音楽雑文集


by yyra87gata

カテゴリ:その他( 13 )

ディアハンター

 映画「ディアハンター」(1978)を約35年ぶりに観る。
最近の友人の何気ない一言。
「ディアハンター」で、あいつ最期どうやって死んだんだっけ?自殺?という質問の意味。
その質問、実は私が高校時代に観た時もわからなかったのだ。だから、友人と最近話した会話の中でも曖昧となってしまった。
だから、もう一度観る。

 その質問に出てくる、「あいつ」とはクリストファー・ウォーケン演じるニックという青年。デ・ニーロ演じるマイケルとは反対の性格で理知的。メリル・ストリープ(リンダ)と結婚し、出征した。
ベトナムでの過酷な生活を乗り越え(?)、自陣に命からがら戻ったが、精神的に病み、実は乗り越えることはできていなかったのだ。
だから、マイケルは、退役軍人として故郷に帰ったが、ニックはベトナムに残り、捕虜中に精神負荷をかけられたはずのロシアンルーレットの賭け事に身を投じてしまったのだ。もうすでにその時点で彼は死んでいたと言ってもいいだろう。自殺でも他殺でもない。
しかし、このシーンのすごいところは、ニックは賭けで勝った金を故郷の女リンダに送っていたと言う唯一残された愛と言う感情があったと言う事。そして、マイケルがニックを連れ返そうと再びベトナムに戻ること…これは、愛より友情が勝ったという事。つまり、マイケルはニックの妻であるリンダに好意を寄せ、実際に帰還してから関係をもってしまうわけだが、それよりもニックの帰還を願い、ベトナムに戻る。
 このシーンを活かすため、作品の冒頭部分の長い1時間に彼らの人間群像を描いていたのだ。ともすれば、この部分はだらけてしまい、中々物語が前に進まない部分なのだが、この作品の中で非常に重要な部分であり、理知的なニック、猪突猛進型のマイケルの性格や行動をパーティーや鹿狩りを通じて描き、何の変哲もないピッツバーグの鉄鋼工場に勤める平凡な若者たちの生活を表現していたのだ。しかも過酷な労働の中にもそれぞれの青春があったのだ。しかし、戦争はすべてを変えてしまう。
命を落とさなかったとしても、精神が死んでしまう者もあるということ。
マイケルはベトナムから帰って来て、鹿狩りに再び行ったが、引き鉄を引けなくなっていた。
 そして、ニックは・・・。
せっかく捕虜の身分から助かった命をギャンブルという資本主義の社会悪で失うのだ。前述の鉄鋼工場。この時代のピッツバーグには多くのロシア系移民が労働従事していた。ニックもサイゴンの病院でロシア名を確認されるシーンがある。そのニックがロシアンルーレットで命を落とす…。無情である。
私はこの作品は、1970年代を代表する青春映画として推す。決して戦争映画ではない。

 
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 最後に音楽。
テーマ音楽はスタンリー・マイヤーズ作曲の「カヴァティーナ」で、ギターはジョン・ウィリアムズによるもの。
映画の過酷さとは反対で、静寂な中にも癒される楽曲である。当時のアメリカ映画の音楽はこのような傾向が強く、「タクシードライバー」「明日に向かって撃て」「俺たちに明日は無い」「ラストワルツ」など、作品内容とは逆の雰囲気を醸し出す音楽テーマソングがあり、それがより一層感情の振れ幅を増幅してくれる。
副テーマソングとして、フランキー・ヴァリが歌う「君の瞳に恋してる」。
私は1982年にボーイズ・タウン・ギャングがカバーヒットさせた時、非常に違和感を覚え、素直にラブソングとして受け止められなかった記憶がある。
そんな厚顔無恥に歌われてもなぁ、なんて思ったもので、歌に罪は無いが、これも全てベトナム戦争が悪いということにしておこう。

2014年10月13日
花形☀️
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by yyra87gata | 2014-10-13 10:35 | その他 | Comments(0)
 家に帰ると悪寒が走りました。そして、その夜から高熱が出てきたのです(知恵熱?)。38度を超える熱は、今まで勉強してきたものを全て消してしまうのではないかと思うくらい恐怖でした(って、そんなに勉強して無いじゃん!紙くずみたいなもんですよ)。翌日も1日ダウン。1次試験の発表すら見にいけませんでしたので、母親に頼みました。
私は熱にうなされながらも、部屋で吉田拓郎の「ローリング30」というアルバムを流しておりました。「白夜」という歌が始まりました。
“みんな、みんな・・・おわっちまった~”というなんとも不吉な歌です。
ちょうどその時に電話が鳴り、私はキャッ!と叫びました。
母親の弾んだ声で「番号あったよ」との声。私は、熱でうなされながらその言葉を聞いていました。
それからが大変です。2次試験は3日後。小論文と面接です。とにかく熱を下げなければなりません。
 私の家では代々熱を下げる方法は、とにかく汗をかくことだと教えられてきました。布団をうずたかく積み上げ、ジッとして汗を流します。このやり方は体力を相当失くすそうで、あまり良いとはいえないのかもしれませんが、布団ムシ状態の私にそんなことを考えている余裕などありませんでした。
 2次試験日前日、ようやく熱も下がりました。面接があるので何を着ていこうかと言う話になりました。現役生だったら学生服でいいかもしれませんが、20歳になった私に学生服は合いません。かといって東京モード学園のような服も持っていません。トックリのセーターにGパンじゃいかんだろう・・・(彼女の私の第一印象はこの格好が妙に印象に残っていて、浪人生というより学生運動でもしてそうな風貌だったようです。長髪に無精ひげ、灰色のトックリセーターとベルボトムジーンズ、それにサンダルでしたからね!)。
結局父親の「無難な服を着ろ」という一言で、チノパンに白いシャツとブレザーを羽織りました。

 小論文は、自分に酔っておりました。なんて名文なんだぁ、などと自画自賛する悪い癖が出ておりました。きっと今見たら恥ずかしい文章なのでしょうが、その時は勢いだけで書きなぐっていたので、解答用紙はきっとメラメラと燃えていたと思います。
 面接は、流石に緊張しました。
一人一人呼び出されるのですが、みんな何か野心がありそうで、日芸に入りたいオーラーが漂っていました。
私はってえと・・・面白い人がいそうだから入学したい、なんて口が裂けても言えません。何を言おうかなぁ、なんて思っているところで呼び出されました。

 当然、志望動機を聞かれました。
私は、それまでの音楽遍歴を語り始め、現状の音楽番組についての意見を述べ始めました。一番知識がある分野で話をしないとボロが出ると思ったからです。
最終的には音楽と政治と世界平和を訴えていた気がします。1969年のフラワームーブメントをもう一度見直すべきだと!(なんせ、アタシャ親公認のヒッピーをしてたかんね)イギリスはフォークランド紛争をしている場合ではない!ソ連のアフガニスタン侵攻を今すぐやめるべきだ!(戦争反対のプロテストソングが好きだったもんで)と言った記憶があります。もう、力説であります。なんのこっちゃ!
  面接をしてくれた教授に後から聞いた話ですが、私は放送学科じゃなくて政治の方に進んだほうがいいじゃないかと思ったそうです。ただ、学生運動をするんじゃないかとも思ったので、ここに入れておこうと思った、と笑いながら言っていました。隔離ですか!?

 放送学科の合格発表は、2月14日です。しかし、この発表日までに、当初の親との約束通り、日芸以外の大学の受験もしました。私は、放送学科の結果発表日までに受けられそうな大学を選択しました。つまり、放送学科以外眼中になかったということです。そんなわけで、法政大学社会学部と立正大学経済学部を受けました。この受験科目は、英語、国語、日本史です。日本史なんてほとんどやっておりませんでしたが、ノリで受験しました。私の得意とする勢いだけです。だって心は日芸だけだったわけですから。
加えて、放送学科の発表後の受験としては、日芸の最後の砦として、文芸学科も願書を出しておきました。(試験日が3月5日で、超遅かったんだよ)

 2月14日の発表は、母親が付いてくることになりました。私は一人で行きたかったのですが、2年も遊んだ挙句の受験だったわけで、親としてはもしかしたら合格の喜びが味わえるかもしれないと思ったようだったので、親孝行の意味で承諾しました。(受かっているかどうかわかんないのにね!)
 結果は合格でした。母親は、すぐに父親に電話をしろと私に命じましたので、親父の職場に電話をいれました。言葉は少なかったですが、安心した雰囲気だけは漂ってきました。
そして、「面接のときにブレザーを着ていったから受かったんだ。お前のいつもの変な格好じゃダメだったろうな。」とわけのわからんことを口走っていました。

 母親とは渋谷で別れ、彼女と合流しました。行きつけの飲み屋で祝い酒であります。ようやく大学生のカップルとなることができました。
さて、いつものように騒いでいると、同じ並びのカウンターで騒いでいる女性がいました。私が日芸に合格した旨をマスターに報告しているときに、その女性も反応しました。
「あ、私も今年から日芸で~す!えっ?放送学科ですか?私は音楽です!」
「いや~奇遇ですね・・・」
としばし盛り上がり、キャンパスで会えたらいいですね、などと社交辞令を言ってその場は終わりました。名前も伝えなかったんじゃないかな。
・・・その3ヵ月後、ふとしたきっかけでその女性が私の所属していたフォークソング倶楽部に入部して来ました。最初はお互いわからなかったのですが(顔なんて忘れてました)、話をしていくうちに、あれよあれよと記憶が蘇り、またまた乾杯してました。ね、みかりん(注)。
(注)みかりん・・・幹ちゃんの奥さん。

※※※※

 放送学科に合格してしまったので、もうあとは知りません。法政大学、立正大学ともに合格しましたが、関係ありません。もちろん日芸の文芸学科も受験しませんでした(受験料は還って来ないよ)。
 但し、記念受験として早稲田大学文学部だけは受けることにしました。もしも合格すれば、父親の仇も取れる(父親は落ちた経験あり)、などと思い受験に臨みました。
しかし、だめですな。緊張の糸は14日で切れてしまっており、グズグズな精神状態であります。一通りの受験勉強を続けておりましたが、集中することもできませんし、日芸のパンフレットかなんかを見てはニヤニヤしているやつに早稲田が微笑むわけが無いのです。
 早稲田のテストは難しかったというより、異常な量に圧倒されました。英語も国語もものすごいヴォリュームです。読んでいるだけで酔ってしまうようでした。特に英語の長文読解は、英字新聞を読んでいるようで、最後には笑いが出てきました。きっと私の周りに座っていた受験生は焦ったでしょうね。うすら笑いをしながら試験を受けているわけですから、余裕の受験生に見えたのではないでしょうか。実情はお手上げなのにね。
 
 模範解答が返ってくるわけでもないので、私はドロップアウトを決めました。
受かる見込みなんてまったく無いので、時間の無駄と判断したのであります。そそくさと試験会場を後にしました。離席した時も周りの受験生は焦ったでしょうね。“おっ!さっきまでニヤニヤ笑っていたやつ、もうできたのかよ!余裕で出ていっちまったぞ”なんて彼らの心の声が聞こえました。
 私は早稲田の街を散策し、学生街の食堂で飯を食い、早稲田の名画座で日活ロマンポルノを観て帰りました。私は早稲田の受験より、映画の方が勉強になりました。

 こうして、私の受験時代は終了し、日本大学芸術学部に入学することになったのです。
私の高校を卒業してから大学入学までの2年間は、振り返ってみると、とても楽しい日々でありました。長い人生の中であの2年間は、相当貴重な時間であります。ダラダラと過ごしながらもいろいろなことを考える時間もあり、不安定な精神状態を経験できたことも今となっては、良い思い出です。
勉強した実数は約1ヶ月だけでありまして、他はダラダラと過ごしておりましたが、そんな状態でも付き合ってくれていた彼女(家内)と、宙ぶらりんの状態を許してくれていた親には感謝しております。それから、あのとき一緒につるんでいた友達ともいまだに仲良しであります。お互いあの不安定な状態を経験しているので、今は偉そうな顔をしていたとしても、いつでもあの頃の関係に戻れるのであります。

 私は24歳まで学生をすることになるわけですが、これも非常に感慨深いものがありました。高校を卒業して働いている友達に24歳の時に会ったことがありますが、彼が一人前の大人に見えたものです。増してやこっちは何になるか良くわからない長髪の兄ちゃんでしたから・・・。

 私は自分の娘たちに、私のようなモラトリアムを持つべきだと押し付けはしません。しかし、流されて何かになることだけはやめて欲しいなぁと思います。自分の道を決めるのは自分であります。決められないときは、立ち止まってみるのもいいと思います。
受験というフィルターがあったからこそ、見えてきた事実もありますし、人生の波も経験できたかななんて思っている今日この頃です。
2月は受験シーズンです。悲喜交々いろいろなドラマがあるんでしょうね。

おわり

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by yyra87gata | 2013-02-07 13:53 | その他 | Comments(6)
 2月は受験シーズンです。この時期はなんだか胸が詰まるのであります。
別に意図はないのですが、最近音楽を聴いていないもんで音日記にならんので、昔書いた私の受験記を掲載します。
超恥ずかしいけど事実です。
それから、すんげ~長いです。飽きたら読むのやめてください。ではでは。

受験にまつわるどーでもいい話・・・1985年2月受験

 この時期になると、受験のことを思い出します。
古くは中学受験。2月1日はXディなのです。だから、今でも2月1日になるとちょっと意識したりなんかします。
でもって、大学受験のころの話。19の頃・・・。時は1983年です。
 私は高校時代、プラプラ遊んでいたから当然大学へのお誘いもまったくありませんでした。その結果、相変わらずプラプラしていました。一応予備校なるところへの所属も考え、代々木ゼミナールの門を叩いたこともあるのですが、一体自分は何をしに“大学”なるところに行くのかということを不真面目に考えていたので、ただ単に友達と一緒の行動を取っていただけでした。
しかし、その期間も2ヶ月と持たず、6月には単独行動を取っておりました。
つまり、街を徘徊していたのですな。
家は定時に出るのですが、朝日を浴びたら、後はその日の気分です。西に笑う声あれば西に向かい、東に泣く声あれば西に向かい、北に怒声が飛び交えば西に向かい・・・って全部西ばっかりじゃねぇか!
  図書館にいくこともあれば、楽器屋を回ることもある。1日映画館で過ごすこともあれば、友達と午前中から麻雀ってことを言いたかったのよ。そんで、渋谷の道玄坂に行けば、相変わらず1960年代を引きずった兄ちゃんや姐ちゃんが紫の煙にまみれてたむろっていたし、たまに勉強でもと思って優秀な予備校生(?)の友達のコネで駿台予備校の授業に出て、落ち込んでみたり・・・って、ホント自由でしたわ。
親が教師なので漠然と自分も教師になることが親孝行なのかな、などと思い、「教育学部」を受けたこともありましたが、その前に何を教えるんだ、ということで海の底くらい考え込んでしまい、海底のその下まで落ち込みましたです。はい。

 家内とは、この頃知り合っております。私の高校時代の友達と同じ予備校だった彼女は、予備校の帰りに高津図書館(もう無くなっちゃったんだよね。寂しい限りだよ)に寄って、勉強していました。
私は勉強というより、図書館の隣にあった児童会館で小学生相手に卓球をして遊んでいました。そして、たまに息抜きにやってくる友達や彼女とも卓球をするようになりました。
そのとき、思ったんですよ。
あ、「石田えり」がいる、って。
その当時の家内は、体型からなにから、石田えりそっくりだったんですよ。んでもって、私は石田えりのファンだったわけですよ。そりゃああんた、盛り上がりますわな・・・。

 彼女は、自由が丘の予備校に通っておりました。で、たまに代々木の方にも通っていたようです。私は予備校なんて通っていなかったので、よくわからなかったのですが、彼女と過ごすために予備校デートを計画(あーなんて屈折してるんだろう)。“代々木はオレの庭だ!”くらいの勢いで彼女を案内していました。今思うとアホやねぇ~。
 出会ったのが11月くらいでしたから、受験日まで4ヶ月くらいしかありません。こんな時にステディな関係になるわけでもなく、かといって友達というのか・・・非常に微妙な関係が続いておりました。
但し、息抜きと称して(彼女は息抜きだが、私は日常)映画を見に行った事がありました。
銀座のみゆき座で単館上映していた「遠雷」という作品です。永島敏行、石田えり主演の文芸作品で、かなりきわどいラブシーンもあるものです(監督がまだポルノ撮ってた頃の根岸吉太郎だかんね)。
私は高校時代にスクリーンに穴が開くほど観た作品でした。彼女に石田えりを知って欲しかっただけなのですが、ま、こういう映画が好きな男ということを伝えたかったのかもしれません。

 それから、彼女とは妙な関係が続いていました。一緒に過ごしたい一心で、大晦日から元旦にかけての「徹夜!日本史講座」(by渋谷ゼミナール)なんてのにも参加し、初日の出をサンシャイン60まで見に行ったこともありました(なにしてんだろ・・・)。
電車に乗れば、暗記問題のクイズを出し合うことも・・・嗚呼、浪人のカップルってイヤね・・・。ま、要は真面目なお付き合いをしてたわけですよ。
 
 2月は大学の受験が集中します。彼女は英文科志望。私は・・・これといった方向性も無いまま、適当に受けていました。だってよくわかんないんだもん。

 2月の後半、久しぶりに彼女に会いました。受験報告であります。
彼女は3校くらい受かっておりました。
私は0校。結果待ちが1校。
2人の間に非常に嫌な雰囲気が漂いました。彼女はこちらに気を使いながら話をします。私はそんなことも気にせず、彼女の好きなチューリップのコンサートのチケットを渡していました。“2月28日だったら、お互い笑ってコンサートに行ける” なんて言いながら、2ヶ月前に買ったものでした。
  コンサートは渋谷公会堂でした。開演前に公会堂の前で彼女とバドミントンをしていたら、偶然にも高校時代の友達数人に会いました。
みんな大学に受かったとのこと(1浪)。
みんな口を揃えて私に「お前、大丈夫?」「そんなことしている場合かよ。」と心配の言葉を出しつつも、アホを見るように言いました。
私は、えへらえへら笑っていました。


 浪人中にカップルになると必ず男は再度浪人するという定説どおりに、私の浪人2年目が決まりました。そしてその頃、今まで黙っていた親も、いい加減痺れを切らしたのか、家族会議の席で(3人で会議はないだろう)、母親が「あなたは何がやりたいの・・・」と切り出してきたのです。
 「僕って何」や「Mの世界」「漂流記1972」などの著者、三田誠広を読み漁っていた私は、自分の存在のあやふやさを痛感しておりました。自分の不甲斐なさ、中ぶらりん感を認識していても、この先どうなるんだろう?と、ある種第三者的な立場で自分を見ていたことも事実です。いきなり「何がやりたいか」と問われても答えようが無かったのですが、得意の屁理屈でこう言った記憶があります。
「大学へは何かを学びに行きたい。とりあえず経済学部とか法学部とか、“つぶし”の利くという表現の学部には行きたくない」格好よく聞こえるけれど、具体的でないのよね。
 私の父親は高校の国語の教師です。当然、大学は文学部国文科。もっとも“つぶし”の利かない学部だったので、心配もひとしおだったのです。
「就職を考えた場合は、“つぶし”が利くということは必要だぞ・・・」と父親。

 親の心配は富士山よりも高いのであります。自分と同じ苦しみを味あわせたくないという親心・・・その時は良くわかりませんでした。今、自分が親になって子供の進路を考えるとき、ちょっとだけわかるようになりましたが(ちょっとだけかよ)。

 私の頭の中には、実はある大学の名前がありました。本屋で立ち読みした“キャンパスなんとか”という雑誌に掲載されていた大学・・・日本大学芸術学部(日芸・・・なんでも略すなよ!)です。
 日芸の紹介欄を見ていたら、ワクワクした記憶があります。だって、映画・演劇・写真・音楽・放送・美術・文芸という学科があり、楽しそうな人たちが写真に写っていたからです。アカデミックな匂いはぜんぜんありませんが、なにか面白いことが学べそうな気がしたのです。でも本心は、面白そうな人たちがたくさんいそうな気がしたといったほうが正確かもしれません。
 
 親は私が「働く」と決めてしまうことをもっとも気にしていたようです。両親ともにキャンパスライフを経験している中で、子供が高卒で働くことは避けたかったのでしょう。しかし私の性格上、「いかない」と言ったらいかないのです。そのことも理解していたのだと思います。

 家族会議のどんよりとした雰囲気の中で、私は口を開きました。
「日芸なんてどうだろうか。音楽や美術は専門的なので受験できないけれど、放送や映画は実技試験も無いので受けられそうなんだけど・・・。」
あの時の親の顔は、忘れられません。父親は、えっ?という渋い顔。母親はあらっ?というちょっと明るい顔。対照的な2人の表情ですが、同じ言葉が返ってきました。
「将来何になるの?」
「そんなこと分かるかい!」とは言いませんでしたが、とりあえず、4年で決めるとだけ言いました。モラトリアムっちゅうやつですな。
父親は、高校の進路指導の経験上、就職のことが気になる様で、芸術学部なんて一番“つぶし”の利かない学部じゃないかと言わんばかりでした。

 あれこれ話した結果、以下のことが決まりました。
・ 来年の受験が最後。
・ 日芸を受験することは了承したが、その代わり、滑り止めとして一般の学部(経済か法学)を受験すること。

 それから私は、そのことを彼女に告げました。彼女は大学生、僕は浪人生。世間的には非常に不釣合いでありまして、まぁ、別れるのかなぁなどとうっすらと思っていた矢先、彼女は自分の使っていた参考書類を持ってきて、“待っているから”というようなことを言いました。私はそれを素直に受け取り、受験勉強に真剣に取り組んだのでありました。

※※
 人間、目標を持つと非常に活き活きとするものでして、私は受験勉強なるものに真剣に取り組み始めました(遅いって!)。1984年の3月は、誰とも会わず部屋に篭りました。彼女から渡されたテキストを1ヶ月でやりきってしまう暴挙に出たのであります。
食事と風呂以外は部屋から出ませんでした。もちろん、音楽やラジオなど聴く事も無く、ひたすら机に向かっておりました。
2週間を過ぎたあたりで、壁に向かって話しかけた時は自分でもびっくりしたものです。生涯で一番勉強した月だと思います。
 日芸の受験科目は国語・英語・小論文(または実技)・面接です。
つまり、語学系さえしっかりやっておけば良いのです。私は、小論文なるものの書き方が良くわからなかったので、代々木ゼミナールの「小論文コース」という科目だけ受講することにしました。講師は「何でも見てやろう」の著作で有名な小田実先生でした。
それは非常に面白い授業で、30分で与えられたテーマについて小論文を書き、小田先生がその場で添削してくれるのです。論文の基礎も書き方もわからなかった私は、先生の言われるまま文章を構成し、最初はほとんど先生の文の写経のようでした。
先生は、こう言いました。
「最近、若い人の中では、日記をつける習慣が減っているように思います。“自分の行動”や“思い”を文に綴るだけでも勉強になるものです。そして、それを誰かに見てもらえれば、それが一番の上達になるでしょう。」
私はピーンときました。そして、彼女と交換日記を開始したのです。すっぺぇ~!
ノートを2冊用意し、お互いに持ちます。会ったときにそれを交換します。すると、ノートを持っていないときのタイムラグが無くなるので、常に書くことになるのであります。
 日常の風景やテーマを決めて、私はそのノートに書き込んでいきました。小論文の勉強になることと、彼女とのつながりが図れることで一石二鳥でありました。
 交換した日記を見ると、彼女の楽しそうなキャンパスライフが綴られております。体育会のバドミントン部に入部した話や高校と違って自由な分、責任が重いというようなことがノートに書かれていました。それに引き換え私は、家にずっといるわけですから生活にあまり変化が無いのです。自分でテーマを決めて書きなぐっていたと思います。
 彼女と会い、ノートを交換すると、私の記した場所に赤いペンで添削したあとが・・・。そうです、彼女は私の誤字脱字や、意味がわからないところを赤ペンで添削していたのです。同じ字ばっかり間違えていたり、主語が無く、とっちらかった文章をわかりやすく直していました。・・・そんな交換日記あるかよ!

 最初のターゲットは4月の半ばに予定されている全国模試です。この模試は、現状の自分の実力を知り、志望校への合格率を確認するのであります。
ここで、私は彼女とある約束を取り交わしました。もし、英語の偏差値が60以上だったら1日デートするというもの。このデートにはいろいろな意味が含まれておりまして、それは皆様の助平なご想像にお任せしますが、はっきり言えることは、この時まで私たちは健全にお付き合いしていたという事実だけがあります。
変な約束ですが本人は必死です。彼女も「まぁ、いきなり60はねぇ~」なんて思っていたのだと思います。

 ところが、結果は国語65。小論文58。英語64。日本史59。という結果。
志望校の合格予想も日芸は90%以上の当確。記念で書いた早稲田大学文学部も70%と好結果。ええっ?私はいきなり頭が良くなったのか!と思ったものでした。
 彼女にすぐ結果を伝えると、拍子抜けしてしまい、何で3ヶ月早くこの結果が出ないのかと言われる始末。
そんなこんなで白けてしまい、デートは取りやめました。
次なる目標は、もう翌年の大学合格だけであります。

※※※
 当時、彼女との接触は電話だけです(当たり前だよ!電報なんてあるかよ!)。
当時は携帯電話なんてありませんから、直接家に電話をかけます。
そして必ずと言っていいほど、彼女のお母さんが出ます。身分の無い私は、苗字だけを告げます。そうです、この時に“●●大学の花形ですっ。”なんて言えたら格好良いんだろうなぁなどと思ったものです。
彼女のお母さんは、この正体不明の男をどう思っていたんでしょう。
 夏も過ぎ、秋、そして冬。相変わらず、模試の結果は良好でしたが、勉強をしていたか、というとこれが全然しなくなっていたのです。近所の中学からの友達といつもつるんで喫茶店にいるか、家で麻雀にあけくれていました。
そうなんです。私の家には人がいなかったのです。父親は勤めに出ておりますし、母親は毎朝9時ごろそそくさと外に出て行ってしまい、夜まで帰ってきませんでした。
 後日、あの時何をしていたのかを母親に聞いたところ、浪人生と毎日同じ空間にいたらお互いに気が滅入ってしまうから、パチンコをしに行っていた、と言っておりました。子供に気を使わせない親心だったようですが、私はそんなこともつゆ知らず、遊びほうけていたのです。この図式を俯瞰から見ると私は友達と麻雀、母親はパチンコ。・・・とうちゃんゴメンね、といったところです。
でも母親の腕前は相当なものだったようで、損をしなかったと言っていた記憶があります。
そういえばあの頃の母親は、妙に羽振りが良かったですな。

 そして1985年の2月。日芸の受験です。
放送学科は日芸の中で一番早い受験日です。2月3日の筆記試験。2月5日には結果が出て、合格すれば、2次試験が2月8日。結果は2月14日だった気がします。
 私は、試験日にびっくりしました。試験会場での人の多さ。あんなに小さいキャンパスなのに人があふれかえっているのです。江古田という学生街が初詣状態です。
 日芸は倍率だけは高いことで有名です。(後に赤本(受験参考書)で調べたら、私の受験の時の放送学科の倍率は54倍だったようです)
 でも、偏差値をみてもたいしたこと無い学科なので、馬鹿がいっぱい受けてるんだろうな、などと思っていました。そうです、私の悪い癖で“タカをくくって”いたのであります。
そういえば、周りを見ると奇抜なファッションをした輩が多い。東京モード学園の学校説明会にいる雰囲気になりそうでした。

 筆記試験は笑いが出るくらいスラスラとできたのです。英語の長文は大好きなジョージ・オーウェルの「アニマル・ファーム」が出て、英語を左から右に日本語のように読めましたし、国語についても苦手だった漢文にこれまた好きな李白の峨眉山月が出たんですよ。これはもう大ラッキーでした。だって、「峨眉山月半輪の秋、影は平羌江の水に入りて流る・・・」ってスラスラいえる漢詩だったわけですよ。これはもう天は私に味方していると思いましたわ。
試験会場を出て、一緒に受験した友達と会ったとき、人の流れの中で「簡単だったな!楽勝楽勝!」なんて言ったら、周りにいた髪を尖らせたオニイチャンたちから睨まれてしまいました。
そしてその後、浮かれていた私を悲劇が襲うのです。

つづく
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by yyra87gata | 2013-02-07 13:50 | その他 | Comments(0)

ディズニーでバイト!

 
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 東京ディズニーランドが今年30周年だそうで・・・。そこで私のディズニーでのアルバイト体験を書いてみようと思います。学生時代の話なので時効の部分もありますし、これは、以前書いた雑文なのでちょっと稚拙な表現もありますが、ご勘弁。

 私の大学時代、ロン毛の兄ちゃんは肉体労働系のアルバイトしかありませんでした。
かく言う私もごまかしながら勤めてきたコンビニのアルバイトは、ロン毛のため辞めることになりました。そして、肉体労働のアルバイトや投薬のアルバイトなど体にムチを打ちながら小銭を稼いでいた時、ある先輩に声をかけられました。いい稼ぎのバイトの話。その金額を聞くと時給換算で肉体労働の1.5倍から2倍の金額でした。・・・しかしその時先輩は、バイト内容を教えてくれませんでした。私はちょっとだけ悩みましたが、ギターも買ったばかりだったので、即答しました。
その先輩は、暴力的でもないし、助平な人でもない、増してや裏の世界に通じていそうも無かったのでバイトもきっとチョロイもんだと判断したのです。そして即行動となりました。
連れて行かれた場所は何の変哲もない事務所でした。雑然とデスクが並び、銅線や妙なスイッチボックスが転がっていました。事務所の脇には「火気厳禁」と書かれたダンボール箱が積み上げられています。なにやら怪しい雰囲気。

 その事務所には若い兄ちゃんばかりがたむろっています。腕に刺青を入れた丸坊主の人もいました。
そして、一番年長で一番体のでかい人が、周りを見渡してから話し始めました。
「●●くんは山梨の工場でブツもらってきて。」
「○○くんは××さんと一緒に△△△の石切り場に仕掛けに行ってきて。失敗しないようにね。一発でぶっとばさなきゃだめだよ。」
「■■くんは今日連れてきてくれた彼(私のこと)と一緒にオレに付いて来て。ディズニーに行こう。」
私はちんぷんかんぷんになりながら、先輩と一緒にでかい人の車(ジープ)に乗り込みました。

 でかい人が話しかけてきますが、ジープのうるさい音で何を言っているかわかりません。しかも独りで話して独りで笑ってしまうので、こちらも引きつって笑うしかありません。
ジープは浦安出口を下り、ディズニーランドに入っていきます。男3人、ディズニーランドで何するんだ・・・と思っていたら。裏口から入って、東京ディズニーランドを経営するオリエンタルランドという会社に到着しました。
そこで、先方の企画部の人とショーの打ち合わせが始まりました。
私は、ディズニーで働くのか?

 ショーの打ち合わせを聞いていると、謎が解けました。私は仕掛け花火を操作するアルバイトをするのであります。
先ほどの事務所は、花火屋さんであります。
その花火屋は何代も続く老舗の花火屋で、いろいろな場所で活躍していることも後で聞かされました。
夏の花火大会はもちろん世界中の花火大会に出場しており、変わったところでは「とんねるずのみなさんのおかげです」での仮面ノリダーのロケ(爆発ものが多い)やディズニーランドの打ち上げ花火やアトラクションで使用する仕掛け花火も請け負っているとのこと。
花火のバイト・・・そりゃ危険ですから時給が高いのも当然であります。
しかし、話を聞いていると昔ながらの火を導火線に点けるというような花火ではなく、仕掛け花火でも爆発する玉でもすべて銅線を引いて電気スイッチで点火していくものであります。だから、曲に合わせてタイミングをみて点火することができるのであります。
効果としての花火は、音楽や演劇台本と一体となっていますので、ただボタンを押せばいいというものではありません。音やライティングとのタイミングもあるので、けっこうコツがいるものです。
 私は、シンデレラ城前の広場で行なわれるミッキーマウスショーの仕掛け花火の担当になりました。
先輩とでかい人は毎夜8時くらいから打ち上げている定例の打ち上げ花火係になりました。
 楽譜や台本を見てスイッチングをするのであれば、まぁ慣れれば大丈夫かな、なんて思っていましたら、オリエンタルランドの方がにっこり笑って、
「ディズニーランドで働くのであれば、均一に研修を受けていただきます。もちろんユニフォームもお貸しいたしますので、●月●日の研修にご参加ください。」
先輩の方を見ると「俺たちはもう受けているから、がんばれな。」

 後日、研修会場に入ってびっくりしました。みんなディズニーランドで働くことに前向きで、目をキラキラ輝かせているからです。私のような仕方なくやってきた、という人はいなかったのでは・・・。
 研修は、ディズニーの哲学や接客に関するイロハをロープレ形式で行いました。笑顔の練習、発声練習など非常に実践的におこなわれたので、その後私が社会人になってからも役立つことがありました。
休憩時間中、いろいろな方が話しかけてきます。みんな社交的だなぁと思いましたが、きっと私が浮いていたから興味本位に声をかけただけかもしれません。だって他の男子と比べ明らかに薄汚いし、やる気はないし・・・。
彼らの話を聞いていると、働く場所で時給は違うようで、仕事内容と見合っていなくてもディズニーで働けるからガマン、なんてこともあるようです。
私もどこで働くのかとか、いくらもらえるのか、なんてことを聞かれましたが、適当にはぐらかしていました。だって、私はオリエンタルランドから金をもらうのではなく、花火屋さんから頂くからであります。正直言って彼らの時給の倍以上あったので、そんなこと言ったらマズイ雰囲気になるかな、と思ったのです。

 さて、バイトです。
ショーは1日3回。そのうちの2回を私が担当することになりました。授業を終え、西武池袋線、JR、東西線と乗りついで、浦安まで。浦安からバスです。ホント、京葉線舞浜駅なんて無かったから、とても遠かった印象があります。また、帰りも海からの吹きっさらしの風の中でバスを待つわけですが、ディズニーランドが閉園した後なので誰も歩いておらず、閑散としていてとても寂しい。しかも「オリエンタルランド前」なんてバス停から乗る人なんてその時間には誰もおらんのです。
そんな行き来をかなり続けました。
 肝心の花火ですが、これがまたタイトスケジュールなのであります。
1回目のステージの仕込み時間はそこそこあり、順序どおり仕掛けていけば15分くらいで終わります。
しかし2回目のステージのための仕込みは、舞台で直前まで他のアトラクションがあるので、インターバルが約20分しかありません。だから、メチャクチャせわしないのです。
 仕込みは舞台の下にもぐりこみ、懐中電灯をたよりに火薬と銅線を這わせていきます。火薬の種類と銅線の配線を間違えるとショーがメチャクチャになるので慎重であります。また、大仕掛けの花火もあり、天に伸びるポールの先にマグネシウムの花火をくくりつけることも忘れてはいけません。
もう、慌てふためきながらセッティングを終了すると、すぐにアトラクションが始まるなんてこともザラでした。
本番は、タイミングを見ながらスィッチングです。カチッという音とともにバーンと火花が光ります。お客さんは(ディズニー用語ではゲスト)、ヒャーとかウォーとか反応しながらミッキーに見入ります。
フィニッシュは、ミッキーが剣を高く上げるとき、後ろにあるオブジェのポールが5mくらい火花を散らしながらせり上がっていきます。火花が飛び散りながら、勇壮なミッキーがポーズをつけて終了であります。お客さんが退散したところを見計らって、仕掛けた花火の処理(水をかけたり、くず拾いをしたり)をしてバイトは終了です。
 くたくたになりながら歩いていると、よくお客さんに声をかけられます。
道案内からカメラのシャッターを押すことまで、なんでも笑顔で対応しなければなりません。たまに迷子に遭遇すると、重たい花火の荷物を持ちながら迷子センターまで一緒に行くことになります。子供は泣いていて、ミッキーのシールぐらいでは泣き止んでくれません。私は重くて泣きたいし・・・。

 花火のバイトは、その後もしばらくやっておりました。
そういえば、ディズニーランドの12月31日深夜のカウントダウンイベントの花火も打ち上げたことがあります。
12月30日の夜にリハーサルを行います。流石に真夜中に打ち上げることはしませんが、セッティングから撤収まで実際の流れを行なうのですが、その時にある事件が起きました。
ちょうどその年は昭和天皇のお体の具合が悪いということで世間的にすべてが自粛ムード。ディズニーランドも打ち上げ花火は取りやめとなりましたが、とてつもなくでかい「ナイアガラ花火」を仕掛けることになりました。それはシンデレラ城を中心として左右に20mくらい花火の滝が落ちるものです。
12月30日23時59分。カウントダウンのリハが始まりました。
私と先輩は「ナイアガラ花火」の近くで待機しておりました。
3、2、1という声とともに点火です。本番と同様にタイミングを合わせ点火。ザーッという音ともにナイアガラの滝のような七色の火花が一直線に伸びます。
シンデレラ城が七色に輝き幻想的な美しさでありました。みんな拍手をして盛り上がっています。
すると誰かが叫びました。
「火が!城に!」
よく見ると、飛び散った火花がシンデレラ城のお堀の下に位置する壁に燃え移り、くすぶっていました。
「消火器!水!消防車!」 怒号が飛び、一時は騒然としました。
するとすぐにカンカンカンと音を鳴らした赤い消防車が到着。でもその消防車はディズニーランドに設置されたもので、鐘を鳴らしているのはミッキーの人形ですし、妙にクラシカルな消防車だったのです。こんなんで消せるのか?なんて思っていたらシュバーッという音ともに勢いよく放水を始めました。そして、すぐに火は消えました。
ディズニーの人たちと花火屋さんの偉いさんがいろいろと討議しておりましたが、バイトの私たちはミッキーの消防車をガチャガチャいじっておりました。これが妙に可愛いのであります。

 翌日、本番。夕方ごろディズニーランドに入ると、昨日のボヤ騒ぎはどこ吹く風。城もきっちりと修復されておりました。さすがぁ~。
カップルや家族連れが楽しむ中、我々は黙々と仕込みを行ない、昨日の反省点を想起しながら本番を迎えました。
そしてカウントダウン。
シンデレラ城から流れる花火の滝が幻想的に映えます。
何事も無く花火は終了しました。

 花火のバイトは、ディズニーランドで約1年間やりました。
アトラクションの仕掛け花火がメインでしたが、たまにやる打ち上げは気持ち良かったですね。
 それからディズニーランドでバイトしたことで覚えていることは、食事が美味しかったことです。
スタッフ専用の休憩所が園内に3箇所くらいあり、そこで食べることができる食事が美味しかったです。これを園内で販売したら3倍から4倍の値段を取られるのではないか、というくらい安かったですし・・・。
そういった意味でも、本当にスタッフに対してもサービスが行き届いた立派な施設だと思います。
 その休憩所では、いろいろな光景にも出くわしました。ショーダンサーが夢を語りながらパスタを食べていたり、パレード直前のダンサーはダンスの振り付けを最後までチェックしていたり・・・。中には上手くダンスが踊れず悔し涙を流しながら笑顔を作って練習をしている人もいて、ミュージカル映画さながらの光景でありました。そういった前向きな光線がいっぱい出ている人たちだからこそ、人を楽しませることができるのでしょうね。
私にとってけっこう良い思い出のアルバイトでした。

 ディズニーランドに遊びに行くとそういったスタッフたちの目線で彼らのもてなしを見てしまうこともあるので、楽しいこともさることながら、暖かい目で見てしまう自分もいます。
最高のサービスを提供する夢の世界ですな。

おわり (2008年の記述)

2013年1月4日
花形
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by yyra87gata | 2013-01-04 12:04 | その他 | Comments(0)

FM放送ってさぁ・・・

 
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 J-WAVEって今年で開局20周年だそうです。
そんで、20周年を記念して3日間の音楽イベントが代々木第一体育館で開催されるそうです。たまたまラジオで聞いたんですけどね・・・。
あ、そういえば、アタシが大学の頃、首都圏ではFM放送局の開局ラッシュだったのです。
アタシは小学生の頃からラジオ小僧だったので、ここらへんの記憶は確かです。
アタシがラジオを聞き始めた小学校高学年の頃、FM放送は首都圏で2つしかありませんでした。(FM-NHKとFM東京)
FMは、常にいい音で音楽を流しているという印象でした。ただそれだけです。ジュークボックスみたいなものという認識でした。だから私の中でラジオといえばAM放送になります。これは今でも変わりません。FMっつうのは、どうもとっつきにくいのであります。でも、そうは言っても、FMを全然聴かなかったわけではありません。音楽番組といえばFM放送でありました。その当時のFM放送は、ただ単にCDをかけるだけの今のそれではなく、当時は、よくライブ放送をオンエアしておりましたです。だから聴いていたのです。それこそ、外タレが来日すると必ず特集が組まれ、日本公演をオンエアしておりました。そしてそれをアタシは、エアチェックしまくっていました。当時は「週刊FM」とか「FMレコパル」とかFM専門誌も数多く発刊されていたように思います。だからまずはそこでオンエアする放送を確認してから、テープをしこたま買ってきてRECボタンに指を乗せて待っていたものです。
 しかし、いつからかFM放送でのライブのオンエアが少なくなってきたのです。噂によると著作権の問題だとか・・・。つまりオンエアされた音源で海賊盤を作る業者が増え、アーティストの権利が守られなくなった、ということを聞いたことがあります。残念なことです。そういうわけで、ライブ音源のオンエアされないFMラジオなんてちっとも面白くないのです。私のFM放送への興味は波平さんの頭髪のように薄れていきました。1980年代後半の頃だったと思います。加えて、当時のFMのパーソナリティーに全然魅力を感じなかったことも事実です。但し、例外としてFM-NHKの《サウンドストリート》は別です。あれは良かった!パーソナリティーが音楽に詳しい評論家やミュージシャンだったから聴いていて参考になったのです(佐野元春、坂本龍一、甲斐よしひろ、渋谷陽一)。
そうだ!ラジオはパーソナリテイーに大きく依存しているのです。だから《オールナイトニッポン》や《セイ!ヤング》は面白かったのですよ!
 アタシのFM離れが決定的になったのは、冒頭のJ-WAVEの出現によるものでした。(開局1988年)
開局は私の大学時代。80年代の軽~い時代にこの放送局は出現しました。J-WAVEの開局はとてもユニークな放送局として取り上げられていました。日本の歌はほとんどかからなく、演歌なんて絶対流さない。パーソナリティーはみんな英語をしゃべる。常に音楽を流して、生活のBGMとして成立するような放送内容だった気がします。DJをナビゲーターと呼んでいたのも気に入りませんでした。「この番組の提供は・・・」という言葉もすべて「This program is (was)brought you by ○○」という言い方。アメリカの地方FM局みたいだったっすよ。
アタシは、AM人間だったのでこの感覚が理解できなかったですね。

 でも、最近はJ-WAVE自体の方針も変わったようで(不況によりスポンサー離れから柔軟な放送内容になったとも言われている)、AMに近いノリのパーソナリティーが増えてきております。
毎日夕方から3時間半オンエアしている《グルーヴライン》はまさにAMのノリです。だから、聴いていて飽きないっす。
ピストン西沢と秀島文香の掛け合いは聞いていてアホらしいけど、面白い。全然ためにならないけど・・・。

 そうは言っても、現状、FM放送って《グルーブライン》か 山下達郎の《サンデー・ソングブック》ぐらいしか聴かないんだけど、その要因ってやっぱりFM放送への違和感なんだろうね。
アタシが一番に感じるのは、あのBGMね。
常に小さくBGMが流れているでしょ・・・あれ、うるさいね。
AMじゃ考えられない。
なんでも、受信がクリアすぎるので何か音を流していないと場が持たない、というようなことを言ってたFMのアナウンサーがいたけど、要は喋りが出来ないってことでしょ。
AM放送・パーソナリティーの王者、吉田拓郎がFM放送でパーソナリティーをやったことがあったけど(TOKYO FM)、BGMなんか流さずにまくし立てるように喋ってましたよ。
「おーっ、ステレオだー!今、右から左に走るからね。行くよ!おーーーーい!動いた?
声が右から左に流れた?おーっ!FMだよ~!」
そんな放送でしたが・・・。ぐすん。

 FM放送は確かに音がいいので、音楽を聴くには最適だと思います。でもそれだけって感じかな。要はラジオなんて私にとってパーソナリティーありきなんだよね。

2008年6月25日
花形
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by yyra87gata | 2012-12-26 14:17 | その他 | Comments(0)

NHK-FMによせて

 
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 先日“NHK-FMが無くなるかもしれない”という記事が新聞に掲載されていた。FM局も乱立し、放送の多様化も認められたのでNHKとしてはNHK-FMの果たす役割を全うしたというのが、主旨のようだ。なんでも、電波の整理をするということらしいのだが、なぜいきなりNHK-FMなのだろうか。NHKは受信料問題も片付いていないのに、諮問機関を通じて決定したい、などと寝ぼけたことを言っている。
結局この問題は、関係各署から意見、抗議などが飛び交い、計画から外されたようだ。が、NHK-FMが担ってきた役割が何も理解されていないと思うと、諮問機関の先生方は何を判断基準にしていたのだろうかと疑念を抱いてしまう。
合理性を追求するあまり、いつも少数派の文化は犠牲となる。FM局が多く開局することは良いことかもしれないが、彼らはスポンサーあっての局なわけで、マスに訴える内容になりがちだ。ヒット曲を流し、若者向けの内容が主となる。そこにラテン音楽や演歌、果ては落語などといった伝統芸能がオンエアされることはまず無い。
NHKは公共性を重視し、またその重責を担う必要もある局なのだ。そのための国営放送なのではないだろうか。
 ラジオで育ってきた僕は、NHK-FMが無くなるなんて想像がつかない。もし無くなるのであれば、これは文化の喪失といっても過言ではない。
そしてもし今後、NHK-FMを無くすことが検討されるのであれば、諮問委員会に僕を入れていただきたい。ガツンと言ってやる!
「頼むから無くさないで・・・」

2006年6月29日
花形
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by yyra87gata | 2012-12-22 20:23 | その他 | Comments(0)

渋谷

 
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 人間の行動パターンはそんなに簡単に変わるものではない。朝パソコンに向かうとき、インターネットで必ずチェックする“お気にいり”が数個あって、それらを閲覧しないと1日が始まった気にならない。これは習慣みたいなもので、これをしないとリズムが狂うというやつだ。
リズムといえば、僕には以前渋谷に行くと必ず取っていたルートがあった。それは1人の時も友達といる時も、デートの時でさえも、そのルートを通らないと渋谷に来た気がしなかった。駅から公園通りを上り、中古レコード屋の“ハンター”をチェック。その後、パルコ方面に降り、ハンズの前のレコファンとシスコレコードで中古盤や外盤をチェック。目当てのものが無い時は、そのまま、タワーレコードでめぼしい盤を探す。ある程度戦利品を得たときは、そのまま道玄坂のBYGか、OHWADAのサンドイッチを食べに行く。これがパターンだった。もちろん、途中途中でイシバシ楽器のビンテージ館などに立寄り、オールドのレスポールなんかを見ながらため息をついていたこともあった。

 僕が渋谷に通い始めたのは小学5年生からだ(1975)。その頃は半蔵門線も通ってなく、田園都市線と東横線を乗り継ぎ渋谷に出ていた。第一の目的は映画だった。気の利いた映画は、渋谷か新宿、日比谷が相場だったから、家から一番近い渋谷が選択されたのは自然の流れだった。
中学に上がると(1977)、ドラムをやり始めたことも手伝って、ヤマハ渋谷本店が映画の後にメニューに加わった。ドラムを試奏できるコーナーがあったので、そこでへたくそなリズムを刻んで悦に入っていた。渋谷は、まだ文化村(1989年オープン)も109も無く(1979年オープン)、西武デパートやLOFTも無かった。東急文化会館と五島プラネタリウムがぽつんとあった記憶がある。道玄坂から宮益坂にかけて町並みがスッキリしており、メインストリートから1本奥に入った道筋、例えば、東急プラザの裏や百軒飲み屋街の地区は闇市のなごりがたくさんあり、おしゃれな女の子が歩く今では考えられない場所だった。
高校生になると(1980)、僕のメニューにデートコースが加わる。今まで歩いたことも無いブティック街やパルコに緊張しながら入ったのもこの頃だ。ファイアー通りが脚光を浴び始めていた。また、ライブハウスに初めて入ったのも彼女と一緒だった。今ではなくなってしまった小屋もたくさんあり、“ジャンジャン”“屋根裏”“LIVE INN”などがよく行ったライブハウスだ。酒やタバコはつきものの席に高校生が入っていることは当時としては奇異の目で見られたが、そんなの気にしちゃいなかった。
それから時代錯誤も甚だしい人たちとの交流があり、道玄坂にたむろするヒップな人たちと過ごした店は紙面では書けないようなことが日常的に行なわれていた。

 僕が大学に入る頃(1985)は、渋谷はだんだん昔の面影が薄れ、後に109パート2も建てられた(1987年オープン)。当時の渋谷駅前の風景は三千里薬局の赤い看板が大きく目立っていたが、今ではでかいビルに囲まれた本当の谷になってしまった。ハチ公の場所が移動され、モヤイ像が建てられ、みんなの集合場所が分散したのもこの頃だ。僕は高校時代に伊豆七島にキャンプに行ったことがあったので、モヤイには馴染があったから、もっぱら出来たばかりのモヤイ像が待ち合わせの場所だった。そして彼女とは、裏通りの“ナカヤ無限堂”のようなインド雑貨を覗いたり、代々木公園でお昼寝したり、のんびりとしたデートコースが昔の渋谷にはあった。もちろん歩き疲れると円山町の奥に行けば休む場所はたくさんあった。
今、渋谷の街を歩くとカラオケ屋とゲームセンターが乱立し、ホストのようないでたちのスカウトマンが、獲物を狙う怖い街になっている。娘を持つ親としては非常に心配な街である。しかし、当時の僕達を当時の大人達がどういう目で見ていたのだろうか。難しい問題だが、自己完結型の悪さ(?)はあったかもしれないけれど、少なくとも人を陥れるような悪さはしていなかった気がする。ちなみに僕は、渋谷の交差点で警官に職務質問をされたことがある。そのときのいでたちは、まさにヒッピーで、薬の売人かと思われたようだ。
渋谷は僕が社会人になった1990年あたりから本当に治安が悪くなった。今では聞かなくなったが、“チーマー”とか“ギャング”とか物騒な人たちがセンター街にいて、トラブルの多い街になっていた。僕は社会人になり、移動手段に車の頻度が高くなってきたこともあり、渋谷から遠ざかるようになっていった。

 いつの間にか“ハンター”は無くなり、OHWADAのサンドイッチもなくなっていた。
それでも、渋谷あたりで飲むと、BYGに寄ることは変わらない。酔っ払って道玄坂を上り、細い路地に入るとBYGの看板が浮かび上がる。左手にカレーのムルギーを確認し、“まだここもつぶれてない”と安心する。BYGの古ぼけた椅子に座り大音量の音楽に包まれる。ザ・バンドの“ラストワルツ”のポスターとニール・ヤングのポスターが20年前と同じ位置で迎えてくれる。しかし、だ。BGMが変わっていた。ブリテッシュ・ロックがかかっているじゃないか。ここはアメリカン・ミュージックしかかからなかったのに・・・。こんなところでも、時代が変わったのだな。

2005年12月26日
花形
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by yyra87gata | 2012-12-17 16:32 | その他 | Comments(0)
 「水の無いプール」「10階のモスキート」「コミック雑誌なんかいらない」「餌食」「嗚呼!おんなたち 猥歌」など人間の狂気を演じ、独特な地位を築いているアーティストがいる。助演作品でも「ブラックレイン」や「魚からダイオキシン!!」「エロティックな関係」など個性派俳優としても有名だ。内田裕也その人である。

  もともとはロカビリーシンガーであり、タイガース(沢田研二)を発掘したが、日本の芸能界のシステムやGSの歌謡曲っぽい世界に嫌気がさし、外に飛び出してしまった。想いはひとつ「R&R」である。
日本にR&Rを根付かせる為に奔走したロック界の重鎮である。30年前の日本にはロックという文化は無かった。当然、アーティストは単独公演など出来るわけが無く、ロックフェスティバルと称して日比谷野外音楽堂や日劇のステージを使用しながら細々とライヴは行われていた。もちろん、そのプロデュースをほとんど手がけてきたのが裕也である。大々的なもので言えば、1974年に小野ヨーコを呼んで福島・郡山で「ワン・ステップ・フェスティバル」を主催したり、1976年にフランク・ザッパの公演をプロデュースしたり・・・。年末恒例の「浅草ロックフェス」も32年続いている。

 強面の内田裕也に不釣合いな美女がいる。「国際女優」という形容をされる島田陽子である。70年代の青春ドラマのスターで、清純派で通っていた人であるが、内田裕也との共演作「花園の迷宮」あたりから不思議キャラの女優になってしまった。お姫様女優という認識がいつの間にかダーティーなイメージになった。
その2人が目の前にいる。

 僕は大学を卒業して、アメリカの自動車メーカー販売に就職した。1年目は販売店に出向する決まりがあり、実際にエンドユーザーに車を販売する「販売研修」を行う。新入社員は全国のF店にそれぞれ配属されるのだが、僕は横浜在住ということもあり、本牧店に出向することになった。本牧店は出来たばかりのショッピングセンター内に位置し、平日でも込み合うほど、来店客の多い店だった。当然、冷やかし客ばっかりで、来店する客全員に声をかけると疲弊してしまうので、新人のくせに生意気だが、買ってくれそうな客を選んでいた。
日曜のショッピングセンターは大混雑である。しかも、世の中はバブルで浮かれており、みんな景気の良さそうな顔をしていた。特に輸入車を扱うわが店舗は、モーターショーの展示場状態と化していた。その黒山の人だかりの中、一角だけポッカリ空いた空間があった。
僕の隣にいた先輩が言った。
「シェキナ・ベイビーだ・・・。」

 内田裕也の姿が目に映った。僕はロックコンサートでしか見たことが無かったが、あの時のように全身黒尽くめで、ちょっと異様に見えた。目をずらすと横には華やかな白いワンピースに身を包んだすらりとした女性が立っていた。島田陽子である。2人は映画「花園の迷宮」で共演してから、噂になっていた。内田裕也には樹木希林という奥さんがいたので、公然の不倫状態であった。
島田陽子はフェスティバという人気が高い小型車を真剣な眼差しで見ていた。その横で裕也は島田陽子を微笑ながら見ている。周りのギャラリーなど気にすることも無く完全に2人の世界だ。
裕也が手を上げて言う。
「ちょっと!いいかな!」(裕也のイントネーションは独特だから紙面では表現できない)
先輩が僕を見てあごで指図する。「接客して来い!」


 ロケンローラーは言う。「島田さんにこの車の説明をしてくれる?」
「はい。ではこちらへどうぞ・・・。」と言いながら島田陽子を運転席に座らせた。
汗をかきながら、たどたどしく商品説明を行ったが、島田陽子は真剣に聞いてくれた。そして、欲しいモードのキラキラとした眼差しに顔つきが変化していった。ギャラリーはとり囲むように動こうとしない。僕は、本社で行われた商品説明のロープレテストをしている感覚に陥った。
「裕也さん、これ、すごくいいわ。小型だし、ここら辺を走るのに、ジャガーじゃちょっと大きすぎるし。」
「島田さんの誕生日プレゼントにしようと思って・・・。これ、いくらになるの?」
ギャラリーからはため息が漏れる。そりゃあそうだ、誕生日プレゼントに車を買うなんて庶民の感覚ではない。150万から200万もする車だ。
「はい、それではお見積もりを出させていただきますので、どうぞ、こちらへ・・・。」

  商談は普段使われないVIPルームで行われた。
先輩やマネージャーは、内田裕也を警戒して同席してくれなかった。
僕は初めてお客さんに見積書を出した。そして、与えられた条件内で交渉を続けた。唯一のよりどころは島田陽子が商品を気に入っている、という点だけだ。
値引き交渉も済み、ロケンローラーは言った。
「大体分かったよ・・・。ところで、これローンきく?」
僕はいすから落っこちそうになりながら、
「はい、ききますよ。少々お待ちください・・・」と言って中座した。
事務所に入ると、店長以下みんなが僕を見る。
「あの~ローンはきくかと言っているんですけど、芸能人ってローン組めるんですかね?」
すると、店長の後ろからローン会社の営業が顔を覗かせた。
「内田さんはワーナーパイオニアとプロデューサー契約をしているので、大丈夫ですよ。ご入用のときは是非当社のローンでお願いします!」と言った。店長がローン会社の営業を呼んでいたのだ。用意周到である。
商談ルームに帰り、契約書、ローン申込書に記入してもらった。ロケンローラーは職業欄に(ワーナーパイオニア/プロデューサー)、年収に(1500万)と記載していた。へぇ~。

帰り間際に裕也は言った。
「花形さん、実はここに来る前にホンダに寄って、シビックの契約をしてきちゃったんだよ。でも、島田さんはこっちの方が気に入ってるから・・・。ホンダに断りの電話を入れといてくれない?」
「えーっ?それは無理ですよ~。」
「そうだよな、じゃあ俺が言うか・・・」と言っていたずらっ子のような笑顔を見せた。

契約者:内田裕也、使用者:島田陽子。僕のお客様第1号になった。

 翌日の朝、定例のミーティングをしている時のことだ。店のガラスドアをガンガン叩く音がした。
みんなの顔に緊張が走る。先輩は僕を見てあごで指図する。「ちょっと見て来い・・・」
僕は恐る恐る近づくと黒ずくめの男が立っていた。
「あれ?内田さん!・・・おはようございます!」
「朝早く悪ぃな。頭金、33万持ってきたから・・・、これ。」
「えーっ?ありがとうございます、領収書を切りますので・・・」
「いいよそんなの・・・適当に処理しておいてよ。よろしく。」
33万円を置いて、風のように走り去ってしまった。

2日後、ロケンローラーから電話がかかってきた。
「島田さんの車、誕生日の納車は大丈夫だよね?」
「はい、昨日、車庫証明を出しましたから、大丈夫だと思いますよ。」
「花形さん、俺は大丈夫です、って言ってほしいんだよ。誕生日は1日しかないんだよ!」
見えないプレッシャーがかけられた。やっぱりロケンローラーはするどい。

 島田陽子の誕生日前日、納車準備も終え、ホッと安心していた時、僕はふと思った。
誕生日プレゼントなんだから、何か喜んでもらえるような納車にしようと・・・。
店長に決裁をもらい、花屋でステアリングにリボンを巻いてもらった。ちょっとはプレゼントらしくなった。でももう少し工夫が必要か・・・。
 納車日、ステアリングにリボンが巻きついているので運転しづらかったが、時間通りに島田陽子の家に到着した。家の前で、僕はリアシートに積んであった大きなリボンを車全体に巻いた。そして自分の頭より大きい造花を天井に乗せた。車全体が装飾された。チャイムを押すと島田陽子が出てきた。そして、その瞬間・・・。
「まぁ!ステキ!裕也さーん!裕也さーん!ちょっと来てーっ!」
満面の笑顔で家に入ってしまった。ほどなくすると白いガウンをはおった内田裕也がボサボサの頭で出てきた。車を見てニヤリと笑いながら言った。
「花形さん、ありがとうよ。いかしてるじゃねぇか・・・。」
「これから、ドライブ行きましょうよ。」と島田陽子。
「俺は嫌だよ。・・・花形さん、付き合ってくれるよな。」・・・この「よな」がロケンローラーの武器だ。
僕はどちらにしても店舗に帰らなければならなかったので、
「それじゃあ、店まで送って頂けますか・・・。」と言うと、島田陽子はもうすでに運転席に座っていた。
「あの~、リボンや花を取らないと運転しづらいですよ・・・。」
「何言ってるの。このまま走るからいいんじゃない。早く乗って!」
ロケンローラーと付き合っていると国際女優もぶっ飛んだ人になってしまうのか、と思いながら本牧の街を妙な車が走りぬけた。

 新車には無償で行われる1ヶ月点検がある。車を預かり、簡単な調整を行うものだ。
島田陽子からの電話で車を引き取りに行った時のこと。車を預かる際は、紛失などの間違いがおきない様、助手席の前のグローブボックス(物入れ)やトランクルームをお互い確認する。僕も島田陽子の前でひとつひとつ確認していった。グローブボックスからは『テレビ出演・衣装代80万円也』『映画イベント出演料111万円也』など目が飛び出そうな領収書や請求書が数々出てきた。
「あの~これ・・・」と言うと、「私、よく分からないの・・・。」国際女優はよくわからない。
トランクには木刀が3~4本転がっていた。一体何に使うのだろう(使ったのだろう)。出入りにでも使ったのだろうか・・・。裕也の顔がちらついた。

 島田陽子はフェスティバでショッピングタウンによく来ていた。いつも車をうちの店の前に停めて買い物に行き、帰りに立ち寄ってコーヒーを飲んで帰る。うちの店を喫茶店代わりに使っていたんだろうか。
ある日、コーヒーを飲みながら言った。
「花形さん、うちの母の車がとても古くて、買い替えようと思っているの。何かあるかしら・・・。」
商談開始!中型車の「レーザー」という車を見積もり、その日のうちに注文を取っていた。島田陽子の金遣いの荒さはこの頃から有名だったので、ローンを組むときも個人名義にはせず、個人事務所名義で登録した。お母さんはとても気のいい婦人で、新しい車をとても喜んでいた。
納車してから3日後のことである。ロケンローラーが店にやってきた。
「花形さん!困るよ!あの車!まずいなぁ!」
「ど・ど・どうしたんですか!」
「お母さんの車のカタログある?」
カタログを見せると窓ガラスの枠の部分を指して言った。
「ここの枠の色、何とかなんない?黒いだろ?これじゃ死んじゃった人みたいで・・・」
「?」
「お母さんが乗っているのを見ると、何か、仏壇の写真みたいなんだけど・・・別の色に塗れない?」
「へ?窓枠を塗るんですか?ここは鉄じゃないんで、塗っても落ちちゃうと思うんですけど・・・。」
「落ちないように塗ってよ。」
ロケンローラーはまたまた見えないプレッシャーをかけた。
そもそも車の窓枠はほとんどが黒いものだ。車のデザイン上、窓枠が黒いことで引き締まったボディラインになる。でも、そんなことはロケンローラーの感性に合わなければ関係ないことだ。
翌日、お母さんのところに車を引き取りに行き、すぐにサービス工場に入れた。サービスマネージャーは困惑していた。
 1週間後、完成した車を見て笑ってしまった。シルバーの車だったから、てっきり窓枠もシルバーに塗られて帰ってくるものだと思っていたが、見てビックリした。何とゴールドに塗られていたのだ。
「ロックやってる人が文句言ってんだから、ゴールドの方が良いと思って・・・。矢沢永吉もゴールドラッシュとか言ってたじゃん・・・。」とサービスマネージャーは前歯の無い笑顔で言った。
納車・・・。ロケンローラーと島田陽子が店に来た。車と対面。
「花形さん、いいよコレ、ありがとな、よろしく。」
「今回はわがまま言っちゃってすいません。でもいいわ、とてもステキ。」
ロケンローラーと国際女優の感性には誰もついていけない。
島田陽子は続ける。
「ところで、裕也さんが車の中でゆったりと作曲ができる大きな車とかあるかしら・・・。」
僕はその頃トップセールスマンだったので、こういった言葉を言われるとエンジンに火が入ってしまう。
彼らが座っていたテーブルの前に展示されていた車がまさにそれだった。
トーラス・ワゴンという8人乗りの車だ。左ハンドルの本格的ワゴンである。
「これ、乗れるの?試乗できる?」
スタッフ4人がかりでショールームから表に出し、仮ナンバーを付けた。
大型のワゴンは勇壮な走りで本牧の街を走る。ロケンローラーは手馴れたハンドルさばきで左ハンドルを操る。島田陽子はそんな裕也を惚れ惚れしながら見つめている。愛だ。
「ワゴンはいいなぁ。宇崎(竜童)はボルボのワゴンに乗ってるんだ。俺はフォードの方がいいな・・・。」
「アメリカにレコーディングに行ったとき、レンタカーはみんなフォードだったなぁ・・・。」
試乗中にいろいろな話で盛り上がった。これだけ盛り上がれば、成約も同然である。
ショールームに戻り、見積もりを書こうと思っていた矢先のことである。島田陽子が言った。
「花形さん、この辺で免許が取れる学校知りませんか?」
「?」
「へへへ、俺、免許持ってねぇんだよ。」ロケンローラーは笑いながら言った。

 秋の夕暮れに1本の電話が鳴る。せわしない口調で言った。
「花形さん!島田です。車が欲しいの・・・。裕也さんの誕生日プレゼントに・・・。」
こいつらアホか。お互いの誕生日に車を贈りあうカップルなんて見たことがない。
「えっ?でも内田さんは免許取られたんですか?」
「いいのよ。マネージャーが運転するし・・・。」  ??????
「電話じゃなんなんで・・・今から行きます。」
長期在庫になっていたスペクトロンというワンボックスカーのカタログを持って行った。トーラスワゴンの価格ではローンが通らないと判断したからだ。

 何も無い20畳のリビングで島田陽子と商談。
長期在庫車だったが、裕也さんのためにとっておきました、なんて言ったらまたまた目の色が変わってくる。本当に商談のしやすい人だ。
「裕也さんの誕生日に贈りたいの、明日なの!」
「えーっ?車は車庫証明とかありますから、最低1週間はかかりますよ・・・。」
「でもぉ、誕生日は待ってくれないのよ。」
本当に変な人だ。天然なのか馬鹿なのか良くわからない。
「こうしましょう!今、ここで僕は契約書を頂く。そして、明日の朝、車を運んできます。その代わり、ナンバーは付いていませんから動かすことは出来ません。1日お貸しします。あさってになったら引き取りに伺いますので、それから登録をしましょう。」
「わかったわ。ところで、支払いはローンで・・・。」
注文書をもらったが複雑な気持ちで店に帰った。クレジット会社との交渉である。ローンが通らなかったら、契約自体がなくなってしまう。
3つのクレジット会社に断られた。とにかく、クレジット枠ギリギリまで買い物をしてしまい、支払いが滞るらしい。どこも金を貸したがらないヘビーユーザーなのだ。途方にくれたが、4つ目のクレジット会社に泣く泣く通してもらった。
 納車はいつものように(?)ステアリングにリボンを巻いた。ナンバーのついていない車だけがガレージに納まった。ロケンローラーも島田陽子もとても喜んでいた。
僕は1年半の営業実績で162台の新車を販売したが、半年で3台も購入していただいたお客様はこの2人だけだ。こういうお客様をVIPと言う。

 僕は1年半の営業研修を終え、本社に帰任した。
ある日、仕事で帝国ホテルの前を歩いていた時のことだ。僕の後ろから大きな声で、女性が叫んでいる。
「車屋さーん!車屋さーん!」
振り返ると日比谷通りの真ん中に白いジャガーを停め、美女がこっちに手を振っている。国際女優だ!
僕が近寄ると
「久しぶりじゃな~い。どうしたのこんなところで・・・。」
「僕、新宿の本社に帰任したんですよ。今日はマツダの本社があるのでこっちへ来たんですけど・・・。」
「あらぁ、栄転じゃなーい。おめでとう。」・・・・僕は帰任の挨拶に行ったのに・・・すっかり忘れている。
島田陽子の車の後ろには長蛇の列ができ、クラクションを鳴らされた。
国際女優は急いで車に戻り、帝国ホテルのコンコースに車を滑らせた。帝国ホテルに用事かな、などと思いつつ佇んでいると彼女は車を降り、僕に向かって歩いてきた。立ち話を15分くらいした後、彼女は何事も無かったかのように車で走り去ってしまった。恐るべし。帝国ホテルを駐車場代わりにする女。
 その後、僕は本社に戻るため西新宿を歩いていた。すると、けたたましい音の中で叫び声が聞こえてきた。
「金髪だからって変な目で見るんじゃねぇ~」
「戦争反対!ミサイル打つなら、うた歌え!」
「ロックンロールに市民権を!」
「シェキナ・ベイビー!アイ・ラブ・ロックンロール!」
人ごみをかきわて確認すると、そこにはロケンローラーが車の上に乗り、パフォーマンスしていた。
僕の納車したスペクトロンの屋根には頑丈な荷台が据え付けられ、その上で安岡力也が腕組みをしていた。その前で、内田裕也が踊り狂いながらパフォーマンスしている。4つの拡声器からは右翼の街宣車まっさおのヴォリュームでロックが流れていた。
時は、東京都知事選挙真っ只中。青島幸男、アントニオ猪木、ドクター中松、麻原昇晃、東郷健(おかま)など変わり者大会となっていた。そこへ内田裕也の参戦である。
めちゃくちゃな選挙だ。
1日のうちにロケンローラーと国際女優に会ってしまった。僕の大切なお客様だが、非常に疲れる人たちだ。

 その後、2人は別れたようだ。
ロケンローラーは樹木希林の元に帰り、娘婿にモックンを向かえ、おじいさんになった。孫のいるロケンローラーになった(M・ジャガーやP・マッカートニーもそうだけど)。
それでも浅草ロックフェスは相変わらず継続中だし、映画俳優としても奇才を放っている。

  
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国際女優はロケンローラーと別れた後、借金がかさんで自己破産の噂が流れた。ヘアヌードにもなったが、借金苦を理由にいろいろと揶揄された。確かどこかの実業家と結婚したみたいだが、離婚したという噂もある。最近では期限切れの国際免許で車に乗っていたらしく、無免許運転でパクられたとか。とにかくハチャメチャな人だ。ロケンローラー以上のパンクな人。

もうずいぶん、彼らには会っていない。

2005年3月8日(水)
花形
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by yyra87gata | 2012-12-12 21:12 | その他 | Comments(0)

ラジオデビュー

 その日は、朝からわくわくしていた。友達との約束の時間に30分も前に着いてしまった。僕の手に握られた往復はがきに「2名様まで入場できます」とあり「全席自由」と連なって書かれていた。
場所は今は無きTBSホール。500人位で満杯になってしまう中ホールだ。
入場時間より2時間も前にホールに着いたが、すでに100人位並んでいた。僕が最後列にチョコンと並ぶと、30分もしないうちに列はどんどん伸びていった。
そうこうしているうちに、友達のH君がやってきた。
「すごいねぇ。前の方の人は酒を飲みながらギター弾いて歌っているよ。」
吉田拓郎のコンサートではよく見る光景だが、あの雰囲気がまた一層気分を高めてくれる。
僕たちは、吉田拓郎と小室等がパーソナリティーを勤めるTBSラジオの「サタデーナイトカーニバル」の公開生放送に来ていた。高校2年の秋のことだ。

 開場とともにホールに人がなだれ込んだ。僕たちはホールの丁度中央の席が取れた。舞台にはテーブルにマイクがしつらえてあり、ラジオスタジオのセットが組まれていた。机をはさんで2人が座り、マイクに向かってしゃべるのだろう。上手にはキューサインを送るディレクターの席も用意されていた。
 時間が近づく。オンエアー10分前に2人が登場。ヤンヤ、ヤンヤの大声援。オヤジ(拓郎35歳小室さん38歳)2人のしゃべりを見に、会場は満杯に膨れ上がっていた。会場内にラジオのオンエアー状況が流され、ラジオCMがこだましていた。ちょっと不思議な感覚だ。
 夜8時の時報とともにテーマソングが流れ、拓郎と小室さんの軽快なトークが始まった。家にいて独りでラジオを聴いているときより、当然テンションも高くなっているので、ちょっとしたことでも笑っていた。
放送開始から30分位たった頃、拓郎がおもむろに、はがきを読み出した。
「・・・公開生放送に当選させて頂きましてありがとうございます。今僕はTBSホールの中におります。名前を呼んでいただければ返事をします。・・・花形!」
「はーい!」と僕。
会場内大爆笑。
「お前、中にいるって、本当にまん真ん中いるな・・」
「はぁ」(緊張して声が出ない)
小室さんがすかさず「有名希望って書いてあるよ・・・君!有名になりたいのか!」
「はい」(緊張して声が裏返る)
「そうか、じゃあちょっとインタビューしてこよう・・・」といいつつ席を立ち、でかいマイクをもって客席に乗り込んできた。
僕も友達のH君も舞い上がってしまった。
数分に及ぶインタビューの後、
「君は何か得意な事はあるのか?何か得意なものが無いと有名になれないよ。」と小室さん。
「いや~・・・・ギターかな・・・」
「ほう!ギターで有名になる自信があるのだな!」
「いや、あの・・・」
小室さんはきびすを返し舞台へ戻っていく。
「きっと無理だと思うよ。僕たちの頃は、ギターが弾ければ何とか有名になれたけど、今は結構厳しいからね・・・、あとで時間があったらギター弾かしてあげるよ・・・。」

 僕とH君は放心状態になっていた。
拓郎と小室さんのミニライヴがあったが、その後の内容はあまり憶えていない。ゲストが三原順子だったかなぁ。
 番組のエンディングでは、その日にはがきを読まれたリスナーを再度紹介し、新譜アルバムを贈ることが慣例となっていた。この日のプレゼントはオフコースの『ベストセレクション』だった。
拓郎が次から次へとはがきを紹介していき早々と読み終えてしまった。すると小室さんが、
「えっ!もう(君の読む分)終わったの・・・俺、まだいっぱいあるよ。えーと、横浜市、花形裕・・・」
「はい!」(僕)。会場大爆笑。
小室さん「おー、すっかり君の事は忘れていたよ・・・」
拓郎「早く、花形にギター弾かせるか!」と言って僕に手招きをする。
僕は「しまった!」と思ったが、舞台に上がるしかなかった。だって拓郎に「来い!」って言われたら断れない。その場所は、さっきまで拓郎や小室さんのミニライヴが行われていた場所だ。拓郎がいすを用意してくれ、ピックを渡してくれた。ギターは小室さんが弾いていたマーチンのD19である。非常に珍しいギターだ(僕のマーチン初体験)。
僕はマイクの位置を拓郎にセッティングされながら、何をやるか、まだ決めかねていた。会場からは無責任な野次が飛ぶ。「人間なんてやれ~!」「落陽!」など怒号が飛び交う。高校2年の僕のハートは口から出そうになっていた。そして、勝手に手が動き始めていた。
力強いストロークに小室さんは「オッ!」と声を上げていた。
「あついーガラスの向こうに光る、白い河のような高速道路・・・」
一瞬みんな何の歌だかわからない顔をしている。しかし、そのうち笑い声が広がってきた。一番最初に笑ったのは拓郎だった。

 僕は小室さんの歌をモノマネしながら歌っていた。「都会の朝」という小室さんには珍しいアップテンポの歌だ。手拍子が広がり、サビの部分では小室さんがハモってくれた。ワンコーラスを歌いきったところで拓郎が拍手で「すげぇ、すげぇ・・・小室さんから影響受けてるの?」と割り込んできた。
「ええ、まぁ。」
「よく観ると顔も似てるよ!」と拓郎。当時僕は銀ブチの眼鏡をかけていた!
「君はひょっとしたら、有名になれるかもしれない!」小室さんが笑いながら話しかけてきた。

 番組のエンディングまで僕は舞台に残され、満杯の会場に手を振っていた。
番組が終わり、客席に戻るとき、小室さんが話しかけてきた。
「君はもう帰っちゃう?よかったら簡単だけど打ち上げに行くかい。」優しい声をかけてくれた。

 僕とH君は2人でTBSホールの会議室で行われた打ち上げに参加していた。
もちろん高校生なので、最初はジュースをもらっていたが、いつの間にか・・・。
「今まで小室さんのモノマネをしたやつはいなかった」とか、「もう一回歌え」とか、「何で高校生が小室さんや俺(拓郎)を聞くの?」とか「流行の音楽に興味は無いの?」などいろいろ根掘り葉掘り聞かれた。
小室さんは酒が入ると目が据わってきて、「戦争はなぜ起こると思う?」という名言も聞くことが出来た。
2時間ほどで宴は終わり、終電で帰った。拓郎や小室さんは六本木に場所を移して行った。
家に帰るとお袋が開口一番に「あなた、何してきたの?」
「えっ?ラジオの公開生放送を見てきたよ。」
「さっきまで友達から電話がいっぱいかかってきてたわよ!」と困惑そうな顔をするお袋。
「あ~。ラジオに出ちゃったからかな・・・。さっきまで拓郎とか小室等と飲んでたんだよ。」
「何、馬鹿なこと言ってんの・・・。早く寝なさい。」

  
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 週が明けて学校に行くとヒーローになっていた・・・なっていたらカッコイイんだが、何故かみんなに笑われた。度胸あるなぁ、と言われたが、今思うとあのときの演奏は火事場の馬鹿力というやつだったかもしれない。
翌週の放送でも僕のことは話題に上った。リスナーからの葉書で、僕の歌い方の感想とか・・・。小室さんもよっぽど嬉しかったのか、僕の名前を何度もラジオで言ってくれた。小室さんのモノマネをした人なんていなかったのではないか。

 拓郎は、当時、僕の家の近所に住んでいた。たまに自転車で行くと当時の奥様である浅田美代子さんに何回か遭遇したことがある。黄色いワーゲンを危なっかしそうな運転で、せわしなく走らせる。
僕は近所に住んでいたS君とラジオ公開生放送に行ったH君と一緒に、当時出たばっかりの『アジアの片隅で』(1980)というLPを持って拓郎の家のチャイムを鳴らした。3回目でジャージ姿の拓郎が出てきた。
「おっ!小室さん!」
LPにサインをもらった。
変な思い出である。

2005年2月21日(月)
花形
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by yyra87gata | 2012-12-12 20:43 | その他 | Comments(0)

ラジオは勉強の友?

 東京にまだFM局が2局しか営業していなかった頃、ラジオは圧倒的にAM時代で、特に深夜放送が幅を利かせていた。「文化は深夜から始まる」とか「深夜放送が生んだスター」などという形容も珍しくなかった。そんな頃のお話。
  d0286848_20355592.jpg僕は自分の部屋を与えられ、初めて自分だけの空間を所有したとき、メディアといえばラジオであった。夕食を食べ、適当な時間に自分の部屋に入る。そう、我が家ではよっぽどのことが無い限り僕は親と一緒にテレビを見なかった。食事のときにテレビが点いていることはあっても、10分くらいの食休みの後はすぐに自分の部屋に移動した。だから、小学校高学年から高校卒業まで夜8時以降のテレビをあまり見た記憶が無い。
 親は僕が部屋に入ること、イコール勉強をしているものだと思っていたようだ。僕も何度かはそのフリをしていたし、文句も言われないなら部屋にいることもいいだろう、と思っていた。
では、部屋で何をしていたのか・・・。本を読むか、ラジオを聴いていたのだ。だから、この時期は相当な本を読み、ラジオを聴いたことになる。本についてはまた別の機会に話すとして・・・。
ラジオについて。神奈川県はニッポン放送の受信中継所が横須賀にある関係で比較的、電波が良好に受信できた。逆に文化放送は中継所が練馬にあるせいか、埼玉県に強く、神奈川県には電波傷害も起きる事があり、ちょっと敬遠していた。だから自然とニッポン放送派(?)になった。
「欽ちゃんのドンといってみよう」「日立ミュージック・イン・ハイフォニック」「ゼロの世界(怪談話)」「モーリス・フォーク・ビレッジ」「あおい君とさとう君」「コッキー・ポップ」など。それらの番組は夕方から深夜にかけての時間帯にOAされていた。そして、曜日によってはNHK-FMの「サウンドストリート」を。「小室等の音楽夜話」なんてぇのもあったな。土曜日はFM東京の「ライヴアワー」「コーセー歌謡ベスト10」「テクニクス・ポップス・ベスト10」。日曜は夜の11時から“そらまめさん”というパーソナリティーが仕切る「ANAサウンドフライト」まで・・・。もちろん、それに「オールナイトニッポン」「セイ!ヤング」「パック・イン・ミュージック」が加わる。そういえば、文化放送は時代を取り入れることが早く、今は妖艶な川島なおみも当時はキャピキャピのパーソナリティーをしていた「女子大生電話リクエスト」なんて番組があり、当時の女子大生ブームの火付け役になっていた。そういえば、リクエストカードが読まれたこともあったなぁ。
拓郎と小室等のTBSラジオの「サタデーナイトカーニバル」では、公開生放送でひょんなことから実際にギター1本で小室さんと歌ったこともある。オンエアーを聞いた友達はビックリしたらしい。「ラジオから花形の歌が聞こえる・・・。」
 
 音楽が好きになった要因にラジオがある。テレビはアイドルという作り物の世界が当たり前。しかしラジオはフォーク・ロック系のアーティストが格好つけず、本音で、リスナーと対話していたから真実味があった。また、トークも絶妙で腹を抱えて笑うこともしばしば。選曲も凝っていて、実際に生で聴いてみたいという欲求にも駆られていった。
ラジオという媒体から好きになったミュージシャンは、本当に多い。
吉田拓郎、小室等、甲斐よしひろ、山下達郎、中島みゆき、松山千春、尾崎亜美、財津和夫、谷村新司、さだまさし・・・。また、彼らの番組に来るミュージシャンの話も面白かった。当時、矢沢永吉は拓郎の放送にしか出なかったため、永ちゃんの本音は拓郎の放送を聞くしかなかった。しかし、この2人、濃いんだよ、話が・・・。
 音楽評論家の番組も大好きだった。
大貫憲章、渋谷陽一、萩原健太、田家秀樹・・・山下達郎もこのセグメントにいれたい。
いろいろな情報が聞け、少し頭が良くなった錯覚に陥る。・・・大きな勘違いなんだけど。
僕は、この人たちに影響を受けたことが2つある。何か時代を話すときに和暦から西暦の読み方に変わったことが1つ。例えば、
「このアルバムは'68年にクリームが結成され・・・」「この頃のジョンは'70年のビートルズ解散まで・・・」などとスラスラと年号を言っているパーソナリティーが格好良いと思ってしまった。だから今でもその癖が残っており、音楽以外の時も西暦で話をしてしまう。
そしてもうひとつは、レコードを買うとき、プロデューサーやディレクター、スタジオミュージシャンを見て判断するようになったことだ。
「このアルバムはトム・ダウトがプロデュースとエンジニアをやっているのでこういう音になっている・・・」
「ポンタと岡沢章のリズムだから、間違いない。」
「マッスルショールズの頃のデュアン・オールマンは、そりゃあいい音を唸らせていたよ・・・」
なんて会話をするようになってしまった。
LPを買う時もシンガーは知らなかったけれど、プロデューサーで選んで成功したこともあれば失敗したことも多々あった。中学生が少ない小遣いの中からLPを買うわけだが、かなり無謀な買い方をしていた。これについては弊害もあり、あまりヒット曲を買わない癖がついてしまったのもこの影響だ。ヒット曲はラジオで聴けば十分であり、手元に残すものは別物と考えていた。なんとマニアックな考え方か。
 
 ラジオは今でもよく聞くほうだと思う。車の中がほとんどだが、毎日聞いている。昔のように音楽ばかりに偏ってはいないが、たまに昔よく聞いていたパーソナリティーの声を見つけるとあの頃にもどってしまう。10代の頃の感性と40代になった今とでは、全然違っているはずなのだが・・・進歩していないということか・・・。
 最近、よく聞く番組はNHKの「ラジオ深夜便」とか「落語」が多い。歳をとった証拠だ。妙に落ち着いてしまう。別に楽しいわけでもないが、夜遅く家に帰る車の中では心地よく車内に響く。
 学生時代は勉強の代わりにラジオを聴いていたが、今は世の中の動きをラジオから学んでいる。
そう!芸術学部の学生が一般企業に就職すると、結構大変なのだ。政治や経済のことなんてまったく興味が無く、就職してしまったからね。そんな時ラジオは結構わかりやすく解説してくれるのだ。画像が出ない分、わかりやすいんだろうな。経済用語や一般常識的な言葉をラジオから学んだ。そういう意味では今でも勉強の友である。

2005年1月15日(土)
花形
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by yyra87gata | 2012-12-12 20:36 | その他 | Comments(0)