音楽雑文集


by yyra87gata

カテゴリ:音楽コラム( 108 )

キャッツアイCE400

 よくFのコードが弾けなくて、ギターを断念したという人がいる。私の場合、そんなことは許されない環境だったのだ。
中学に入学し、音楽の授業。男子校だったため女っ気なし。合唱しても、男の声変わりする「だみ声」ばかり。そんな中、うちは中高6年間の一貫教育で、尚且つカトリックの学校だったので賛美歌なんかを歌っているから更に妙な授業になる。だから音楽の教師もそれなりに考えたんだろう・・・なんと学校にはギターが40本くらいあり、ギターの授業があったのだ。そのギターで歌を歌う。なんとレベルの高い・・・つまり弾き語りをしろという。そう、何でもいいから弾き語りだ。
一応音楽の教科書には「ドナドナ」や「花はどこへ行ったの」なんてアメリカンフォークソングも掲載していたが、誰もそんな歌は歌わない。しかし歌う前にコードが押さえられない。当時流行していたアリス、千春、さだまさしがみんなのお気に入りだったが、その歌いたい歌のために授業は白熱していった。Fのコードだけ・・・そりゃあみんな練習の鬼になる。私も例に漏れず、練習。
限られた授業の時間だけでは当然できないので、親に訴えギターを購入。
12,000円のモーリスのクラッシックギターが私の初めてのギターだ。そう、学校のギターがクラッシックギターだったので自然にクラッシックギターを選んでいただけ。しかも、家から一番近いレコード屋さんの壁に掛かっていた一番安いギターだったと思う。二子玉川の高島屋にあったスミヤというレコード屋だ。

 私は意外にもFのコードはすぐに出来たのね。エレクトーンをやっていたから指もそこそこ長くてね。でも長い分どちらかというとB7のコードの方が指がこんがらがって難しかったかな。
でも、そんなに真剣にギターは弾かなかったんだよね。友達に教えてもらったドラムの方が好きだったし。
 そうこうしているうちに、みんなギターが弾けるようになると、学校のクラッシックギターじゃ満足できなくなるんだよね。それで、フォークギターに移るわけ。みんなヤマハ、モーリス、ヤイリなんかを買ってきては教室に持ってきて休み時間なんかに弾いていた。そんな友達を見ながら私は少し焦っていた。
私のクラッシックギターはというと、ネックが反りはじめていたこともありそんなに弾かなくなり、ギターから遠ざかっていた。しかし、相変わらず音楽の授業でギターは続いていて、自作自演の作品を発表しろなどと言い出す始末。こりゃ、マジでギターをやらねばと思い、一念発起。親にもう一台ギターを買ってくれとも言えず、昼飯代を浮かしながら貯めたお金でフォークギターを購入することにした。
当時ラジオ深夜番組を聴いていると楽器屋のCMが盛んに流れており、楽器屋は御茶ノ水に密集していることを知った。
 私は4万円を握りしめ石橋楽器に一直線。中学3年の春、ギターを買いにいったのだ(1979年当時の4万円って結構な破壊力はあったと思うよ)。
 友達のギターはヤマハ派とモーリス派に分かれていて、それはつまりさだまさし派かアリス派かみたいなものなんだけど、要は好きなアーティストが使っている楽器を持つということだからそうなるわけ。で、私の場合・・・拓郎はっていうと、ギブソンのJ45かマーチンのD35。“そんなの4万円で買えるわけないじゃん”なんて思いながらぶらぶらフォークギターを見ていた。
すると店員さんが寄ってくる。
「フォークギター?モーリス持てばスーパースターだよ。このW30って定価3万円だけど今なら2万4千円でいいよ。カポとか音叉とか付けちゃうよ」
なんて、軽く接してきた。
私は心の中で“モーリスはいいんだよ、もう。だいたい持った瞬間アリスになっちゃうじゃん”なんて思いながら口では「はぁ、安くなるんですねぇ」なんて応えていた。
私の心の中にはマーチンしかなかったんだけど、そんなこと言ったら笑われそうだったから当時マーチンの正規輸入代理店だった東海楽器のキャッツアイを選択肢にしてたわけ。
しかも4万円というのには訳があって、CE400という4万円のモデルからギターの表板が合板ではなく1枚板の単板になるわけ。そのモデルを狙っていたのだ。
音がいいとか悪いなんてわからないんだから、スペック上で優れているものしかないのだ。
もっと高いモデルになれば、ネックも1本の木からの削り出しになるが、このモデルでは合板だった。しかし、そんなことを言っていたらキリが無い。
店員に「キャッツアイのCE400は?」と告げると顔色をちょっと変え、「キャッツアイ?ああ、ありますよ。こっちです」なんて奥のほうに連れて行かれた。
ギタースタンドに立てかけられていたCE400。カタログに穴があくほど見たモデルだったが、実際に見ると神々しく見えた。
d0286848_1349232.jpg

 ポジションマークはドットではなく戦前のマーチンに見られたスノーフレイク。ネックやヘッドに白いバインディングが施されておりボリュートは無い。ペグはグローバーのコピーモデル。マーチンのD28とD35を合わせた妙なコピーモデルだけど、いい音がしそうなモデルだった。
ギターケースを付けてもらって3万5千円くらいだった。
クラッシックギターから持ち替えるとネックが細く、弾きやすく、難なく音が出る。気分も良く、学校に早速持って行った。
放課後、みんなで集まり、ギターを弾く。
キャッツアイを弾く友人は一人もいなかったことに優越感。いや、それより肉体労働のアルバイトで金を作って買ったギブソンJ45DXを弾いていた友達。
私のギターを弾き一言。「俺のより鳴る。なんで~?」
そりゃそうだ。あの頃のギブソンのJ45ってスクエアボディの全然人気の無いギターで本当に酷かった。新品でも波打ってたペラッペラッのマホガニーなんて鳴るわけがない。

 さて、私のキャッツアイのCE400。
まだまだ現役。さすがにフレットはなくなっていて、デッドポイントも2~3箇所あるが、それなりの音をだす。生産から35年超えて、いい意味でエイジングされているのだ。やはり、マーチンのリアルコピーだけあり、胴の厚さから出る音の大きさは年を経る毎に深くなっている。
それから、このギター、家でちょっと鳴らすためにいつも出しっぱなしにしているから弾く頻度は一番高い。これも鳴る要因だ。
弦を張りっぱなしにしてネックも反らず、でかい音がする。これぞ鳴るギターである。

 でも、フレットを打ち換えてまで使おうと思わないんだよね。人前に出すより自分の部屋でがんばっていればいいギター。最初のフォークギターは大事に最後まで弾いてやるのだ。

2014年2月4日
花形
[PR]
by yyra87gata | 2014-02-04 13:49 | 音楽コラム | Comments(3)

ディランとの出会い

 親戚の家で初めて触れた“よしだたくろう”と“井上陽水”と“かぐや姫”。ちょうど歌謡曲にも飽き始めた私が小学生の高学年の頃のこと。
そういえば、その従姉妹からはビートルズの『ホワイトアルバム』(1968)も教えてもらった。面食いのちえちゃんは、4人のポートレートを見ながら「やっぱりジョージが一番ハンサム!」なんて言っていたっけ。

 さて、そんなフォークの洗礼を受けた私は、従姉妹の家から沢山のレコードや音楽雑誌を借り、せっせと自宅で聴く毎日。ちょうどその頃の私は、エレクトーンを習っていたので、映画音楽や海外の軽音楽はかなり詳しかったが、日本のフォークソングはからっきしわからなかった。難しい言葉を唸る人や、歌詞を読んでいるようにしか聞こえない音楽・・・。小学生で理解できる歌詞にも限界があった。
そんな初めて触れた音楽だったが、しばらく聴いていく内になんとも言えない感覚が身体を包んでいった。それは、歌が生きているというか、作り手が言いたいことをストレートに訴えるというか・・・。歌謡曲や映画音楽などではなく、今までに聴いたことの無い音楽だったのだ。
また、借りた音楽雑誌の中にフォークシンガーのインタビューなどあると、そのアーティストの生き様や考え方が出ており、そのシンガーが影響を受けたアーティストの名前などがつらつらと記載されていた。
そして、たくろうも岡林も高石友也も陽水も泉谷も中川五郎も・・・みんなみんなディランって口を揃えて言っていた。とにかくディランって。難しいことはわからなかったがとにかくディランって言っていたのだ。私はふと思い出した・・・私の小学生の低学年の頃に流行った「学生街の喫茶店」の歌詞にあった“片隅で聴いていたボブ・ディラン”のディラン。その時、初めてディランがその人なんだと理解した。小学生の私にはそんなレベルだった。

 私は中学生になるとギターを弾き始めた。うちの中学校は音楽の授業にギターがあり、最終的にはみんな必ずギターを弾けるようになるのだ。そして、その集大成は自分のオリジナルを作るということ。つまり作詞作曲の課題が与えられた。
中学生の作詞作曲。当然稚拙な歌詞が並ぶか、好きなミュージシャンの物真似に終始するのが落ちである。しかし、自分でとにかく作るということに意義があり、出来不出来は別物なのだ。音楽の教師もそんなようなことを言っていた。
そして私は、従姉妹から仕入れていたアーティストの作品になぞりながら曲を作っていったが、なんとか曲が出来ても歌詞が思いつかない。そして、あることを思い出した。私が好きなアーティストはみんなディランに影響を受けたと本に書いてあったこと。
自分の考えを自分の言葉で伝えるということは、シンプルなようで難易度は高い。でも言いたいことがあれば、それを曲に乗せるだけだ。職業作家の作る売れるための歌ではない。

 ディランが歌を作り始め、リーダー的存在になるのは1960年代だ。その頃のアメリカ
は公民権運動、キューバー紛争とベトナム戦争への介入に沸き立ち、不安定な情勢であった。その時勢を上手くディランは捉えて歌にしていった。そして、それが1960年後半になると日本に伝わり、ディランに憧れてギターを持ったシンガーが竹の子のように出てきたのだ。
日本も日米安保に揺れ、学生運動が盛んで、歌いたいことや訴えることが沢山あったのか、GSブームを蹴散らすようにフォークブームが到来した。私の従姉妹がトチ狂って聞いていた頃のことだろう。つまり、職業作家の作る歌謡曲やGSではなく、自分たちの音楽を若者が作り始めた事実は、ディランやビートルズなどその頃の軽音楽が海を渡ってきてからのことだ。
 私が本当にディランに触れたのは日本のアーティストがみんな「すげぇすげぇ」って言うから聴いてみたこの瞬間であって、ディランブームからはかなり時間が経っていた。

 晶文社の『ボブ・ディラン全詩集』。中学生で3200円は出費だったけど、何かがわかると思って、購入した。歌詞作りのヒントになると思ったのだ。
d0286848_12194754.jpg

代表曲「風に吹かれて」
  どれだけ道を歩いたら一人前の男として認められるのか。
  いくつの海を飛び越したら白い鳩は砂で安らぐのか
  何回弾丸の雨が降ったら武器は永遠に禁止されるのか
  その答えは、友達よ、風に舞っている
“結局答えて無いじゃん!”が中学1年の時の私の感想だった。「ライク・ア・ローリング・ストーン」に至っては、長々と語り尽くし最後の最後で「どう思う?」って聞くんだぜ!そんなのありかよ・・・これが14歳の感想だ。
他の詞も抽象的なものが多く、それがアルチュール・ランボーやウディ・ガスリーの作る作品に影響を受けているなんてことはその時はよく良くわからなかった。それより、わかりやすい“たくろう”や“泉谷”の方がいいやって思ってしまった。作詞については、ディランを聴いても中学生の私はよく理解できなかったのだ。
但し、わからないながらもディランの全詩集を読み漁ることで、その内容は私の精神的な一部に昇華し、その頃からかちょっとアイロニックに物事を考えるようになった。ちょうど親に対する反抗期にも重なり、理屈っぽくなったこともあの頃読んだディランのせいかもしれない。

 ディランを聴き始めたきっかけがそんな形から入ったので、全詩集に取り上げられたアルバムを片っ端から聴いていった。しかし、初期はアコースティックギター中心のHoboBluesのスタイルを貫いているので、歌詞がわからないと難解すぎてつまらなかった。また、『Bringing It All Back Home』(1965)あたりからエレクトリックギターの導入でロック色が入り始めたが、私がそのアルバムを初めて聴いたのは1977年であり、周りはイーグルスやボストン、エアロスミス、クィーンなどの煌びやかなロックが流行しており、古臭いロックをどこか取り残された気分になりながら聴いていた。しかし、とにかく義務感というか、修行の様に聴いていた。友達になんと言われようと意固地になりながら聴き続けた。『ボブ・ディラン全詩集』を片手に。
途中で辞めてしまうとディランという詩人に嘲笑される気がしたから。
安穏とした時代に生きて、自分の言葉も持たず、お前は何を言いたいの?なんて声がずっと頭の中に木霊していた。もう、ある意味病気である。だからディランを聴くと非常に疲れたんだよね、あの頃。

 さて、ディランの歌詞に注目していた私だったが、ある日気がついた。それは、ディランのメロディと、ただ唸っているだけかと思っていた歌。しかしそこにはちゃんとしたメロディがあるということ。そのことに気がついたのはある時、ラジオから例の「風に吹かれて」が流れていたときだった。そして、つづけて「くよくよするなよ」が流れる。2曲とも女性ヴォーカルだった。そのヴォーカルはPPMのマリーさんなんだけどね。
「あれれ、いい歌。なんてメロディアス。ディランの歌じゃないみたい」
ディランが歌うと妙なメロディになっていたりするが、失礼な話、ちゃんとメロディはあったんだよね。そして意外と素敵なメロディだったりするのだよこれが。ディランは詞にクローズアップされているんだけど、メロディーメーカーということもわかってきたのだ。そして・・・。
d0286848_1220472.jpg
 
 たくろうがラジオで話していた1974年のディランのライブを聴いたとき、私はディランの虜になった。ロックしているんだよ。とにかくロックシンガーなんだよ。『偉大なる復活』(1974)はそんなアルバム。バックのザ・バンドの音もグルーヴしている。
そのアルバムを聴きながら私はディランのライブを心待ちにし、1986年のトム・ぺティ&ザ・ハートブレーカーズをバックに従え2回目の来日公演で彼を目の当たりにし、自分の音楽の原点を見るようにただただ彼の姿を追っていた。
 
 ディラン。歌詞は相変わらず難解だけど、時よりシンプルなラブソングなんかをいまだに作ったりもする。71歳で発表した『テンペスト』(2012)はジョン・レノンに捧げる歌なども入った大作である。
ディランの日本公演。私は4月3日に会いに行く。もう義務感じゃないよ。
[PR]
by yyra87gata | 2014-01-04 12:02 | 音楽コラム | Comments(3)
 
d0286848_12323552.gif

 それは・・・ロックだった。まぎれも無い、ただのロックだ。今で言う「Jポップ」なんて軽い響きの言葉では表現できないもの・・・。あの極限状態の中でいくら軽いポップソングやバラードを演奏したとしても、それはロックになっただろう。それくらいミュージシャンも観客も一つ筋の通った関係になっていた。
そして会場全体が神々しく見えた

「BEATCHILD1987 ベイビー大丈夫かっ」を見た最初の感想だ。

 今思うとあの頃の音楽地図は混沌としていた。
音楽メディアはレコードからCDへと変わり、MTVが登場し音楽と映像が混在。プロモーションビデオと称して小さな映像作品を制作し、歌手が役者の真似事をする時代に変っていった。そして、耳障りの良い音楽が世の中にあふれ始め、ある評論家は「音楽と映像の融合がこれからの音楽シーンのポイントとなるから70年代のようなメッセージを伝える音楽は生きにくくなるだろう」なんて無責任なことを言っていた。

 そんな時代に、ビートチャイルドたちが熊本県阿蘇に集まった1987年夏。激しい雷雨の中7万2千人を超える観客は寒さに震えながら、音楽の感動に身震いしながらオールナイトコンサートを体感した。
出演者は佐野元春with HEARTLAND、ハウンドドッグ、尾崎豊、渡辺美里、ザ・ブルーハーツ、白井貴子、岡村靖幸、BOOWY、ザ・ストリート・スライダース、レッド・ウォリアーズ・・・。
日本のウッドストックとも呼ばれ、当時は大変な盛り上がりを見せたが、豪雨の中の開催で低体温症になる観客が続出し、救急車と怒号の中のコンサートとなり、主催者側には危機管理能力を問われる暗い一面も見せた。それは、熊本県の阿蘇は天候が変りやすく1981年夏に行なわれた「南こうせつ・サマーピクニック」も雷雨によりコンサート半ばで中止を余儀なくされている事実もあり、そんな山間部でのイベント開催に疑問を呈する評論家がこぞってBEATCHILDを批判したからだ。しかし、そんな雑音を気にせず走り抜けた若い力(出演者、主催者、そして観客)は、最高の思い出を心の石に刻んだ。
(死傷者が出なかったことで救われたという見方もあるが・・・)

 今回、当時の古いフィルムが見つかり、映画化の話がまとまった。そして限定ロードショー。
 当時の私は大学生で、バンド活動を行なっていたが、BEATCHILDには何の興味も沸かなかった。ただ当時気になっていた「岡村靖幸が出演している」くらいの認識で、1人のアーティストのために熊本までは行けないと思っていた。
 佐野元春もハウンドドッグも尾崎豊も渡辺美里も商業的に成功しているミュージシャンであったし、BOOWYが光り輝き、ザ・ブルーハーツがスター街道を登り始めた頃のことだ。
音楽事務所のマザーエンタープライズやハートランド、レコード会社ではソニー系列のミュージシャンが中心に集まっているのでアーティスト的に多少の偏りは否めないが、当時のJロックを語る上で外せないミュージシャンたちが集まったことは、少しだけ気になったものだ。
当時の私の愛読書は「宝島」と「ロッキング・オン」だったので、このイベントのことも大々的に取り上げており、雨のオールナイトコンサートについてドラマチックな活字が躍っていたから当時でもなにやらただ事ではないなという気持ちになったものだ。
 
d0286848_12362050.jpg

 何故、ここに出演しているミュージシャンに対して特別な感情も無い私が今回このコンサート映画を見る気になったか。それはただの懐古趣味ではない。
BEATCHILD開催の2年前。1985年6月15日国立競技場で行なわれた「ALL TOGETHER NOW」。全国の民放が協賛したイベントで、吉田拓郎、オフコース、南こうせつ、さだまさし、といったベテラン組、はっぴいえんど、サディスティック・ミカ・バンドならぬサディスティック・ユーミン・バンド。また、山下久美子、白井貴子、ラッツ&スターなどの若手、そしてチェッカーズまでが飛び出すバラエティに富んだ出演者。そしてそんなビッグネームが並ぶ中、トリを務めたのは人気上昇中であった佐野元春とサザンオールスターズである。そして、この組み合わせがトリを取ったこのイベントは、日本の軽音楽が次世代に引き継がれた儀式の様にも感じられた。
 そんなイベントを体験した者として、その2年後に行なわれたこのイベントで彼らがどのようなパフォーマンスをしていたのかを確認したかったのである。
私は当時から歳の割には拓郎や陽水など、一世代前の音楽を好んで聞き、同世代の友達が応援するサザンや元春、尾崎などを敬遠していた。彼らのことをどこか青臭く、どこかコマーシャルっぽく、二番煎じ的に見ていたからだ。しかし、時を経て振り返ったとき、そんな感情よりも雨中という逆境の中で必死にパフォーマンスを繰り広げる彼らを1人の音楽人として見てみたかったのである。音楽の好き嫌いを抜きにして音楽を必死に伝える彼らの雄姿を確認したかったのである。

 映画を観た感想として・・・
私は今までに何度も野外コンサートやオールナイトコンサートに参加したことがある。そして雨の野外コンサートも数度経験している。
オールナイトコンサートは非日常のイベントなので演奏者も観る方もアドレナリンは高まるが、同時に疲労も溜まっていく。そしてみんな「ハイ状態」になる。体力と気力を持つ者だけがオールナイトコンサートを駆け抜けることができるのだ。
私はあるオールナイトコンサートで、ラスト1時間ずっと涙が止まらなかったことがある。感情が制御できなくなってしまったのだ。しかし、周りにも同じような人がいて何故か妙な一体感も得ていたが、これは一種の集団ヒステリーのようなものかもしれない。
そして、そこに音楽はあるのか・・・音を楽しむというより音との戦いかもしれない。
BEATCHILDは「史上最低で最高のロックフェス」と銘打っているが、まさにその通り。
みんな、雨と泥でぐしゃぐしゃ。だけど極限の表情がたまらなくいい。音楽を超えたエナジーがそこにふつふつと湧き出ている。
私がもし、あの場所に身を置いたらきっと声が枯れるまで騒ぐんだろうな、という雰囲気が画面から湧き出ている。

 このコンサートでもし雨が降らず、たんたんと行なわれていたら・・・と考えると特筆することのない、大勢の客が集まったコンサートというだけかもしれない。しかし、豪雨と雷。そこに立ち尽くす客。極限の中でのパフォーマンスと7万2千人の観客のエナジーが伝説を生み出した。昔から野外コンサートで雨が降れば伝説になる。そのいい見本かもしれないが、それにしては過酷な映像なので、音楽映画というよりは自然現象に立ち向かう人間たちのドキュメンタリーに見える。白井貴子のステージなんてまさにドキュメンタリー以外のなにものでもない。
そうやって観ると、たいして興味も無かった音楽も面白く見ることができる。
d0286848_12352543.jpg

 DVDにもTVにもネット配信もされない。この映画、観とくなら今だよ。

10月26日(土)から3週間の限定ロードショー!
音楽監督:佐久間正英

2013/10/29
花形
[PR]
by yyra87gata | 2013-11-06 12:37 | 音楽コラム | Comments(0)
 うるさいオヤジの戯言と言われてしまえばそれまでだが、嫌なものは嫌なのだ。ま、大河ドラマ「八重の桜」的に言えば「ならぬものはならぬ」のである。

 いつから忌野清志郎はお茶の間に平気でオンエアされる歌手になったのか。誰も彼のことを国民的歌手などと言ってはいないが、セブンイレブンのCMで使用されるTHE TIMERS名義の「デイ・ドリーム・ビリーバー」を聞いているとそのような気分になってくる。
セブン・アンド・アイ・ホールディングスの広告投下費用がいくらかは知らないが、莫大な数のオンエア数を見れば、あの歌はモンキーズの歌ではなく清志郎の歌と勘違いする人も出てくることだろう・・・ということで、何が言いたいかというと、私はお茶の間に普通に入ってくる清志郎が好きではないし、そもそもの清志郎が歌うあの「デイ・ドリーム・ビリーバー」が嫌いで仕方がない。

 清志郎の歌唱は促音を強調し、独特のイントネーションで日本語を強調するもので決して万人受けするものではない。どんなに美しいメロディも彼の歌唱にかかるとすべて彼の世界に変化してしまう。その点ではオリジナリティ溢れた最高のシンガーなのであるが、私の中ではそれらを一般のテレビから日常的に聞きたくないというのが本音なのだ。普通に考えれば彼の歌唱は独特すぎるし、例えば爽やかな朝の番組の合間にCMで清志郎の声はいかがなものかと思う。

 私は忌野清志郎が決して嫌いなわけではない。どちらかといえば私は中学、高校時代にどん底のRCがトップスターに飛翔していく様をリアルタイムで見ていたので、彼への親和性は非常に高いと思っている。RCがエレクトリックバンドに変わり、満員の「渋谷屋根裏」のライブこそ見逃してはいるが『RHAPSODY』(1980)の実況で有名な久保講堂には足を運んでいる。どちらかといえばファンなのである。それでも、彼の音楽性やマスコミへの態度などを見ていると普通ではない人という認識となり、彼独特のユーモアでロックスターを演じているのかもしれないと思ってしまうこともある。ま、それはそれでいいのだが、もちろん私は彼と面識は無いので「いちファン」として感じたこと・・・つまり、彼は歌謡曲の人ではなく、芸能界の人でもなく、ロックの人だということ。そこだけははっきりさせておきたいのだ。
彼が病魔に倒れ、若くして命を落としたことは痛ましい事実だ。しかし、彼がもし今生きていたら・・・今のマスコミの「彼の扱い」に対し「彼」はどう思うか。

 彼は常に反体制だった。1980年代に起きたチェルノブイリでの原発事故のことを誰よりも心配し、メッセージを歌に乗せ抗議活動を行なった。それは自らの音楽人生を賭けんばかりに、テレビ局やレコード会社に毒づいた。そんな彼の声はそれまでの偏ったロックキッズだけに留まらず、一般のリスナーにも届くようになっていった。その流れを知ってか知らずか、彼は自分の意思による言葉という武器でもともとロックミュージックの持つ反体制という概念に則った表現で社会に訴えかけた。その時のアルバムはRCの『COVERS』(1988)や『コブラの悩み』(1988)に表現されている。
しかし、彼はもともとブラックミュージックやソウルミュージックが好きな音楽青年にすぎなかった。音楽を「売れる」「売れない」という範疇で語るのではなく、自分の好きな音楽を好きなだけ表現したいだけのピュアなミュージシャンだと私は思っている。そんな彼の歌が支援されている(ヒットする)ということはどういうことだったのか。つまりそれまでで日本の音楽シーンで反体制のロック歌手がヒットを飛ばすということは後にも先にも無かったことなのだ。だから伝説の「キング・オブ・ロック」という称号を得たのかもしれない。そう、私はこの「キング・オブ・ロック」という言葉も嫌いだ。何故清志郎がキングなのだ?所詮日本のロックはアメリカ音楽の物真似じゃないか。JBのマントパフォーマンスを清志郎が行なうことだって彼特有の洒落じゃないか!そんなこともわからないで盛り上がり、キング呼ばわりは逆に彼がかわいそうなんじゃない?そして、日本の音楽産業やそれを取り巻く世界は欧米ほど成熟していないから人気がありそうだ、モノが売れそうだ、人が集まりそうだ、・・・そんな話題だけで音楽を巻き込み、踊らされるリスナーたち。そしてそれは作り手が望まない世界へ展開することだってあるのだ。

 
d0286848_13301056.jpg
私の好きな清志郎は彼のヘアスタイルのように尖がっていて、マスコミなんかにケツを向けているただのシンガーなのだ。日比谷野音と日本武道館を満員にさせ、オーティスの物真似だけど「ガッタガッタ・・・」って叫びながら、日本のおかしな政治屋やモンキービジネスの豚どもを嘲笑しながら歌い飛ばすシンガーに過ぎないのだ。おかっぱ頭で客に毒づきながらアコースティックをかき鳴らしている清志郎から何も変わっちゃいないのだ。
だからあの「デイ・ドリーム・ビリーバー」は、お茶の間に平気に流れる清志郎が体制側に回っちゃったみたいで違和感があるんだよな。

「ずっと夢を見て、安心してた・・・僕は、デイ・ドリーム・ビリーバーそんで彼女はクィーン」・・・この歌詞の彼女って清志郎のお母さんのことだって知っている?
清志郎の歌声が今日もTVから流れている。画面には、幸せそうな家族やカップルが色とりどりのおにぎりやお弁当を手に笑っている。
この映像に清志郎のヴォーカルねぇ・・・違和感があるのは私だけか・・・。
まぁ、いい。嫌なものは嫌なのだ。

2013年7月16日
花形
[PR]
by yyra87gata | 2013-07-17 12:00 | 音楽コラム | Comments(12)
 確かバラエティ番組だったと思う。和やかな雰囲気の中で1人だけ異彩を放っている男がいた。まるで獲物を狙う狼の様に目をギラギラと光らせ、聞き手を食い入るように見つめる。落ち着きの無いしゃべりは、何か言いたいことがうまく言えないもどかしさをそのまま言葉に乗せているようだ。何度も頭をかきむしり、長髪の髪がボサボサになっていく。
 エレファントカシマシの宮本浩次の第一印象。1990年代後半だったと思う。
まだAKB48も存在せず、隣に座っていた「モーニング娘。」のナッチが怯えていたっけ。
彼らの予備知識もなく、インディーズで話題になっているということでのゲスト出演だったと思うが、宮本のしゃべりにイライラしていた僕はテレビのチャンネルを変えようとした。しかしその時、彼からの意外な言葉にその行為を停止した。
「歌謡曲が好きなんですよ・・・西城、そ、西城秀樹、ヒデキ好きです!これから歌います!」
そう言うと宮本はバンドを従え、「傷だらけのローラ」を熱唱した。体をよじって真剣に歌うその姿。そして彼らの懐の深さに感心したものだ。彼らのオリジナルは正直言ってよくわからなかったが、宮本の持つカリスマ性だけは感じ取れた。
 そして、数年後。彼らはレコード会社を変え、テレビドラマの主題歌を歌うようになり少しだけメジャーになった。この「少しだけ」が、彼らっぽい。きっとヒット曲を出したら普通はそのまま同じ路線で走り、コンサート活動とアルバム制作でファンを増やしていき、1~2年もすれば飽きられる。音楽ビジネスなんてそんなものだが彼らにはインディーズ時代のファンがそこに存在しているので、ヒット曲の1曲や2曲で快哉をあげる者はいないのだ(もちろんヒット曲に乗ったにわかファンはいただろうが・・・)。
それは彼らの置かれた状況が物語る。1988年エピック・ソニーからデビューしたものの1994年に契約を打ち切られ、所属事務所も解散。その後も地道にインディーズで活動する。そんな彼らが最高だというファンがかなり多いからだ。

 
d0286848_21582610.jpg

 そんなエレファントカシマシ。僕は彼らの男臭い骨太なロックだけでは耳を傾けなかったと思う。彼らの音楽が気になってしょうがない部分、それは、音の構成だ。
彼らは、シンプルなロック編成。ライブでは宮本のヴォーカルのバックではエレキギター、ベース、ドラムとゲストミュージシャンとしてキーボードが入る。ただそれだけ。アルバムもほぼ同様。通常、激しいビートに小難しい歌詞や魂の叫びを乗せていくと説教臭くなる場合が多い。しかし彼らの骨太なロックはただのロックンロールではない。どちらかといえばロックの中にポップ性が息づいているのだ。その答えはプロデューサーにあると僕は思う。なぜなら、宮本浩次のプロデュースした作品はゴリゴリのロックだが(それはそれで格好良い)、プロデューサーを迎えた作品はエレファントカシマシの持つ音楽性が人の手により広がっていくからだ。シンプルなロックであればあるほど、音の振り幅は大きくなる。それはボブ・ディランのアルバムを聴く感覚に似ている。
 エレファントカシマシの場合、佐久間正英、岡野ハジメといった前衛的な音楽を得意とするプロデューサーから小林武史、亀田誠治といったJポップの王道を行くプロデューサーとも絡む。他にも久保田光太郎、土方隆行といったギタリストのプロデューサーとも作品を制作している。どのプロデューサーも引き出しは多く、シンプルな彼らの音楽に彩りを加える。
しかし、なんといっても最近の彼らのベストパートナーは蔦谷好位置だろう。彼らの激しいビートに絡むストリングスの絶妙なアレンジ。それはビートルズの後期に見られるアバンギャルドなストリングスでもあり、なだらかな砂丘を思わせる平穏もある。
ビートポップスにストリングスやブラスが入ると軟弱になりがちだが、そこは宮本の叫びがそれを許さない。

 ああ、エレファントカシマシよ。いつ復活の狼煙をあげるのか。
宮本の難聴は残念なニュースで未だにライブ活動は無期延期となっている。
早く治して、また再び蔦谷好位置と一緒に日比谷野音で雄叫びを上げて欲しい。
ふと、ラジオでエレファントカシマシが流れ、思いのまま書き綴ってしまった。
d0286848_21591961.jpg

2013年5月14日
花形
[PR]
by yyra87gata | 2013-05-14 21:59 | 音楽コラム | Comments(0)
 「クリスマスの約束」という小田和正が作る音楽番組をご存知だろうか。今から12年前、2001年12月から始まった音楽番組で当初は小田和正が好きな歌を集め、その歌を歌っているシンガーやミュージシャンに小田自身が直筆の手紙を書き、番組に出てもらおうという企画。しかし、第1回目の放送では、1人もゲストは現れなかった。それでも番組は放送された・・・。主催者がゲストを呼ぶ努力をして、誰ひとりとして来ないという顛末に私は今までの音楽番組に無いリアリティを感じていた。
「スケジュールの都合で出演できない」「若輩者の自分が出るにはおこがましい」「テレビというメディアで音楽活動を1度もしていないし、これからも考えていない」・・・様々な理由が番組内で紹介され、その度に小田が苦笑いをし、「じゃ、僕ひとりで歌います・・・」。
サザンの「勝手にシンドバット」や福山の「桜坂」、そしてこの番組のテーマソング的な存在になる達郎の「クリスマスイブ」など。
福山や達郎からは小田宛に出演辞退の手紙まで来て、それらを紹介していた。それぞれ出演できない理由はあるにせよ、今までに無い音楽番組の形態という感じで私は楽しんで見ていた。
 翌年の2回目もゲストはひとりも来ず、またしても独りで好きな歌を歌う小田。そんな姿を見ている私を含めた視聴者はこの番組に何を求めているのか・・・ちょっと不思議な気分にもなった。ゲストに声がけをして断られ、それでもその音楽を演奏する小田。
 小田の熱狂的なファンであれば、小田がひとりで歌おうがゲストが来ようがなんでもいいかもしれないが、23時台とはいえ地上波のテレビ番組でこの構成はありか?と私は頭をひねったものだ。しかし、それでもそんな構成こそが小田の頑固さが出ているプログラムなのかと思い込んだ。
 3回目以降はゲストもようやく来るようになった。でもそのプログラムは、普通の音楽番組に見えた瞬間でもあった。そしてそれ以降のプログラムは小田自身が週一のレギュラー番組も持ったことにより(風のようにうたが流れていた)、目新しさも無くなってはきていたが、そこは小田のプロデュースするプログラムなので上質な音楽を届けてくれるようになった。例えば2005年や2008年のプログラムでは、小田の全国ツアーにフォーカスし普段見ることのできないライブの舞台裏を見せたり、2006年の斉藤哲夫と歌う「グッドタイム・ミュージック」や2007年のさだまさしと一緒にオリジナルを作る企画など小田でなければできない企画もあった。
そして、2009年の「22'50"」という曲を披露。21組のアーティストの代表曲を22曲をつなぎ22分50秒にもおよぶメドレーを全員で歌いきった。その練習風景からテレビは追い続け、そこにはミュージシャンシップが光り輝いていた。
小田がサンタクロースさながらに私たちに音楽というプレゼントをしてくれる、そんな企画に昇華していった。

 最近の「クリスマスの約束」は少し薄味という気がする。ここ数年はスキマスイッチの2人といきものがかりと根本要(スターダスト・レビュー)、松たかこ、JUJUが小田の周りを固めていて(委員会なんて呼び方をしている)、無味乾燥な印象。派手さが無いというか・・・。また、彼らは小田に対して気を使いすぎというか、まぁ先輩なんだからしょうがないと思うが、小田の一挙手一投足にあそこまでビビったり、ナーバスになったりすると画面を見ている私は妙な気分になる。
あなたたちも同業者なんだから、テレビに出てソロコンサートもできる立派なシンガーなんだろうから、もっと堂々としてればいいのに・・・と思う。そんなアマアマなミュージシャンだから甘い歌ばっかりでガッツのある歌が最近少ないのだと勝手に思う。みんなアホみたいに横にならえで日記みたいな歌を歌っているからね・・・。
 そんな中、昨年の「クリスマスの約束」で唯一光っていたのは小田が歌う「夕陽を追いかけて」だ。
チューリップの1978年発表のシングル盤で、コンサートでも盛り上がる歌である。
年老いた両親、望郷、それでも僕はあの沈む夕陽を追いかけていく。単調なメロディーの繰り返しだが、その音一つ一つに重みが増してくる。まさに男の歌である。
そう、最近の歌はみんな小ぶりで結局何が言いたいのかわからないものが多い。日常を切り取るにしても表現が稚拙で詩的感覚は全くないし、世界観が狭すぎるのだ。
小田の透き通るような声で骨太な「夕陽を追いかけて」は意外性を生むとともに感動を覚えた。もちろん、博多を歌ったこの歌は財津和夫自身の歌であり、横浜生まれの小田が歌うには説得力に欠けるかもしれないが、歌の持つ力が聴くものを引きつけていく。小田が旧友である財津に向けて歌ったということか。

 「クリスマスの約束」という番組。年に1度の小田和正ショーである。
毎回企画を練り上げる苦労は並大抵なことではないだろう。昔ながらの音楽と現在の音楽の融合を図らなければ一般のテレビプログラムとして成立しないだろうし、視聴率も獲得できない。小田の長い音楽人生の中でお茶の間に届けたいプレゼント。音楽という上質な物資を届けるにあたり、試行錯誤を繰り返す。視聴者は年を追うごとにハードルを上げ、その果て無き欲望に応える作り手の苦労はいかばかりかと思う。年に1度だから期待も大きくなる。
 2009年「22'50"」という曲を披露した時、私は全て出し切ったかなと思った。あの曲は小田にしかできない企画だと思ったし、音楽番組としての完成度も素晴らしいものだった。
泉谷しげるが提唱した奥尻普賢岳のチャリティコンサート「日本を救え!」の時、小田は音楽プロデューサーであった。小田は、そのコンサートの最後に出演者全員で「あの素晴らしい愛をもう一度」をシングアウトしている。そのコーラスたるや鳥肌もので、我の強いミュージシャンたちを「音楽」「支援」「愛」というキーワードとコンセプトでまとめあげてしまった。そう、「22'50"」を聞いたときに私は「日本を救え!」の小田を思い出していた。
小田和正の恐ろしいまでの感性とプロデュース能力であの大作を生みだしたのだ。前述のとおり、番組に期待するハードルはかなり高くなっている。二番煎じは禁じ手である。小田サンタがくれるプレゼント・・・。
あとはオフコースの再結成。しかも康さん付き!というのはどうだろうか・・・
d0286848_18522611.jpg


2013年2月20日
花形
[PR]
by yyra87gata | 2013-02-20 18:53 | 音楽コラム | Comments(0)
 日本でハスキーボイスといえば、歌謡曲の時代から哀愁の声である。
酒に焼け、潰れかけた声・・・。演歌にもハスキーボイスは多い。そして、ブルースシンガーもハスキーボイスでなければならない。
ブルースの女王「青江美奈」しかり(古っ!)、内藤やす子しかり(古っ!)、もんたよしのりしかり(ひらがなっ!)
 ブルースや演歌の世界にはどこでも転がっているハスキーボイスだが、1980年代のお気楽なポップスシーンに突然現れた大沢誉志幸はそれまでのハスキーボイスのセグメントと異なっていた。それは、ファンクでありポップだったからだ。
 大沢誉志幸は1978年にクラウディスカイというバンドでデビューする。宇宙服みたいなコスチュームを着て、どうみても売れる要素はないただのロックバンドのヴォーカルだった。そして大沢はその後バンドを解散し単身渡米する。そこで1年かけて本場のファンクを体感している。
 帰国後、彼はアイドルへの楽曲提供とロックミュージシャンとの二足の草鞋の中、精力的に活動していく。しかし、作曲家としての彼の取り上げ方の方が多く、そこに注目されていった。
なぜなら彼の作曲法はそれまでの歌謡曲とは異なり、それがいつの間にか日本の軽音楽(Jポップって言葉、だいっきらいなんだよ)を変えていったからだ。
 例えばそれまでの歌謡曲は、Aメロ Bメロ サビ がひとつの塊となり、2番か3番まで同様に進んでいく。そのフォームに慣れた日本の流行歌たち・・・。
それはテレビの音楽番組におけるテレビサイズの作りやすさであったり、ラジオでのオンエアのし易さであったり。
歌詞も七五調や、いくつかの決まった字数で収められており、それが職業作詞家の作る作品であり、彼らの技量の一つとされていた。だから作詞家の作る歌詞は均一的で、字余りなどタブーだった。しかし、1960年代後半から若者が自分の言葉で歌を作り始め、新しい流れが流行歌を変えていく。字余りソングなどが登場してくるのである。
 また、作曲方面でも変化が見られた。
歌の構成上、1番や2番という概念(フォーマット)に囚われない歌の作りが登場してくる。そのことは、作り手の思いがより自由に表現されることとなり、1番と2番でメロディーが異なる歌も登場してくるのである。
但し、1970年代後半まではそれらは亜流とされており、「フォークだから」「ロックだから」「ニューミュージックだから」という形容がなされていた。
 相変わらず演歌は古き日本の歌のフォーマットであったし、アイドル歌謡も同様である。
そして、その方程式が本格的に崩れ始めたのが1980年代の軽音楽である。
特に大沢誉志幸の「そして僕は途方に暮れる」(1984)はまさにその代表だ。

 イントロからシンセの響きとエコーが掛かった空間系の音。そこにドラムビートはリズムとして存在せず、厳かに大沢のかすれたヴォーカルが重なる。

「見慣れない服を着た君が今出て行った・・・」

 この一行で2人の関係がすべてわかる。この情景描写は秀逸である。
時代の音はシンセのリズムのみでAメロBメロを走り、サビもなく2番に入る直前で突然スネアビートが響く。
起伏が無い歌かと思いきや大沢のハスキーボイスが静かなる起伏を作り上げていく。
そして、Cメロの
「あの頃の君の笑顔で・・・この部屋は満たされていく・・・窓を曇らせたのは何故・・・」の盛り上がりのあとの16小節におよぶ起伏のないシンセの響きが情景を作り上げていく。

最後は再び
「見慣れない服を着た君が今出て行った・・・」
で終わる。

 ブライアン・イーノのような環境音楽に大沢のハスキーボイスが絡むこの楽曲は明らかに当時の日本の軽音楽に一撃をいれた。
世間的にはカップヌードルのCMソングとして知られているが、これがTVから流れた時の衝撃は今でも忘れられない。これほど楽曲と詞の世界がマッチし、それまでのフォーマットを変えたものはないのではないか。
ハスキーボイスが厳かに歌い上げる魅力は新しい時代が生んだヒット曲なのかもしれない。
d0286848_0344255.jpg


2013年2月2日
花形
[PR]
by yyra87gata | 2013-02-02 00:35 | 音楽コラム | Comments(0)

リッチーVSゲイリー

 友達のM君は日本で売れ始めていたゲイリー・ムーアを毛嫌いしていた。彼はリッチー一筋。スキャロップド・ネックに加工された白いストラトを弾きながら屈伸運動にしか見えないリッチーのモノマネを彼はよく見せてくれた。
 僕はレインボーもゲイリーもそれほど違いがわからず、M君を相当がっかりさせていたのだが、ちょうどその頃発表された『コリドーズ・ オブ・パワー 』(旧邦題『大いなる野望』)(1982)は、なんかいいなぁなんて密かに思っていた。しかし、M君があまりにも毛嫌いするから、「ふーん。ゲイリーねぇ・・・。名前もあんまり良くないねぇ。ちょっと汚そうだし・・・」なんて話を合わせていた。
 M君は医者の息子。僕らは高校3年生。授業が大学受験シフトとなり自由登校になった瞬間、彼の家に悪~い友達がたくさん集まり朝から晩までぐちゃぐちゃな生活をしていた。
そこは、真っ昼間からデカイ音で音楽を聴き、エレキギターをマーシャルのアンプでかき鳴らすグループと、そんな騒ぎにはお構いなく麻雀に勤しむグループがひとつの部屋にひしめきあっていた。つまり、それくらい彼の部屋が広かったのだ。そして毎日のように、M君のリッチー教室が始まり、リッチー以外のギタリストはみんなタコになっていた(いやいや、M君はちょっと高崎晃に似ていたからラウドネスは許していたかなぁ?)。
 僕はそれでもゲイリー・ムーアの『コリドーズ・ オブ・パワー 』は意外と良かった、というようなことを言った時、M君は笑いながら「いやいやいや・・・どこがぁ?」なんて言うもんだから、「じゃ、何が悪いの?」的に聞き返すと驚くべき答えが返ってきた。
「ゲイリーって、こうじゃん!」
M君は両手でほっぺたをつまみながら、引っ張った。
「えっ?」
「だから、こうじゃん!ブルドックみたいじゃん。あんな顔でなに弾いたって格好良くないね!」
「えっ?じゃあMはゲイリーのアルバムは聞いたことないの?」
「ない!」
「ええええ!」
ってな会話をしたところ、さっきまで一筒を切ろうか四筒を切ろうか迷っていた(麻雀知らないと読み方すらわからんね)H君が、
「お前、いいかげんにしろよ、ゲイリー聞いたことねぇのに嫌いとか言ってんの?」と、ちょうど立つと腰の位置で雲海のようになっているタバコの煙を切り開きながら麻雀グループの中からやってくるではないか。
さぁ大変、そこから舌戦が始まり、挙句の果ては殴り合いの一歩手前まで発展した。(立直!)
リッチーVSゲイリー
最初のうちは・・・
「リッチーはロックだけにとどまらずクラッシックの要素も備え、スパニッシュギターの心得だってあんだぞ~!」
「いやいやゲイリーはアイルランドの厳しい社会情勢の中から現れた反骨のロックギタリストだぁ!」
「リッチーは60年代半ばではロンドンで売れっ子のスタジオミュージシャンで、様々な音楽に精通していて音楽の幅も広いんだ!」 
「ゲイリーは早弾きもすごいけどスローブルースを弾かせてもすごいんだぞ~!」 
といった会話が・・・。
「なんだあのハゲ!増毛しているんじゃねぇの。そんなロックミュージシャン知らねぇよ」
「ゲイリーなんてブルドッグみたいな顔しやがって。あんなブサイク、ステージに立つんじゃねぇ!」
「なにお!」
「なにおとはなにお!」
なんて具合になり、周りもこのアホらしい言い合いにどんどん参加し始めた。
「そもそもリッチーはわがままなんだよな。バンドメンバーをすぐにクビにしちゃうし・・・」
「ばーか!あれは妥協しない姿勢なんだよ。お前がリッチー語るの10年早いわ!」
「ゲイリーだってスキッド・ロウ、シンリジー・・・どれも長続きせんもんなぁ。人間的におかしいんとちゃうか?」
もう、めちゃくちゃな会話になっていった。
僕はどっちでも良かったんだけど、M君のあまりにも幼稚な理由に笑ってしまい、お前はどっちの味方なんだと凄まれる結果に。
しかし、けっこうみんなが口を揃えて言っていたことでミュージシャンについて好きか嫌いかという軸においてルックスってかなり重要なポイントを占めていたのには驚いた。女性アイドルならまだしも海外ミュージシャンをルックスで決めつけるなんてな・・・僕もしてたか!
そういえば、僕もハゲとチビとデブはダメだったんだ。しかもオカマのエルトン・ジョンだけは歌はいいと思うけど客の前に立つミュージシャンとして否定していたしな。あいつは作曲家になればいいと思っていたくらいだった。
 そんなこんなで、リッチーVSゲイリー戦争は勃発し、その後もいつも集まるメンバーの中では話題となり、その戦争はVヘイレンVS Mシェンカーになったり、ツェッペリンVSパープルになったり、バウワウVSラウドネスなんてのもあったなぁ。松田聖子VS小泉今日子の時は・・・もういいか。
受験が控えているのにこういったくだらないことを1日中だべっているんだから、暇人というかなんというか、なんとも言えない時間だった。ま、ある意味ディベートの訓練をしていたと思えば・・・なわけないか!
ただ、この論争について僕は一言だけ真面目に言い、みんながそれについてグウの根も出なかったということがある。
それは、どんなに速く弾けたってどんなにギターが泣いていたって、そのギタリストが後世に残るフレーズをどれだけ作ったのか、ということ。
僕の高校時代のリッチーVSゲイリー戦争について言うならば、その当時では圧倒的にリッチーの方が後世に残るフレーズを量産していた。ヴァン・ヘイレンとマイケル・シェンカーだったらヴァン・ヘイレンだろう。それは、テクニックじゃないのだ。作曲能力というか曲の完成度というか(ヒットソングというものでもない)。
そもそも芸術(曲の出来具合やテクニック)と商売(販売枚数)の関係が隣り合わせの世界の中で、演者に対して優劣を付けること自体が間違いなのだが、そんなこと当時の高校生に言ったって誰も理解することができない。そいつが格好いいか、悪いか。好きか嫌いかなのだ。
だから、終わらない論争に一石を投じた僕の言葉は座をしらけさせた。しかし、しらけたことイコールみんなそのことを理解したのだ。みんなは言葉遊びをしていたかっただけだったのか・・・。

 さて、ゲイリーの顔が嫌いと言ったM君。先日偶然にも彼に遭遇し、杯を酌み交わした。彼は立派な医者になっていた。リッチーの長かった髪もキレイに禿げ上がったそうだが増毛をしてかろうじて頭を賑わしている。そんなところも真似しているのかと聞くと真顔で「リッチーは増毛じゃないんだ。体質改善を行なってみるみるうちに生えてきたんだよ」と言うではないか。
「じゃ、Mは体質改善をしようと思わなかったの?」と聞くと、
「一度は試みたが、改善しなかったからこうやって増毛してるんじゃねぇか!」と笑いながら増毛剤を振りまく真似をした。
そこで、昔話の中でゲイリーの話をしたところ
「ああ、死んじゃったねぇ。ブルースアルバムではいいギターを弾いてたよね。『スティル・ゴット・ザ・ブルース』だっけ?あれ、いいアルバムだったのになぁ」
遠くを見つめる眼差しでエイヒレをかじるM。
「お前さぁ・・・ゲイリーのこと毛嫌いしてたじゃん。顔がブルドッグみたいだ、とか言って!」と僕。
「ああ、そんなこともあったな。あの時はリッチーしか見えてなかったからな。それよりゲイリー・ムーアは1987年に発表した『ワイルド・フロンティア』はいいアルバムって思ったよ。ちょうど大学生の頃でコピーもしたもんな。1990年に入ってからブルースギタリストになっちゃったからコピーなんてしなくなったけどね」
M君はいけしゃあしゃあと喋っている。
所詮こんなもんだ。でも、ルックスが嫌い(生理的に合わない)というマイナスポイントを覆すアルバム『ワイルド・フロンティア』はある意味凄いね。
『ワイルド・フロンティア』は急死してしまった親友フィル・ライノットに捧げられたアイリッシュハードロックの名盤。つまり、彼のアイリッシュとしての人生が凝縮したアルバムとも言える。そして、僕が高校時代から思っている後世に残るフレーズがこのアルバムにはたくさんある。
d0286848_11555830.jpg

d0286848_11562185.jpg
2013年1月18日
花形
[PR]
by yyra87gata | 2013-01-21 11:56 | 音楽コラム | Comments(2)
 年末の大掃除として、我がレコード棚を整理しているとつくづく偏った音楽嗜好と思う。自分としては何でも聴く雑食を自負していたつもりだったが、いざ目の前のレコード達を見ると全然揃っていないジャンルがあることに気づく。
 それは最近のJ-POPやK-POPといった類のものではなく、私が学生時代に聴いていた音楽についてである。
そもそもジャンルなんてものはレコード会社が作ったものなので、そこに左右される必要は全くないのだが、私の中にヘビメタと呼ばれる音楽が無いのである。
ま、ヘビメタという定義もよくわからない部分もあるのだが(古いミュージックライフなんて読んでいるとツェッペリンもヘビメタであると書いてある。1975年頃)、もう少し詳しく書くと、1980年代~のウルサイやつ・・・。
 私の高校の頃に流行っていたレインボー(日本ではヒットソングよりその頃は、北海道のコンサート圧死事件で有名になってしまった)、マイケル・シェンカー・グループ(マジソン・スクエアー・ガーデンと間違えてた)、スコーピオンズ(へぇ、ドイツ人もこんなウルサイの好むんだぁ・・・)、アイアンメイデン(ニール・マーレーって本当にいろんなところにいるね)。それからそれから・・・デフレパード、オジーオズボーン、ヴァンデンバーグ、ラット、モトリークルー・・・ちょっと書ききれないが、そういった類のバンドたちをまともに聞いていないのだ。もちろん、商業的に成功したものは聞いてはいるが、そもそも聞き込んではいない。
それは多分その曲が流行っていた時の私の状況等で十分左右されるものなのかもしれないが、最初から聴く気が無いといったことも事実である。
では、なぜ聴く気が起きないか・・・。
それは・・・音圧の問題。
 ディストーションを3つ位つなげ、せわしなくリフを繰り返すギター。口ずさめない超高速のリードソロ。ドコドコとバスドラを連打しながらクラッシュシンバルとトップシンバルが交互に鳴り響くドラム。シンセサイザーがきらびやかに装飾し、地を這うベースがギターのようにランニングしている。そしてその地鳴りする音の上を高音のヴォーカルが浮遊する。歌詞を理解しようとしても難解なギリシャ神話みたいな内容かSon of a bitchみたいなとてもお上品な内容かに分かれ、結局この激しいビートを通じて何が言いたいのかよくわからないという結論に達してしまうことが多いからなのだ。そしてその重厚な音圧が眠気を呼んでしまい、2分もすると眠くなってしまう。だから、聴き込むこともできず(しようともせず)、自然と聞き流してきてしまったのだ。
これは、メロコアやハードコア、デスメタル等も同様。また、言葉遊びにしか聞こえないラップも自分のテリトリーにはない音楽文化で、マイクを斜め上に持って叫ぶ若者を見ると・・・私の聴く音楽じゃねぇな、と思ってしまう。
 もちろん、人には嗜好があるので、フォーク?ふざけんな!ブルース?かったりぃ!という意見もあるだろう。だが、私はヘビメタを決して否定しているわけではない。れっきとした音楽文化であることは認めるし、それを愛好するファンも尊重する。ただ、私にはそれを理解するだけの時間を要することができないだけだ。
但し、こういうこともある。
 私の周りではヘビメタ好きの人が何人かいるが、彼らの演奏はそれはそれで面白い。自分の聞かない音楽を友達というフィルターによって聞くことができるので、なんだか親和性も生じる。

ありゃぁ~すごい速く弾けるのねぇ・・・とか、
高い声が出るのねぇ・・・なんて具合。
d0286848_18545657.jpg

 因みに私は1987年発表の『ホワイトスネイク(サーペンスアルバム)』は名盤だと思う。
あれは、ヘビメタというジャンルなんだろうか?どうなんだろう。
このアルバムは大学時代に聞いて、それからずっと聴き続けている。
デビッド・カヴァーデールの説得力のあるヴォーカル・・・ディープ・パープルでは出せなかった味だもんね。
イアン・ギランと比べられちゃってね・・・。
ま、日本人はコブシが回る文化だからデビカバの方が聞きやすいと思うんだけどね・・・。
ま、いいか。
で、ホワイトスネイクの『ホワイトスネイク(サーペンスアルバム)』はヘビメタなんだっけか?

2012年12月27日
花形
[PR]
by yyra87gata | 2012-12-27 18:55 | 音楽コラム | Comments(0)

アコギでNight ふぇす

 
d0286848_18304670.jpg
 12月である。
今年もいろいろな音楽人とめぐり逢い、楽しい時を過ごした。
振り返ると毎月定例ライブであった「御徒町F」は幹ちゃんの引越しという一大事業があったため5月で終了。今年はライブ数が少なくなるな、と思っていたがなんやかんやで11本なので、毎月1本やっていたことになる。
6月以降は新橋や四谷、新大久保に歌う場所を移し、活動。刺激的な音楽人がたくさんいて、充実したライブが多かった。

 40代も後半になると仕事以外で人との出会いは少なくなる。スポーツクラブやゴルフの打ちっぱなしなど定期的に赴く場所がある方は、そこで顔見知りになり、言葉を交わしていくということもあるかもしれないが、この歳で仕事の傍ら音楽活動をしているとライブ本数も限られるので中々その機会も増えない。ましてや音楽なんて嗜好の世界であるから「合う」か「合わない」かという問題もある。ま、そんなことを考えず気楽に話しかけられるようなおおらかな人であれば別だが、いかんせん自分にそのような素養は無く、一人遠くから人の話を眺めている(それも全然苦痛ではないのだが)ことが多いと出会いなんか中々ありゃしない。
しかし、今年出演したライブでの音楽人との出会いは多く、素晴らしいものであった。
やはり演奏する音楽のセンスは、その人の内面を描くというか音に出るというか。
特に新橋ZZで開催されている「アコギでNight」は秀逸である。
ハッシーさんとたかこさんがセレクトしたミュージシャンはそれぞれの色を持ち、1回あたり5組の濃い音が心地良い空間を作る。
 私は数十年と様々なイベントやライブに参加、観覧などをしているが、こんなに飽きさせないイベントは珍しい。加えてミュージシャンシップにのっとった演者とそれに呼応する観客の関係も素晴らしく、会場が自然と音楽を聞く態勢を取る。至極当たり前の事なのだが複数参加型の、しかもジャンルも違うミュージシャンのライブでこのように参加者全員を好意的に向き合うという事自体、稀有なことである。しかし毎回この「アコギでNight」はその雰囲気なのだ。
これもお二人のプロデュース力、といつもながらひれ伏してしまうのだ。

 先日の12/8。真珠湾攻撃から71年。ジョン・レノン暗殺から32年経った日。新宿Crawdaddyで「アコギでNight」フェスが開催された。
お二人の温めてきたミュージシャン達をみんなに紹介したいという気持ちから数多くの「アコギでNight」チルドレンが集まり、大騒ぎした。
演奏時間は6時間近くに及び、感嘆、感動、笑い、癒し、和み、苦笑、驚愕、騒乱・・・様々なシーンが飽きることなく続いた。素晴らしい時間だった。
私も僭越ながら参加させていただいたが、どこかウッドストックにでも出演しているような気分になり、いや、中津川フォークジャンボリー?いや、箱根アフロディーテ?いや、ワンステップ?いや、つま恋?・・・、もうやめよう。

 イベントをプロデュースすることは並大抵なことではない。「知力」「胆力」「体力」が備っていなければできるものではない。そして最重要な「人脈」が無ければただの御用聞きになってしまうリスクもある。プロデューサーは無の状態から絵を描ける人。そして、その素養をすべて備え持つハッシーさんとたかこさんにエールを送りつつ、来年もよろしくね、ということで「アコギでNight」の私見を偉そうに書いたが、あくまでも私見なので、文句があるならコメントしてくれ。時と場合によっちゃ・・・謝るから(爆)。

2012年12月11日
花形
[PR]
by yyra87gata | 2012-12-27 18:31 | 音楽コラム | Comments(0)