音楽雑文集


by yyra87gata
 
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 ローザ・ルクセンブルク。ポーランド出身、ドイツで活躍したマルクス主義の政治理論家で、革命家でもある。1918年のドイツ革命期において機関紙「赤旗」を発刊し皇帝時代に言われ無き罪で捕まった政治犯の特赦や死刑の廃止を訴え続けた。その後、仲間とドイツ共産党を作り上げたが、極右勢力であり、後にナチスに変革する団体であるドイツ義勇団に逮捕され、惨殺されている。
彼女は革命半ばにして命は潰えることになるが、最後まで自由を訴え続けた。

 1984年、NHK「ヤング・ミュージック・フェスティバル」に登場した奇抜な格好の4人。テロップには「ローザ・ルクセンブルグ」とあり、「ルクセンブルク」では無いのかと思ったのもつかの間、ファンキーな音がブラウン管から解き放たれた。
土着民の歌う労働歌にも聞こえるし、交尾のために雄が雌を挑発するような獣のようにも聞こえる。しかし、歌っている内容は中国人のことを歌っている・・・。
こんなインパクトはRCサクセションの清志郎が化粧して「愛しあってるか~い!」って久保講堂で叫んだ時に等しかった。
 その光景は音と共にただただ奇抜に映り、私の脳裏に日光写真のように焼きついた。
1986年に2枚のフルオリジナルアルバムが出た。2月にファーストアルバム『ぷりぷり』、12月にセカンドアルバムの『ROSA LUXEMBURG II』を発表。そして、翌年の8月にはあっさり解散してしまった。
ヴォーカルの久富隆司(以下どんと)とギターの玉城宏志の音楽性の違いが原因と言われているが、そんなことは本人だけが知っていることだからここでは語らない。
どんとの描く世界は抽象的の中にピンポイントで言いたいことを鋭く突くという特徴がある。ちょっと聴いているだけでは仮の歌詞なのではと思うほど意味不明な言葉が並ぶこともある。リズムに旋律をつけているような自由な発想。きっとそんなところを矢野顕子や細野晴臣は高評価し、彼らをプロの世界にいざなったのだ。
そして、どんとの自由奔放なキャラと玉城のハードロックギターがケンカをしながら音を紡いでいるところに彼らの魅力があった。そのバンドを見過ごしたこと・・・解散を聞いた時の私の落胆はとても大きかった。ライブに中々行けず、もっぱら彼らの2枚のアルバムを聴いて過ごす日々が続いた後でのいきなりの解散宣言。その解散は「宝島」で知ったのかそれとも「ロッキング・オン」だったか・・・。

 解散後のどんとの動きは早かった。その年の11月には新バンド「ボ・ガンボス」でデビューライブを披露している。ガンボとはアメリカ南部のごった煮スープのことで、どんとの様々な音楽の具が詰まったごった煮スープのような個性溢れるバンドとでもいうのか・・・。
 その後、彼らを日比谷野音で観る機会があったが、そこにはローザ・ルクセンブルグの持つ緊張感は無かった。どんとの自由な世界が繰り広げられ、観客一体となったある種コミューンのような雰囲気に包まれていた。
 私がローザに衝撃をくらったあの時から時間も経ち、環境も考え方も変わった中で欲している音はどんどん変化していく。だからそのライブで私は少々戸惑ったことは事実だが、受け入れるか受け入れないかは自分で決めればいい話。
 ボ・ガンボスは成功を収め2000年1月にどんとが急逝するまで独自の道を走り続けた。

 約30年前のローザ・ルクセンブルグをターンテーブルに乗せると、あのNHKの衝撃が思い出される。オリジナリティとテクニックが融合したすごいアマチュアだった。
私は忘れることはないだろう。
音楽という思想は、人それぞれの中に存在する。もちろんローザ・ルクセンブルグもボ・ガンボスも・・・。
ローザ・ルクセンブルクの有名な言葉
「Freiheit ist immer die Freiheit des Andersdenkenden.(自由とはつねに、思想を異にする者のための自由である)」
 
 この思想がローザ・ルクセンブルグにもボ・ガンボスにも息づいているに違いない。
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2017/03/29
花形
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# by yyra87gata | 2017-03-29 18:47 | 音楽コラム | Comments(0)
 
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 我が家に本格的にビデオデッキが投入されたのは1985年の4月でした。本格的にと言う言葉を使ったのは以前1度だけモニターでSONYベータマックスが2週間ばかり置かれたことがあり、お袋が「こんな高いもの買えない」といって返却してしまった(この話は 「キャンディーズが我が家にやってきた」 http://hanatti.exblog.jp/17460755/ に詳しい)からです。
さて、価格もこなれ、ビデオデッキが一般家庭に普及すると同時に、ちまたではレンタルビデオ店が流行り始めました。
 私は大学に入学し、慣れないエレキギターなるものを任された時でありましたので、とにかくギタリストのビデオでも見て勉強しようとせっせとレンタルビデオ店に通い始めたのであります。
そして、やっぱりみんなが影響を受けたというエリック・クラプトンの弾き方が一番しっくりくるんだろうな、などと思いながら何本か確認する毎日でありました。
ある日いつものようにビデオを借りてきて調子よくデッキに放り込みました。
それは、レイドバックしたサウンドを勉強でもしようかと思い「エリック・クラプトン1977 On whistle Test」という音楽番組での生ライブを収録したもの。
目を凝らして観ていたその瞬間、画面からは聞いたことも無いような流れるフレーズと滑らかなトーンが溢れてきます。
ふむふむ、ブルースに魂を捧げ、ドラッグに溺れながらも復活を遂げた男の行き着く先にはこのような穏やかな世界がひろがっているのかと思いつつ画面に見入っていました。
カメラはその男の背後から狙います。
うん?セミアコ弾いている。意外だね、この頃だったらクラプトンはブラッキーかブラウニーというストラトキャスターを使用していたと思っていたから・・・ね。
カメラが回りこんだその瞬間「?」マークが私の頭に飛び散りました。
「誰だ、これ?」
クラプトンと信じて観ていた映像が別人になっているのです。
慌てて、デッキからビデオテープを取り出しました。
背表紙に「Carlton Live」とあります。
これ、ビデオ屋がクラプトンとカールトンのスペルを読み間違えて貸し出し用のケースに収めたんだ、と認識。確かにClaptonとCarlton、似ていると言えば似ています。
やられた!と思いましたが、まぁラリー・カールトンのレコードも持っていたし、いっちょ観てみるかとビデオを再生しました。
まぁ、それはそれは難しいフレーズをいとも簡単に弾いていらっしゃってエレキギター初心者の私にしてみたら異次元のプレイヤーであります。
ロックギタリストのように音を歪ませ両手を使ってせっせと16分音符や32分音符の応酬というわけでもなく、時にメロディアスに時にエモーショナルなプレイをギブソンES-335から奏でているのであります。
弾けはしないけど心地良い。そんなフレーズの応酬です。

 ラリー・カールトンはクルセイダーズやフォープレイ、ジョニ・ミッチェルやスティーリー・ダンなどのセッションプレイヤーとして有名ですが、私が中学の頃はアルバム『Larry Carlton』邦題「夜の彷徨」(1977)が大ヒットしており、私もアルバムは購入しておりました。
私はその頃エレクトーンを習っておりましたので、アルバムの中の超有名曲「Room335」を課題曲に取り入れ、練習しておりましたのです。
 あの頃の彼のサウンドはジャズとポップが融合し始めたクロスオーバーというジャンルに差し掛かっており、コテコテのジャズギタリストという印象よりもイージーリスニングに近い感じでした。また同時期にリー・リトナーも『The Captain's Journey』(1978)を発表。このアルバムも大ヒットしました。
そうです、あの頃はラリー・カールトンとリー・リトナーが一大ブームになっていたのです。
リー・リトナーのアルバムの方はラテンっぽいカッティングやフレーズが多く、エレクトーンには合わせ辛いと思いあまり聴かなかったのですが、ラリー・カールトンは本人のリーダーアルバム以外にも様々なミュージシャンとのセッションが多かったので耳に残っていました。
しかし、クラプトンと思って聴いていたらいきなりカールトンが出てきた時はびっくりしました。思い込んで聴いていればいるほどそのギャップに驚かされます。

 私が良く行くリハーサルスタジオのロビーにはライブ映像を流すモニターがあります。
そこではロックからフュージョン、ジャズに至るまで様々な音楽が映し出されています。
 ある日のモニター。
随分上手に「Room335」を弾く細身の男が映し出されました。頭はスキンヘッドで遠くから見るとマッチ棒がギターを弾いているみたい。でも、流れ出る音は伸びやかなサウンドです。
一人前にヴィンテージのギブソンES-335を弾いているじゃないですか。
最近の素人は凄いね、なんて思っていたら・・・本人でした!
いつからあんなに禿げ上がったんだろう。
私の知っているカールトンはサーファーのようなレイヤードのロングヘアーだったのに!
またしても予期せぬ出会いにびっくりした次第です。カールトンよりもリー・リトナーの方が先に禿げ上がると思っていただけにびっくりデス。
思いこんで観たり聴いたりしていると、その裏切られ方が半端でないという例をカールトンから学びました。
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2017/3/14
花形
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# by yyra87gata | 2017-03-14 19:08 | 音楽コラム | Comments(0)
 
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 はっぴいえんどのサードアルバム『HAPPY END』(1973)はロスアンゼルスのサンセット・サウンド・レコーダースで録音された。
メンバー間では解散を意識し、バンド活動を継続することは不可能に近い状態の中、大瀧詠一がアメリカに行く話に乗る形でレコード制作へと展開していったと言う。
しかし、燃え尽き症候群状態のバンドにコミュニケーションは薄く、レコーディングというフィルターを通してアメリカの「16チャンネルのスタジオ視察体験旅行」の様相を呈していた。
 このレコーディングにおいて、最新の機器と本場のレコーディング事情を勉強しながらアルバムを制作することが出来たことは4人の大きな財産になったし、なによりもこのアルバム制作が無ければ鈴木茂の『BAND WAGON』(1975)の誕生は無かったと鈴木本人も語っている。ひょんなところから出た話が実は日本の軽音楽に相当影響を与えることになったのだ。

 そして、このレコーディングではその後の日本のロック市場に大きな足跡を残したメンバーが参加した。
リトルフィートのメンバーであるギターのローウェル・ジョージとピアノのビル・ペインである。
 リトルフィートは西海岸を代表するロックバンドであったが、イーグルスやザ・ドゥービーブラザースと比較すると商業的にはそれほど成功していない。もちろん、日本でも浸透度は低い。しかし、日本人ミュージシャンのセッションとなるとそれは逆転する。
 彼らは、この『HAPPY END』を皮切りに鈴木茂『BAND WAGON』、矢野顕子『JAPANESE GIRL』(1976)に大きく携わり、これらのアルバムがその後の日本の軽音楽に与えた影響から鑑みても非常に重要な水先案内人となった。もちろん、リトルフィートの面々はそんな重要な役割を担っているなどと思ってもいなかったろうし、当時は「遠く西の島から黄色い人たちが観光ついでにレコードを作りに来た」くらいにしか思っていなかったと思う。
 1972年当時のアメリカにおける日本の存在など、「侍」や「芸者」「ハラキリ」という認識の方が強かっただろうし、経済的にも1ドル360円固定の時代である。沖縄も返還されていないし、容易に日本人がアメリカ本土を訪れることも無かったはずで、実は見えないところでまだ戦争は終わっていなかった時代なのだ。そんな時に長髪のひょろひょろとしたヒッピーのような若者がやってきた・・・。しかも仏頂面で、なんでもロックを作ると言い出した。何を言っているんだこのJAPは?
しかも、サンセット・サウンド・レコーダースはザ・ビーチボーイズの『ペットサウンズ』(1966)やバッファロースプリングフィールドのレコーディングを行なったところで、有名なスタジオでもある。そんな伝統あるスタジオで日本人がレコーディング?
現地のスタッフも多分興味本位で集まった(集められた)のだと思料する。
 
 『HAPPY END』制作については、いろいろな文献が出ているので割愛するが、ローウェル・ジョージというギタリストが与えた影響というものに触れてみたい。
鈴木茂はロックギターの小僧。高校時代からベンチャーズからブリティシュロックやブルースまでドライブしたサウンドで弾きまくっていた。そんな噂は東京中に知れ渡り、大学生だった細野晴臣の目に止まった。鈴木茂は高校時代の盟友、林立夫と一緒に細野とバンドを組みアートロックやサイケデリックロックの演奏を楽しんだ。そして、時が経ち、はっぴいえんどのギタリストとして迎えられロスアンゼルスのスタジオで録音するまでになっていた。
 その鈴木茂が慣れないスタジオで緊張しながらリハーサルを繰り返していた。ギターアンサンブルを行なうためのアレンジを施す。当初はっぴいえんど側はレコーディング・コーディネーターにライ・クーダーをオーダーしていたが、そのオーダーは反故にされ、代わりに大柄で無精髭をはやした男がスタジオに来ていた。
リトルフィートのローウェル・ジョージである。
鈴木茂はスタジオでギターを弾きまくっている。すると、のそのそとその男は鈴木茂の前に来て、目の前にどっかりと座り込んだ。そして
「おまえ、すんげ~上手いなぁ。どうやって弾いてんだ?」といったそうだ。
鈴木茂が最初ぶん殴られるかと思ってびびったらしいが、褒められていることに気付き、素直に喜んでしまい、それから交流が始まったという。これだ。このジョージの言葉が日本に新しいアメリカの風を呼び込んだともいえるのだ。鈴木茂とローウェル・ジョージは情報を交換し合い、アンサンブルを固めていったと言う。
そして、鈴木茂のスライド奏法にはローウェル・ジョージが見える瞬間があったり、コンプレッサーの直列2個繋ぎなどいろいろな面で影響を受けたのではないかと思われる。
 
 ブリティッシュ・ブルースを弾きまくっていた少年は、5年もの間にアーシーで粘っこいフレーズをスライドで弾きこなせるまでになっていた。そしてリトルフィートとの交友が後のアルバム制作へと繋がっていくのだ。
だから『HAPPY END』制作時にもし当初の予定通りライ・クーダーが来ていたら、日本の軽音楽の歴史は別の方向に変わっていたかもしれない。

 リトルフィートは良くも悪くもローウェル・ジョージのバンドである。メンバー交代も起きるので、それまでの音楽性がガラリと変わってしまうこともある。オリジナルメンバーで構成された2枚目までとロイ・エストラーダの代わりにケニー・グラッドニー、ポール・バレア、サム・クレイトンが加入し名盤と謳われるサードアルバム『Dixie Chicken』(1973)を発表した頃とテイストは変わっている。その後ジョージのドラッグが重度となり、リハーサルやステージに支障をきたすようになっていく。当然ジョージ抜きのジャムセッションを繰り返すメンバー。いつしかその演奏がメインディッシュとなっていき、長いインプロヴィゼイションが彼らの持ち味になってしまうという皮肉な結果に。
ちょうど日本に来日した1978年頃は、ジャムセッションで鍛えた演奏力を武器に一番脂がのりきっていた頃といわれているが、ジョージは翌年ドラッグの過剰摂取による心不全でこの世を去った。
元々はフランク・ザッパのギタリストからスタートしたジョージだが、常にドラッグとの戦いであった(フランク・ザッパ&マザーズ・オブ・インベンションの脱退もドラッグが原因と言われている)。
 才能を自らの手で摘み取ってしまったわけだが、そのような事例は1970年代末期までは当たり前のように存在していた。
事故、自殺、ドラッグ過剰摂取・・・ジョージの死は1970年代最後の年の6月に報じられたが、私はあまり驚かなかった。ジョージは死んでいてもおかしくないくらいドラッグ過剰摂取を報じる記事を見ていたからかもしれない。
それよりもその年の1月に自殺したダニー・ハザウェイの方が、インパクトが強かった。あまりにも突然だったし・・・。

 リトルフィートはセッションミュージシャンの集まりのようなバンドである。それぞれがテクニックを有し、しっかりと与えられた楽曲に自分たちのグルーヴを投影する。そんな天才集団を発掘する機会となった『HAPPY END』はエポックメイキング的な作品である。
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2017/2/28
花形
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# by yyra87gata | 2017-02-28 17:28 | 音楽コラム | Comments(0)
 
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 ザ・バンドはとてもユニークなバンドであった。
4人のカナダ人と1人のアメリカ人。彼らから生み出されるアーシーなサウンドは、生粋のアメリカ人よりアメリカン・ルーツミュージックを醸し出していた。
そして様々なミュージシャンとの交流は、解散コンサート「ラスト・ワルツ」を観れば一目瞭然で、彼らの演奏表現力の幅の広さを思い知らされた。
1976年に解散したザ・バンド。ドラムスのリヴォン・ヘルムは解散後、それまでの人脈を辿りながらソロアルバム『リヴォン・ヘルム&RCOオールスターズ』(1977)を制作。ロビー・ロバートソンやガース・ハドソンといったザ・バンドの面々と共にブッカー・T&ザ・MG’sの面々やドクタージョン、ポール・バターフィールドなど豪華なミュージシャンのラインアップで、彼らの繰り出すアーシーなサウンドの中で気持ちの入ったヴォーカルを聞かせた。
 リヴォンは、このようにザ・バンド解散後にソロアルバムを早々と発表した訳だが、最後まで解散に反対していた彼は独りぼっちになることを拒み、昔日のザ・バンドを追いかけた末、気心が知れた仲間とセッションバンドを組んだという形を取ったと後年語っている。だから、本当の独り立ちの意味で言うなら1978年に発表した『リヴォン・ヘルム』(1978)が彼のファーストソロアルバムという気がする(しかしながら、これがややこしく、邦題では『リヴォン・ヘルム2』となっており、所謂2枚目のアルバムという意味の2を邦題では使用している)。
 さて、この『リヴォン・ヘルム』だが、前作からの流れでブッカー・T&ザ・MG’sのスティーブ・クロッパーのギターが全面に押し出され、1曲目から伸びやかなソロで盛り上げている。他にもバリー・バケット、ジミー・ジョンソン、ロジャー・ホーキンスらマッスル・ショールズ人脈も参加しており、アメリカン・ルーツミュージックを探る上でもとても重要且つ聴きやすいアルバムとなっている。
 但し、このアルバムは先の『リヴォン・ヘルム&RCOオールスターズ』の影に隠れてしまい、あまり商業的に成功していないが非常に高レベルな作品と確信する。それは、ジャケットではスティックを持ち、ポーズをつけているリヴォンが、実はドラムをウィリー・ホールやロジャー・ホーキンスに任せ、ヴォーカルに専念している点でも歌に賭けた思いが伝わってくるからだ。プロデュースはスティーブ・クロッパーに任せ、サウンドデザインも上々である。
 
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 リヴォンはザ・バンドではドラムスを担当していたが、歌唱しながらのハートのこもったプレイが真情で、ドラムテクニックという面では同僚のリチャード・マニュエルの方が器用だったとも言われている。しかし、ライブプレイでは歌唱とドラミングが一体化し、彼独特のグルーヴを生み出す(1989年、リンゴスターのオールスターバンドで来日したときに盟友リック・ダンコと「ウェイト」をプレイしたときなどはそこにザ・バンドがいるかのような錯覚にとらわれたほど気持ちの良いグルーヴであった)。
 だから、このアルバムのサウンドがとても良いものだったので、この作品をリヴォンがドラムプレイしながら歌うというライブを観てみたかったのだが、それは実現されなかった。
『リヴォン・ヘルム&RCOオールスターズ』発表時には凄腕のメンバーを揃え初来日公演を日比谷野外音楽堂で行なったのだがら、このセカンドアルバムが発表されたときにリヴォン・ヘルム名義で来日公演が行なわれなかったことが悔やまれる。
 ちなみに、その後のライブについては、1980年代に入り、ロビー・ロバートソン抜きでザ・バンドを名乗り来日したことがあったが、それはもうジミー・ペイジが抜けたレッド・ツェッペリン、ポールやジョンが抜けたザ・ビートルズに等しいもので、私はコンサートを観る気もおきなかった。ロビーのキコキコと鶏の鳴くようなピッキングなくしてザ・バンドは語れないのだ。

 さて、この『リヴォン・ヘルム』。私はこのレコードをいつどこで購入したのかを思い出してみる。私の記憶ではFENでアルバムの1曲目である「エイント・ノー・ウェイ・トゥ・フォーゲット・ユー」がオンエアされ、感動し、そのサビの部分だけを紙に書きとめレコード屋に走った。
当然レコード屋のお姉ちゃんは何のことだか分からず「リヴォン・ヘルム?何ですか、それ、食べれるんですか?」と言うような顔で私を見て、メモ用紙にカタカナで「レボンヘルム  エイントノーウェイトウフォーゲッチュー」って書いて、「あとで店長からレコード会社さんに聞いてもらいます」と神妙な表情で答えてくれた。
 その2週間後、家の電話が鳴り「お客様のレコード、あれ、リヴォン・ヘルムのアルバムの1曲目でしたね・・・注文しますか?」という恐ろしいほどのサーチ能力のあるレコード屋の店長の声が私の耳に木霊した。

 いまほど情報も無い中、あのレコード屋のスキルはピカいちだった。

2017/2/17
花形

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# by yyra87gata | 2017-02-17 13:54 | アルバムレビュー | Comments(0)

日本武道館

 
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 1964年の東京オリンピック、柔道の競技会場として建設され、その後は日本の武道の聖地として位置づけられている日本武道館(以下武道館ね)。
その大きさと立地から企業や学校の入社式や入学式、株主総会などにも使用される多目的建造物である。私は予備校の入校式(そんなもん行くなよ!)でアリーナ。大学の入学式で1階席。卒業式で2階席といった具合に着席し、その席の場所からもわかるようにどんどんメイン舞台から離れていったことが私の勉学に対する姿勢を表している気がする。・・・どうでもいい話だが。

 武道館は、多目的建造物という括りであればご存知の通り音楽会場にも数多く使用されている。私が武道館を一番利用しているのはまさにこの音楽鑑賞の場所であって、決して柔道でも剣道でも新年書初め大会でもない。
 中学生の頃から音楽鑑賞を目的にちょくちょく通い始め、昨年のクラプトンで50回を数えた。もう通い慣れたので緊張などしないが、学生の頃は武道館の敷地である北の丸公園に入ったあたりから気分は高揚し始めたものだ。いや、九段下の改札を出て、帰りの切符を確保するために事前に切符を購入する時にはすでに興奮していたかもしれない。
 1980年前後の当時の首都圏の音楽会場事情としては、代々木オリンピックプールでコンサートは開催していなかったし、東京国際フォーラムも横浜アリーナも横浜パシフィコも埼玉アリーナも無かった。NHKホールが音楽専門の会場では一番大きく、その次は中野サンプラザや渋谷公会堂といったパブリックなホールであった。だから、武道館レベルでの収容人数がある会場が今ほど無く、武道館公演と聞くだけで興奮したものだったのだ。

 武道館が日本の音楽会場のメッカとなった瞬間は、間違いなく1966年にビートルズがコンサートを開催した時だろう。ジョンが「ミスター・ムーンライト」を叫んだ瞬間に日本全国のミュージシャンの憧れの場所になったに違いない。いや、ビートルズ派で無いミュージシャンだとしても、少なくとも「凄いことをしてくれた」と思っただろう。日本の武道の殿堂で髪の毛の長い外国人がそれまでの日本には無いやかましい音楽をかき鳴らした。そして、ティーン・エイジャーはその騒音よりも大きな騒音で彼らを快く迎え入れたのだから。
 ビートルズ公演。
武道館の競技スペースに彼らの舞台が設営されており、そこに堅忍不抜で技を極める武道家の姿は無く、ただ聴衆の収容人数だけを考え、コンサート会場として使用したに過ぎない。増してや、もともと音楽を奏でる建物では無いので、音はぐるぐる回るし、大きな音を供給するPAシステムも無い時代である。が、しかし「ビートルズが立った舞台、いつかは俺も武道館のステージに立ちたい」と思うミュージシャンが続出したことは事実なのだ。
しかし、武道館はフォークソングの音楽集会に使用されることはあっても日本のミュージシャンが単独で公演をすることは無かった。1970年代半ばまではフォークだ、ロックだと騒いでいるのは一部のリスナーに過ぎず、音楽ビジネスとして成立していないサブカルチャーであった日本の軽音楽に、収容人数約1万人を超える武道館は大きすぎた。だから、観客収容人数の関係から大物外国人ミュージシャンが来日した時に使用される会場という認識が我々の世代は強いと思う。

 武道館で日本人単独公演を初めて行なったミュージシャンは誰だとよく話題になるが、実はバンドで言えばGSブーム全盛時のタイガースが1968年に公演を行なっている。そして単独アーティストの公演となると西城秀樹が1975年に武道館公演を開催した。
日本の音楽も成熟し、フォークからニューミュージックへと移っていった1970年後半。よく、南こうせつだ、とか矢沢永吉だとか騒いでいたが、「日本シンガーソングライター初」とか「日本ロックアーティスト初」といってレコードを売り出す文句に使われただけのことで何の意味もなさない。
そんなことよりも、私が「日本武道館」と聞いて思い出すことがある。
 1982年1月12日に開催された浜田省吾の公演である。
その告知はいきなり街中に貼り出された。そして、そのポスターには「浜田省吾 日本武道館公演 1月12日」とデカデカと記載されていた。
「浜田省吾?ちょっと前に『風を感じて』のヒットはあったけど武道館?これ、絶対ガラガラだろう!客なんか入んねぇよ」
「無謀というかなんというか・・・」
私の周りの人間はみんな口々にその公演を非難した。
しかし、ふたを開けてみたらチケットは即日完売。たった1日だけの公演ではあったが、武道館公演を成功させたと言う事実がその後の音楽雑誌の紙面を飾り、その公演を収めたライブアルバム『ON THE ROAD』(1982)もヒットした。
武道館公演に賭けた男の仕事。それ以降の浜田省吾の人気を不動のものにしていく。高校生だった私は、これもひとつの販売戦略なのだと思いつつも、武道館という存在が作り出す目に見えない力を目の当たりにした瞬間であった。
 
 私は武道館には神々しい音楽の神様が宿っていると信じている。
武道館はお世辞にも音楽を聞かせる会場としては決して良い環境とはいえないが、会場に一歩足を踏み入れて、北スタンド側を潰して設営された大きな舞台が目の前に飛び込んでくると今でもわくわくする。
イントレが組まれ、照明が吊られ、スピーカーが舞台の左右にうず高く並べられている。白い柵で舞台と客席は仕切られ、ブロック毎に分けられたパイプ椅子が整然と並ぶ。そんな荘厳な場所でアリーナ席のEブロックやFブロックといった中央の席に座るときの優越感といったら無い(現在はいつの頃からか席の呼び名が変わり、前からABCと3つに分かれて区分けされている。しかし私はいまだにA~Zまでの区分けが染み付いている)。武道館公演は特別なコンサートであり、その感情はきっとこれからも変わらないだろう。
 ちなみに私が今まで見た武道館で一番興奮したものは、1991年4月のジャンボ鶴田VS三沢光晴。「三冠統一ヘビー級選手権60分1本勝負。
この時のジャンボはすごかった。鳥肌が立つほど強かった。いまでは2人とも天に召されてしまったが。

 あ、音楽で言えば・・・1986年のボブ・ディラン公演か。
バックをトム・ぺティ&ザ。ハートブレイカーズで固め、超絶にかっこよかった。確か、3時間半位演奏していた気がする。
あんなディラン後にも先にも見たことが無い。

 2020年の東京オリンピックでは空手の会場になることが決定した日本武道館。まずは良かった。
老朽化だから取り壊すなんてことは無いようにメンテナンスをお願いしたい。渋谷公会堂も中野サンプラザも大阪フェスティバルホールもみんな老朽化でなくなってしまったからね。

2017/01/30
花形
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# by yyra87gata | 2017-01-30 21:48 | 音楽コラム | Comments(0)