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少年マガジンを愛読していた小学校時代。「あしたのジョー」や「天才バカボン」が好きな漫画だった。

漫画を読み終え、最後のページを開くと、いつもと違うページがそこにはあった。カラー刷りのイラストが描かれており、「最新ヒット曲」という文字。少年マガジンではあまり見ることの無いタッチの絵が描かれていたのだ。

小学2年生の僕は違和感を覚えた。池田理代子や里中満智子の描く少女マンガのようなそのイラストは、白い服を着た男女が笑顔で教会にいる図。文字は「結婚しようよ」とあり、イラストの下部に「僕の髪が肩までのびて、君と同じになったら・・・よしだたくろう」とある。

なんじゃ、これ?という印象。これが最初の吉田拓郎との出会いだ。

では、なぜ7歳の時の記憶が鮮明に残っているかというと、この絵を見ていた時に親が流していたラジオから偶然にもこの「結婚しようよ」がオンエアされたからなのだ。だから、目の前の文字と耳から入る音楽がシンクロし、今まで聴いたことのない音楽の出会いがそこに生まれたのだ。

それまでは、親と見る歌謡番組でしか歌なんて聴いたことがないわけで、五木ひろしや森進一、アイドル歌手でもせいぜいフォーリーブス。そんな中、「結婚しようよ」の自由な歌唱は子供ながらに心をときめかせたのだ。

「よしだたくろう」。ひらがなだから小学2年生でも読むことが出来た。

 

 それから時が過ぎ、親とテレビを観ていた時、拓郎がテレビに出たのだ。「ベスト30歌謡曲」という音楽番組を観ていた時のこと。画面上手側に長髪の男がギターを抱えて座っている。画面のテロップには「よしだたくろう」。そして下手側にも長髪の男がギターを抱えて座っていて、テロップは「かまやつひろし」。小学3年生でも読める歌手だった。真ん中には漢字表記の「南沙織」(でも南沙織は知っていた)。そして、南沙織のために書いたという「シンシア」という曲を2人が歌い出した。初めて見る動く拓郎。郷ひろみや西城秀樹が人気爆発している時に、妙に落ち着いたかっこいい兄ちゃん。そんな印象だった。

(ちなみにこの時の演奏は愛奴で、ドラムは浜田省吾)

この動く拓郎を見てなんだかわからないけど確信に変わったんだよね。最初に歌謡曲以外で好きになった軽音楽のミュージシャンが拓郎だから、もう親も同然なわけ。そういえば、さっきの少年マガジンの中の天才バカボンで、こういうやり取りがあったのを思い出した。

「やぁやぁメシダタカロウ君、あいかわらずしみったれた顔をしてるねぇ」

「あ~パパ・・・腹がへってて・・」

バカボンのパパは相変わらずのあの表情。そこへチューリップハットを被り、ベルボトムのGパンに下駄を履いた長髪の男がふらふらと現れたシーン。

多分、こんなシーンだった。

小学2年生の時の僕はその意味が良くわからなかったが、テレビの中の拓郎を見て、そうか、メシダタカロウは赤塚不二夫の描いたよしだたくろうを駄洒落で表現した笑いだったと思い出したのだ。

当時は笑えなかったが、動く拓郎で蘇ったシーンである。

それからもう一つ。後から意味がわかったエピソード。

森進一が「襟裳岬」でレコード大賞を獲った。授与式でタキシードで臨む他の受賞者をおいて、拓郎は普段着のGジャンにGパンで現れ、みんなを驚かせた。司会者の高橋敬三も驚いていた。そんなシーンで母親が「いろいろあったからね、拓郎は。反抗してるんだよ、あれは。」と言ったのだ。

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僕の好きな吉田拓郎に母親がテレビを見ながら言った言葉の意味。その意味を尋ねても答えてくれなかった母親。その時はよくわからないまま、過ぎてしまった。

しかし、その後、僕は貪欲に拓郎を追い始め、親戚の姉さんたちから音楽雑誌やレコードを借りまくりどっぷりと音楽の世界に浸かっていった。

母親の言葉の意味・・・多分それは拓郎が1973年に巻き込まれた「金沢事件」(注1)でのマスコミ不信を思ってのことだろうと後々僕は思料した。

小学4年の頃、日本テレビで「俺たちの勲章」という刑事ドラマが始まった。主演は松田優作と中村雅俊。破天荒な刑事ドラマで、その後の「あぶない刑事」の基礎となった作品ではないだろうか。

このドラマの音楽担当が吉田拓郎だった。この1975年あたりを境によしだたくろうから吉田拓郎に名前も変化したのだが、テレビ画面のテロップで漢字表記が出ても僕はもう読める歳になっていた。

学校で「俺たちの勲章」は人気のドラマで、優作派か雅俊派に分かれてよく刑事ドラマごっこをしていた。僕は2人とも好きだったのだが、そんなことより音楽の吉田拓郎って知っているか、と聞いても誰も知らなかったので、がっかりした記憶しかない。

 

小学6年のある日、親戚のお姉さんの家に遊びに行くと発売されたばかりのアルバム「明日に向かって走れ」がそこにあった。

お姉さんに感想を聞くと、「なんか、暗いんだよね。去年のつま恋で燃え尽きたのかな。でもって、フォーライフなんて作っちゃって大変なんじゃないの。なんか、CBSの頃の方がパンチがあったよね。タイトル曲だって歌詞は威勢がいいんだけどメロディーが寂しいのよ。そこへ行くと、こうせつのソロは良いね~」なんて言う。

確かに全体を通して暗い。だけど、僕の好きな拓郎だっていろいろあるんだろうなんて考えながら、聞いていた。(注2)

小学校を卒業する時、周りはピンクレディー一色だった。僕はキャンディーズ。なぜなら拓郎が曲を書いていたから。そして、拓郎なりに解散するキャンディーズにエールを贈る歌をセルフカバーしていたから。「アン・ドゥ・トロワ(ばいばいキャンディーズ)」。

1975年のつま恋オールナイトコンサートは、参加した親戚のお姉さんから聞いた。とにかくすごいコンサートだったと。そんな生の拓郎が見たいとお姉さんに言うと、もうすぐ中学に上がるんだから、その時は一緒に行こうよと言われ、夢見る日々が続くのだった。

しかし、拓郎がフォーライフレコードの社長に就任してしまい、コンサートの本数が極端に減ってしまったので、この約束も叶うことがなかった。

初めて見たものを親と思うひな鳥のような感覚で拓郎を追い始めた小学校時代。親戚のお姉さんが案内人のように僕の音楽観を導いてくれたから、学校でたった一人の拓郎信者でもいられたのだと思う。

あ、唯一分かり合えた人を思い出した。

小学校の時の音楽のS先生。矢沢永吉が好きで、放課後の音楽室でその時発表されたばかりのアルバム『A DAY』と拓郎の『今はまだ人生を語らず』を聴いて、「お互い広島じゃ!」なんて言って笑い合ったことがあったな。

 それも良い思い出。

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(注1)新六文銭(吉田拓郎、小室等、チト河内、柳田ヒロ、後藤次利)の金沢公演のあと、ファンの女性の狂言により拓郎が婦女暴行罪として逮捕されたもの。真相は拓郎ファンの女性が遅くまで拓郎らと飲んでいたが、深夜となり彼氏や親からの叱責を恐れたことで拓郎に無理やり部屋に監禁されたと狂言したもの。

それまでの拓郎は、でっちあげの記事やプライバシー侵害を声高に叫び一部を除くマスコミとは敵対関係にあったため、この事件にはどのマスコミも飛びつき、拓郎を糾弾した。しかし、拓郎が金沢にて拘留期間中に女性が起訴を取り下げたため、不起訴処分となり収束。しかし、拓郎の汚名を返上する記事を載せるマスコミは1社もなかったと言う。

(注2)「明日に向かって走れ」が何故暗いか。それは多分に1回目の離婚によるものであると思料する。子供との別れもあり、思い悩んでいたに違いない。また、浅田美代子の存在も面白ろおかしく報じられた。拓郎はレギュラー番組であったオールナイトニッポンの生放送中に離婚発表を唐突に行い、自分の言葉で聴取者に訴えた。それはマスコミを介在することなく、曲がって報じられることを嫌ってのことで(あることないこと書きやがって、あんたら地獄にいくからな!はラジオから聴こえたとき僕も怖くなったものだった)、マスコミにしてみれば、面白くない話であり、再びバッシングを受けることになる。そんな時期に制作したアルバムなので明るいはずが無い。

以上

2019/8/15 

花形


# by yyra87gata | 2019-08-15 19:59 | 音楽コラム | Comments(0)

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友達とレコード屋に入った。
友達は嬉々として「R」と記されたコーナーに飛んでいく。私は、ゆっくりと「A」のコーナーへ。アヴェレージ・ホワイト・バンドの『アヴェレージ・ホワイト・バンド』(1974)とアトランタ・リズム・セクションの『アー・ユー・レディ!』(
1980)を取り出した。

親戚の家に遊びに行き、レコード棚を漁っていたときに目にしたバンド。叔父に尋ねると「お前、時代はテクノとか流行っているけど本当の音楽ってえのは基礎がしっかりしたこういうコンテンポラリーな音楽だよ。南部ロックにだってレベルが相当高いバンドもあるわけよ」などと訳のわからないことを言われながら聴いたのが、アトランタ・リズム・セクション(以下ARS)。その時はふーんってな感じで、フィリーソウルとは違ったしなやかさのあるバンドね、という感想。でもってこれ、ロックなの?みたいな感想。

で、もう1枚、アヴェレージ・ホワイト・バンドのアルバムを取り出して聴いていたら、「お前、このイギリス人が出すブラックなノリ。わかるか?いつまでもクラプトンじゃねぇぞ。しょせんクラプトンなんざ、黒人の真似事だ。ペンタトニックをペンペンと指癖で弾いているようなもんだ。その点、こいつらはノリが違う。黒人のノリを研究している。いや、もう黒人だ。黒人ということにしておこう・・・」なんて言い出す始末。これもふーんってな感じで、ディスコサウンドの基礎という感じ。ちなみにアヴェレージには白人だっているよ。

しかし、2つのバンドには何か引っかかるものがあったから、レコードを購入しようと思ったのだ。

時は1980年。私が高校1年の時のことだ。

レコード屋で悩むこと30分。友達のY君はすでにレインボーの『ダウン・トゥ・アース』(1979)を手にしており、早く家に帰って聴こうぜと私を急かす。リッチーが、とかコージーが、とかロニーがいなくなっちゃったんだよ、とか言ってるやつに私の悩みを聞いてもろくな答が返って来るとは思えなかったので、ここはひとつジャケ買いを試みた。

もちろんARSの『アー・ユー・レディ!』である。

野外コンサートを俯瞰から撮った人の海。ウッドストックを髣髴させる雰囲気にやられたのだ。2枚組ライブ盤なので出費は大きかったが、期待も大きかった。

自宅に戻り、友人はすぐに私のターンテーブルにレインボーを乗せた。

「グラハム・ボネットって誰?」なんて言っているやつに・・・止めておこう。しかし、軽いという印象は「シンス・ユー・ビーン・ゴーン」だけのせいではない。本当にコージー・パウエルのドラムか、とクレジットを見直した。

さて、「ロスト・イン・ハリウッド」も終わり、友人が首を傾げながらレコードを片付けた後、わたしはARSをターンテーブルに乗せた。

映画「風と共に去りぬ」の舞台となったアトランタ。その映画で使用された「タラのテーマ」からの紹介アナウンス。そして「スカイハイ」でスタート。この興奮はナンだ?

アルバムは、1971年にデビューしたARSの9年の歴史を辿るような選曲でベスト盤の要素もあった。そして、叔父の家で聴いたスタジオレコーディングでは感じることができなかった高揚感がこのアルバムからは感じ取れた。

もともとは南部ロックというカテゴリーで聞き始めたので、オールマン・ブラザース・バンドやレイナード・スキナードを想像していたが、もっと洗練された都会の音がしたのは、彼らがスタジオミュージシャンの集合体ということも起因しているのか。

職人集団なので変幻自在に音を操ることは容易なのだろう。そこへ行くとブルースに根ざした集合体ではこうはいかない。叔父が言っていた「基礎がしっかりしたコンテンポラリーな音楽だよ」というのはこういうことなのかと思ったものだ。

ライナーを眺めつつ興奮しながら聴いていると、友人のいびきが聞こえる。こんなやつにARSの良さは伝わらないだろうから、起こさずそっと毛布を掛ける私。


 それから、私はARSを遡って聴いていった。

1976年発表の『A Rock And Roll Alternative』(邦題「ロックンロール魂」って誰が付けた?センス無さすぎやろ)は、南部ロックというよりもAORの音がしていてライブから入った私は少々物足りなかった。しかし、このアルバムあたりがセールス的にも内容的にも一番良かったのではないかと思う。わかりやすいしね。

 ARSは日本でのヒット曲は無く、認知度も低い。まるでグレイトフル・デッドのような扱いである。それはオールマンもそうだが、長い演奏やインプロビゼイションを多用するバンドは、「歌は3分間のドラマであります」と紹介され続けた日本の土壌には合わないということなのだろう。

もちろんアメリカにもアイドル番組やビートポップ番組はあり、3分間の音楽は存在するが、それ以外に「音楽」という「文化」に対する懐の深さが日本の音楽産業と一線を画している。

例えば、ご当地の音楽(フィラデルフィアサウンドや南部サウンド、ウェストコーストサウンド。そして、そこに根ざすカントリーミュージックやブルースミュージックなど)を守り続ける地方色豊かな土壌がその土地のミュージシャンを育んでいるから、本当に音楽で楽しみたいと思っている人が多く、妙なコマーシャリズムには流されないということも言えるのではないだろうか。

それが証拠にARSはメンバーが次々と鬼籍に入る中、いまだに活動を続けているバンドだからだ。

 

 音楽業界ではヒット曲が一つの指針となるが、音楽を継続しているということはもっと重要なファクターであり、そこにはかけがえの無い文化が生まれるという奇跡を多くの人々が目撃することになる。

その事象は商売を度外視した熟練工の成せる「音楽」の奇跡なのかもしれない。

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2019/7/11

花形


# by yyra87gata | 2019-07-11 17:59 | アルバムレビュー | Comments(0)

バブルのバンド THE BEST

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 令和元年ですが、令和ってどういう時代になるんだろうね。バブルとかあるのかなぁ。
アタシは昭和生まれで、平成元年に社会人になったから、いきなりバブルの中で仕事を始めたのね。まだペーペーの社会人だからそんなにバブルの恩恵は無かったんだけど、確かに市場は活気に満ち溢れていたから、明るい時代だったよね。で、バブルが弾けたら一気に下り坂でしょ。阪神淡路の震災やオウム事件、北海道拓殖銀行や山一證券の破綻・・・そんでもって新潟や東北や熊本の震災。バブル後の日本って結構悲惨な事件や天災が多いよね。あまり良い時代じゃなかったんじゃないの、なんて首を傾げたくもなるね。ま、文化やスポーツなんかはワクワクすることもたくさんあったけど・・・観る方にしてみればバブルで景色が変わった気がするんだよね。

 音楽界で言えば・・・バブルで思い出すことって・・・

ミック・ジャガー単独公演、ザ・ローリング・ストーンズ公演、ポール・マッカートニー公演。これ、平成に入ってから直ぐの出来事なんだよね。

これらの公演で一気に外タレのチケット料金が上がったんだよ!

だってバブル前のクラプトンやスプリングスティーンのチケット代、それほど高くはなかったもんな。せいぜい5,000円どまりだったのよ。それが一気に10,000円の壁を超えて来たでしょ。もう、お財布びっくり仰天ですがな。

バブルでロックのロの字も知らない輩どもが踊らされて・・・例えば広告代理店の連中がチケットを手配しながらオンナのナンパツールとして「ストーンズのチケット持ってるよ〜」なんて。

「ストーンズってポカリスエットの人でしょ?」なんてクソ女に言われた日にゃ、笑うしかなかったね(初来日公演の協賛が大塚製薬で、あん時はテレビから湯水のようにストーンズのCMが流れていた)

土地ころがしや株成金で世の中に金が有り余っていたから、音楽も一気に消費の対象に成り下がり、一番良い席が協賛スポンサーのエリアになっていて、いつもそこだけぽっかり空いていたりしたもんね。なんだか、後ろの席から見てると異様だったんだよな、そのクレーターが・・・。

でも、バブルがあったから高額なギャラのストーンズやマッカートニー、U2なんかを呼べるようになったということも言えるんだけど・・・。

で、本題ね。

こういうメガバンドの公演はわかりやすいんだけど、金が有り余っているからかどうかわからないけど、妙なバンドが来日したことがあって、リンゴ・スターのオールスターバンド(まだこの企画ってやってるんだよね)のような得たいの知れないバンドが来日したことがあるんだけど、知ってる?

19906月にザ・ベストというバンド(?)が来日公演を行なったのよ。アタシは後からこの話を聞き、開設したばかりのWOWOWでオンエアされた映像を友達から見せてもらってびっくりしたんだけど。

もうメンバーがめちゃくちゃね。

キース・エマーソン、ジョン・エントウィッスル、ジョー・ウォルシュ、サイモン・フィリップス、ジェフ・バクスター・・・これで何スンの?って感じでしょ。で、ヴォーカルは知らない若い人だったけど、ホントはテリー・リードだったという噂もあるわけ。

みんなのギャラが高すぎてヴォーカルまで回んなかったのかね。

で、この面子で演奏した曲って結局は自分の持ち歌をやるしかないからアメリカンになったりプログレったり、ウェストコースったり。いきなりブリティッシュビートかと思いきや16連みたいな・・・。振れ幅が大きすぎるというか、バカなのか。

ま、バブルだね。バブルが成せる技ですよ。

たまにビデオを観るんだけど、ジョー・ウォルシュなんて酔っ払ってるのかどうかわからんけど、真っ赤な顔でヘラヘラしてて一人だけ突拍子も無いでかい音を出したりしてて・・・面白いのよ。

ビッグネームの大セッション大会なわけ。

この企画、誰が言い出したんだろうね。でもって、誰が金を出したんだろう。いくら気のいい日本人だってこんなコンセプト不明のバンド・・・客は恐ろしいくらい入ってないんだよ。

だから、バブルなんだろうね。

さっきも書いたけど1989年にリンゴ・スターがオールスターバンドと称して来日した。

この企画も大セッション大会なんだけど、メンバーは元ザ・バンドのレヴォン・ヘルムやリック・ダンコ、Eストリートバンドの2人、Drジョンやジョー・ウォルシュ(ここにもいたか!)、ビリー・プレストンなど・・・わりとリンゴの風味に70年代のアメリカンなフレーバーで面白いコンサートだったわけ。なんか、落ち着く~みたいな。

でも、ザ・ベストは落ち着かないね~。みんなとんがった人ばっかりだから!

キーボードに日本刀を差しちゃったり、マシンガンのようにベースを連打する人だったり、酔っ払って馬鹿でかい音を出すジョー・ウォルシュだったり。

バブルって言うとこのバンドを思い出しちゃうんだよね。

令和にもバブルが来ないかね。金が飛び交ってビッグネームが大セッション大会なんて!

でもチケット料金がハンパ無く高騰するだろうね。ただでさえ今なんか100,000円とかあるもんね。

もう、マッカートニーなんて金持ちなんだから無料でいいじゃんね。

「令和ジャム」とか言ってフリーコンサートでビッグネームが大セッション大会やらんかな。

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2019/7/9

花形


# by yyra87gata | 2019-07-08 17:40 | 音楽コラム | Comments(0)

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コンサートツアーも終了したので、今回の吉田拓郎のコンサートについて僕が感じた率直な感想を書こうと思うが、僕の感想に真っ向から感情的で否定的なコメントをされる方がいる。そういう方は得てして拓郎に対し盲目的で、「そこに拓郎がいればいい」とか「73歳で歌っていることが奇跡」という感想を持たれ、あらゆる美辞麗句で称える事が多い。僕はそういう盲目的なファンは相手にしないのだが、そういう方がもしいるのであれば、このコラムは多分気分が悪くなると思う。そういう方にとって辛らつな内容になっているので、読まないでいただきたいし、わけのわからないレスをしないでいただきたい。

もちろん、「拓郎の歌で勇気をもらった」とか「彼が私の生きる指針となっている」という方々がいらっしゃることは十分理解した上で書いているので、決して非難するわけでなく、あくまでも僕のコンサートの感想であることを付け加えておく。
僕は6月4日(火)の東京国際フォーラム公演を観覧したが、シンプルに言うと、
1985年の「ONE LAST NIGHT IN つま恋」の雰囲気で、1989年の「BIG EGG公演」を観ている雰囲気だった。(注1)

 今回のコンサートツアーは「最後のコンサートツアー」になるかもしれないと本人の口
から出た事が、僕たちファンの緊張感を一気に高めたのだ。拓郎が自身のラジオ番組で話していた「最後」を意識させる物言いを、彼は努めて明るく話していたが、年齢からくる不安という解決の方法が見当たらない絶望的な想いがそこには込められていた。そして、今回のツアーの演奏曲について全曲吉田拓郎作詞作曲の楽曲にすると言った時、僕の緊張はかなり高まった。
 拓郎は本気だ。
 
 2012年に体調不良から来る不安定なパフォーマンスに対する不安から「全国ツアー撤退」を表明した時と同じくらい、僕の中で大切な物が無くなっていく気がした。だから必ず見届けないと、と思った。吉田拓郎という巨大なミュージシャンの最後を見届けないと40年以上も彼を追い続けてきた自分に決着がつけられないと感じたのだ。


 コンサートは彼が肺癌の手術から復帰した時のコンサートの1曲目と同じ「今日までそして明日から」の弾き語りで始まった。歌の途中である「私には私の生き方がある・・・」という部分から厳かに歌いだした。
この1曲目で彼のこのコンサートに掛ける想いが伝わった。そして、作詞作曲が吉田拓郎の歌という事は、アップテンポで人気のある「春だったね」や情熱的な「落陽」は無く、拓郎自身の言葉を紡いだ内省的な歌が次々と披露されていく。

拓郎の今の気持ちを表現した歌たち。それは、拓郎の長い音楽生活の集大成というセットリストでは無かった。その歌たちの内容は人生のアウトロに相応しいもので、60歳以上が大半を占める会場の中では観客の誰もが我が事のように聞き入っている。そこには今までのようにこぶしをあげて盛り上がるという雰囲気のコンサートの姿ではなかった。

そのせいか、最後という前評判の割には客が求める古い代表曲より「今の自分の気持ち」を打ち出す選曲が全体の半分を占めたことで、観客と演者との間に微妙な溝が出来上がっていた気がしたのは僕だけではなかったはずだ。そのことについては、コンサートも半ばに差し掛かったところで、拓郎自身も彼独特の表現のMC(みんなもやもやしてるよね。でも僕は非常に楽しいよ、というような内容)をしていたし、コンサート終了後の彼のブログにもそれを想起させる内容が記載されていた。
 演者側(拓郎や演奏者)は客席に違和感を持っていたのだ。


 拓郎はこの事を翌日のブログで「1975年のつま恋のステージに立っているような雰囲気だった」という表現を使っていた。
この意味は、1975年に開催された世紀のイベント「吉田拓郎・かぐや姫 イン つま恋1975」の時に5万人以上に膨れ上がった観客を前に「客が攻めてきたらどうしよう」という恐怖心があったことを指しているに違いない。これは拓郎自身が何度もラジオ番組で話していたことでもあるし、客から出る雰囲気が彼をそう思わせたのだろう。



それよりもそんなことでパフォーマンスの出来が悪くなるということに、どこにも持って行くことができない「もやもや」が私には生じたのだ。そして、その「もやもや」は、今に始まったことではなく、2006年のかぐや姫とのつま恋イベント直後の日本武道館公演でも同様に感じたことで、ズバリ言うと「声が思うように出ないことによる不安定な音程」なのだ。本人はそれを痛感したためか、後に全国ツアー撤退を発表するに至る(前述)。僕はその当時、このことを相当ブログで糾弾した。

まともに歌うことのパフォーマンスなくして、なにがミュージシャンかと。ファンはもう少し厳しくあたるべきだと。なんでもかんでも「最高でした」はないだろうと。

 もちろん肺癌を克服してステージに戻ってきてくれたことは、泣きたいほど感動したものだが、人前でパフォーマンスするレベルを拓郎自身がどう思っているかを考えているのかと。同世代の小田和正も井上陽水も矢沢永吉もミック・ジャガーだってベストパフォーマンスに向けて日ごろから鍛錬しているのではないのか、と当時書き、歌は芸術であるが、歌うことは体力なのだ。だからしっかりと歌えるようになってから出てきて欲しいと願うばかりと締めたのである。
 最後に、吉田拓郎のコンサートは、そこにエンターテイメントを求めるのではなく、吉田拓郎の生き様を観に行くという行為だと僕は思っている。音楽会ではない。どちらかと言えば講演会に近いのではないかと思う。

もちろん拓郎の歌の世界はフィクションであるが、自分の史実を元に作られたキルケゴールの如く実存主義の思想がそこに存在する。

そして、拓郎の魂の歌唱は、テクニックではなく

ソウル(本能)である。心の底からのパフォーマンス

である。

とはいえ、「音楽」という括りの中でのことなので、今回の東京国際フォーラムは残念だったというのが僕の結論である。(注2

 しかし、今回のコンサートではそんな中、嬉しかったこともあった。2006年の日本武道館と違うことは、新曲がセットリストに入っていたこと。そして拓郎自身から「コンサートはどうなるかわからないが、まだまだ音楽は作り続けて行く」と発言されたことである。
拓郎の言葉からこれからも曲を作り続けるという言質はとれている。本人は天邪鬼だからそんな約束してないよ、なんて後から言い出すかもしれないが、それに対して怒っていては拓郎ファンにはなれない、ということも付け加えておく。

僕たちファンは、「拓郎、また、なんか言ってるよ」でいいのだ。




1・・・拓郎引退の噂でもちきりだった1985年のつま恋。拓郎自身もコンサート終了後の音楽活動の名言を避けていた。そして1989年の「BIG EGG公演」は拓郎が東京ドームでどんなコンサートを繰り広げるのかという期待に胸を膨らませた5万人の前で発表したばかりのニューアルバム『ひまわり』(1989)を中心にステージは進んだ。今の音を聴かせたい拓郎の想いのズレ。コンサート終盤まで乗り切れない観客の苛立ちが続いた。


2・・・7月3日、横浜パシフィコでの最終公演でこのツアーは終了した。東京国際フォーラムと最後の横浜公演を観覧した人の意見は・・・「横浜は本当に感動のステージだった。何故拓郎が全曲自分の歌でやりきったかがわかった気がする。「落陽」をしない拓郎なんて、と東京の時は思っていたが、やらない決意ということも大事だと感じた」とコメントしていた。


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令和174

花形


# by yyra87gata | 2019-07-04 10:20 | コンサートレビュー | Comments(0)

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 赤いテレキャスターというと誰を想像しますか。

ベンチャーズのノーキー・エドワーズ、元ナンバーガールの向井秀徳、シンガーソングライターのYUI、吉田拓郎のファンなら1979年のオールナイトコンサート「篠島」での勇姿を思い出すかもしれません。

エリック・クラプトンも赤いテレキャスターをヤードバーズ時代に使用していましたが、当事の映像がモノクロだったのであまり印象がありませんね・・・。

 で、そのクラプトンなのですが、初めてギターを手にしたのはKAYというメーカーのギブソンのコピーモデルのセミアコでした。そして2台目に手にしたエレキギターは赤いフェンダーのテレキャスターです。このギターは指板がローズウッドですから、メイプル指板を好むクラプトンとしては非常に珍しいモデルを手にしているのです。では何故、この赤いテレキャスターだったのでしょうか。

それは、彼の憧れのミュージシャンが赤いテレキャスターを弾いていたからなのであります。それは、マディ・ウォーターズです。

シカゴブルースの父。

 1915年ミシシッピ州生まれ。本名はマッキンリー・モーガンフィールド。

子供の頃、泥だらけで遊んでばかりいたからマディ・ウォーターズ(泥水)というニックネームで呼ばれるようになりました。

ブルースマンはニックネームで呼ばれることが多く、BBキングは「ブルース・ボーイ」だし、ハウリン・ウルフは「狼の遠吠え」なんて言いますね。ライトニン・ホプキンスも「稲妻」なんてワードを入れてますね。

ブルースは、アメリカ南部のデルタブルースがつらい畑仕事でのつぶやきから派生し、それが労働歌となり、簡単な楽器で演奏されていたことに対し、シカゴブルースはそこにエレキギターを導入し、現代的なバンドサウンドの礎となったものであります。

つまり、デルタブルースのメッセージ性に現代音楽的な施しをした音楽なのです。

南部の黒人が奴隷のような重労働に耐えかね、北部に仕事を求めるために大移動を行ないました。1914年から1950年までの間に約100万人のアフリカ系アメリカ人が大移動をされたといいます。これがシカゴブルースの起点であります。

 さて、その中での中心人物がマディ・ウォーターズです。

アメリカのポピュラー音楽は、そもそも白人の好むクラッシックからの流れを汲むポップスや黒人の好むブルースからの流れを汲むジャズやカントリーミュージックという風に大別されていましたが、ヨーロッパ音楽の流れであるクラッシックにアメリカ音楽特有のブルースがミックスされたという方が正しいかもしれません。現に、ミンストレル・ショーといった顔を黒く塗った白人が黒人に扮し侮蔑的なショーを行なっていたということは、それだけブルースを意識していたということに他なりません。

そんなアメリカ音楽でブルースがいかに生活に根付いたものであったか。そしてブルースが無ければ、ロックンロールも生まれていないのであります。

それは、ブルースバンドで活躍する若き日のマディ。そのバンドにギターを弾かせてくれと頼み込んだ少年が、かのチャック・ベリーでありますからこのことからもマディはロックンロールのお父さんということが言えるでしょう。

ザ・ローリング・ストーンズのバンド名もマディ・ウォーターズの「ローリングストーン」から取られていることは有名ですし、ポール・ロジャースはマディ・ウォーターズをトリビュートするアルバムをブライアン・メイ、ジェフ・ベック、ニール・ショーン、デイブ・ギルモア、リッチー・サンボラ、ゲイリー・ムーアなどと制作しております。

ある意味、ブルースロックギタリストの父と言っても良いでしょう。

 マディが一番輝いた年は1954年あたりでしょうか。

数多くのミュージシャンが後年マディの曲をカバーしますが、ちょうどその頃に発表されたものです。

I’m Your Hoochie Coochie Man」「Just Make LoveMe」「I’m Ready」「Mannish Boy

You Shook Me」「You Need Love

ここに挙げた曲だけでもエリック・クラプトンやジェフ・ベック、スモール・フェイセズやレッド・ツェッペリンなどがカバーしており、彼に対するシンパシーを感じます。

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この頃の作品はアルバムではなくシングルによる発表ですから、のちにまとめられたベスト盤を聴くことをお勧めします。『the best of MUDDY WATERS(1955)CDであれば、2001年にボーナストラック8曲を含む同タイトルが発表されています。


赤いテレキャスターを若きクラプトンは手にした時、きっとマディの魂が乗り移ったに違いありません。

好きなミュージシャンのモデルを使うということは、そのミュージシャンを真似るのではなく、そのミュージシャンに敬意を表するという意味だと思うのです。

クラプトンが持っていた赤いテレキャスターは今どこにあるかわかりませんが、彼が大切に保管していたらほっこりしますね。

2019/7/2

花形


# by yyra87gata | 2019-07-02 15:15 | アルバムレビュー | Comments(0)