音楽雑文集


by yyra87gata

カテゴリ:音楽コラム( 112 )

「流星」 吉田拓郎

 私のiPhoneにダウンロードされている曲が2曲ある。
そのうちの1曲は吉田拓郎の「流星」である(もう1曲はまた別の機会に紹介する)。
なぜ私がこの曲をダウンロードしてまでiPhoneに入れ、いつでも聴くことができるようにしているか。
単純に好きだからなのだが、単純に楽曲が好きということもさる事ながら、この作品、私のアレンジの基本となっているのだ。
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 「流星」は想いを馳せる男と流れる星の儚さ、そして男の内省的な部分を拓郎の朴訥としたヴォーカルが重く、ドラマチックに仕上がっている作品である。
そして、歌詞も抽象的な表現が多く、歌詞だけをただつらつらと目で追っていってもなかなか意味が通じない。しかし、それが詩的であり、男の呟きとも取れる内容だが、ミディアム8ビートのグルーヴで聴くとグッと胸に入りこんでくるのだ。
アレンジャーは鈴木茂。
ピアノとハモンドが随所に印象的な響きを奏でる。松任谷正隆の真骨頂である。
また、ストリングスを多様したサビへのブリッジは、楽曲をドラマチックに盛り上げており、非常に参考になる手法だ。
 鈴木茂による8小節のギターソロがあるが、このソロが秀逸。トリッキーなプレイはひとつもなく、伸びやかにメロディアスなフレーズが駆け巡る。
流れるようなストリングスをバックに、時に呟き、時に吠える拓郎のヴォーカルも秀逸である。
「流星」は、拓郎のペンによる歌詞。明らかに彼の生活が切り取られている。
ここで、全ての歌詞の解説は無粋ではあるが、明らかに1度目の離婚劇とたったひとりの娘を想うひとりの男の姿が読み取れる。
そして拓郎らしい歌詞が随所に見ることができる。
「静けさにまさる 強さは無くて 言葉の中では何を待てばいい」などは緊張感のある空気感を表現し、その後の「たしかな事など 何も無く ただひたすらに 君が好き」につながる。
これは前妻のことか愛娘のことかは不明だが、明らかに男の想いを表現している。
2番ではあることでつまずいた男は孤独と共に星を数える男になる。
「心をどこか 忘れもの ただそれだけで つまはじき」とあるが、
「幸福だとは 言わないが 不幸ぶるのは がらじゃない」と強がる。この切り返しが女々しくならない男の歌なのだ。
 非常にメロディアスではあるが、強い意志を持っている歌詞なので、そのギャップが心地良く、ただ黄昏れるだけでなく、そこに自問自答しながら前に進んでいく。
 詞、曲、アレンジ、歌唱・・・どれを取っても非の打ち所がない。
優しさの表現が稚拙になり、日記みたいな歌詞ばかりの昨今、男らしい歌が少なくなった。
高倉健が死んだ時、ふと「流星」が頭に響いた。
だからつらつらと書いてしまった。


「流星」
たとえば僕がまちがっていても
正直だった悲しさがあるから……流れて行く
静けさにまさる強さは無くて
言葉の中では何を待てばいい……流れて行く
たしかな事など何も無く ただひたすらに君が好き
夢はまぶしく 木もれ陽透かす 少女の黒髪もどかしく
君の欲しいものは何ですか 君の欲しいものは何ですか

さりげない日々につまずいた僕は
星を数える男になったよ……流れて行く
遠い人からの誘いはあでやかで
だけど訪ねさまよう風にも乗り遅れ……流れて行く
心をどこか忘れもの ただそれだけでつまはじき
幸福だとは言わないが 不幸ぶるのはがらじゃない
君の欲しいものは何ですか 君の欲しいものは何ですか

流れる星は今がきれいで ただそれだけに悲しくて
流れる星はかすかに消える 思い出なんか残さないで
君の欲しいものは何ですか
僕の欲しかったものは何ですか
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2014年12月25日
花形


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by yyra87gata | 2014-12-25 18:29 | 音楽コラム | Comments(2)
 ゆず、コブクロ、ケミストリー。ポルノグラフィティーとB’zは男性デュオって感じではないね。「ユニット」って呼び名が今風か。そう、今回は男性デュオの話。
70年代~80年代にかけて男性デュオは少なからず存在した。要は男性2人でコーラスワークができるグループということ。
・オフコース・・・最初は3人でスタートしたが、小田と鈴木のコーラスは高度であり、緻密であったがセールスには結びつかず、結局、時代の流れでバンドにしてようやく売れた。
・グレープ・・・さだまさしがいて「風」と並んでセールス的に成功したデュオ。
・バンバン・・・もともとは4人で活動していたが、デュオになり「『いちご白書』をもういちど」をヒットさせた。「縁切寺」もヒットしたが両作品とも他人のペンによるもの(「『いちご白書』をもういちど」は荒井由実、「縁切寺」はさだまさし)。ワンヒットワンダーの典型。
・風・・・正やんのシティポップなセンスと大久保さんのフォーキーな感じがよくブレンドされていたが、いつの間にかいなくなっちゃった。
・ふきのとう・・・山木のコーラスは3度上の音をオクターブ下にしてハーモニーをつける独特のコーラスワーク。
・チャゲ&飛鳥・・・今年とても話題の人がいて、「SAY YES」って言ってパクられた。
・雅夢・・・愛はかげろう・・・この人たちもかげろうになった?
・H2O・・・大人の階段を上ったら何処に行っちゃったんだろう、この人たち。
ということで、みんないなくなった。
 だがしかぁ~し!
ひとつ重要な男性デュオを忘れてはいないか!
そう、ブレッド&バター・・・岩沢兄弟だ(堂本兄弟も終わっちまったか)。
1969年のデビューから2014年までに41枚のシングルと24枚のオリジナルアルバムを発表。スティービー・ワンダーから作品の提供を受け、日本の有数なミュージシャン達と交流があり、今なお現役のデュオである。
ま、現役で言えば「ビリーバンバン」という菅原兄弟もいるが、今回は岩沢兄弟!
ちなみに「ビリーバンバン」ってもともと3人組みだったけど、途中で1人脱退したわけ。その人ってパーカッション担当だったせんだみつおだったのだ。ナハナハ。

さてと・・・。
メインボーカルの岩沢幸矢の声はハスキーである。若いときからこの声は変わらず、このハスキーボイスから奏でる音ことがブレバタの音である。ちなみに岩沢幸矢は今年71歳。先日彼の歌を聴く機会があったが、30年前に聴いた時と変わらない歌声であった。そして、弟の岩沢二弓もいつも兄を支えながらブレバタの音楽を作っている。
そして、この2人。神奈川・湘南に根ざした音楽活動ということで、アロハシャツに白いコットンパンツ、日焼けした健康的な肌。ひげを少々伸ばしながら、デッキシューズをつっかけて、もしくは1年中ビーサン・・・要はおしゃれなのだ。
湘南にはこういうチョイ悪オヤジがたくさんいるが、そのアイコンみたいな2人。みんな若大将みたいになりたくて、ギターも弾ければ、歌も歌って、料理もできれば、船もあって・・・そしてきれいな女の子がいっぱいいて・・・なんて。毎日バーベキューしてそうだもんね。ま、ブレバタがそうだといっているわけではないが、そんな雰囲気があるのですよ、湘南系のここら辺の人って。
 
 ブレバタの音楽だが、湘南系といわれているが実はよく聴き込むと実はアメリカンな音楽をモチーフにしており、それを日本の軽音楽にいち早く取り入れたデュオだった。だから、一応1969年にデビューしてるんだけど、デビュー曲が当時のヒットメーカーだった筒美京平の手による歌謡曲みたいな作品だったから彼らもやる気がなかったみたい。タイトルが「傷だらけの軽井沢」っすよ!湘南がいきなり長野県です、はい。
2人は当時のアメリカを経験していて、そのことがとても大きく影響していて、日本の音楽がいかに遅れているかを肌で感じたんだと思うよ。
で、世の中は四畳半フォークのブームとなっていくから、もっともっとブレバタの出る幕なんて無くなっていく。そんな時代背景の中、彼らの創作する音楽が受け入れられない状況でも彼らはポップ感が溢れた『IMAGES』(1973)を発表したが、セールスには結びつくはずも無かった。あったりまえ。

 それはそうとして・・・
ブレバタは何故商業的にそんなにヒットしているわけでないのに、45年も一線で音楽活動を続けられたのかということ。
確かに非常に評価の高い楽曲はいくつもあるが、ミュージシャンズ・ミュージシャンと言う感じで、一般人より玄人受けしているように見えますな。しかし、それだけで長く続けていけるのか?!
それはきっと、彼らが出会うミュージシャンたちが彼らの音を大事にしているのではないかと思いますですよ。
ここまで長いキャリアのミュージシャンって、何で食っていけるかといったら、金銭的な面より精神的な面が重要視されていて、本当に自然体で生きているんだろうなと感じます。
もちろん最低限の収入はそれなりにあるんだろうけど、そういう次元ではない気がする。
充実した音楽生活そのものが生きる糧というか。
そういう人たちにはポジティブな人も集まってくるだろうしね。
ブレバタの2人を見ていとホントにいろいろなミュージシャンに愛されている感じがするもんな。リスナーも一緒かもしれない。彼らの自由でのびのびとした世界観に共感し、それを支えているファンがいて、シングルヒットというような括りではない作品の認められ方があるのだと思う。
ブレバタの音は波の音がシンクロするし、郷愁のムードを醸し出すことにおいては、岩沢幸矢の声は唯一無二だと思うし。
 
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 私の好みは『IMAGES』のようなポップチューンだが、『Late Late Summer』(1979)という傑作アルバムははずせないでしょうな。ティン・パン・アレーやYMO、パラシュートらゲストを迎え、華やかな湘南風シティ・ポップスを聴くことができるよ。
マジで部屋の中が湘南になる。

2014年11月10日 花形
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by yyra87gata | 2014-11-11 08:39 | 音楽コラム | Comments(0)

雨の2曲

 梅雨である。湿気が多く、気分も落ち込みがちとなるこの季節だが、学生の頃は、雨の日に聞きたくなる音楽や「雨」という言葉のタイトルがついた楽曲をカセットテープに録音し、オリジナルテープを作って楽しんだものだ。
ビートルズの「レイン」やBJトーマスの「雨にぬれても」など鉄板ネタはいいとして、私が必ず選ぶ2曲の邦楽があった。
山下達郎の「レイニーウォーク」と矢沢栄吉の「レイニーウェイ」だ。この2曲、意外なところに共通点がある。
もちろん「雨の歌」と言うことだが、ともに1980年に発表されたこと。そして、2曲ともシングル盤のB面だったということ。
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 達郎の「レイニーウォーク」は大ヒットシングル「ライド・オン・タイム」のB面。矢沢の「レイニーウェイ」は「涙のラブレター」のB面だ。
ともにB面扱いであるが、私はA面でも良いと思うくらいクォリティは高いと評価していた。
「レイニーウォーク」はもともとアルバム『ムーングロウ』(1979)に収録された楽曲でアルバムの中でも特異な曲であった。
他の楽曲がストレートなロックやジャージーなナンバーであるのに対し、「レイニーウォーク」はシカゴ・ソウル風で異彩を放ち、この曲だけ演奏メンバーも変えられている。
一番わかりやすい例でいくとドラム。
『ムーングロウ』では、ロック系のドラムは上原“ユカリ”裕、ジャージー系は村上“ポンタ”秀一が担当しているが、この「レイニーウォーク」は高橋幸宏である。ベースは細野晴臣が担当していることからも、リズム隊としては重めというか湿ったビート、まさにレイニーなのである。
高橋幸宏のビートは跳ねない。ベタベタとした粘るビートであることから達郎はセレクションしたのではないかなどと想像しながら聞くと面白いものだ。
そしてこの曲、達郎のヴォーカルもほとんどがファルセット。
1979年当時、男のファルセットなんて認知もされていない時代によくもまぁこんなにソウルフルな楽曲を作ったもんだなと思ったものであった。
当時、私は中学3年であったが、ソウルチャートを追いかけ始めた頃だったので、この曲はアメリカの黒人ソウルシンガーが歌えばいいのにと思い、達郎のサウンドストリートに葉書を出したことがあったが、読まれもしなかった。
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 矢沢永吉の「レイニーウェイ」は、矢沢にしては地味なシングル「涙のラブレター」のB面。但し、この歌、ブラスセクションが豪華でライブ1曲目で取り上げられたこともあるくらいド派手な歌。1989年「STAND UP TOUR」や2002年の日本武道館公演のオープニングで使用され、チョー格好良い永ちゃんの登場シーンであった。
矢沢が歌う雨の歌は数多くあるが、とりわけこの「レイニーウェイ」は、ビートも重く、矢沢の泣き節が冴えわたる。
矢沢のヴォーカルは泣き声に近い。笑っていない。特に高音を絞り上げる際は顕著に現れる。
その泣き節に重厚なホーンセクション。雨というより雷雲という雰囲気である。
印象的なホーンのフレーズは頭に残る。
 ガツガツとしたギターカッティングや野太いベース。なんと矢沢自身がレコーディングしているとのこと。矢沢も思い入れもがある楽曲なのではないだろうか。ちなみにドラムのスネア音は段ボールを叩いたのだとか。今のように何でもサンプリングされた素材があれば何てことないが、1980年当時はこの段ボールの音がベストサウンドだったのだろう(ちなみに拓郎の「結婚しようよ」(1972)のスネアも段ボールだった)。
とにかく、矢沢の「レイニーウェイ」を聴くと身震いするというかなんというか。
こういう楽曲を作るミュージシャンって中々最近いなくなった。

 雨はシトシト降ったり、ドシャ降りであったり。季節によっても雨の情景は変わる。
五月雨、こぬか雨、9月の雨、氷雨、Hard Rain、Summer Rain・・・。タイトルだけ見ても面白い。
雨が降り、家の中で篭ってしまう時、雨の歌を探しながらレコード棚を探索するのも一考かと。

2014年7月8日花形
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by yyra87gata | 2014-07-08 13:37 | 音楽コラム | Comments(0)

SHINING SKY  TINNA

 空港に行き、全日空の飛行機を見るたびに思い出す歌がある。
1978年発表TINNAの「SHINING SKY」だ。1979年就航した当時最大の旅客機ボーイング747SR-100(スーパージャンボ)が就航するにあたってキャンペーンソングとして採用された歌で、CMには森繁久弥が機長の格好で登場していた。
さわやかな女性ヴォーカル(2人組)の透き通るメロディが青空にとける白い機体にマッチしていた。

 航空会社のCMソングは星のようにあるが、その中でもなぜ私がその曲を思い出すかというと、私が一番最初に乗った飛行機がこの機体で、しかも名誉なことに初就航の便だったのである。
当時私は中学3年生で、修学旅行のため羽田から熊本までこの便を利用した。興奮する我々はめったやたらと大きな機内を歩き回り、他の乗客から顰蹙をかっていた。加えて機長アナウンスでも「当機、スーパージャンボは今日から運行開始となりました」なんて我々を煽るから機内は大騒ぎとなった。
そして、機内には静かな音で「SHINING SKY」が流れていた。
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かかえきれない光を抱いて 空は空は希望の海
かかえきれない光を抱いて 青い世界へ
さあさあ 
SHINING SKY 見上げれば未来
SHINING SKY 見つめれば自由
SHINING SKY 青い空の果て
SHINING SKY はばたけ 心よ~♪

 SHINING SKYからのサビの部分は我々の大合唱である。それは迷惑な客だ。

 さて、TINNAだが、惣領智子と高橋真理子の女性デュオである。しかし、TINNAを語る上ではその前に作曲家であり編曲家である惣領泰則を紹介しなければならないだろう。惣領は第1回ヤマハポピュラーソングコンテストでグランプリを獲得し(第2回のグランプリは“赤い鳥”“オフコース”“チューリップ”の前身バンド“シンガーズフォー”が出場していた)、音楽界にデビュー。その後アメリカに活躍の拠点を移し高橋真理子とともにブラウンライスを結成。アメリカのレコード社とアーティスト契約を行ない、さらにミュージシャンズユニオンカードを取得する。そして、かのポール・マッカートニーから「Country Dreamer」という曲をプレゼントされたことも話題になった。知られざるグレートな日本のミュージシャンだったのである。
 日本ではあおい輝彦の「あなただけを」、シグナルの「20才のめぐり逢い」、海援隊の「贈る言葉」などの編曲を行なうことで頭角を現し、惣領泰則グループやTINNAへとつながっていくのである。
歌謡曲からフォーク、ニューミュージック・・・そしてJポップという変遷の中で「ニューミュージック」という曖昧模糊とした、それでいて郷愁漂う独特な日本の音楽は確実に存在し、一時代を築いたことは間違いない。その中で活躍した惣領泰則は隠れたミュージシャンズ・ミュージシャンであった。
 TINNAは活動期間も短く、バンドブームやインディーズブームなどに押され消えていってしまった。あの頃、 “ハイ・ファイ・セット”“ラジ”“松原みき”といったシティポップと呼ばれた音楽。現在では皆無となってしまったが、TINNAはその中でも実力派の女性デュオだったことは間違いない。

 そういえば、この「SHINING SKY」って歌、ニッポン放送のANA提供「ミュージックスカイホリデー」という番組のテーマソングでもあったんだ。だから、毎週日曜の23時頃になると私の部屋のラジオから流れていたから特段ヒットしていなくてもずっと私の心に残っていたのかもしれない。

2014/3/5
花形
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by yyra87gata | 2014-03-05 20:02 | 音楽コラム | Comments(0)

キャッツアイCE400

 よくFのコードが弾けなくて、ギターを断念したという人がいる。私の場合、そんなことは許されない環境だったのだ。
中学に入学し、音楽の授業。男子校だったため女っ気なし。合唱しても、男の声変わりする「だみ声」ばかり。そんな中、うちは中高6年間の一貫教育で、尚且つカトリックの学校だったので賛美歌なんかを歌っているから更に妙な授業になる。だから音楽の教師もそれなりに考えたんだろう・・・なんと学校にはギターが40本くらいあり、ギターの授業があったのだ。そのギターで歌を歌う。なんとレベルの高い・・・つまり弾き語りをしろという。そう、何でもいいから弾き語りだ。
一応音楽の教科書には「ドナドナ」や「花はどこへ行ったの」なんてアメリカンフォークソングも掲載していたが、誰もそんな歌は歌わない。しかし歌う前にコードが押さえられない。当時流行していたアリス、千春、さだまさしがみんなのお気に入りだったが、その歌いたい歌のために授業は白熱していった。Fのコードだけ・・・そりゃあみんな練習の鬼になる。私も例に漏れず、練習。
限られた授業の時間だけでは当然できないので、親に訴えギターを購入。
12,000円のモーリスのクラッシックギターが私の初めてのギターだ。そう、学校のギターがクラッシックギターだったので自然にクラッシックギターを選んでいただけ。しかも、家から一番近いレコード屋さんの壁に掛かっていた一番安いギターだったと思う。二子玉川の高島屋にあったスミヤというレコード屋だ。

 私は意外にもFのコードはすぐに出来たのね。エレクトーンをやっていたから指もそこそこ長くてね。でも長い分どちらかというとB7のコードの方が指がこんがらがって難しかったかな。
でも、そんなに真剣にギターは弾かなかったんだよね。友達に教えてもらったドラムの方が好きだったし。
 そうこうしているうちに、みんなギターが弾けるようになると、学校のクラッシックギターじゃ満足できなくなるんだよね。それで、フォークギターに移るわけ。みんなヤマハ、モーリス、ヤイリなんかを買ってきては教室に持ってきて休み時間なんかに弾いていた。そんな友達を見ながら私は少し焦っていた。
私のクラッシックギターはというと、ネックが反りはじめていたこともありそんなに弾かなくなり、ギターから遠ざかっていた。しかし、相変わらず音楽の授業でギターは続いていて、自作自演の作品を発表しろなどと言い出す始末。こりゃ、マジでギターをやらねばと思い、一念発起。親にもう一台ギターを買ってくれとも言えず、昼飯代を浮かしながら貯めたお金でフォークギターを購入することにした。
当時ラジオ深夜番組を聴いていると楽器屋のCMが盛んに流れており、楽器屋は御茶ノ水に密集していることを知った。
 私は4万円を握りしめ石橋楽器に一直線。中学3年の春、ギターを買いにいったのだ(1979年当時の4万円って結構な破壊力はあったと思うよ)。
 友達のギターはヤマハ派とモーリス派に分かれていて、それはつまりさだまさし派かアリス派かみたいなものなんだけど、要は好きなアーティストが使っている楽器を持つということだからそうなるわけ。で、私の場合・・・拓郎はっていうと、ギブソンのJ45かマーチンのD35。“そんなの4万円で買えるわけないじゃん”なんて思いながらぶらぶらフォークギターを見ていた。
すると店員さんが寄ってくる。
「フォークギター?モーリス持てばスーパースターだよ。このW30って定価3万円だけど今なら2万4千円でいいよ。カポとか音叉とか付けちゃうよ」
なんて、軽く接してきた。
私は心の中で“モーリスはいいんだよ、もう。だいたい持った瞬間アリスになっちゃうじゃん”なんて思いながら口では「はぁ、安くなるんですねぇ」なんて応えていた。
私の心の中にはマーチンしかなかったんだけど、そんなこと言ったら笑われそうだったから当時マーチンの正規輸入代理店だった東海楽器のキャッツアイを選択肢にしてたわけ。
しかも4万円というのには訳があって、CE400という4万円のモデルからギターの表板が合板ではなく1枚板の単板になるわけ。そのモデルを狙っていたのだ。
音がいいとか悪いなんてわからないんだから、スペック上で優れているものしかないのだ。
もっと高いモデルになれば、ネックも1本の木からの削り出しになるが、このモデルでは合板だった。しかし、そんなことを言っていたらキリが無い。
店員に「キャッツアイのCE400は?」と告げると顔色をちょっと変え、「キャッツアイ?ああ、ありますよ。こっちです」なんて奥のほうに連れて行かれた。
ギタースタンドに立てかけられていたCE400。カタログに穴があくほど見たモデルだったが、実際に見ると神々しく見えた。
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 ポジションマークはドットではなく戦前のマーチンに見られたスノーフレイク。ネックやヘッドに白いバインディングが施されておりボリュートは無い。ペグはグローバーのコピーモデル。マーチンのD28とD35を合わせた妙なコピーモデルだけど、いい音がしそうなモデルだった。
ギターケースを付けてもらって3万5千円くらいだった。
クラッシックギターから持ち替えるとネックが細く、弾きやすく、難なく音が出る。気分も良く、学校に早速持って行った。
放課後、みんなで集まり、ギターを弾く。
キャッツアイを弾く友人は一人もいなかったことに優越感。いや、それより肉体労働のアルバイトで金を作って買ったギブソンJ45DXを弾いていた友達。
私のギターを弾き一言。「俺のより鳴る。なんで~?」
そりゃそうだ。あの頃のギブソンのJ45ってスクエアボディの全然人気の無いギターで本当に酷かった。新品でも波打ってたペラッペラッのマホガニーなんて鳴るわけがない。

 さて、私のキャッツアイのCE400。
まだまだ現役。さすがにフレットはなくなっていて、デッドポイントも2~3箇所あるが、それなりの音をだす。生産から35年超えて、いい意味でエイジングされているのだ。やはり、マーチンのリアルコピーだけあり、胴の厚さから出る音の大きさは年を経る毎に深くなっている。
それから、このギター、家でちょっと鳴らすためにいつも出しっぱなしにしているから弾く頻度は一番高い。これも鳴る要因だ。
弦を張りっぱなしにしてネックも反らず、でかい音がする。これぞ鳴るギターである。

 でも、フレットを打ち換えてまで使おうと思わないんだよね。人前に出すより自分の部屋でがんばっていればいいギター。最初のフォークギターは大事に最後まで弾いてやるのだ。

2014年2月4日
花形
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by yyra87gata | 2014-02-04 13:49 | 音楽コラム | Comments(3)

ディランとの出会い

 親戚の家で初めて触れた“よしだたくろう”と“井上陽水”と“かぐや姫”。ちょうど歌謡曲にも飽き始めた私が小学生の高学年の頃のこと。
そういえば、その従姉妹からはビートルズの『ホワイトアルバム』(1968)も教えてもらった。面食いのちえちゃんは、4人のポートレートを見ながら「やっぱりジョージが一番ハンサム!」なんて言っていたっけ。

 さて、そんなフォークの洗礼を受けた私は、従姉妹の家から沢山のレコードや音楽雑誌を借り、せっせと自宅で聴く毎日。ちょうどその頃の私は、エレクトーンを習っていたので、映画音楽や海外の軽音楽はかなり詳しかったが、日本のフォークソングはからっきしわからなかった。難しい言葉を唸る人や、歌詞を読んでいるようにしか聞こえない音楽・・・。小学生で理解できる歌詞にも限界があった。
そんな初めて触れた音楽だったが、しばらく聴いていく内になんとも言えない感覚が身体を包んでいった。それは、歌が生きているというか、作り手が言いたいことをストレートに訴えるというか・・・。歌謡曲や映画音楽などではなく、今までに聴いたことの無い音楽だったのだ。
また、借りた音楽雑誌の中にフォークシンガーのインタビューなどあると、そのアーティストの生き様や考え方が出ており、そのシンガーが影響を受けたアーティストの名前などがつらつらと記載されていた。
そして、たくろうも岡林も高石友也も陽水も泉谷も中川五郎も・・・みんなみんなディランって口を揃えて言っていた。とにかくディランって。難しいことはわからなかったがとにかくディランって言っていたのだ。私はふと思い出した・・・私の小学生の低学年の頃に流行った「学生街の喫茶店」の歌詞にあった“片隅で聴いていたボブ・ディラン”のディラン。その時、初めてディランがその人なんだと理解した。小学生の私にはそんなレベルだった。

 私は中学生になるとギターを弾き始めた。うちの中学校は音楽の授業にギターがあり、最終的にはみんな必ずギターを弾けるようになるのだ。そして、その集大成は自分のオリジナルを作るということ。つまり作詞作曲の課題が与えられた。
中学生の作詞作曲。当然稚拙な歌詞が並ぶか、好きなミュージシャンの物真似に終始するのが落ちである。しかし、自分でとにかく作るということに意義があり、出来不出来は別物なのだ。音楽の教師もそんなようなことを言っていた。
そして私は、従姉妹から仕入れていたアーティストの作品になぞりながら曲を作っていったが、なんとか曲が出来ても歌詞が思いつかない。そして、あることを思い出した。私が好きなアーティストはみんなディランに影響を受けたと本に書いてあったこと。
自分の考えを自分の言葉で伝えるということは、シンプルなようで難易度は高い。でも言いたいことがあれば、それを曲に乗せるだけだ。職業作家の作る売れるための歌ではない。

 ディランが歌を作り始め、リーダー的存在になるのは1960年代だ。その頃のアメリカ
は公民権運動、キューバー紛争とベトナム戦争への介入に沸き立ち、不安定な情勢であった。その時勢を上手くディランは捉えて歌にしていった。そして、それが1960年後半になると日本に伝わり、ディランに憧れてギターを持ったシンガーが竹の子のように出てきたのだ。
日本も日米安保に揺れ、学生運動が盛んで、歌いたいことや訴えることが沢山あったのか、GSブームを蹴散らすようにフォークブームが到来した。私の従姉妹がトチ狂って聞いていた頃のことだろう。つまり、職業作家の作る歌謡曲やGSではなく、自分たちの音楽を若者が作り始めた事実は、ディランやビートルズなどその頃の軽音楽が海を渡ってきてからのことだ。
 私が本当にディランに触れたのは日本のアーティストがみんな「すげぇすげぇ」って言うから聴いてみたこの瞬間であって、ディランブームからはかなり時間が経っていた。

 晶文社の『ボブ・ディラン全詩集』。中学生で3200円は出費だったけど、何かがわかると思って、購入した。歌詞作りのヒントになると思ったのだ。
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代表曲「風に吹かれて」
  どれだけ道を歩いたら一人前の男として認められるのか。
  いくつの海を飛び越したら白い鳩は砂で安らぐのか
  何回弾丸の雨が降ったら武器は永遠に禁止されるのか
  その答えは、友達よ、風に舞っている
“結局答えて無いじゃん!”が中学1年の時の私の感想だった。「ライク・ア・ローリング・ストーン」に至っては、長々と語り尽くし最後の最後で「どう思う?」って聞くんだぜ!そんなのありかよ・・・これが14歳の感想だ。
他の詞も抽象的なものが多く、それがアルチュール・ランボーやウディ・ガスリーの作る作品に影響を受けているなんてことはその時はよく良くわからなかった。それより、わかりやすい“たくろう”や“泉谷”の方がいいやって思ってしまった。作詞については、ディランを聴いても中学生の私はよく理解できなかったのだ。
但し、わからないながらもディランの全詩集を読み漁ることで、その内容は私の精神的な一部に昇華し、その頃からかちょっとアイロニックに物事を考えるようになった。ちょうど親に対する反抗期にも重なり、理屈っぽくなったこともあの頃読んだディランのせいかもしれない。

 ディランを聴き始めたきっかけがそんな形から入ったので、全詩集に取り上げられたアルバムを片っ端から聴いていった。しかし、初期はアコースティックギター中心のHoboBluesのスタイルを貫いているので、歌詞がわからないと難解すぎてつまらなかった。また、『Bringing It All Back Home』(1965)あたりからエレクトリックギターの導入でロック色が入り始めたが、私がそのアルバムを初めて聴いたのは1977年であり、周りはイーグルスやボストン、エアロスミス、クィーンなどの煌びやかなロックが流行しており、古臭いロックをどこか取り残された気分になりながら聴いていた。しかし、とにかく義務感というか、修行の様に聴いていた。友達になんと言われようと意固地になりながら聴き続けた。『ボブ・ディラン全詩集』を片手に。
途中で辞めてしまうとディランという詩人に嘲笑される気がしたから。
安穏とした時代に生きて、自分の言葉も持たず、お前は何を言いたいの?なんて声がずっと頭の中に木霊していた。もう、ある意味病気である。だからディランを聴くと非常に疲れたんだよね、あの頃。

 さて、ディランの歌詞に注目していた私だったが、ある日気がついた。それは、ディランのメロディと、ただ唸っているだけかと思っていた歌。しかしそこにはちゃんとしたメロディがあるということ。そのことに気がついたのはある時、ラジオから例の「風に吹かれて」が流れていたときだった。そして、つづけて「くよくよするなよ」が流れる。2曲とも女性ヴォーカルだった。そのヴォーカルはPPMのマリーさんなんだけどね。
「あれれ、いい歌。なんてメロディアス。ディランの歌じゃないみたい」
ディランが歌うと妙なメロディになっていたりするが、失礼な話、ちゃんとメロディはあったんだよね。そして意外と素敵なメロディだったりするのだよこれが。ディランは詞にクローズアップされているんだけど、メロディーメーカーということもわかってきたのだ。そして・・・。
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 たくろうがラジオで話していた1974年のディランのライブを聴いたとき、私はディランの虜になった。ロックしているんだよ。とにかくロックシンガーなんだよ。『偉大なる復活』(1974)はそんなアルバム。バックのザ・バンドの音もグルーヴしている。
そのアルバムを聴きながら私はディランのライブを心待ちにし、1986年のトム・ぺティ&ザ・ハートブレーカーズをバックに従え2回目の来日公演で彼を目の当たりにし、自分の音楽の原点を見るようにただただ彼の姿を追っていた。
 
 ディラン。歌詞は相変わらず難解だけど、時よりシンプルなラブソングなんかをいまだに作ったりもする。71歳で発表した『テンペスト』(2012)はジョン・レノンに捧げる歌なども入った大作である。
ディランの日本公演。私は4月3日に会いに行く。もう義務感じゃないよ。
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by yyra87gata | 2014-01-04 12:02 | 音楽コラム | Comments(3)
 
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 それは・・・ロックだった。まぎれも無い、ただのロックだ。今で言う「Jポップ」なんて軽い響きの言葉では表現できないもの・・・。あの極限状態の中でいくら軽いポップソングやバラードを演奏したとしても、それはロックになっただろう。それくらいミュージシャンも観客も一つ筋の通った関係になっていた。
そして会場全体が神々しく見えた

「BEATCHILD1987 ベイビー大丈夫かっ」を見た最初の感想だ。

 今思うとあの頃の音楽地図は混沌としていた。
音楽メディアはレコードからCDへと変わり、MTVが登場し音楽と映像が混在。プロモーションビデオと称して小さな映像作品を制作し、歌手が役者の真似事をする時代に変っていった。そして、耳障りの良い音楽が世の中にあふれ始め、ある評論家は「音楽と映像の融合がこれからの音楽シーンのポイントとなるから70年代のようなメッセージを伝える音楽は生きにくくなるだろう」なんて無責任なことを言っていた。

 そんな時代に、ビートチャイルドたちが熊本県阿蘇に集まった1987年夏。激しい雷雨の中7万2千人を超える観客は寒さに震えながら、音楽の感動に身震いしながらオールナイトコンサートを体感した。
出演者は佐野元春with HEARTLAND、ハウンドドッグ、尾崎豊、渡辺美里、ザ・ブルーハーツ、白井貴子、岡村靖幸、BOOWY、ザ・ストリート・スライダース、レッド・ウォリアーズ・・・。
日本のウッドストックとも呼ばれ、当時は大変な盛り上がりを見せたが、豪雨の中の開催で低体温症になる観客が続出し、救急車と怒号の中のコンサートとなり、主催者側には危機管理能力を問われる暗い一面も見せた。それは、熊本県の阿蘇は天候が変りやすく1981年夏に行なわれた「南こうせつ・サマーピクニック」も雷雨によりコンサート半ばで中止を余儀なくされている事実もあり、そんな山間部でのイベント開催に疑問を呈する評論家がこぞってBEATCHILDを批判したからだ。しかし、そんな雑音を気にせず走り抜けた若い力(出演者、主催者、そして観客)は、最高の思い出を心の石に刻んだ。
(死傷者が出なかったことで救われたという見方もあるが・・・)

 今回、当時の古いフィルムが見つかり、映画化の話がまとまった。そして限定ロードショー。
 当時の私は大学生で、バンド活動を行なっていたが、BEATCHILDには何の興味も沸かなかった。ただ当時気になっていた「岡村靖幸が出演している」くらいの認識で、1人のアーティストのために熊本までは行けないと思っていた。
 佐野元春もハウンドドッグも尾崎豊も渡辺美里も商業的に成功しているミュージシャンであったし、BOOWYが光り輝き、ザ・ブルーハーツがスター街道を登り始めた頃のことだ。
音楽事務所のマザーエンタープライズやハートランド、レコード会社ではソニー系列のミュージシャンが中心に集まっているのでアーティスト的に多少の偏りは否めないが、当時のJロックを語る上で外せないミュージシャンたちが集まったことは、少しだけ気になったものだ。
当時の私の愛読書は「宝島」と「ロッキング・オン」だったので、このイベントのことも大々的に取り上げており、雨のオールナイトコンサートについてドラマチックな活字が躍っていたから当時でもなにやらただ事ではないなという気持ちになったものだ。
 
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 何故、ここに出演しているミュージシャンに対して特別な感情も無い私が今回このコンサート映画を見る気になったか。それはただの懐古趣味ではない。
BEATCHILD開催の2年前。1985年6月15日国立競技場で行なわれた「ALL TOGETHER NOW」。全国の民放が協賛したイベントで、吉田拓郎、オフコース、南こうせつ、さだまさし、といったベテラン組、はっぴいえんど、サディスティック・ミカ・バンドならぬサディスティック・ユーミン・バンド。また、山下久美子、白井貴子、ラッツ&スターなどの若手、そしてチェッカーズまでが飛び出すバラエティに富んだ出演者。そしてそんなビッグネームが並ぶ中、トリを務めたのは人気上昇中であった佐野元春とサザンオールスターズである。そして、この組み合わせがトリを取ったこのイベントは、日本の軽音楽が次世代に引き継がれた儀式の様にも感じられた。
 そんなイベントを体験した者として、その2年後に行なわれたこのイベントで彼らがどのようなパフォーマンスをしていたのかを確認したかったのである。
私は当時から歳の割には拓郎や陽水など、一世代前の音楽を好んで聞き、同世代の友達が応援するサザンや元春、尾崎などを敬遠していた。彼らのことをどこか青臭く、どこかコマーシャルっぽく、二番煎じ的に見ていたからだ。しかし、時を経て振り返ったとき、そんな感情よりも雨中という逆境の中で必死にパフォーマンスを繰り広げる彼らを1人の音楽人として見てみたかったのである。音楽の好き嫌いを抜きにして音楽を必死に伝える彼らの雄姿を確認したかったのである。

 映画を観た感想として・・・
私は今までに何度も野外コンサートやオールナイトコンサートに参加したことがある。そして雨の野外コンサートも数度経験している。
オールナイトコンサートは非日常のイベントなので演奏者も観る方もアドレナリンは高まるが、同時に疲労も溜まっていく。そしてみんな「ハイ状態」になる。体力と気力を持つ者だけがオールナイトコンサートを駆け抜けることができるのだ。
私はあるオールナイトコンサートで、ラスト1時間ずっと涙が止まらなかったことがある。感情が制御できなくなってしまったのだ。しかし、周りにも同じような人がいて何故か妙な一体感も得ていたが、これは一種の集団ヒステリーのようなものかもしれない。
そして、そこに音楽はあるのか・・・音を楽しむというより音との戦いかもしれない。
BEATCHILDは「史上最低で最高のロックフェス」と銘打っているが、まさにその通り。
みんな、雨と泥でぐしゃぐしゃ。だけど極限の表情がたまらなくいい。音楽を超えたエナジーがそこにふつふつと湧き出ている。
私がもし、あの場所に身を置いたらきっと声が枯れるまで騒ぐんだろうな、という雰囲気が画面から湧き出ている。

 このコンサートでもし雨が降らず、たんたんと行なわれていたら・・・と考えると特筆することのない、大勢の客が集まったコンサートというだけかもしれない。しかし、豪雨と雷。そこに立ち尽くす客。極限の中でのパフォーマンスと7万2千人の観客のエナジーが伝説を生み出した。昔から野外コンサートで雨が降れば伝説になる。そのいい見本かもしれないが、それにしては過酷な映像なので、音楽映画というよりは自然現象に立ち向かう人間たちのドキュメンタリーに見える。白井貴子のステージなんてまさにドキュメンタリー以外のなにものでもない。
そうやって観ると、たいして興味も無かった音楽も面白く見ることができる。
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 DVDにもTVにもネット配信もされない。この映画、観とくなら今だよ。

10月26日(土)から3週間の限定ロードショー!
音楽監督:佐久間正英

2013/10/29
花形
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by yyra87gata | 2013-11-06 12:37 | 音楽コラム | Comments(0)
 うるさいオヤジの戯言と言われてしまえばそれまでだが、嫌なものは嫌なのだ。ま、大河ドラマ「八重の桜」的に言えば「ならぬものはならぬ」のである。

 いつから忌野清志郎はお茶の間に平気でオンエアされる歌手になったのか。誰も彼のことを国民的歌手などと言ってはいないが、セブンイレブンのCMで使用されるTHE TIMERS名義の「デイ・ドリーム・ビリーバー」を聞いているとそのような気分になってくる。
セブン・アンド・アイ・ホールディングスの広告投下費用がいくらかは知らないが、莫大な数のオンエア数を見れば、あの歌はモンキーズの歌ではなく清志郎の歌と勘違いする人も出てくることだろう・・・ということで、何が言いたいかというと、私はお茶の間に普通に入ってくる清志郎が好きではないし、そもそもの清志郎が歌うあの「デイ・ドリーム・ビリーバー」が嫌いで仕方がない。

 清志郎の歌唱は促音を強調し、独特のイントネーションで日本語を強調するもので決して万人受けするものではない。どんなに美しいメロディも彼の歌唱にかかるとすべて彼の世界に変化してしまう。その点ではオリジナリティ溢れた最高のシンガーなのであるが、私の中ではそれらを一般のテレビから日常的に聞きたくないというのが本音なのだ。普通に考えれば彼の歌唱は独特すぎるし、例えば爽やかな朝の番組の合間にCMで清志郎の声はいかがなものかと思う。

 私は忌野清志郎が決して嫌いなわけではない。どちらかといえば私は中学、高校時代にどん底のRCがトップスターに飛翔していく様をリアルタイムで見ていたので、彼への親和性は非常に高いと思っている。RCがエレクトリックバンドに変わり、満員の「渋谷屋根裏」のライブこそ見逃してはいるが『RHAPSODY』(1980)の実況で有名な久保講堂には足を運んでいる。どちらかといえばファンなのである。それでも、彼の音楽性やマスコミへの態度などを見ていると普通ではない人という認識となり、彼独特のユーモアでロックスターを演じているのかもしれないと思ってしまうこともある。ま、それはそれでいいのだが、もちろん私は彼と面識は無いので「いちファン」として感じたこと・・・つまり、彼は歌謡曲の人ではなく、芸能界の人でもなく、ロックの人だということ。そこだけははっきりさせておきたいのだ。
彼が病魔に倒れ、若くして命を落としたことは痛ましい事実だ。しかし、彼がもし今生きていたら・・・今のマスコミの「彼の扱い」に対し「彼」はどう思うか。

 彼は常に反体制だった。1980年代に起きたチェルノブイリでの原発事故のことを誰よりも心配し、メッセージを歌に乗せ抗議活動を行なった。それは自らの音楽人生を賭けんばかりに、テレビ局やレコード会社に毒づいた。そんな彼の声はそれまでの偏ったロックキッズだけに留まらず、一般のリスナーにも届くようになっていった。その流れを知ってか知らずか、彼は自分の意思による言葉という武器でもともとロックミュージックの持つ反体制という概念に則った表現で社会に訴えかけた。その時のアルバムはRCの『COVERS』(1988)や『コブラの悩み』(1988)に表現されている。
しかし、彼はもともとブラックミュージックやソウルミュージックが好きな音楽青年にすぎなかった。音楽を「売れる」「売れない」という範疇で語るのではなく、自分の好きな音楽を好きなだけ表現したいだけのピュアなミュージシャンだと私は思っている。そんな彼の歌が支援されている(ヒットする)ということはどういうことだったのか。つまりそれまでで日本の音楽シーンで反体制のロック歌手がヒットを飛ばすということは後にも先にも無かったことなのだ。だから伝説の「キング・オブ・ロック」という称号を得たのかもしれない。そう、私はこの「キング・オブ・ロック」という言葉も嫌いだ。何故清志郎がキングなのだ?所詮日本のロックはアメリカ音楽の物真似じゃないか。JBのマントパフォーマンスを清志郎が行なうことだって彼特有の洒落じゃないか!そんなこともわからないで盛り上がり、キング呼ばわりは逆に彼がかわいそうなんじゃない?そして、日本の音楽産業やそれを取り巻く世界は欧米ほど成熟していないから人気がありそうだ、モノが売れそうだ、人が集まりそうだ、・・・そんな話題だけで音楽を巻き込み、踊らされるリスナーたち。そしてそれは作り手が望まない世界へ展開することだってあるのだ。

 
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私の好きな清志郎は彼のヘアスタイルのように尖がっていて、マスコミなんかにケツを向けているただのシンガーなのだ。日比谷野音と日本武道館を満員にさせ、オーティスの物真似だけど「ガッタガッタ・・・」って叫びながら、日本のおかしな政治屋やモンキービジネスの豚どもを嘲笑しながら歌い飛ばすシンガーに過ぎないのだ。おかっぱ頭で客に毒づきながらアコースティックをかき鳴らしている清志郎から何も変わっちゃいないのだ。
だからあの「デイ・ドリーム・ビリーバー」は、お茶の間に平気に流れる清志郎が体制側に回っちゃったみたいで違和感があるんだよな。

「ずっと夢を見て、安心してた・・・僕は、デイ・ドリーム・ビリーバーそんで彼女はクィーン」・・・この歌詞の彼女って清志郎のお母さんのことだって知っている?
清志郎の歌声が今日もTVから流れている。画面には、幸せそうな家族やカップルが色とりどりのおにぎりやお弁当を手に笑っている。
この映像に清志郎のヴォーカルねぇ・・・違和感があるのは私だけか・・・。
まぁ、いい。嫌なものは嫌なのだ。

2013年7月16日
花形
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by yyra87gata | 2013-07-17 12:00 | 音楽コラム | Comments(14)
 確かバラエティ番組だったと思う。和やかな雰囲気の中で1人だけ異彩を放っている男がいた。まるで獲物を狙う狼の様に目をギラギラと光らせ、聞き手を食い入るように見つめる。落ち着きの無いしゃべりは、何か言いたいことがうまく言えないもどかしさをそのまま言葉に乗せているようだ。何度も頭をかきむしり、長髪の髪がボサボサになっていく。
 エレファントカシマシの宮本浩次の第一印象。1990年代後半だったと思う。
まだAKB48も存在せず、隣に座っていた「モーニング娘。」のナッチが怯えていたっけ。
彼らの予備知識もなく、インディーズで話題になっているということでのゲスト出演だったと思うが、宮本のしゃべりにイライラしていた僕はテレビのチャンネルを変えようとした。しかしその時、彼からの意外な言葉にその行為を停止した。
「歌謡曲が好きなんですよ・・・西城、そ、西城秀樹、ヒデキ好きです!これから歌います!」
そう言うと宮本はバンドを従え、「傷だらけのローラ」を熱唱した。体をよじって真剣に歌うその姿。そして彼らの懐の深さに感心したものだ。彼らのオリジナルは正直言ってよくわからなかったが、宮本の持つカリスマ性だけは感じ取れた。
 そして、数年後。彼らはレコード会社を変え、テレビドラマの主題歌を歌うようになり少しだけメジャーになった。この「少しだけ」が、彼らっぽい。きっとヒット曲を出したら普通はそのまま同じ路線で走り、コンサート活動とアルバム制作でファンを増やしていき、1~2年もすれば飽きられる。音楽ビジネスなんてそんなものだが彼らにはインディーズ時代のファンがそこに存在しているので、ヒット曲の1曲や2曲で快哉をあげる者はいないのだ(もちろんヒット曲に乗ったにわかファンはいただろうが・・・)。
それは彼らの置かれた状況が物語る。1988年エピック・ソニーからデビューしたものの1994年に契約を打ち切られ、所属事務所も解散。その後も地道にインディーズで活動する。そんな彼らが最高だというファンがかなり多いからだ。

 
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 そんなエレファントカシマシ。僕は彼らの男臭い骨太なロックだけでは耳を傾けなかったと思う。彼らの音楽が気になってしょうがない部分、それは、音の構成だ。
彼らは、シンプルなロック編成。ライブでは宮本のヴォーカルのバックではエレキギター、ベース、ドラムとゲストミュージシャンとしてキーボードが入る。ただそれだけ。アルバムもほぼ同様。通常、激しいビートに小難しい歌詞や魂の叫びを乗せていくと説教臭くなる場合が多い。しかし彼らの骨太なロックはただのロックンロールではない。どちらかといえばロックの中にポップ性が息づいているのだ。その答えはプロデューサーにあると僕は思う。なぜなら、宮本浩次のプロデュースした作品はゴリゴリのロックだが(それはそれで格好良い)、プロデューサーを迎えた作品はエレファントカシマシの持つ音楽性が人の手により広がっていくからだ。シンプルなロックであればあるほど、音の振り幅は大きくなる。それはボブ・ディランのアルバムを聴く感覚に似ている。
 エレファントカシマシの場合、佐久間正英、岡野ハジメといった前衛的な音楽を得意とするプロデューサーから小林武史、亀田誠治といったJポップの王道を行くプロデューサーとも絡む。他にも久保田光太郎、土方隆行といったギタリストのプロデューサーとも作品を制作している。どのプロデューサーも引き出しは多く、シンプルな彼らの音楽に彩りを加える。
しかし、なんといっても最近の彼らのベストパートナーは蔦谷好位置だろう。彼らの激しいビートに絡むストリングスの絶妙なアレンジ。それはビートルズの後期に見られるアバンギャルドなストリングスでもあり、なだらかな砂丘を思わせる平穏もある。
ビートポップスにストリングスやブラスが入ると軟弱になりがちだが、そこは宮本の叫びがそれを許さない。

 ああ、エレファントカシマシよ。いつ復活の狼煙をあげるのか。
宮本の難聴は残念なニュースで未だにライブ活動は無期延期となっている。
早く治して、また再び蔦谷好位置と一緒に日比谷野音で雄叫びを上げて欲しい。
ふと、ラジオでエレファントカシマシが流れ、思いのまま書き綴ってしまった。
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2013年5月14日
花形
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by yyra87gata | 2013-05-14 21:59 | 音楽コラム | Comments(0)
 「クリスマスの約束」という小田和正が作る音楽番組をご存知だろうか。今から12年前、2001年12月から始まった音楽番組で当初は小田和正が好きな歌を集め、その歌を歌っているシンガーやミュージシャンに小田自身が直筆の手紙を書き、番組に出てもらおうという企画。しかし、第1回目の放送では、1人もゲストは現れなかった。それでも番組は放送された・・・。主催者がゲストを呼ぶ努力をして、誰ひとりとして来ないという顛末に私は今までの音楽番組に無いリアリティを感じていた。
「スケジュールの都合で出演できない」「若輩者の自分が出るにはおこがましい」「テレビというメディアで音楽活動を1度もしていないし、これからも考えていない」・・・様々な理由が番組内で紹介され、その度に小田が苦笑いをし、「じゃ、僕ひとりで歌います・・・」。
サザンの「勝手にシンドバット」や福山の「桜坂」、そしてこの番組のテーマソング的な存在になる達郎の「クリスマスイブ」など。
福山や達郎からは小田宛に出演辞退の手紙まで来て、それらを紹介していた。それぞれ出演できない理由はあるにせよ、今までに無い音楽番組の形態という感じで私は楽しんで見ていた。
 翌年の2回目もゲストはひとりも来ず、またしても独りで好きな歌を歌う小田。そんな姿を見ている私を含めた視聴者はこの番組に何を求めているのか・・・ちょっと不思議な気分にもなった。ゲストに声がけをして断られ、それでもその音楽を演奏する小田。
 小田の熱狂的なファンであれば、小田がひとりで歌おうがゲストが来ようがなんでもいいかもしれないが、23時台とはいえ地上波のテレビ番組でこの構成はありか?と私は頭をひねったものだ。しかし、それでもそんな構成こそが小田の頑固さが出ているプログラムなのかと思い込んだ。
 3回目以降はゲストもようやく来るようになった。でもそのプログラムは、普通の音楽番組に見えた瞬間でもあった。そしてそれ以降のプログラムは小田自身が週一のレギュラー番組も持ったことにより(風のようにうたが流れていた)、目新しさも無くなってはきていたが、そこは小田のプロデュースするプログラムなので上質な音楽を届けてくれるようになった。例えば2005年や2008年のプログラムでは、小田の全国ツアーにフォーカスし普段見ることのできないライブの舞台裏を見せたり、2006年の斉藤哲夫と歌う「グッドタイム・ミュージック」や2007年のさだまさしと一緒にオリジナルを作る企画など小田でなければできない企画もあった。
そして、2009年の「22'50"」という曲を披露。21組のアーティストの代表曲を22曲をつなぎ22分50秒にもおよぶメドレーを全員で歌いきった。その練習風景からテレビは追い続け、そこにはミュージシャンシップが光り輝いていた。
小田がサンタクロースさながらに私たちに音楽というプレゼントをしてくれる、そんな企画に昇華していった。

 最近の「クリスマスの約束」は少し薄味という気がする。ここ数年はスキマスイッチの2人といきものがかりと根本要(スターダスト・レビュー)、松たかこ、JUJUが小田の周りを固めていて(委員会なんて呼び方をしている)、無味乾燥な印象。派手さが無いというか・・・。また、彼らは小田に対して気を使いすぎというか、まぁ先輩なんだからしょうがないと思うが、小田の一挙手一投足にあそこまでビビったり、ナーバスになったりすると画面を見ている私は妙な気分になる。
あなたたちも同業者なんだから、テレビに出てソロコンサートもできる立派なシンガーなんだろうから、もっと堂々としてればいいのに・・・と思う。そんなアマアマなミュージシャンだから甘い歌ばっかりでガッツのある歌が最近少ないのだと勝手に思う。みんなアホみたいに横にならえで日記みたいな歌を歌っているからね・・・。
 そんな中、昨年の「クリスマスの約束」で唯一光っていたのは小田が歌う「夕陽を追いかけて」だ。
チューリップの1978年発表のシングル盤で、コンサートでも盛り上がる歌である。
年老いた両親、望郷、それでも僕はあの沈む夕陽を追いかけていく。単調なメロディーの繰り返しだが、その音一つ一つに重みが増してくる。まさに男の歌である。
そう、最近の歌はみんな小ぶりで結局何が言いたいのかわからないものが多い。日常を切り取るにしても表現が稚拙で詩的感覚は全くないし、世界観が狭すぎるのだ。
小田の透き通るような声で骨太な「夕陽を追いかけて」は意外性を生むとともに感動を覚えた。もちろん、博多を歌ったこの歌は財津和夫自身の歌であり、横浜生まれの小田が歌うには説得力に欠けるかもしれないが、歌の持つ力が聴くものを引きつけていく。小田が旧友である財津に向けて歌ったということか。

 「クリスマスの約束」という番組。年に1度の小田和正ショーである。
毎回企画を練り上げる苦労は並大抵なことではないだろう。昔ながらの音楽と現在の音楽の融合を図らなければ一般のテレビプログラムとして成立しないだろうし、視聴率も獲得できない。小田の長い音楽人生の中でお茶の間に届けたいプレゼント。音楽という上質な物資を届けるにあたり、試行錯誤を繰り返す。視聴者は年を追うごとにハードルを上げ、その果て無き欲望に応える作り手の苦労はいかばかりかと思う。年に1度だから期待も大きくなる。
 2009年「22'50"」という曲を披露した時、私は全て出し切ったかなと思った。あの曲は小田にしかできない企画だと思ったし、音楽番組としての完成度も素晴らしいものだった。
泉谷しげるが提唱した奥尻普賢岳のチャリティコンサート「日本を救え!」の時、小田は音楽プロデューサーであった。小田は、そのコンサートの最後に出演者全員で「あの素晴らしい愛をもう一度」をシングアウトしている。そのコーラスたるや鳥肌もので、我の強いミュージシャンたちを「音楽」「支援」「愛」というキーワードとコンセプトでまとめあげてしまった。そう、「22'50"」を聞いたときに私は「日本を救え!」の小田を思い出していた。
小田和正の恐ろしいまでの感性とプロデュース能力であの大作を生みだしたのだ。前述のとおり、番組に期待するハードルはかなり高くなっている。二番煎じは禁じ手である。小田サンタがくれるプレゼント・・・。
あとはオフコースの再結成。しかも康さん付き!というのはどうだろうか・・・
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2013年2月20日
花形
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by yyra87gata | 2013-02-20 18:53 | 音楽コラム | Comments(0)