音楽雑文集


by yyra87gata

<   2015年 12月 ( 3 )   > この月の画像一覧

 
d0286848_12102927.jpg

 不安定な日本の状態。この状態は、いつまで続くのか。そもそも近代日本で安定していた時期などあったのか。
高度経済成長時代は公害が、バブル時代には土地転がしや錬金術師が薄ら笑いを浮かべ、株やマネーロンダリングでひと財産を築いた輩はその後の経済破綻を迎え、頭を抱える。
ITバブルは、いとも簡単に勝ち組と負け組みを生み出し、そんな矢先の自然災害。沖縄をはじめとする国際問題、人災と呼ばれる原発事故、老後・年金問題など政治が抱える問題も経済が抱える問題もいつの時代にもそれなりに存在している。
世界に対しリードしていた産業は人件費の安い国にいつしか抜かれ、日本の産業は冬の時代へと。
警笛をならす評論家はいても改善策は誰も出さない。

 音楽家は音で警笛を鳴らすしかない。
1980年に吉田拓郎は『アジアの片隅で』を発表した。
1970年代をトップランナーとして走り続け、1970年後半からはフォーライフレコードの経営者として敏腕を振るっていた。そういった観点からかその時の拓郎はミュージシャン側と経営側の二面で物事を判断していたように思う。
それは1979年の拓郎の発言をまとめていけば理解できる。彼は来るべき1980年代にある種の恐れを感じていたこと。見えない世界、不安定な世界を迎えることに対しどう向き合っていくのかを模索していたとも言える。それは、軽音楽を生業とした彼らの将来とは誰もが未知の世界だったからだ。
30歳を過ぎてもステージに立つことは、今の時代ではさほど騒ぐことでは無くなったが、当時は先人もいない中、これから何歳(いくつ)まで歌をロックビートにのせて歌えるのかは多くのミュージシャンの心の隅にそっと置かれていた問題だったのだ。プレスリーは死に、ビートルズもそこにはいない。ミュージシャンは職業なのか、生き方なのか。
 拓郎の出したひとつの答は、70年代との決別であった。
それまでの歌を封印し、一から出直す。もう一度起点に立ち返り、歌いなおすと言うもの。
客との馴れ合い・・・「落陽」や「人間なんて」を演奏すれば盛り上がることはわかっている。しかし、その盛り上がりにアンチテーゼを見出した。コンサートでの盛り上がりを懐疑的に思うなど演者と観る側の関係で考えればありえない論理であるが、それも新たな時代を迎える上での重い十字架となり拓郎の肩にのしかかっていたのだ。

 拓郎には「人間なんて」という大きな歌がある。1970年代のコンサートではアンコールでよく歌われていた歌だ。延々と続くリフ。そのリフに乗せて拓郎の雄叫びが会場に木霊する。この歌で拓郎も客も完全燃焼する。しかし、その歌を拓郎は1979年の篠島コンサートを境に歌わなくなった。1979年の秋のツアーのラストは新曲の「ファミリー」となっている。
 観客は戸惑いながらも、拍手を続け、「人間なんて」を待ったが、いつも会場の明りがそれを阻止していく。
 1980年代を迎える拓郎なりの答の出し方であった。

 そして、1980年。
コンサートツアーはニューアルバム『シャングリラ』(1980)から中心に新曲のみというセットリストで臨んだ。客との馴れ合いもリセットしたかったのだ。
そして、そのツアーでニューアルバム以外から演奏された曲が数曲ある。それらはレコードとして発表されていない歌たちだ。「愛しておやり」「街角」「ファミリー」「古いメロディー」そして「アジアの片隅で」。
「アジアの片隅で」はコンサートの前半で唐突に歌われた。アコースティックギターの激しいカッティングが数小節繰り返され、そこにバンドが音を乗せる。そして拓郎の激しい言葉が畳み掛けるように空を舞った。
拓郎はこの頃、ボブ・マーリーをコンサートで観ており、レゲエリズムの単調さに荒々しい内容の言葉を乗せることに何かヒントを得たようであった。そのためか拓郎の1980年代初期にはレゲエを多く用いた作品が多い。ただ、観客からしてみれば妙なリズムに言葉が乗っている印象はあり、トーキングブルースのように聞こえていた。
拓郎は何かにとりつかれたように言葉をぶつけてきた。その言葉は預言者の言葉のような語りで、しかも抽象的でなく具体的なシーンを聴く者に想起させた。
作詞は岡本おさみ。拓郎がデビューしたときからの付き合いで、その頃、岡本はニッポン放送の放送作家であった。「落陽」「旅の宿」「襟裳岬」「リンゴ」などの詞を書き、『シャングリラ』にも「いつか夜の雨が」「愛の絆を」を収めている。
拓郎と岡本は会うことなく、いつも電話でのやり取りで作品を作ってきた。その日も岡本からの電話を取り、拓郎は電話口で彼の言葉を紙に書き綴った。
 拓郎は、岡本は狂ったのでは無いかと電話口で思った。ただただ、あふれ出てくる言葉を書き留める中で熱い血がたぎる思いだったと言う。


ひと晩たてば 政治家の首がすげかわり 子分共は慌てふためくだろう
闇で動いた金を新聞は書きたてるだろう 
ひと晩たてば 国境を戦火が燃えつくし 子供達を飢えが襲うだろう
むき出しのあばら骨は戦争を憎みつづけるだろう 
アジアの片隅で狂い酒飲みほせば
アジアの片隅で このままずっと
生きていくのかと思うのだが

ひと晩たてば 街並は汚れ続けるだろう 車は人を轢き続けるだろう
退屈な仕事は野生の魂を老けさせるだろう 
ひと晩たてば チャンピオンはリングに転がり セールスマンは道路に坐りこむだろう
年寄りと放浪者は乾杯の朝を迎えないだろう 
アジアの片隅で狂い酒飲みほせば
アジアの片隅でこのままずっと
生きていくのかと思うのだが
  
ひと晩たてば 秘密の恋があばかれて 女たちは噂の鳥を放つだろう
古いアパートの部屋で幸せな恋も実るだろう 
ひと晩たてば 頭に彫った誓いがくずれ落ちて 暮らしの荒野が待ち受けるだろう
甘ったれた子供達は権利ばかり主張するだろう 
アジアの片隅で狂い酒飲みほせば
アジアの片隅で このままずっと
生きていくのかと思うのだが

ひと晩たてば 働いて働きづくめの男が 借りた金にほろぼされるだろう
それでも男は政治などをあてにしないだろう 
ひと晩たてば 女まがいの唄があふれだして やさしさがたたき売られる事だろう
悩む者と飢えた者は両手で耳をふさぐだろう 
アジアの片隅でお前もおれもこのままずっと
アジアの片隅でこのままずっと生きていくのかと
アジアの片隅で・・・ アジアの片隅で・・・ アジアの片隅で・・・  おれもお前も・・・
       
 激しい言葉が鋭く突き刺さる。拓郎節の早口は何をもがいているのか。
そして、何を訴えているのか。耳に神経を集中させ、約13分の演奏に身を投じる。

 1980年は日本ではオフコースが全盛を極め、ブラウン管からはサザンやアリスが頻繁に流れていた。いわゆる女性向けの作品が多く発表されていた時にこのような辛口の詞が受入れられるはずが無い。しかし、発表するのは今しかないと思ったという。

 新曲のみのコンサート「1980年・春のツアー」は4月から始まり7月の日本武道館まで20箇所で開催された。
すべての会場で「アジアの片隅で」は演奏され、その中から『シャングリラ』のプロデューサーでもあるブッカー・T・ジョーンズを迎えた日本武道館公演の音源がのちに『アジアの片隅で』(1980)に収録され、それが公式音源となった。

 80年代初頭、拓郎は悩んでいた。コンサートツアーを精力的に行なっていたが、経営者とミュージシャンと言うアクセルとブレーキの関係を一手に引き受けていたが、精神的には悲鳴をあげていたのだ。拓郎が出した答は経営者を降り、いちミュージシャンを選んだ。
 そして、1985年のつま恋のイベントを挟み、「アジアの片隅で」はコンサートで歌われなくなった(例外的に1987年のツアー、追加で行なわれたライブハウス「パワーステーション」で演奏されたことはある)。1970年代の「人間なんて」に変わる歌としてファンが受入れた大曲は、終焉を迎えたのだ。

 「アジアの片隅で」がひと時代を築いた歌であることは間違いない。混沌とした生ぬるい1980年。高度成長も伸びきってバブル期に向かっていった狂乱前夜にこの歌は発表され、そして終了した。
しかし、今でもこの作品を渇望する声は多数ある。なぜなら、歌詞がいまだに当時のまま生きているからだ。
35年前に発表された内容が、何ひとつ変わらず日本を取り巻く不安と共にあるからだ。
今、この作品を聴いて何を思うか。
私は今の拓郎に歌ってほしいとは思わない。70歳を迎える今の拓郎が歌う歌でもないからだ。
その時代のオピニオンリーダーが歌うことの意味があるはずだから・・・。

 岡本おさみが2015年11月に亡くなった。
私は、そのニュースを聞き、岡本おさみの詞で真っ先に出てきた言葉は「落陽」でも「襟裳岬」でもない。
ひと晩たてば・・・だった。
拓郎はどう思っただろう。

2015/12/28
花形
[PR]
by yyra87gata | 2015-12-28 12:11 | アルバムレビュー | Comments(0)
d0286848_828624.jpg

  27年という短い季節を駆け抜けた天才は伝説となり、女性ロックヴォーカリストのアイコンとなった。
1960年代は、きれいな声で、朗らかに歌う女性ヴォーカルが主だったアメリカンポップス。しっとりと濡れるような絹のヴォーカルのジャズヴォーカル。黒人音楽の世界でコーラスグループやゴスペルなどのレイスミュージックもあれば白人のそれはカントリーソングとなり、明るいヤンキー娘のヴォーカルがフィドルの上で踊っていた。しかし、ジャニス・ジョプリンのそれはどこにも属さない魂の叫びだ。果たしてジャニスの前に女性ロックヴォーカリストと呼べるシンガーがいただろうか・・・。もしかしたら、ロックミュージックという男社会の中で気を吐いていたのはグレイス・スリックくらいだっただろう。しかしそれは、ジェファーソン・エアプレーンの一員として、どちらかといえばセックスシンボル的な役割を担っていたかもしれない。
  ヴォーカルというシンプルな表現方法。その一点のみに集中し、パフォーマンスを行なう。観客を唸らせたジャニスはその時、天にも昇る思いだったろう。学生時代に自分を蔑んだクラスメイトに対し、唯一信じられる歌で・・・。そしてそれは、そんな低次元の話から始まったが、最後は世界に向けたメッセージとしてありのままの自分を曝け出していくことになる。
  ジャニスはサンフランシスコでビッグ・ブラザー・アンド・ザ・ホールディング・カンパニーの一員となり、音楽活動を始める。モンタレー・ポップ・フェスティバルで注目を浴び、バンドを変え、メインストリートを走り始め、ウッドストックでのパフォーマンスは全世界の注目の的となった。

  注目され続ける人は孤独が慰めとなる。そして、その時、人は自然の一部だと再認識する。
人生を支えてくれるもの。栄光?金?野心?愛する人?
人情の機微に触れた時、それをやすらぎと取ることができるか。
舞台で観客と向き合っていたあなたは、いつが至福の時間だったのだろうか。
その時間を求め、彷徨い、行き着いた先が悪魔の水であれば、それはあまりにも哀し過ぎる。
カリスマと呼ばれ、人生を生き急いだ先に見た桃源郷はあまりにもつらく、厳しい空間だったろう。

“いつかお前は成長し旅立っていく”と子守唄を歌う。切々と歌われた「サマータイム」での名唱は語り継がれる。
“いつかメルセデスに乗る夢”を歌っていた時の表情は希望に満ちていただろう。
それはけっして欲望ではなかったはずだ。

  ジャニスが残した数々の名唱。アルバムはどれも宝物が収まる魔法の皿。
ビッグ・ブラザー・アンド・ザ・ホールディング・カンパニー名義の『チープスリル』(1968)も、レコーディング中に倒れ未完に終わる『パール』(1971)もすべて彼女の言霊が入った魔法の皿だ。
そんな歌たちが網羅されている『ジャニス・ジョプリンズ・グレイテスト・ヒッツ』(1973)はコンパクトにまとめられた良作である。
ハーレーにまたがり、笑顔を見せるジャニス。
屈託の無い笑顔が哀しい。


2015/12/22
花形
[PR]
by yyra87gata | 2015-12-22 08:28 | アルバムレビュー | Comments(0)
  
d0286848_8291837.jpg

  スティーヴィー・レイ・ヴォーンは、1980年代初頭に煌き、その10年間を駆け抜け伝説となったブルースギタリストである。
  スティーヴィーはテキサス生まれのコテコテのブルースマンだったが、陽の目を見るきっかけを作ったのはグラムロックやポップミュージックの雄であるデビッド・ボウイやウェストコーストサウンドのシンガーソングライターであるジャクソン・ブラウンに見出されたからで、それまでのブルースには収まることができない強烈な個性があったと思われる。特に1980年代初頭はMTVの影響からかビジュアルと音楽がシンクロしており、ブルースといったプリミティブな音楽は下火であった。到底商業的に成功できる土壌(ジャンル)ではなかったが、その中でもスティーヴィーのパフォーマンスは一流のミュージシャンたちを唸らせる何かがあったのだ。
その勢いの中、スティーヴィー2作目の『Couldn't Stand the Weather』(邦題「テキサス・ハリケーン」)(1984)はゴールド・ディスクを獲得。
ブルースという偏ったジャンルの中、このヒットは後世に対し非常に大きな役割を果たしたと私は思う。
ロバート・クレイのデビュー盤『STRONG PERSUADER』(1986)のヒットやボニー・レイットのグラミー賞受賞作の『Nick of Time』(1989)など軽いお手軽なポップソングが華やかだった80年代に、スティーヴィーが火を点けたモダンブルースの道筋は確実に実を結んでいったといえる。
なにせ、あのエリック・クラプトンでさえ『Behind the Sun』(1985)では80’sポップの波に呑まれ軽いシンセサイザーのサウンドの中、前時代的なソロを爪弾いていたのだから。
そういう意味でも初志貫徹した演奏のスティーヴィーは、白人として本来黒人のソウルミュージックであるところのブルース・ミュージックに挑み、昇華することができた稀有な存在である。

  そんなスティーヴィーに起こった悲劇。
1990年8月。ウィスコンシン州アルパイン・ヴァレイ・ミュージック・シアターで開催されたブルース・フェスティバル。そこではエリック・クラプトンやバディ・ガイらと共演。堂々とギターバトルで渡り合った。クラプトンは新たな親友ができたと喜び、公演終了後、スティーヴィーの次の仕事先であるシカゴ行きのヘリコプターを見送ったほどであった。スティーヴィーがそのまま還らぬ人となってしまうなんて誰も想像できなかったであろう。あまりにも突然すぎる別れ。
スティーヴィーにとってもまさにこれから・・・という時であった。

  『The Sky Is Crying』(1991年)は彼の死後、残されていた未発表音源を集めたコンピレーションである。未発表の弟の作品を兄のジミー・レイ・ヴォーンが選曲した。発売後3ヶ月以内に150万枚以上の売上げを記録、プラチナ・レコードになった。
そして、このアルバムに収録されているジミ・ヘンドリックスの「Little Wing」はスティーヴィー最初のヒットを記録したアルバム『Couldn't Stand the Weather』制作時にレコーディングされたもので、ノリに乗っている時期の演奏。スティーヴィーの中でも名演中の名演の1曲と言っても良いだろう。
その他にもライブでの定番曲もあり、未発表音源のアルバムというよりしっかりと作り込まれた内容の作品となっている。

  「タラレバ」の話はしてもしょうがない。
ジミヘンが下戸でよく眠れる人だったら・・・レノンがあの日スタジオで徹夜のレコーディングでもしていたら・・・あの時デュアンがオートバイに乗らなければ・・・ボンゾがオレンジウォッカを2杯でやめてれば・・・
それが運命という人もいる。
スティーヴィーがヘリコプター墜落という痛ましい事故で亡くなって四半世紀。
名演が残されていたというだけでも音楽の神様に感謝しなければならないか・・・。

2015/12/09
花形
[PR]
by yyra87gata | 2015-12-09 08:30 | アルバムレビュー | Comments(0)