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ウルフルズ  10周年5時間ライブ!! 〜50曲ぐらい歌いました〜_d0286848_16141019.jpg

今では当たり前のように関西弁を聞くことができるが、私が高校生の頃は、まだまだ違和感があった。それは、テレビを見ていても今ほど芸人はテレビには出ていなかったし、大阪の放送局が製作するテレビ番組は限られたもので、そういったテレビ番組からしか関西の雰囲気は分からなかったから、どこか異質に映っていた。

関西のテレビ番組は「新婚さんいらっしゃい」「プロポーズ大作戦」「ラブアタック!」といったやたらと恋愛ものに偏ったバラエティー番組という印象が強い。

司会をしていたのも漫才の横山やすし、西川きよしやお笑いタレントの横山ノックや上岡龍太郎で、マシンガンのように関西弁を使う。

関東人からしてみれば、リズムもあって小気味いいし、間寛平のようにヌーボーとしたリズムも面白かった。方言を隠すことなく堂々と話しているところに関東人は静観した。

そんな時に「THE MANZAI」という漫才ブームが起き、一気に関西芸人が東京に押し寄せた。

「俺たちひょうきん族」は関東関西の芸人が入り乱れてお笑いブームを牽引したのだ。

ちょうどこの頃から関西弁が市民権を持ち始め、テレビの情報番組から関西弁が出てきても驚かなくなっていた。島田紳助や明石家さんまが東京で冠番組を持ったことも大きかった。

私が聴いていた音楽で言うと、関西色が色濃いミュージシャンは、憂歌団、上田正樹とサウス・トゥ・サウス、ソーバッド・レビュー、途中から歌謡曲っぽくなってしまったが桑名正博(ファニー・カンパニー)あたり。

彼らは堂々と関西弁で歌を歌い、ラップのように関西弁でまくし立てた。もう関東人からしてみれば、別の言語に聞こえる。同時期に負けじと東北弁で吉幾三が「田舎のプレスリー」なんて騒いでいたが、関西弁のようなビートの効いたリズムに乗る語感ではなかった。

但し、関西弁の歌は関西弁の歌として、構えて聴いていた記憶がある。なんせ、自分では唄うことが出来ない訳だから。

長いドライブの時に聞くCDがある。5枚組。一気に聴く。

ウルフルズ『ウルフルズ10周年5時間ライブ!! 50曲ぐらい歌いました〜』(2003)。

20021225日に渋谷公会堂で開催されたイベントをまるまる録音したアルバムである。今年ウルフルズは結成30年を迎えるが彼らの唯一のライブアルバムである。

1999年にベースのジョン・B・チョッパーが文筆活動に専念するという理由で脱退したが、このライブまでの3年間のライブやレコーディング活動の中でベースを支えてくれたサポートミュージシャンを全員呼び、ベーシスト毎にライブを進めていくという面白い企画(一部アンプラグドステージで、ノンベースで行なわれたパートあり)。

3人のベーシスト(上野イチロー、高橋“Jr”知治、CHIROLYN)が演奏、それぞれのパートの最後の曲は「ガッツだぜ!!」に統一(だから「ガッツだぜ!!」は5回も演奏された)。

そして最後のベーシストとしてジョン・B・チョッパーが登場。観客を興奮の坩堝に陥れた。当の本人は「また、一緒にやりたいなぁ・・・」と肩の力の抜けたコメント。

翌年から正式にメンバーとして復帰した・・・。

 

 49曲とMCがしっかり収録されている長いライブであるが、飽きさせない曲順と合間に入るトータス松本やウルフルケイスケのMCは普段着の関西弁で、近所の兄ちゃんが話すテンションだ。演奏も上手い。良いライブアルバムである。

社会人になりたての頃、大阪に出張した時、大阪の取引先の人に

「にいちゃん、東京の人?なんか、役所の人と話してるみたいやな」と言われたことがある。

仕事の中にも面白さを求めているのかどうかわからないが、関西人の生活の中には必ずボケとツッコミがあり、彼らの最大の侮辱は「おもんない」という言葉なのだそうだ。

こんなことをもし彼らに言おうものなら、中指を立てられたアメリカ人くらい怒り出すか、逆に落ち込むのだそうだ。

 関西弁が市民権を得て、関東人でも普段の言葉で「めっちゃ」を多用するようになった今だから、この関西弁丸出しのMC入りのライブアルバムを違和感なく聴くことが出来るのだろう。

私の高校時代にこのアルバムが出ていたら、関西弁に気を取られて歌が入ってこないかもしれないな。

20221017

花形


# by yyra87gata | 2022-10-17 16:16 | アルバムレビュー | Comments(0)
渡辺貞夫 『How’s Everything』_d0286848_13043579.jpg

渡辺貞夫。世界のナベサダである。

学生時代によくコンサートに足を運んだ。六本木PITINNや新宿厚生年金ホール、よみうりランドEASTのイベントなど。一時期ハマって観ていたのだ。

ナベサダは、現在89歳。まだまだ現役でツアーをしている。サックスやフルートといった肺活量を使う楽器で、ちゃんとコンサートをしている・・・やはり世界のナベサダだ。

ナベサダのステージはいつも誠実だ。

観客に対する姿勢、一緒に演奏するミュージシャンへのリスペクトがナベサダの温かいMCから感じ取ることが出来る。

私は中学生の頃、ナベサダをテレビCMで初めて見た。スクーターや男性化粧品の宣伝に出てくる笑顔の素敵なオジサンと言う印象。世界的に有名なジャズサックスプレイヤーなんて1ミリも思わなかった。

「カリフォルニアシャワー」の音楽をバックにナベサダと草刈正雄がニコニコ笑っているCMを観ていた時、母親が「ナベサダも歳とったわねー」なんて呑気に言った一言が妙に心に響いたのだ。

え?ナベサダってあの渡辺貞夫?このおじさん?・・・が第一印象。

中学のブラスバンド部の友人がカセットテープに録音してくれたナベサダの演奏。

4ビートやブラジリアン、フュージョンぽい音楽がミックスされたテープだったが、「とにかく有名なミュージシャンだから聴いてみな」という一言。

それまでジャズなんて聴いたことも無く、習っていたエレクトーンでジャージーな曲があったから参考にでもなるかと思い、友人に録音を頼んだ程度。

そして、その落ち着いた4ビートやお洒落なボサノバの演奏をしていた人は、テレビの中でニカッと笑っていたのだ。

私は大学に入り、六本木PITINNに頻繁に出入りするようになると、ナベサダが毎年恒例にしている「クリスマスコンサート」なるものがあることを知る。

1985年、1986年と2年続けてこのコンサートを観覧したが、リラックスした中にも神がかった演奏が繰り広げられた。

1985年は、ウェザーリポートのメンバー、ビクター・ベイリー(ベース)、ミノ・シネル(パーカッション)のコンビにマーカス・ミラーのバンドで有名なプージー・ベルのドラムが強烈なグルーブを作る。ギターのボビー・ブルームもケニー・バレルと演奏経験もある実力派。

かなりハードな演奏で、レコードで聴いてきた穏やかなナベサダではなく、ジャズファンクというシーンもあった。

ここで、注目したいのは、ナベサダとバックを固める外国人ミュージシャンとの歳の差。ナベサダは1933年生まれ。バックメンバーは1960年前後。30歳の差。1980年代中半、世の中はデジタルな音楽が鳴り響く中、ナベサダも新しい音を追求していたのかもしれない。あのマイルスだって80年代の作品はアバンギャルドの塊だった。だから、一流のミュージシャンは音楽という共通言語で、国や性別、年齢の差など飛び越えていったのだと思う。

1986年はサンタナやウェインショーターバンドのベーシスト、キース・ジョーンズやスティールドラムの名手アンディ・ナレル、後にグラミー賞のベスト・フュージョン・パフォーマンス部門を受賞するウィリアム・ケネディーといった実力派で固められた。この年はアンディ・ナレルのスティールドラムがかなりフューチャーされたステージだったのでブラジリアンな音楽の印象がある。

クリスマスコンサートは六本木PITINNが立ち見満杯になるほどの盛況ぶりで、ミュージシャンも見学に来る。野次を飛ばしているのは大抵ミュージシャンで、ナベサダはニコニコしながら宇都宮弁で応えている。

「今日はいつもより外野がうるさいね(笑)」(イントネーションは文字にできない)

ナベサダは我々日本人に数多くの海外のミュージシャンを紹介してくれた。ナベサダから教えられた海外のミュージシャンは数多いし、彼らを来日させ、生の演奏を聴かせてくれた。1980年代に入ると海外録音をする日本人ミュージシャンはジャズに限らずポップスでも多くなってきたが、日本でツアーをする海外ミュージシャンは意外と少ない。その意味でも世界の一流のミュージシャンを観に行くというのもナベサダのコンサートの楽しみでもあった。

特に中学の時に友人に作ってもらったカセットテープには丁寧に演奏ミュージシャンも記載してくれたから、その時からの知識で、そのミュージシャンが来日するとなると心が弾んだ。

チック・コリア(P)、スティーブ・ガッド(Dr)、ロン・カーター(B)、トニー・ウィリアムス(Dr)、リー・リトナー(G)、チャック・レイニー(B)、デイブ・グルーシン(P)、ハービー・メイソン(Dr)あたりは、ナベサダで初めて聞いたミュージシャンだ。

渡辺貞夫 『How’s Everything』_d0286848_13131155.jpg

 特に1980年発表の『How’s Everything』は日本武道館公演を収録した2枚組アルバム。

スティーブ・ガッド(Dr)、リチャード・ティー(Key)、デイブ・グルーシン(Key)、エリック・ゲイル(G)、アンソニー・ジャクソン(B)といったプレイヤーに東京フィルハーモニー交響楽団を加えた豪華なコンサート。このアルバム、日本では契約の問題で発表されなかったので、輸入盤という形で手に入れた記憶がある。

とにかく、このアルバムでの演奏はデイブ・グルーシンのアレンジとオーケストレイションを融合させた傑作であることは間違いなく、オーケストラが伴奏側になりがちなジャズやポップスでの扱いに反し、しっかりと主張もしているのだ。

そこにナベサダの艶のあるサックス。これはもう世界のナベサダ。決して「世界のナベアツ」ではない。

 89歳のナベサダ。やっぱり鬼籍に入る前に観に行かなければならないなぁ。

2022912

花形


# by yyra87gata | 2022-09-12 13:38 | アルバムレビュー | Comments(2)
吉田拓郎 TONY MUSIC FESTIVAL ’80_d0286848_11044641.jpg

友人のH君は始めて観る拓郎のコンサートのチケットを眺めながらニヤニヤと表情を崩していた。彼が手にするチケットを僕は喉から手が出るくらい欲しかった。

チケットには

TOKYO-NEW YORK姉妹都市提携20周年記念 TONY MUSIC FESTIVAL ’80 

と記載されていた。

自由席3000円。場所は新宿西口広場とある。

そこは、現在の都庁が建っているところで、とにかく広い野原だ。そこに舞台を作り、イベントを行うという。TONYってTOKYONYの合成か。

H君はお姉さんからチケットが回って来たと言っていたから、僕と一緒に行けないことを済まなそうにしていたが、彼の心はウキウキだったに違いない。

拓郎は1980年に入るとロスアンゼルスに飛び、アルバム『Shangri-la』(1980)を制作。憧れのブッカー・T・ジョーンズをプロデューサーに迎えた意欲作だった。

そして、その後に開催された1980年の春のツアーは70年代の曲は一切歌わず、新しい歌だけで勝負したことも話題になった。この頃の拓郎は新曲を作ることにおいて非常に活発だった。1978年発表の『ローリング30』以降、名曲が湯水のように発表されていたのだ。

7月に行われた日本武道館公演で後のアルバムでは公式音源となる「アジアの片隅で」や「ファミリー」を披露。拓郎はノリに乗っていた。

そんな拓郎を観に行きたい高校生になったばかりの僕は、ことごとくチケット争奪戦敗れ、「拓郎コンサート」の禁断症状が出ていた。

僕は19797月の篠島のオールナイトコンサート以来拓郎を観ていなかったのだ。もう限界である。

吉報① H君はコンサート前に新宿西口広場の会場を下見してきた。すると、高架橋の上からだったらコンサートを観ることが出来るのではないか、と言う。もちろん、音がどれくらい聞こえるかはわからないが、行く価値はあると言う。

吉報② 1980年秋のツアーのチケットが取れた!

神奈川県民ホールのチケット。H君を含め、総勢6人で観に行くことが決まった。みんなで交代しながら徹夜してプレイガイドに並んだ甲斐があったというもの。

心の平静を取り戻した僕はTONY MUSIC FESTIVALの当日、昼過ぎから場所取りのため、会場に出陣した。

すると同じようなことを考えている同士がちらほらおり、無言の中に友情が芽生えてくるのであった。例えば、トイレや買い物で中座する時はニコニコと笑顔で状況を察し合うなど・・・。

16。夕暮れに差し掛かった頃、イベントが始まった。

アメリカ大使館も後援に入っているからか、コンサートが始まる前に、鼓笛隊やチアガールの演舞もあり、フェスティバルという雰囲気を醸し出していた。

そして森山良子が登場。

拓郎作曲の「歌ってよ夕陽の歌を」をいきなりアカペラで歌い上げた。

野外。しかも高層ビルのど真ん中。音が反響してMCには少し難があったが、音楽としては余裕で聴こえてくるではないか。

ちょっと斜め上からの観覧だったが、武道館の2階席で観ているようなもんだ、と思いながら結構楽しめた。森山良子はてっきりフォークソングのお姉さんという感じで観ていたが、実はジャージーな歌も得意とするシンガーというのもこの時知った。

そもそもこのコンサート。

何故、森山良子と渡辺貞夫と拓郎なんだろう。

今でも不思議に思う。別にセッションをするわけでもなく、違うジャンルから集めたというだけなのか・・・。

吉田拓郎 TONY MUSIC FESTIVAL ’80_d0286848_13431332.gif

そんなことよりも、拓郎の登場である。

篠島以来の姿に感動である。テレキャスターじゃない拓郎も始めて観た。「BCリッチのギターって変な格好」と思いながらも、ベースの武部英明もBCリッチだったから、当時の流行りだったんだろう。そういえばBOW WOWの山本恭司も弾いてたな、なんて思いながら・・・。

真っ白のステージ衣装の拓郎は遠くから見ても目立っていた。そして、携帯用カセットデッキを持って行ったから、しっかり録音した。

セットリスト

  あの娘といい気分

  マークⅡ

  いつも見ていたヒロシマ

  落陽(1番だけ)

  外は白い雪の夜

  いつか夜の雨が

  アジアの片隅で

半年前に発表された『Shangri-la』と11月に発売予定の『アジアの片隅で』の中からの選曲。「マークⅡ」はデビュー曲だけど新しいハードなレゲェアレンジでカッコよい。「落陽」は会場のお客さんからのリクエストでギターだけで1番だけ歌っていた。寄り添うように青山徹がギターコードを支えているのが微笑ましい。

このコンサート。

今思うと、イベントとは言え、とても完成度の高いライブであった。

バックメンバーも1979年の頃と比べて、ギターが鈴木茂から徳武弘文に変わっていたので、鈴木茂好きの僕は少しがっかりしたが、春のツアーや夏の武道館を経て約1ヶ月のバンドのまとまりということについては、完成された音の塊を観た。きっと1980年秋のツアーのリハーサルもばっちり終わっていて、このコンサートはゲネプロ的な存在だったのかもしれないな。

 

都会の夜空に溶ける拓郎のシャウトは、篠島で叫んだ声とはまた違った凄みもあった。

そうか、僕はこの時、拓郎を普通のコンサートで聴いたことが無かったんだ。

早くホールでの拓郎を観たいと、高架橋の上から思った。

ちなみにこの会場・・・正式には都有5号地と言う場所。

後に甲斐バンドがアルバム『THE BIG GIG』(1983)を行なった。その3年後の1986年にBOOWYや大沢誉志幸、山下久美子が大雨の中で伝説のイベントを行なった場所は都有3号地で、5号地と隣接した場所。

5号地は1988年から新都庁の建設で使用できなくなり、1990年には都庁が完成した(業務開始は19914月より)。

なぜこんなことを覚えているかというと、僕が最初に勤めた会社が新宿センタービルでこの会場の目と鼻の先だった。就職活動をしていた時も駅から地下道を歩けばすぐにセンタービルに行けたが、僕は聖地巡礼ではないが、都庁建設中の都有5号地を経由して行った記憶もある。

 自分は社会人になる・・・高校生の時に独りで観に来た都有5号地の場所も面影も無くなっていく。そんなセンチメンタルな気持ちで社会に出たんだった。

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TONYコンサートの録音を改めて聴いてみる。やはり、その時代の音だが、アナログ感満載の音の方が拓郎には合っているし、勢いも感じられる。それは、「若さ」と言うことではなく、その後のデジタルの軽い音に拓郎の声が合っていないということ(あー、言っちゃった!でも、80年代にデジタルが音楽を席巻した時、みんなその音に悩んだんだ。この話は別の機会でしよう)。

 だから、未だにこの頃のコンサートの音って今の技術では再現できない音の凄みがあるんだよ。カセットテープの音が実は一番ガッツがあるって言ったレコーディングエンジニアの話を思い出したもの・・・。

 拓郎はシャウトすると意外と声が細くなるんだけど、延々と吠え続けるし、その洗礼を受けた者としては、とても心地よい暑苦しさなのだ。アナログの深さか。

 拓郎は、最新アルバムで「吠える」ところをレコーディングしていたけど「吠える」ことって自然発生的に出るものだから、なんだかなぁと思ったけど、少なくともこの頃はワーワー吠えまくってたね。ちなみに最後に吠えたのは1985年のつま恋かなぁ。

 

最近、「拓郎引退」とかデマが飛んで、マスコミがけしかける様にテレビの特番を組んで、拓郎もどんどんラジオで引退宣言的な話をしていて。

僕はラストアルバムと表現した新作をいつもの自画自賛しながら洒落も含めて「ラスト」と言っていた気がしてならないんだよね。

あまりにも周りが敏感に反応してしまうから、本人も引くに引けなくなったんじゃないかって。だって、今までの拓郎を見てきたら嘘ばっかりついていたんだから。

このTONYの時だって、本当は「マークⅡ」や「落陽」「外は白い雪の夜」なんて70年代の歌は唄ってはいけなかったんだ。本人が古い歌は封印するって言ったのに半年後には武道館で「ワハハ!今日はお祭りだから、ま、そんなこと気にすんな!」って言い放って「春だったね」とかニコニコしながら歌ってたんだから。

拓郎ファンはいつも裏切られてきたんだよ。なのに、今回の動きはみんな拓郎を認めちゃってるのね。拓郎の言うことなんか放っておくのが一番だったのに。

ラジオでも「やめるな!」とか「コンサートやってくれ!」とか投書が多かったみたいだけど、そんなにけしかけるから本人が意固地になると思うんだ。拓郎が天邪鬼な性格ってみんな知らないのかね。何年拓郎のファンをやってるんだよ!もっと彼を緩く見ていてあげれば、コンサートはできないにしても新しい歌は作り続けて、アルバムの1枚や2枚は今後も発表したんじゃないか。だって、2019年の実質上最後のコンサートのMCでは音楽は死ぬまでやめない、歌を作っていくって言ったんだから。・・・あ、これも嘘か!?

 

1980年頃の音源って貴重だ。

この後5年間はメンバーを固定したバンドで大暴れするから。

アルバムだって年1枚のペースで発表していたんだから。

今の拓郎にこの時代を求めるわけにはいかないから、古い音源を聴いて楽しむしかないが、名盤『アジアの片隅で』(1980)の発売直前のこのTONYコンサートは、強引に観に行って正解だったライブの一つである。

 

2022810

花形


# by yyra87gata | 2022-08-20 09:02 | コンサートレビュー | Comments(0)

「私は冷たい人間なんだろうか?」

安倍元首相が狙撃され亡くなった。その葬儀のテレビ中継を見ていて家内が放った一言。

「沿道で泣いている人、私は理解できない。

安倍さんの親族でも無いし、顔見知りでもない。

あんなに大勢の人が涙を流しているけど、例えば私の大好きな財津和夫さんが亡くなっても、私、泣けるかなぁ


 安倍元首相との別れを惜しんで泣いている人について、私は意見など全くないが、私も家内に同感なのだ。

 親族や顔見知りでもないのに、泣く事ができるのか?

例えそれが自分の応援していた政治家だったとしても


 私には一つの答えがある。

私が高校生の頃に体験したジョン・レノン の死だ。

 ジョン・レノン が死んだ時のショックは、私が多感な時期だったこともあり、相当なものだった。

なぜなら、待ちに待ったジョンのニューアルバムやそのアルバムからの最初のシングル「スターティング・オーバー」はワクワクするような作品だったから。

そう、長い休業から開けてようやく活動再開。これから!という時にジョンは凶弾に倒れた。

しかも偏執的なファンに殺されたという不可解なもの。

そのニュースを知った時の瞬間は、今でも思い出す事ができる。   


 夕食時の一家団欒。7時のNHKニュースから流れたトップニュース。

奇しくも128日は日本人にとってアメリカと戦争を始めた日として認識されており、その類のニュースが報道されることが常であったが、1980年は違ったのだ。

「元ビートルズ のジョン・レノン さんがニューヨークの自宅前で射殺されました」のアナウンスに私は息を呑んだ。

一緒に観ていた母親は声を上げて驚いた。それはまるで知り合いが死んだかのような声だった。

ジョン・レノン狙撃事件と安倍元首相_d0286848_22551514.gif

私はただただ画面を観ていた。

アナウンサーはジョンは撃たれて亡くなったと告げ、犯人は捕りおさえられた、と。そして犯人は熱狂的なファンとも伝えた。マーク・チャップマンという名前は忘れられないワードになった。


 中学から高校にかけて、私のヒーローはジョンだった。彼の言動に影響され、ジョンは音楽という武器で戦っている戦士にすら見えた。

私は学生運動も知らないし、ベトナム戦争も身をもって経験していない。

全てテレビや本からの知識であるし、反体制の旗印であるロックミュージックは、私が聴き始めた1970年代半ばには産業ロック化し始めていた。その中でもジョンは平和への祈りと愛を世の中に問い、慈愛に溢れた作品を1975年まで作り上げていたのだ。

そして、その後は子育てのためにロックンローラーがエプロン姿に変身してしまう大胆さにも惹かれるものがあった。

ギターを弾く格好、生意気で皮肉っぽく話すこと、人前でもヨーコとキスするように感情を素直に出すこと、銀縁眼鏡でもロックンロールが出来ること

だから、そんな飾らないヒーローが殺された事がショックだった。

戦争反対のヘルメットを被った長髪のロックンローラーが数発の銃弾で殺されたことがショックだった。

 その日の晩はアルバムを全部聴き直し、翌日は学校をサボった。

ジョンとは会ったことも無いし、向こうだって私のことは知らない。

そんな関係だが、私はかなりのショックを受けたのだ。

多分この事が私の最初の死生観を形成したのだ。だから、それからは有名人の誰が亡くなってもジョンのような気持ちにはならなくなった。

フレディ、松田優作、加藤和彦、ルイズルイス加部

好きなミュージシャンや俳優が亡くなっても、ああそうか、という感じ。

例えディランや拓郎が今死んだとしても私は泣かないだろう。

 私が歳を取り、死生観も変わり、人間的に練れたからと言えばそれまでだが、ジョンの死で受けた衝撃に勝るものはないという気がしてならないのだ。


 安倍元首相の死と私の感受性に影響を与えた人の死を比べるのはナンセンスかもしれないが、死という事象は同じで、狙撃されたことも同じ。

痛ましい事件であるが、日本の元首相の死で悲しみに暮れない事も日本国民として寂しい限りか

ま、平成の約30年間の日本を経済的に体たらくにした張本人である政治家や官僚たちの誰が死んでも何の感情も湧かないだろう。

これが、悲しいかな私の好きな日本なのか


2022717

花形


# by yyra87gata | 2022-07-17 22:54 | 音楽コラム | Comments(0)

サブスクは嫌い

サブスクは嫌い_d0286848_16112490.jpg


★ザ・バグルスの「ラジオ・スターの悲劇」(1979

「ビデオがラジオ・スターを殺した」と歌う。

音のみの世界に生きたラジオ・スターは、ビジュアルの世界では輝けなかった。

そしてこの歌はMTVで流された最初のビデオクリップという皮肉が効いていて、新たな音楽の時代の幕開けに相応しい作品だった。

★ダイアー・ストレイツ 「マネー・フォー・ナッシング」(1985

少し趣は違うが、MTV時代のロックスターのイージーライフを皮肉っている。

この時代の曲は、MTVに力を入れないとセールスが伸びないという現象も起き、MTVという媒体がレコード文化をビジュアル優先に変えてしまった。

そして、その波に乗って鳴かず飛ばずだったボン・ジョビなどは新たなファンを取り入れ成功の道を歩み始める・・・。

そのビジュアルの世界はビデオからLDDVDからブルーレイへと進化し、それもYouTubeやサブスクの動画に変わろうとしている。

音の世界においても、きっとサブスクがCDの息の根を止めるのだろう。

かたや、ここ数年でアナログ盤も見直されてきている。この流れも10年前では誰も予想していなかった。アナログ盤など一部のマニアだけのものだと思いきや、若いミュージシャンがCD、サブスク、アナログ盤と発表する世の中。それは音楽を商売と見立てたうえでの流れであることは間違いないのだが、制作者側のミュージシャンはどのような気持ちなのだろうか。

ミュージシャンがアルバム制作を行う際、「コンセプトを考え、予算の中でできる限りのアイデアで10曲ほどの楽曲を束ねていく」と仮定する。そこには歌詞カードの装丁やジャケット写真、曲順、曲間の時間に至るまでプロデューサーやミュージシャンの想いが詰まった宝箱ができあがる。アナログ盤であればせいぜい45分、CD74分という音のパッケージ。アナログ盤、CDという媒体が変わるだけで収録する曲数も変わるのでCDに変わった1980年代の頃のミュージシャンはコンセプト作りに右往左往した。

しかし、サブスクはその流れを一気に聞き手本位の利便さだけの追求にしてしまった。

それはあたかも「金は払ったのだからどうやって聴こうと勝手だろ」と言わんばかりに。余計なもの(曲)はいらない。欲しい曲だけでいい。もしくは定額払っているからいくらでも聴ける。時間は限られているから、曲の途中だろうがつまらなければどんどん飛ばす。余計なギターソロも飛ばす。イントロ?いらない・・・。サビの部分だけリフレイン。

横浜中華街はスマホで映える写真を求める承認欲求の塊のガキどもと、自分で食べたいものを決めることが出来ないアホな観光客によって様変わりしてしまった。

どの店をみても「食べ放題・飲み放題」メニューが軒先に出され、金太郎飴状態。

小籠包ならここ、北京ダックならここ、肉そばならここ、と昔は店舗独自の名物が売りだった中華街はサブスク文化に席巻されてしまっている。

人々は安易な方向に走る。決めることを放棄し、とりあえずなんでもできる環境を作りあげてその中から自分の好きなものだけを選択する。

 そんなサブスク状態は、作り手の細やかな気持ちが踏みにじられているのではないかと思うのは私だけだろうか。

サブスクとトレンドが全てにおいて安易な方向に進んでいるとは思わないが、作り手への想いが無さすぎやしないか。

もちろんサブスクにすることによってお手軽感が増すからミュージシャンにとって新たなファンを取り込めるという利点もあるとは思うが、本来作り手が考えてきた形で聴いてはないので間違った受け止められ方をしないか、という疑問も残る。例えばそれは、サブスク用の楽曲というのもあるそうで、サブスクのシャッフル再生で目立つように最初の10秒に命をかけて曲を作るらしい。そんなことは、そもそも作曲家というより商売人という気がしてならないのだ。

私は音楽を真正面からちゃんと聴きたいので、サブスクのような「飲み放題・食べ放題」といった形式は大嫌いということなのだ。

2020年、アメリカではレコードの販売数が1980年代以降初めてCDを上回った。レコードの復活が叫ばれる中、また違った媒体から音楽の在り方が変わるかもしれない。

ラジオが映像となり、MTVCDがレコードを葬り、サブスクがCDを葬ろうとしている。

ミュージシャンの音楽性も変わっていくし、デジタル化されたコンピューターの中で譜面も読めないミュージシャンがアレンジを簡単に施す時代となっている。そんな中のアナログ盤の復権。サブスクの席巻。

 

 ザ・バグルスやダイアー・ストレイツのような警鐘を鳴らす歌が出てくるのも時間の問題か。

202269日(ロックの日だ)

花形




# by yyra87gata | 2022-06-09 16:13 | 音楽コラム | Comments(0)