音楽雑文集


by yyra87gata

ミッキー吉野とゴダイゴ

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 1980年代のインタビューでミッキー吉野は「銀河鉄道999」も「ビューティフルネーム」もヒットを狙って発表したという。つまり、当てに行く、ということだ。
(ちなみにゴダイゴの作曲はほとんどがタケカワユキヒデであるが、アレンジはすべてミッキー吉野が行なっており、彼はバンドではプロデューサー的なミュージシャンだ)
ゴダイゴは、1978年に日本テレビ系のドラマ「西遊記」の音楽を担当しており、そのオリジナルサウンドトラックであるアルバム『西遊記』(1978)で大ヒットを記録していた。彼らは精力的にテレビ音楽番組に出演し、お茶の間でもスーパースターになっており、その流れでいけば作品を出せば全てヒットするという図式は出来上がっていただろう。しかし、ミッキー吉野があえて「ヒットを狙って行った」という意志に彼の才覚があるのだ。
その才覚とは、彼の中にある10代の頃から天才キーボーディストとして謳われた現場力や実践力にあるのではないか。

 ゴダイゴ結成前のミッキー吉野を語る上でのキーワードは、「横浜」「GS」「薬物中毒・逮捕~渡米」「名門バークリー音楽大学卒業」「多忙なスタジオミュージシャン時代」などが挙げられる。
天才キーボーディストとしてゴールデンカップスで名声を得たが、時代性もあり、薬物との接触によりドロップアウト。音楽を見つめ直す意味でのバークリー音楽大学への進学。そして帰国。
ミッキーが帰国した時、日本の音楽マーケットにかつてのGSは存在せず、歌謡界とフォークブームが音楽界を席巻していた。そんな市場だから再浮上の時を見極め、まずは日本の音楽界の中でスタジオワークをこなした。70年代の彼は、まさに歌謡界のレコーディングスタジオを渡り歩き、何千と言うレコーディングで現場感を磨いていた時期だった。そして様々な音楽を実践する傍らミッキー吉野グループを率い、後にタケカワユキヒデをヴォーカリストとして迎え入れ、ゴダイゴ結成へとつながっていく。
ゴダイゴは、Go(生き)die(死)go(再び生きる)を実践した自らの音楽人生をグループ名に配したことからもその思い入れが伺い知れる。

 ミッキー吉野の楽曲に対するアプローチは、音の整理とヴォーカルを活かしたアレンジに尽きる。ストリングス、ブラス共に、アメリカの映画音楽のようなおおらかな作りが、かつてのゴールデン・エラを彷彿させる音となるのだ。
だから、ゴダイゴの演奏はある意味癖が無く、どこか懐かしい洋楽の香りがする楽曲が多い。
ミッキーは語る。
「70年代初頭にバークリーに行き、その肩書きで仕事が入ってくるという状況になったのは多分俺が最後だと思う。俺より前に行っている人・・・例えば渡辺貞夫さんとか秋吉敏子さんとか・・・まぁ、ジャズの人は向こう(アメリカ)に行って本場のジャズを学ぶという大義があり、向こうの進んだ音楽を学んできて日本に広めたという功績があると思うんだけど、俺の場合はジャズというよりもっと広い意味での音楽、つまりポピュラー音楽なわけで・・・。バークリー帰りのミュージシャンというだけで肩書きになったものなんだよ。何で渡米したか?ま、日本にいられなくなった事情というのもあるんだけど・・・」

 ミッキー吉野の音楽アプローチは、日本の軽音楽におけるキーボードの歴史そのものである。ピアノ、オルガン、ハモンドなどGS時代から現代に至る中、ローランド社と一緒にキーボードを進化させていった功績は大きい。
1960年代から1970年代はトランジスタの進化からデジタルへと変革し、コンパクトな固体や音色の多様化などキーボードの限界域が一気に広がった時代だ。
そして、そのキーボードの開発については研究員もさることながら、音楽の現場を渡り歩いてきたミッキー吉野の意見はかなり重要視されたことだろう。
日本のロックの夜明け・・・ミッキー吉野は、むりやり日本に太陽を昇らせてしまった数多くのミュージシャンの一人なのだ。そういえば、ゴダイゴのギタリストである浅野孝巳はグレコギターの開発(GO‐Ⅲモデル)に携わっている。
海の向こうで生まれた物を日本のモノづくり精神で進化させる1970年代は楽器にしろ、自動車にしろ、日本の開発力がそこかしこに花開いた時代であったのだ。
 
 私とゴダイゴの出会いは映画館だ。中学2年、三軒茶屋の名画座で観た長谷川和彦監督のデビュー作「青春の殺人者」である。そのサウンドトラックをゴダイゴが担当していた。日本のATGというマイナーな映画にもかかわらず、音楽は英語だったので、外国のバンドが演奏しているかと思ったものだ。
映画のエンディング。薄暗い夜明け。水谷豊が不安そうな表情でトラックの荷台にしがみついているシーンでエンディングロールが流れる。そこに「音楽 ゴダイゴ」と出てきた。
そしてその映画を観てから数ヶ月後にはテレビでチャーのバックを・・・。
テレビのテロップに「演奏 ゴダイゴ」と。
とどめは日本テレビのドラマ「西遊記」のテロップに「音楽 ゴダイゴ」。
まさに昇り調子の1977年から1978年だったのだ。

 ゴダイゴでのミッキー吉野は、アレンジャーとプレイヤーだが、彼の作曲作品で私は布施明の「君は薔薇より美しい」(1979)を推す。
レコーディングミュージシャンは、そのものずばり一番乗りに乗っている時のゴダイゴ。とにかくブラスアレンジがこの上なく気持ちよい。
 タケカワユキヒデのように浮遊するヴォーカルとは違い、布施明のストレート且つ有り余る声量で歌い上げるこの作品は、大変ダイナミックな歌謡曲として多くの人々の記憶に留められているだろう。
そして、まるでラスベガスのゴージャスなステージで歌われるようなこの作品は、布施明というヴォーカリストにとてもマッチし、大ヒットした。
数多くのミュージシャンにカバーもされたようだが、この作品はミッキー吉野のアレンジと布施明のヴォーカルが光るエバーグリーンミュージックなのである。
 
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  ミッキー吉野・・・山あり谷ありのバンド人生だったはず。実力派GSグループのゴールデンカップスから始まり、ミッキー吉野グループで試行錯誤を繰り返し、ゴダイゴへと進化。その後もセッションミュージやンとして数多くのシンガーのバックを務めた。
 そして、ゴダイゴは今年もツアーに出る。規模は小さくなっているが、オリジナルメンバーと追加メンバーを合わせ、6人で演奏する。
 オリジナルメンバーが全員揃っているバンド・・・レジェンドの域である。
まさにGo(生き)die(死)go(再び生きる)なのだ。

2016年7月7日
花形
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# by yyra87gata | 2016-07-07 17:03 | 音楽コラム | Comments(0)

歌は世相をあらわすもの

  
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 歌は世相を表すものと言いますが、最近社会に対する不満を正面きって歌う人がいなくなりましたね。
1960年代、アメリカでは戦争や公民権運動でディランやニール・ヤングなどがギターを手に「そういう社会」を歌にしました。その火は日本にも届き、1960年代末から1970年代初頭には自作自演のプロテストソングが流行しました。
 当時の日本においては、安保闘争やベトナム戦争、公害問題、高度成長期駆け抜けた後のインフレなどかなり社会は不安定な時期に直面しており、学生運動が盛んに行なわれていた頃です。
さて、現在に目を向けると学生運動こそ無いものの、情勢はその頃とあまり変わっていない気がします。
現在では、憲法改正や原発問題、災害等。格差社会からの失業、将来不安などで若者が希望を持てない社会になり、親へのパラサイト、ニートという逃げ場で暮らす若者・・・。
 加えて、大人たちはバブルが弾けても生活水準を下げられない現実に四苦八苦の生活を余儀なくされている。アホな政治家や役人に振り回され続けたここ30年なのです。当然年金なども期待できず、若者に限らず一般市民は不安な将来を抱えているのです。そして、なによりも我々大人たちの大罪は「ゆとり世代」を作ってしまったことかもしれません。もちろん「ゆとり世代」という考え方を出すこと自体は悪いことでは無いのかも知れませんが、誰もそれを検証することが考えられなかったことが罪なのです。文化的な生活を重視し、詰め込み主義の勉強からしっかりとモノを考えることが出来る人間の創造・・・。ぜんぜん具体的でないです。一方面だけの捉え方しかしていないので、検証することすら考えていない。詰め込み式ではなく自ら考えることができる教育という考え方は立派でも、その先が見えていないなら政権が変われば全て終了という浅い改革となってしまうし現にそうなったのです。
この「ゆとり世代」の発案者は、教育思想を変えるということは国を変えてしまうに等しいことと理解していたのでしょうか。一番の被害者は誰なのかと言うこと私たちは認識しなければいけません。

 歌は世相を表すものと言いますが、70年代初頭の攻撃的な歌は当時の若者のパワーを感じることが出来ます。それに比べて今の歌を眺めていると、ヒットチャートはジャニーズとAKBに浸っているという状況。腹の底から社会を歌う人などは皆無です。
所謂金にならない音楽(メッセージ色の強い歌)は、誰も出したがらないんでしょうね。
(70年代初頭はメッセージソングやプロテストソングが商売になると思って出していた人なんていなかったでしょうし・・・、サブカルチャーの世界ですからね・・・)
 若者の心情を吐露した尾崎豊や原発反対を替え歌で表現した清志郎は1980年代末。ここで日本はバブル経済を迎え、そういうメッセージ色の濃い歌はうやむやになり聞こえなくなっていきました。みんなバブル景気に浮かれていたのでしょう。そしてバブルは弾け、みんなで肯定しあい、傷口を舐めあい、片や勝ち組と称した一部の人間はITと株とFXでアブク銭を稼ぎ、六本木ヒルズでシャンパンを飲み干します。
私はそれまでの詩的表現が絶滅危惧種のような扱いになり中々世に出て来なくなったターニングポイントとなったのは、ドリカムが出てきた時、ちょうどバブル期~バブル崩壊時期辺りにあると思います。
当時私は日本の音楽に危機感を覚えていました。それは、その頃の歌がやたらと会話調の歌詞が多くなったと感じたからです。ドリカムもユーミンの台頭ということで吉田美和の伸びやかなヴォーカルに気を取られておりましたが、詩の世界があまりにも日常すぎてずいぶん日本のポップスも変わったものだと思ったものでした。
また同時期に竹の子のように一斉に出てきた「どんなときも」「愛は勝つ」「それが大事」「世界に一つだけの花」などの肯定ソングをみんなで歌う姿に恐怖すら感じました。
 そして、私は、妙な歌詞の真打である森高千里が歌う歌詞にとてつもない違和感を覚えたのです。詩的表現をまったく感じることができない森高の歌。
「夏休みには二人してサイパンへ行ったわ」とか「うちにかぎってそんなことはないはず」とか、もう歌詞という概念が無いように感じます。日記をそのまま歌にしてしまった感じでしょうか。
 詩的表現とは感性と表現力の創造物で、聴いている様々なリスナーがそれぞれの感じ方を持つことができる総合芸術だと思います。つまり、森高以降の詞はただの感想や描写に過ぎないのであります。
しかし、森高千里人気は一大ブームとなり、影響を受けたアマチュアミュージシャンはそんなの歌にするなよ、といった内容の歌をライブハウスで、しかもカラオケで歌うという珍妙なシーンが良く見られたのも1990年代でありました。

 歌は世相を表すものと言いますが、2000年を迎え小泉内閣は規制緩和という名の下に様々な改革を起こしました。しかしその労働環境の規制緩和から格差社会を生み、有効求人倍率の低下。ようやく若者が叫びだしたのがこの頃からかもしれません。ラップという手法で心情を訴える若者たち。言葉の妙を上手く表現する若者。
 しかし、それはあくまでもラップであり、誰もが口ずさめ、長く歌い継がれる歌ではありません。
メッセージソングやプロテストソングを流行歌として捉えることは間違いかも知れませんが、少なくともラップは特殊過ぎます。
しかし、この頃からラップとも取れない早口言葉のようなビートバンドが溢れ始めました。
長ったらしい歌詞。しかも言葉遊びのように言葉を羅列し、簡単な事象をわざと回りくどくしながら日常生活の言葉で綴るのです。とにかく歌詞が多い。Aメロはお経のように畳み込むような歌詞。サビの部分でギャーッて叫ぶ。そして再び字数多い歌詞が16分音符に踊ります。これが現代の詩的表現なのでしょうか。ラップにメロディが乗っただけなのでしょうか。
また一方で気が抜けた炭酸飲料のような歌い方をするシンガーが最近増えました。流行りなのでしょう。ウィスパーボイスかなんか知りませんが、腹から声が出てないというか、朝飯食ってねぇだろうって突っ込みたくなる声で歌う人のことです。しかもそういうヴォーカルは、だいたいがどうでもいいような日常を歌い、ラブソングであれば「君を守るよ」とか「感謝する」とかの決まり文句を歌っています。これは件の「草食男子」「ゆとり世代」というトレンドから来るものでしょうか。でもこうやって控えめに歌う人たちってSNSで育っているから承認意識だけは人一倍強い。なんだか面倒くさいです。

 歌は世相を表すものと言いますが。
なんでも手元の携帯電話で事足りてしまう世の中。社会人が辞表をメールで送る常識。
合理的に考えているようでそれは非常に無礼なことが常識化していく今後。
歌だけはそんな世相に惑わされず作り手の信念が伝わる芸術であってほしいです。
人から金を取っているならば、鼻歌みたいな歌を聞かせるなよ、と言うことです。
 
 最近、アイスのガリガリ君が10円値上げしました。その謝罪を込めたテレビCMに高田渡の「値上げ」が使われていました。独特の朴訥な歌いまわしに説得力を感じ、これこそ今に通じるメッセージソングと合点いたしました。
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2016年6月8日
花形
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# by yyra87gata | 2016-06-08 18:03 | 音楽コラム | Comments(0)
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  他人から見たらどうでもいい私の「持論」。
バンドはオリジナルメンバーを好む。特にバンドの華であるヴォーカルが交代することを良しとせず、もし変わるのであれば、そのバンド名を使用して欲しくないと思う。
また、オリジナルでレコーディングされた楽曲を好み、セルフカバーを嫌う。ライブ時にアレンジを施すことはこの限りではなく、それはそれで楽しむことが出来る。

  さて、このような拘りをもってしまうと往年のバンドは殆ど見る機会が無くなる。
なぜならバンドメンバーが死んでるか、メンバーチェンジか・・・。
ストーンズはさすがにメンバーが変わっていても、初来日(1990)だけは観覧したが、ビル・ワイマンが抜けた2回目からの来日には足を運んでいない。イーグルスもドン・フェルダーが抜けてしまったら興味が無くなった(厳密に言うとバーニーが抜けた時点でイーグルスじゃないんだけどね)。
ディープ・パープル、ジャーニー、TOTOなどヴォーカルが変わってしまうバンドは、新たなヴォーカリストを迎えたら、なんだかそのバンドのコピーバンドを観る感じになる(極端かなぁ?)。
だからU2とかってある意味凄いと思う。

  先日、海外出張の帰りの飛行機の中で、「THE WHO LIVE IN HYDE PARK」を観た。このコンサートは、バンド結成50周年を迎えた2015年6月26日にTHE WHOのホームタウンであるロンドン、ハイドパークにて65,000人の観衆を集め開催された大イベントである。
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  深夜便の飛行機は中々寝付かれないので、差し障りない懐メロでも聞きながら寝ようかと思っていたのだ。そう、私にとってTHE WHOはオリジナルメンバーが2人も死んでしまった伝説のバンドなのである。だから、先ほどの拘りからすると、大好きなドラマーであるキース・ムーンや大好きなベーシストであるジョン・ウェットウィッスルを失った現在のバンドに興味は無くなっていたのだ。
THE WHO は偉大なバンドであるし、大好きなバンドだっただけに当時のレコードやフィルムを見ることはあっても、オリジナルメンバーのいない今のTHE WHOが来日した時にライブに足を運ぼうという気持ちすら起きない。
しかし、このコンサートを飛行機の小さな画面で見て・・・興奮した。
眠るどころか脳内興奮状態に陥ってしまった。

  オリジナルメンバーは、ロジャー・ダルトリー、ピート・タウンゼントのTHE WHOだが、彼らの音楽は色褪せることなく生きていた。
そして、それを再現するバックミュージシャンたち。
ドラムはザック・スターキー。キース・ムーンとリンゴ・スターはドラッグ仲間。まさかそのリンゴの息子があんなに上手く叩いているとは・・・感嘆。
聞くところによるとザックはキースからドラムを直に習ったそうで、本当にキースそのもののプレイだった(マシンガンのようなタム回し、クラッシュシンバルでのリズム取りなど)。
ベースはピノ・パラディーノ。ジェフ・ベックやジョン・メイヤーなど様々なセッションをこなす職人。ジョンが亡くなってからTHE WHOを支えてきた男だ。派手さが無いところもジョン譲りか。
また、ピート・タウンゼントの息子もギターやキーボードで参加している。

そして、オリジナルの2人は・・・
  ピート・タウンゼントなんかジジィになって体のラインもおじいさんのようなんだけど、決めポーズは格好良いんだよ。パワーコードをかき鳴らし、ギターがエリック・クラプトンモデルというのが許せないんだけど(この人はギブソン系のギターが似合うと思うんだが)・・・。
  ロジャー・ダルトリーもサングラスなんてかけて、遠目で見てると老眼鏡のようにも見えるんだけど、ちゃんと声が出ているんだよ。わーっ!て叫べるジジィなんだ。
 すげぇ人たちだなぁと思いながら、小さい画面を食い入るように見ていた。

  そういえば、THE WHOは、リード・ヴォーカルとリード・ギターとリード・ベースがいるバンドといわれ、その理由はキース・ムーンのリード・ドラムが存在していたからだと結論付けられている。
キースの独創的なプレイを活かすのは、ジョンの安定しながらも楽曲を広げるフレーズを持つリード・ベースだ。だから、ピートはパワーコードでギターをかき鳴らしながらもオーケストレーションの様な音の波動を組み立てることにイマジネーションを膨らませることができたのだ。そして、ムーグのシンセサイザーやシーケンサーをいち早くロックのビートに取り入れ、70年代のロックに昇華させることに成功したのだと思う。
デビューしたてのただただ破壊的な演奏の根底だけはそのままに、ピートの天才的な音楽創作、メンバー個々の相手の演奏を慮る耳の良さがアンサンブルとなり、THE WHOは世界的なバンドに成長していった。
メンバーの奇怪な行動、暴力、ドラッグ、破壊行為、ケンカなど何度も解散の危機に瀕しながらもロックの王道を歩んできたバンド。ある意味、セックス・ドラッグ・ロックンロールを体現し、全世界のロックフォロワーを作った。ジョー・ペリーもゲディ・リーもみんなTHE WHOに影響を受けて育ったのだ。

  2名の尊い天才は旅立ってしまったが、残された2名の天才は、2世を従え演奏を続けている。
演奏を見終わった後、思ったことが一つ。
よくアメリカンロックが好きか、ブリティッシュ・ロックが好きかなどと他愛の無い話をすることがあるが、THE WHOを認めることが出来ない人(好き嫌いではなく)は、ブリティッシュ・ロックが好きじゃないのでは、と。
THE WHOの生き様や言動、もちろん音楽も・・・イギリスのソウルという気がしてならない。
労働者階級の代弁者、シニカル、反骨精神、モッズ、どんよりとしたロンドンの天気・・・。

  50周年記念コンサートが私のTHE WHO愛に火をつけてしまい、日本に帰ってきてから2週間、ずっとTHE WHOばかりを聴いている。もちろん「トミー」「キッズ・アー・オールライト」「アメイジング・ジャーニー」を見直し、胸を躍らせている。

 そして、今日もターンテーブルにTHE WHOを乗せるのであった。
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2016年5月25日
花形
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# by yyra87gata | 2016-05-25 20:52 | 音楽コラム | Comments(2)
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チャーとの出会いはTV。
チャーは、アイドルが沢山出演している番組に居心地悪そうに出演していて悪態をついていた。
当時私は中学生。「チャー」と言う響きが一昔前のグループサウンズの匂いがして、ちょっと引いた。私はあだ名でバンド内の人間を呼び合うバンドを毛嫌いしていた。
アマチュアバンドでありがちな行為。
それはビートルズのコピーバンドに多かった。ライブのMCでいきなり・・・
「最近のポールはどうなの?パチンコ勝ってる?」
「おいおい、ジョン、そんなことこんな場所で言うなよ。ハハハ」なんて具合。
格好悪いったらありゃしない。
私は当時、邦楽では、男っぽいよしだたくろうや矢沢永吉、洋楽ではビートルズ、フリー、ザ・バンド、ディランといったコテコテの60年~70年代の音楽家を好んで聞いていたので、 いきなり“チャー”はないだろ・・・という印象だったのだ。
また、同時期にレイジーなるバンドも存在していて、ポッキーだファニーだスージーだ、なんて騒いでいたから余計に「アホ臭いなぁ」なんて思いながらブラウン管を眺めていた。
それに加えて、白いパンタロンにフェンダー・ムスタング。ムスタングって中途半端なギターだなぁなんて思いつつ・・・。
チャーは「気絶するほど悩ましい」って歌っていた。作詞・阿久悠。こりぁ職業作詞家の歌だ。まさにグループサウンズのノリ。「長続きしないだろうなぁ」なんて思いながら、チャンネルを変えようとした。と、その瞬間、間奏のギターソロが始まった。
歌のコード進行にはそぐわない、そこだけ独立した展開。チャーのギターが活き活きと旋律を奏で始めた。こんな展開のギターソロか、と思いつつこれには、けっこう衝撃を受けた。たった12小節のことなのだが、それだけで好きになった。
チャーの歌唱は演歌みたいにこぶしをつけるし、鼻が詰まったような声にも聞こえたが、ギタープレイは今まで見たことが無かった(特に当時のTV音楽番組で日本人のロックギターが登場なんてしていなかったし、あったとしてもGS絡みでブルコメの三原やカップスのエディくらいだったのだ。クリエーションとかTVなんて出ないし、ツイストはロックと言うより歌謡曲に近かったし・・・)。そんな中でチャーはギターをギュンギュン鳴らしていた。

  それからのチャーは「逆光線」「闘牛士」「GIRL」と順調にシングルヒットを重ねたが、突如シーンからドロップアウトした。当時の新聞では芸能人のマリファナ疑惑を大々的に報じており、その騒ぎに巻き込まれたようだ。

  ある日、中学の友人が下北沢のレコード屋にあったフライヤーを持っていた。
「ジョニー・ルイス&チャー(仮) デビューコンサート 日比谷野外音楽堂 1979年7月14日(土)  16時開演。フリーコンサート(無料)」
白い紙にマジック。手書きで書いたようなチラシ。味も素っ気も無く、急遽作りましたという感じが出ていた。
私の中学はその当時から土曜日は休みだったので(土日休みの学校って珍しかった)、コンサートに行くか行かないか迷っていた。
しかも、フリーコンサートと明記してある。金の無い中学生でも観ることができる。うむ。
友人に当日の朝、電話をかけ誘ってみたが、「雨の中で観るのは嫌だ、俺は行かない」とつれない返事。大粒の雨が朝から降っていたのだ。
 私は別の友人を半ば騙す形で連れ出した。アイドルが出るかもよ、なんて言ったかもしれない。
 雨の日比谷野外音楽堂。その周りには大勢の人が集まっていた。入り口まで続く長い列。白い合羽とこうもり傘の川が入口に向かって何通りも出来上がっていた。
私も友人も雨合羽に着替え、列に並んでいたが、野音の中からはリハーサルの音が外にこぼれていた。
遅々として前に進まない列。
15時30分。開始時間が迫っていたが、会場内にたどり着けない。
空を見上げても一向に止まない雨。

16時過ぎ。
野音の中で、ゴニョゴニョとPAを通して誰かが話しているようだが、外にいる私たちには聞き取ることが出来ない。するとその直後、会場の方向がピカッと光った・・・
そしてドカーンという落雷のような音が響き渡った。
列をなす我々はどよめきの声。
チャー独特のギターの音。「君が代」が流れ始めた(最初は何の歌だかわからなかったが、誰かが君が代じゃねぇか!なんて叫んだ)。
「始まっちゃったよ!」「なんだよ!入れろよ!」「どーなってんだよ!」
会場に入れない私たちから怒号が一斉に沸き起こった。
列の先頭はスタッフともみ合っている。
私と友人はその雰囲気に飲まれてしまい、そこに立ちつくすのみ。すると、私の後ろに並んでいた男が何人かで入口とは別の方向に走り始めた。
友人は私の袖を引き、そして、私たちはその男たちの後を追った。
野音の下手側に走る。曲はジミヘンの歌に変わっていたが、よくわからなかった。しかし雨の中を走りながら「そうだ、チャーは3人のバンドを組んだんだ。ジミヘンみたいな曲を演奏しても不思議じゃないな」などと思いながら、とにかく走った。金網が破れ、コンクリートが割れた少しの隙間に男たちは消えていくのが見えた。友人は笑いながらその男の後に続いた。私も続いた。被っていた雨合羽が金網に引っかかり、裂けてしまい頭を覆う部分が無くなったが、そんなことを気にしている暇は無かった。

Tシャツを販売している裏手に出た。その時、スタッフから睨まれたが、友人が一言、「あとで買います!」と言ったら笑ってくれた。

人の流れの中で右へ左へと身体を委ねた。しっかり立って観る事などできる状態ではなかった。そう、会場内の観客は一種のヒステリー状態となっていたのだ。そんな中、チャーはいたって冷静だった。ジョニーは笑うだけ。ルイスは無表情だった。

ステージの進行はショーというより、公開リハーサルを見ている感じ。リハの時間も中々取れなかったのか、チャーはルイスへのフォローが多かった。しかし、そこには活きた3人の姿があったし、ジョン山崎のキーボードや金子マリのコーラスも3人の門出を祝っていたのだ。
客はチャーの親衛隊みたいな女の子も多少いたが、殆どが男だった。彼らは「闘牛士」を期待していないだろうし、「気絶するほど悩ましい」を聞きたいと思っていない。チャーのアルバムに収録されていた「表参道」よりも3人が醸し出す新しい曲を好意的に受け止めていたように思う。
私もその時、「表参道」や「風に吹かれてみませんか」などを聴いた時、ちょっと違和感があったんだよね。フォークっぽいなぁ・・・英語で歌って欲しいなぁなんて。歌謡ロックを卒業し、ハードなチャーを求めていたのかもしれないが、本人はどう思っていたんだろうか。少なくとも、野音にいたずぶ濡れの客は、
「もうパンタロンを履いて歌謡曲とロックの中間みたいな音楽をやらなくてもいいんだよ」と言わんばかりに3人を受入れていたと思うし、チャーのやりたいことをやってくれ、と言う感じだったかな。
ま、チャーは人に言われて態度を変えるような人では無いけど。

コンサートも終了する頃、雨は小ぶりになり、最後は上がっていた。

その15年後の1994年9月17日(土)。前日、日本武道館でピンククラウドは最終公演を行なった。そして、ジョニー・ルイス&チャーは日比谷野外音楽堂でフリーコンサートという形式のもと、最終公演を迎えた。
15年前と一緒の場所。そして天気まで一緒。
大雨の中、公開リハーサルは続き、チャーは「去年の雨」を「1979年の雨がまだ降り止まない」と叫んだ。
野音は雨に伝説を生む。

そしてそのコンサートも15年前と一緒・・・コンサート終了時には雨は上がっていたのだ。

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2016年5月11日
花形
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# by yyra87gata | 2016-05-11 14:38 | コンサートレビュー | Comments(0)
ネタバレしていますので、公演をご覧になっていない方はご注意ください!

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私は恋の病を患っている
きみになんか会わなければよかった
私は恋なんかにはもううんざりなんだ
必死になってきみのことを忘れてしまおうとしている
何をすればいいのかまるで見当がつかないんだ
きみと一緒にいられるというなら 私は何もかも投げ出してしまうよ 
・・・「LOVESICK」(1997)

 1992年にディランは「もう、新曲は作らない」とマネージャーに言ったという噂が流れた。
「これまでに何百曲も作ったから、ファンだって混乱するだろう・・・」
1990年発表の『Under The Red Sky』以降オリジナル曲が発表されなくなった。
アルバムは毎年の様に発表されたが、トラディショナルのカバーであったり、コンピレーションであったり、ライブ盤であったり。
 そんなディランが、ダニエル・ラノアと再度タッグを組んで真剣に勝負したアルバムが1997年発表の『TIME OUT OF MIND』である。
そして、アルバムの1曲目に収録されている「LOVESICK」。生々しいまでのライブなディランのヴォーカルは、それまでの彼の表現力とは異なる凄みがあり、一気にワールドに引き込まれていく。
ボブ、56歳の頃の作品である。
 こんな切ない失恋の歌を今年の5月で75歳になろうとしている男が、コンサートの最後に歌い上げている。
そして、演奏が終わり、客に頭を下げるわけでもなく、仁王立ちでいる。そしてバンドメンバーを従え、スタンディングオベーションの中、表情一つ変えない。
踵を返し、ステージ裏に去っていくときの格好良さといったら・・・。

 本当にここ最近のディランは凄いとしか言いようが無い。
「音楽」なのだが、出てくる「音」はまるで読み聞かせをする親のような「言葉」なのだ。
それは歌い方を言っているのではなく、彼の「言葉」が浮き出て我々に入り込んでくるといった方が適切か。
今回のステージ(2016年4月19日・Bunkamuraオーチャードホール)では、古い作品は3~4曲で、2012年発表の渾身のオリジナルアルバム『TEMPEST』とフランク・シナトラが歌った曲のカバー集『SHADOWS IN THE NIGHT』(2015)からの選曲を中心に進められた。
 しかし、『TEMPEST』を生み出す伏線には2001年発表の『“Love And Theft”』の存在が大きいと思料する。なぜなら、現在のステージスタイルを確立したアメリカントラディショナルの作品は、このアルバムで余すことなく表現し、昇華したからだ。ロカビリー、ブルース、ジャズ、カントリーなど・・・。アメリカ音楽のルーツをディランが彼の目線で表現している。これもまた興味深い。
 つまり、1960年代にアコースティックギター1本で時代の寵児としてもてはやされ、オピニオンリーダーだった男の50年後の作品が、アメリカンルーツミュージックだったというところに時代の縁を感じる。
しかし、そうやって時代とともに生き、その中でも自己変革を繰り返しながら変わっていくところがディランらしい(本人はこんなことを憶測で書かれることも良しとしないだろうが・・・)。
 
 2016年のディランのステージは恐ろしいまでに無駄を排除したものだ。
長いギターソロがあるわけでもなく、ディランの声が客に届けばそれ以上のことはあるか、と言わんばかりに歌い上げて終る。それまでのしゃがれた声で音程を気にしながらナーバスに歌う彼を想像してはいけない。彼はなんと歌の上手い表現者か!

 そう、本当の歌の上手さとは、表現力である。聞き手を圧倒する表現なのだ。
ディランは今回のステージで『SHADOWS IN THE NIGHT』から「枯れ葉」をセレクトしているが、この「枯れ葉」は、フランク・シナトラやイブ・モンタン、エディット・ピアフ、ナット・キング・コールなど数多くのミュージシャンにカバーされている曲だ。しかし、ディランのそれはスウィングするわけでも無く、寂しげなうつろいを表現するわけでもない。
我々に恐ろしいまでの緊張感を、植えつけていく。長旅の途中の74歳の男が、真正面から歌い上げてくる。その枯れ葉は、ディラン自身であるかのように。
男の生き様が見えた瞬間だ。

 コンサートはアンコールの「LOVESICK」が終了し、バンドメンバーがステージ前方で横並びになり、ディランは微動だにせず、我々を見つめる。
踵を返した瞬間、ふと笑った気がしたが、気のせいか・・・。

2016年4月21日
花形
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# by yyra87gata | 2016-04-21 15:02 | コンサートレビュー | Comments(0)