音楽雑文集


by yyra87gata

外タレ初体験?

 80年代は音楽と映像がリンクし始めた年代である。アーチストもレコード会社もMTVと呼ばれるプロモーション・ビデオに力を入れ、セールスを伸ばす戦略がとられ始めた。ビジュアルに訴えたことで得をした人、損をした人、ひきこもごもである。

 MTVが出てくるまでは、音楽の映像は映画でしか見ることができなかった。
「レッド・ツェッペリン/狂熱のライブ」「ウッドストック/愛と平和の3日間」「ヤァヤァヤァ!ビートルズがやってくる」「HELP!4人はアイドル」「レット・イット・ビー」「トミー」「真夏の夜のジャズ」「バングラディッシュ救済コンサート」 「ラストワルツ」「ポールマッカートニー&ウィングス/ロックショー」くらいが1980年までの主な音楽映画である。上記の作品を組み合わせ、名画座で1年に1回は特集が組まれていた。それをありがたがって毎回観に行くのである。
 クラプトンやジミヘンが動いていることに感動し、ジミーペイジのギターを構える姿にシビレ、ポジションを確認した。忘れないように急いで家に帰って、ギターのストラップを長くしたものである。映画館から家までの間、目に、頭の石に映像を刻んでおかなければならなかった。
 《ベストヒットUSA》が1980年頃から始まり、音楽の映像がグッと身近になった。しかし、そこに出てくる映像はあくまでもプロモーション・ビデオなわけで、どうしようもない音楽をくちパクで合わせるC調な歌が目立っていたように思う。要はただ単に、80年代ポップスが好きじゃないだけなんだけど・・・。
作り手は歌だけに集中していればよかった70年代と比べ、ビジュアルという仕事が増えてしまった。ビジュアルに向いてないアーチストもいるわけで、そんな人たちは苦痛な時代になったんだろうなぁ。

 僕はセールスプロモーションのビデオが嫌いだ。曲の解釈を撮影側の押し付けでイメージさせられることが嫌だからだ。よく映画より本で読んだほうが良かった、という場面に出くわすが、まさにあれと一緒である。音を聞きイメージを膨らませる。このギターは誰だろう?このリズムの刻み方はきっとあの人だろう、などと予想を立てながら聞く楽しみもあった。
映像の話に戻そう。・・・MTVが流行る前は音楽の映像はほとんどがライブだったように思う。
《ベストヒットUSA》の中にも「タイムマシーン」というコーナーがあり、ロックのクラッシックな映像を流していた。その映像はまさにライブであった。まがい物ではない、純粋な音楽という感覚で見ることができた。

 ビデオデッキが家庭に普及される前の時代、音楽を見ることは、イコール、ライブ演奏を見るか、前述の映画くらいしかなかった。そんな時、あるスポットが各地に出現した。
「ビデオ上映会」
ビデオを鑑賞するためのスペースが渋谷や新宿を中心に竹の子のように出現した。よく大手楽器店の店頭スペースでもビデオは上映されていたが、それはセールスプロモーション用のヒット曲のオンパレードであり、「ビデオ上映会」のマニアックなラインアップとは一線を画していた。僕の心は躍った。海外からの直輸入ビデオがほとんどなので英語、フランス語、スペイン語の字幕が出てくる。
クィーンのデビュー当時のスペイン公演の映像は、字幕がスペイン語だった。日本でイギリスのバンドをスペイン語字幕で見る。変な気分。
当時の僕達は、海外のアーチストは、レコードでしか聞いたことが無いため、動いているところを観たときは、素直に感動したものだ。ああやって弾いていたのか・・・とため息がもれる。
エリック・クラプトンとジェフ・ベックのギターバトル(シークレット・ポリスマンズコンサート)、ボブ・マーリーの地鳴りがするほどのライブ、ジョン・レノンのライブ(ワン・トゥ・ワン)、ボブ・ディランのローリングサンダーレビュー、ジャクソン・ブラウンのノーニュークスコンサート、キッスのデトロイト公演'78・・・
2本~3本観て800円くらいだった。

 学校の帰りによく見に行き、帰りの道玄坂のロック喫茶「BYG」でタバコをくゆらせることが当時の日常だった。
「上映会」は1本いくら、という換算で料金が決まっていたため、組み合わせにより見たくも無い作品を見せられる映画館とは違い、お得感があった。

 d0286848_2093463.jpg 1984年くらいからビデオデッキが急速に家庭に普及し始めた。その瞬間から「ビデオ上映会」が街から消えていった。ミュージックビデオの普及やレーザーディスクの開発など、ソフト面での充実とハード面でのデジタル化が音楽を変えていった。そして僕達の生活も変わっていった。
気軽に海の向こうのアーチストを見ることができる。そこには、苦労もなく当たり前の日常があり、片手間にディランやスティービー・ワンダーが拝める。便利になった分、真剣に見なくなったのも事実。昔は映像に飢えていた。所定の場所に行き、しかるべきものを支払い、食い入るように見ていたあの時代。人間は満たされてしまうと、駆り立てるものがなくなると、とたんにヤワになってしまう。

「ビデオ上映会」は僕の外タレの原点かもしれない。

2004年12月17日
花形
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# by yyra87gata | 2012-12-12 20:09 | 音楽コラム | Comments(0)

高中正義という作曲家

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1976年くらいからクロスオーバーという新しい音楽ジャンルが生まれ、後にフュージョンという名前に変わっていく。海の向こうでは、スタジオミュージシャンやジャズミュージシャンがシンガーのバックではなく、自分の音を主張し始めていた。スタジオやジャズクラブでプレイしていたリー・リトナー、ラリー・カールトンといったプレイヤーはこぞってリーダーアルバムを発表。また、ジェフ・ポーカロやスティーブ・ルカサーといったLAのスタジオミュージシャンはボズ・スキャッグスのバックバンドを経て、TOTOを結成した。空前のスタジオミュージシャンブームが起きる。日本でもショーグンやパラシュートなど裏方がクローズアップされてきた。
スタジオミュージシャンになりたくてなっている人はそんなにいないという。少なからずも人前で演奏したことがあり、何らかの事情でスタジオの仕事をしている人がほとんどだ。人前に立ち、リーダーアルバムを出すことができるなら、みんなそうしたいだろう。なにせギャラが違う。注目度も違う。
 日本のスタジオミュージシャンの火付け役は、キャラメルママ組(林立夫、鈴木茂、細野晴臣、松任谷正隆、坂本龍一、)と関西組(村上秀一、大村憲司、佐藤博、田中章弘)に大別される。シティポップなキャラメルママとジャージーな関西組はその当時の日本のポップスを席巻した。
それまでのフォークブームが終わると、新しく出てきたミュージシャンがニューミュージックというブームに乗ってTVにどんどん出演していた。「テレビに出ない」は70年代初頭のフォークシンガーのことで、70年後期のニューミュージックはいかにテレビと共存していくか、に賭けられたと思う。そんな中にフォークでもニューミュージックでもない男がテレビで脚光を浴びた。それまでシンガーのバックで弾いていた男が表舞台に躍り出た。こんな出方をしたミュージシャンはあとにも先にもこの男しかいない。

 パイオニアのステレオのCMから流れる音は、時代を代表する音だった。ちょび髭を生やし、目は針のように細く、アロハシャツ。一見、韓国人ぽい風貌(実は父親が中国人なので大陸的な顔なのだ)。決してルックスが良いとは思えないが、ギターを弾く姿はギター少年の憧れであった。高中正義。スタジオの仕事をこなしながら、フライドエッグ(ベース担当)、サディスティック・ミカ・バンド、サディスティックスを経てソロになった。1978年から1979年にかけて、フュージョンブームに王手をかけたアルバム『ジョリージャイブ』(1979)はテレビCM効果もあり、大ヒットした。1曲目に収録された「ブルーラグーン」は本人登場のパイオニアステレオのCMソングであり、当時の楽器屋に行けば必ず聴けるフレーズであった。

 高中は品川の生まれで下町の中でも小学校から私立(小野学園)に通うボンボンである。60年代後半のエレキブームのときにすでにエレキギターを持っていたことからもこのことが証明できる。ビートルズの映画を見て「これだ!」と音楽に開眼し、ベンチャーズのノーキーエドワーズにエレキの洗礼を受ける、当時の典型的な音楽少年である。18歳の時、アマチュアバンドでギターを弾いているところを成毛滋とつのだひろに声をかけられ、フライドエッグを結成。成毛は当時飛ぶ鳥を落とす勢いのギタリストであり、高中はベーシストとしてプロの第一歩を歩んだ。同時期にスタジオミュージシャンとして数多くのフォークアルバムに名を連ね、特に井上陽水のアルバムではギターとベース両方で参加している。そのスタジオワークに目をつけたのが、またもや、つのだひろ。新しく加藤和彦とサディスティック・ミカ・バンドを結成する時、高中はギタリストとしてラインアップされた。高中の名前が全国区になる第一歩である。
 七色の髪、ど派手なスーツはこの頃からトレードマークだったようだ。余談だが、よしだたくろうの1973年のツアーで全国を廻ったときのことである。地味なフォーク畑のミュージシャンに異端児が紛れ込んだ形になり(とにかくどこでも目立つ)、夜の街でも高中はいつもチンピラに絡まれていたらしい。たくろうや柳田ヒロは肩を組み、あさっての方向に逃げて行ったらしい。
 
 高中はギタリストであると同時に、重要な作曲家である。サディスティック・ミカ・バンドの「黒船」、よしだたくろうの「落陽」のフレーズ、井上陽水の「氷の世界」のスタジオワーク・・・ソロになる前にすでに後世にまで残る楽曲に絡んでいる。当時のスタジオはキメのフレーズ以外は各ミュージシャンに頼るところが大きく、作曲能力も求められていたようだ。
 高中のギターテクニックは、目を見張るほど達者というわけではない。サンタナに影響されたお決まりのフレーズもあるし、早弾きをすればアルビン・リー(テン・イヤーズ・アフター)のごとく弦をかきむしる。突拍子もないフレーズや超高速早弾きを好む「浅はかなアマチュアギタリスト達」や「ルックス重視の女性」からは過小評価されている感もある。
しかし、ここで思い出さなければならない。どんなにがんばってもスタジオミュージシャンはスタジオミュージシャンでしかないわけだが、高中は類まれなる感性と作曲能力で浮上したギタリストなのだ。彼よりテクニックがあるギタリストはごまんといるだろうが、そのギタリストのフレーズが高中の作曲したフレーズほど人々の頭に残っているだろうか。
 1年前、「クロスオーバー'03」というイベントがあった。そのイベントにはカシオペアやT-スクエア、パラシュートなど日本のそうそうたるミュージシャンが結集した。高中正義はトリをつとめた。約1時間のステージだったが、イベントということもあり代表曲ばかりを演奏した。圧巻はほとんどの客がみんな彼のフレーズを口ずさんでいたということである。ギターのフレーズをみんなで口ずさむなんて、何て素敵なんだろうと思った。

 ジャズミュージシャンには、わざとフレーズを難解にして、自分を誇示する輩がいる。高中と同様にテレビCMに出演しても、高中ほど商業的成功を収めなかった渡辺香津美がその人だろう。テクニック重視で、メロディーラインが難解になってしまう。しかし高中は臆面も無くわかりやすく、憶えやすいメロディーを作る。そこが彼の魅力だと思う。高中の視点は別世界にあるのだろう。歌もののバックから始まっているためか、詞を活かすフレージングを作ってきたせいか、親しみやすさが感じられる。加藤和彦、吉田拓郎、井上陽水、矢沢永吉、中森明菜、松任谷由実・・・彼がバックを務めた一握りのアーチスト達である。歌心がわからないと良いフレーズなんて出てきやしない。
作曲家として高中正義を最初から聞きなおしてみると結構驚くよ。

2004年12月16日
花形

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# by yyra87gata | 2012-12-12 20:01 | 音楽コラム | Comments(9)

文化祭大作戦

 高校時代、僕の部屋には押入れから屋根裏へ続く天板があった。屋根裏は、僕の宝物の隠し場所だった。彼女からの手紙もあれば、Hな本も隠していた。でも、一番の宝物はエレキギターだった。友達のS君からもらったグレコのテレキャスターモデルだ。白いボディを彼は篠島コンサートでの拓郎のギターのように赤く塗ってしまった。素人仕事なので塗装にムラがあり、明らかに失敗作。
彼はその後、拓郎バンドのギタリスト(青山徹)に憧れ、彼が使用していたカワイ・ムーンサルトというギターを購入した(ミーハー)。結果的に今まで使っていたテレキャスターが邪魔になった(塗装失敗で嫌になった)ので僕にくれた。
僕は困った。僕の家では高校生がエレキギターを持つことはご法度だったのである。それは親父が高校教師・生徒指導部ということに起因している。バイクとエレキは不良の始まりなんだそうだ。
 フォークは良くてエレキは駄目なんて基準はそもそも間違っているのだが、そんなこと当時の親父に言ったら、こてんぱんにされてしまうのは目に見えていたので、子供は当然親の目を盗んで行動した。
テレキャスターは古いトランジスタラジオにつなげて、親のいない時間に鳴らしていた。いつもひずんだ音でクラプトンやフリーを弾き、拓郎や陽水を気取って歌っていた。親の不意の帰宅に焦ったことがあったが、ステレオを鳴らしていた、といってごまかしていた。

 高校3年生は受験生。僕の学校は一応進学校で、頭の良いやつはずば抜けて良い。スポーツもせず、1日中勉強しているやつって本当にいる。そんな中で僕は完全にドロップアウトを決めていた。僕の学校は1学期ごとにクラスが替わる。成績順にクラス分けされる。ひどい時は席順もテストの出来不出来で決まったこともあった。別にそれに対して不満は無かったが(関心が無かった)、周りのみんなが受験モードに入っていき、バンドメンバーがベースやギターをケースにしまっていく光景を見るのが嫌だった。もちろん我が家でも大学受験の話は常にあったが、僕は聞き流していた。それより、今やりたいことをやる、という刹那的な感情で生きていた。
高校3年生は、受験シフトになり、かなり自由登校が認められていた。来ないやつは全然学校に来なかった。しかし僕は毎日学校に行き、生徒会役員でもないのに生徒会室に朝から夕方までずーっと入りびたって、たまにタバコをくゆらせていた。すると、文化祭が近づくにつれ何人かのおちこぼれが僕の周りに集まってきた。・・・「何か面白そうなことやろうぜ。」

 高校生がライブハウスに出ることなんか夢のような時代だ。唯一の発表の場は文化祭になる。僕は文化祭の実行委員に名乗りをあげた。体育館ででかい音が出したい!うちの体育館は講堂ではないので、舞台を作らなければならないが、それでも音が出したい!拓郎は同時期に全国体育館ツアーの真っ只中だった。それもひとつの引き金になった。そして、そんな企画に合わせるかのように体育館だけではなく、ライブハウスを作る案もあがった。
 文化祭でライブ演奏会はそれまでにもあった。しかし、フォークギター中心であったり、ブラスバンド部の発表であったり。純粋なエレクトリックバンドのライブは無かった。カトリックの学校だったからかもしれないが、ものすごく保守的。当然、ハードロックやヘビメタなんてやっているやつはいないし、できる雰囲気じゃなかった。(先輩のバンド名で「死神」ってのがあったけど、学校側からクレームが入りバンド名を改名させられてた。・・・文化祭には「天使」ってバンド名で出てた・笑)
文化祭実行委員は秘密裏に「こと」を進めていった。音楽授業の一環だった自作自演をコンテスト形式で行うことを企画。全校生徒の前で発表会を行なう。音楽の授業カリキュラムを大々的に行なうだけなので、学校的には問題は無いはず。企画書には「体育館での音楽演奏・自作自演コンテスト他」と書き、学校へ提出。この「他」という文字に大きな意味があった。
 有名人を呼ぼう、と言うことになり、親父がTBSに勤めているやつがいたので、当時《ぴったしカンカン》で人気だった「久米宏」をオーダーした。しかし実際に来ることになったのは当時、新人アナウンサーだった「生島ヒロシ」だった。「久米さん」は、どうもスケジュールと予算が合わなかったらしい。そして、売れて無くてもミュージシャンを呼ぼう、と言うことになり、「ヒストリー」という「NSP」みたいなグループを呼ぶことになった。ぜんぜん売れてなかったが、そんなことは問題ではなかった。これらは、完全に学校向けの企画であり、体育館にでっかい舞台を組み上げるための理由付けなのだ。舞台を作り上げ、マイクやPA、楽器類を揃える予算を学校から引き出すための企画でしかない。そんなことを知らない学校側はOKを出した。僕って策士。
 PAや楽器類の調達も限られた予算なので、若い馬鹿野郎たちは頭より行動が先に出る。運んでもらうと運搬料を取られるので、機材は渋谷のレンタル会社に取りに行った。電車でバスドラや大きなベースアンプを運ぶことはかなりきつかったが、自分ができる高校最後の祭りだったから苦労とも思わなかった。暴走する青いなんとか・・・みたい。

 僕の唯一の学校側の理解者は、音楽教師と美術教師だった。いつも放課後になるとどちらかの部屋に行き、いろいろな文化やアーチストの話を聞いた。僕が生徒会室を占拠していたときも、たまに顔を出してくれ、いろいろとアドバイスをしてくれた。あとあと聞いてみると、学生運動の闘志だったらしく、非常に具体的で合理的な物の考え方をし、慣習をぶっこわすことが大好きだったようだ。
しかし、他の教師からは廊下ですれちがうたびに、受験のことをチクチク言われた。そして優等生たちに聞こえよがしに、僕たちと付き合うことを禁じる発言をする。でもそんなこと気にしてはいなかった。馬鹿だと思われても理屈じゃなかった。
ライブハウスはどこでやるか・・・。
音楽教師は音楽室のライブハウス化について目をつぶってくれた。そして、ひとつだけ条件を出した。「俺も歌わせろ」みんなコケた。ビートルズを一緒にセッションすることで合意。
ライブハウスについては、ブラスバンド部の発表会ということにして、音楽室を占拠した。もちろんブラバンの連中は知らない。ブラバンの発表をさせておき、演奏終了後にバンド形態にステージを早変りさせることを企画する。一番の問題はドラムセットとベースアンプの大物類。動く舞台は意外にも近くにあった。野球部の動くバッティングネットにでかい車輪がついている。そのネットは取り外しがきき、そこに教壇の天板を載せれば上手い具合に動く舞台になった。アホはアホなりに考えると突拍子も無いことを思いつく。

 文化祭前日、体育館に大きな舞台が組まれた。レンタルのニッケンのオヤジ達は2時間で立派な舞台を作ってくれた。そこに、ドラムやベースアンプ、ギターアンプを雑然と並べる。舞台美術なんてまったく考えていなかった。ただそこで演奏できればいいと思っていたから。

 文化祭は体育館に全校生徒が着席し、校長の挨拶から始まった。異例ともいえるでかい舞台にみんな興奮していた。
自作自演コンテスト。中学1年から高校3年まで約15組のエントリーがあった。高校3年でエントリーしたのは、僕ともう1人の弾き語りだけだった。審査員は校長をはじめとする教師連中だ。
歌詞をプロジェクターでスクリーンに映るようにしたので、教科書に出てくるような歯の浮いた歌詞がたくさん目に飛び込んできた。キレイに歌うことで教師達はフンフンうなずいていた。「おもしれぇか、こんな歌、本当の気持ちを歌えよ!」なんて裏から野次を飛ばしていたのは、僕の親友のMだった。
僕はというと「学校の1日」を歌詞にあらわし、いつも一緒に悪さをするTとMの3人で出場した。生徒達からは声援と教師からは苦笑を買っていた。特に校長のことを歌った部分では、拍手をする教師もいた。結果は4位。いいんだか悪いんだかわからない位置。校長から表彰楯を渡されたが、校長は笑っていなかったなぁ。
 「生島ヒロシ」や「ヒストリー」の公演も滞りなく終了し、生徒達はそれぞれの催し物に散開していく。
これからが勝負!まずは体育館でのライブ。
その場で作った「スケジュール表」を掲示板に貼り、ライブ強行である。
高校最後の文化祭で僕は体育館のステージに立っていた。全員高校3年生で組んだバンド。もちろん教師たちは白い目で見ていた。1時間、めいっぱい拓郎を歌った。客はそこそこいたので歌っていて気持ちがよかったが、途中で電源を抜かれるんじゃないか、内心ヒヤヒヤしていた。結局、文化祭開催2日間とも体育館でライブができた。体育館で、でかい音で演奏できたことに、十分満足した。
僕達は体育館での演奏を終えると、そのまま音楽室(ライブハウス)へ移動。ブラバンの演奏にむりやり参加し、そのままの流れでバンド演奏会が始まった。
 みんなやりたくてうずうずしていたから、出演希望者は当初の予想の3倍となり、2日間の開催期間中で出番が1回という有様だった。でも普段、数学や物理ばっかりやっているガリ勉くんが、ディープパープルのキーボードを弾いていたり、野球しか能のないやつが、意外にビリージョエルを完璧に歌ったりと、結構楽しめた。僕は高中正義やYMOなどその頃流行っていたインストゥルメンタルを演奏した。音楽室は文化祭の間、音が止むことは無かった。
あとから聞いた話だが、例の音楽教師は近隣住民への騒音対策として、事前に案内文を作成し、ブラスバンド部の連中を使って、ビラ配りをしてくれていた。泣けた。

 学校は毎年3月になると1年間の締めくくりとして、生徒全員にアルバムを配布する。その中に、体育館でエレキギターを持って、マイクに叫んでいる僕の写真がデカデカと載った。
両親はそのページを見ていたが、何のコメントも無かった。但し、親父が一言
「高校生活は楽しかったようだな・・・。これからどうするんだ・・・。」
僕はどこにも属さないサンデー毎日になっていた。

2004年12月10日
花形
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# by yyra87gata | 2012-12-12 18:58 | その他 | Comments(0)
 渋谷・道玄坂を登ったところに、ヤマハ渋谷本店がある。僕は高校の3年間、土日の大半をこの楽器屋で過ごしていた。今ではなくなってしまったが、店頭LIVEなる催し物があり、只でライブを見ることができた。もちろん、アマチュアバンドばかりだが、少なくても自分より上手な人たちばかりだったので、飽きることは無かった。ビートルズ風の人、クロスオーバーと呼ばれるインストの人、NSPみたいなフォークグループなど、多彩な音楽が土曜の昼下がりを包んでくれた。あと2年早ければ、山下達郎率いるシュガーベイブや、チャーのスモーキーメディスンなんてバンドを見ることができたそうだ。

 その日も本店に彼女を連れ立って、あても無くライブを見に行った。東急本店の方向から道玄坂に向かおうとしていた時、あるライブハウスの前に、いつもとは違う人だかりができていた。屋根裏というライブハウス。ちょっと異様な雰囲気。みんな目が血走っていた。中には「入れろー!」って叫んでいるやつもいる。隣で彼女の顔が曇る。僕はなんだかわくわくしている。
貼り紙には「当日券・売り切れ!」とある。「誰?」
RCサクセション(ゲスト春日博文・OZ)、とだけ乱暴な字で書かれていた。

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 そのあと、渋谷ヤマハ本店で何を見たのか全然憶えていない。RCが気になってしょうがなかったから。
まだ隔週発行だった「ぴあ」や「あんぐる」を読み漁り、RCの名前を探しまくった。屋根裏3日間連続公演は終わったばかりだった。
 RCがエレキバンドになっているということは、「新譜ジャーナル」で知っていたが、まさかあんな騒ぎになっているとは思わなかった。屋根裏なんてあんな天井の低いライブハウスが3日間満杯なんて信じられなかった。いてもたってもいられずに、プレイガイドにコネを持つ(プレイガイドに彼女がバイトしているだけだ)W君に頼んで、次のRCのライブを見に行くことにした。彼女とではなく、W君と一緒に行った。
 今は無き、久保講堂である。大変なライブだった。それまで見てきたライブのどのライブよりも音が大きかった。ハードロックのでかい音は倍音になり、結構大きな音でも慣れてくると気持ちよくなってくるものなんだけど、この日のRCの音は、生音がでかいというか、生身の音というか・・・。気に障る位とんがっていた。「僕の好きな先生」はそこには無かった。そして、この模様は『RHAPSODY』というアルバムになった。


 RCは不思議なバンドだ。清志郎は今でもたまにTVに出てくるけど、一貫して自然体である。人付き合いが下手で、平気で人を傷つける言葉を吐くんだけど、すごくナイーブで小心者。だから、ステージで大爆発しちゃう。RCは、そんな清志郎の周りに同じような輩が集まってできたようなバンドだ。
 TVKの「ヤングインパルス」「ファイティング80」という番組にもよく出ていたが(確かコーナーを持っていたんじゃないかな)、あまり話さないんだよ。司会の宇崎竜堂は、サングラスの奥でいつも目を白黒させていた。
RCは、とにかく売れなかったんだ。最初のシングルがちょっと話題になっただけで、あとは陽水の前座とか、矢沢永吉の前座だった。そこでいつでも毒づいているから、客からは総スカンを喰らっていた。喜んでいたのは泉谷しげるだけだったらしい。
 でもRCは紆余曲折しながら人員整理を行い、古井戸からチャボを引き入れ、再生した。音楽性が変わったように思われるかもしれないが、フォークギターがエレキギターになっただけで、RCは昔から、ロックだったんだ。時代が追いついたなんていったら、格好つけすぎ?
 シングル「雨あがりの夜空に」(1980)が当たり、ライブ会場はどんどん大きくなっていった。当時、野外イベントの目玉はいつもRCで、必ずトリのバンドを喰っていた。「ジャムジャム80」では、トリのアリスの頃には客なんて残っていなかったもん。RCサクセションは、長い暗黒時代から脱出した。
 
 うなぎ昇りの人気の中、アルバム『PLEASE』(1980)をリリース。『PLEASE』は、がっかりするくらい音の細いアルバムだ。いや、それまでのフォーク・スタイルだった頃のRCも「ライブは鬼気迫るのに、レコードになるとつまらないバンド」などと云われていた。カッティングの技術の問題からか、RCのサウンドはレコードになると音痩せして、その迫力が充分に伝わらないところがあった。しかし、『PLEASE』は、その音の物足りなさを差し引いても、珠玉のアルバムだ。仕事が無い時代に書きためていた曲が山のようにあり、煮詰まることはなかったと云う。

「別れたりはしない、嘘をついたりしない。上等の果実酒、暖かいストーブ、この部屋の中。
ダーリン、ミシンを踏んでいる」 ~「ダーリンミシン」

「モーニングコールをよろしく。たのむよ明日の朝、モーニングコールをよろしく。
本物の君のキスで目を覚ませる朝が来るまで、電話で我慢するさ」 
~「モーニングコールをよろしく」

「歌うのはいつもつまらないラヴソング、おいらが歌うのは安っぽいラヴソング。
そうさおまえが好きさ。おいらそれしか言えない」 ~「たとえばこんなラヴ・ソング」

 清志郎の書くラブ・ソングは、少しもつまらなくない。詞ヅラだけ見るとちょっと気恥ずかしいのだが、清志郎の歌になると恥ずかしくなくなってしまうところが不思議だ。パンク・メイクになってからのイメージと、あたたかい詞のギャップが、一筋縄ではいかないスゴさを醸し出してもいた。ロックは詞だ。

「あの夜初めて聞いたおまえのナンバー、唇にくっついたままそのまま」
「Sweet Soul Musicあのいかれたナンバー。シートにしみ込んでるおまえの匂い、他の女とは区別がつくさ」 ~「Sweet Soul Music」
当時、こんなにファンキーで素敵なナンバーを、あんなにもソウルフルに歌っているシンガーは他にいなかった。サム&デイヴや、オーティスの匂いがプンプンする。
「ぼくはタオル、汗をふかれる。冷や汗あぶら汗どろどろの。ぼくはタイル、便所のスリッパとなかよしこよしのお友達。ぼくはスルメ、浜に吊るされて、カラカラに干されて、あきらめても干されて、でもまだ干されてる」 ~「ぼくはタオル」
なんだこの詞は?と思ったけど・・・、清志郎らしい比喩法だ。

「オンエアーしてください。見たいのはロックショー。Yeahミスター・テレビ局のプロデューサー。ぼくは
毎日ほんとに孤独なんだ。友達はテレビだけ」 ~「ミスター・TVプロデューサー」

「いい事ばかりはありゃしない、昨日は白バイにつかまった」 ~「いい事ばかりはありゃしない」

「どっかの山師が俺が死んでるって言ったってさ、よく言うぜあの野郎、よく言うぜ。あきれて物も言えない」 ~「あきれて物も言えない」

ホリプロで飼い殺しにされていた頃のナンバーだろうか。
「ぼくはタオル」は、ホされていることへの怨みつらみが、「いい事ばかりはありゃしない」は、やることなすことうまくいかないことへの愚痴が、「あきれて物も言えない」は、自分を過小評価した奴への苦言がこめられている。
 ちなみに「あきれて物も言えない」の「どっかの山師」とは、泉谷しげるのこと。
 泉谷はもともと渋谷のライブハウス「青い森」にRCを観に来るファン(客)だった。泉谷の客を客とも思わない態度の芸風は、RCに感化されたところからきていると、泉谷もコメントしている。
 客だった泉谷は、いつの間にか「青い森」の《ゲテモノ大会》で歌い出し、レコード『泉谷しげる登場』もリリース。「春夏秋冬」のヒットもあり、その後フォーライフの一角を担うなど、順調に売れていった。
その泉谷がどん底にあったRCを見て、「清志郎はもう終わりだ」と云ったことに腹を立てて、この歌は作られた。もともとは「どっかの山師」ではなく「びっこの山師」と歌われていた。
そして説明不要の名曲「トランジスタ・ラジオ」

Woo 授業をサボって
日の当たる場所にいたんだよ
寝ころんでたのさ 屋上で
たばこの煙とても青くて
内ポケットにいつも トランジスタ・ラジオ
彼女 教科書広げてるとき
ホットなナンバー空にとけてった
Ah こんな気持ちうまくいえたことがない   ないあいあい

 のどかな高校生活。どこにでもいそうな落ちこぼれ。ロックン・ロールが大好きで。
自分の高校生活がだぶる。違うところは、僕は男子校だったから彼女が学校にいなかったことだけ。
曲は相当つまらないんだけど、あんなこっ恥ずかしい詞を臆面も無く歌えるところにシビレタ。

 いま、僕はちょっと大人になって「俺は○○(某ミュージシャン)と一緒につるんでた不良だった」という手合いと出くわすことがたまにある。「不良って云っても、俺ぁ根っからのワルだったけど、アイツはそれ程でもなかった」「大体音楽をやってるヤツがいくら「昔ワルだった」って云ったって、たかがしれてるんだよ」と、やっかみ半分か、ちょっと見下したような、有名になったそのミュージシャンをハンパ者扱いする。
 でも、僕は違うと思う。
 音楽をやってたからナマっちょろいんじゃなくて、音楽に目覚めたから、いつまでもワルぶったくだらない人生を歩まずに済んだんじゃないか…と。
 ギターは家にこもって一生懸命練習しなくちゃ上達しない。不良だろうが、ガリ勉だろうが、みんな毎日「運指練習」をして上手くなったことに変わりはない。それができないヤツは、何をやったって続かない。ハンパ者はどっちだ。・・・だったら、ロックに夢中になった不良って、いいよな。
清志郎はどんなに売れてなくてもアルバイトはしなかったらしい。バンドマンはアルバイトなんてしちゃいけないんだそうだ。売れなかったら女に食わしてもらえばいい、という考え。ある意味ピュアだったりする。そんなピュアな清志郎の「トランジスタ・ラジオ」である。
この歌は、授業をサボって煙草を吸ってたことを云いたいんじゃない。

君の知らないメロディ
聴いたことのないヒット曲

君の知らないメロディ
聴いたことのないヒット曲…
 
ベイ・エリアやリバプールから届いたこんなイイ音楽を、な~んで君はわかってくんないかなぁ… 
教科書を広げてる彼女との気持ちのずれ。
青春って、確かにそんなどうでもいいようなかなしさがある。

RCが好きになった頃、どうも彼女と別れた気がする。

2004年12月9日
花形
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# by yyra87gata | 2012-12-12 18:55 | 音楽コラム | Comments(1)

原田真二っていいよね。

 僕が中学2年生の2学期。原田真二は9月10月11月と3ヶ月連続でシングルを発表した。鮮烈なデビューだった。ファースト・アルバム『フィール・ハッピー』(1978)は拓郎がプロデュースしており、そのことからもフォーライフレコードの力の入れようも半端じゃなかった。但し、原田真二の風貌はアルバムのジャケ写も含めて、男の自分が「原田真二ってイイよな」なんて、とても云える雰囲気じゃなかったくらいベビーフェイスだった。
 
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 当時のフォーライフは拓郎も『ローリング30』(1978)を発表したことぐらいしか良い話題が無く、泉谷は脱退するし、陽水は大麻でパクられるしと、いいことがまったく無かった。そこへ救世主「原田真二」の登場である。
広島生まれの高校生が、フォーライフのカセットオーディションに合格し、デビューのきっかけを掴んだ。カセットを聞いた拓郎は、ぶっとんで、「俺がプロデュースする!」と云ったとか・・・。デビュー前から音楽性については折り紙つきだったのだ。また、青山学院に入学も決まり、育ちの良さが際立っていた。チャーなんて高校でてるかどうかわかんないし、ツイストは大阪芸大の兄ちゃんだからね。

でも西城秀樹や郷ひろみと同じ様に女の子にきゃーきゃー騒がれていた分、正当な評価はされてなかったんじゃないだろうか。その前年、チャーが『気絶するほど悩ましい』を出して、ロックが歌謡曲(アイドル)に歩み寄って行った感がある時代。森進一のように歌謡曲の方からフォークに近付いて行ったのには抵抗はなかったんだけど、その逆はとても日和った感じがしてイヤだった。桑名正博が変な歌謡曲を歌っていたし、ゴダイゴなんてロックだか歌謡曲だかわかんなかったし・・・。
 で、チャー、世良公則とツイスト、原田真二、サザンオールスターズと、テレビにも出るロック・アーティストが続々と輩出されて、《ザ・ベストテン》や《夜のヒットスタジオ》なんかでもフツーに観るようになって。《紅白歌合戦》にも出てたし、確か《全員集合!》でも観た記憶がある。

 まあそれぞれ個性もあって、そこはそれ、アイドルと一線を画したものはちゃんとあったけど、メロディー・メーカーとしては原田真二がアタマひとつ抜き出ていたように思う。ポール・マッカートニーとかエルトン・ジョン的アプローチが見えた。他のアーティストたちがギターで作曲しているのに対して、原田真二はピアノで作っていたからかもしれない。

 「てぃーんず ぶるーす」の、| DM7 D6 | DM7 D | E6 E | E6 E7 | なんてコード展開は、ギターで作曲する人にはなかなか浮かばないよなぁ。。。って、素直に感心していた。響きもお洒落で。

 『フィール・ハッピー』を聴いてるとね、結構洋楽のパクリも多いんだよ。「キャンディ」を聴いてると「ミッシェル」を思い出す… なんてレベルのものじゃなくて、モロ持って来ちゃったみたいな。でもそれが筒美京平的というか、うまいことやってる。そんなことも含めて、あのアルバムでの松本隆とのコラボレートは、ある種の金字塔的成果が上がってると思う。但し、アレンジャーの青山徹とはガチガチにぶつかってたらしい。同郷ということもあり、拓郎が気を利かせて青山を呼んだらしいけど、歳が近い分この配置は裏目ったらしい。もう一人のギタリストである鈴木茂は大人だからね、問題はおきなかったらしいけど。
 あ、あと、ピアノで演奏しながらも、Tレックスやファンクサウンドみたいなのも好きだったと思うな。そんなエッセンスが原田真二のサウンドの発想には、そこはかとなく詰まっている。メロディと同時にリズムを感じ取ることができるんだよ。
 原田真二のターニングポイントは、どこか・・・。自分の才能と、売り込み方のギャップに悩んだのかな。その後、フォーライフを離れるわけだが、どんどんマニアックな方向に進んでいくし、どんどんオリジナリティが失われていった気もする。「見つめてCarry On」なんて、プリンスの曲そのままでぶったまげた。

 それからの原田真二は、全然パッとしなかった。相変わらず良い歌は作っていたんだけどな。
決して良い歌が売れるわけではないという日本の音楽事情の中で、原田真二は沈んで行った。そのあたり、サザンと対照的。世良公則の消え方とも違うし、職人芸を極めていったチャーとも違う。

 何年か前に東京ドームの前にあるプリズムホールという小さいホールで、原田真二のパフォーマンスを観た。バンドと呼ぶには中途半端な編成で、打ち込みの嵐。彼はまるでマイケル・ジャクソンだった。ムーンウォークだってやっちゃうんだから。でも同じ時間、本家は後ろのドームで本当にムーンウォークをしていたんだ。哀しいね。 
 でも、苦労もしたのか、客のつかみがとっても巧くて。往年のヒット曲もまったく色褪せてないし、初めて聴く歌も、そんなに悪くは無かった。ただ、マイケルから3kmも離れてないところで同じような歌は聴きたくなかったな。

中学生のときに聴いたサウンドは確実に耳に残っている。昔から隠れ原田真二ファンとして言わせて貰えば、最初の頃の原田真二は本当に天才だと思った。これは今でも変わらない。ホントにイイんだって。
 そういう意味では、デビュー時のあの人気は彼に何をもたらしたのかな…。悪いことばかりじゃないとも思うけど。

 
 ちょっと前、松田聖子とどーのこーの書かれてたね。
もう少しきちんと彼の曲や才能が取り沙汰されればいいのに。
だけど、「懐かしのアイドル」的なテレビ番組では見たくないね。



2004年12月7日
花形
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# by yyra87gata | 2012-12-12 18:53 | 音楽コラム | Comments(4)