音楽雑文集


by yyra87gata

カテゴリ:音楽コラム( 111 )

矢沢の思い出

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 サントリープレミアムモルツの広告の中で66歳の矢沢永吉がポーズをつけている。ダンディな佇まいであり、ここ何十年も変わらない姿でもある。
この姿を維持するためにどれほどの努力をしているのか。しかし、きっと本人は「矢沢」が好きだから苦労とも思っていないのだろう。
 私が初めて矢沢を目撃したのはコンサートでは無く道の上だった。私が大学生の頃、表参道を歩いていると、前から前身グレーのスウェットスーツに身を包み、異様なオーラを出しながら早足でウォーキングしてくる男がいた。
その男が私の3m近くまで来た。そこには、目深に被ったフードの奥に汗まみれの矢沢がいたのだ。
私は「あっ!」と驚き、一瞬にして中学生の頃の自分に戻った。
“永ちゃんだ!わーっ!サ・サイン?あ、握手?”そんな思いが私の中で反芻する。その横を矢沢は何かに取り憑かれたように一点を見つめ足早に通り過ぎていった。その顔には玉の様な汗が付着し、歩くたびに滴り落ちていた。減量に苦しむボクサーのように誰も寄せ付けず、そしてその男に私は声も掛けられず、彼の後姿を目で追っていた。
 矢沢はどこでも矢沢だった。

 私は小学校の音楽の先生が好きだった。その先生は矢沢好きで、その影響から『A DAY』(1976)から聞き始めたが、中学に進学し、矢沢永吉の話題を友人たちにすると、皆ちょっと冷めた感想を述べ始めた。
時は1970年代半ば。日本のロックなどほとんど認知もされず、市場的にも成熟していない。「日本のロックなんて」とよく言われた時代だった。なぜなら経営側は“儲からない”からであり、聞く側は“カッコわるい、洋楽の真似でしょ”と言った具合。
しかし、私は“音楽に国境もジャンルも無い”という意識で幅広く音楽を聴いていたので、何故日本のロックが軽く見られるのかということが理解できなかった。「矢沢よりエアロスミスだよ」などと言われても比べるものでも無いと思ったが、一般的にそういう意見が多く、私の考えなど話にならなかった。
そういった時代の中、矢沢は独り奮闘していたのだと思う。

 私が中学2年の夏、矢沢永吉は後楽園球場でコンサートを行なった。キャロル解散後、1975年にソロデビューし、年を重ねるごとに「渋谷公会堂」「日比谷野外音楽堂」「日本武道館」とスケールアップしていき、3年で「後楽園球場」にたどり着いた。
「日比谷野外音楽堂」のバッキングメンバーはサディスティックス。翌年発表したアルバム『ドアを開けろ』(1977)や『ゴールドラッシュ』(1978)はそのメンバーに木原・相沢(NOBODY)のギターや坂本龍一など豪華なメンバーが絡み、70年代の矢沢の集大成となった。
矢沢は常日頃から「ビッグになる」と公言し、有言実行で本当にでかくなっていった。そして同時期に激論集「成りあがり」を発表。矢沢の人気は頂点を極めていった。
 富士山山麓に豪邸を建て、地下のガレージに無造作にポルシェが停まっている写真などを見たとき、私は、本当にロックスターなのだと思った。イギリスやアメリカのロックスターが大豪邸に住み、フェラーリーやポルシェを下駄代わりに使うことは当たり前と思っていたが、日本でそれを実現した人がいるのかと思い、とても驚いたものだ。
 テレビに出るといっても音楽番組には出ず、NHK教育テレビ(若い広場)でインタビュー。そんなことする日本のミュージシャンなんていなかった。
“音楽なんてレコード聴けばわかる”“コンサートに来てくれれば絶対楽しませてやる”
“テレビに出て語るということ、・・・つまり、矢沢そのものの声を届けたい。週刊誌やわけのわからない活字でいい加減に伝えて欲しくない。だから音楽に懸ける思いは自分の言葉で伝えたい”
ものすごく、自分がわかっている人なんだと思った。セルフプロデュースがしっかり出来る人。だから、ブレない。

 そんな矢沢がアメリカに行って勝負すると言った。“アメリカを視野に入れている”とテレビで唾を飛ばしながら語る姿を見て、私は“ちょっと危ういな”なんて思ったりもした。いくらなんでも日本のミュージシャンが外国で勝負するなんて誰も考えていない時代だ。
それまでにアメリカで日本のミュージシャンがヒットを飛ばすなんて坂本九しかいなかった。その坂本九の「上を向いて歩こう」にしても、たまたま1962年イギリスのケニー・ボールが来日し、そのメロディーを気に入り母国に持ち帰ってレコーディングしたことが始まりで、その流れからアメリカのDJが元歌を調べ始め、最終的にキャピトルと契約し、ヒットした。つまり、“売った”のではなく“売れた”ということだ。・・・そんなフロックはさておき、矢沢は殴りこみをかけると言う。
ジャズのインストゥルメンタルならまだしも、言葉の問題があるだろうと矢沢ファンの私でさえ思ったくらいだから、一般の音楽ファンは呆れたコメントを垂れ流していた。

 1980年渡米。レコード会社も移籍し、アメリカではアサイラムと契約した。そして2年後、本当にドゥービー・ブラザースのメンバーを連れて凱旋公演を行なった。この模様はテレビ中継もされ、矢沢があの頃のままのテンションでバンドメンバーと英語で会話しているところも放映された。本当にびっくりした。なぜ、ドゥービーだったのかは置いておいても、ロックのトップミュージシャンが矢沢のバックにいることが衝撃だった。それまでは、ジャズの世界であれば、渡辺貞夫や日野皓正などはリー・リトナーやジョン・スコフィールドと競演したとか、デイブ・グルーシンとアルバムを作ったなどという話はあったが、ロックのジャンルで世界と渡り合っているミュージシャンなどいなかった。しかも、バックバンドにしているなんて考えられなかった。
私が高校3年の夏の出来事だった。

 それから、私はバンド仲間や音楽好きと話をする中で、「日本のロック?ぜんぜん駄目だよ。でも矢沢は別。好き嫌いは別としてあれには何も言えない」という言葉を多く聞くようになった。認めさせてしまう行動力と結果が矢沢の生きる糧なのか。
 そんな矢沢でもアメリカでの当初の活動は、決して順風満帆ではなかったようだ。アメリカに渡り発表したアルバム『YAZAWA』(1981)は、アメリカでは2,000枚しか売れなかったというし、レコーディングをしていても意思の疎通が中々上手くいかなかった。しかし、その後『YAZAWA It's Just Rock'n Roll』(1982)の中の「ROCKIN' MY HEART」がヒット。1982年の凱旋公演につながる。矢沢は、日本で相変わらず長者番付トップを維持していたが、アメリカからは離れようとせず、結果的に『FLASH IN JAPAN』(1987)を発表。全米での売上げ枚数は5万枚となり、彼の言う「おとしまえ」をつけた形となった。
私が大学2年の初夏のことだった。

 それからの矢沢の弾け方はここに記す必要も無いだろう。イギリス・ウェンブリースタジアムでロッドやボン・ジョビと競演、2014年までに日本武道館公演は132回を数え最多公演記録を更新中である。
オーケストラとの競演やディズニーでの歌唱など矢沢のフィールドは限りなく広がっている。そしてハードなコンサートに向けての準備も怠らない。66歳の鋼の身体は1日では成り立たないのだ。
 サントリープレミアムモルツの広告の中の66歳の矢沢永吉は、今でも表参道をウォーキングしているのだろうか。

2016/1/8
花形
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by yyra87gata | 2016-01-08 17:09 | 音楽コラム | Comments(2)

ワイルドなルー・リード

  
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 今回はルー・リード。この人もう死んじゃったからこの世にいないんだけど、ものすごく変わった人。
でも、安心してください。名盤ありますよ。
『トランスフォーマー』(1972)は一番とっつきやすい作品で、ヒット曲もあります。「ワイルドサイドを歩け」なんて格好良いです。男のアルバムです。っていうか、ジェンダーフリーな内容というか、火遊びというか、とにかく“こんなすごいことやるかい?さぁ、ワイルドに行こうぜ・・・へへっ”と挑発する歌です。ま、ロック精神ですね。

 で、ルー・リードなんですが、詳しいプロフィールは各自ググってもらえればいいので、ここでは書きませんが、とにかく破滅型の人です。でもちょっとだけ書きますと、ベルベットアンダーグランドとして1965年にデビューし、ニューヨーク・パンクのみならず、その後のロンドン・パンクやオルタナティブ・ロックの源流を作った人と言われてます。アンディ・ウォーホールやパティ・スミス、ジョン・ケイルなどと活動を共にしておりましたが、奇行といいますか、乱暴者といいますか、とにかく思い込んだら突っ走ってしまう人のようで・・・もう少し自分を抑えられていたら・・・あ、それじゃ、この人の存在価値がないですね。
日本で言うなら内田裕也さんみたいな人です。鏡に映った自分の顔にガンつけられたから鏡をパンチしたら血だらけになったというとんでもないエピソードが裕也さんにもありますが、ルー・リードはそんなエピソードの塊みたいな人です。ま、本人いたって素直な人・・・いや、自分に素直な人。
でもって、今回はいろいろなエピソードを記載しますので、その後、是非『トランスフォーマー』を聴いてみてください。なにかを感じると思います。そんでもって、ちゃんとロックの殿堂入りもしていますから、ある意味、常識を逸した最後の「音楽家&詩人」だったかもしれません。

 名言とエピソード転記します。いろんなところから集めてきましたので、信憑性に欠けるかもしれませんが、洒落で読んでいただければ幸いであります。

~名言~
「音楽がすべてだ。みんなそのために死ぬべきだ。他のものなら何でも命を投げ出すというのに、どうして音楽じゃだめなんだ?」

「生きるということは、ポニーにサンスクリット語を読み聞かせるのに似ている」

「過去にこだわるには、人生はあまりにも短すぎる。僕は未来を見つめたい」

「現実を扮装するなんて俺には理解できない。
何かをよりきめ細かにみせるために化粧を使うなんて理解できない」

「ダンスに行きたがる人もいれば、働かなければならない人もいる。
悪魔のような母親さえいる。
奴らは君にこう告げる、すべてはただの汚物だと」

「ロックンロールの歌を通して出来ることがたくさんあると常に信じている。
ロックの歌にシリアスな歌詞を書くこともできるんだ。
もしビートを失わずにやれたらな」

「ロックンロールとは、パワフルでエモーショナルで簡潔で表情豊かで直接的なものなんだ。なぜならロックンロールには、人間の鼓動の基本があるからさ。その部分に、人間は即座に共鳴できるんだよ」

「すべては必然だと思うんだ。あらゆることは起こるべく時に起こるんだ」

「怒りについて、夜明けとともに訪れる罪の意識について、奴らに教えろ。
花について、許すことの美しさについて、奴らに教えろ」

なんか、いいでしょ。詩人ですな。でもこの後、ちょっと趣が変わるのであります。

「俺は酒を飲むことでドラッグを止めようとした」

「俺は他人のノスタルジアが好きじゃない」

「目には目をは基本だ」

「最初に学ぶのは、常に待たなければいけないということ」

「僕が君の鏡になろう 君という人間を映し出してやる もし君が知らないのなら」

「俺の1週間はお前の1年に勝る」

「人生はマヨネーズソーダのようなもの 人生は部屋のない空間のようなもの。
人生はベーコンとアイスクリームのようなもの。
君のいない人生なんてそんなもんさ」

「俺が男だか女だかわからないって?それを聞いてお前はなにをしてくれる?」

「最後に質問がある。何故、俺は日本人に人気が無いんだろう?」

知らんがな!ってなりますよね。なんか、破滅的になってきたでしょ。
では、続いてエピソード編。すごいよ。

~エピソード~

「スピード(幻想麻薬)を打ちまくって3日に1度しか眠らず、あらゆるドラッグから引き起こされる症状をソングライティングに反映するという実験を試みていた」

「ステージ上でのヘロイン注射」

「彼はバイセクシュアルだとされ、10代の頃に電気ショック療法を受けている」

「レストランでボウイと喧嘩になってボウイをボコボコにして立ち去り。残されたボウイは泣きながら植木鉢を破壊した」

「パティ・スミスに“あんたみたいな嫌な人間がどうしてあんなに美しい音楽を書けるの?”と難癖を付けられた」

「朝日新聞の記者がインタビューをするために楽屋に入った時、ちょっと咳き込んだ。ルー・リードが"風邪引いてるのか?"って訊くと、その記者は心配してもらってると思って「ちょっと」って答えたら、「今すぐここから出てけ!」って怒鳴られた」

「ある日本人が、ニューヨークのゲームセンターに行ったらルー・リードがいたので、“握手して下さい!”と声をかけたら、数秒後に、“お前が声かけたからハイスコア逃しただろ!”と言ってぶん殴られた」

「ルーリードの90年来日時の記事で、都内移動中に右翼の街宣車に遭遇し同行記者に、“彼らは三島(由紀夫)のようなものか?”と尋ねた」

「アート・リンゼイのライヴを見に行き、楽屋でずっと黙りこくっていたが、ようやく口を開けたら“君は歌うのと同時にギターを弾こうと考えたことがないのか?”と聞いた」

「ノイズだけで1時間という『Metal Machine Music』(邦題:無限大の幻覚)(1975)出したあと"あれは冗談でした"って言った」

「カンフー好きが高じて2004年の来日公演では自分のカンフーの師匠をステージに上げて演舞させたが、バンド・メンバーたちは困惑しメンバーの1人は“よくわからないけど、ルーの希望だから”と苦笑いしていた。あまりの不評に、翌年からは演舞はなくなった」

「エフェクターボードの第一人者ピート・コーニッシュのボードを愛用しており、空間系の音作りでは数十通りもすぐに出せるように調整されていた。しかし、レコーディング中、ワンフレーズに悩み、数時間もかけた挙句、コードを引き抜きアンプに直でつないで“これ”と言って30秒で終了した」

「スーザン・ボイルに“お前の歌い方、嫌いだから”と自分の曲「パーフェクト・デイ」をカバーするのを止めさせて泣かせた」

「でも、その後カバーの許可を出した上、スーザンのビデオのプロデュースまでやった」

「新宿厚生年金で、1曲目「スゥイート・ジェーン」のイントロを中断して、“何故スリーコードの曲しか書かないのかと訊かれるけど、ほら、これはコード4つだ”と弾いてみせた」

 なんか、楽しくなってくるでしょ。
この人、何度も書くけど、自分に素直なんだよね。だから太くて短い人生(ワイルドサイド)を歩いた、と言うより走りきったんだろうね。

 ちなみに私は、『ベルリン』(1973)を中学生の時に聞き、全然わからなかったんだけど、
男になってから聞き直したら、なんかしっくりきた。

ワイルドだろ~。(古いな・・・)

2016/1/5
花形

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by yyra87gata | 2016-01-05 08:19 | 音楽コラム | Comments(0)

岡村靖幸とYouTube

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YouTubeという媒体はミュージシャン側からしてみれば厄介なものなのかもしれないが、音楽を検索する側からするとこの上なく便利なツールである。
CDショップに行かずして音楽が検索できるだけでなく、中にはレア音源などをアップしている方もいて得した気分になることもある。それが著作権法に違反しているかどうかはともかくとして、とにかくそのような流れがネットでは出来上がっていることは事実なのである。
さて、いつものように私はYouTubeに向かい、好きな音楽を検索していた。
すると約30年前の岡村靖幸のライブがアップされていた。1987年のライブで彼がまだプロのシンガーになって2年目の映像だ。
曲はデビュー曲の「Out of Blue」(1986)。
この曲、私には個人的な思いがあり、特別な曲だ。

当時大学生だった私が初めてラジオで聴いたこの曲。1986年の年末、岡村靖幸がラジオに出演していてなにやら妖しい雰囲気でこの曲を紹介していた。
ラジオなので映像が見えない分、新人とは言いつつ “ものすごい自信”と“世界を変えてやる”といった大それたことを真面目に語る彼に対しどんな人なんだろうと思いながら、興味を馳せた。
音楽はそれまで日本になかったファンクリズムと妙にメロディアスな楽曲がマッチし、私は彼の音楽の虜になったが、私の周りで彼を理解する人もおらず、1人ウォークマンを聴く日々が続いた。
その後はたまに出るTV(「笑っていいとも」にも出ていたのを見たことがある!挙動不審で異様な雰囲気だった!)で彼の動向をチェックするくらいでライブにも足を運ばなかった。なんせ、女性人気がすさまじく、気後れしていたのかもしれない。
ただ、音源だけは常に聴いていた。
そして、1989年4月発表のシングルCD「ラブタンバリン」で岡村靖幸に改めて開眼する事件が起きた。それは「ラブタンバリン」ではなく、そのカップリングで収録されたデビュー曲「Out of Blue」のライブヴァージョンを聴いたときだ。
このアレンジにやられたのだ。がむしゃらにオベーションを弾く岡村に分厚いバンドサウンドがかぶってくる。けっして安定しているリズムではないが、鬼気迫る演奏という表現が合うパフォーマンスがスピーカーから響き、私は何度もリフレインした。
重厚感のベースと鋭いギターカッティング。最後のサックスソロに至る盛り上がりは格別。どことなく親近感のわくソロだったということも気に入った要因のひとつだった。
その時から私の岡村靖幸のベストパフォーマンスとして記憶され、常にヘビロテのヴァージョンとなった。

時が経ち・・・
最近YouTubeで音楽を検索していると岡村靖幸にたどり着いた。そこには「Out of Blue」のライブが掲載されていた。
コレは、と思い再生。
音源は・・・あのCDシングルのまんまそのまま。ということは、あのシングルカップリング曲はこのライブビデオからの音源だったということがわかった。
そういえば、岡村靖幸のライブは何度か見たが、ライブビデオまでチェックはしていなかった。

さて、映像は順調に進む。私の好きなエンディングに向けてバッキングメンバーのパフォーマンスにも力が入る。グイグイ引っ張るベースと正確なカッティングを施すギター。
そして、決め手のサックスソロ。いつもウォークマンで聴いていたあの音源の画像がこんなに簡単に見れるなんて良い時代だと思いながら・・・

あれ?小島さん?
私が大学時代に最初に組んだ(入れてもらった)バンドのサックス奏者が岡村靖幸の横で吹きまくっているではないか。
ありゃりゃりゃ。一気に学生時代に逆戻り。なんで?え?そりゃそうだ、1年間ずっと小島さんのサックスを聞いていたんだ、そりゃ、岡村靖幸の曲だけどどこか親近感があったのはこのせいかよ・・・って。
片方の肩を落としながら前かがみで吹くスタイルはあの頃のまま。でもその映像自体が1987年のライブだけど。
小島さんはその後永井真理子や宮原学、泉谷しげる、吉田拓郎のバックを経てハウンドドッグに入る。しかし岡村靖幸のバックもやっていたとは知らなかった。
でも、ずっと好きだったヴァーションが実は身内が吹いていたと言うところにちょっと感動した。

小島さんはもうこの世にはいないが、この映像で甦ることを知り、YouTubeに感謝した。
甦る記憶と共にこのライブヴァージョンは永遠のものになった。

※ライブ:岡村靖幸 イケナイコトカイ Love φ Sex 88 DATE

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2015年11月30日
花形

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by yyra87gata | 2015-11-30 14:25 | 音楽コラム | Comments(0)
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  山下達郎のコンサートに行かれたことがない方。
一度は観てください。
少しでも達郎氏の音楽が共有できるのなら是非一度、コンサート会場に足を運んでください。
1流のエンターテイメントのステージが体感できます。 
彼は音楽への拘りを異常な程持っており、それがたとえ商業的な部分から外れたとしても、自分の信ずるものであれば信念を貫き通します。
彼の音楽に対する向き合い方は音楽の匠であります。
よくラーメン屋で「今日は満足のいくスープができなかったから休業します」なんて紙が店先に貼り出され、扉が閉じていることがあります。冗談なのか本気なのかわからない貼り紙ですが、達郎氏が見ればフムとうなずく事でしょう。彼に妥協は無いのです。
「レコーディングはきりが無い。いつまでもやっていられる。締め切りがあるから止めるだけで、ぎりぎりまで喘ぐのが私のレコーディングだ」とインタビューで応えています。
また、リハーサルに満足がいかず(あるキーボーディストが「Get Back in Love」のイントロがどうしても弾けない!)、ギリギリまで進めていたが、ゲネプロ(コンサートツアー前日に実際のホールを使用して行なうリハーサル、とおしリハとも言う)で満足がいかずコンサート初日を飛ばしたことがあります。(1989年12月・戸田市文化会館)
そんな逸話が溢れます。
 
コンサートの動員を考えれば集客能力の高い東京ドームや日本武道館の公演を考えますが、客の立場になるとオペラグラスから見るコンサートが嫌な事やパイプ椅子や硬いプラスティックの椅子に3時間以上も座らされる客を思うとそんな会場でできないという拘り。
だから達郎氏の御眼鏡に適ったホールは中野サンプラザであり、大阪フェスティバルホールであったわけです。
 
また、彼の御眼鏡に適ったということで言えば、ミュージシャンです。達郎氏のバックミュージシャンは、それぞれがエキスパート。名だたる方ばかりで、リーダーアルバムを出している人もいますし、その筋では大家の人もいます。そのミュージシャンが繰り出す音は演奏力、表現力共に一流で、そのままコンサートをレコーディングすれば毎回ライブアルバムが無編集でできる位のクォリティであります(皆さん、世に出ているライブアルバムのほとんどは良い具合に編集されていますよぉ~)。
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 達郎氏のコンサートは昔から長いです。
私がよくコンサートに足を運んでいた1970年代~2000年位までの国内のミュージシャンのコンサートは、アンコールを含めてせいぜい2時間半でした。外タレですと1時間半~せいぜい2時間。会場を借りる問題、消防法の問題等もあったのでしょうが、そんな中、達郎氏は3時間半もパフォーマンスを行ないます。だから、通常18時30分や19時開演というタイムスケジュールが多い中、達郎氏のコンサートは18時きっかりに始まりました。遅くなれないなら、早く始めちゃえということでしょうが、客にとってみたら、もうその日はまともに会社なんて行ってられません。早退覚悟でコンサートに臨まないと間に合わんのです。
また、演奏が白熱すると時間はどんどん伸び、長いときでは4時間を超える時もありました。六本木PIT INNの時は貧血で倒れる客はいるわ、終電は無くなるわ、と大変なライブとなりました。
 
何故、そんなに長くライブをするのか・・・昔のインタビューによりますと「売れてない時期が長く、ライブを行なうのもいつも最後の気持ちでやるから、やれるだけやって帰るんだ」ということだそうです。
いやいやそれだけではないでしょう。
あれだけサービス精神旺盛で、お客様が楽しむということを念頭にステージを構成されている達郎氏。4時間もアッという間です。
だから、ステージに掛ける準備も厳しく、おいしいスープができなければ公演を「飛ばして」までも完璧なものを見せるのです。もちろん、戸田市文化会館の時は本人が舞台に出てきて3曲ほどピアノの弾き語りをし、陳謝したとか。
 また、喉の調子が悪く(高い音が出ない)5曲ほど歌った後、舞台から降りそのまま公演中止になったこともあり(1989年2月・神奈川県民ホール)、ちょうどその公演には家内が観に行っており、ちょっとしたハプニングを楽しんだとか。もちろん追加公演もあり、しっかり2度楽しめたと言っておりました。
恐るべし完璧主義者であります。ですから、2013年名古屋公演アンコールでおきた不届きな客への叱責によりその客を退場させた件は、大きな話題にもならず、達郎氏のコンサートを楽しみに来る客の中ではさも当たり前の事として処理されているのでしょう。
もちろん達郎氏も「皆さんを悪い気持ちにさせてしまった」と侘び、特別に追加の1曲をプレゼントするという粋なはからいもあったようです。

 達郎氏はここ近年毎年ツアーを行なっております。それはあたかも20代の頃の本数に近づかんばかりであります。
一時期、レコーディングで悩まれたり、信頼の置けるバックミュージシャンがあるミュージシャンとバッティングし、中々ツアーが組めなかったりということもありましたが、とにかく最近はライブ活動が盛んであります。
夏の野外イベントへの参加、ライブハウスへの参加など企画モノのライブもこなし、60歳を過ぎて、もますます盛んであります。2015年から2016年に掛けてのパフォーマンスは、全35都市64公演で、達郎氏の歳の数以上の本数であります。
チケットの争奪戦も始まっており、前半戦のチケットはほぼソールドアウトでしょう。
もちろん、私は手に入れましたが。
さ、今年も達郎ワールドの始まりです。

2015年9月15日
花形

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by yyra87gata | 2015-09-16 16:36 | 音楽コラム | Comments(1)
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 日曜日の夕方、みんなは「サザエさん」の時間になるとマンデーブルー症候群となり、明日からまた1週間が始まる(始まってしまうぅ)という気分になる。
しかし、私は高校時代この症候群に陥ることは無かった。それは日曜の午後10時30分から30分間の音楽番組、JUN提供の「サウンズクリエーション」があったからだ。
この音楽番組、非常に硬派だった。それまでの音楽番組にありがちな司会者がいて出演者にインタビューするとか、曲前にくだらないMCが入るといった演出がまったく無い。タイトルが映し出された後、すぐに番組提供画面にJUNの文字。そしてJUNのCMが流れる。
このCMも他のCMと一線を画していて、モデルの女性は比較的露出が高い洒落た服を着て、石畳の街を歩いていたりして、非常に洗練されていた。ここにも余計なナレーションは無い。とにかくシンプル尽くめだった。
この番組は30分間で1組のミュージシャンを特集する。
スタジオライブが殆どだが、たまにライブ会場からのオンエアもあった。
もちろん番組内でもMCなどに時間は割かない。とにかく音楽を聴かせる演出なのである。
特にまだまだアンダーグラウンドな状況だった日本のロックやフォークに焦点を当て、生演奏が聴ける贅沢な番組だった(テレビ神奈川やテレビ東京は制作費が無いので、こういう変化球が得意である)。
ジョニー・ルイス&チャー、サンディー&ザ・サンセット、高田渡、斉藤哲夫などキー局で30分オンエアなんかしたものなら、プロデューサーの首がいくつあっても足りない。
でもこの尖り方が時代の音を掴んでいたとも言える。
矢野顕子の回は、バッキングはYMO+α。顕子の天真爛漫な歌声で「ごはんができたよ~」って歌う姿に反比例するかのように細野晴臣がつまんなそうな顔でベースを弾いているのが印象に残った。

そしてもうひとつ。
「パイオニア・ステレオ音楽館」
「サウンズクリエーション」と比べ、こちらはどちらかというとジャズ、フュージョンのミュージシャンが多かった。
高中正義やデビューしたてのカシオペア、テクノバンドのヒカシュー、プラスティックスといった時代の音が溢れていた。
平日の夕方6時から15分間の番組で、1週間の帯番組でオンエアしていた。好みのミュージシャンが出演するとなると勝手に部活を切り上げ急いで家に帰ったものだった。
この番組もCMは洗練されていた。パイオニア・ステレオの宣伝は高中正義自身が「ブルー・ラグーン」や「レディ・トゥ・フライ」を軽井沢かなんかのロッジの家で気持ち良く弾いているシーンが印象的。
また、パイオニアのカーコンポの宣伝はライ・クーダー。「ゴー・ホーム・ガール」や「ビッグ・シティ」が流れるとアメリカの乾いた映像が映し出され、一瞬にして荒野の雰囲気となる。
そして、まさに東京12チャンネルの隠れた名音楽番組「日立・サウンドブレイク」で紹介されるような映像がパイオニアのCMそのものだったのだ。
音楽の作り手からビデオクリップやMTVなどの映像が送出されるのは1983年あたりからだと思うが、「サウンドブレイク」は音楽プロデューサー毛利元海の選曲で独自の画像処理を行ない、雰囲気のあるビデオ作品を作り上げていた。そのセンスの良さは、売れ線で狙うレコード会社のそれとは一線を画していた。音楽が好きな人が作ったクリップと言えばいいか。
「パイオニア・ステレオ音楽館」は、小室等が司会を勤め、スタジオライブが主であったが、たまにライブ特集となると1週間の帯でライブ中継を行なうこともあり、たとえば高中正義の雨の日比谷野外音楽堂でのライブなどは、『T‐WAVE』(1980)を発表した頃だったので、ずぶ濡れになりながらもノリに乗った演奏をお茶の間に届けてくれた。
また、渡辺香津美、坂本龍一、矢野顕子、高橋ユキヒロ、村上PONTA秀一、小原礼などが在籍していたKYLYN bandのライブ特集など、「ザ・ベストテン」や「ミュージックフェア」では観ることのできない面子が目白押しだったのだ。

こういった番組は再放送とかしてくれないか・・・。著作権や肖像権の問題等あるのかもしれないが、テレビ局界の異端児であるテレビ東京(私はどうもこの名前が嫌いでね、東京12チャンネルと言いたいのだよ)ならやってくれそうな気がするのだが。

2015年9月5日
花形
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by yyra87gata | 2015-09-05 15:48 | 音楽コラム | Comments(4)

アンプラグドなレイラ

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 エリック・クラプトンのコンサートに行ったとしよう。
チケット価格は1万円を超え、一般人からすれば、中々手に入れ辛いチケットである。それでも何とか手に入れ、喜んで席に着く。
エリック・クラプトンを古くから応援し(この古くからというのが大事)、仕事とかで中々コンサートには行けなかったが、ようやく来ることができたという設定。初めての生のクラプトン!最高!ってな感じ。
クラプトンは颯爽と舞台に登場し、エレキギターを持ち演奏を始める。
今までレコードやCDでしか聞いたことがなかったクラプトンが目の前でプレイを始めた。
もうそれはそれは興奮状態になる。
そこにヤードバーズやクリームは観ることができないにしても、生のクラプトンが目の前で歌っているわけ。でもって、渋い顔してブルースかなんかを弾いて・・・。そんでもって「ワンダフルトゥナーイト・・・」なんて甘い声で歌われると一緒に行った彼女(奥様?)なんてしびれてしまう。良い雰囲気だ。

 クラプトンはエレキギターをアコースティックギターに持ち替えた。
「ティアーズ・イン・ヘブン」や「チェンジ・ザ・ワールド」といったヒット曲を演奏。ロバート・ジョンソンを彷彿とさせるトーキングブルースも披露。会場は大盛り上がり。ヤンヤヤンヤ。
そして、拍手が鳴り止まぬうちにマイナーコードのイントロから歌が始まる。そして歌いだす。

What'll you do when you get lonely And nobody's waiting by your side?

出た!「レイラ」だ! そしてこの言葉の後に続く心の言葉は「こっちかぁ~!」

クラプトンは淡々と切ない男の心情をアコースティック・ヴァージョンで歌い上げる。それは、もう演歌のノリ。

Layla, you've got me on my knees.

のLayla!は叫び歌い上げて欲しいのだが、アコースティック・ヴァージョンは「れいらぁ~っ」って下がってしまうわけ(文字にしても全然伝わらんな)。
会場に響くため息の数々。(いや、もちろんアンプラグドなレイラが好きな人もいると思うが・・・)

 『アンプラグド』(1992)から聴き始めたクラプトンファンならわからないでもないが、古くから聴いているファンの大半は来日公演の演奏であれば、ロックな「レイラ」に期待をかけているのではではないか。
もちろん『アンプラグド』はグラミー賞を総なめにした名盤であるから、古くからクラプトンを応援しているファンは再アレンジを施された「レイラ」を聴いて満足している人も多いだろう。もちろん好き嫌いの話になるので正解は無いが、たまに日本に来るクラプトンを観に行く往年のファンの大方はロックなレイラが聴きたいのではないか。
1990年代初頭から始まったアンプラグド・ブームに乗って、その時限りの企画モノであればまだ良かった。しかし、まさかこんなに長い期間演奏されていることに私は驚くばかり。

 コンサート会場は静かにレイラの演奏が終わった。
クラプトンはアコースティックギターからエレキギターに持ち替え再びビートのある演奏に戻る。
みんなの頭の中・・・こっちの演奏で「レイラ」も聴きたかったなぁ。アンコールでやってくれないかな? なんて。

 さて、この「レイラ」。
先ほども書いたが、音楽は嗜好品だから好き好きがあってしかるべきだが、この「レイラ」はそもそも、もとの曲が大ヒットしているので、そのヴァージョンに思い入れがある人も多いはず。クラプトン自身もアコースティック・ヴァージョンは歌いまわしも少々変えているので全然別物として捉えてられているというのが本音かもしれない。同じ歌でもビートが変われば解釈も変わる。
「若さ」でロックビートの中、叫び続ける。
「老練なおっさん」がゆったりしみじみと、呟く。
やっぱり違う歌だよ、これ。

 私も長いことクラプトンのコンサートを見てきているが、「レイラ」はアコースティックでやられるとガッカリする。そもそもアコースティックのクラプトンが好きじゃないというのもあるのだが(古いブルースカバーは良いかななんて思うときもあるが・・・)、レイラは違うだろって感じ。
だから、もし、アコースティック・ヴァーションを演奏するなら、ロックな「レイラ」も演奏してくれということだ。

あ、何で今更こんなこと書いているかって?
Youtubeでたまたまクラプトンがアコースティックのレイラを歌ってたから、思い出しちゃっただけなんだけどね。

2015年8月21日
花形
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by yyra87gata | 2015-08-21 10:58 | 音楽コラム | Comments(8)
  私は主にアコースティックギターを弾いているが、コンサートなどに行った時、ほとんどギタリストを見ない。同業者だから見るべきなのだろうが、あまり興味がわかず、アンサンブルの中で入ってくるリフや音色などを感じるだけで、弾いている姿などを見つめるということはしない。
そんな時、私はもっぱらベースとドラムを見ている。リズム隊のコンビネーションを観察するように見る。その中で、上手いか下手かの判断をするのが常だ。
派手さは無くともリズム隊ががっちりタッグを組んでいれば、音楽は上質なものになる。逆にテクニシャン揃いのバンドでもコンビネーションが悪ければバラバラの演奏になるか、その音楽を壊してしまうだけだ。
私はヴォーカルのある音楽が好きなので、ヴォーカリストを際立たせるプレイヤーが好きだし、そういうアレンジが好きだ。
  リードベースという言葉がある。ギターのようにフレーズを弾きまくるベースプレイヤーを指すが、その代表例はジョン・ウェットウィスル(ザ・フー)、ゲディ・リー(ラッシュ)、日本では加部正義(ジョニー・ルイス&チャー)など。少人数編成のバンドのベーシストに多く、3ピースでいうところの和音楽器であるギターの音の幅を広げるため、裏メロなどを弾きまくるベーシスト。それはあたかもひとつの音楽の中にもうひとつの音楽を作るかのようにベースラインが生きる。私はそんな音楽が昔から好きだ。
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  以前コラムで紹介したが、私のスマホにダウンロードしてある2曲のうち(1曲は吉田拓郎「流星」アレンジが秀逸)、もうひとつの曲を紹介したいと思う。
 松原みき「真夜中のドア~Stay with me」である。1979年発表で、前述の「流星」も同時期の作品だ。私は14歳、中学3年生だった。
「流星」を紹介したときも述べたが、当時の私が曲を判断する基準はアレンジだ。当時、私はエレクトーンを小学校低学年から続けており、とにかく曲を聴く際、アレンジを重視していた。
エレクトーンはメロディ、コード、ベースと3つの音を1人で演奏する自己完結型の楽器で、演奏の滑らかさも去ることながらアレンジ能力が問われる楽器だ。だから、音楽の聴き方も自然とそうなってしまったのかもしれない。
  さて、この「真夜中のドア~Stay with me」(作詞 三浦徳子、作曲 林哲司、編曲 林哲司)だが、この作品は日本のシティポップのセンターラインを行く作品で、林哲司の初期の作品である。林は80年代以降アイドル歌謡からポップスまで幅広く作品を発表し、日本を代表する音楽家となっていく。
私がこの作品に着目した点は、中学生の私でもわかる曲の流麗さと映画音楽を聴いているような心地よさがあったこと。低音から高音まで自然に伸びるヴォーカルの豊かな表情。
歌心を感じさせるベースラインの妙。我慢して我慢して、最後に昇華するギターソロ・・・。
ポイントをあげていくと数十項目にも及ぶ。
そして、当時はあまり理解できていなかったかもしれないが、三浦徳子の描くドラマのような歌詞は読み返すだけで男と女の関係性が端的にまとめられているのだ。

  ラジオから突然流れてきたこの曲。当時の私はサビの部分だけが頭に残り、脳内でヘビーローテーションとなった。そして、時を待たずしてシングル盤を購入。前述にあるような曲の解析を始めた。
「真夜中のドア」は、キャロル・ベイヤー・セイガーの「イッツ・ザ・フォーリン・ラブ」のアレンジに似ていると話題になった。その歌はそもそもマイケル・ジャクソンの大ヒットアルバム『オフ・ザ・ウォール』(1978)に収録され多くの人に知られていたが、この頃のAORはどれも似たり寄ったりのアレンジで、所謂トレンドだった気がするし、「真夜中のドア」の方が演奏も緻密で、歌詞の醸し出す雰囲気を十二分に表現していたと思う(当時はそんなに歌詞については解析できるほど大人ではなかったが・・・)。少なくとも当時の私には「真夜中のドア」がすんなり入ってきたのだから誰がなんと言ってもしょうがない。
  演奏については、申し分ないメンバーが揃っている。渋井博(Key)、穴井忠臣(Per)、林立夫(Dr)、松原正樹(G)、後藤次利(B)、数原晋、村岡健(Horn)。
約35年前の演奏だから、彼らも20代~30代。ノリに乗っている時期で、演奏に凄みさえ感じる。特に後藤次利のベースは際立っている。文頭にも述べたがベースフレーズが歌いまくっている。彼もリードベーシストと言ってもいいだろう。そんな彼の秀逸なプレイは、「真夜中のドア」にはシングルヴァージョンのほかに存在するオルタネートヴァージョンで余すことなく確認できる。曲中でオフリズム後、ベースとヴォーカルだけになるパートがあるのだが、そこで演奏されているデュエットが圧巻なのである。次利のベースは松原みきのヴォーカルを上手く押し出しつつ、主張する。この頃の次利はBCリッチのイーグルベースを好んで使用していたのでフェイズがかった音色も彩を加えている。とにかく短いフレーズの中でベースが歌っているのだ。
  そして、松原正樹のギター。歌の初めから控えめなカッティングに終始していたギターはエンディングのリフレインでカッティングからリズムを刻みながらフレーズに化けていく。松原正樹の指が指板を踊る。ES335特有の粘りのある響きがフェードアウトしていく音の中で印象的なフレーズを主張するのだ。決して現代の打ち込みではできない空気感がそこにある。松原正樹はユーミンや松山千春、さだまさしなどといったニューミュージック系のアーティストから歌謡曲全般までオールラウンドのギタリストであるが、「真夜中のドア」で聞くことができるフレーズは彼と言うより、日本のポップスを代表するフレーズと言っても過言ではないと思う。
  林哲司のアレンジの特徴は、ドラマチックに見せる音のつなぎ方に尽きる。アクセントの持って行きかたなど独特の林ワールドが存在する。
当時の歌謡曲やポップスアレンジで、タメという概念はあまりなかった。しかし、林はここぞというサビの前にタメを多用したのだ。リズムを落とすタメはそれまでの流れを一瞬止めてしまうためグルーヴを失うというリスクを孕んでいるが、演奏技術が整っていればこれほど効果的なアクセントはない。
「真夜中のドア」でもサビ前にスネアの2連打ち×2回というタメが使われている。このタメがこの作品の真骨頂と言ってもいいだろう。このドラマチックなアレンジに私は参ってしまったのだ。
同時期に竹内まりあの「セプテンバー」も林作品としてヒットしたが、同じフォーマットでヒットしていることから、聞き手に確実に入ってくるアレンジとして確立したものであると中学生ながら私は確信した記憶がある。
だから、私の作る歌にはこのタメを入れることが多い(笑)。

  松原みきは残念なことにもうこの世にはいない。2004年に子宮頸がんにより逝去している。44歳という若さである。本当に美しい人だった。
一度ライブを見たことがあるが、ハスキーボイスでコケティッシュな印象。決して声量があるわけではないが、父親がジャズミュージシャンと言うこともあってか、雰囲気のある女性だった。

「真夜中のドア」は気が向くとすぐ聞けるようスマホに入れたが、気が向きすぎて1週間に3回は聞いている。
そういえば、この歌のせいで私はスタジオミュージシャン好きになったのかもしれないと今思った。

2015年6月23日
花形
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by yyra87gata | 2015-06-23 18:13 | 音楽コラム | Comments(2)

ファイティング80's

1980年を境に前後3年間。
日本の軽音楽が一般に認知されていった頃のこと。
それは、テレビというメディアに歌謡曲以外の音楽が殴り込んでいった時期で、テレビCMソングに至っては、こぞってロックやニューミュージックと呼ばれたジャンルのミュージシャンを採用していた。
70年代後半はキャンディーズが引退しテクノが流行、山口百恵がマイクをそっと置いたのはちょうど1980年。聖子や明菜、キョンキョンなどといった歌謡曲の新しい波が80年過ぎにデビューしたが、そこには70年代の職業作家は影を潜め、ユーミンやはっぴいえんどの4人が作家やミュージシャンとなりヒットチャートを席巻していた。新しいタイプの歌謡曲が新しいタイプのアイドルを生んだのだ。
70年代のアイドルをパロディのようにキョンキョンは「なんて言ったってアイドル!」と叫んだことが新しい時代の象徴だった。
さて、そんな音楽の流れが変わり始めた頃、東京キー局では「ザ・ベストテン」「紅白歌のベストテン」「夜のヒットスタジオ」「ミュージックフェア」などの音楽番組が全国に発信していたのに対し、関東地方局からは非常に尖ったプログラムが毎週放送されていた。

 高校時代、よく足を運んだ場所に蒲田の電子工学院ホールがある。
テレビ神奈川制作の「ファイティング80’s」の公開録画を観るためだ。
時は1980年〜1982年の3年間。
当時「ファイティング80’s」に出演していたミュージシャンは、日ごろライブハウスなどで日の光を目指し、チャンスを掴もうとしている者ばかりであった。もちろんロック界フォーク界でのベテラン組も出演していたが、時代的にまだ彼らの音楽は東京キー局からの発信が皆無に近かった。所詮主流の音楽ではなかったと言うことだ。

番組の司会は、宇崎竜童。気さくに接するその振る舞いに、出演するミュージシャンの良い兄貴分に見えた。番組の前座は決まって新人の佐野元春の「アンジェリーナ」。スプリングスティーンみたいな雰囲気で、早口のロックを歌っていた。

「ファイティング80’s」の前身番組で宇崎の言うことをいつもボンヤリ聞いて、小さな声で毒づいていた清志郎。だけど、放送開始1年後には「雨上がりの夜空に」で大ブレイクして公開録画の競争率が上がったこと。シーナ&ロケットやザ・モッズ、ザ・ロッカーズといった「めんたいロック」を知ったのもこの番組だった。
印象に残る出演者は、デビュー当時のサザンオールスターズ…大学生が内輪受けのバンドをやってますといった感じで桑田はいやらしい腰つきで歌っていた。
岡林信康が出たときはびっくりした。ロックバンドを率い、「Good Bye my darling」って歌っていたが、はっぴいえんどをバックに歌っていたときと違って、なんか生ぬるいロックだった。宇崎のことを「先生、先生・・・」って呼んでいたが、そのあとで「先生って言われているやつにロクなやつはいないんや」なんて毒づいていた。

ジョニー・ルイス&チャーはふらっと現れて、ガンガン演奏して、何も言わずに帰っていく・・・そんな着流し的なロック兄ちゃんが格好良かった。

「ファイティング80’s」では様々なアーティストが出演した。
ロックがサブカルチャーから本筋に移行する時代・・・つまり、ロックが儲かると判断され、レコード会社や事務所、代理店が金をかけ始めた時代にこの番組はロックの見本市の様相を呈していた。
この番組から巣立ったアーティストも多い。
しかし、その中で宇崎率いるダウンタウン・ファイティング・ブギウギバンドだけは尖っていた。
コマーシャルに走らず、言いたいことを言い放つ。
そこには情念、哀歌、憂歌、欲望、裏切り、劣情、刹那、昇天・・・そんな世界が繰り広げられる。
宇崎のもつ作品のパワーと何の後ろ盾もないバンドの生の音が木霊していたのだ。

売れるためにキャッチーな言葉を選びながら誰もが口ずさめる音楽・・・そんな世界とは無縁のバンドであった。
ダウンタウン・ファイティング・ブギウギバンドはこの番組の終了と供に姿を消していくのだが、こんなバンド、今後絶対出ないだろう。

「ファイティング80」でオンエアした数々のバンドの映像は後にDVDで発表された。
アーカイブ的な発表の仕方だったが、懐かしむだけでなく、映像からは当時の息吹が感じられる。
撮影技術も音声も決して良くはない。ライティングも稚拙で妙に暗かったりもするが、その空間で呼吸するバンドやミュージシャンの勢いは、補正されて制作された音楽ビデオとは一線を画すものだし、そんなものと比べること自体ナンセンスだ。
「ファイティング80’s」・・・私の宝物である。
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2015年4月28日
花形
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by yyra87gata | 2015-04-28 22:37 | 音楽コラム | Comments(2)

音楽で世界が変わるか

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 私は桑田が嫌いだから彼が何をやってもダメなので、極力彼を見ないようにしているし、サザンが好きな人とは極力その話題をしないようにしている(だいたいにおいて、サザンのファンと心が通いあえないから、そんな話題すら出ないが)。
昨年末もNHKの「紅白歌合戦」を最初からしっかり見ていたが、突然、桑田のちょび髭が出てきた時に、我が家は一斉にトイレ休憩となった。
そう、見たくないものは見なければいいという安藤ミキティの言葉ではないが、その通りにした。但し、ちょっと我に帰るとNHKは放送法という名のもとに受信料を徴収しているから、只で見ることができる民法とはわけが違う。嫌なものは見なければいいのだが、金を払っているという点でちょっと不快になったが、いちいち人の好き嫌いをNHKが汲むはずも無いので、最大公約数的に考えてのキャスティングなんだろうと自分を納得させた。
ちょっと長目のトイレ休憩を経て家族が再びTVの前に集まった時にはサザンのサの字も無く、平穏に最後まで見ることができた。

 さて、ここから新年を迎え、「初日の出を」など、とめでたい時分になんともネットが騒がしいことに気づく。
「桑田が紅白でやらかした!」「反日?」「ピースとハイライトの歌詞が秀逸」・・・。
ああ、また彼特有の悪ふざけが出て、それに賛同する群衆たちに辟易。ちょっと不愉快に。
風刺をこめたパフォーマンスなのだろうが、それを国民的な番組で演奏してしまう彼のエゴイズムに少し反感を覚える。
今回の紅白はそもそも「みんなで歌おう」なんていう企画だったと思うが、そんな歌みんなで歌ったら世も末だ。
ま、長渕も明菜も新曲を歌っていたので「みんなで歌おう」もクソもないから企画自体がポンコツなのだが、NHKも受信料を取っているから日和見になって、結局この有様だ。
なんでも、今回の紅白は過去最高のクレームの数だったとか。そりゃそうだ、誰に対して見せているのか・・・ジャニーズとEXILE一派とAKB一派の集まりに、申し訳なさそうにJPOPや演歌や歌謡曲がチョコンといる感じ。なんとも「これが今の日本の音楽です!」と言うにはあまりにもお粗末。
紅白の出場基準なんてあってないようなものと言われても仕方ないだろう。

 そんなこんなで、とても不快な新年を迎えたので極力ネットにも目を向けず、自分からも発信せずにいたが、今日の朝のニュース。
また、私の嫌いな桑田がやらかしたようだ、
 彼は昨年、国から勲章を授与されている。紫綬褒章である。紫綬褒章とは、科学技術分野における発明・発見や、学術及びスポーツ・芸術分野における優れた業績等に対して表彰されるもので天皇との拝謁もある。
その勲章を例の紅白の時の年越しライブで客に披露した。しかもケツのポケットから取り出してチャラけたコメント(天皇の物真似)まであったようだ。

 これは、少しふざけ過ぎだ。
私は国粋主義者でも右翼でも無いし、天皇崇拝者でも無いが、日本人としての意識はある方である。
少し前に反日運動ということで、隣の国で日の丸が燃やされた時は、驚きと共に心底その国々に嫌悪感を抱いたものだった。
その国々の人間が多く日本で商売をしている中、そんなに嫌なら日本に来るな!とまで思った。

 桑田の行動はそれに近い。
茶化すなら、最初から勲章なんて貰わなければいいだろう。拒否することだってできる。
今の日本に対してのテーゼがあるなら他の方法だってあるだろう。
日本という国が決めたことを受け入れたのなら最後まで筋を通すべき。
そもそもブログやFacebookのネタ作りのために勲章を貰ったのなら別だが、彼はきっとそんなレベルなんだろう。
 1965年、ジョン・レノンはエリザベス女王から勲章をもらったが、その4年後、イギリスの軍事介入や戦争をしているアメリカを支援していることに異を唱え、それを返還している(裏読みではビートルズとの決別という見方もあるが)。
筋を通すということはこういうことではないか。

 音楽的に桑田は優れていると言われているが、そんなことはどうでもいい。人間性を疑う。

 社会風刺を行なうということは、本来ロックの持ち味である。そこを攻めているわけではない。風刺に異論を唱えるなどという無粋なことはしない。さもすると、生ぬるいポップスだけで満足している今の日本の音楽の方が異常なのかもしれない。桑田はその発表の仕方を間違えたのではないか。 いや天然かもしれない。
ついでに言えば、そんな人が歌う歌で世界なんか変わらないし、世の中そんなに甘く無い。

歌は文化であって武器ではない。

 もし、本当に歌で世界を変えるなんてことを考えているなら、ボブ・マーリーを思い出して欲しい。当時武力対立していたジャマイカの人民国家党とジャマイカ労働党。ボブ自身も抗争に巻き込まれ重症を負う狙撃にもあった。
しかし1978年、彼は自身のコンサートで2つの党首をステージ上に招いて和解の握手をさせている。
握手をし、笑顔のバックにはジャマイカのレゲェが高らかに鳴り響いている。

それくらいの気持ちでやらなければ、ただの歌いっぱなしだよ、桑田くん。
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by yyra87gata | 2015-01-07 17:16 | 音楽コラム | Comments(0)

「流星」 吉田拓郎

 私のiPhoneにダウンロードされている曲が2曲ある。
そのうちの1曲は吉田拓郎の「流星」である(もう1曲はまた別の機会に紹介する)。
なぜ私がこの曲をダウンロードしてまでiPhoneに入れ、いつでも聴くことができるようにしているか。
単純に好きだからなのだが、単純に楽曲が好きということもさる事ながら、この作品、私のアレンジの基本となっているのだ。
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 「流星」は想いを馳せる男と流れる星の儚さ、そして男の内省的な部分を拓郎の朴訥としたヴォーカルが重く、ドラマチックに仕上がっている作品である。
そして、歌詞も抽象的な表現が多く、歌詞だけをただつらつらと目で追っていってもなかなか意味が通じない。しかし、それが詩的であり、男の呟きとも取れる内容だが、ミディアム8ビートのグルーヴで聴くとグッと胸に入りこんでくるのだ。
アレンジャーは鈴木茂。
ピアノとハモンドが随所に印象的な響きを奏でる。松任谷正隆の真骨頂である。
また、ストリングスを多様したサビへのブリッジは、楽曲をドラマチックに盛り上げており、非常に参考になる手法だ。
 鈴木茂による8小節のギターソロがあるが、このソロが秀逸。トリッキーなプレイはひとつもなく、伸びやかにメロディアスなフレーズが駆け巡る。
流れるようなストリングスをバックに、時に呟き、時に吠える拓郎のヴォーカルも秀逸である。
「流星」は、拓郎のペンによる歌詞。明らかに彼の生活が切り取られている。
ここで、全ての歌詞の解説は無粋ではあるが、明らかに1度目の離婚劇とたったひとりの娘を想うひとりの男の姿が読み取れる。
そして拓郎らしい歌詞が随所に見ることができる。
「静けさにまさる 強さは無くて 言葉の中では何を待てばいい」などは緊張感のある空気感を表現し、その後の「たしかな事など 何も無く ただひたすらに 君が好き」につながる。
これは前妻のことか愛娘のことかは不明だが、明らかに男の想いを表現している。
2番ではあることでつまずいた男は孤独と共に星を数える男になる。
「心をどこか 忘れもの ただそれだけで つまはじき」とあるが、
「幸福だとは 言わないが 不幸ぶるのは がらじゃない」と強がる。この切り返しが女々しくならない男の歌なのだ。
 非常にメロディアスではあるが、強い意志を持っている歌詞なので、そのギャップが心地良く、ただ黄昏れるだけでなく、そこに自問自答しながら前に進んでいく。
 詞、曲、アレンジ、歌唱・・・どれを取っても非の打ち所がない。
優しさの表現が稚拙になり、日記みたいな歌詞ばかりの昨今、男らしい歌が少なくなった。
高倉健が死んだ時、ふと「流星」が頭に響いた。
だからつらつらと書いてしまった。


「流星」
たとえば僕がまちがっていても
正直だった悲しさがあるから……流れて行く
静けさにまさる強さは無くて
言葉の中では何を待てばいい……流れて行く
たしかな事など何も無く ただひたすらに君が好き
夢はまぶしく 木もれ陽透かす 少女の黒髪もどかしく
君の欲しいものは何ですか 君の欲しいものは何ですか

さりげない日々につまずいた僕は
星を数える男になったよ……流れて行く
遠い人からの誘いはあでやかで
だけど訪ねさまよう風にも乗り遅れ……流れて行く
心をどこか忘れもの ただそれだけでつまはじき
幸福だとは言わないが 不幸ぶるのはがらじゃない
君の欲しいものは何ですか 君の欲しいものは何ですか

流れる星は今がきれいで ただそれだけに悲しくて
流れる星はかすかに消える 思い出なんか残さないで
君の欲しいものは何ですか
僕の欲しかったものは何ですか
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2014年12月25日
花形


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by yyra87gata | 2014-12-25 18:29 | 音楽コラム | Comments(2)