音楽雑文集


by yyra87gata

日本武道館

 
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 1964年の東京オリンピック、柔道の競技会場として建設され、その後は日本の武道の聖地として位置づけられている日本武道館(以下武道館ね)。
その大きさと立地から企業や学校の入社式や入学式、株主総会などにも使用される多目的建造物である。私は予備校の入校式(そんなもん行くなよ!)でアリーナ。大学の入学式で1階席。卒業式で2階席といった具合に着席し、その席の場所からもわかるようにどんどんメイン舞台から離れていったことが私の勉学に対する姿勢を表している気がする。・・・どうでもいい話だが。

 武道館は、多目的建造物という括りであればご存知の通り音楽会場にも数多く使用されている。私が武道館を一番利用しているのはまさにこの音楽鑑賞の場所であって、決して柔道でも剣道でも新年書初め大会でもない。
 中学生の頃から音楽鑑賞を目的にちょくちょく通い始め、昨年のクラプトンで50回を数えた。もう通い慣れたので緊張などしないが、学生の頃は武道館の敷地である北の丸公園に入ったあたりから気分は高揚し始めたものだ。いや、九段下の改札を出て、帰りの切符を確保するために事前に切符を購入する時にはすでに興奮していたかもしれない。
 1980年前後の当時の首都圏の音楽会場事情としては、代々木オリンピックプールでコンサートは開催していなかったし、東京国際フォーラムも横浜アリーナも横浜パシフィコも埼玉アリーナも無かった。NHKホールが音楽専門の会場では一番大きく、その次は中野サンプラザや渋谷公会堂といったパブリックなホールであった。だから、武道館レベルでの収容人数がある会場が今ほど無く、武道館公演と聞くだけで興奮したものだったのだ。

 武道館が日本の音楽会場のメッカとなった瞬間は、間違いなく1966年にビートルズがコンサートを開催した時だろう。ジョンが「ミスター・ムーンライト」を叫んだ瞬間に日本全国のミュージシャンの憧れの場所になったに違いない。いや、ビートルズ派で無いミュージシャンだとしても、少なくとも「凄いことをしてくれた」と思っただろう。日本の武道の殿堂で髪の毛の長い外国人がそれまでの日本には無いやかましい音楽をかき鳴らした。そして、ティーン・エイジャーはその騒音よりも大きな騒音で彼らを快く迎え入れたのだから。
 ビートルズ公演。
武道館の競技スペースに彼らの舞台が設営されており、そこに堅忍不抜で技を極める武道家の姿は無く、ただ聴衆の収容人数だけを考え、コンサート会場として使用したに過ぎない。増してや、もともと音楽を奏でる建物では無いので、音はぐるぐる回るし、大きな音を供給するPAシステムも無い時代である。が、しかし「ビートルズが立った舞台、いつかは俺も武道館のステージに立ちたい」と思うミュージシャンが続出したことは事実なのだ。
しかし、武道館はフォークソングの音楽集会に使用されることはあっても日本のミュージシャンが単独で公演をすることは無かった。1970年代半ばまではフォークだ、ロックだと騒いでいるのは一部のリスナーに過ぎず、音楽ビジネスとして成立していないサブカルチャーであった日本の軽音楽に、収容人数約1万人を超える武道館は大きすぎた。だから、観客収容人数の関係から大物外国人ミュージシャンが来日した時に使用される会場という認識が我々の世代は強いと思う。

 武道館で日本人単独公演を初めて行なったミュージシャンは誰だとよく話題になるが、実はバンドで言えばGSブーム全盛時のタイガースが1968年に公演を行なっている。そして単独アーティストの公演となると西城秀樹が1975年に武道館公演を開催した。
日本の音楽も成熟し、フォークからニューミュージックへと移っていった1970年後半。よく、南こうせつだ、とか矢沢永吉だとか騒いでいたが、「日本シンガーソングライター初」とか「日本ロックアーティスト初」といってレコードを売り出す文句に使われただけのことで何の意味もなさない。
そんなことよりも、私が「日本武道館」と聞いて思い出すことがある。
 1982年1月12日に開催された浜田省吾の公演である。
その告知はいきなり街中に貼り出された。そして、そのポスターには「浜田省吾 日本武道館公演 1月12日」とデカデカと記載されていた。
「浜田省吾?ちょっと前に『風を感じて』のヒットはあったけど武道館?これ、絶対ガラガラだろう!客なんか入んねぇよ」
「無謀というかなんというか・・・」
私の周りの人間はみんな口々にその公演を非難した。
しかし、ふたを開けてみたらチケットは即日完売。たった1日だけの公演ではあったが、武道館公演を成功させたと言う事実がその後の音楽雑誌の紙面を飾り、その公演を収めたライブアルバム『ON THE ROAD』(1982)もヒットした。
武道館公演に賭けた男の仕事。それ以降の浜田省吾の人気を不動のものにしていく。高校生だった私は、これもひとつの販売戦略なのだと思いつつも、武道館という存在が作り出す目に見えない力を目の当たりにした瞬間であった。
 
 私は武道館には神々しい音楽の神様が宿っていると信じている。
武道館はお世辞にも音楽を聞かせる会場としては決して良い環境とはいえないが、会場に一歩足を踏み入れて、北スタンド側を潰して設営された大きな舞台が目の前に飛び込んでくると今でもわくわくする。
イントレが組まれ、照明が吊られ、スピーカーが舞台の左右にうず高く並べられている。白い柵で舞台と客席は仕切られ、ブロック毎に分けられたパイプ椅子が整然と並ぶ。そんな荘厳な場所でアリーナ席のEブロックやFブロックといった中央の席に座るときの優越感といったら無い(現在はいつの頃からか席の呼び名が変わり、前からABCと3つに分かれて区分けされている。しかし私はいまだにA~Zまでの区分けが染み付いている)。武道館公演は特別なコンサートであり、その感情はきっとこれからも変わらないだろう。
 ちなみに私が今まで見た武道館で一番興奮したものは、1991年4月のジャンボ鶴田VS三沢光晴。「三冠統一ヘビー級選手権60分1本勝負。
この時のジャンボはすごかった。鳥肌が立つほど強かった。いまでは2人とも天に召されてしまったが。

 あ、音楽で言えば・・・1986年のボブ・ディラン公演か。
バックをトム・ぺティ&ザ。ハートブレイカーズで固め、超絶にかっこよかった。確か、3時間半位演奏していた気がする。
あんなディラン後にも先にも見たことが無い。

 2020年の東京オリンピックでは空手の会場になることが決定した日本武道館。まずは良かった。
老朽化だから取り壊すなんてことは無いようにメンテナンスをお願いしたい。渋谷公会堂も中野サンプラザも大阪フェスティバルホールもみんな老朽化でなくなってしまったからね。

2017/01/30
花形
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# by yyra87gata | 2017-01-30 21:48 | 音楽コラム | Comments(0)

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 ジョニ・ミッチェルは音楽家であると共に画家であり写真家である。物事や考えをビジュアルに映し出す力を持ち、同時に音を操る。元々はギターやピアノの弾き語りで素直なフォークソングを歌っていたが、概念に囚われない音作り。レギュラーチューニングの限界を感じたのかオリジナルの変則チューニングを駆使しながら独自の世界観を構築していく。
「これまでの人生で、一般的なチューニングで曲を書いたのは2曲だけ。もしもあのチューニング(オープンチューニング)を教えてもらっていなかったら、たぶん音楽を辞めていたか、ピアノに転向していたと思う」(ミッシェル・マーサ著「ジョニ・ミッチェルという生き方 ありのままの私を愛して」より)

 ジョニのファーストアルバムはディビッド・クロスビーによって制作された。そして、その後2人の仲は急速に近づく。その後、クロスビーのバンド仲間のグラハム・ナッシュとも恋仲となる。
他にもレーナード・コーエンとの関係は、彼の親に挨拶に行き、結婚に一番近かったとも言われている。
『Blue』(1971)制作時にはギタリストで参加していたジェームス・テイラーと・・・。『Hejira(逃避行)』(1976)以降はジャズ色が色濃くなり、この頃からジャコ・パストリアスと良い関係になっていく。
彼女は付き合う男の才能を超えたところで作品を制作する才能の塊なのだ。
まるで女郎蜘蛛のような存在。その結果、名作は残るので食われる男はある意味幸せかもしれない。
若い頃の写真や映画の中のジョニを観ると、芯の通った「いかした姐さん」という感じで、みんなその魅力にイチコロだったんだろう。
 生まれる時代が10年早かったらプリンスだって男性遍歴に名を連ねたかもしれない。なぜなら、プリンスがまだ15歳の少年の頃、せっせとファンレターを書き綴り、コンサートでは1番前の席でステージを見つめていたその先にジョニ・ミッチェルがいたというのは有名な話である。
プリンスは生前『The Hissing of Summer Lawns(夏草の誘い)』(1975)を生涯最高のアルバムと大絶賛している。だから、もしプリンスとジョニが付き合ってアルバムを制作していたら、ジョニの音楽遍歴にファンクを超えた新しい音楽が生み出されていたかもしれない。

 私は、ヒット曲が好きである。ヒット曲には何かしらの魅力があり、必ず一般大衆の心を鷲掴むパワーを持っていると思っている。しかし、ヒット曲の定義を記載することはあまりにも不毛なのでここでは避けるが、ヒット曲(商業的成功)がさほど無いのにレコードを出し続けるアーティストというのも存在している。特に洋楽の中には日本人では理解できない文化や考え方を持ち、その土地で愛される魅力を持ち合わせている作品も多い。
 ジョニ・ミッチェルは日本でさほど名が売れていない。日本において商業的成功という部分では語れないだろう。それは、日本人が彼女の作品の変幻についていけない部分もあり、彼女の作品がキャッチーなメロディーメイカーというより歌詞の芸術性を多く含んだ作品が多いからかもしれない。また、変則チューニングや近年のジャズ寄りな音楽性も日本人の好むメロディーから離れた存在だったのかもしれない(稀に「サークル・ゲーム」のように優しいフォークソングであるなら映画の主題歌ということもありヒットを記録したが、歌唱はジョニでは無い)。
 私が中学の時に見たザ・バンドの解散コンサートを綴った映画「ラストワルツ」で、「コヨーテ」を歌うジョニ。抑揚も無く、ドラマチックな展開も無いこの歌で正直猛烈な眠気に誘われたが、スクリーンの画面を凝視していると、あることに気づいた。そう、この退屈な歌を歌う女性シンガーに対し、ザ・バンドの面々もニール・ヤングも彼女に対し畏敬の念を抱いていることが読み取れたのだ。彼らのジョニに向ける目線。そして音。そこには私の幼稚な頭では理解できない歌を構築していく世界があり、音で会話をしているという情景がそこにあったのだ。私は、そんな光景を消化することができずモヤモヤとした気分で映画館を出た。そして、すぐに「ラストワルツ」のサントラとジョニ・ミッチェルのアルバム『Hejira(逃避行)』を購入した。
 映画の中で歌っていた「コヨーテ」。「コヨーテ」と呼ばれる男とのロードムービー。
歌の最後の「A prisoner of the white lines on the freeway」の一遍が詩的で虜になった。
それから私は、ボブ・ディランのアルバムを買うことと同じ感覚で、なけなしの小遣いの中から2500円の彼女のレコードを購入していった。ディランと同じ感覚・・・とにかく詩が難しい。メロディも難解な音楽ではあったが、2500円分の価値は十分に感じとっていたつもり。
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 今回ご紹介するアルバムは、ジョニ・ミッチェルの10枚組CDボックス。いやぁこれは凄い。ジョニ・ミッチェル初期10枚のアルバムが紙ジャケで収められている。
しかし、このボックス、Amazonで購入したら5480円。1枚あたり548円!。
私はこのボックスを3年前に購入したのだが、何とその時は2670円。1枚あたり267円だったのだ!
価格が倍近く上がっているが、それでも1枚あたり548円で天才を感じ取れるなら安いものである(ジョニを聴き始めた頃の私にこのボックスのことを伝えたらきっと怒るだろう)。
ファーストから10枚目の『ミンガス』(1979)まで!この溢れんばかりの才能が詰まった10枚組のボックスを改めて聴き直すと、それはそれは1人の音楽家の生き様を感じ取ることが出来る。

 最後に、ジョニ・ミッチェルの音楽が大きく変化を遂げた1970年代後半。そこにはジャコがいた。
先日、私はジャコの映画「JACO」を観た。ジャコの栄光と挫折を描くドキュメンタリー作品。
天才ジャコが天才ジョニと初めて組んだアルバム『Hejira(逃避行)』は私が購入したジョニの初めてのアルバム。「ラストワルツ」の興奮から40年経っている。
 軽快なリズムの中、ウッドベースのように自在に音を紡ぐジャコとその音の上で滑らかに歌い上げるジョニ。
 今日はCDボックスの方ではなく、レコードの『Hejira(逃避行)』を聴こう。
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2016/12/22
花形
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# by yyra87gata | 2016-12-22 09:50 | アルバムレビュー | Comments(0)

ディランとノーベル賞

 
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 「テレビに出ない」なんて40年も前に拓郎は言い放ったわけ。で、これはいろいろと話が造られていってセンテンスだけが生き残っちゃったんだけど、真意としては、少ない出演時間では自分の音楽性は表現できるものでは無い。一つの作品をテレビサイズに分割して3分間で歌うことは本意ではないと。だから、テレビに出るのであれば、それなりの時間を割いてくれるのならば出る、などなど。
歌謡曲全盛の時代にフォークだかロックだかよくわからない若造が、何を生意気なことを言っているんだということで当時の芸能界は騒然となったわけ。
拓郎も若くて血気盛んだからマスコミ相手にラジオで「あんまり人のことをかぎ回ると、あんたら地獄へ行くよ」などと叫ぶ。もう、公然とケンカしている。
 例えばテレビに出てインタビューに答えても、都合の良いように編集をされてしまうから、自分の意志とは違った内容がオンエアされることもあったという。そして、拓郎はマスコミ不信に陥る。
でも、そんな芸能界も拓郎人気には擦り寄って行かなければならないこともあり、拓郎のワンマンショーをテレビでオンエアしたり、歌謡曲の歌手への作曲依頼をしたりと持ちつ持たれつの関係もあった。
そして、2000年を過ぎ、拓郎も50を過ぎたあたりからテレビの中で若いアイドルと笑顔で気楽に歌う姿が毎週流れるようになった。時代は変わる。

 で、ディランなわけ。
ディランってもう怪物なんだよね。特に英語圏でない日本人からしてみたら、あのダミ声で滅茶苦茶に聞こえる歌唱をアメリカ人は何故あんなに有り難がって聴くのか。
「分からない」=「怪物」なの。歌っていることも難解だし。
 2016年12月10日の「NHKスペシャル」はディラン特集。もちろんノーベル文学賞を受賞したからNHKもわざわざ特集を組んでみたわけだが、ハッキリ言って想像通りの内容だったというか何と言うか・・・。
「ディランのこと・・・なにも分からない」ということが分かった番組だった。
 ディランの文学という観点から詩を切り取るが、その詩に対して予言的だとか神仏的だとか、意見は出るが、あくまでも第三者の想像を出ていない。そして勝手に語る。しかも、ディランが書き残したメモを見ながら、詩の構成について論じ始める。もうこうなっては詩の本質から離れていく。誰も中身を語ることが出来ない・・・つまりはディランが沈黙しているからこういう番組になるんだ。

 だって冒頭の拓郎じゃないけど、「テレビに出ない」ってディランはいまだに言っていて、既に30年以上テレビの取材を受けていないということをナレーターは絶望的に語っていた。
 ディランって今75歳。30年前・・・45歳からテレビの取材を受けず、「ネバーエンディングツアー」と呼ばれる終わることの無いツアーに出ている。もう、まさに現代の吟遊詩人なのだ。
ツアーバンドを引き連れ、時にはバスで、時には列車でアメリカ~世界を旅する。曲順などステージに上がる前に決めることも多々あるそうだ。
ディランが歌いたいようにバックミュージシャンは合わせていく。ドラム、ベース、ギター×2、スチールギターという編成で、最近ではディランがピアノを弾く。
ある程度決め事はあるのだろうが、それぞれのプレイヤーは全てディランの頭の中とシンクロしながら、それぞれにディランが憑依したようにプレイしている。
そんなステージを繰り広げながら、ニューアルバムを制作している現実。
 市井の戯言などは気にしない爺さんになっているんだ。
ディランはいまだにライク・ア・ローリング・ストーン(転がる石のように)であり、
ノー・ディレクション・ホーム(帰る家はない)なのだ。
 
 ディランは過去にもNHKの特集番組を組まれたことがある。1978年初来日の時だ。
「ルポルタージュニッポン ボブ・ディランがやってきた」。なんだか海の向こうから黒船でもやってきたかのようなタイトルだが、まさに黒船に匹敵するインパクトだったのだろう。しかし、この時もディランは何も語らない。せいぜい初来日の記者会見の一部が流れただけで、番組構成はディランについて人々が勝手に自分の目線で語ると言うもの。
つまり、38年前の番組と今回の番組は手法こそ違え「ディランってよくわかんないね」ということがわかったんだ。
 私はディランをずっと聴き続けてきているから、今回の番組の雑さ加減なんて想像通りだったわけだが、ディランを知らない一般人は「結局この人、偉いの?」「村上春樹の方が良かったんじゃないの?」なんて感想が溢れるという結果に陥るだろうなと危惧する。
 
「テレビに出ない!」「授賞式は先約があるから出ない!」そうやって75歳の偏屈爺さんが正式に言っているんだから放っておけばいいのだ。
 今回のノベール賞騒ぎで、いつものように流浪の旅に出ているディランに連絡がつかないから「変な爺さん」って大勢の人に擦り込まれてしまったわけだが、ディランにしてみたら、迷惑な話で「ほっといてくれ!」って思うかもしれないな。

でもそんなディラン・・・ノーベル賞の授賞式の受賞コメントが紹介されている。非常に的を得たディランの言葉。
そして表彰式にてディランチルドレンとも言えるパティ・スミスの「激しい雨」のパフォーマンス。
力強さと可愛らしさが同居したパティの歌唱は感動的だった。途中演奏を止めてしまうアクシデントはあったにせよ、歌っている詩に感銘してしまい言葉を失ってしまうなんて、言葉の力を見た思いだった。

 「ディランの受賞スピーチ」(全文)
皆さん、こんばんは。スウェーデン・アカデミーのメンバーとご来賓の皆さまにご挨拶申し上げます。

本日は出席できず残念に思います。しかし私の気持ちは皆さまと共にあり、この栄誉ある賞を受賞できることはとても光栄です。ノーベル文学賞が私に授与されることなど、夢にも思っていませんでした。私は幼い頃から、(ラドヤード)キップリング、(バーナード)ショー、トーマス・マン、パール・バック、アルベール・カミュ、(アーネスト)ヘミングウェイなど素晴らしい作家の作品に触れ、夢中になってのめり込みました。いつも深い感銘を与えてくれる文学の巨匠の作品は、学校の授業で取り上げられ、世界中の図書室に並び、賞賛されています。それらの偉大な人々と共に私が名を連ねることは、言葉では言い表せないほど光栄なことです。

その文学の巨匠たちが自ら「ノーベル賞を受賞したい」と思っていたかどうかはわかりませんが、本や詩や脚本を書く人は誰でも、心のどこかでは密かな夢を抱いていると思います。それは心のとても深い所にあるため、自分自身でも気づかないかもしれません。

ノーベル文学賞を貰えるチャンスは誰にでもある、といっても、それは月面に降り立つぐらいのわずかな確率でしかないのです。実際、私が生まれた前後数年間は、ノーベル文学賞の対象者がいませんでした。私はとても貴重な人たちの仲間入りをすることができたと言えます。

ノーベル賞受賞の知らせを受けた時、私はツアーに出ている最中でした。そして暫くの間、私は状況をよく飲み込めませんでした。その時私の頭に浮かんだのは、偉大なる文学の巨匠ウィリアム・シェイクスピアでした。彼は自分自身のことを劇作家だと考え、「自分は文学作品を書いている」という意識はなかったはずです。彼の言葉は舞台上で表現するためのものでした。つまり読みものではなく語られるものです。彼がハムレットを執筆中は、「ふさわしい配役は? 舞台演出は? デンマークが舞台でよいのだろうか?」などさまざまな考えが頭に浮かんだと思います。もちろん、彼にはクリエイティヴなヴィジョンと大いなる志がまず念頭にあったのは間違いないでしょうが、同時に「資金は足りているか? スポンサーのためのよい席は用意できているか? (舞台で使う)人間の頭蓋骨はどこで手配しようか?」といったもっと現実的な問題も抱えていたと思います。それでも「自分のやっていることは文学か否か」という自問はシェイクスピアの中には微塵もなかったと言えるでしょう。

ティーンエイジャーで曲を書き始めた頃や、その後名前が売れ始めた頃でさえ、「自分の曲は喫茶店かバーで流れる程度のもので、あわよくばカーネギー・ホールやロンドン・パラディアムで演奏されるようになればいいな」、という程度の希望しか持っていませんでした。もしも私がもっと大胆な野望を抱いていたなら、「アルバムを制作して、ラジオでオンエアされるようになりたい」と思っていたでしょう。それが私の考えうる最も大きな栄誉でした。レコードを作ってラジオで自分の曲が流された時、それは大観衆の前に立ち、自分のやり始めたことを続けられるという夢に近づいた瞬間でした。

そうして私は自分のやり始めたことを、ここまで長きに渡って続けてきました。何枚ものレコードを作り、世界中で何千回ものコンサートを行いました。しかし何をするにしても常に中心にあるのは私の楽曲です。多種多様な文化の多くの人々の間で私の作品が生き続けていると思うと、感謝の気持ちでいっぱいです。

ぜひお伝えしておきたいことがあります。ミュージシャンとして私は5万人の前でプレイしたこともありますが、50人の前でプレイする方がもっと難しいのです。5万人の観衆はひとつの人格として扱うことができますが、50人の場合はそうはいきません。個々人が独立したアイデンティティを持ち、自分自身の世界を持ち、こちらの物事に向き合う態度や才能の高さ低さを見抜かれてしまうのです。ノーベル委員会が少人数で構成されている意義を、私はよく理解できます。

私もシェイクスピアのようにクリエイティヴな試みを追求しながらも、「この曲にはどのミュージシャンが合っているか? レコーディングはこのスタジオでいいのか? この曲はこのキーでいいのか?」などという、避けて通れぬ人生のあらゆる俗的な問題と向き合っています。400年経っても変わらないものはあるのです。

「私の楽曲は文学なのか?」と何度も自問しました。

この難題に時間をかけて取り組み、最終的に素晴らしい結論を導き出してくれたスウェーデン・アカデミーに本当に感謝しています。

ありがとうございました。





どうっすか。ここでもディランは問いかけているね。「私の楽曲は文学なのか?」と。

 さっきから、ディランのことが分かったような感じで書いているんじゃねぇよ、って?
私?わかんないよ、ディラン。でも分かろうと努力しているよ。体系的にアルバムを聞くとその時々のキーワードが出てきたり、独特な歌いまわしがあったり。ディランはプロデューサーによっても作品は全然変わって来るし。
しかし、私の意見はディランが詩を評価されノーベル文学賞を取ろうが取るまいがそれはどうでもいいことで、ディランも問いかけていたように私はディランの音と一緒に詩を長年聴いているから、彼の詩と文学が合致できないんだよね。
人が評価することだからいろいろと意見はあって良いものだけど、ディランの楽曲は文学じゃないと思うよ。そんなことより、彼の「時代を読んだ痛烈な着眼点」と「それに呼応する楽曲」。そして「彼そのもの」。
どちらかと言うと彼の生き様を見ていることが好きなのかもしれない。

だから、詩の世界は研究者にお任せしますよ。

 改めて書くけど、ディランは現代の吟遊詩人なんだよ。ギター一本でどこにでも行き、西に悲劇があれば、東にそれを伝え、北に愛があれば、南で花が開くように歌う。戦争、人種差別から家庭、恋人の笑顔まで物語を創作していく。それがディラン。
ノーベル賞はどうでもいい。
彼があと何年ステージ立ってくれるかだけ。
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2016年12月12日
花形

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# by yyra87gata | 2016-12-12 20:12 | 音楽コラム | Comments(0)

はじめてのライブハウス

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 昔のライブハウスの敷居は、高かった気がします。
今ほどライブハウスの数もなかったから、バンドマンは狭き門を一生懸命くぐろうとしたのかもしれません。
今から35年前くらい・・・1980年あたり・・・私の高校時代、ライブハウスに出る友達なんていませんでしたね。ライブハウスは、プロのミュージシャンを観に行くことはあったとしても、我々が出るところではなかったです。だから、今の高校生がライブハウスをパーティー会場にしたり、それこそ高校生バンドが何組も出演したりしていると隔世の感がありますな。
ですから、ライブハウスとはそんな場所だったので、アタシが初めてライブハウスに出た時・・・それはそれは驚きの連続でありました。
 
 アタシは大学に入り、音楽サークルに席を置きのんびりとドラムでも叩いて過ごそうかと思っていたのですが、ひょんなことから先輩のバンドに入れられ、エレキギターを担当することになってしまいました(この話はアタシの『はなっちの音日記「オイラはドラマー・・・」、「輸入ギターについて」』に詳しいっす)。
当時のアタシはフォークギターこそ弾き語りレベルで弾ける腕前はあったと思いますが、エレキギター、しかもリードギターなんて、あーた、全然やったことない。しかもそもそもエレキギターを持っていない。そんなアタシに何故エレキギターを?と思いながらも先輩の言うことは絶対でありましたので目を泳がせながら頷くしかありませんでした。
 さて、そんなこんなでギターも購入し(ギブソンSGだよ、ビンテージだよ、父ちゃんを無断で連帯保証人にしてクレジットで買っちゃった!やる時はやるのよ)、エフェクターも買わなくちゃということで歪みものはBOSSのロッカーディストーション(これ名機だったなぁ。ペダルで歪みが変えられるんだぜ)、空間系はローランドのSDE1000(ラックのディレイですな。アタシ、コンパクトエフェクターってあんまり好きじゃないのよ。シールドに刺さってる小さい箱って引きずるとなんか犬の散歩みたいでしょ。とにかく「ギターマガジン」とか一気に読みまくって当時揃えられる最善を尽くしたのさ)を揃え、先輩のバンドに参加したのであります。
 アタシの指はフォークギターに慣れていた指ですから運指は遅いわ、強く指板を押さえるから柔らかいエレキの弦に四苦八苦しました。
「お前のギター、チューニング合ってるか?なんかピッチ悪ぃぞ!」と先輩から怒鳴られ、
「いや~チューニングメーターであわせてますからね~」とか応えながらポーンとギターを爪弾くとジャストチューニング。
先輩は首を傾げ、「お前の弾き方が悪ぃんだな。もっとちゃんと弾け!」とか言われる始末。
アタシは心の中で『だから何で俺をエレキギターで誘ったんだよ!ドラムだったらチューニングも無いし(実はあるのよ)、楽だったのになぁ~』なんて思いながら、引きつった笑顔で「がんばりまっす!うっす!」なんて言いながらやってました。

 人間やる気になればなんとかなるもので、そこそこ練習はしましたが、当時からはったりだけは効かせるテクニックを持ち合わせていたアタシは、何となくエレキギターの重責をこなしていったのであります。
当時の我々の発表の場は学校のサークルですから当然学内。大講堂を貸し切って学生相手に披露することがいいところです。
 ようやく柔らかい弦にも慣れてきた頃・・・エレキを弾き始めて2ヶ月位・・・アタシを強引に誘った先輩がサークル内のバンドとは別のバンド(つまり学校外で活動しているバンドですな)にギターの欠員が出たからお前入れ、と言うのです。
ちなみにアタシはちょっと調子に乗っていた頃だったので、別の先輩からのバンドの誘いもあり、そのバンドに加入することも決定していました。
しかし、最初のバンドに誘って頂いた強引な先輩(強引先輩)の命令には従わなければなりませんので、学校外のバンドにも入ることになりました。
ちなみに、私を誘う2名の先輩は2名とも完全プロ志向の人で、音楽のことやいろいろなことを教えてくれましたが、唯一ギターの弾き方だけは教えてくれませんでした。なんで?
さて、その強引先輩のバンドはオリジナル中心で、カバーをやるとしたら全てブルース・スプリングスティーンでした。
 時は1985年。『ボーン・イン・ザ・USA』(1984)でブルースは調子に乗っていた時期であります。しかし、強引先輩も他のバンドメンバーもそんな『ボーン・イン・ザ・USA』には目もくれず、『明日なき暴走』(1975)や『リバー』(1980)といった埃っぽいロックンロールを好んでおり、ラインアップもその頃の歌が並びました。
私は手渡されたブルースのソングリスト5~6曲。オリジナルの譜面7~8曲を見ながら
「これいつやるんですか?」と質問。
「うん?今度のリハまでにやってきてよ。ライブハウスのブッキングはこっちに任せろ。あー、ノルマとか気にしなくていいから・・・」
強引だ。今度のリハって4日後じゃん。しかも、22時~24時というめちゃくちゃなスタジオの取り方・・・。強引だ。強引だ。強引だ。

 私はその強引先輩のことはとても好きな先輩だったんですよ。ホント兄貴みたいな感じで・・・。でも、正直、バンドを3つもやってると力の入り具合や優先順位がプレイに出てしまって・・・恐る恐る脱退を伝えたのであります。
「なに!?そっちのバンドの方がいいってことか?そんなにいいのか!」と言われたとき条件反射のように
「そりゃ、もう!」と応えてしまい。『しまった!』と思いましたが、あとの祭り。
強引先輩から返ってきた言葉は笑いを噴出しながら・・・
「そりゃ、もう!か!・・・よし、わかった。じゃ、これだけは許してくれ。もう、ライブハウスには話を通してしまっているから。出ることが決まっているからキャンセルはできないのね。そこまで付き合ってくれ。年末までに2回ある。それでいいか」
私は頭を下げ、初めての「ライブハウス」という言葉に緊張しておりました。

 私が最初に出演したライブハウスは西荻窪にあったWATT。今から11年前の2005年11月で閉店してしまったライブハウスであります。
 狭い楽屋に3つのバンドが詰め込まれ、出演前に化粧を決める女やヘアスプレーをバンバン吹きまくる男。出番前からかなり酔っ払っているジャンキーみたいヤツが蠢く妙な場所でありました。私は緊張しながらもポーカーフェイスで立ちすくんでおりましたが、そんなところを強引先輩に見抜かれ、バカにされておりました。
ギターアンプはライブハウスの備え付けを使用しました。マーシャルとローランドのジャズコーラス・・・どちらも好きなアンプではなかったのですが、リハーサルスタジオで使ったことがあるジャズコーラスを選びました。サウンドチェックでアンプの調整をしましたが、やはりこのアンプ、私の好きな音が出ない。ヴォリュームをちょっとでも上げるとピーヒョロヒョロヒョロと横笛のようなハウリングが出る始末。『いっつもそうだよ、このアンプ・・・ヴォリュームレベルが2とか3とかって・・・おかしくない?ミリ単位のヴォリュームってどうなの?』なんて思いながら冷や汗をかいていました。『きっとPAの人は嘲笑してんだろうな』なんて思いながらね。
出番であります。サウンドチェックの時もかなり緊張し、モニターの音なんて殆ど聞こえていなかったのですが、もうここまで来たらそんなことも気にしてられません。とにかくベースとドラムの音を聞くことに注力し、無我夢中のプレイでありました。
途中、『照明が当たると客席って見えないもんだな』とか、『ヴォーカルがMCをしている間は、ただ突っ立っていればいいのかな』とか、しょうもないことをひたすら考えておりました。これがライブハウス初出演の感想です。あっという間の40分でありました。地に足が着いていないということでしょうね。

 そしてそのバンドと2回目のライブハウス。つまり今日でお別れね~の演奏。
場所はなんと新宿LOFT。まだ西新宿にあったころのLOFTであります。
『いや、あーた、LOFTなんて名門ライブハウスに私みたいな素人が出ていいのですか?!』なんて思いながら、いつものポーカーフェイスで「おはようございまーす」なんて言いながら店内に颯爽と入っていったのであります。するとモヒカン刈りの大男がジャックダニエルをラッパ飲みしていたり、リスカ跡が痛々しい戸川純の従姉妹みたいな女の子が中空を仰いでいたり・・・あれれれれ、アタシ、場違いだなぁなんて思いながら強引先輩を探したのであります。そして、このライブハウスも名前の割りに楽屋は超絶に狭く、3つもバンドが出演となれば殺気立ってきます。
アタシは平和主義者なのでそんな陣地取りみたいな事で争ったりするのは嫌なのでさっさと荷物をおいて外で一服してましたがね。
 で、サウンドチェック。またもや恐怖のジャズコーラスが鎮座ましましておりますでやんす。
『ひょ~え~!また、お前か!終わった。・・・とっつあん、燃えたよ、燃え尽きた、真っ白にな・・・』なんて気持ちになりやした。
恐る恐るシールドを突っ込み、ゆっくりヴォリュームのメモリを上げました。そのジャズコーラスはいつも使っていたJC120よりも大きなJC160という高出力のモデルだったので、『そりゃあハウリング祭りだわ』なんて気分でメモリを1から2~3位に動かしました。
ピンピン。弦を弾くと大きなスピーカーが4つ搭載されたアンプから可愛い音が出ます。
「おおっ。こ、これは・・・」口走る私。
ディストーションを踏み込み大きな音を出そうかと思った瞬間、PAのトークバックが話しかけてきました。
「あの~ヴォリュームそんなもんですか?それ、最高レベルですか?」
「えっ?はい?あの~ハウっちゃうかな~?大丈夫かな?あれれれ」焦るアタシ。ド緊張。
ギターのヴォリュームを最大にしてジャズコーラスJC160のつまみを上げてみました。
グォーン!というドライブした音が出る。全然ハウらない!
「えーっと、これで・・・」とアタシ。
「はい。OKです。ちゃんと音、出るじゃないですか。シールドかなんかの不具合ですか?・・・じゃ、始めてください。あとはこっちで調整しますから・・・」・・・いい人だ。
アタシは後にも先にもこんなにすばらしいジャズコーラスに会った事はありません。とにかく、気持ちよいクリーントーンでエフェクターのノリも良いすばらしいJC160だったのれす。
 持って帰りたいと思ったもんなぁ。・・・でけぇよ。

 LOFTの白と黒のチェックの舞台。ちょっと前までは、客席からシナロケとかARBとか暴威とか見てたのに、自分がそこに立っていると思うとなんだか不思議な感覚になりましたね。別にプロでもないのにこんなところに立っちゃっていいのかしら、なんてね。
 強引先輩とのバンドは綺麗にその新宿LOFTで終わりました。
その先輩はその後、サックスプレイヤーとして様々なミュージシャンと共にLOFTからホール、果ては武道館まで上り詰めるんですが・・・、それはまた別の話であります。
 
 新宿ロフトが今年40周年を迎えたそうであります。今は場所を歌舞伎町に変えてしまったようですが、老舗のライブハウスの名前は消さないで欲しいですね。
好きなライブハウスって油断してるとどんどん無くなっちゃうからね。

2016年11月28日
花形
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# by yyra87gata | 2016-11-28 17:15 | 音楽コラム | Comments(0)
 
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 吉田拓郎のイベントといえば「朝までやるぞ!」でおなじみのオールナイトコンサートである。
拓郎が主催したオールナイトコンサートといえば、1975年にかぐや姫と一緒に開催した「つま恋」。1979年の「篠島」。そして、1985年に再び「つま恋」で開催した3回がある(1987年に南こうせつのサマーピクニックにゲスト出演したオールナイトコンサートもあるが、それは除外)。
 1975年の「つま恋」については、私は参加していないのでビデオや当時の記事、拓郎やこうせつのラジオでの発言、実際に参加された人の話を元に記載するが、このイベントは5万人とも6万人とも言われる観客が一堂に会した当時の日本最大の規模のものだった。チケットが売り切れ、実行することが決定した後もその規模感をつかめる関係者が誰一人もいないという今思えば恐ろしいものだ。
当時もアメリカのウッドストックやイギリスのワイト島フェスティバルの話は海の向こうからのニュースで聞こえていたが、誰もそんなイベントに参加していないし、オールナイトコンサートで45万人とか60万人も集まるということ自体、当時の日本では誰も想像すら出来ない。そのような中、開催された「つま恋」は、日本ビッグイベントの礎となった。

 拓郎はウッドストックがやりたかったわけではなかったという。前年にアメリカでボブ・ディランのライブを観て、大勢の観客が一人のミュージシャンを目当てに集まるという、今となっては至極当たり前のコンサート形式を目の当たりにしただけだ。
 当時の日本は、フォークもロックもマイナーな存在で一人のミュージシャンがコンサートホールを満杯にすることなどできなかった。そして、そのため何組ものミュージシャンが対バン形式で巡業する。当然、客は好みのミュージシャンでは盛り上がるが、そうでないと無駄な時間を過ごすことになる。そんな苛立ちを演者側の拓郎は読み取っていたのだ。だから、自分のファンのためだけのコンサートツアーができないものかという試行錯誤をしていた。
 また、大勢のミュージシャンが出演すると音響も照明も画一化されてしまう悩み。そして、会場ごとに設備も異なるため満足のいく演出も出来ない。また、興業主とのやりとりや運営面での制限も出てくる。
自分のためのコンサート・・・つまり、音響、照明から特殊効果、グッズ販売などのコンサート運営に至るまでのノウハウが無い当時の成熟していない日本の若い音楽。そのノウハウを知るために渡米し、ディランのためだけに遠方から集まるファンの群れを見ながら日本でのビジョンを思い描いたという。

 6万人とも7万人とも言われている観客動員数からもそれは読み取れる(主催者側が人数を抑えて発表するのが通例だが、何故か警察は主催者側発表より少ない5万人と発表した)。PAシステムやインフラ、果てはトイレの数からスタッフの弁当の数まで未開の問題だったという。

 拓郎が夕方ステージに登場。明らかに目は泳ぎ、声は震えている。一生懸命声を前に出しているが、それは緊張からか、どこかおぼつかない。1時間30分のステージ予定時間を半分の時間で終え、さっさと舞台袖に引き上げて来た時、拓郎は緊張で憔悴していた。
 拓郎はそれまでのステージで「帰れコール」の洗礼を一番受けてきたミュージシャンだった。
フォークのプリンスとしてデビューし、第三回中津川フォークジャンボリーでそれまでの岡林信康の地位を揺るがし、ニューリーダーとなるが、「結婚しようよ」「元気です」「旅の宿」などの大ヒットによりフォークのコアのファンからは商業主義とのレッテルを貼られ「帰れコール」の的となっていた。入場料を払い、拓郎が出てくると「帰れ」を連呼する集団。そのような今では想像がつかない状況を肌で感じている拓郎は「つま恋」が決まっても「5万人が攻めてきたらどうしようか」などといった思いが常にあったという。

 かぐや姫のステージ・・・1975年の4月に解散したばかりの3人であったが、拓郎の声掛けにより、急遽再結成。ファンを驚かせたという。
ステージでは、南こうせつお得意のお祭り騒ぎを行なっているが、どこか地に足が着いていない状況で、とにかくステージを進行させることだけに集中していたという。それほどまでに闇に蠢く5万人という群集は演者を狂わせたのだ。

 舞台裏では各地のイベンターや芸能プロダクションの社長達は、日本で初めて行なわれているビッグイベントに興奮していた。普段は仏頂面の社長たちもその時は拓郎やこうせつたちのセコンドの如く彼らに水を与え、タオルで仰ぎながらサポートしていたという。まだ見ぬ頂を誰しもが感じていたのだ。

 ビッグイベントの黎明期は「中津川フォークジャンボリー」や「箱根アフロディーテ」「椛の湖フォークジャンボリー」などが各地で開催されていたが、その集大成が1975年のつま恋であることは間違いない。このビッグイベントがその後のイベントのアイコンとなり数々のイベント生んでいった。
そして、各地のイベンターも拓郎と一緒に大きくなっていったといっても過言では無い。
それまでの労音や民音、または、いかがわしい興業主が介在する興業の世界にイベンターという新たな職業が生まれた。それまでの権利問題など相当な苦労はあったであろうが、若者の音楽は若者がプロデュースしていくと言う気概だけで突き進んだという。
1975年の「つま恋」はコンサートだけでなく、その周辺環境をも変えていったターニングポイントだったのだ。

 拓郎のコンサートは男臭い。轟音が響き、それは大津波のように全てを飲み込んでいく。1975年と1979年の2回のイベントについては、「演奏者」「観客」どちらかが倒れるまでやる、という勢いがあり、コンサート自体は和気藹々と進む中にも緊張感もあり、終演間際になると観客は集団ヒステリー状態となっていく。
特に1979年の篠島は島という閉ざされた空間の中でのイベントであったので、拓郎も観客も逃げ場は無いという気分がアドレナリンを増幅させていた。
 走り続けてきた70年代との決別。そしてその集大成とも言えるアルバム『ローリング30』(1978)を体現したイベントが篠島だった。
ラストの「人間なんて」で拓郎は観客に向かい感謝を述べると共に、「お前らも元気で生きろよ。負けんなよ」と叫び続けた。声が枯れても叫び続けた。
演奏が終了し、真っ赤な朝日が昇ったとき、70年代が終わったと感じた夏であった。
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 拓郎のオールナイトイベントは4年ごとに行なわれるオリンピックのようなものだ、という話を聞いたことがある。1979年の次の開催は1983年・・・。
1983年頃の拓郎はコンサートとレコーディングに忙殺。フォーライフの社長も辞め、ミュージシャンに徹していた。しかし、オールナイトイベントを企画しようとした矢先に候補地であった「つま恋」でガス爆発事故が発生。開催に「待った」がかかってしまった。
時間だけが流れて行く中、1984年が過ぎ、拓郎の言動に変化が起きていた。
予定調和だけのコンサート・・・特定の曲を演奏すれば盛り上がる・・・それ以外の曲の立場は?70年代を追い続ける拓郎マニアたちの勝手な偶像崇拝。拓郎の表現したい曲とファンの求める曲とのギャップ。冷めた感覚の拓郎の言葉がラジオから頻繁に聞こえた。
また、「王様達のハイキング」と題したこの頃のコンサートツアー。
拓郎はこのコンサートツアーで母親に苦言を呈されている。「王様」と自分で名乗ることの恥ずかしさ。傲慢さ。母親の言葉が胸に突き刺さった。
そしてプライベートな問題も加わり・・・。拓郎は疲れきっていた

 オールナイトイベントは突然発表された。1985年夏開催。前回の1979年から6年の年月が経っていた。場所は「つま恋」。
イベント開催発表後、「拓郎引退」「拓郎最終公演は、つま恋のオールナイト」等のニュースが新聞紙面に踊った。それに対して拓郎は沈黙を続けた。
拓郎からは「人生最良の日にしたい・・・」というコメントだけが発表され、その言葉だけが一人歩きをしていた。
 
 1985年夏。つま恋。
何の気負いも無く、その人はゆっくりと少々猫背な姿勢で我々の前に現れた。そして、マイクで「愛しているぜ!」と、いきなり叫んだ。
「今日は俺の人生最良の日にしたい。それを手伝ってくれるミュージシャンを・・・」
と、メンバー紹介が始まった。
いつものイベントなら雄叫びと共に「ああ青春」から始まっていたが、ちょっと調子が狂った。
1985年6月に発表されたアルバム『俺が愛した馬鹿』のレコードジャケットにはテレキャスターのデザイン。そして見開きには拓郎自身を葬るかのように墓標が描かれていた。
そう、引退説が確実視されたのは、このイベント直前に発表されたアルバムのデザインにも関係している。拓郎は、死に場所を求めてこのイベントを開催したのか。
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 拓郎はそれまでのイベントのような気負いも無く、リラックスしながらステージを進めていく。ゲスト出演するミュージシャンたちは、口を揃えて「拓郎、引退するな!」とコメントを入れる。当の本人はにこやかにその風景を見ているだけ。
そんな雰囲気で進められているので、客もそれまでのイベントには無いとても落ち着いたものであった。そこには1979年の「篠島」と同じ緊張感は存在していない。
あの頃とは時代も違うし、我々の置かれた場所も違う。そして一番の違いは拓郎のテンションだ。
とにかく叫ばない。淡々と歌う。ゲストが来たらまるで「さんまのまんま」の明石家さんまの如くゲストのエピソードを話し、歌に入る。
 
 2部が終了し、深夜0時を過ぎてもコンサートは淡々と進む。途中近隣住民から苦情が入り、PAの音量を下げるという一幕もあった。そんなこともあり、なぜか冷めた印象のイベントだった。
 太陽が昇っても全ての曲が終了していなかった。いつまでやるのか、という雰囲気になっていた客もいた。それは誰しもが拓郎と叫びたかったのかもしれない。オールナイトコンサートをやりきる達成感を味わいたかったのかもしれない。
 最後の曲は「人間なんて」でも「アジアの片隅で」でもなく、「明日に向かって走れ」だった。早い8ビートにアレンジされ、歌い回しが変わっていた。そして延々続く青山徹のギターソロ。
演奏が終了し、拓郎が舞台袖に消えた時、私は「拓郎はもうステージには上がらないのではないか」と思った。最後まで肩の力が抜けたステージだったからだ。
但し、拓郎の最後のオールナイトは決して不完全燃焼のイベントではなかった。ただそれまでのイベントとは趣が違っていたということだけだ。ただ、それだけだ。

 それから2年間拓郎はステージに立たなかった。映画出演。テレビのレギュラー出演などそれまでの活動とは異なった動きを見せていた。
それは、本格的に全国ツアーを再開した1988年4月まで沈黙した。そして1988年のステージは衣装もスーツとなり、随分大人の雰囲気になってステージに帰ってきた。それまでのパワーで押すタイプではなくなっていた。

 拓郎のコンサートに行くと、いまだに観客の中から「朝までやれー!」という野次が飛ぶ。70歳を超えたミュージシャンと同年代の観客。それは到底無理なことだが、本音でもある。
拓郎は笑ってスルーし、「あんたらそんなことしたら、もう死ぬよ!」とつぶやく。
でもその言葉には「朝まで伝説」を駆け抜けた男だから言える凄みもある。
 時代を創り、切り開いてきた男の仕事である。

2016/11/4 花形

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# by yyra87gata | 2016-11-04 20:12 | 音楽コラム | Comments(0)