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 私は1991年12月に結婚し、新婚旅行はブラジルに行きました。
当時、日本ではまだJリーグも発足されておらず、ブラジルが今ほ
ど身近な国ではありませんでした。

せいぜいF1のアイルトン・セナが有名で、一般的にはコーヒーの産地とかプロレスのアントニオ猪木が幼少の頃、移民として渡った国、という印象。また、「未来世紀ブラジル」なんてSF映画もあり、果てしなく遠く、本当に地球の裏側はあるんだね、なんて印象でありました。
では何故ブラジルを選んだのか。
それは、家内の一言です。
リオに行きたい。サンバを見たい。解放的な国に触れてみたい。という単純なもの。
そして、どうせ行くなら日本人がいない場所に行きたいと・・・。

ブラジルは日系の人も暮らす国なので日系2世の多いサンパウロは選ばず、リオ・デ・ジャネイロとアマゾン川の中域に位置する都市マナウスの2都市を選択しました。
 リオは、コパカバーナビーチやコルコバードの丘(キリストの巨大な像)、サッカーの聖地マラカナンスタジアムなどがあり、どこを訪ねても日本人の若い男女が来たということで珍しがられました。
 マナウスはリオから国内線で4時間ほど北上します。アマゾネス州に属し、アマゾンのジャングルの中に位置する都市で19世紀には天然ゴムやジュート、コーヒー豆で栄えました。スペインやポルトガルからの移民が多く、市街地にはコロニアル設計の建物が並びます。そして、ここがジャングルの中にあるということを忘れさせるくらい近代的な都市でした。

その中のホテル、トロピカル・マナウスでの出来事。

トロピカル・マナウスはマナウスの中で一番高級なホテルで、5つ星のホテルです。

宿泊客も欧米からのリゾート客が占めており、年齢もリタイヤした老夫婦やビジネスで成功を収めた人といった感じの方が多く、私たちのような東洋の20代のカップルがいる場所ではありませんでした。しかし、物珍しげに接してくる彼らと話しているうちに打ち解けて来て、すぐに和やかな雰囲気になりました。こういったところもラテン系の良いところかもしれません。

ディナーはプールサイドでした。

ブラジルの美味しい肉を使った料理と強力なアルコール度数のピンガというラム酒で気分も良くなります。BGMはクラッシックギターの生演奏。とても落ち着いた雰囲気でありました。

年老いたギタリストはなにやら言葉を発し、ある曲を演奏し始めました。

クイーンの「LOVE OF MY LIFE」です。

静かなイントロから徐々に盛り上がる曲の構成。いつの間にか、私は口ずさんでいました。

そして、周りを見ると他の客も歌い始めているではありませんか。

歌詞カードなど配られていないのに。そのうち給仕しているウェイターやウェイトレスも呟くように歌っているのがわかりました。

クイーンは南米で大人気のグループです。特にフレディー・マーキュリーは南米人の好みの顔だそうで、短髪に髭、姿勢が良く、マッチョな姿で歌が上手いときたら100点満点の男なわけです。

そして、その日は、フレディーが亡くなって1ヶ月後のクリスマスの日だったのです。

ギタリストは続けて「SOMEBODY TO LOVE」を情熱的に弾いています。

神に祈る人、涙声で歌う人・・・

ポルトガル語で話していたので、正確なことはわかりませんが、フレディーを亡くした悲しみと追悼の意を表現していたと思います。

とても感動的なディナーでありました。

食事を終え、私はギタリストに歩み寄り“It’s a good performance! I love QUEEN.”と笑顔で伝えると、

ギタリストはしわくちゃの笑顔でうなずきながら、

Another One Bites the Dust”(地獄へ道連れ)のリフを弾いてくれました。

私は笑いながら天を指し、

Another One Bites the Heaven”と歌ったら大笑いしていました。

南十字星が光り、フレディーが亡くなったことを実感した夜でありました。

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2018/12/14(明日が27回目の結婚記念日だ・・・)

花形


# by yyra87gata | 2018-12-14 11:24 | 音楽コラム | Comments(0)

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 1126()2150分。

東京国際フォーラムは満員の歓声に包まれていた。

SONGS & FRIENDS 小坂忠「ほうろう」と題されたコンサート。このコンサートのプロデューサーである武部聡志のピアノをバックに小坂忠は、最後の歌「You Are So Beautiful.」を歌いあげた。

優しく伸びるヴォーカルと一緒にピアノの音が漆黒の闇に溶けていき、それが無音になったと同時に会場からは割れんばかりの拍手が巻き起こった。

それは、まさにミラクルの瞬間だった。

総合演出の松任谷正隆はコンサートの企画段階で小坂忠に次のように告げたという。

「このコンサートは名盤「ほうろう」を制作したミュージシャンがこのアルバムを次の世代に継ぐため、コンサート開催したいということ。そしてもうひとつ裏テーマがあり、それは(忠さんを取り巻く)ミラクル(奇跡)を起こすということです。」

コンサートは舞台を教会に見立て、鬼無宣寿ゴスペルクワイアがアカペラで歌う「You Are So Beautiful.」から始まった。

声という楽器。身震いするような音圧が会場を包んだ。

その中で音楽プロデューサーの武部聡志はこのコンサートの趣旨を説明した。

1975年発表の小坂忠『ほうろう』という歴史的アルバムのもつ凄さを、そして小坂忠という人物について・・・
小坂忠を取り巻くアーティストやミュージシャンが総勢30名集まり、1960年代後半から活動を始めた彼の歩み、アルバム『ほうろう』の全曲再現。
そしてそこには次世代のミュージシャンも加わり、小坂忠の音楽を若い解釈で実演する試みもあると。
これは、日本の軽音楽の歴史の1ページになると確信した。

 トップバッターは小坂忠の愛娘のAsiahが、武部聡志のピアノをバックに歌った。

小坂忠の最初のミラクルの張本人。

小坂がコンサート中のMCでも話していたが、アルバム『ほうろう』を制作し、そのコンサートツアーも大成功に終わり、家でくつろいでいた時にその悲劇は起こる。

娘が熱湯を頭から被ってしまう事故が起き、生死を彷徨ったという。

幸せから絶望の淵に堕とされた。

小坂忠は祈ることしかできなかったという。そして近所のおばあさんから言われ、教会に通い、祈ったという。

神の啓示を受けたかどうかは、本人しかわからないことだが、そこでミラクルが起きる。

1ヶ月後、娘は元気に復活したのだ。
小坂忠はそれまでの音楽活動を断ち、教会活動に没頭する。愛を与えられ、娘は復活した。今度は自分が他人に愛を与える番であると。
そして彼は牧師となり、それは今でも続いている。
 

 コンサートは『ほうろう』に至る前、たった1年間だけ活動していた小坂忠とフォージョハーフの再結成の演奏となった。

ドラム:林立夫、スチールギター:駒沢裕城、ベース:後藤次利、キーボード:松任谷正隆。(サポートコーラス:佐々木久美、佐々木しおり、今井マサキ)

まだ、小坂忠が自分のヴォーカルスタイルを模索しているときの作品が披露された。

『ほうろう』は小坂忠のソロ4枚目のアルバムである。それまでのヴォーカルスタイルは細野晴臣とのコラボレーションの印象が色濃く、演奏もどこか“はっぴいえんど”の延長線上にあるような作風であった。だから独自のヴォーカルという感覚が無かったのかもしれない。(ちなみに当初“はっぴいえんど”のヴォーカルは大瀧詠一ではなく小坂忠という噂もあったが、小坂がミュージカル「ヘアー」のオーディションに合格してしまったことからこの話は無くなったと言う)
フォージョハーフをバックに歌う小坂忠はノスタルジックなカントリーの趣があり、松任谷正隆が好むザ・バンドの影響がここかしこにあらわれていた。

 次のセクションで音は一変する。

ドラム:屋敷豪太、ベース:根岸孝旨、ギター:小倉博和、キーボード:武部聡志のハウスバンドにさかいゆうや田島貴男、槇原敬之、CHARなどを加え、小坂忠よりも一世代も二世代も下のミュージシャンが彼らなりの解釈で小坂忠の音を披露した。誰もが小坂へのリスペクトを述べ、音で、歌で、応えていた。
 このセクションの特筆は屋敷豪太のドラムである。タイトなリズムが43年前のアルバムの作品を今の音に変えているのだ。アレンジは屋敷豪太のアイデアであるとさかいゆうもMCで話していたが、それはそれは客を飽きさせない演出であった。
観客の目的は小坂忠の歌を聞きにきていることが大半だろうが、こういう優れたカバーを出されると嬉しくなるものである。

アコースティクセクションでは小坂忠が登場。

荒井由実、矢野顕子(アルバムでは鈴木晶子名義)がピアノで小坂忠を支える。

ユーミンもアッコちゃんも小坂忠の前ではティーンエイジャーに戻ってしまう。そして、BIGIN、高橋幸宏を迎え、現在の小坂忠の活動も披露された。


ラストセクションはアルバム『ほうろう』の演奏。

ドラム:林立夫、ベース:小原礼、ギター:鈴木茂、キーボード:松任谷正隆、武部聡志、パーカッション:浜口茂外也

「ほうろう」のアーシーな演奏。ギターの鈴木茂は最近でも一番小坂忠と活動しているミュージシャンであるが、とにかく歌をサポートするギターの素晴らしさは芸術的である。

レコードのまま。いや、レコード以上の心地よい緊張感が会場を包んだ。

小坂忠はMCでこの『ほうろう』というアルバムをこのメンバーで制作できたことが、ミラクルであると言った。奇跡のようなアルバムだと。自分の歌い方がはっきりとわかった、そんなアルバムだと。そんな奇跡のアルバムを制作したプロデューサー細野晴臣を呼ぶと、彼はベースを構えた。

次々とゲストが登場して歌に彩を添える。

吉田美奈子はレコードではシュガーベイブと並んで重要なコーラスパートを担っていた。その迫力を増した声が会場に木霊する。

尾崎亜美は小坂忠が病に倒れたとき、彼の復活を祈りながら代役でコンサートを受け持ったことがあるという。その時のことを思うと今がミラクルだと言った。

小坂忠のMC

「昨年自分の身体に癌が見つかりました。ステージ4と言われました。大腸、胆のう、胃の3箇所に見つかったのです。それを全部摘出しました・・・リハビリを行い、復帰しました・・・」

現在70歳の小坂忠が通る声で話す。私は舞台セットを見直しながら、これはミサであると思った。牧師の小坂忠がそこにいた。
「人間が絶頂に楽しい時から、いきなりどん底に堕とされること。これを奇跡と呼びません。どん底から這い上がった時を奇跡といいます。私はこれまでに3回の奇跡を起こしたと言ってもいいでしょう。奇跡のアルバムの制作、娘の身体の奇跡、そしてこうやって皆さんの前で歌っている奇跡・・・」

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祈りと願いは似ているようで正反対のことである。

祈りは他の幸せを想う温かい心で、そこに見返りを求めない。

対して、願いは自分の想いを対象に飛ばす行為で、見返りを求めるから欲やエゴにより陰の波動となる。

私たちが初詣や神頼みをするとき、それは祈りではなく願いということだ。

宝くじが当たりますように・・・

彼氏ができますように・・・

痩せますように・・・

これは祈りではなく「お願い」である。

特にキリスト教では祈りは神の言葉を聞いて、それに基づいて祈る事で私欲による成就を願うより、信仰に基づいた「決意表明」としている。

小坂忠が娘の身体を思って祈ったこと・・・

娘の身体が元にもどり、幸せな家庭が再び作れるように私は全身全霊で祈ります。そして、神のご加護を感謝し、再び仲間と笑顔で過ごしますと決意表明をしたのではないだろうか。

小坂忠自身が病に倒れた時も、神に感謝の気持ちを忘れずに、再び舞台で歌い上げる姿を想像しながら祈り続けたのではないだろうか。
今がどうだとか、どうやってもこの願いは叶わないと思うことでも、望む未来を確定するとその未来に向かって行けるように必要な物や事柄がもたらされ、その結果、願いは叶い、奇跡が起きるのだと思うのだ。
カーティス・メイフィールドの「People Get Ready」を演奏していたとき、歌詞の中の「この列車に乗り込めばいい・・・この列車が幸福の国に連れて行ってくれる」とあることを思い出した。列車に乗り込むことが祈りなのである。

アンコールはミュージシャンが全員集まり、「ゆうがたラブ」の大セッション。

ギタリストもドラマーもベーシストもみんなでソロ回し。ヴォーカリストは「げっかーすいは!」「もっきんどーは!」のコーラスで応酬。

出演者みんなが笑顔で演奏していた。

熱い演奏が終り、ミュージシャンが小坂忠にハグを求め、全員が舞台裏にはけたあと・・・

小坂忠は最後の歌「You Are So Beautiful.」を歌いあげた。
その瞬間・・・彼にとって4回目のミラクルを会場全員が感じた夜となった。このコンサートがミラクルである!


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以上
2018/11/28
花形



# by yyra87gata | 2018-11-28 20:04 | コンサートレビュー | Comments(0)
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「グレイテスト・ラブ・オブ・オール」を初めて聴いたのは中学時代、モハメッド・アリの伝記映画「アリ/ザ・グレーテスト」(1977)を観覧した時のこと。映画の主題歌としてジョージ・ベンソンが仰々しく歌い上げており、華々しく最強の男を称えていた。作曲はこの映画の音楽を担当したマイケル・マッサー。

シャープで激しい戦い。予告KOで仕留める。

蝶のように舞い、蜂のように刺すとはよく言ったもので、モハメド・アリの戦い方は常にドラマチックだった。そして、絶対的王者、まさにグレイテストな存在は当時の世界最強を誇示しており、その男にふさわしい伝記映画であった。

映画はアリが18歳の時、ローマオリンピックで金メダルを獲得してから1974年のアフリカ・ザイールでジョージ・フォアマンと戦った「キンシャサの奇跡」と呼ばれる伝説の闘いまでを追っている。

この映画でアリ本人がアリ役として出演しており、本人が本人を演じ、本人の言葉で語られている。・・・アリは誰と戦っていたのか・・・。

アリは誰よりも強かった。なぜならアリはボクサーとしてアメリカという国と戦っていたのだ。ボクシングでアメリカの人種差別と闘い、黒人の権利と環境、奴隷という立場の開放を訴え続けた男。

18歳でアメリカ代表としてオリンピックの舞台で金メダルを獲得しても、地元に帰ればカラードと蔑まされ、選挙権すらない。「人にあらず」という扱いを受けたことによる屈辱を何で返すかを模索した。

プロに転向し、発言権を得るために最強の男になっていく。自分の頑張りが黒人社会の向上になると信じて。しかし、アメリカはそんな面倒な男に対し強靭な黒人ボクサーを当て、黙らそうとする。白人に雇われた黒人ボクサーに立ち向かう黒人解放を訴える黒人ボクサー・・・。そして、アリは世界チャンピオンに輝くが、国は動かなかった。

ベトナム戦争が激化する中、アリにも召集令状が届くが、彼の答えはNO。そのために世界ヘビー級チャンピオンを剥奪されてしまう。

英語ネームのカシアス・クレイという名前を捨てたこともアメリカに対する不信感から起きたものと伝えられている。イスラム教徒であることを公表し、イスラム信徒名であるモハメド・アリに改名したことも世の中に対するテーゼであったのだ(その昔黒人奴隷には名前も無く、ファミリーネームは雇い主になっていた。だからクレイという名の元は自分とは一切関わりの無い白人ということ)。

アリはビッグマウスと言われるが、それも全て自分を追い込むためにやっていた業であると・・・。

「俺は最強の男だ!あいつを5回KOにしとめてやる」と言えば、試合までに必死に練習と努力を重ね、自分を律した。天才が陰で猛練習をするのだから弱いはずが無い。

 そんな彼の生き様が歌になったものが「グレイテスト・ラブ・オブ・オール」だ。

歌詞の端々にアリの精神が注入されている。

「私はどんなことがあってもくじけない。成功しようと失敗しようと、私は私の信じる道を行く。

誰が私の全てを奪おうとも、私の尊厳だけは絶対に奪えない。」

「誰もがヒーローを求めているが、私自身の心を満たしてくれる人はどこにもいない。それは、自分自身しかいないからだ。」

「世界で一番の愛は簡単に手が届く。それは自分自身を信じ、愛すること。」

黒人は当事「人ではない」ので、自分自身を愛することも出来なかった。黒人総鬱状態だった。鬱だから、みんな背筋も曲がり、小さな声で否定的なことしか言わない。そんな時代に声を大にして「まずは自分を信じ(白人に翻弄されずに)、自分自身を愛そう!」と叫ぶアリがいたのだ。

「グレイテスト・ラブ・オブ・オール」は1985年にホイットニー・ヒューストンがカバーした。華やかな歌声と「そよ風の贈り物」という邦題のアルバムも大ヒットし、デビューアルバムとしては史上最多の2300万枚を売り上げる作品となった。

その歌声にアリの精神を想起させる人が果たしてどれだけいたか。バックボーンも知らず、英語も良くわからない日本人は概ね「素敵なラブソング」という認識であろう。

アリの映画を観ていただけのことではあるが、ホイットニーの歌声を聴きながら昔ほど黒人差別は無くなったよ、と当時大学生の私は心の中で呟いていた。

追記。

1976年にアリは、アントニオ猪木と異種格闘技戦を行い、世界の凡戦と揶揄されたが、あの試合には副産物があった。

対戦後、猪木を称え、アリから猪木へ歌の進呈があったとか(諸説あり)。

その歌こそ「イノキ・ボンバイエ」である。

もともとは「グレイテスト・ラブ・オブ・オール」の作曲者であるマイケル・マッサーが制作した歌である「アリ・ボンバイエ」が元になっている。

映画「アリ/ザ・グレーテスト」のエンディングではジョージ・ベンソンが編曲しこの歌をバラードとして歌っている。

ちなみに「ボンバイエ」は、アリが南アフリカに遠征した際に現地民族の言葉で「やっちまえ!」。「アリ!ボンバイエ!」のコールがリングに木霊し、そこからあの歌の構想が出来たようだ。

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2018/11/1

花形



# by yyra87gata | 2018-11-01 10:49 | 音楽コラム | Comments(0)
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アメリカにはスタジオの音が明確にあるようだ。マイアミのクライテリア・スタジオやニューヨークのザ・パワーステーション(現アバター・スタジオ)、ロスアンゼルスのA&Mスタジオ(現ヘンソン・レコーディング・スタジオ)などそれぞれの音色があるという。

そして、そのスタジオにはその場所を中心にプレイするスタジオミュージシャンがいるところもあり、そのスタジオの音色というものを大きく形成している。

アラバマ州シェフィールドで1968年から1979年まで稼動したマッスル・ショールズ・サウンド・スタジオは、南部のアーシーなサウンドが特徴だ。

「マッスル・ショールズ・サウンド」という言葉まで出来上がっているが、これはマッスル・ショールズ・サウンド・スタジオが出来る前にその近隣にフェイム・スタジオがあり、ここから白人黒人のミュージシャン問わず、ヒットソングを量産していたため、そのスタジオに詰めていた4人のミュージシャンが注目されたところから始まる。

ジミー・ジョンソン(ギター)、バリー・ベケット(ピアノ)、デビッド・フッド(ベース)、ロジャー・ホーキンス(ドラムス)の4人の音を求めて全国各地からミュージシャンが集まったのだ。

名プロデューサーのトム・ダウトの勧めもありその4人は独立し、近隣のマッスル・ショールズ・スタジオを買い取り、その場所に行けばその4人の音が提供されるという「スタジオの音」を実現させたのだ。

ロッド・スチュアートは名盤『アトランティック・クロッシング』(1975)をこのスタジオで制作しているが、前作の『スマイラー』(1974)までのロッドはフェイセズの活動も行ないながらのアルバム発表であり、レコーディングメンバーもフェイセズの人脈でほとんどがイギリス人であった。しかし、フェイセズを解散し、レコード会社もワーナー・ブラザースに移籍。彼が心機一転を図る上でも本場アメリカ南部のスタジオを選ぶことは自然の流れだったのだろう。イギリス人であるが、アメリカのリズム&ブルースを好む当時のミュージシャンはみんなアメリカ南部サウンドに魅了されたのだ。

ザ・ローリングストーンズも『ベガーズ・バンケット』(1968)からアメリカ南部音楽への影響が作品に出始め、『レット・イット・ブリード』(1969)まではロンドンのオリンピックスタジオでレコーディングされていたが、本場の音を求めてか『スティッキー・フィンガーズ』(1971)ではマッスル・ショールズ・サウンド・スタジオもレコーディングの場所となっている。

日本でも加藤和彦は、サディスティック・ミカ・バンド解散後すぐに新たなパートナー安井かずみを連れマッスル・ショールズでレコーディングを行なっている。『それから先のことは』(1976)は、「シンガプーラ」のようなオリエンタルな作風も多い作品だが、アーシーなサウンドとの融合で新たな波を感じ取りたかったのかもしれない。

マッスル・ショールズ・スタジオのミュージシャンとしても活躍したデュアン・オールマン。言わずと知れたオールマン・ブラザースバンドのリーダーであり名ギタープレイヤーである。

「イン・ザ・ミッドナイトアワー」(1965)や「ダンス天国」(1966)のヒット曲で知られるウィルソン・ピケットのアルバム『ヘイ・ジュード』(1968)はマッスル・ショールズのスタジオミュージシャンになったばかりのデュアン・オールマンのアイデアによりレコーディングされたという。このアルバムのヒットからデュアンはひっぱりだこの売れっ子スタジオミュージシャンとなり、キング・カーティスやアレサ・フランクリン、ボズ・スキャッグスらと名盤を残していく。後のデラニー&ボニーとのレコーディングからだと推測されるが、その関わりからエリック・クラプトンと知り合うことになり名盤「いとしのレイラ」(1970)の制作に加わるようになることは想像に容易い。

そんなデュアン・オールマンのマッスル・ショールズ時代の音源も収録されている『アンソロジー』(1972)はオートバイ事故で亡くなり追悼の意味で発表された彼のレコーディング作品集である。このアルバムにはマッスル・ショールズでレコーディングされたソウル作品が多く収録されているので、スタジオの音が堪能できる2枚組である。そして稀有な天才ギタリストの短い生涯も同時に感じ取ることが出来る名盤である。

後に『アンソロジー2』(1974)も発表されたが、どちらもお薦め。

2018/10/17 花形



# by yyra87gata | 2018-10-17 15:21 | アルバムレビュー | Comments(0)

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 なぜか家には映画『がんばれ!ベアーズ』のDVDボックスがある。年間100本近く映画を観る私が、わざわざDVDを購入するなんてよっぽどのことなのだろうと思うのだが、何故購入したのかが思い出せないでいた。

そのボックスにはベアーズの1作目から3作目が揃っているが、私がその3本のうち映画館で鑑賞したのは、1作目と2作目だ。

3作目は、ベアーズが日本遠征にやってきて、いつものようなドタバタの騒動をくりひろげるのだが、ポスターを見ただけでも妙に松竹映画のような味付けになってしまっていて、映画館に観に行かなかった記憶がある。欽ちゃんとかアントニオ猪木とか出ているし・・・。

シリーズ化していくとだんだんつまらなくなっていく典型で、やはり1作目が一番輝いている。

そんなことを考えながら、3作品を見返してみて何故購入したのか気がついた。

娘に見せるためと娘とキャッチボールをするためという2つの目的があったのだ。

私には娘が2人いるが、長女は小さい頃から身体も他の子より大きく、男勝りで運動神経も良かった。「可愛い」と声をかけられても少しも喜びもせず、ブスっとした表情をしていたが、これが「格好いい」といわれるとたいそう喜ぶ男の子みたいな女の子だった。だから、私は彼女と野球がしたいと思い、いろいろな特訓を始めた。

 小学校低学年ということもあり、いきなり硬いボールでキャッチボールは出来ない。まずはボールをキャッチする勘を養うところから始めた。

ぜんまい仕掛けで紐を思い切り引くとプロペラが空高く飛んでいくおもちゃをご存知だろうか。

お互い20メートルくらい離れ、私がプロペラを高く飛ばし、そのプロペラを地面に落ちる前にキャッチするという遊びを頻繁に行なった。このおもちゃのプロペラ、侮る無かれ、かなりの距離を飛行する。

最初は中々プロペラに追いつかず、落下地点に振り回されている様子であったが、慣れてくるとしっかりと落下位置に一目散に走っていきキャッチするようになって行った。飛んだ高さの距離感を掴むことは大切だ。また、プロペラは風に舞い、ふらふらと落下してくるのでしっかり最後まで見ていないと手元で落としてしまう。そんなこともキャッチ能力の向上につながっていった。

そして、柔らかいボールからキャッチボールを始め、半年もしないうちにグローブを揃え、軟式ボールでキャッチボールを始めた。

ボールへの恐怖心は無かったようだ。

やはり、その時見せた『がんばれ!ベアーズ』のテイタム・オニールが投げる剛速球を頭に焼きつかせたことが良かったのではと思っている。

女の子が男の子をバッタバッタと三振にしていく様は、今見ても爽快である。

 私は小学生の頃、親父とよくキャッチボールをした。その思い出は一生忘れない。

親父の速いボールを必死で取る。ボールを取り損ね、顔や身体にぶつけ泣いたこともある。そのうち、自分も速いボールが投げられるようになると親父から褒められる。その言葉はとても嬉しかった。

娘とキャッチボールをしていた時、あの時の親父の気持ちになった。子供の成長を肌で感じた瞬間だ。娘の投げるボールが速く、グローブで取っても手が痺れる。悲鳴を上げるが、嬉しい悲鳴なのだ。

そんな思い出が『がんばれ!ベアーズ』から蘇った。

映画作品としてはアメリカンホームドラマの王道のような作り。

監督を演じたアカデミー男優のウォルター・マッソーの枯れ具合、子供たちの成長、そしてそれぞれ心の機微を歌劇「カルメン」の有名な「闘牛士」で表現する演出はシンプルでわかりやすい。

テイタム・オニールの可愛い演技は当時天才子役と言われ、父親ライアン・オニールと競演した『ペイパー・ムーン』も当り役だった。

テイタム・オニールはその後、マイケル・ジャクソンと恋愛関係にあったり、テニス・プレイヤー、ジョン・マッケンローと結婚し子宝3人に恵まれたりと、いろいろなニュースを提供してくれたが、ここ10年くらいは薬物中毒(ヘロイン)になり、離婚、自殺未遂、父親との確執の暴露本など・・・あまり良いニュースがない。こんなことを書くと大切な思い出が壊されていく感じで嫌なのだが、少なくともベアーズの中のアマンダ(テイタム・オニールの役名)は誰よりも輝いていたね。

2018/10/1

花形


# by yyra87gata | 2018-10-01 16:56 | その他 | Comments(0)