音楽雑文集


by yyra87gata
 
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 吉田拓郎のイベントといえば「朝までやるぞ!」でおなじみのオールナイトコンサートである。
拓郎が主催したオールナイトコンサートといえば、1975年にかぐや姫と一緒に開催した「つま恋」。1979年の「篠島」。そして、1985年に再び「つま恋」で開催した3回がある(1987年に南こうせつのサマーピクニックにゲスト出演したオールナイトコンサートもあるが、それは除外)。
 1975年の「つま恋」については、私は参加していないのでビデオや当時の記事、拓郎やこうせつのラジオでの発言、実際に参加された人の話を元に記載するが、このイベントは5万人とも6万人とも言われる観客が一堂に会した当時の日本最大の規模のものだった。チケットが売り切れ、実行することが決定した後もその規模感をつかめる関係者が誰一人もいないという今思えば恐ろしいものだ。
当時もアメリカのウッドストックやイギリスのワイト島フェスティバルの話は海の向こうからのニュースで聞こえていたが、誰もそんなイベントに参加していないし、オールナイトコンサートで45万人とか60万人も集まるということ自体、当時の日本では誰も想像すら出来ない。そのような中、開催された「つま恋」は、日本ビッグイベントの礎となった。

 拓郎はウッドストックがやりたかったわけではなかったという。前年にアメリカでボブ・ディランのライブを観て、大勢の観客が一人のミュージシャンを目当てに集まるという、今となっては至極当たり前のコンサート形式を目の当たりにしただけだ。
 当時の日本は、フォークもロックもマイナーな存在で一人のミュージシャンがコンサートホールを満杯にすることなどできなかった。そして、そのため何組ものミュージシャンが対バン形式で巡業する。当然、客は好みのミュージシャンでは盛り上がるが、そうでないと無駄な時間を過ごすことになる。そんな苛立ちを演者側の拓郎は読み取っていたのだ。だから、自分のファンのためだけのコンサートツアーができないものかという試行錯誤をしていた。
 また、大勢のミュージシャンが出演すると音響も照明も画一化されてしまう悩み。そして、会場ごとに設備も異なるため満足のいく演出も出来ない。また、興業主とのやりとりや運営面での制限も出てくる。
自分のためのコンサート・・・つまり、音響、照明から特殊効果、グッズ販売などのコンサート運営に至るまでのノウハウが無い当時の成熟していない日本の若い音楽。そのノウハウを知るために渡米し、ディランのためだけに遠方から集まるファンの群れを見ながら日本でのビジョンを思い描いたという。

 6万人とも7万人とも言われている観客動員数からもそれは読み取れる(主催者側が人数を抑えて発表するのが通例だが、何故か警察は主催者側発表より少ない5万人と発表した)。PAシステムやインフラ、果てはトイレの数からスタッフの弁当の数まで未開の問題だったという。

 拓郎が夕方ステージに登場。明らかに目は泳ぎ、声は震えている。一生懸命声を前に出しているが、それは緊張からか、どこかおぼつかない。1時間30分のステージ予定時間を半分の時間で終え、さっさと舞台袖に引き上げて来た時、拓郎は緊張で憔悴していた。
 拓郎はそれまでのステージで「帰れコール」の洗礼を一番受けてきたミュージシャンだった。
フォークのプリンスとしてデビューし、第三回中津川フォークジャンボリーでそれまでの岡林信康の地位を揺るがし、ニューリーダーとなるが、「結婚しようよ」「元気です」「旅の宿」などの大ヒットによりフォークのコアのファンからは商業主義とのレッテルを貼られ「帰れコール」の的となっていた。入場料を払い、拓郎が出てくると「帰れ」を連呼する集団。そのような今では想像がつかない状況を肌で感じている拓郎は「つま恋」が決まっても「5万人が攻めてきたらどうしようか」などといった思いが常にあったという。

 かぐや姫のステージ・・・1975年の4月に解散したばかりの3人であったが、拓郎の声掛けにより、急遽再結成。ファンを驚かせたという。
ステージでは、南こうせつお得意のお祭り騒ぎを行なっているが、どこか地に足が着いていない状況で、とにかくステージを進行させることだけに集中していたという。それほどまでに闇に蠢く5万人という群集は演者を狂わせたのだ。

 舞台裏では各地のイベンターや芸能プロダクションの社長達は、日本で初めて行なわれているビッグイベントに興奮していた。普段は仏頂面の社長たちもその時は拓郎やこうせつたちのセコンドの如く彼らに水を与え、タオルで仰ぎながらサポートしていたという。まだ見ぬ頂を誰しもが感じていたのだ。

 ビッグイベントの黎明期は「中津川フォークジャンボリー」や「箱根アフロディーテ」「椛の湖フォークジャンボリー」などが各地で開催されていたが、その集大成が1975年のつま恋であることは間違いない。このビッグイベントがその後のイベントのアイコンとなり数々のイベント生んでいった。
そして、各地のイベンターも拓郎と一緒に大きくなっていったといっても過言では無い。
それまでの労音や民音、または、いかがわしい興業主が介在する興業の世界にイベンターという新たな職業が生まれた。それまでの権利問題など相当な苦労はあったであろうが、若者の音楽は若者がプロデュースしていくと言う気概だけで突き進んだという。
1975年の「つま恋」はコンサートだけでなく、その周辺環境をも変えていったターニングポイントだったのだ。

 拓郎のコンサートは男臭い。轟音が響き、それは大津波のように全てを飲み込んでいく。1975年と1979年の2回のイベントについては、「演奏者」「観客」どちらかが倒れるまでやる、という勢いがあり、コンサート自体は和気藹々と進む中にも緊張感もあり、終演間際になると観客は集団ヒステリー状態となっていく。
特に1979年の篠島は島という閉ざされた空間の中でのイベントであったので、拓郎も観客も逃げ場は無いという気分がアドレナリンを増幅させていた。
 走り続けてきた70年代との決別。そしてその集大成とも言えるアルバム『ローリング30』(1978)を体現したイベントが篠島だった。
ラストの「人間なんて」で拓郎は観客に向かい感謝を述べると共に、「お前らも元気で生きろよ。負けんなよ」と叫び続けた。声が枯れても叫び続けた。
演奏が終了し、真っ赤な朝日が昇ったとき、70年代が終わったと感じた夏であった。
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 拓郎のオールナイトイベントは4年ごとに行なわれるオリンピックのようなものだ、という話を聞いたことがある。1979年の次の開催は1983年・・・。
1983年頃の拓郎はコンサートとレコーディングに忙殺。フォーライフの社長も辞め、ミュージシャンに徹していた。しかし、オールナイトイベントを企画しようとした矢先に候補地であった「つま恋」でガス爆発事故が発生。開催に「待った」がかかってしまった。
時間だけが流れて行く中、1984年が過ぎ、拓郎の言動に変化が起きていた。
予定調和だけのコンサート・・・特定の曲を演奏すれば盛り上がる・・・それ以外の曲の立場は?70年代を追い続ける拓郎マニアたちの勝手な偶像崇拝。拓郎の表現したい曲とファンの求める曲とのギャップ。冷めた感覚の拓郎の言葉がラジオから頻繁に聞こえた。
また、「王様達のハイキング」と題したこの頃のコンサートツアー。
拓郎はこのコンサートツアーで母親に苦言を呈されている。「王様」と自分で名乗ることの恥ずかしさ。傲慢さ。母親の言葉が胸に突き刺さった。
そしてプライベートな問題も加わり・・・。拓郎は疲れきっていた

 オールナイトイベントは突然発表された。1985年夏開催。前回の1979年から6年の年月が経っていた。場所は「つま恋」。
イベント開催発表後、「拓郎引退」「拓郎最終公演は、つま恋のオールナイト」等のニュースが新聞紙面に踊った。それに対して拓郎は沈黙を続けた。
拓郎からは「人生最良の日にしたい・・・」というコメントだけが発表され、その言葉だけが一人歩きをしていた。
 
 1985年夏。つま恋。
何の気負いも無く、その人はゆっくりと少々猫背な姿勢で我々の前に現れた。そして、マイクで「愛しているぜ!」と、いきなり叫んだ。
「今日は俺の人生最良の日にしたい。それを手伝ってくれるミュージシャンを・・・」
と、メンバー紹介が始まった。
いつものイベントなら雄叫びと共に「ああ青春」から始まっていたが、ちょっと調子が狂った。
1985年6月に発表されたアルバム『俺が愛した馬鹿』のレコードジャケットにはテレキャスターのデザイン。そして見開きには拓郎自身を葬るかのように墓標が描かれていた。
そう、引退説が確実視されたのは、このイベント直前に発表されたアルバムのデザインにも関係している。拓郎は、死に場所を求めてこのイベントを開催したのか。
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 拓郎はそれまでのイベントのような気負いも無く、リラックスしながらステージを進めていく。ゲスト出演するミュージシャンたちは、口を揃えて「拓郎、引退するな!」とコメントを入れる。当の本人はにこやかにその風景を見ているだけ。
そんな雰囲気で進められているので、客もそれまでのイベントには無いとても落ち着いたものであった。そこには1979年の「篠島」と同じ緊張感は存在していない。
あの頃とは時代も違うし、我々の置かれた場所も違う。そして一番の違いは拓郎のテンションだ。
とにかく叫ばない。淡々と歌う。ゲストが来たらまるで「さんまのまんま」の明石家さんまの如くゲストのエピソードを話し、歌に入る。
 
 2部が終了し、深夜0時を過ぎてもコンサートは淡々と進む。途中近隣住民から苦情が入り、PAの音量を下げるという一幕もあった。そんなこともあり、なぜか冷めた印象のイベントだった。
 太陽が昇っても全ての曲が終了していなかった。いつまでやるのか、という雰囲気になっていた客もいた。それは誰しもが拓郎と叫びたかったのかもしれない。オールナイトコンサートをやりきる達成感を味わいたかったのかもしれない。
 最後の曲は「人間なんて」でも「アジアの片隅で」でもなく、「明日に向かって走れ」だった。早い8ビートにアレンジされ、歌い回しが変わっていた。そして延々続く青山徹のギターソロ。
演奏が終了し、拓郎が舞台袖に消えた時、私は「拓郎はもうステージには上がらないのではないか」と思った。最後まで肩の力が抜けたステージだったからだ。
但し、拓郎の最後のオールナイトは決して不完全燃焼のイベントではなかった。ただそれまでのイベントとは趣が違っていたということだけだ。ただ、それだけだ。

 それから2年間拓郎はステージに立たなかった。映画出演。テレビのレギュラー出演などそれまでの活動とは異なった動きを見せていた。
それは、本格的に全国ツアーを再開した1988年4月まで沈黙した。そして1988年のステージは衣装もスーツとなり、随分大人の雰囲気になってステージに帰ってきた。それまでのパワーで押すタイプではなくなっていた。

 拓郎のコンサートに行くと、いまだに観客の中から「朝までやれー!」という野次が飛ぶ。70歳を超えたミュージシャンと同年代の観客。それは到底無理なことだが、本音でもある。
拓郎は笑ってスルーし、「あんたらそんなことしたら、もう死ぬよ!」とつぶやく。
でもその言葉には「朝まで伝説」を駆け抜けた男だから言える凄みもある。
 時代を創り、切り開いてきた男の仕事である。

2016/11/4 花形

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# by yyra87gata | 2016-11-04 20:12 | 音楽コラム | Comments(0)
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 ユーミンが全国ツアーに出るようだ。
長いこと一線で走ってきて、まだ全国ツアーができるということはとてもすばらしいことであるし、何度か彼女のコンサートを観たことがあるが、あのクォリティーをずっと保ち続けていること想像すると、心底関心してしまう。

 私はたまにユーミンのアルバムをターンテーブルに乗せる。以前、このコラムにも書いたが、私の好きなアルバムは『ミスリム』(1974)『時のないホテル』(1980)『昨晩お会いしましょう』(1981)の3枚。この3枚は他のアルバムに比べて聴く頻度が高い。
他のアルバムも聴くことは聴くが、販売がCDオンリーになった『Delight Slight Light KISS』(1987)からはあまりユーミンを聴かなくなった。正確に書くと、聴きこまなくなった。CDはお手軽なのでカーステなどでは流すこともあるが、車の運転中は音楽に没頭出来ないし、部屋で聴くのならレコードに手が伸びる。そして、ユーミンの落ち着いた世界観はアナログレコードで聴かないと心に沁みない、などと勝手なこと思いながら盤面の埃を取る日々が続いたのだ。
 
 それでいて私はメジャーな歌が収録されたアルバムを避け、あまり目立たない歌が多く入った作品を好んで聴いていた(例えば『紅雀』(1976)や『悲しいほどお天気』(1979))。「卒業写真」や「ルージュの伝言」が収録された『COBALT HOUR』(1975)、「恋人がサンタクロース」が収録された『SURF&SNOW』(1980)などは殆どターンテーブルに乗せたことが無い。ラジオから頻繁に流れる作品をわざわざ聴くのも、という思いからかもしれない。 
 私は無性にレコードが聴きたくなる周期があり、夜通し空が明るくなるまで聴くことがある。荒井由実時代からゆっくりと聴き込んでいこうかなと思い、先日その機会を得た。
中学時代から聴いてきた歌だが、歳を重ね、50歳を超えて聴くユーミンはなんとも言えぬものがあった。もちろんユーミン自体が20歳台に作った作品が多いし、その多くは女性目線の歌で占められる。だから、中年の男が聴くと少し俯瞰でモノを見る感覚だったので非常に面白かった。そして、ふとした瞬間にほろっと来る情景が出てくると、やはりユーミンは天才なんだと改めて思う。
今回のレコードを聴き直して一番の収穫は『14番目の月』(1976)であった。この作品は荒井由実名義の最後のオリジナルアルバムで、つまりは彼女の独身最後のアルバムである。この作品からプロデューサーは松任谷正隆となる。
 
 さて、何が収穫かというと、このアルバムがそれまでのアルバムと違う大きな点があるということだ。そう、それはミュージシャンである。このアルバムで「キャラメルママ」は、ユーミンのレコーディングメンバーという不文律が崩れたのだ。ベースの細野晴臣、ドラムスの林立夫がアメリカ人ミュージシャンに変更された。
中でも、ベースのリーランド・スクラーのプレイは圧巻であった。
私は先ほども書いたが、ユーミンを聴く時に彼女のメジャーな曲を避ける傾向があり、それらをあまり聴き込まないで来た。そして、このアルバムのメジャーな曲といえば数々のシンガーにカバーされている「中央フリーウェイ」なのだが、この曲の凄さが今回聴きこんでやっと分かったのだ。
この歌、ユーミン自身も出来上がった時に相当自信があったようで「私は天才だ」「この曲は日本のシティポップと呼ばれる相応しい歌だ」と喧伝していた事を思い出す。
私もそんなユーミンの声を聴きながら、当時はそんなものかな、と思いつつ聞き流していた。何故なら、この歌をカバーしていたハイ・ファイ・セットや庄野真代の歌ったヴァージョンの方が私は聞きやすかったし、そのせいか曲の成り立ちよりもヴォーカルのレベル差を感じてしまい、ユーミンのヴォーカルが中々耳に入ってこなかったのもしれない。
 しかし、今回アルバムをターンテーブルに乗せて聴き始め、「さざ波」「14番目の月」の軽快なリズム、「さみしさのゆくえ」「朝日の中で微笑んで」へ続くドラマチックな展開。そして場面展開するように「中央フリーウェイ」へと続く、流れるような曲順に酔いしれた。
 恋人を乗せた車が中央高速道路を八王子に向けて走る様を描くこの曲。松任谷氏が荒井由実とデートを終え、自宅に送り届ける時の情景なのかもしれない。そんな切なくも幸せに満ちた瞬間を切り取った秀作だ。そして音楽的に言えば、この歌はリーランド・スカラーのベースに尽きるといっても過言では無い。
リーランド・スカラーはジェームス・テイラーのバックバンドや「ザ・セクション」というスタジオミュージシャンの集合体バンドに属してした腕利きである。録音当時は29歳。
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 彼のベースから繰り出される西海岸の音とヨーロピアンなユーミンが融合するのかどうか。なぜ、リーランド・スカラーなのかという疑問もあるが、1970年代当時の日本のスタジオミュージシャンに絶大な人気のあったジェームス・テイラーのバックメンバーを起用するという単純な理由だったのか。
それはともかく曲を聴く。とにかく、ベースの動きに注目。お洒落なイメージなこの曲の成立はベースのノリなのだ。16ビートでスウィングしているというか・・・とにかくベースが歌っているのだ。それこそ、ユーミンを邪魔することなく、ユーミンより歌っている。
 最近、私はレコーディングしていてトラックごとに楽器を分離して聴くことがよくあるが、気持ちの良い演奏はベースを単体で聴いても成立する。そして、リーランド・スカラーのベースはまさにそのもので、ベース単体で気持ち良くなれるのだ。こんな気持ちの良い音・・・メジャーな歌を避けていたため、今まで気がつかなかったのだ。

 『14番目の月』の1作前のオリジナルアルバムは『COBALT HOUR』(1975)。このアルバムも先ほど書いた理由であまり聴きこまなかった。
が、しかーし。もう1曲目からノックアウト。
ベースが・・・ベースが・・・。
 1曲目はタイトル曲の「COBALT HOUR」。「中央フリーウェイ」が中央高速だったら、この曲は「首都高速1号線」である。いすゞべレットGTをぶっ飛ばしている風景。
ベースは細野晴臣。まぁなんというか、イナタイというかロイクゥというか、もう「ド・ファンク」である。
「タワー・オブ・パワー好きでしょ、細野さん」といいたくなるようなベースが繰り広げられているのである。耳をつんざくような茂のスライドギターで私は虫の息となる。
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 で、2曲目の「卒業写真」で一気にクールダウン。もう頭をかきむしった。
5曲目の「ルージュの伝言」を聴き終り、盤をひっくり返していきなり「航海日誌」という壮大な歌。「こんな濃密なアルバム、集中して聴き込んでいると死ぬな」と思っていたら、この歌には死生観が込められていることに気づく。ユーミンの歌には時々こういう死生観の歌があるが、非常に心地良く聴くことができるのは彼女のフラットな歌唱と高度な演奏、編曲の妙なのだと思う。「ひこうき雲」「ツバメのように」「ANNIVERSARY」なども同様で、死を扱った作品はナーバスになりがちだが、彼女の手に掛かると、かえって潔く感じられる。
 7曲目はその死生観が恋人に移る。「CHINESE SOUP」は恋人をスープに煮込んじゃう歌。
さやえんどうの「さや」は私で豆は別れた男たち。さやをむきながら、豆は鍋に落ちていく。そして「煮込んでしまえば、形もなくなる、もうすぐできあがり」と歌う。ちなみに吉田美奈子ヴァージョンはこの歌詞の最後に「愛してるわダーリンいつもいっしょにいてね」と早口で呟く。これが・・・怖い。もう死んじゃう。
 8曲目は軽快で愛らしい「少しだけ片思い」。毒気のある7曲目の次にこの歌を持ってくることで、馬鹿な男たちは手玉に取られてしまうのである。山下達郎のコーラスも秀逸。
 9曲目の「雨のステーション」でたっぷり聴かせ、最後の「アフリカに行きたい」で終結。と思いきや、飛行機のSEは1曲目の「COBALT HOUR」に戻るのだ。
この構成力。当時の若手スタジオミュージシャンの英知が詰まった作品である。

 2枚のアルバムを聴く中で、リーランド・スカラーと細野晴臣。時代性もあるが、同世代の2名が繰り出す音は、アメリカ人の方が細かく緻密な音を出し、日本人の方が黒人のグルーヴを出しているようにも聴こえた。
『14番目の月』で最後に収録されている「晩夏(ひとりの季節)」はユーミンの真骨頂とも言える日本的なスローバラードだが、リーランド・スカラーは要所要所を抑えながら見事にプレイしている。

 新たに発見したことに喜びを感じたが、今まで気がつかなかったこと(気がつけなかったこと)を残念に思う秋の夕暮れである。

2016/9/14
花形
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# by yyra87gata | 2016-09-14 19:03 | アルバムレビュー | Comments(0)
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  アメリカンニューシネマの主人公たちは、ヒーローでもなければ、絶世の美女というわけでもなく、みな市井の人たちである。アメリカンニューシネマは、反体制的な人間(主に若者)の心情を綴った作品群を指し、先ほどの主人公たちは時代の波に飲まれながら自分と向き合い、新たな展開を生み出すところに最大の見所があった。
そしてどの作品にも当時の若者の意見を代弁した等身大のテーマがあった。
気ままに生きる「イージーライダー」は、長髪で髭を蓄え、大型バイクで大陸を走る。しかし、最後は保守的な男(社会)に撃たれる。
悪党は悪党でも、もっと金持ちの悪党から金を奪う。「スティング」のどんでん返しはいつ観ても痛快だ。
同じ悪党でも「俺たちに明日はない」「明日に向かって撃て!」といった悪党にスポットを当て無軌道な行動ながらも硬い友情で綴られた儚さ。死という明日しかない悪党の笑顔が画面に広がる。
ニューヨークの底辺で生きる男。破滅的な末路を迎える「真夜中のカーボーイ」や「タクシードライバー」の狂気はアンハッピーエンドだが、誰もが陥るかもしれない現実として共感できる内容だ。

 もともと「風と共に去りぬ」や「ローマの休日」に代表される黄金のハリウッド映画は、栄華に満ちた古き良き時代のアメリカを代表する作品で、予算をかけて観客に夢と希望を与えるハッピーエンドを世に送り出していた。しかし時代も変わり、ベトナム戦争や不況の波が押し寄せるとアメリカ国民は次第に国に対して懐疑的になって行く。
そんな中、映画も楽しむだけのものから表現の一部という認識に変わり、若者が低予算で制作する映画が増えていく。そしてそこに世の中の懐疑的な部分を訴える内容が多く盛り込まれ、若者たちの共感を生んでいった。
しかし、作品はただ世の中に反抗するだけの内容ではなく、最後は結局体制に潰されてしまうというオチもつく。それは暴力や法を犯すことしか解決できない若者だから、その結末は現状の世の中では「こういうオチになります」ということを提示する。つまり、「不条理」を訴えているのだ。
ちなみに、アメリカンニューシネマは、1960年後半から1970年半ばまでの限られた作品を指す。この期間・・・ベトナム戦争とリンクしている。だから、ベトナム戦争終了と共に反体制の意見が弱まっていき、その証拠に1970年代後半のアメリカ映画は「スターウォーズ」や「未知との遭遇」といったSF作品や「キャノンボール」のような娯楽作品といったハリッウッド大作に戻っていくのだ。
 
 アメリカンニューシネマは、テーマや映像の斬新さも去ることながら、音楽が良い。
特にお勧めは『イージーライダー』(1969)と『いちご白書』(1970)だ。
『イージーライダー』のサントラは「ワイルドで行こう」でおなじみのステッペンウルフやジミ・ヘンドリックス、ロジャー・マッギンがサイケデリックな映像に合った曲調から寂寥感溢れるバラードまでラインアップされている。そしてこのアルバムには60年代末の多様な音楽が満載である。しかし、難を一つ言わせて貰えば、夕闇の荒野のシーンに流れる「ザ・ウェイト」はザ・バンドのヴァージョンが欲しかった。スミスというミュージシャンが演奏しているが、レヴォン・ヘルムやリック・ダンコのヴォーカルでないとあの雰囲気は出ない。少々残念である。
  そして、『いちご白書』。
ノンポリの男子大学生が学生運動の女性リーダーに惹かれ、いつしか運動に参加していく。そこで芽生える小さな恋。どんな状況であっても愛しく想う人との時間はかけがえの無いものなのだ。しかし、結末はバリケードを粉砕され引き離される2人。
正しいと思っていたことが、実は社会的には許されないという不条理さ。今の時代にも通じる作品である。
その音楽は何と言ってもバフィー・セントメリーの歌う「サークル・ゲーム」である。作者はジョニ・ミッチェル。
子供が大人に成長する過程を希望、美しさと共に、もう戻ることが出来ない寂しさ伝える秀作だ。
We’re captive on the carousel of time
We can’t return
We can only look behind from where we came
And go round and round and round
In the circle game

他にもニール・ヤング「ローナー」やクロスビー・スティルス&ナッシュ「ロング・タイム・ゴーン」、
そして絶望感漂うクロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング「ヘルプレス」・・・。
レノンの「平和を我等に」をシュプレヒコールと共に叫ぶ学生たちに、警官隊は容赦なく突っ込んでいく。
音楽と映像が一体化した作品である。

ハリッウッド作品のような流麗なストリングスや荘厳なブラスがある映画音楽ではないが、メッセージ性が高く、音楽も台詞の一部となっているこの2作品を映画と共にお勧めする。

2016/8/22
花形
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# by yyra87gata | 2016-08-22 18:37 | アルバムレビュー | Comments(2)
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 1989年の冬。昭和から平成に変わった年、かなり長い期間、私はヨーロッパにいた。
卒業旅行と称し、友人と2人でバックパッカーを実践していたのだ。
イギリス、スペイン、ポルトガル、ソ連という4カ国。とにかく、興味のある国だけを回った。車好きであれば、ドイツやイタリアなどが加わるのだろうが、自動車の会社に就職することも決まっていたから、その選択肢はあえて外した。
 イギリスはビートルズやブリティッシュロックに浸りたかったこと、スペイン、ポルトガルは食事が一番美味しそうだったこと、ソ連は予算の関係上アエロフロート(ソ連の航空会社)を使用したから寄ってみただけ(モスクワ・クレムリン宮殿の周りなどは人がいるんだけど音が一切しない。本当に共産国家という統制下の街で怖かった)。
単純な理由だ。

 さて、ロンドン。音楽漬けになるぞと誓い、ヒースローから地下鉄で中心街に向かう。「Underground」と書かれた地下鉄。駅の壁には2種類のポスターがところ狭しと貼られている。
シンプリーレッドの『ニュー・フレーム』(1989)とエルビス・コステロの『スパイク』(1989)だ。
ピカデリーサーカスでは、その2つのニューアルバムを宣伝するポップや大型ポスターが出迎えてくれた。
ホテルに入り、映りの悪いテレビを点けた。
すると早速コステロがインタビューを受けている画面だ。ニューアルバム『スパイク』の話をしている。ポール・マッカートニーが自身のアルバムでコステロと共演したから、その流れで『スパイク』でも何曲かベースを弾いてくれた、と笑いながら話していた。
 コステロを初めて見たインパクトは、衝撃だった。スタイルはバディ・ホリーがパンクを歌っているのかと思うほど似ていたし、ヴォーカルもミッドレンジがやけに響く声だと思い、ただただ叫ぶだけの破壊的なパンクスでは無いな、なんて思ったものだ。そんなコステロが今、ちょっと贅肉を付けてゴージャスな洋服を着てブラウン管で笑っている。
 『スパイク』は、ちょうどインディーズからメジャーレーベルに移った作品で、バックバンドのアトラクションズも解散状態だったから、有名なミュージシャンが寄ってたかってコステロの辛らつな歌をエンターテイメントに仕上げていた。
時代が変わったんだな、と思ったものだった。
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 ロンドンは「セカンド・サマー・オブ・ラブ」の真っ只中だった。
とにかくダンス、アシッド、レイブである。大人もガキも街中で「アシーッド!」と叫んでいやがった。
「サマー・オブ・ラブ」は1967年にアメリカで生まれたヒッピー文化を指す。それは、時代性や政治、社会性が絡み合い文化となり昇華し1970年過ぎには消滅してしまった。いくら叫んでも、いくら踊っても、いくら髪飾りに花を付けてもベトナム戦争は終わらず、人種差別は無くならない。平和にならないからだ。
しかし、その20年後ロンドンで第二の「サマー・オブ・ラブ」が発生したのだ。最初は郊外の森の中で集団が大音量のダンスミュージックで夜通し何日も踊り狂う。集団ヒステリーと捉えられたこともあった。
エクスタシー(ドラッグ)をフューチャーし、集団で盛り上がるダンスを繰り広げる。イギリスではエクスタシーは使用禁止薬物であったが、当時のエクスタシーは現在のLSD効果のあるそれとは違い、もう少しソフトな効き目だったという。レッドブルを飲むかの如く手軽に高揚感、一体感を感じるドラッグとしてレイブミュージックには欠かせないものであり、音楽を頭と体で楽しむものとして認識されていた。そこに時代性も無ければ政治も無い。あるのは刹那である。
 私はビートルズやレッド・ツェッペリンを生んだ音楽の都としてロンドンを捉えていたのだが、訪問した時期があまりにも悪すぎた。ギターをかき鳴らし、メッセージを伝える前時代的な音楽・・・ひと昔もふた昔も前の化石の音楽を見る目で若者はそれらを語る。
音楽は楽器を持ってやるなどナンセンス。それよりもリズムに身を委ねるべきだ、と立ち寄ったディスコ「ウィスキー・ア・ゴー・ゴー」の受付の兄ちゃんに言われた。
そんな時代だ・・・、コステロが太るのも分かる気がした。

 では何故その頃、シンプリーレッドが大ヒットしたか。回帰なんだろう。
シンプリーレッドは、日本でもブルー・アイド・ソウルのバンドと認識され、ホール&オーツのイギリス版という知名度だった。ヴォーカルのミック・ハックネルはシルキー&ハスキーな声で、落ち着いた佇まいだが、実はセックス・ピストルズ好きの生粋のパンクス。デビュー当初はパンクに近い元気な音楽を発表していたが、時代と共にポップさを増し、「ホールディング・バックイヤーズ」で全米1位に輝いた。そして、ハロルド・メルヴィンの1972年のヒット曲「二人の絆」(If You Don't Know Me By Now)で2度目の全米1位となる。
時代が求めた生の声と郷愁の音楽なのだと思う。

 ロンドンでディスコ(今で言うクラブ)に行けば、レイブだった。
ライブハウスの老舗「マーキー」に行けばアイリッシュからの活きの良いバンドと観客にダイブするグランジのバンド。
確実に進化した音楽の地図。

 私はちょっと疲れてしまい、ハマー・スミス・オデオンでモータウンの雄「フォー・トップス」を楽しんだ。
 そして、次の日長距離バスでリバプールに向かった。
 ウォークマンにはビートルズではなく、買ったばかりのシンプリーレッドとエルビス・コステロが入っていた。

2016年7月25日
花形
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# by yyra87gata | 2016-07-25 20:21 | 音楽コラム | Comments(2)

かまやつひろしの代表曲

  
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 1970年代当時の吉田拓郎は、下駄も履いてなければ、腰から手ぬぐいも垂らしていない。どちらかと言えば、デザイナーズブランド(メンズビギやJUN)を愛用し、車もジャガーに乗っていた。
しかし、世間の認識は長髪で薄汚く、バンカラなイメージであった。なぜこのような誤解が生まれてしまったか。
①フォーク界のプリンスという触れ込みで拓郎は認知されていた。フォークは、かぐや姫に代表される四畳半フォークと拓郎や泉谷しげるのように強いメッセージを伝えるものに大別されており、そこにバンカラのイメージがついた。
②大晦日の夜。日本国民の半分以上が「輝け日本レコード大賞」と「NHK紅白歌合戦」に酔いしれる日。1974年のレコード大賞でブラウン管から飛び出てきた映像は、「襟裳岬」の大賞受賞に喜ぶ森進一。そしてその後ろに並ぶのは、作曲家でGジャン、Gパン姿の拓郎。仰々しすぎるスーツを着た編曲家の馬飼野俊一の横でGパンの後ろのポケットに両手を突っ込み居心地悪そうに並んでいる。その姿に歌謡界しか知らないお茶の間は仰天した。
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③拓郎がかまやつひろしに書き下ろした「我が良き友よ」のフレーズ。
「下駄を鳴らしてヤツが来る  腰に手ぬぐいぶら下げて・・・」
かまやつひろしの大ヒットで知られるこの歌のモデルは、拓郎の大学時代の友人である。バンカラそのものの歌を、何故お洒落なシンガーであるかまやつひろしに贈ったかは不明だが、この歌の作者が拓郎ということで、拓郎のイメージにつながったか・・・。
④かまやつひろしが当時出演していたTVドラマ「時間ですよ」シリーズの中で彼は薄汚いバンカラな役回りで、それを視聴者が拓郎とシンクロしたという説。
  
 人々のイメージはどこで生まれるかなど皆目見当もつかないが、少なくとも何らかの要因は「フォークシンガー=汚い」というイメージと「我が良き友よ」という歌にあるに違いない。

 そして、私は③に着目したい。
何故、拓郎は「我が良き友よ」をかまやつひろしに贈ったのか。単純にかまやつがアルバムを制作するからその依頼に応えただけというならそれまでだが、前述のとおり、あまりにもかまやつひろしのイメージとかけ離れている歌なので・・・拓郎はそこに化学反応を求めたのだろうか。
かまやつひろしは、この曲を元にし、アルバム『ああ、我が良き友よ』(1975)を発表した。タイトルどおりこのアルバムには多くのミュージシャンが参加している。拓郎以外にも松本隆、細野晴臣、井上陽水、大瀧詠一、堀内譲、遠藤賢司、加藤和彦の名前が並ぶ。
そして、このアルバムにも収録されたが、「我が良き友よ」のシングル盤(B面)に、日本のポップスの金字塔となる歌が収録された。
「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」である。
かまやつ渾身のトーキングブルースである。

 「あの当時、シングルのB面って何やっても良かったの。だから、どうしようかなって思っていたら、なんとタワー・オブ・パワーが来日しているって聞きつけたんで、たまたま呼び屋の人が知り合いで、ダメもとで電話して、レコーディングしてもらえないかって言ったらOKになっちゃって。でも、レコーディングが明日とか明後日って話になっちゃって。曲なんか作ってなかったから、好きなコード進行だけ書いて、タワー・オブ・パワーのメンバーに渡して。で、今度は、詞をどうしようかってことになって。そのときゴロワーズを吸ってたから、じゃあこれって」
こんな流れで制作された作品。

 出会いがしらのようなエピソードだが、時代を先取りした作品となった。
シンプルなコード展開だが、ブラスはイントロからサビまでリズムを作りながら、強弱をつける。
ギターソロやコーラスなど、曲に絡みつくフレーズを創出しているが、かまやつひろしの即興とは思えない言葉が芯となり、全てが彩りとなっていく。
「我が良き友よ」はオリコンチャート1位となり、70万枚の大ヒットを記録した。そのB面にこのようなマニアックな作品を入れてしまう彼のセンス。
70万人のうちの1人である私は当時中学生であったが、B面の「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」を聴いた瞬間、全然意味がわからなかった。いったい何が言いたいのか・・・。
脈絡も無いフレーズが言葉遊びのように音符の上で踊るのだ。
しかし、大人になるに従い、この世界がわかってくると、なんとも洒落た歌だなぁなんて思いながら未成年の分際で紫煙をくゆらせている。わかったようなフリをしていただけかもしれないが、歌ってそういうもんだろ、なんて思いながらよくターンテーブルを回していた。

作詞:かまやつひろし  作曲:かまやつひろし  

ゴロワーズというタバコを吸ったことがあるかい
ほらジャン・ギャバンがシネマの中ですってるやつさ
よれよれのレインコートのエリを立てて
短くなる迄 奴はすうのさ
そうさ短くなる迄すわなけりゃダメだ
短くなるまですえばすうほど
君はサンジェルマン通りの近くを
歩いているだろう

ゴロワーズというタバコを吸ったことがあるかい
ひと口すえば君はパリにひとっとび
シャンゼリーゼでマドモアゼルにとびのって
そうだよ エッフェル塔と背くらべ
ちょっとエトワールの方を向いてごらん
ナポレオンが手を振ってるぜ
マリーアントワネットも
シトロエンの馬車の上に立ち上って
ワインはイカガとまねいてる

君はたとえそれがすごく小さな事でも
何かにこったり狂ったりした事があるかい
たとえばそれがミック・ジャガーでも
アンティックの時計でも
どこかの安い バーボンのウィスキーでも
そうさなにかにこらなくてはダメだ
狂ったようにこればこるほど
君は一人の人間として
しあわせな道を歩いているだろう

君はある時何を見ても何をやっても
何事にもかんげきしなくなった自分に
気が付くだろう
そうさ君はムダに年をとりすぎたのさ
できる事なら一生
赤ん坊でいたかったと思うだろう
そうさすべてのものがめずらしく
何を見ても何をやってもうれしいのさ
そんなふうな赤ん坊を
君はうらやましく思うだろう


 今改めて聞くと、1990年代のアシッドジャズのメソッドを全て注入した作品なのだ。
そんな時空を超えた作品をかまやつひろしは1970年代半ばにサラリと作ってしまっていた。
だから、そんな洒落っ気がある洋楽志向のかまやつひろしになぜ拓郎は「我が良き友よ」を贈ったのか。
拓郎はかまやつにこの曲を贈る時に「かまやつさんにぴったりの曲が出来た」といって渡したという。
バンカラなキャラでもない人が飄々と歌うところに化学反応を求めたのか。ヒットを狙う拓郎の目がそう読んだとしか思えない。
しかし、その曲があったからこそ、「ゴロワーズ・・・」も生まれたわけだから、今となってはそんな疑問は良しとしようか。
 しかし、六本木や青山あたりで時代の最先端の芸術家たちと遊んでいたかまやつひろしにバンカラな先輩の歌を歌わせた拓郎・・・いまだに疑問である。
結局、「拓郎がバンカラキャラ」という誤解を生じさせたことについては、何の解決もないが。

2016/07/20
花形
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# by yyra87gata | 2016-07-20 17:15 | 音楽コラム | Comments(0)