゴは今年もツアーに出る。規模は小さくなっているが、オリジナルメンバーと追加メンバーを合わせ、6人で演奏する。
 オリジナルメンバーが全員揃っているバンド・・・レジェンドの域である。
まさにGo(生き)die(死)go(再び生きる)なのだ。

2016年7月7日
花形
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by yyra87gata | 2016-07-07 17:03 | 音楽コラム | Comments(0)

歌は世相をあらわすもの

  
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 歌は世相を表すものと言いますが、最近社会に対する不満を正面きって歌う人がいなくなりましたね。
1960年代、アメリカでは戦争や公民権運動でディランやニール・ヤングなどがギターを手に「そういう社会」を歌にしました。その火は日本にも届き、1960年代末から1970年代初頭には自作自演のプロテストソングが流行しました。
 当時の日本においては、安保闘争やベトナム戦争、公害問題、高度成長期駆け抜けた後のインフレなどかなり社会は不安定な時期に直面しており、学生運動が盛んに行なわれていた頃です。
さて、現在に目を向けると学生運動こそ無いものの、情勢はその頃とあまり変わっていない気がします。
現在では、憲法改正や原発問題、災害等。格差社会からの失業、将来不安などで若者が希望を持てない社会になり、親へのパラサイト、ニートという逃げ場で暮らす若者・・・。
 加えて、大人たちはバブルが弾けても生活水準を下げられない現実に四苦八苦の生活を余儀なくされている。アホな政治家や役人に振り回され続けたここ30年なのです。当然年金なども期待できず、若者に限らず一般市民は不安な将来を抱えているのです。そして、なによりも我々大人たちの大罪は「ゆとり世代」を作ってしまったことかもしれません。もちろん「ゆとり世代」という考え方を出すこと自体は悪いことでは無いのかも知れませんが、誰もそれを検証することが考えられなかったことが罪なのです。文化的な生活を重視し、詰め込み主義の勉強からしっかりとモノを考えることが出来る人間の創造・・・。ぜんぜん具体的でないです。一方面だけの捉え方しかしていないので、検証することすら考えていない。詰め込み式ではなく自ら考えることができる教育という考え方は立派でも、その先が見えていないなら政権が変われば全て終了という浅い改革となってしまうし現にそうなったのです。
この「ゆとり世代」の発案者は、教育思想を変えるということは国を変えてしまうに等しいことと理解していたのでしょうか。一番の被害者は誰なのかと言うこと私たちは認識しなければいけません。

 歌は世相を表すものと言いますが、70年代初頭の攻撃的な歌は当時の若者のパワーを感じることが出来ます。それに比べて今の歌を眺めていると、ヒットチャートはジャニーズとAKBに浸っているという状況。腹の底から社会を歌う人などは皆無です。
所謂金にならない音楽(メッセージ色の強い歌)は、誰も出したがらないんでしょうね。
(70年代初頭はメッセージソングやプロテストソングが商売になると思って出していた人なんていなかったでしょうし・・・、サブカルチャーの世界ですからね・・・)
 若者の心情を吐露した尾崎豊や原発反対を替え歌で表現した清志郎は1980年代末。ここで日本はバブル経済を迎え、そういうメッセージ色の濃い歌はうやむやになり聞こえなくなっていきました。みんなバブル景気に浮かれていたのでしょう。そしてバブルは弾け、みんなで肯定しあい、傷口を舐めあい、片や勝ち組と称した一部の人間はITと株とFXでアブク銭を稼ぎ、六本木ヒルズでシャンパンを飲み干します。
私はそれまでの詩的表現が絶滅危惧種のような扱いになり中々世に出て来なくなったターニングポイントとなったのは、ドリカムが出てきた時、ちょうどバブル期~バブル崩壊時期辺りにあると思います。
当時私は日本の音楽に危機感を覚えていました。それは、その頃の歌がやたらと会話調の歌詞が多くなったと感じたからです。ドリカムもユーミンの台頭ということで吉田美和の伸びやかなヴォーカルに気を取られておりましたが、詩の世界があまりにも日常すぎてずいぶん日本のポップスも変わったものだと思ったものでした。
また同時期に竹の子のように一斉に出てきた「どんなときも」「愛は勝つ」「それが大事」「世界に一つだけの花」などの肯定ソングをみんなで歌う姿に恐怖すら感じました。
 そして、私は、妙な歌詞の真打である森高千里が歌う歌詞にとてつもない違和感を覚えたのです。詩的表現をまったく感じることができない森高の歌。
「夏休みには二人してサイパンへ行ったわ」とか「うちにかぎってそんなことはないはず」とか、もう歌詞という概念が無いように感じます。日記をそのまま歌にしてしまった感じでしょうか。
 詩的表現とは感性と表現力の創造物で、聴いている様々なリスナーがそれぞれの感じ方を持つことができる総合芸術だと思います。つまり、森高以降の詞はただの感想や描写に過ぎないのであります。
しかし、森高千里人気は一大ブームとなり、影響を受けたアマチュアミュージシャンはそんなの歌にするなよ、といった内容の歌をライブハウスで、しかもカラオケで歌うという珍妙なシーンが良く見られたのも1990年代でありました。

 歌は世相を表すものと言いますが、2000年を迎え小泉内閣は規制緩和という名の下に様々な改革を起こしました。しかしその労働環境の規制緩和から格差社会を生み、有効求人倍率の低下。ようやく若者が叫びだしたのがこの頃からかもしれません。ラップという手法で心情を訴える若者たち。言葉の妙を上手く表現する若者。
 しかし、それはあくまでもラップであり、誰もが口ずさめ、長く歌い継がれる歌ではありません。
メッセージソングやプロテストソングを流行歌として捉えることは間違いかも知れませんが、少なくともラップは特殊過ぎます。
しかし、この頃からラップとも取れない早口言葉のようなビートバンドが溢れ始めました。
長ったらしい歌詞。しかも言葉遊びのように言葉を羅列し、簡単な事象をわざと回りくどくしながら日常生活の言葉で綴るのです。とにかく歌詞が多い。Aメロはお経のように畳み込むような歌詞。サビの部分でギャーッて叫ぶ。そして再び字数多い歌詞が16分音符に踊ります。これが現代の詩的表現なのでしょうか。ラップにメロディが乗っただけなのでしょうか。
また一方で気が抜けた炭酸飲料のような歌い方をするシンガーが最近増えました。流行りなのでしょう。ウィスパーボイスかなんか知りませんが、腹から声が出てないというか、朝飯食ってねぇだろうって突っ込みたくなる声で歌う人のことです。しかもそういうヴォーカルは、だいたいがどうでもいいような日常を歌い、ラブソングであれば「君を守るよ」とか「感謝する」とかの決まり文句を歌っています。これは件の「草食男子」「ゆとり世代」というトレンドから来るものでしょうか。でもこうやって控えめに歌う人たちってSNSで育っているから承認意識だけは人一倍強い。なんだか面倒くさいです。

 歌は世相を表すものと言いますが。
なんでも手元の携帯電話で事足りてしまう世の中。社会人が辞表をメールで送る常識。
合理的に考えているようでそれは非常に無礼なことが常識化していく今後。
歌だけはそんな世相に惑わされず作り手の信念が伝わる芸術であってほしいです。
人から金を取っているならば、鼻歌みたいな歌を聞かせるなよ、と言うことです。
 
 最近、アイスのガリガリ君が10円値上げしました。その謝罪を込めたテレビCMに高田渡の「値上げ」が使われていました。独特の朴訥な歌いまわしに説得力を感じ、これこそ今に通じるメッセージソングと合点いたしました。
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2016年6月8日
花形
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by yyra87gata | 2016-06-08 18:03 | 音楽コラム | Comments(0)
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  他人から見たらどうでもいい私の「持論」。
バンドはオリジナルメンバーを好む。特にバンドの華であるヴォーカルが交代することを良しとせず、もし変わるのであれば、そのバンド名を使用して欲しくないと思う。
また、オリジナルでレコーディングされた楽曲を好み、セルフカバーを嫌う。ライブ時にアレンジを施すことはこの限りではなく、それはそれで楽しむことが出来る。

  さて、このような拘りをもってしまうと往年のバンドは殆ど見る機会が無くなる。
なぜならバンドメンバーが死んでるか、メンバーチェンジか・・・。
ストーンズはさすがにメンバーが変わっていても、初来日(1990)だけは観覧したが、ビル・ワイマンが抜けた2回目からの来日には足を運んでいない。イーグルスもドン・フェルダーが抜けてしまったら興味が無くなった(厳密に言うとバーニーが抜けた時点でイーグルスじゃないんだけどね)。
ディープ・パープル、ジャーニー、TOTOなどヴォーカルが変わってしまうバンドは、新たなヴォーカリストを迎えたら、なんだかそのバンドのコピーバンドを観る感じになる(極端かなぁ?)。
だからU2とかってある意味凄いと思う。

  先日、海外出張の帰りの飛行機の中で、「THE WHO LIVE IN HYDE PARK」を観た。このコンサートは、バンド結成50周年を迎えた2015年6月26日にTHE WHOのホームタウンであるロンドン、ハイドパークにて65,000人の観衆を集め開催された大イベントである。
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  深夜便の飛行機は中々寝付かれないので、差し障りない懐メロでも聞きながら寝ようかと思っていたのだ。そう、私にとってTHE WHOはオリジナルメンバーが2人も死んでしまった伝説のバンドなのである。だから、先ほどの拘りからすると、大好きなドラマーであるキース・ムーンや大好きなベーシストであるジョン・ウェットウィッスルを失った現在のバンドに興味は無くなっていたのだ。
THE WHO は偉大なバンドであるし、大好きなバンドだっただけに当時のレコードやフィルムを見ることはあっても、オリジナルメンバーのいない今のTHE WHOが来日した時にライブに足を運ぼうという気持ちすら起きない。
しかし、このコンサートを飛行機の小さな画面で見て・・・興奮した。
眠るどころか脳内興奮状態に陥ってしまった。

  オリジナルメンバーは、ロジャー・ダルトリー、ピート・タウンゼントのTHE WHOだが、彼らの音楽は色褪せることなく生きていた。
そして、それを再現するバックミュージシャンたち。
ドラムはザック・スターキー。キース・ムーンとリンゴ・スターはドラッグ仲間。まさかそのリンゴの息子があんなに上手く叩いているとは・・・感嘆。
聞くところによるとザックはキースからドラムを直に習ったそうで、本当にキースそのもののプレイだった(マシンガンのようなタム回し、クラッシュシンバルでのリズム取りなど)。
ベースはピノ・パラディーノ。ジェフ・ベックやジョン・メイヤーなど様々なセッションをこなす職人。ジョンが亡くなってからTHE WHOを支えてきた男だ。派手さが無いところもジョン譲りか。
また、ピート・タウンゼントの息子もギターやキーボードで参加している。

そして、オリジナルの2人は・・・
  ピート・タウンゼントなんかジジィになって体のラインもおじいさんのようなんだけど、決めポーズは格好良いんだよ。パワーコードをかき鳴らし、ギターがエリック・クラプトンモデルというのが許せないんだけど(この人はギブソン系のギターが似合うと思うんだが)・・・。
  ロジャー・ダルトリーもサングラスなんてかけて、遠目で見てると老眼鏡のようにも見えるんだけど、ちゃんと声が出ているんだよ。わーっ!て叫べるジジィなんだ。
 すげぇ人たちだなぁと思いながら、小さい画面を食い入るように見ていた。

  そういえば、THE WHOは、リード・ヴォーカルとリード・ギターとリード・ベースがいるバンドといわれ、その理由はキース・ムーンのリード・ドラムが存在していたからだと結論付けられている。
キースの独創的なプレイを活かすのは、ジョンの安定しながらも楽曲を広げるフレーズを持つリード・ベースだ。だから、ピートはパワーコードでギターをかき鳴らしながらもオーケストレーションの様な音の波動を組み立てることにイマジネーションを膨らませることができたのだ。そして、ムーグのシンセサイザーやシーケンサーをいち早くロックのビートに取り入れ、70年代のロックに昇華させることに成功したのだと思う。
デビューしたてのただただ破壊的な演奏の根底だけはそのままに、ピートの天才的な音楽創作、メンバー個々の相手の演奏を慮る耳の良さがアンサンブルとなり、THE WHOは世界的なバンドに成長していった。
メンバーの奇怪な行動、暴力、ドラッグ、破壊行為、ケンカなど何度も解散の危機に瀕しながらもロックの王道を歩んできたバンド。ある意味、セックス・ドラッグ・ロックンロールを体現し、全世界のロックフォロワーを作った。ジョー・ペリーもゲディ・リーもみんなTHE WHOに影響を受けて育ったのだ。

  2名の尊い天才は旅立ってしまったが、残された2名の天才は、2世を従え演奏を続けている。
演奏を見終わった後、思ったことが一つ。
よくアメリカンロックが好きか、ブリティッシュ・ロックが好きかなどと他愛の無い話をすることがあるが、THE WHOを認めることが出来ない人(好き嫌いではなく)は、ブリティッシュ・ロックが好きじゃないのでは、と。
THE WHOの生き様や言動、もちろん音楽も・・・イギリスのソウルという気がしてならない。
労働者階級の代弁者、シニカル、反骨精神、モッズ、どんよりとしたロンドンの天気・・・。

  50周年記念コンサートが私のTHE WHO愛に火をつけてしまい、日本に帰ってきてから2週間、ずっとTHE WHOばかりを聴いている。もちろん「トミー」「キッズ・アー・オールライト」「アメイジング・ジャーニー」を見直し、胸を躍らせている。

 そして、今日もターンテーブルにTHE WHOを乗せるのであった。
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2016年5月25日
花形
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by yyra87gata | 2016-05-25 20:52 | 音楽コラム | Comments(2)

マーチンD45

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 楽器屋さんに行ってもそんなにギターが欲しいと思わなくなりました。
何故でしょうか。
もし楽器屋さんに入ったとしても、新品のコーナーは素通りしてしまいますね。ヴィンテージの固体を探し、その楽器の前でため息でもつきながらうっとりと眺めるでしょうね。
そう、ある種、工芸品を見る境地であります。
それはエレキギターでもアコースティックギターでもエレキベースでも一緒です。
「良い色に退色している」とか、「クラッキング(塗装のヒビ)が絶妙」とかそんな気持ちで眺めています。
こんな私は、ギターヴィンテージ館なんて出来たら、すぐに行くでしょう。
 
 さて、楽器屋さんですが、ヴィンテージを見ていて陥ってはいけないミスが一つあります。それは、つい試奏してしまうことです。
「これは」と思うギターを手にした場合、次に脳内で変換されることは「今、貯金いくらある?持っているギターを下取りに出したらいくらになる?月々いくらまでならローンで払える?」なんて思いが一気に想起されてしまうのです。
ちなみに、私は一時期かなりの数のギターを所有しておりましたが、現在は整理に整理を重ね、数本しか残っておりません。
アコースティックギターはマーチンD45(1976)とD28(1976)、国産のキャッツアイ(1979)。エレキギターは、ギブソンSG std(1965)とESP製のロン・ウッドが所有していたストラト(1985)だけです。あと、フェンダーのジャズベが1本(2000)。
なんとシンプルなラインアップ!
気まぐれでギターを購入していた時期が懐かしい。
ギブソンもギルドもオベイションもヤマハもグレコもモーリスもマーチンD18、D19、D28・・・も、みんな処分してしまいました。

 私はここ最近(20年以上)アコースティックギターしか弾かなくなり、2年前にマーチンD45を手に入れてしまってからは、楽器屋さんに行っても興味をそそるのはマーチンのD45のみ。しかも1983年以前に生産された固体のみ。これが、中々出回っておりません。そういう意味でD45以外のギターを購入する気持ちは無くなってしまったので、楽器屋さんから足も遠ざかってしまっているのでしょう。
そして、このD45ですが、たとえ希望の品があったとしても相場からして900,000円~1,500,000円位します。60年代後半のモデルが出てくれば一気に3,500,000円~∞。
1930年代のモデルなど出ようものなら、価格はつけられないでしょう。
だから、D45が欲しいといっても中々手に入れることは出来ないのです。
D45ならいくらでも欲しいのですがね。

 まぁ、そうは言っても金に糸目をつけなければ欲しいギターも無いことは無いですが、歳も歳です。高いギターを残され、私が死んだときに処分に困ることを考えると家人に迷惑はかけられませんので・・・。気持ち的には「整理」の段階に入っているのです。
そして、現在所有する楽器たちを最期まで弾くかなぁなんて思っているわけです。

 さて、そのアコースティックギターの中でもマーチンD45な訳ですが、手にしてみてわかったことがありました。
造りが良い事は皆様もご承知でしょうが、何と言っても重量感があるということです。そしてそれは貝のバインディングが全体に施されていることで、木と木をがっちりと繋いでいるのであります。飾りだけと思っていては大間違いです。ストロークをした瞬間ボディ全体がバランスよく響きあうのであります。
 マーチンD28はアコースティックギターのお手本の様なギターと言われます。しかし、このD28、実はかなりのドンシャリなのであります。私の所有するD28もD45も1976年製でありますが、弾き比べると音の違いや倍音などびっくりするくらい違う個性を持っております。
 同じスプルースの表板でサイドバックはローズウッドです。D45はD28のゴージャス版という位置づけですから同じ材料で作られています。
但し、D45はD28と同じレベルのスプルースやローズウッドを使用せず、厳選された木を使っていると言われています。そういった厳選された木材を貝がガッチリ詰め込まれて、重厚な音になっているのでしょうか。
 こんなことがありました。レコーディングで派手派手しいストロークをD45で録っていました。録った歌をプレイバックして聞いてみると、ギターの音が芳醇過ぎてしまい、とてもトゥマッチな印象を受けました。後日、そのトラックにD28で録り直してみると上手くはまるのです。
そのギターの特性を生かした使い方をしないと、いくら音が良くても音楽的にならないと言うこともあるのです。
 
 私はD45を購入するにあたり、迷いはありませんでした。私は一時期ネットを使い、都内のどこの店舗に何年式のD45が在庫しているとか、試奏できるか、などを常に把握しておりました。そして時間があれば弾きに行くこともありました。
 当時の私はD28を2台所有しており、弾き分けておりました(同じモデルでも音の特徴はぜんぜん違いました)。D28は標準的なギターなので、安心してプレイすることもできましたし、満足していたのですが、あまり出回らない1970年代のD45が4本も同じ店に現れたのです。これは事件です。アコースティック専門店でもせいぜい1本か2本、それも最近のモデルや新品が並ぶということはあっても1970年代のD45が4本揃うことは珍しいです。増してや、正規代理店の黒澤楽器だってそんなことは中々無いことです。
 D45が4本並ぶと壮観です。私は店長さんに1本1本弾いてもらい、真ん前で音を聞き比べました。そうです、アコースティックギターは、自分で弾いて聴く音と、ギターの前で聴く音が異なります。まずは出音を聴くのであります。
どれも甲乙つけがたいのですが、私は4本の中で一番汚く、キズがある固体と、一番綺麗なボディの2本に目が行きました。
2本とも980,000円のタグがついています。税金込みで1,058,400円。やっぱり7ケタかぁ~、なんて思いながら、試奏を始めました。
私の所有するD28とは全然違う音の出方。これは7ケタの価値が十分あると思いました。
「何で急にこんなにD45が増えたんですか?」と私。
「これ、実は委託販売の物件で、1人のオーナーが持ち込まれたのですよ」と店長は言う。
なるほど、そういうことか。
店長は綺麗な方のギターを勧めてくれましたが、私は汚れている方が気になっています。
すると店長が・・・
「お客様が弾いている方はもう少ししたら価格を下げようと思っているんです。ネットにはまだ出しませんが、予定で880,000円ですね。ほら、綺麗な方は放っておいても売れるじゃないですか・・・」
「なるほど。しかも、私の気に入った方は税込みで100万切るじゃないですか!」
こんな会話をして、その日は店を出ました。
それからは、いても立ってもいられないのです。ネットで在庫を確認する日々。
3日後、綺麗なD45にSOLDの文字が!
(やっぱり売れたか、そうだよな。あれは良かった。綺麗だったし、でもちょっと音がバラついていたんだよな)なんて思いながら、もう一本の方に頭はスイッチ。
そして、週末、車にギターを詰め込んで楽器屋さんに赴いたのでした。
「これ、買います。で、このギター委託販売で出しますんで、よろしく」
車のトランクから「マーチンD28(1981)」「オベイション・レジェンド1767」「ヤマハSA-1000」を運び入れました。
そして契約。
 私は、D45を抱きながら、店の中でポロポロと爪弾いていました。店長さんはマーチンに詳しく、いろいろと裏話を教えてくれます。こういう会話が一番楽しいです。
ふと目線を壁に向けると見慣れぬD45が。
「あれ、こんなD45、ありましたっけ?」
「今日、さっき入庫したんですよ。80年式だからSQネック、ペグがシャーラーに変わっただけで作りは1970年代と一緒です。弾いてみます?」
弾いてみると、これが、音がでかい。弦高が若干高目だが、調整は効く。価格を聞いてびっくりしました。委託販売品でしたが、すぐにでも現金化したい人のようで、相場より格段に安い設定。
これは、買いです。
でも、私はすでに購入したばかり。そこですぐに私と同じくD45を探しているミュージシャンに連絡を入れたのでした。そして、翌日にはその方がゲットしておりました。

 D45をライブで使用しているミュージシャンは意外と少ないです。
CSN&Y、ライ・クーダー、ガロ、加藤和彦、石川鷹彦、伊勢正三、さだまさし、南こうせつ、杉田二郎、坂崎幸之助、高見沢俊彦、玉置浩二、桜井和寿、清水國明・・・
というか、けっこう古いミュージシャンが多いですね。
ライブにD45を真綿に包むようにもってきて、ハードなステージをするなんて馬鹿げているのでしょうね。
私の使用する楽器は生涯現役です。どんなに演奏コンディションが悪かったとしても、必要であれば弾くでしょう。楽器は鳴らしてナンボですからね。

 2年経った私のD45はけっこう私との歴史が刻まれています。ピックによるスレはもちろん、ぶつけたり、倒したり、引っ掛けたり。でも元気に今日も鳴り響いております。
そして先ほどのミュージシャンと一緒に2人でD45をかき鳴らしております。


2016月4月6日
花形
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by yyra87gata | 2016-04-06 18:30 | 音楽コラム | Comments(0)