音楽雑文集


by yyra87gata

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 はっぴいえんどのサードアルバム『HAPPY END』(1973)はロスアンゼルスのサンセット・サウンド・レコーダースで録音された。
メンバー間では解散を意識し、バンド活動を継続することは不可能に近い状態の中、大瀧詠一がアメリカに行く話に乗る形でレコード制作へと展開していったと言う。
しかし、燃え尽き症候群状態のバンドにコミュニケーションは薄く、レコーディングというフィルターを通してアメリカの「16チャンネルのスタジオ視察体験旅行」の様相を呈していた。
 このレコーディングにおいて、最新の機器と本場のレコーディング事情を勉強しながらアルバムを制作することが出来たことは4人の大きな財産になったし、なによりもこのアルバム制作が無ければ鈴木茂の『BAND WAGON』(1975)の誕生は無かったと鈴木本人も語っている。ひょんなところから出た話が実は日本の軽音楽に相当影響を与えることになったのだ。

 そして、このレコーディングではその後の日本のロック市場に大きな足跡を残したメンバーが参加した。
リトルフィートのメンバーであるギターのローウェル・ジョージとピアノのビル・ペインである。
 リトルフィートは西海岸を代表するロックバンドであったが、イーグルスやザ・ドゥービーブラザースと比較すると商業的にはそれほど成功していない。もちろん、日本でも浸透度は低い。しかし、日本人ミュージシャンのセッションとなるとそれは逆転する。
 彼らは、この『HAPPY END』を皮切りに鈴木茂『BAND WAGON』、矢野顕子『JAPANESE GIRL』(1976)に大きく携わり、これらのアルバムがその後の日本の軽音楽に与えた影響から鑑みても非常に重要な水先案内人となった。もちろん、リトルフィートの面々はそんな重要な役割を担っているなどと思ってもいなかったろうし、当時は「遠く西の島から黄色い人たちが観光ついでにレコードを作りに来た」くらいにしか思っていなかったと思う。
 1972年当時のアメリカにおける日本の存在など、「侍」や「芸者」「ハラキリ」という認識の方が強かっただろうし、経済的にも1ドル360円固定の時代である。沖縄も返還されていないし、容易に日本人がアメリカ本土を訪れることも無かったはずで、実は見えないところでまだ戦争は終わっていなかった時代なのだ。そんな時に長髪のひょろひょろとしたヒッピーのような若者がやってきた・・・。しかも仏頂面で、なんでもロックを作ると言い出した。何を言っているんだこのJAPは?
しかも、サンセット・サウンド・レコーダースはザ・ビーチボーイズの『ペットサウンズ』(1966)やバッファロースプリングフィールドのレコーディングを行なったところで、有名なスタジオでもある。そんな伝統あるスタジオで日本人がレコーディング?
現地のスタッフも多分興味本位で集まった(集められた)のだと思料する。
 
 『HAPPY END』制作については、いろいろな文献が出ているので割愛するが、ローウェル・ジョージというギタリストが与えた影響というものに触れてみたい。
鈴木茂はロックギターの小僧。高校時代からベンチャーズからブリティシュロックやブルースまでドライブしたサウンドで弾きまくっていた。そんな噂は東京中に知れ渡り、大学生だった細野晴臣の目に止まった。鈴木茂は高校時代の盟友、林立夫と一緒に細野とバンドを組みアートロックやサイケデリックロックの演奏を楽しんだ。そして、時が経ち、はっぴいえんどのギタリストとして迎えられロスアンゼルスのスタジオで録音するまでになっていた。
 その鈴木茂が慣れないスタジオで緊張しながらリハーサルを繰り返していた。ギターアンサンブルを行なうためのアレンジを施す。当初はっぴいえんど側はレコーディング・コーディネーターにライ・クーダーをオーダーしていたが、そのオーダーは反故にされ、代わりに大柄で無精髭をはやした男がスタジオに来ていた。
リトルフィートのローウェル・ジョージである。
鈴木茂はスタジオでギターを弾きまくっている。すると、のそのそとその男は鈴木茂の前に来て、目の前にどっかりと座り込んだ。そして
「おまえ、すんげ~上手いなぁ。どうやって弾いてんだ?」といったそうだ。
鈴木茂が最初ぶん殴られるかと思ってびびったらしいが、褒められていることに気付き、素直に喜んでしまい、それから交流が始まったという。これだ。このジョージの言葉が日本に新しいアメリカの風を呼び込んだともいえるのだ。鈴木茂とローウェル・ジョージは情報を交換し合い、アンサンブルを固めていったと言う。
そして、鈴木茂のスライド奏法にはローウェル・ジョージが見える瞬間があったり、コンプレッサーの直列2個繋ぎなどいろいろな面で影響を受けたのではないかと思われる。
 
 ブリティッシュ・ブルースを弾きまくっていた少年は、5年もの間にアーシーで粘っこいフレーズをスライドで弾きこなせるまでになっていた。そしてリトルフィートとの交友が後のアルバム制作へと繋がっていくのだ。
だから『HAPPY END』制作時にもし当初の予定通りライ・クーダーが来ていたら、日本の軽音楽の歴史は別の方向に変わっていたかもしれない。

 リトルフィートは良くも悪くもローウェル・ジョージのバンドである。メンバー交代も起きるので、それまでの音楽性がガラリと変わってしまうこともある。オリジナルメンバーで構成された2枚目までとロイ・エストラーダの代わりにケニー・グラッドニー、ポール・バレア、サム・クレイトンが加入し名盤と謳われるサードアルバム『Dixie Chicken』(1973)を発表した頃とテイストは変わっている。その後ジョージのドラッグが重度となり、リハーサルやステージに支障をきたすようになっていく。当然ジョージ抜きのジャムセッションを繰り返すメンバー。いつしかその演奏がメインディッシュとなっていき、長いインプロヴィゼイションが彼らの持ち味になってしまうという皮肉な結果に。
ちょうど日本に来日した1978年頃は、ジャムセッションで鍛えた演奏力を武器に一番脂がのりきっていた頃といわれているが、ジョージは翌年ドラッグの過剰摂取による心不全でこの世を去った。
元々はフランク・ザッパのギタリストからスタートしたジョージだが、常にドラッグとの戦いであった(フランク・ザッパ&マザーズ・オブ・インベンションの脱退もドラッグが原因と言われている)。
 才能を自らの手で摘み取ってしまったわけだが、そのような事例は1970年代末期までは当たり前のように存在していた。
事故、自殺、ドラッグ過剰摂取・・・ジョージの死は1970年代最後の年の6月に報じられたが、私はあまり驚かなかった。ジョージは死んでいてもおかしくないくらいドラッグ過剰摂取を報じる記事を見ていたからかもしれない。
それよりもその年の1月に自殺したダニー・ハザウェイの方が、インパクトが強かった。あまりにも突然だったし・・・。

 リトルフィートはセッションミュージシャンの集まりのようなバンドである。それぞれがテクニックを有し、しっかりと与えられた楽曲に自分たちのグルーヴを投影する。そんな天才集団を発掘する機会となった『HAPPY END』はエポックメイキング的な作品である。
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2017/2/28
花形
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by yyra87gata | 2017-02-28 17:28 | 音楽コラム | Comments(0)
 
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 ザ・バンドはとてもユニークなバンドであった。
4人のカナダ人と1人のアメリカ人。彼らから生み出されるアーシーなサウンドは、生粋のアメリカ人よりアメリカン・ルーツミュージックを醸し出していた。
そして様々なミュージシャンとの交流は、解散コンサート「ラスト・ワルツ」を観れば一目瞭然で、彼らの演奏表現力の幅の広さを思い知らされた。
1976年に解散したザ・バンド。ドラムスのリヴォン・ヘルムは解散後、それまでの人脈を辿りながらソロアルバム『リヴォン・ヘルム&RCOオールスターズ』(1977)を制作。ロビー・ロバートソンやガース・ハドソンといったザ・バンドの面々と共にブッカー・T&ザ・MG’sの面々やドクタージョン、ポール・バターフィールドなど豪華なミュージシャンのラインアップで、彼らの繰り出すアーシーなサウンドの中で気持ちの入ったヴォーカルを聞かせた。
 リヴォンは、このようにザ・バンド解散後にソロアルバムを早々と発表した訳だが、最後まで解散に反対していた彼は独りぼっちになることを拒み、昔日のザ・バンドを追いかけた末、気心が知れた仲間とセッションバンドを組んだという形を取ったと後年語っている。だから、本当の独り立ちの意味で言うなら1978年に発表した『リヴォン・ヘルム』(1978)が彼のファーストソロアルバムという気がする(しかしながら、これがややこしく、邦題では『リヴォン・ヘルム2』となっており、所謂2枚目のアルバムという意味の2を邦題では使用している)。
 さて、この『リヴォン・ヘルム』だが、前作からの流れでブッカー・T&ザ・MG’sのスティーブ・クロッパーのギターが全面に押し出され、1曲目から伸びやかなソロで盛り上げている。他にもバリー・バケット、ジミー・ジョンソン、ロジャー・ホーキンスらマッスル・ショールズ人脈も参加しており、アメリカン・ルーツミュージックを探る上でもとても重要且つ聴きやすいアルバムとなっている。
 但し、このアルバムは先の『リヴォン・ヘルム&RCOオールスターズ』の影に隠れてしまい、あまり商業的に成功していないが非常に高レベルな作品と確信する。それは、ジャケットではスティックを持ち、ポーズをつけているリヴォンが、実はドラムをウィリー・ホールやロジャー・ホーキンスに任せ、ヴォーカルに専念している点でも歌に賭けた思いが伝わってくるからだ。プロデュースはスティーブ・クロッパーに任せ、サウンドデザインも上々である。
 
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 リヴォンはザ・バンドではドラムスを担当していたが、歌唱しながらのハートのこもったプレイが真情で、ドラムテクニックという面では同僚のリチャード・マニュエルの方が器用だったとも言われている。しかし、ライブプレイでは歌唱とドラミングが一体化し、彼独特のグルーヴを生み出す(1989年、リンゴスターのオールスターバンドで来日したときに盟友リック・ダンコと「ウェイト」をプレイしたときなどはそこにザ・バンドがいるかのような錯覚にとらわれたほど気持ちの良いグルーヴであった)。
 だから、このアルバムのサウンドがとても良いものだったので、この作品をリヴォンがドラムプレイしながら歌うというライブを観てみたかったのだが、それは実現されなかった。
『リヴォン・ヘルム&RCOオールスターズ』発表時には凄腕のメンバーを揃え初来日公演を日比谷野外音楽堂で行なったのだがら、このセカンドアルバムが発表されたときにリヴォン・ヘルム名義で来日公演が行なわれなかったことが悔やまれる。
 ちなみに、その後のライブについては、1980年代に入り、ロビー・ロバートソン抜きでザ・バンドを名乗り来日したことがあったが、それはもうジミー・ペイジが抜けたレッド・ツェッペリン、ポールやジョンが抜けたザ・ビートルズに等しいもので、私はコンサートを観る気もおきなかった。ロビーのキコキコと鶏の鳴くようなピッキングなくしてザ・バンドは語れないのだ。

 さて、この『リヴォン・ヘルム』。私はこのレコードをいつどこで購入したのかを思い出してみる。私の記憶ではFENでアルバムの1曲目である「エイント・ノー・ウェイ・トゥ・フォーゲット・ユー」がオンエアされ、感動し、そのサビの部分だけを紙に書きとめレコード屋に走った。
当然レコード屋のお姉ちゃんは何のことだか分からず「リヴォン・ヘルム?何ですか、それ、食べれるんですか?」と言うような顔で私を見て、メモ用紙にカタカナで「レボンヘルム  エイントノーウェイトウフォーゲッチュー」って書いて、「あとで店長からレコード会社さんに聞いてもらいます」と神妙な表情で答えてくれた。
 その2週間後、家の電話が鳴り「お客様のレコード、あれ、リヴォン・ヘルムのアルバムの1曲目でしたね・・・注文しますか?」という恐ろしいほどのサーチ能力のあるレコード屋の店長の声が私の耳に木霊した。

 いまほど情報も無い中、あのレコード屋のスキルはピカいちだった。

2017/2/17
花形

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by yyra87gata | 2017-02-17 13:54 | アルバムレビュー | Comments(0)