音楽雑文集


by yyra87gata

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矢沢の思い出

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 サントリープレミアムモルツの広告の中で66歳の矢沢永吉がポーズをつけている。ダンディな佇まいであり、ここ何十年も変わらない姿でもある。
この姿を維持するためにどれほどの努力をしているのか。しかし、きっと本人は「矢沢」が好きだから苦労とも思っていないのだろう。
 私が初めて矢沢を目撃したのはコンサートでは無く道の上だった。私が大学生の頃、表参道を歩いていると、前から前身グレーのスウェットスーツに身を包み、異様なオーラを出しながら早足でウォーキングしてくる男がいた。
その男が私の3m近くまで来た。そこには、目深に被ったフードの奥に汗まみれの矢沢がいたのだ。
私は「あっ!」と驚き、一瞬にして中学生の頃の自分に戻った。
“永ちゃんだ!わーっ!サ・サイン?あ、握手?”そんな思いが私の中で反芻する。その横を矢沢は何かに取り憑かれたように一点を見つめ足早に通り過ぎていった。その顔には玉の様な汗が付着し、歩くたびに滴り落ちていた。減量に苦しむボクサーのように誰も寄せ付けず、そしてその男に私は声も掛けられず、彼の後姿を目で追っていた。
 矢沢はどこでも矢沢だった。

 私は小学校の音楽の先生が好きだった。その先生は矢沢好きで、その影響から『A DAY』(1976)から聞き始めたが、中学に進学し、矢沢永吉の話題を友人たちにすると、皆ちょっと冷めた感想を述べ始めた。
時は1970年代半ば。日本のロックなどほとんど認知もされず、市場的にも成熟していない。「日本のロックなんて」とよく言われた時代だった。なぜなら経営側は“儲からない”からであり、聞く側は“カッコわるい、洋楽の真似でしょ”と言った具合。
しかし、私は“音楽に国境もジャンルも無い”という意識で幅広く音楽を聴いていたので、何故日本のロックが軽く見られるのかということが理解できなかった。「矢沢よりエアロスミスだよ」などと言われても比べるものでも無いと思ったが、一般的にそういう意見が多く、私の考えなど話にならなかった。
そういった時代の中、矢沢は独り奮闘していたのだと思う。

 私が中学2年の夏、矢沢永吉は後楽園球場でコンサートを行なった。キャロル解散後、1975年にソロデビューし、年を重ねるごとに「渋谷公会堂」「日比谷野外音楽堂」「日本武道館」とスケールアップしていき、3年で「後楽園球場」にたどり着いた。
「日比谷野外音楽堂」のバッキングメンバーはサディスティックス。翌年発表したアルバム『ドアを開けろ』(1977)や『ゴールドラッシュ』(1978)はそのメンバーに木原・相沢(NOBODY)のギターや坂本龍一など豪華なメンバーが絡み、70年代の矢沢の集大成となった。
矢沢は常日頃から「ビッグになる」と公言し、有言実行で本当にでかくなっていった。そして同時期に激論集「成りあがり」を発表。矢沢の人気は頂点を極めていった。
 富士山山麓に豪邸を建て、地下のガレージに無造作にポルシェが停まっている写真などを見たとき、私は、本当にロックスターなのだと思った。イギリスやアメリカのロックスターが大豪邸に住み、フェラーリーやポルシェを下駄代わりに使うことは当たり前と思っていたが、日本でそれを実現した人がいるのかと思い、とても驚いたものだ。
 テレビに出るといっても音楽番組には出ず、NHK教育テレビ(若い広場)でインタビュー。そんなことする日本のミュージシャンなんていなかった。
“音楽なんてレコード聴けばわかる”“コンサートに来てくれれば絶対楽しませてやる”
“テレビに出て語るということ、・・・つまり、矢沢そのものの声を届けたい。週刊誌やわけのわからない活字でいい加減に伝えて欲しくない。だから音楽に懸ける思いは自分の言葉で伝えたい”
ものすごく、自分がわかっている人なんだと思った。セルフプロデュースがしっかり出来る人。だから、ブレない。

 そんな矢沢がアメリカに行って勝負すると言った。“アメリカを視野に入れている”とテレビで唾を飛ばしながら語る姿を見て、私は“ちょっと危ういな”なんて思ったりもした。いくらなんでも日本のミュージシャンが外国で勝負するなんて誰も考えていない時代だ。
それまでにアメリカで日本のミュージシャンがヒットを飛ばすなんて坂本九しかいなかった。その坂本九の「上を向いて歩こう」にしても、たまたま1962年イギリスのケニー・ボールが来日し、そのメロディーを気に入り母国に持ち帰ってレコーディングしたことが始まりで、その流れからアメリカのDJが元歌を調べ始め、最終的にキャピトルと契約し、ヒットした。つまり、“売った”のではなく“売れた”ということだ。・・・そんなフロックはさておき、矢沢は殴りこみをかけると言う。
ジャズのインストゥルメンタルならまだしも、言葉の問題があるだろうと矢沢ファンの私でさえ思ったくらいだから、一般の音楽ファンは呆れたコメントを垂れ流していた。

 1980年渡米。レコード会社も移籍し、アメリカではアサイラムと契約した。そして2年後、本当にドゥービー・ブラザースのメンバーを連れて凱旋公演を行なった。この模様はテレビ中継もされ、矢沢があの頃のままのテンションでバンドメンバーと英語で会話しているところも放映された。本当にびっくりした。なぜ、ドゥービーだったのかは置いておいても、ロックのトップミュージシャンが矢沢のバックにいることが衝撃だった。それまでは、ジャズの世界であれば、渡辺貞夫や日野皓正などはリー・リトナーやジョン・スコフィールドと競演したとか、デイブ・グルーシンとアルバムを作ったなどという話はあったが、ロックのジャンルで世界と渡り合っているミュージシャンなどいなかった。しかも、バックバンドにしているなんて考えられなかった。
私が高校3年の夏の出来事だった。

 それから、私はバンド仲間や音楽好きと話をする中で、「日本のロック?ぜんぜん駄目だよ。でも矢沢は別。好き嫌いは別としてあれには何も言えない」という言葉を多く聞くようになった。認めさせてしまう行動力と結果が矢沢の生きる糧なのか。
 そんな矢沢でもアメリカでの当初の活動は、決して順風満帆ではなかったようだ。アメリカに渡り発表したアルバム『YAZAWA』(1981)は、アメリカでは2,000枚しか売れなかったというし、レコーディングをしていても意思の疎通が中々上手くいかなかった。しかし、その後『YAZAWA It's Just Rock'n Roll』(1982)の中の「ROCKIN' MY HEART」がヒット。1982年の凱旋公演につながる。矢沢は、日本で相変わらず長者番付トップを維持していたが、アメリカからは離れようとせず、結果的に『FLASH IN JAPAN』(1987)を発表。全米での売上げ枚数は5万枚となり、彼の言う「おとしまえ」をつけた形となった。
私が大学2年の初夏のことだった。

 それからの矢沢の弾け方はここに記す必要も無いだろう。イギリス・ウェンブリースタジアムでロッドやボン・ジョビと競演、2014年までに日本武道館公演は132回を数え最多公演記録を更新中である。
オーケストラとの競演やディズニーでの歌唱など矢沢のフィールドは限りなく広がっている。そしてハードなコンサートに向けての準備も怠らない。66歳の鋼の身体は1日では成り立たないのだ。
 サントリープレミアムモルツの広告の中の66歳の矢沢永吉は、今でも表参道をウォーキングしているのだろうか。

2016/1/8
花形
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by yyra87gata | 2016-01-08 17:09 | 音楽コラム | Comments(2)

ワイルドなルー・リード

  
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 今回はルー・リード。この人もう死んじゃったからこの世にいないんだけど、ものすごく変わった人。
でも、安心してください。名盤ありますよ。
『トランスフォーマー』(1972)は一番とっつきやすい作品で、ヒット曲もあります。「ワイルドサイドを歩け」なんて格好良いです。男のアルバムです。っていうか、ジェンダーフリーな内容というか、火遊びというか、とにかく“こんなすごいことやるかい?さぁ、ワイルドに行こうぜ・・・へへっ”と挑発する歌です。ま、ロック精神ですね。

 で、ルー・リードなんですが、詳しいプロフィールは各自ググってもらえればいいので、ここでは書きませんが、とにかく破滅型の人です。でもちょっとだけ書きますと、ベルベットアンダーグランドとして1965年にデビューし、ニューヨーク・パンクのみならず、その後のロンドン・パンクやオルタナティブ・ロックの源流を作った人と言われてます。アンディ・ウォーホールやパティ・スミス、ジョン・ケイルなどと活動を共にしておりましたが、奇行といいますか、乱暴者といいますか、とにかく思い込んだら突っ走ってしまう人のようで・・・もう少し自分を抑えられていたら・・・あ、それじゃ、この人の存在価値がないですね。
日本で言うなら内田裕也さんみたいな人です。鏡に映った自分の顔にガンつけられたから鏡をパンチしたら血だらけになったというとんでもないエピソードが裕也さんにもありますが、ルー・リードはそんなエピソードの塊みたいな人です。ま、本人いたって素直な人・・・いや、自分に素直な人。
でもって、今回はいろいろなエピソードを記載しますので、その後、是非『トランスフォーマー』を聴いてみてください。なにかを感じると思います。そんでもって、ちゃんとロックの殿堂入りもしていますから、ある意味、常識を逸した最後の「音楽家&詩人」だったかもしれません。

 名言とエピソード転記します。いろんなところから集めてきましたので、信憑性に欠けるかもしれませんが、洒落で読んでいただければ幸いであります。

~名言~
「音楽がすべてだ。みんなそのために死ぬべきだ。他のものなら何でも命を投げ出すというのに、どうして音楽じゃだめなんだ?」

「生きるということは、ポニーにサンスクリット語を読み聞かせるのに似ている」

「過去にこだわるには、人生はあまりにも短すぎる。僕は未来を見つめたい」

「現実を扮装するなんて俺には理解できない。
何かをよりきめ細かにみせるために化粧を使うなんて理解できない」

「ダンスに行きたがる人もいれば、働かなければならない人もいる。
悪魔のような母親さえいる。
奴らは君にこう告げる、すべてはただの汚物だと」

「ロックンロールの歌を通して出来ることがたくさんあると常に信じている。
ロックの歌にシリアスな歌詞を書くこともできるんだ。
もしビートを失わずにやれたらな」

「ロックンロールとは、パワフルでエモーショナルで簡潔で表情豊かで直接的なものなんだ。なぜならロックンロールには、人間の鼓動の基本があるからさ。その部分に、人間は即座に共鳴できるんだよ」

「すべては必然だと思うんだ。あらゆることは起こるべく時に起こるんだ」

「怒りについて、夜明けとともに訪れる罪の意識について、奴らに教えろ。
花について、許すことの美しさについて、奴らに教えろ」

なんか、いいでしょ。詩人ですな。でもこの後、ちょっと趣が変わるのであります。

「俺は酒を飲むことでドラッグを止めようとした」

「俺は他人のノスタルジアが好きじゃない」

「目には目をは基本だ」

「最初に学ぶのは、常に待たなければいけないということ」

「僕が君の鏡になろう 君という人間を映し出してやる もし君が知らないのなら」

「俺の1週間はお前の1年に勝る」

「人生はマヨネーズソーダのようなもの 人生は部屋のない空間のようなもの。
人生はベーコンとアイスクリームのようなもの。
君のいない人生なんてそんなもんさ」

「俺が男だか女だかわからないって?それを聞いてお前はなにをしてくれる?」

「最後に質問がある。何故、俺は日本人に人気が無いんだろう?」

知らんがな!ってなりますよね。なんか、破滅的になってきたでしょ。
では、続いてエピソード編。すごいよ。

~エピソード~

「スピード(幻想麻薬)を打ちまくって3日に1度しか眠らず、あらゆるドラッグから引き起こされる症状をソングライティングに反映するという実験を試みていた」

「ステージ上でのヘロイン注射」

「彼はバイセクシュアルだとされ、10代の頃に電気ショック療法を受けている」

「レストランでボウイと喧嘩になってボウイをボコボコにして立ち去り。残されたボウイは泣きながら植木鉢を破壊した」

「パティ・スミスに“あんたみたいな嫌な人間がどうしてあんなに美しい音楽を書けるの?”と難癖を付けられた」

「朝日新聞の記者がインタビューをするために楽屋に入った時、ちょっと咳き込んだ。ルー・リードが"風邪引いてるのか?"って訊くと、その記者は心配してもらってると思って「ちょっと」って答えたら、「今すぐここから出てけ!」って怒鳴られた」

「ある日本人が、ニューヨークのゲームセンターに行ったらルー・リードがいたので、“握手して下さい!”と声をかけたら、数秒後に、“お前が声かけたからハイスコア逃しただろ!”と言ってぶん殴られた」

「ルーリードの90年来日時の記事で、都内移動中に右翼の街宣車に遭遇し同行記者に、“彼らは三島(由紀夫)のようなものか?”と尋ねた」

「アート・リンゼイのライヴを見に行き、楽屋でずっと黙りこくっていたが、ようやく口を開けたら“君は歌うのと同時にギターを弾こうと考えたことがないのか?”と聞いた」

「ノイズだけで1時間という『Metal Machine Music』(邦題:無限大の幻覚)(1975)出したあと"あれは冗談でした"って言った」

「カンフー好きが高じて2004年の来日公演では自分のカンフーの師匠をステージに上げて演舞させたが、バンド・メンバーたちは困惑しメンバーの1人は“よくわからないけど、ルーの希望だから”と苦笑いしていた。あまりの不評に、翌年からは演舞はなくなった」

「エフェクターボードの第一人者ピート・コーニッシュのボードを愛用しており、空間系の音作りでは数十通りもすぐに出せるように調整されていた。しかし、レコーディング中、ワンフレーズに悩み、数時間もかけた挙句、コードを引き抜きアンプに直でつないで“これ”と言って30秒で終了した」

「スーザン・ボイルに“お前の歌い方、嫌いだから”と自分の曲「パーフェクト・デイ」をカバーするのを止めさせて泣かせた」

「でも、その後カバーの許可を出した上、スーザンのビデオのプロデュースまでやった」

「新宿厚生年金で、1曲目「スゥイート・ジェーン」のイントロを中断して、“何故スリーコードの曲しか書かないのかと訊かれるけど、ほら、これはコード4つだ”と弾いてみせた」

 なんか、楽しくなってくるでしょ。
この人、何度も書くけど、自分に素直なんだよね。だから太くて短い人生(ワイルドサイド)を歩いた、と言うより走りきったんだろうね。

 ちなみに私は、『ベルリン』(1973)を中学生の時に聞き、全然わからなかったんだけど、
男になってから聞き直したら、なんかしっくりきた。

ワイルドだろ~。(古いな・・・)

2016/1/5
花形

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by yyra87gata | 2016-01-05 08:19 | 音楽コラム | Comments(0)