音楽雑文集


by yyra87gata

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 「クリスマスの約束」という小田和正が作る音楽番組をご存知だろうか。今から12年前、2001年12月から始まった音楽番組で当初は小田和正が好きな歌を集め、その歌を歌っているシンガーやミュージシャンに小田自身が直筆の手紙を書き、番組に出てもらおうという企画。しかし、第1回目の放送では、1人もゲストは現れなかった。それでも番組は放送された・・・。主催者がゲストを呼ぶ努力をして、誰ひとりとして来ないという顛末に私は今までの音楽番組に無いリアリティを感じていた。
「スケジュールの都合で出演できない」「若輩者の自分が出るにはおこがましい」「テレビというメディアで音楽活動を1度もしていないし、これからも考えていない」・・・様々な理由が番組内で紹介され、その度に小田が苦笑いをし、「じゃ、僕ひとりで歌います・・・」。
サザンの「勝手にシンドバット」や福山の「桜坂」、そしてこの番組のテーマソング的な存在になる達郎の「クリスマスイブ」など。
福山や達郎からは小田宛に出演辞退の手紙まで来て、それらを紹介していた。それぞれ出演できない理由はあるにせよ、今までに無い音楽番組の形態という感じで私は楽しんで見ていた。
 翌年の2回目もゲストはひとりも来ず、またしても独りで好きな歌を歌う小田。そんな姿を見ている私を含めた視聴者はこの番組に何を求めているのか・・・ちょっと不思議な気分にもなった。ゲストに声がけをして断られ、それでもその音楽を演奏する小田。
 小田の熱狂的なファンであれば、小田がひとりで歌おうがゲストが来ようがなんでもいいかもしれないが、23時台とはいえ地上波のテレビ番組でこの構成はありか?と私は頭をひねったものだ。しかし、それでもそんな構成こそが小田の頑固さが出ているプログラムなのかと思い込んだ。
 3回目以降はゲストもようやく来るようになった。でもそのプログラムは、普通の音楽番組に見えた瞬間でもあった。そしてそれ以降のプログラムは小田自身が週一のレギュラー番組も持ったことにより(風のようにうたが流れていた)、目新しさも無くなってはきていたが、そこは小田のプロデュースするプログラムなので上質な音楽を届けてくれるようになった。例えば2005年や2008年のプログラムでは、小田の全国ツアーにフォーカスし普段見ることのできないライブの舞台裏を見せたり、2006年の斉藤哲夫と歌う「グッドタイム・ミュージック」や2007年のさだまさしと一緒にオリジナルを作る企画など小田でなければできない企画もあった。
そして、2009年の「22'50"」という曲を披露。21組のアーティストの代表曲を22曲をつなぎ22分50秒にもおよぶメドレーを全員で歌いきった。その練習風景からテレビは追い続け、そこにはミュージシャンシップが光り輝いていた。
小田がサンタクロースさながらに私たちに音楽というプレゼントをしてくれる、そんな企画に昇華していった。

 最近の「クリスマスの約束」は少し薄味という気がする。ここ数年はスキマスイッチの2人といきものがかりと根本要(スターダスト・レビュー)、松たかこ、JUJUが小田の周りを固めていて(委員会なんて呼び方をしている)、無味乾燥な印象。派手さが無いというか・・・。また、彼らは小田に対して気を使いすぎというか、まぁ先輩なんだからしょうがないと思うが、小田の一挙手一投足にあそこまでビビったり、ナーバスになったりすると画面を見ている私は妙な気分になる。
あなたたちも同業者なんだから、テレビに出てソロコンサートもできる立派なシンガーなんだろうから、もっと堂々としてればいいのに・・・と思う。そんなアマアマなミュージシャンだから甘い歌ばっかりでガッツのある歌が最近少ないのだと勝手に思う。みんなアホみたいに横にならえで日記みたいな歌を歌っているからね・・・。
 そんな中、昨年の「クリスマスの約束」で唯一光っていたのは小田が歌う「夕陽を追いかけて」だ。
チューリップの1978年発表のシングル盤で、コンサートでも盛り上がる歌である。
年老いた両親、望郷、それでも僕はあの沈む夕陽を追いかけていく。単調なメロディーの繰り返しだが、その音一つ一つに重みが増してくる。まさに男の歌である。
そう、最近の歌はみんな小ぶりで結局何が言いたいのかわからないものが多い。日常を切り取るにしても表現が稚拙で詩的感覚は全くないし、世界観が狭すぎるのだ。
小田の透き通るような声で骨太な「夕陽を追いかけて」は意外性を生むとともに感動を覚えた。もちろん、博多を歌ったこの歌は財津和夫自身の歌であり、横浜生まれの小田が歌うには説得力に欠けるかもしれないが、歌の持つ力が聴くものを引きつけていく。小田が旧友である財津に向けて歌ったということか。

 「クリスマスの約束」という番組。年に1度の小田和正ショーである。
毎回企画を練り上げる苦労は並大抵なことではないだろう。昔ながらの音楽と現在の音楽の融合を図らなければ一般のテレビプログラムとして成立しないだろうし、視聴率も獲得できない。小田の長い音楽人生の中でお茶の間に届けたいプレゼント。音楽という上質な物資を届けるにあたり、試行錯誤を繰り返す。視聴者は年を追うごとにハードルを上げ、その果て無き欲望に応える作り手の苦労はいかばかりかと思う。年に1度だから期待も大きくなる。
 2009年「22'50"」という曲を披露した時、私は全て出し切ったかなと思った。あの曲は小田にしかできない企画だと思ったし、音楽番組としての完成度も素晴らしいものだった。
泉谷しげるが提唱した奥尻普賢岳のチャリティコンサート「日本を救え!」の時、小田は音楽プロデューサーであった。小田は、そのコンサートの最後に出演者全員で「あの素晴らしい愛をもう一度」をシングアウトしている。そのコーラスたるや鳥肌もので、我の強いミュージシャンたちを「音楽」「支援」「愛」というキーワードとコンセプトでまとめあげてしまった。そう、「22'50"」を聞いたときに私は「日本を救え!」の小田を思い出していた。
小田和正の恐ろしいまでの感性とプロデュース能力であの大作を生みだしたのだ。前述のとおり、番組に期待するハードルはかなり高くなっている。二番煎じは禁じ手である。小田サンタがくれるプレゼント・・・。
あとはオフコースの再結成。しかも康さん付き!というのはどうだろうか・・・
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2013年2月20日
花形
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by yyra87gata | 2013-02-20 18:53 | 音楽コラム | Comments(0)
 家に帰ると悪寒が走りました。そして、その夜から高熱が出てきたのです(知恵熱?)。38度を超える熱は、今まで勉強してきたものを全て消してしまうのではないかと思うくらい恐怖でした(って、そんなに勉強して無いじゃん!紙くずみたいなもんですよ)。翌日も1日ダウン。1次試験の発表すら見にいけませんでしたので、母親に頼みました。
私は熱にうなされながらも、部屋で吉田拓郎の「ローリング30」というアルバムを流しておりました。「白夜」という歌が始まりました。
“みんな、みんな・・・おわっちまった~”というなんとも不吉な歌です。
ちょうどその時に電話が鳴り、私はキャッ!と叫びました。
母親の弾んだ声で「番号あったよ」との声。私は、熱でうなされながらその言葉を聞いていました。
それからが大変です。2次試験は3日後。小論文と面接です。とにかく熱を下げなければなりません。
 私の家では代々熱を下げる方法は、とにかく汗をかくことだと教えられてきました。布団をうずたかく積み上げ、ジッとして汗を流します。このやり方は体力を相当失くすそうで、あまり良いとはいえないのかもしれませんが、布団ムシ状態の私にそんなことを考えている余裕などありませんでした。
 2次試験日前日、ようやく熱も下がりました。面接があるので何を着ていこうかと言う話になりました。現役生だったら学生服でいいかもしれませんが、20歳になった私に学生服は合いません。かといって東京モード学園のような服も持っていません。トックリのセーターにGパンじゃいかんだろう・・・(彼女の私の第一印象はこの格好が妙に印象に残っていて、浪人生というより学生運動でもしてそうな風貌だったようです。長髪に無精ひげ、灰色のトックリセーターとベルボトムジーンズ、それにサンダルでしたからね!)。
結局父親の「無難な服を着ろ」という一言で、チノパンに白いシャツとブレザーを羽織りました。

 小論文は、自分に酔っておりました。なんて名文なんだぁ、などと自画自賛する悪い癖が出ておりました。きっと今見たら恥ずかしい文章なのでしょうが、その時は勢いだけで書きなぐっていたので、解答用紙はきっとメラメラと燃えていたと思います。
 面接は、流石に緊張しました。
一人一人呼び出されるのですが、みんな何か野心がありそうで、日芸に入りたいオーラーが漂っていました。
私はってえと・・・面白い人がいそうだから入学したい、なんて口が裂けても言えません。何を言おうかなぁ、なんて思っているところで呼び出されました。

 当然、志望動機を聞かれました。
私は、それまでの音楽遍歴を語り始め、現状の音楽番組についての意見を述べ始めました。一番知識がある分野で話をしないとボロが出ると思ったからです。
最終的には音楽と政治と世界平和を訴えていた気がします。1969年のフラワームーブメントをもう一度見直すべきだと!(なんせ、アタシャ親公認のヒッピーをしてたかんね)イギリスはフォークランド紛争をしている場合ではない!ソ連のアフガニスタン侵攻を今すぐやめるべきだ!(戦争反対のプロテストソングが好きだったもんで)と言った記憶があります。もう、力説であります。なんのこっちゃ!
  面接をしてくれた教授に後から聞いた話ですが、私は放送学科じゃなくて政治の方に進んだほうがいいじゃないかと思ったそうです。ただ、学生運動をするんじゃないかとも思ったので、ここに入れておこうと思った、と笑いながら言っていました。隔離ですか!?

 放送学科の合格発表は、2月14日です。しかし、この発表日までに、当初の親との約束通り、日芸以外の大学の受験もしました。私は、放送学科の結果発表日までに受けられそうな大学を選択しました。つまり、放送学科以外眼中になかったということです。そんなわけで、法政大学社会学部と立正大学経済学部を受けました。この受験科目は、英語、国語、日本史です。日本史なんてほとんどやっておりませんでしたが、ノリで受験しました。私の得意とする勢いだけです。だって心は日芸だけだったわけですから。
加えて、放送学科の発表後の受験としては、日芸の最後の砦として、文芸学科も願書を出しておきました。(試験日が3月5日で、超遅かったんだよ)

 2月14日の発表は、母親が付いてくることになりました。私は一人で行きたかったのですが、2年も遊んだ挙句の受験だったわけで、親としてはもしかしたら合格の喜びが味わえるかもしれないと思ったようだったので、親孝行の意味で承諾しました。(受かっているかどうかわかんないのにね!)
 結果は合格でした。母親は、すぐに父親に電話をしろと私に命じましたので、親父の職場に電話をいれました。言葉は少なかったですが、安心した雰囲気だけは漂ってきました。
そして、「面接のときにブレザーを着ていったから受かったんだ。お前のいつもの変な格好じゃダメだったろうな。」とわけのわからんことを口走っていました。

 母親とは渋谷で別れ、彼女と合流しました。行きつけの飲み屋で祝い酒であります。ようやく大学生のカップルとなることができました。
さて、いつものように騒いでいると、同じ並びのカウンターで騒いでいる女性がいました。私が日芸に合格した旨をマスターに報告しているときに、その女性も反応しました。
「あ、私も今年から日芸で~す!えっ?放送学科ですか?私は音楽です!」
「いや~奇遇ですね・・・」
としばし盛り上がり、キャンパスで会えたらいいですね、などと社交辞令を言ってその場は終わりました。名前も伝えなかったんじゃないかな。
・・・その3ヵ月後、ふとしたきっかけでその女性が私の所属していたフォークソング倶楽部に入部して来ました。最初はお互いわからなかったのですが(顔なんて忘れてました)、話をしていくうちに、あれよあれよと記憶が蘇り、またまた乾杯してました。ね、みかりん(注)。
(注)みかりん・・・幹ちゃんの奥さん。

※※※※

 放送学科に合格してしまったので、もうあとは知りません。法政大学、立正大学ともに合格しましたが、関係ありません。もちろん日芸の文芸学科も受験しませんでした(受験料は還って来ないよ)。
 但し、記念受験として早稲田大学文学部だけは受けることにしました。もしも合格すれば、父親の仇も取れる(父親は落ちた経験あり)、などと思い受験に臨みました。
しかし、だめですな。緊張の糸は14日で切れてしまっており、グズグズな精神状態であります。一通りの受験勉強を続けておりましたが、集中することもできませんし、日芸のパンフレットかなんかを見てはニヤニヤしているやつに早稲田が微笑むわけが無いのです。
 早稲田のテストは難しかったというより、異常な量に圧倒されました。英語も国語もものすごいヴォリュームです。読んでいるだけで酔ってしまうようでした。特に英語の長文読解は、英字新聞を読んでいるようで、最後には笑いが出てきました。きっと私の周りに座っていた受験生は焦ったでしょうね。うすら笑いをしながら試験を受けているわけですから、余裕の受験生に見えたのではないでしょうか。実情はお手上げなのにね。
 
 模範解答が返ってくるわけでもないので、私はドロップアウトを決めました。
受かる見込みなんてまったく無いので、時間の無駄と判断したのであります。そそくさと試験会場を後にしました。離席した時も周りの受験生は焦ったでしょうね。“おっ!さっきまでニヤニヤ笑っていたやつ、もうできたのかよ!余裕で出ていっちまったぞ”なんて彼らの心の声が聞こえました。
 私は早稲田の街を散策し、学生街の食堂で飯を食い、早稲田の名画座で日活ロマンポルノを観て帰りました。私は早稲田の受験より、映画の方が勉強になりました。

 こうして、私の受験時代は終了し、日本大学芸術学部に入学することになったのです。
私の高校を卒業してから大学入学までの2年間は、振り返ってみると、とても楽しい日々でありました。長い人生の中であの2年間は、相当貴重な時間であります。ダラダラと過ごしながらもいろいろなことを考える時間もあり、不安定な精神状態を経験できたことも今となっては、良い思い出です。
勉強した実数は約1ヶ月だけでありまして、他はダラダラと過ごしておりましたが、そんな状態でも付き合ってくれていた彼女(家内)と、宙ぶらりんの状態を許してくれていた親には感謝しております。それから、あのとき一緒につるんでいた友達ともいまだに仲良しであります。お互いあの不安定な状態を経験しているので、今は偉そうな顔をしていたとしても、いつでもあの頃の関係に戻れるのであります。

 私は24歳まで学生をすることになるわけですが、これも非常に感慨深いものがありました。高校を卒業して働いている友達に24歳の時に会ったことがありますが、彼が一人前の大人に見えたものです。増してやこっちは何になるか良くわからない長髪の兄ちゃんでしたから・・・。

 私は自分の娘たちに、私のようなモラトリアムを持つべきだと押し付けはしません。しかし、流されて何かになることだけはやめて欲しいなぁと思います。自分の道を決めるのは自分であります。決められないときは、立ち止まってみるのもいいと思います。
受験というフィルターがあったからこそ、見えてきた事実もありますし、人生の波も経験できたかななんて思っている今日この頃です。
2月は受験シーズンです。悲喜交々いろいろなドラマがあるんでしょうね。

おわり

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by yyra87gata | 2013-02-07 13:53 | その他 | Comments(6)
 2月は受験シーズンです。この時期はなんだか胸が詰まるのであります。
別に意図はないのですが、最近音楽を聴いていないもんで音日記にならんので、昔書いた私の受験記を掲載します。
超恥ずかしいけど事実です。
それから、すんげ~長いです。飽きたら読むのやめてください。ではでは。

受験にまつわるどーでもいい話・・・1985年2月受験

 この時期になると、受験のことを思い出します。
古くは中学受験。2月1日はXディなのです。だから、今でも2月1日になるとちょっと意識したりなんかします。
でもって、大学受験のころの話。19の頃・・・。時は1983年です。
 私は高校時代、プラプラ遊んでいたから当然大学へのお誘いもまったくありませんでした。その結果、相変わらずプラプラしていました。一応予備校なるところへの所属も考え、代々木ゼミナールの門を叩いたこともあるのですが、一体自分は何をしに“大学”なるところに行くのかということを不真面目に考えていたので、ただ単に友達と一緒の行動を取っていただけでした。
しかし、その期間も2ヶ月と持たず、6月には単独行動を取っておりました。
つまり、街を徘徊していたのですな。
家は定時に出るのですが、朝日を浴びたら、後はその日の気分です。西に笑う声あれば西に向かい、東に泣く声あれば西に向かい、北に怒声が飛び交えば西に向かい・・・って全部西ばっかりじゃねぇか!
  図書館にいくこともあれば、楽器屋を回ることもある。1日映画館で過ごすこともあれば、友達と午前中から麻雀ってことを言いたかったのよ。そんで、渋谷の道玄坂に行けば、相変わらず1960年代を引きずった兄ちゃんや姐ちゃんが紫の煙にまみれてたむろっていたし、たまに勉強でもと思って優秀な予備校生(?)の友達のコネで駿台予備校の授業に出て、落ち込んでみたり・・・って、ホント自由でしたわ。
親が教師なので漠然と自分も教師になることが親孝行なのかな、などと思い、「教育学部」を受けたこともありましたが、その前に何を教えるんだ、ということで海の底くらい考え込んでしまい、海底のその下まで落ち込みましたです。はい。

 家内とは、この頃知り合っております。私の高校時代の友達と同じ予備校だった彼女は、予備校の帰りに高津図書館(もう無くなっちゃったんだよね。寂しい限りだよ)に寄って、勉強していました。
私は勉強というより、図書館の隣にあった児童会館で小学生相手に卓球をして遊んでいました。そして、たまに息抜きにやってくる友達や彼女とも卓球をするようになりました。
そのとき、思ったんですよ。
あ、「石田えり」がいる、って。
その当時の家内は、体型からなにから、石田えりそっくりだったんですよ。んでもって、私は石田えりのファンだったわけですよ。そりゃああんた、盛り上がりますわな・・・。

 彼女は、自由が丘の予備校に通っておりました。で、たまに代々木の方にも通っていたようです。私は予備校なんて通っていなかったので、よくわからなかったのですが、彼女と過ごすために予備校デートを計画(あーなんて屈折してるんだろう)。“代々木はオレの庭だ!”くらいの勢いで彼女を案内していました。今思うとアホやねぇ~。
 出会ったのが11月くらいでしたから、受験日まで4ヶ月くらいしかありません。こんな時にステディな関係になるわけでもなく、かといって友達というのか・・・非常に微妙な関係が続いておりました。
但し、息抜きと称して(彼女は息抜きだが、私は日常)映画を見に行った事がありました。
銀座のみゆき座で単館上映していた「遠雷」という作品です。永島敏行、石田えり主演の文芸作品で、かなりきわどいラブシーンもあるものです(監督がまだポルノ撮ってた頃の根岸吉太郎だかんね)。
私は高校時代にスクリーンに穴が開くほど観た作品でした。彼女に石田えりを知って欲しかっただけなのですが、ま、こういう映画が好きな男ということを伝えたかったのかもしれません。

 それから、彼女とは妙な関係が続いていました。一緒に過ごしたい一心で、大晦日から元旦にかけての「徹夜!日本史講座」(by渋谷ゼミナール)なんてのにも参加し、初日の出をサンシャイン60まで見に行ったこともありました(なにしてんだろ・・・)。
電車に乗れば、暗記問題のクイズを出し合うことも・・・嗚呼、浪人のカップルってイヤね・・・。ま、要は真面目なお付き合いをしてたわけですよ。
 
 2月は大学の受験が集中します。彼女は英文科志望。私は・・・これといった方向性も無いまま、適当に受けていました。だってよくわかんないんだもん。

 2月の後半、久しぶりに彼女に会いました。受験報告であります。
彼女は3校くらい受かっておりました。
私は0校。結果待ちが1校。
2人の間に非常に嫌な雰囲気が漂いました。彼女はこちらに気を使いながら話をします。私はそんなことも気にせず、彼女の好きなチューリップのコンサートのチケットを渡していました。“2月28日だったら、お互い笑ってコンサートに行ける” なんて言いながら、2ヶ月前に買ったものでした。
  コンサートは渋谷公会堂でした。開演前に公会堂の前で彼女とバドミントンをしていたら、偶然にも高校時代の友達数人に会いました。
みんな大学に受かったとのこと(1浪)。
みんな口を揃えて私に「お前、大丈夫?」「そんなことしている場合かよ。」と心配の言葉を出しつつも、アホを見るように言いました。
私は、えへらえへら笑っていました。


 浪人中にカップルになると必ず男は再度浪人するという定説どおりに、私の浪人2年目が決まりました。そしてその頃、今まで黙っていた親も、いい加減痺れを切らしたのか、家族会議の席で(3人で会議はないだろう)、母親が「あなたは何がやりたいの・・・」と切り出してきたのです。
 「僕って何」や「Mの世界」「漂流記1972」などの著者、三田誠広を読み漁っていた私は、自分の存在のあやふやさを痛感しておりました。自分の不甲斐なさ、中ぶらりん感を認識していても、この先どうなるんだろう?と、ある種第三者的な立場で自分を見ていたことも事実です。いきなり「何がやりたいか」と問われても答えようが無かったのですが、得意の屁理屈でこう言った記憶があります。
「大学へは何かを学びに行きたい。とりあえず経済学部とか法学部とか、“つぶし”の利くという表現の学部には行きたくない」格好よく聞こえるけれど、具体的でないのよね。
 私の父親は高校の国語の教師です。当然、大学は文学部国文科。もっとも“つぶし”の利かない学部だったので、心配もひとしおだったのです。
「就職を考えた場合は、“つぶし”が利くということは必要だぞ・・・」と父親。

 親の心配は富士山よりも高いのであります。自分と同じ苦しみを味あわせたくないという親心・・・その時は良くわかりませんでした。今、自分が親になって子供の進路を考えるとき、ちょっとだけわかるようになりましたが(ちょっとだけかよ)。

 私の頭の中には、実はある大学の名前がありました。本屋で立ち読みした“キャンパスなんとか”という雑誌に掲載されていた大学・・・日本大学芸術学部(日芸・・・なんでも略すなよ!)です。
 日芸の紹介欄を見ていたら、ワクワクした記憶があります。だって、映画・演劇・写真・音楽・放送・美術・文芸という学科があり、楽しそうな人たちが写真に写っていたからです。アカデミックな匂いはぜんぜんありませんが、なにか面白いことが学べそうな気がしたのです。でも本心は、面白そうな人たちがたくさんいそうな気がしたといったほうが正確かもしれません。
 
 親は私が「働く」と決めてしまうことをもっとも気にしていたようです。両親ともにキャンパスライフを経験している中で、子供が高卒で働くことは避けたかったのでしょう。しかし私の性格上、「いかない」と言ったらいかないのです。そのことも理解していたのだと思います。

 家族会議のどんよりとした雰囲気の中で、私は口を開きました。
「日芸なんてどうだろうか。音楽や美術は専門的なので受験できないけれど、放送や映画は実技試験も無いので受けられそうなんだけど・・・。」
あの時の親の顔は、忘れられません。父親は、えっ?という渋い顔。母親はあらっ?というちょっと明るい顔。対照的な2人の表情ですが、同じ言葉が返ってきました。
「将来何になるの?」
「そんなこと分かるかい!」とは言いませんでしたが、とりあえず、4年で決めるとだけ言いました。モラトリアムっちゅうやつですな。
父親は、高校の進路指導の経験上、就職のことが気になる様で、芸術学部なんて一番“つぶし”の利かない学部じゃないかと言わんばかりでした。

 あれこれ話した結果、以下のことが決まりました。
・ 来年の受験が最後。
・ 日芸を受験することは了承したが、その代わり、滑り止めとして一般の学部(経済か法学)を受験すること。

 それから私は、そのことを彼女に告げました。彼女は大学生、僕は浪人生。世間的には非常に不釣合いでありまして、まぁ、別れるのかなぁなどとうっすらと思っていた矢先、彼女は自分の使っていた参考書類を持ってきて、“待っているから”というようなことを言いました。私はそれを素直に受け取り、受験勉強に真剣に取り組んだのでありました。

※※
 人間、目標を持つと非常に活き活きとするものでして、私は受験勉強なるものに真剣に取り組み始めました(遅いって!)。1984年の3月は、誰とも会わず部屋に篭りました。彼女から渡されたテキストを1ヶ月でやりきってしまう暴挙に出たのであります。
食事と風呂以外は部屋から出ませんでした。もちろん、音楽やラジオなど聴く事も無く、ひたすら机に向かっておりました。
2週間を過ぎたあたりで、壁に向かって話しかけた時は自分でもびっくりしたものです。生涯で一番勉強した月だと思います。
 日芸の受験科目は国語・英語・小論文(または実技)・面接です。
つまり、語学系さえしっかりやっておけば良いのです。私は、小論文なるものの書き方が良くわからなかったので、代々木ゼミナールの「小論文コース」という科目だけ受講することにしました。講師は「何でも見てやろう」の著作で有名な小田実先生でした。
それは非常に面白い授業で、30分で与えられたテーマについて小論文を書き、小田先生がその場で添削してくれるのです。論文の基礎も書き方もわからなかった私は、先生の言われるまま文章を構成し、最初はほとんど先生の文の写経のようでした。
先生は、こう言いました。
「最近、若い人の中では、日記をつける習慣が減っているように思います。“自分の行動”や“思い”を文に綴るだけでも勉強になるものです。そして、それを誰かに見てもらえれば、それが一番の上達になるでしょう。」
私はピーンときました。そして、彼女と交換日記を開始したのです。すっぺぇ~!
ノートを2冊用意し、お互いに持ちます。会ったときにそれを交換します。すると、ノートを持っていないときのタイムラグが無くなるので、常に書くことになるのであります。
 日常の風景やテーマを決めて、私はそのノートに書き込んでいきました。小論文の勉強になることと、彼女とのつながりが図れることで一石二鳥でありました。
 交換した日記を見ると、彼女の楽しそうなキャンパスライフが綴られております。体育会のバドミントン部に入部した話や高校と違って自由な分、責任が重いというようなことがノートに書かれていました。それに引き換え私は、家にずっといるわけですから生活にあまり変化が無いのです。自分でテーマを決めて書きなぐっていたと思います。
 彼女と会い、ノートを交換すると、私の記した場所に赤いペンで添削したあとが・・・。そうです、彼女は私の誤字脱字や、意味がわからないところを赤ペンで添削していたのです。同じ字ばっかり間違えていたり、主語が無く、とっちらかった文章をわかりやすく直していました。・・・そんな交換日記あるかよ!

 最初のターゲットは4月の半ばに予定されている全国模試です。この模試は、現状の自分の実力を知り、志望校への合格率を確認するのであります。
ここで、私は彼女とある約束を取り交わしました。もし、英語の偏差値が60以上だったら1日デートするというもの。このデートにはいろいろな意味が含まれておりまして、それは皆様の助平なご想像にお任せしますが、はっきり言えることは、この時まで私たちは健全にお付き合いしていたという事実だけがあります。
変な約束ですが本人は必死です。彼女も「まぁ、いきなり60はねぇ~」なんて思っていたのだと思います。

 ところが、結果は国語65。小論文58。英語64。日本史59。という結果。
志望校の合格予想も日芸は90%以上の当確。記念で書いた早稲田大学文学部も70%と好結果。ええっ?私はいきなり頭が良くなったのか!と思ったものでした。
 彼女にすぐ結果を伝えると、拍子抜けしてしまい、何で3ヶ月早くこの結果が出ないのかと言われる始末。
そんなこんなで白けてしまい、デートは取りやめました。
次なる目標は、もう翌年の大学合格だけであります。

※※※
 当時、彼女との接触は電話だけです(当たり前だよ!電報なんてあるかよ!)。
当時は携帯電話なんてありませんから、直接家に電話をかけます。
そして必ずと言っていいほど、彼女のお母さんが出ます。身分の無い私は、苗字だけを告げます。そうです、この時に“●●大学の花形ですっ。”なんて言えたら格好良いんだろうなぁなどと思ったものです。
彼女のお母さんは、この正体不明の男をどう思っていたんでしょう。
 夏も過ぎ、秋、そして冬。相変わらず、模試の結果は良好でしたが、勉強をしていたか、というとこれが全然しなくなっていたのです。近所の中学からの友達といつもつるんで喫茶店にいるか、家で麻雀にあけくれていました。
そうなんです。私の家には人がいなかったのです。父親は勤めに出ておりますし、母親は毎朝9時ごろそそくさと外に出て行ってしまい、夜まで帰ってきませんでした。
 後日、あの時何をしていたのかを母親に聞いたところ、浪人生と毎日同じ空間にいたらお互いに気が滅入ってしまうから、パチンコをしに行っていた、と言っておりました。子供に気を使わせない親心だったようですが、私はそんなこともつゆ知らず、遊びほうけていたのです。この図式を俯瞰から見ると私は友達と麻雀、母親はパチンコ。・・・とうちゃんゴメンね、といったところです。
でも母親の腕前は相当なものだったようで、損をしなかったと言っていた記憶があります。
そういえばあの頃の母親は、妙に羽振りが良かったですな。

 そして1985年の2月。日芸の受験です。
放送学科は日芸の中で一番早い受験日です。2月3日の筆記試験。2月5日には結果が出て、合格すれば、2次試験が2月8日。結果は2月14日だった気がします。
 私は、試験日にびっくりしました。試験会場での人の多さ。あんなに小さいキャンパスなのに人があふれかえっているのです。江古田という学生街が初詣状態です。
 日芸は倍率だけは高いことで有名です。(後に赤本(受験参考書)で調べたら、私の受験の時の放送学科の倍率は54倍だったようです)
 でも、偏差値をみてもたいしたこと無い学科なので、馬鹿がいっぱい受けてるんだろうな、などと思っていました。そうです、私の悪い癖で“タカをくくって”いたのであります。
そういえば、周りを見ると奇抜なファッションをした輩が多い。東京モード学園の学校説明会にいる雰囲気になりそうでした。

 筆記試験は笑いが出るくらいスラスラとできたのです。英語の長文は大好きなジョージ・オーウェルの「アニマル・ファーム」が出て、英語を左から右に日本語のように読めましたし、国語についても苦手だった漢文にこれまた好きな李白の峨眉山月が出たんですよ。これはもう大ラッキーでした。だって、「峨眉山月半輪の秋、影は平羌江の水に入りて流る・・・」ってスラスラいえる漢詩だったわけですよ。これはもう天は私に味方していると思いましたわ。
試験会場を出て、一緒に受験した友達と会ったとき、人の流れの中で「簡単だったな!楽勝楽勝!」なんて言ったら、周りにいた髪を尖らせたオニイチャンたちから睨まれてしまいました。
そしてその後、浮かれていた私を悲劇が襲うのです。

つづく
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by yyra87gata | 2013-02-07 13:50 | その他 | Comments(0)
 日本でハスキーボイスといえば、歌謡曲の時代から哀愁の声である。
酒に焼け、潰れかけた声・・・。演歌にもハスキーボイスは多い。そして、ブルースシンガーもハスキーボイスでなければならない。
ブルースの女王「青江美奈」しかり(古っ!)、内藤やす子しかり(古っ!)、もんたよしのりしかり(ひらがなっ!)
 ブルースや演歌の世界にはどこでも転がっているハスキーボイスだが、1980年代のお気楽なポップスシーンに突然現れた大沢誉志幸はそれまでのハスキーボイスのセグメントと異なっていた。それは、ファンクでありポップだったからだ。
 大沢誉志幸は1978年にクラウディスカイというバンドでデビューする。宇宙服みたいなコスチュームを着て、どうみても売れる要素はないただのロックバンドのヴォーカルだった。そして大沢はその後バンドを解散し単身渡米する。そこで1年かけて本場のファンクを体感している。
 帰国後、彼はアイドルへの楽曲提供とロックミュージシャンとの二足の草鞋の中、精力的に活動していく。しかし、作曲家としての彼の取り上げ方の方が多く、そこに注目されていった。
なぜなら彼の作曲法はそれまでの歌謡曲とは異なり、それがいつの間にか日本の軽音楽(Jポップって言葉、だいっきらいなんだよ)を変えていったからだ。
 例えばそれまでの歌謡曲は、Aメロ Bメロ サビ がひとつの塊となり、2番か3番まで同様に進んでいく。そのフォームに慣れた日本の流行歌たち・・・。
それはテレビの音楽番組におけるテレビサイズの作りやすさであったり、ラジオでのオンエアのし易さであったり。
歌詞も七五調や、いくつかの決まった字数で収められており、それが職業作詞家の作る作品であり、彼らの技量の一つとされていた。だから作詞家の作る歌詞は均一的で、字余りなどタブーだった。しかし、1960年代後半から若者が自分の言葉で歌を作り始め、新しい流れが流行歌を変えていく。字余りソングなどが登場してくるのである。
 また、作曲方面でも変化が見られた。
歌の構成上、1番や2番という概念(フォーマット)に囚われない歌の作りが登場してくる。そのことは、作り手の思いがより自由に表現されることとなり、1番と2番でメロディーが異なる歌も登場してくるのである。
但し、1970年代後半まではそれらは亜流とされており、「フォークだから」「ロックだから」「ニューミュージックだから」という形容がなされていた。
 相変わらず演歌は古き日本の歌のフォーマットであったし、アイドル歌謡も同様である。
そして、その方程式が本格的に崩れ始めたのが1980年代の軽音楽である。
特に大沢誉志幸の「そして僕は途方に暮れる」(1984)はまさにその代表だ。

 イントロからシンセの響きとエコーが掛かった空間系の音。そこにドラムビートはリズムとして存在せず、厳かに大沢のかすれたヴォーカルが重なる。

「見慣れない服を着た君が今出て行った・・・」

 この一行で2人の関係がすべてわかる。この情景描写は秀逸である。
時代の音はシンセのリズムのみでAメロBメロを走り、サビもなく2番に入る直前で突然スネアビートが響く。
起伏が無い歌かと思いきや大沢のハスキーボイスが静かなる起伏を作り上げていく。
そして、Cメロの
「あの頃の君の笑顔で・・・この部屋は満たされていく・・・窓を曇らせたのは何故・・・」の盛り上がりのあとの16小節におよぶ起伏のないシンセの響きが情景を作り上げていく。

最後は再び
「見慣れない服を着た君が今出て行った・・・」
で終わる。

 ブライアン・イーノのような環境音楽に大沢のハスキーボイスが絡むこの楽曲は明らかに当時の日本の軽音楽に一撃をいれた。
世間的にはカップヌードルのCMソングとして知られているが、これがTVから流れた時の衝撃は今でも忘れられない。これほど楽曲と詞の世界がマッチし、それまでのフォーマットを変えたものはないのではないか。
ハスキーボイスが厳かに歌い上げる魅力は新しい時代が生んだヒット曲なのかもしれない。
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2013年2月2日
花形
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by yyra87gata | 2013-02-02 00:35 | 音楽コラム | Comments(0)