音楽雑文集


by yyra87gata
  
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 アナログ盤からCDへ、そして音楽配信、i-PODなど・・・。ソフトもハードの進化によりどんどん形を変えていくので、たった30年前の「シングル志向からアルバム志向への変遷」などといった音楽文化はもう風化した思い出となり、時代は高速で変化してしまう。例えば、46分10曲のアナログ盤が技術の進化で74分ぎりぎりまで収録するCDへと替わったことは、作り手も聞き手も音楽への接し方が変化したに違いない。僕はアナログ盤愛好家なので、音楽を集中して聴くことが出来る時間が46分で切れてしまう。体内時計がそうなってしまったのだ。だから現在制作されているCDをまるまる1枚、一気に聞くことができない。途中で飽きてしまうのだ。それに加えて「日本盤にのみボーナストラック付」なんて宣伝文句があったとしても全然ありがたくなく、アルバムとして曲を聴くという行為から離れてしまうことになる。ボーナスはあくまでもおまけなのだ。作り手だってアルバム制作時にボーナストラックを考えているのだろうか・・・。販売サイドの思惑がプンプン臭うので、ピュアな作り手の気持ちが曲がって伝わるのでないか、とも考えてしまう。作り手がボーナストラック前提で制作しているのであれば、アホらしいモンキービジネスだ。だから、良い音楽が必ず売れるというわけではなく、セールスプロモーション次第でいかようにも評価がくだされることについて、聞き手は真剣に考える必要があるのではないか。とにかく、僕の中で“アルバム”が“アルバム”として成立しなくなってきているのだ。

 例えばアナログ盤のA面からB面にひっくり返すあの瞬間もアルバムを楽しむ空間だと思う。早くB面が聴きたい時や今日はA面だけでいいやと思う時などその時の自分の「気持ち」が反映される。が、CDだとこうはいかない。ダーッと1曲目からエンディングまで走りきってしまう。山や谷はあるだろうが、ブツ切れのイメージというか、個々が独立しているというか・・・。だらだらと惰性で聴いてしまい、集中力が途切れるのは僕だけだろうか。せっかくの音楽が、BGMと化してしまうのだ。
そんなことだから、最近の音楽を聴いているとコンセプトアルバムが少なくなってきているような気がする。コンセプトアルバムとは、1曲目から最後の曲までしっかり聴かないと作り手の意図が伝わらない、というアルバムだ。物語を音楽で聴くようなアルバム。それが最近は、制作できなくなってきているのではないか。考えてもみて欲しい。映画でもないのに、約80分(CD)も音楽のみをじっと聴き続けるなんて、相当な集中力が必要だ。
作り手もアルバム制作にしっかり意味を持たせ、聞き手が聞きやすい時間で作ってほしいものだ。ただダラダラと出来上がった曲を収録するのはいかがなものか・・・。
   
 ビートルズ『SGT・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』(1967)、サディスティック・ミカ・バンド『黒船』(1974)、クィーン『オペラ座の夜』(1975)、デビッド・ボウイ『ジギー・スターダスト』(1972)・・・。
音楽に引き込まれ、時を忘れるという瞬間がある。コンセプトアルバムはそれを体験させてくれる。ベスト盤でもライヴ盤でもない1つの物語を読むような感覚で音楽を聴く。現在の15曲入りのCDではそれは困難だろう。74分じゃ大河ドラマだよ。最近、コンセプトアルバムってあるんだろうか。

2005年1月14日(金)
花形
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# by yyra87gata | 2012-12-12 20:32 | 音楽コラム | Comments(0)
 高校3年の1年間は今までで一番音楽を聴いた年かもしれない。昼飯を抜いた金で中古レコードを買い漁り、FMでエアチェックしたカセットテープをいつも繰り返し聴いていた。この頃に聞いた音楽はいまだに自分の重要な位置を占めており、そこが自分の音楽の基準となっていることも否めない。要は学校も自由登校になり日々の勉強への締め付けも減り(みんな受験勉強というやつをしている)、僕のような宙ぶらりんの生徒にしてみると非常に時間が自由に使えたのだ。
 高校を卒業し、長い長い春休みが始まった。もっと時間が自由に使えるようになった。僕の友達はほとんど代々木や駿河台に勉強の場を変えていた。僕も流れに任せて代々木に通うようになった。でもそれも2ヶ月もすると足は代々木ではなく、御茶ノ水の方に向くことが多くなった。駿台予備校に友達が行っており、「代ゼミよりレベルが高くて良い授業をしているよ」と言ってきた。勉強には相変わらず興味が無く、代ゼミにしてもみんなが行くから付き合いで行っていたくらいだったので、そんなに言うなら違いをみてみるべぇということで参戦してみた。確かにレベルは高く、追いつけないほどのスピードであり、きびしい環境に落としこむにはもってこいの予備校という印象であった。予備校の授業が終わると、頭を休めるために決まって楽器屋に直行していた。お茶の水は楽器屋天国なのである。明治大学の学食で安いランチを食べた後、御茶ノ水の坂の上から靖国通りまで坂を下る。その間に約15件の楽器屋があった。エレキからアコギから専門書から・・・楽しい世界が待っていた。つまり、駿台予備校なんて最初の1週間で行かなくなり、楽器屋三昧だったのだ。
そんな時期に、アコースティックギターの専門店で超有名な「カワセ楽器」という店に通っていたことがある。アコースティックギター販売の老舗で、プロも御用達の店である。僕も石川鷹彦や加藤和彦を見かけたことがある。試奏している人もちょっと近寄りがたい雰囲気の人が多い。うーん、プロっぽい。そんな店なので、最初に入ったときは緊張したものだ。普通の楽器屋なのにオーラが出ている気がした。ガラス張りのショーケースにはヴィンテージもののマーチンD45やD28、ギブソンJ45が並んでいる。試奏なんてしようものなら、買わなければいけない雰囲気さえ漂っていた(これは今でも・・・)。
 カワセ楽器でよく耳にした音楽がある。クロスビー、スティルス&ナッシュである(CS&Nと表記)。マーチンの鈴なりのサウンドが耳につく。アコースティックギターのアンサンブルのお手本のようなバンドであり、コーラスも特徴があり絶妙であった。その音は、目の前に飾ってあるこのギターでないと出ない音なんだろう、なんて思いながら曲を聴いていた。
 
 僕が18歳のとき、世の中は80年ポップスの全盛期にさしかかっていた。でも、僕は1969年発表の
「クロスビー、スティルス&ナッシュ」でアコースティックサウンドに開眼していた。80年代の分厚い音と、打ち込みの応酬に辟易していたときに聞く空間のあるアコースティックサウンドは衝撃だった。僕はそれまで自分の中でアコースティックサウンドは、拓郎やボブディランの弾き語りでしかなかった。当時のアコースティックサウンドのとらわれ方は、「四畳半フォークと呼ばれるしみったれた音楽=フォーク」のような位置づけで、決して「流行の音」ではなかった。アンプラグドなんて言葉は存在すらしていない。
CS&Nはそんな僕に衝撃を与えた。
 変則チューニングもこの時初めて知った。そして、ガロはCS&Nのコピーだったことも初めて知った。
CS&Nの素晴らしさは今さら強調するまでもないが、面白いのは彼らの歌声は決してぴったりとマッチしておらず、各人が勝手に歌っているだけなのにもかかわらず、なぜか全体としてのまとまりを感じさせるという点にある。特に「Helplessly Hoping」では各人の声の定位が違うことによって、そのことをはっきりと聴き取ることができる。各人がお互いの個性を尊重しながら、かつグループとしての一体感を感じさせるというこの手法は、“束縛”も“孤独”もない理想の人間関係を作り上げようとする試みなのだろう。 

 僕は3人の中でスティーブン・スティルスが一番好きだ。バッファロースプリングフィールドの時代からリーダー的な役割を担い、アル・クーパーやマイク・ブルームフィールドと共に発表した『スーパーセッション』(1969)など、数多い名演奏を残したとても有名な人だ。

 
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 彼の音楽性は、もって生まれた才能というよりは「学習」によって培われた部分が大きく、そうした秀才的な音楽が人の心に響く為には、同時代性のような他の要素がなければなかなか厳しいのではないだろうか。はっきり言って彼のヴォーカルというのもあまりうまいわけではなく、伸びのない荒々しい声は時として耳障りだったりすることもある。しかし、往年の傑作ではその声がとても心地よく響いてしまうのだから、音楽というのは不思議なものである。
 また、スティルスのすごいところは、ってウッドストックの時に45万人の前でアコギ1本だけで変則チューニングの「青い瞳のジュディ:組曲」を歌いきったところだ。CS&Nのステージであったが、あれはスティルスの一人舞台といっても良い。デビッド・クロスビー、グラハム・ナッシュがコーラスを決めているが、スティルスは鬼気迫る演奏とメインボーカルを披露している。ウッドストックの映画は何度も繰り返し観たものだが、CS&Nのシーンは瞬きもしないで観ていた。暗い画面だが、ボーッと浮き上がるような3人の映像。スティルスがシャウトするとき、八重歯がはっきり映り子供のような顔になる、そんな細かいところまで憶えてしまった。
CS&Nは1969年に結成されてから、旧友ニール・ヤングも加わったCSN&Yも含め、数々のアルバムを不定期に発表している。時には、クロスビー&ナッシュになってみたり、スティルスとヤングが組んでみたりと、変幻自在の動きを見せている。でも、アルバム的に見れば1969年、1975年、1982年・・・とアルバムを発表しているが、年を経るにつれアコースティック色が薄らぎ、コーラスアンサンブルが上手なグループという印象だけになった。ちょっと残念という印象。僕はアコースティックギターグループでCS&Nほどソウルフルなヴォーカルと絶妙なコーラスアンサンブルは聴いたことが無い。同じアコースティックギターバンドでも「PPM」や「アメリカ」の演奏する曲とは一線を画している。アコースティックギターで十分ロックができるバンドである。原点回帰を望むところだ。
 
 最近、カワセ楽器でマーチンD45を弾いたとき、くしくもBGMはあの時のCS&Nだった。僕が弾いていたギターの音色はBGMと同じ。他でギターを試奏していた人も自然とCS&Nを爪弾き始めた。
目が合ってしまい、お互い照れくさく笑った。



2004年12月25日
花形
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# by yyra87gata | 2012-12-12 20:27 | 音楽コラム | Comments(0)

クリスマスに想う・・・

「ブルークリスマス」(エルビス・プレスリー)、「クリスマスイブ」(山下達郎)、
「クリスマスラブ」(サザンオールスターズ)、「クリスマスキャロル」(稲垣潤一)・・・

 さびしい歌のオンパレードである。クリスマスという非日常に恋愛をかけて、歌にしている。
本来は「生きている幸せを感謝する日」が「男と女が愛し合っていることを確かめ合う日」に変体し、「みんな幸せそうだけど、僕は独りぼっちで寂しいよ」ということが主題になる。テーマは決まっているので、作り手も歌にしやすいのだ。ミュージシャンなら必ず1曲はクリスマスソングを持っているもので、レパートリーのにぎやかしになる。そしてクリスマスソングでハッピーな内容は少ない。楽しい日に楽しい歌を歌ってもドラマにならないからだろう。

 僕は中学、高校とミッション系の学校なので、クリスマスという定義はそれなりに知っているつもりだが、簡単にいうと本来クリスマスは、日本でいうところの「お正月」である。アメリカでもイギリスでもクリスマスの日は公共機関も休みになり、交通機関も特別なタイムスケジュールになる。レストランや商業施設も軒並みクリスマスホリデーになる。そもそもクリスマスは家族で厳かに過ごすものであり、1年間の幸せを神に感謝する日である。七面鳥の料理も自宅のオーブンで焼き、ケーキもドライフルーツがちりばめられた質素なパウンドケーキを食するのだ。まさに日本のおせち料理かの如く。
クリスマスにカップルが街を闊歩するなど、本来はありえないのである。
ちなみに僕は、2人だけで彼女とクリスマスを過ごしたことがない。ゴリゴリの国粋主義者ではないのだが、街が浮かれてクリスマス料金なるものが設定されて、アホらしくなるのでその日はデートを避けるようにしていた。もちろん世間一般で言うクリスマスプレゼントという慣習については従い、プレゼントの交換を行うが、クリスマスにかこつけただけで、普段欲しいものを言い合いながら、その日を迎えていたので、ロマンチックなものは何も無かった。
さて、クリスマスという日について、日本はどこでどう間違った捉え方をしてしまったのだろう。サンタクロースとプレゼントとケーキだけが一人歩きしている気がするのは僕だけだろうか。要はバレンタインデーが「森永製菓が仕組んだイベント」と同義で、商売上手な日本人がバタ臭い風習に便乗しただけという気がする。
そんでもって子供は12月になると途端に物分りの良い子に変身する。サンタクロースにお手紙を書き、プレゼントをリクエストする。親は「いい子のところにしかサンタさんは来ないよ。」と子供をけしかける。子供は精一杯の笑顔で約3週間をききわけの良い子を演じる。あーっ、何だか屈折しているなぁ。

 サンタクロースにまつわる話。
子供はいつ頃までサンタクロースの存在を信じているか・・・。簡単に「実は嘘なんだ」「サンタなんていないよ、親がプレゼントを用意しているんだよ。」などと言ってしまったら、ずっと信じ続けてきた子供はどう思うだろう。これはSEXの話と同じで、いつの間にか知っていた、という着地点が一番具合が良いんだと思う。僕も確かに小学校1年生の時に、枕元にウルトラセブンの動くおもちゃが置かれていたとき、真剣にサンタクロースはいると信じたものだが、いつの間にか親が用意していると気づき、それ以降まともにプレゼントなんて貰ったことなんて無かった。直接親に「プレゼント頂戴」と言って、親も「クリスマスだからなぁ」という具合に・・・。
我が小学3年生の娘はうすうす気がついてきているようだが、サンタクロースの正体を明かすときは、仰々しくすると感受性の強い子供の感性が曲がってしまう。
 仰々しく言って失敗した例がある。
ある父親が、息子に対し10歳にもなってサンタクロースを信じていることで、学校で馬鹿にされやしないかと思い、こう言った。
「おまえも、10歳になったから言うけど、これは男と男の話だ(大げさ)。実は、サンタクロースはお父さんだったんだよ・・・。」
「えっ!」
「やっぱり知らなかったか・・・。」と父親。
その純真な子供は感受性が強い。次の日、学校でこのことをクラスメートに話した。
「うちのお父さんがみんなの家にプレゼントを配っているんだぞ!」
「お前、バッカじゃないの~。」   実話である。

そんな中で僕の好きなクリスマスソングは、ロネッツの「「ママがサンタにキスをした」である。

その夜、ボクはついにサンタさんを見る。
 世の中って、不思議なことなんてないもンだなぁ…。

と歌われるこの歌。 サンタの正体がばれて最初はがっかりするかもしれない。だけど、ちょっぴり嬉しくもなる。そんな嬉しさが連綿と受け継がれて、サンタクロースは誰の心の中にもいるということ。
海外のクリスマスソングは比較的明るいものが多い。

 多神教の国である日本がクリスマスに浮かれている。クリスマスイブから1週間もすれば、神道に早がわりである。神社に初詣に行き、お神酒を飲んで幸せな気分である。もし、28日くらいに誰か死んだら、坊さんを呼んで仏教にもなってしまう。日本とは何とおめでたき世界。
 僕がクリスマスに対しあまり肯定的でないことは、日本人の浅はかさもあいまって、女々しいクリスマスソングで悦に浸っているやつが多いことが嫌なのかもしれない。
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2004年12月21日
花形
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# by yyra87gata | 2012-12-12 20:18 | その他 | Comments(0)

外タレ初体験?

 80年代は音楽と映像がリンクし始めた年代である。アーチストもレコード会社もMTVと呼ばれるプロモーション・ビデオに力を入れ、セールスを伸ばす戦略がとられ始めた。ビジュアルに訴えたことで得をした人、損をした人、ひきこもごもである。

 MTVが出てくるまでは、音楽の映像は映画でしか見ることができなかった。
「レッド・ツェッペリン/狂熱のライブ」「ウッドストック/愛と平和の3日間」「ヤァヤァヤァ!ビートルズがやってくる」「HELP!4人はアイドル」「レット・イット・ビー」「トミー」「真夏の夜のジャズ」「バングラディッシュ救済コンサート」 「ラストワルツ」「ポールマッカートニー&ウィングス/ロックショー」くらいが1980年までの主な音楽映画である。上記の作品を組み合わせ、名画座で1年に1回は特集が組まれていた。それをありがたがって毎回観に行くのである。
 クラプトンやジミヘンが動いていることに感動し、ジミーペイジのギターを構える姿にシビレ、ポジションを確認した。忘れないように急いで家に帰って、ギターのストラップを長くしたものである。映画館から家までの間、目に、頭の石に映像を刻んでおかなければならなかった。
 《ベストヒットUSA》が1980年頃から始まり、音楽の映像がグッと身近になった。しかし、そこに出てくる映像はあくまでもプロモーション・ビデオなわけで、どうしようもない音楽をくちパクで合わせるC調な歌が目立っていたように思う。要はただ単に、80年代ポップスが好きじゃないだけなんだけど・・・。
作り手は歌だけに集中していればよかった70年代と比べ、ビジュアルという仕事が増えてしまった。ビジュアルに向いてないアーチストもいるわけで、そんな人たちは苦痛な時代になったんだろうなぁ。

 僕はセールスプロモーションのビデオが嫌いだ。曲の解釈を撮影側の押し付けでイメージさせられることが嫌だからだ。よく映画より本で読んだほうが良かった、という場面に出くわすが、まさにあれと一緒である。音を聞きイメージを膨らませる。このギターは誰だろう?このリズムの刻み方はきっとあの人だろう、などと予想を立てながら聞く楽しみもあった。
映像の話に戻そう。・・・MTVが流行る前は音楽の映像はほとんどがライブだったように思う。
《ベストヒットUSA》の中にも「タイムマシーン」というコーナーがあり、ロックのクラッシックな映像を流していた。その映像はまさにライブであった。まがい物ではない、純粋な音楽という感覚で見ることができた。

 ビデオデッキが家庭に普及される前の時代、音楽を見ることは、イコール、ライブ演奏を見るか、前述の映画くらいしかなかった。そんな時、あるスポットが各地に出現した。
「ビデオ上映会」
ビデオを鑑賞するためのスペースが渋谷や新宿を中心に竹の子のように出現した。よく大手楽器店の店頭スペースでもビデオは上映されていたが、それはセールスプロモーション用のヒット曲のオンパレードであり、「ビデオ上映会」のマニアックなラインアップとは一線を画していた。僕の心は躍った。海外からの直輸入ビデオがほとんどなので英語、フランス語、スペイン語の字幕が出てくる。
クィーンのデビュー当時のスペイン公演の映像は、字幕がスペイン語だった。日本でイギリスのバンドをスペイン語字幕で見る。変な気分。
当時の僕達は、海外のアーチストは、レコードでしか聞いたことが無いため、動いているところを観たときは、素直に感動したものだ。ああやって弾いていたのか・・・とため息がもれる。
エリック・クラプトンとジェフ・ベックのギターバトル(シークレット・ポリスマンズコンサート)、ボブ・マーリーの地鳴りがするほどのライブ、ジョン・レノンのライブ(ワン・トゥ・ワン)、ボブ・ディランのローリングサンダーレビュー、ジャクソン・ブラウンのノーニュークスコンサート、キッスのデトロイト公演'78・・・
2本~3本観て800円くらいだった。

 学校の帰りによく見に行き、帰りの道玄坂のロック喫茶「BYG」でタバコをくゆらせることが当時の日常だった。
「上映会」は1本いくら、という換算で料金が決まっていたため、組み合わせにより見たくも無い作品を見せられる映画館とは違い、お得感があった。

 d0286848_2093463.jpg 1984年くらいからビデオデッキが急速に家庭に普及し始めた。その瞬間から「ビデオ上映会」が街から消えていった。ミュージックビデオの普及やレーザーディスクの開発など、ソフト面での充実とハード面でのデジタル化が音楽を変えていった。そして僕達の生活も変わっていった。
気軽に海の向こうのアーチストを見ることができる。そこには、苦労もなく当たり前の日常があり、片手間にディランやスティービー・ワンダーが拝める。便利になった分、真剣に見なくなったのも事実。昔は映像に飢えていた。所定の場所に行き、しかるべきものを支払い、食い入るように見ていたあの時代。人間は満たされてしまうと、駆り立てるものがなくなると、とたんにヤワになってしまう。

「ビデオ上映会」は僕の外タレの原点かもしれない。

2004年12月17日
花形
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# by yyra87gata | 2012-12-12 20:09 | 音楽コラム | Comments(0)

高中正義という作曲家

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1976年くらいからクロスオーバーという新しい音楽ジャンルが生まれ、後にフュージョンという名前に変わっていく。海の向こうでは、スタジオミュージシャンやジャズミュージシャンがシンガーのバックではなく、自分の音を主張し始めていた。スタジオやジャズクラブでプレイしていたリー・リトナー、ラリー・カールトンといったプレイヤーはこぞってリーダーアルバムを発表。また、ジェフ・ポーカロやスティーブ・ルカサーといったLAのスタジオミュージシャンはボズ・スキャッグスのバックバンドを経て、TOTOを結成した。空前のスタジオミュージシャンブームが起きる。日本でもショーグンやパラシュートなど裏方がクローズアップされてきた。
スタジオミュージシャンになりたくてなっている人はそんなにいないという。少なからずも人前で演奏したことがあり、何らかの事情でスタジオの仕事をしている人がほとんどだ。人前に立ち、リーダーアルバムを出すことができるなら、みんなそうしたいだろう。なにせギャラが違う。注目度も違う。
 日本のスタジオミュージシャンの火付け役は、キャラメルママ組(林立夫、鈴木茂、細野晴臣、松任谷正隆、坂本龍一、)と関西組(村上秀一、大村憲司、佐藤博、田中章弘)に大別される。シティポップなキャラメルママとジャージーな関西組はその当時の日本のポップスを席巻した。
それまでのフォークブームが終わると、新しく出てきたミュージシャンがニューミュージックというブームに乗ってTVにどんどん出演していた。「テレビに出ない」は70年代初頭のフォークシンガーのことで、70年後期のニューミュージックはいかにテレビと共存していくか、に賭けられたと思う。そんな中にフォークでもニューミュージックでもない男がテレビで脚光を浴びた。それまでシンガーのバックで弾いていた男が表舞台に躍り出た。こんな出方をしたミュージシャンはあとにも先にもこの男しかいない。

 パイオニアのステレオのCMから流れる音は、時代を代表する音だった。ちょび髭を生やし、目は針のように細く、アロハシャツ。一見、韓国人ぽい風貌(実は父親が中国人なので大陸的な顔なのだ)。決してルックスが良いとは思えないが、ギターを弾く姿はギター少年の憧れであった。高中正義。スタジオの仕事をこなしながら、フライドエッグ(ベース担当)、サディスティック・ミカ・バンド、サディスティックスを経てソロになった。1978年から1979年にかけて、フュージョンブームに王手をかけたアルバム『ジョリージャイブ』(1979)はテレビCM効果もあり、大ヒットした。1曲目に収録された「ブルーラグーン」は本人登場のパイオニアステレオのCMソングであり、当時の楽器屋に行けば必ず聴けるフレーズであった。

 高中は品川の生まれで下町の中でも小学校から私立(小野学園)に通うボンボンである。60年代後半のエレキブームのときにすでにエレキギターを持っていたことからもこのことが証明できる。ビートルズの映画を見て「これだ!」と音楽に開眼し、ベンチャーズのノーキーエドワーズにエレキの洗礼を受ける、当時の典型的な音楽少年である。18歳の時、アマチュアバンドでギターを弾いているところを成毛滋とつのだひろに声をかけられ、フライドエッグを結成。成毛は当時飛ぶ鳥を落とす勢いのギタリストであり、高中はベーシストとしてプロの第一歩を歩んだ。同時期にスタジオミュージシャンとして数多くのフォークアルバムに名を連ね、特に井上陽水のアルバムではギターとベース両方で参加している。そのスタジオワークに目をつけたのが、またもや、つのだひろ。新しく加藤和彦とサディスティック・ミカ・バンドを結成する時、高中はギタリストとしてラインアップされた。高中の名前が全国区になる第一歩である。
 七色の髪、ど派手なスーツはこの頃からトレードマークだったようだ。余談だが、よしだたくろうの1973年のツアーで全国を廻ったときのことである。地味なフォーク畑のミュージシャンに異端児が紛れ込んだ形になり(とにかくどこでも目立つ)、夜の街でも高中はいつもチンピラに絡まれていたらしい。たくろうや柳田ヒロは肩を組み、あさっての方向に逃げて行ったらしい。
 
 高中はギタリストであると同時に、重要な作曲家である。サディスティック・ミカ・バンドの「黒船」、よしだたくろうの「落陽」のフレーズ、井上陽水の「氷の世界」のスタジオワーク・・・ソロになる前にすでに後世にまで残る楽曲に絡んでいる。当時のスタジオはキメのフレーズ以外は各ミュージシャンに頼るところが大きく、作曲能力も求められていたようだ。
 高中のギターテクニックは、目を見張るほど達者というわけではない。サンタナに影響されたお決まりのフレーズもあるし、早弾きをすればアルビン・リー(テン・イヤーズ・アフター)のごとく弦をかきむしる。突拍子もないフレーズや超高速早弾きを好む「浅はかなアマチュアギタリスト達」や「ルックス重視の女性」からは過小評価されている感もある。
しかし、ここで思い出さなければならない。どんなにがんばってもスタジオミュージシャンはスタジオミュージシャンでしかないわけだが、高中は類まれなる感性と作曲能力で浮上したギタリストなのだ。彼よりテクニックがあるギタリストはごまんといるだろうが、そのギタリストのフレーズが高中の作曲したフレーズほど人々の頭に残っているだろうか。
 1年前、「クロスオーバー'03」というイベントがあった。そのイベントにはカシオペアやT-スクエア、パラシュートなど日本のそうそうたるミュージシャンが結集した。高中正義はトリをつとめた。約1時間のステージだったが、イベントということもあり代表曲ばかりを演奏した。圧巻はほとんどの客がみんな彼のフレーズを口ずさんでいたということである。ギターのフレーズをみんなで口ずさむなんて、何て素敵なんだろうと思った。

 ジャズミュージシャンには、わざとフレーズを難解にして、自分を誇示する輩がいる。高中と同様にテレビCMに出演しても、高中ほど商業的成功を収めなかった渡辺香津美がその人だろう。テクニック重視で、メロディーラインが難解になってしまう。しかし高中は臆面も無くわかりやすく、憶えやすいメロディーを作る。そこが彼の魅力だと思う。高中の視点は別世界にあるのだろう。歌もののバックから始まっているためか、詞を活かすフレージングを作ってきたせいか、親しみやすさが感じられる。加藤和彦、吉田拓郎、井上陽水、矢沢永吉、中森明菜、松任谷由実・・・彼がバックを務めた一握りのアーチスト達である。歌心がわからないと良いフレーズなんて出てきやしない。
作曲家として高中正義を最初から聞きなおしてみると結構驚くよ。

2004年12月16日
花形

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# by yyra87gata | 2012-12-12 20:01 | 音楽コラム | Comments(9)