音楽雑文集


by yyra87gata

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関西の熱い風

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 GSブームと同時期に関西フォークという呼ばれ方をしたムーブメントが1960年代後半に存在した。高石友也や岡林信康がその中心に位置し、若者が自分の言葉で歌を作り、発表し始めた。今では当り前のようなこの事象。

それまでの日本の歌の世界は職業作家が作った歌を「歌手」が歌うという分業が当り前で、自分で歌を作って発表するといったことは皆無であった。きっとこれは海外からの、特にボブ・ディランに感化された若者の行動がそのムーブメントにつながったのではないだろうか。ディランやビートルズがそうであったように自分の言葉で自分の歌を作る。東のカレッジフォークと共に関西を起点にフォークブームは、素人が自作自演を行なうきっかけとなっていった。

そして、それから数年後、ブルースやソウルの声も上がっていく。ライブハウスからブルースバンドが数々生まれ、その中からプロとしてデビューするバンドも増え始めた。

音楽の中心は東京と考えられていた時代は昔日のものとなり、関西発の音が全国に発信されていった。

その関西発の音楽の中でもこの2つのバンドは伝説となっている。

「ソー・バッド・レビュー」と「上田正樹とサウス・トゥ・サウス」。

関西フォークでは割と標準語で歌詞を作り、標準語で歌われる歌が多い中、このソー・バッド・レビューや上田正樹とサウス・トゥ・サウスは関西弁を駆使し標準語にはないノリをビートに乗せていった。そしてそれは現代のラップにも繋がる言葉遊びも存在した。また、関西弁をあの時代にここまでフューチャーすることができたのは、当時日本のロックと言うものが全然ビジネスになっておらず、超マイノリティな音楽だったので、逆に自由度が大きかったからでは無いだろうか。つまり、それまでの日本のロック業界は、「GS」で失敗していたので、職業作家によってガチガチに作り上げられたGSとは一線を画したかったのかもしれない。

方言丸出しのロックバンド。そのような歌がレコード化されること。まさに、自由なのである。

その言葉の問題だが、東北弁でも、べらんめぇの江戸っ子の言葉でも、九州弁でもない。関西弁はビートに乗りやすいことをソー・バッド・レビューや上田正樹といったバンドマンは知っていたのだろうか。それとも気負い無く生活の歌をビートにのせていっただけなのか。あまりにも音楽的グルーヴにマッチした化学反応ではないか。

関西弁は今でこそ標準語のようにテレビからあふれ出てきているが、1980ごろまでは一つの方言であり、ブラウン管からは今ほど飛び出してはこなかった。

関東の人間からすれば、関西のテレビ局が制作するバラエティーでしか関西弁はお茶の間には入ってこなかったのだ。

「ヤングおー!おー!」「ラブアタック」「プロポーズ大作戦」「パンチDEデート」など。

「新婚さんいらっしゃい」といった長寿番組もあるが、その番組でしか関西弁は登場しなかったし、関西の芸人も今ほど東京の番組に出演していなかった。そして前述の番組を揚げて分かるとおり、殆どがバラエティー番組である。歌の世界に関西弁はそれほど登場していなかったのだ。

では、関西弁はいかにしてお茶の間に入っていったのか。

やはり、1980年ごろのMANZAIブームが起点となり、「オレたちひょうきん族」がドリフや欽ちゃんを駆逐したことで明石家さんまや紳助が台頭し、東京進出により関西弁が本格的に東京に上陸したのだ。

だから、私は、そんな時代背景の中でまだ「オレたちひょうきん族」が生まれる前に、先ほどのソー・バッド・レビューのレコードを聴いた時の衝撃といったらなかったのだ。

これが同じ日本語かと思えるほど、ブルースの八分の六のリズムに心地良く乗る言葉たち。

それまでの関西出身の歌手、例えば沢田研二でも和田アキ子でも歌ってしまえば標準語の歌となっていたので、これほどまでに関西弁を強調した歌というものを私は聴いたことが無かったのだ。

関東圏で生きてきた者にしてみれば、関西弁は外国語の発音に近かった。また、語彙も標準語とはかけ離れている。自分は「わい」あなたは「自分」。もうこれだけでも可笑しい。

今の若者にしてみれば、小さいときから関西弁を聞き、東京の子供でも「めっちゃ」とか平気で使う昨今。そんな人にしてみたら私の驚きなど気にも掛けないことかもしれないが、当時は独立した言葉に聞こえたのだ。

例えば、ソー・バッド・レビューの「おおきにブルース」などはトーキングブルースで、「そやがな・・・おおきに」とか「わいや、わいやがな・・・おおきに」とか、大阪人の口癖をすべて「おおきに」という魔法の言葉で括ってしまったブルース。このような歌は、東京出身の人間は絶対作ることはできない。

また、上田正樹とサウス・トゥ・サウスのアルバム『この熱い魂を伝えたいんや』(1975)の「むかでの錦三」という歌。まずもってこのタイトルのセンス。そういえばソー・バッド・レビューのアルバム『SOOO BAAD REVUE』(1976)に収録されている「青洟小僧」「しょぼくれあかんたれ」「お母ちゃん、俺もう出かけるで」も相当なセンスである。

タイトルだけみていると演歌のような雰囲気もあるが、どの曲も黒いグルーヴが溢れる聴き応えのあるソウルフルな曲ばかりである。

私の高校時代、日比谷野外音楽堂で開かれるイベントに行けば、関西系のバンドが必ず1〜2つは出演していた。その中で上田正樹とサウス・トゥ・サウスもいたし、ソー・バッド・レビューを解散した石田長生がヴォイス・アンド・リズムを率いてソウルフルなギターを奏でていたこともあった。

そんな光景を切り取ってみても、関西のノリは明らかに違っていた。

とにかく客を乗せることが上手い。汗をかきながら身体全体でシャウトし客を鼓舞する。

「乗ってるか!ええか?ええのんか?!」という関西弁が木霊する。

変な意味で関西弁に慣れていない我々は、この言葉は笑福亭鶴光のオールナイトニッポンで鶴光が卑猥な意味としてラジオで話していたから、上田正樹が汗まみれになって「ええか?ええのんか?」と叫んでもニヤニヤ笑ってしまうということもあった。

それほど関西弁は普通に入ってこなかったのだと今改めて思う。

また、東京のバンドは演奏を黙々と行なって、どちらかと言うと技を見せつけるようなバンドが多かったように思うが、関西のバンドはMCを聞いていても「ノリつっこみ」をしたり、バンドメンバー同士での会話を聞いていても漫才をしているようなノリで、どこまで本気なのか分からなくなる時もあった。しかし、演奏に入ると「いなたいビート」の応酬となり泥臭くなっていく。そのギャップが面白かった。

上田正樹の「悲しい色やね-OSAKA BAY BLUES」、BOROの「大阪で生まれた女」、やしきたかじんの「やっぱ好きやねん」など1980年前後から大阪弁を使う歌はバラッドが多くなってきた。

時代の音楽性もあるかもしれないが、ブルースやソウルでは商業的な成功は出来ないということの答えになるかもしれないが、聞き手からすると『SOOO BAAD REVUE』や『この熱い魂を伝えたいんや』というような熱いサウンドを再び聴いてみたいと思う冷たい夏である。

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2017年8月18日
花形


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by yyra87gata | 2017-08-18 19:57 | 音楽コラム | Comments(0)

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本当にユーミンのチケットは取れなかった。まだチケットぴあも出来る前のこと。会場付近のプレイガイドに並んで直接購入するという頃の話。

中学生や高校生の頃の私は知り合いにコネがあるわけでもなく、朝日新聞の社会面の下段を毎日監視し、コンサート情報を得るしかなかった。そしてひたすら並ぶ・・・。

それまでの邦人アーティストの大御所プロモーターはキョードー系列や日音、労音であったのに対し、1980年前後、ディスクガレージやスマッシュ、フィリップサイドなどといったプロモーターがタケノコのように生まれた。その頃からコンサートチケット争奪戦はあちらこちらで勃発し始めた。コンサートがビジネス化したのだ!

それまでのチケットの取り方としては、良い席で見たければそれなりの会費を払いキョードーや労音の会員になり、先行予約などという飛び道具による取得が一番の近道であった。しかし、中学生や高校生の分際でそんな金があるわけでなく、いつも残り物の集まるプレイガイドに並んでチケットを得るという基本的なやり方が主であった。だから、並んでいても5人くらい前で予定販売枚数が終了するなんてことは日常茶飯事で、ユーミンのコンサートチケットを取った時などは3年目でやっと自分にまで回ってきたのだった。

高校3年の夏休みが始まった日、夜8時、私は友達と関内の駅に集合していた。

日中の照り返しを吸収した路面は生暖かく、蒸し暑い夜であったが、私は友達と2人である建物を目指していた。キョードー横浜の事務所である。

翌日の朝9時に「松任谷由実コンサート リ・インカーネーションツアー1983」の前売りチケットを購入するための行動である。もちろん、徹夜で並ぶのである。

この頃は、プレイガイドやプロモーター事務所に販売予定日前から徹夜で並ぶと言う行為が一般化しており、「甲斐バンドの武道館公演では新宿のプレイガイドに2週間前から徹夜組が出た」とか「オフコースの武道館公演は徹夜で並んだのにも係らず、購入できなかったファンがプレイガイド前で小競り合いになった」などという情報が錯綜していた。

そのような状況であったから、徹夜でもしなければユーミンなんて一生観ることはできないと思ったのだ。

夏の朝は早い。徹夜組は50名ほどだったろうか。当時はコンビ二も携帯電話も無く、家から持ってきた弁当やお菓子で食いつなぎ、交代で近所の公衆便所に行く。前後に並ぶファンとは共通の話題となるユーミンの話をすれば、妙な連帯感も生まれてくる。私の前後はOLさんの2人連れと女子大生の2人連れだったので、お姉さんたちと話す感じがたまらなく甘美な時間であった(そりゃそうだ、男子校だもんな!)。

そして、チケットを手にしたときは単純に嬉しかった。思わずチケットカウンターで友人と快哉をあげた。なんせ3度目の正直だったから。

1983年9月21日・神奈川県民ホール。1階30列目。1階の後ろから2番目という位置だが、中央の位置だったので全てが見渡せる良い席であった。

ユーミンはこのツアーからそれまでのバンドメンバーの何人かを入れ替えていた。今はキーボーディストの重鎮であり、ユーミンのツアーには欠かせない存在となっている武部聡志はこのツアーからバックに起用されたぺーぺーであった。また、ベースの田中章弘も同様(田中章弘は鈴木茂&ハックルバックの印象が強かったので、目の前でユーミンと一緒にステップを踏みながらチョッパーベースを弾いている彼を観たときはびっくりした)。

ギターはお馴染みの市川祥治だが、もう一人のギターは窪田晴男。のちにパール兄弟を結成するのだが、この頃は近田春夫とビブラトーンズのメンバーだった。とにかくカッティングが上手いギタリストで16ビートは当り前、32ビートを織り交ぜながら世界観を作り上げる天才。後にTM NETWORKの大ヒットソング「Get Wild」の疾走感溢れるギターも窪田晴男によるもので、職人である。コンサートでもエッジの効いたカッティングがバンドサウンドを引き締めていた。

さて、そのようなメンバーにガッチリと固められ「リ・インカーネーションツアー」は幕を開けた。電飾フロアが輝くシンプルなステージでオブジェなどまったく無い。そのステージ上をテニスルックやレオタード姿のユーミンがスポーティーに走り回り、歌いまわる。

天井からのライティングは一切無く、ステージ後方から人的作業でバリライトのような動きを演出する。通常のピンスポットと後方からのあおり、地面の電飾という3方面からの光でユーミンが浮き上がって見えることがしばしばあり、幻想的であった。

曲はアルバム『リ・インカーネーション』(1983)を中心に演奏。もちろん荒井由実時代の歌や弾き語りを交えながら巧妙なMCで客を飽きさせない。

MCで「私に無いものは、生活感と歌唱力なのよね~」とぼやいていたが、コンサートにおける歌唱はその会場に宿る観客との呼吸もあるので、上手い下手というものを超越する。だから、歌唱力はたとえなくても、説得力は100%以上であった。

特にエンディングに向けての「キャサリン」~「埠頭を渡る風」~「カンナ8号線」~「REINCARNATION」は、その後のアンコールがいらないほど(アンコールも良かったです)、完成されたパッケージだった。

私は、このコンサートを生録をしており(そういうこと、良くやってました)、何度も聞き返しているが、何回聴いても飽きない。

私はこのツアーのあとも数回ユーミンのコンサートツアーに足を運んでいるが、このコンサートツアーのインパクトは大変大きなものであった。

理由はシンプルである。華美な演出が無く、歌に集中して観る事ができたからである。

歌唱力ではない説得力である。

それが生録した音から伝わってくるのだ。

そういえば、このコンサートの翌年からチケットぴあは電話によるチケット販売システムを構築し、徹夜で並んで席を取るという方法が無くなっていった。

我々は並ばずしてチケットを購入できるようになったが、良い席と悪い席の振り分けが不透明となり、徹夜すれば良い席だったという努力はまったく報われない結果となっていく。

もしかしたら、当時のファンは良い席を取るために並ぶところからコンサートは始まっており、その苦労をコンサート会場で発散していたのかもしれない。

だから、私もチケットぴあが出来るまでのコンサートの方が記憶が鮮明だったりする。

リ・インカーネーションでは無いが、もう一度チケットをプレイガイドで一斉販売する形式を取る方法にしたらどうなるだろう。ネット社会における逆流のコミュニケーション。

・・・混乱して終わるだけか。

2017/8/2

花形


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by yyra87gata | 2017-08-02 09:24 | コンサートレビュー | Comments(0)