音楽雑文集


by yyra87gata

ギブソン社倒産について

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   ギブソン社倒産の理由は、楽器販売にとどまらず音響機器などへの投資により、その部門の負債が溜まり経営破綻に繋がったとあります。本来の楽器製造販売については採算が合っていたとも聞きます。

ギブソン社は今後は楽器販売に経営を集約させ、再生を図ると報じられていましたが、経営の立て直しはいばらの道でしょう。

なぜなら、一般コンシューマーをターゲットとしている楽器販売は時代の岐路に立たされているからです。

果たして楽器販売だけで今後も運営していくことができるのでしょうか。

ギブソン社と並ぶアメリカの楽器メーカー、フェンダー社も1965年、1985年の2回も経営陣が変更した歴史があり、サンタナの使用でも有名なポール・リード・スミス社も経営に苦しんでいるというニュースも届きました。

若者をターゲットとし、時代と共に繁栄した楽器メーカーの倒産話は、見逃せないニュースです。



   ギターはピアノや管楽器と違って同じようなモデルが多数存在しているので、人気商品の商売なのだと思います。

   1960年代後期、フェンダー・ストラトキャスターは、まとめ売りしても買い手がつかないほど人気が落ちた事があるといいますが、ジミ・ヘンドリクスが使いはじめ、その楽器のポテンシャルにミュージシャンは再度気づかされヒット商品に

1961年より生産中止となっていたギブソン・レスポールモデル(ギブソンSGに継承)も、1970年初頭レッド・ツェッペリンの大ブームにより全世界的にギターポジションをだらりと下げたジミー・ペイジのクローンが登場。レスポールモデルも大ヒット。数々のコピー商品が出回りました。

また、エレキギターの神様はアコギでも神様だったということで、1990年代にアンプラグドブームを決定づけ、グラミー賞を総なめにしたエリック・クラプトンはマーチンギターの看板となり、クラプトンモデルを大ヒットさせています。


つまり、商品ヒットの一番の近道は、オピニオンリーダーがそのギターを使うかどうかという説もあります。


   ギブソン社は毎年ノルマのように「○○年のレスポールモデルです!」と宣伝し、操作面などでプレイヤー視点に立ったアップデートを強調していましたが、ヒット商品の手っ取り早い作り方としては、もはや「そこ」ではない気がします。

往年のモデルの細かい変更に敏感なプレイヤーがどれだけいるんですか!ということ。

その変更のために生産工程を変え、商材を新たにストックしなければなりません。

アメリカに次ぐ大きなマーケットである日本では年と共にプレイヤー人口が減る中、「そこ」に拘るよりも買いたいと思わせる理由は別にあるのではないかと思料します。それは、ギブソンマニアはいても商業的成功にはなかなか結びつかないという事ではないでしょうか。

前述のストラトキャスターもレスポールモデルもクラプトンモデルもヒットした第一の要因は弾きやすさではないはずです。

ビートルズが使っていたからリッケンバッカーを、ベンチャーズが使っているからモズライトを使いたいというファン心裡は真理だと思います。

楽器販売という点から、人気アーティストとのコラボを進めることは手っ取り早い一つの意見です。

ポール・マッカートニーは、ギター業界不振の原因についてインタビューで残念そうに振り返っています。

「電子音楽が増えて、若者は以前と違った聴き方をしている。私はジミ・ヘンドリックスに憧れたものだが、ギターのヒーローは、もういないんだ。かつては誰もがギターを欲しがったものだが......


   ギブソン社の2017年モデルは価格設定を抑えたモデルが多く発表されていましたが、往年のモデルのコストダウンのマイナーチェンジであることは一目瞭然でありました。それでは、いくら学生のエントリーモデルを作っても結果は出ないでしょう。安くすれば売れるのか、という事を企業側は議論したのでしょうが、ギブソン社というブランドで安いモデルを出されてもブランドに「傷しかつかない」気がしてしまうのは私だけでしょうか。

   ベビーブーマーである我々の世代は、エレキギターの歴史そのもので、社会の高度成長と共にエレキギターを手にしてきました。

その中でもギブソンは高嶺の花で、みんなが憧れたブランドです。それは他の楽器メーカー(特に日本の楽器メーカーは隣の大国を笑えないほど露骨にコピーモデルを量産しました)がコピーモデルを量産し、ギブソンの特徴的なロゴを真似してヘッドにデザインした事からも、その想いが伝わります。

その思い入れがある一流ブランドが販売不振の恐怖に震えながら、生産工程や材料を見直し価格を安くして販売する。

それは企業努力をしているように見えますが、往年のファンには響かない行為と私は感じました。そしてそのことには、安価なモデルは中国や韓国で生産され、その品質に問題が出ているという事も付け加えておきます。


   今までは感覚から述べましたが、今度はデータから述べてみましょう。

ギブソンの本国アメリカの話ですが、あるマーケティング調査によると、音楽業界は決して斜陽産業では無いと言います。

フォーブス誌でのフェンダー社CEOアンディ・ムーニー氏のインタビュー記事に興味深い事が記載されていました。


「音楽売上(CDやライブ)は成長しており、12500万人もの人々がデジタルストリーミングサービスを利用しており、こちらも伸び続けています。

LiveNation によると、昨年ライブに行った人の数は、前年比21% 増の8200万人。

スポティファイやアップルミュージックが音楽業界を縮小させるという兆候はありませんし、世界最大のイベント会社であるLiveNation 11年連続で成長しています。」


   驚くなかれ、成長している産業であるにも関わらず、その雄たるギブソン社が倒産とは。いくら不採算部門を整理して再生するなどと説明しても説得力に欠けるエクスキューズに聞こえます。

一度ならず二度も地獄を経験したフェンダー社のアンディ・ムーニー氏は楽器メーカーとしての生産能力もさることながら、その販売方法にも意見を述べています。

楽器販売店とネット販売についての現状を述べています。


「現在の楽器店には、ネット販売をしないリアル店舗のみの店、両方やる店、ネット専門店の3種類があります。

それぞれの状況はというと、まずリアルオンリーは現状維持。両方の店は一桁から二桁台前半の成長、そしてオンライン専門店は右肩上がりです。そして、地域によって異なりますが、北米では総売上の半分が、なんらかのオンライン販売によるものだと推測しています。過去3年で35% 50% へと増えました。」


   これが事実なら、私はすでに取り残された古い人間です。なぜなら楽器には個体差が必ずあり、購入する前には新品だろうが中古だろうが必ず試奏するものと思っているからです。

では、どのような人がネットで楽器を購入しているのか。アンディ氏は続けます。


2年ほど前、我々はギターを初めて買う人について大規模な調査をしました。

我々が毎年販売するすべてのギターのうち、45% を初心者が購入していることが分かりました。これは我々の想像を遥かに超える数字でした。

そして初心者の90% が、最初の12か月のうちにギターをやめてしまいます。

一方で残りの10% は、最初に買ったギターを使い続けるのではなく、複数のギターやアンプを購入する傾向にありました。

加えて新たにギターを始める人の50% が女性であることもわかりました。

彼女たちはリアル店舗について敷居が高いと感じており、ネット通販を利用する割合が高めです。

そして最後の発見は、初心者はレッスンに楽器の4倍以上のお金をかけているということです。

これらの事実は色々なビジネスモデルを形作りました。我々がFender Play というオンラインレッスンサービスを始めたのは、楽器とは別の新たなビジネスチャンスがあると思ったからです。

レッスンというと教室に通うイメージですが、世界的にはオンラインレッスンが主流になってきています。

Fender Play や各種マーケティングを実施して、ギターに興味がなかった人にギターをやってみたいと思わせることができたのは、衝撃的な出来事でした。

そして女性のオーディエンスへのアピールも強化する必要があるので、契約アーティストや宣伝画像に使う女性、そしてウェブマーケテイング全般について日々検討しています。」

   

このインタビューこそが、地獄を経験し、売上を毎年15%平均で伸ばしているフェンダー社と今回のギブソン社との差かもしれません。

そして、こう付け加えます。

「ここ最近で伝えられているギブソンの不振は、彼らが自ら招いたものであり、業界の現状を表しているものではありません。」と。

業界の展望を自社製品のビジネスモデルに繋げているフェンダー社とギター専業メーカーから総合音響メーカーへの脱皮を進めて失敗したギブソン社との差が露呈しました。


   メーカーとして一流の商品を我々に届ける役割は経営陣にかかっています。いくら最高の職人が極上の商品を作っても売り方一つでそのブランドは地に落ちます。

   今回のギブソン社の経営破綻は、不採算部門の影響とありますが、ここ近年の商品ラインアップを見ても、果たしてその問題を解決するだけの施策なのか。

負債の解消のため、何か大切なギブソン社の財産が処分されてしまわないように

ギブソンギターのオーナーとして、栄光のブランドに傷をつけて欲しくないという思いから書き綴りました。

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2018年5月4日
花形

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# by yyra87gata | 2018-05-04 19:18 | 音楽コラム | Comments(0)

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 この写真だけでご飯3杯は食べることが出来る。なんとも格好良いじゃありませんか!

サディスティック・ミカ・バンドがロックの本場であるイギリスに渡り、ロキシーミュージックと対等に渡りあったというツアーの時の写真でしょうか。

イギリスの古い街並みに溶け込む加藤和彦。余裕の笑顔。

音なんて聴かなくてもこの写真だけで「あーちゃんと日本にも面白いロックがある」ということを伝えてくれたのだな、と思いましたよ。

 この時の話は、様々なメディアがこのコンサートツアーを取り上げていましたが、いまいち詳細に欠けておりました。今のようにSNSもありませんから、具体的ではなく、「ツアーの最後の方ではロキシーミュージックより声援が多かった」などという記事が多く、どのような規模で行われていたのかもわからずじまいで、当時の日本の音楽雑誌でさえも大きく取り上げていませんでした。なぜなら、わからないから。せいぜい、イギリスの大衆タブロイド誌であるデイリーミラーに掲載されたのだから、現地では話題になっていたことは間違いないだろう・・・的なもんです。

 今のメディア構成で当時の活躍があったら扱いは全然違う気がしますね。

 

 サディスティック・ミカ・バンドは、実力も技術もあるミュージシャンを入れ替えながら加藤とミカが中心になり、突き進みました。しかし、名盤『黒船』(1973)の制作時にプロデューサーとして迎えたクリス・トーマスとミカが不倫関係に陥り、あっけなくバンドは解散の道を選びます。

しかし、ロキシーミュージックとのツアーは決定事項であり、2人は仮面夫婦を装いながらもツアーをこなしました。そして、イギリスツアーが終了し、帰国後、正式に離婚手続きをとりバンドは解散しました。

このような事情は1996年にミカが執筆した「ラブ&キッス英国-イギリスは暮らしの達人」を読んだからわかったことで、当時の情報は「ミュージック・ライフ」誌に《あれあれ、トノバンとミカが離婚!バンド解散だって!》みたいなノリで書かれていただけでしたから、高校時代にその情報を見た私(離婚から5年くらい経っている)は「なんだか、つまらねぇの!結局、女とバンドやると最後はケンカして解散だろ、ビートルズだって女が入ってきたから解散したようなもんだろ、だから面倒臭ぇんだよ、女が入ってくると!」なんて憤りを感じていたことは今思うと笑える話です。ま、童貞には分からない話です。

 

私が聴き始めた頃は既にバンドは解散していたわけですが、彼らのオリジナリティー溢れる作品は私の心をわしづかみにしました。なぜなら、加藤和彦という存在を知った瞬間から、他のミュージシャンが霞んで見えてしまったからです。

加藤和彦の音楽性、パロディーセンスや立ち振る舞いは他の日本のミュージシャンの次元ではなかった様に思います。

ちょうどその頃の他のミュージシャンといったら、北海道の“めぐる季節”は「テレビに出ない!」なんて息巻いていたし、大阪の“チャンピオン”はハンド・イン・ハンドだし、長崎の“バイオリン弾き”は「海は死にますか、山は死にますか」なんて呪文を唱えている始末。コンサートでバスタオルを肩に掛けて唾を飛ばしながら叫んでいる広島の“リーゼント”は、少しは大人になろうと思ったのか何故か独りでアメリカに旅立ってしまった。応援していたツッパリ兄ちゃん達は呆気にとられていたものです。そんな混沌とした日本の軽音楽界で加藤和彦はやっぱり異質でありました。

1960年代後半、雑誌「MEN’S CLUB」での呼びかけ(音楽誌ではなくファッション誌というところが違うね)により結成されたザ・フォーク・クルセダーズの「帰ってきたヨッパライ」から始まり、髪の毛を七色に染めてブギーを踊るミカ・バンド。バンド解散後は早々に次の伴侶である安井かずみと組みアメリカに渡り、マッスル・ショールズ・サウンド・スタジオで、ジミー・ジョンソンやバリー・ベケット、ロジャー・ホーキンス、デヴィッド・フッドらとレコーディングをし、「シンガプーラ」(1976)を共作。

この振れ幅の広さ・・・すべて加藤和彦のセンスであります。ロンドンからアメリカのコアまで。この柔軟な対応力は加藤和彦の一番のパワーであると確信します。なぜなら、この作品の3年後にはバハマ~ベルリン~パリと音楽性をカメレオンの様に変え、名盤を残していくからであります。

 サディスティック・ミカ・バンドのロンドン公演のアルバムの感想は、高校時代に聴いた時は、先駆者としての足跡を残したという証という意味で妙な感動を憶えましたが、今聴きなおすと演奏自体の出来は、決して良いものではなかったかもしれません。加藤のギターがバンドを下支えしているのはわかりますが、いかんせん音響設備も今と比べると稚拙なものであります。加えてこのアルバムの音源はソニーのカセット(デンスケ)の1発のマイクで録音したもので、そもそも記録用であったものをリリースしたと知りました。だからかもしれませんが、テンションは落ちます。また、後にわかったことですが、このバンドは音だけ聴いていても魅力は半減するのだと。彼らはビジュアルにも気を使っていましたからね・・・。

しかし、当時27歳で最年長である加藤和彦を筆頭にミカ、高中正義、高橋幸宏、今井裕、後藤次利の若さみなぎる演奏を目の当たりにしたイギリスの若者は、心をわしづかみにされたに違いないでしょう。

「黒船」によってロックミュージックが海を渡って日本に伝わり、そのロックミュージックは加藤により形を変えてロックミュージックの国で演奏されたわけです。

 私も今、聴きなおしてみて思いましたが、感慨に耽るより、当時、ティーンエイジャーで彼らの生演奏を聴いてみたかったですね。もちろんロンドンで。

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2018年4月4日

花形


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# by yyra87gata | 2018-04-04 12:25 | アルバムレビュー | Comments(0)

大杉漣さんの思い出

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 大杉漣の訃報をテレビのテロップで観た時…そして、急性心不全で亡くなったと発表されたとき、私は不覚にも「自殺?」と思ってしまった。

近親者の方々からしてみたらそんなことは絶対ないという確信はあるだろうが、私はテレビドラマもバラエティも普段からそんなに観る方では無いので、大杉漣の活躍はスクリーンの中でしか知らない。だから、コミカルな役で若手アイドルとドラマに出演したり、お笑い芸人と一緒に食事の金額を当てるような彼をあまり想像することができないのだ。

 私の最近のイメージの大杉漣は北野映画に出演されている大杉漣であり、数々の邦画に出演されている彼だ。だから順調に活躍されているな、という認識もあり、そんな人が急に亡くなるなんてことは事故か自殺しかないと思ってしまったのだ。

 急性心不全という曖昧模糊とした響きの病名。原因などいくつもあるようだが実は特定されることもなく、生活習慣、ストレスという言葉で括れば全てに通じてしまう病のようだ。ここで病気の話を展開しても仮定の話しかできないので切り上げるが、私の思い描く大杉漣はそんな66歳で亡くなるようなヤワな体ではない。


 泉谷しげるは圧倒的な詩人である。エレックレコード、フォーライフレコード、ワーナーパイオニア、ポリドールとレコード会社を渡り歩き、それぞれに名盤を残してきた。しかし、名盤と商業的成功は比例しないもので、実験的な行為を好む泉谷はフォークというジャンルでは括りきれなくなりアバンギャルドな世界に突き進んでいく。ちょうど1980年代半ばのことだ。

 その頃はレコードも出せるような状況でなくなり、ポツポツとライブを開く程度。

ワーナーパイオニアは必死にプロモーションしたが、あまりにも世相を切りすぎた作品は歌というより演説に近いものがあり、そんな言葉の嵐を無機質な鈴木さえ子のシンセドラムや吉田健のベース、柴山兄弟のギターがエキゾチックになぞっていく。

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 私はそんな泉谷の作品が嫌いではなかった。歌の世界観や到底リズムに乗らない歌詞を怒鳴り続けている彼を男らしいと思っていたほどだ。

 私は大学にも行かず、宙ぶらりんな立場だった頃なので、世の中の優しい歌は全然響かず泉谷の本音の声が心に届いていたのかもしれない。

 そして、大学に入学した後、友達に誘われて行った泉谷のコンサート。1985年の横浜国大の文化祭の野外ステージでのライブだったが、そのステージはレコードで聴いていた泉谷の言葉の嵐が見事にリズムに乗って私の心にガンガン突き刺さったライブだった。

 以前のギター2本、ベース、ドラム、シンセサイザー、サックスを擁した6人のバンドで電子音の洪水の中で叫んでいた彼はそこにはおらず、シンプルにギター、ベース、ドラムという最小限の編成の中でパフォーマンスしていた。

ベース、吉田健。ドラム、友田真吾。ギター、布袋寅泰。

 とにかくこのメンバーの出すビートは泉谷の歌詞にぴったり嵌った。布袋はBOOWYがまだ商業的成功を収める前で、アルバイト感覚でバックを務めていたのかもしれないが、私はこのバンドの布袋のプレイは忘れられないくらいのインパクトがあった。出てくる音、出てくる音が理解できないくらい煌びやかだったのだ。

そして、ライブはエンディングに近づくと会場内はどんどんヒートアップし、圧死者が出るのでは無いかというほどの状況となる。人の流れが前へ前へと押し寄せる。そしてエンディングに近づき、「火の鳥」「国旗はためく下に」ではステージ後方からの火炎放射器により、ステージに押し寄せた我々の身体が吹き飛ばされるのではないかという炎が我々の顔を染めたのだ。ドラムの友田真吾なんて火傷をしていたのではないか。

 そのライブから3ヶ月後、同じメンバーで、ある劇場のこけら落としコンサートを行うことが決まった。3日連続公演。場所は地下鉄有楽町線氷川台駅(現在は副都心線)。

「転形劇場T2スタジオ」と呼ばれた場所だった。転形劇場は1960年後半、太田省吾を中心に結成された劇団で、当時の世相から寺山修司の天井桟敷、唐十郎の赤テントなど小劇場やアングラ演劇が華やかな時代から活動していた。

 活動拠点をまだ田畑が残る氷川台の牧歌的な空間に移し、その倉庫のような建物に回転舞台を組んだ劇場をオープンし、そのこけら落としの一環で泉谷しげるのコンサートが開催されたのだ。

 私は3日間通った。

席は自由だったから毎回並んで開演を待ったが、その会場係や誘導係に大杉漣がいた。彼は転形劇場の劇団員だったのだ。

口ひげを蓄え、ウルフカットのような髪型にこけた頬の彼を見つけたとき、自然と「大杉漣だ!大杉漣がなぜ、ここに居るんだ?」と口走っていた。

一緒に並んでいた彼女(家内)は、「大杉漣?誰?バンドの人?」などと言う。

 私は大杉漣をすぐに認識した。なぜなら、私は日活ロマンポルノでの彼の演技がとても好きだったからだ。日活ロマンポルノは成人映画だが、日本の裏社会の機微や東映セントラルに負けないくらいのハードボイルドな作品も多く排出していた。それこそ、大杉漣のようないぶし銀の俳優がそこかしこに居て、独特な作風を醸し出していた。そして、当然日活ロマンポルノに出演している俳優は中々テレビにも出演しないので、彼女のような発言も決しておかしくはない。しかし、そんな俳優が目の前で客の整列を促している・・・。

黒いTシャツに黒いスリムパンツ。人を寄せ付けない風貌で客を誘導している。私の近くに彼が来た時、私は意を決し、声を掛けた。「大杉漣さんですよね」。

かみそりのような表情が崩れ、「はい、そうですが・・・」彼は笑って応えてくれた。

「転形劇場T2スタジオ」は翌年も泉谷しげるの公演を行っている。因みに泉谷のその時のバックはボイス&リズム(石田長生、藤井裕、正木五郎)に変わっており、大阪のイナタイビートの泉谷が堪能できた。そしてその時も大杉漣は会場誘導を率先して行っていた。

 大杉漣が亡くなって泉谷しげるのコメントが発表された。

80年代に、大杉さん主幹の「転形劇場」のステージで、渾身の3日間ライブは今だに忘れられない。それからもズッとオイラのライブファンでいてくれて、最近もライブに来てくれててさ》、《大杉漣とは楽しいことばかりしてきたのだ急性心不全で急死なンて信じられるワケないだろ 漣さん66だろ オイラは受け入れないからな だから哀悼もしない またすぐ会おう》

実に泉谷らしい言葉である。清志郎の時も同じようなことをつぶやいていたっけ。

 私は学校も近かったこともあり、転形劇場にはその後数回足を運んでいる。

泉谷の激しいビートが木霊した劇場が一変し、その中で無言劇を演じる大杉漣。

痩せた身体の大杉漣は舞台をゆっくりと歩くだけ。そして水を飲むだけ。そんな動きから様々な自然を表現したり、男と女を表現したり・・・。

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 転形劇場は1988年に解散しているから、T2スタジオは正味3年の出来事だった。

 しかし、大杉漣を見るたびに誘導してくれていたあの姿を思い出し、笑顔で顔を崩した彼が蘇る。



2018/03/28


花形


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# by yyra87gata | 2018-03-28 08:44 | 音楽コラム | Comments(0)


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不思議なアルバムである。

タイトルはずばり『ALBUM』(1977)である。名義は松任谷由実。

荒井由実と松任谷由実の曲がランダムに並ぶ。

ユーミンとしては、松任谷正隆との結婚で荒井から松任谷に姓を変え、心機一転のアルバム『ハルジョン・ヒメジョン』(1978)でスタートを切るというシナリオもあったであろうが、いきなり出鼻をくじかれたようで、まさかのベスト盤の発表であった。

東芝EMIからの要請で渋々発表を許可したようで、発売日はまさに1977年12月25日。クリスマス商戦に乗じてか、「ユーミンの結婚記念盤」とまで宣伝されたアルバムで、大人の事情がぷんぷん匂う作品である。

そのためかユーミン自身はこのアルバムをあまり良く思っていないようで、著書「ルージュの伝言」にもそのようなことが記載されている。なんでも売上が悪かったから自分のアルバムの中で「最大の汚点」らしい。しかし、言わせて貰えば、渋々リリースした経緯もあり、本人もあまり力を入れて無かったと見受けられるので(ジャケットなんてただのレコードの写真ですから・・・しかもサンプル盤)、そんなこと書かなければいいのにと思ったけどね。

私は当時そんな事情も知らず、このアルバムを購入し愛聴していた。このアルバム『ALBUM』は(ややこしい)、荒井由実時代の曲を6曲と松任谷由実として発表された2枚のシングル盤のAB面が収録されており、予算の都合でシングル盤まで手が届かない当時中学生の私はお得感満載で購入したという記憶がある(しかし、その後シングル盤も結局揃えちゃうんだけどね)。

特に当時のシングル盤「遠い旅路」(B面「ナビゲーター」)、と「潮風にちぎれて」(B面「消灯飛行」)はこの『ALBUM』がCD化されていないので、中々陽の目を見ることが無い。

そういえば、この頃のユーミンのシングル盤は中々渋い作品が多く、CD化されていないものが多いのだ。

ESPER」(1980.3)は後のアルバム『REINCARNATION』(1983)に別テイクで収録されるがシングルヴァージョンのそれは松原正樹のギターをふんだんにフューチャーしたもので、アルバム『時の無いホテル』(1980)からこぼれたものと推察される。また、次作の「白日夢・DAYDREAM」(1980.5)は打って変わって落ち着いたヨーロピアンなミドル・オブ・ザ・ロードで、朝の番組のテーマ曲というのも頷ける作品(朝の番組ではちょっと渋すぎるかもしれんな)。

そして極めつけは、「星のルージュリアン」(1980.8)。1970年代後半から1980年代中半にかけてとにかく化粧品メーカーのタイアップを取ればみんなヒットしたという定説がある中、あまりにも渋すぎてオリコン46位というユーミンにしては不名誉な成績を残した名曲である。でも良く考えたら1980年って彼女シングルを3枚も発表してるのね。すごいパワーを感じるんだけど、みんなオリコン30位にも入らない。ユーミンは、アルバム志向といえばそれまでなんだが、レコード会社にしてみれば痛いね、こりゃ。

でも「星のルージュリアン」。これ、アタシ大好きな歌でね。こんなセンスのあるシティポップ、ユーミンじゃなければパフォーマンスできないよ、と勝手に思っていた。

ルージュリアンって言葉も聞いた事の無いワードで、ユーミンはつくづくコピーライターだなと思う。化粧品メーカーはポーラ化粧品で口紅のコマーシャルだった。

ルージュリアンの次のシングル盤は「守ってあげたい」(1981.6)だから、ここからユーミンのメガヒットアルバムの大行進が始まるんだけど、1980年までのユーミンのシングル盤・・・先ほどの『ALBUM』も含めてまとめてCD化して欲しいな。1989年にシングルCDで出た経緯はあったみたいだけど。

レコードのシングル盤は全部持っているんだけど、車で聴きたいし・・・。

とりとめのないことを書いてしまったが、ユーミンの「シングル盤でアルバム未収録&シングルヴァージョン作品集」なんて出たらすぐにポチッとする。

CDというメディアがなくなる前に形として残して欲しいのよ。ダウンロードじゃ味気ないから。


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2018年2月15日
花形





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# by yyra87gata | 2018-02-15 19:45 | アルバムレビュー | Comments(0)

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 私の好きなスプリングスティーンは「アメリカで生まれた!」と叫ぶマッチョでは無い。ニュージャージーの裏町にいる痩せこけた野良犬がちょっと卑屈な眼差しで世間を斜めに見ているような・・・。いつかは雷轟く道を辿り、約束の地で栄光の日を夢見る男。
 学校の勉強より仲間とロックンロールビートに浸り、土曜の夜にはじけることだけを考えているティーンエイジャー。

そして、野心だけをカバンに詰め込み、汗のにじんだテレキャスターを背にし、ニューヨークへと旅立つ。細身の身体は粋がって大きく見せているが、どこかおどおどしていて、目だけは野心に燃えている。そんな男だ。

70年代中盤、アメリカ、イギリスの音楽はカオスだった。ハードロック、パンク、AOR、グラムロック、ブルースなどが入り乱れ、シングルヒットで評価される音楽業界がアルバムへと目が向き、その後アルバムのメガヒットへとシフトしていくようになる。

時代はクィーンやKISS、エアロスミスといったビジュアルにも長けたロックバンドやボズ・スキャッグスやスティーリーダンといった落ち着いた趣のバンドがセールスを伸ばし始め、キャロル・キングやエルトン・ジョンといったシンガーソングライターはブームが過ぎ去り、ブラックパワーはファンクビートに乗せてソウルトレインに乗車していた。そんな入り乱れた音楽地図の中をスプリングスティーンはただストレートなロックンロールで突き進む。

そんな猛々しい8ビートのロックンロールをステージ狭しと展開していたことは、海外でのライブレポートを読む私の胸を膨らませたが、フォークロックの趣深いファーストアルバム『アズベリ・パークからの挨拶』(1973)も妙なブラスが参加し、音を厚くさせたジャージーにも聞こえるセカンドアルバム『青春の叫び』(1973)も違和感が募る。

彼のパフォーマンスを必死に感じようとするのだが、「ミュージックライフ誌」に掲載されている写真とアルバムから出る音が、上手く結びつかなかったのだ。

ライブグラビアでは、スプリングスティーンはテレキャスターをかきむしり(テレキャスではなくエスクワイヤーにエクストラ・テレキャスターのピックアップを取り付けたことは後で知るのだが)、グランドピアノの上からジャンプし、聴衆を煽る分かりやすいアクション。汗を撒き散らし、細身の身体をしならせてのけぞりながらギターをかき鳴らしている。

セカンドアルバムから約2年。

とうとうそのアルバムは姿を見せる。1975年の夏だった。

FENはカオスとなっていた。

イーグルスの「呪われた夜」、ジェファーソン・スターシップの「ミラクルズ」、エアロスミスの「ウォーク・ディス・ウェイ」、クィーンの「ボヘミアン・ラプソディー」、ウィングスの「あの娘におせっかい」がぐるぐるとヘビーローテーションしている。

そんな中にいきなりのスプリングスティーンのシンプルな8ビートが炸裂した。

『明日なき暴走』(1975)。 “BORN TO RUN”を「明日なき暴走」と題するセンス。

ガキの私はしびれた。

それはどんなヘビーメタルな音よりも生音のまる裸の音圧が響きまくり、耳障りな裏街の音だった。

まさにミュージックライフ誌でみたあのライブ写真の音だ。

しかもA面からB面へと一気に炸裂し、その暴走は39分で終了。なんと潔いことか。

ロックンロールの潔さ。駆け抜ける美しさ。

華美で、様式美のロックもいいが、このアルバムは混沌とした世界に向けてストレートな一撃をくらわした。

もちろん、ただのロックンロールで終わらないことは、このアルバムの最後に収録された「ジャングルランド」を聴けば合点がいく。9分半に及ぶこの大曲のアレンジはスプリングスティーンの同郷であるチャーリー・カレロが担当しており、自身が結成したフォー・シーズンズばりの歌心を持ったアレンジとなっている。そしてそれは、スプリングスティーンの懐の深さを物語っている。

このアルバムは1970年代中盤に見られたメガヒットアルバムの仲間入りはしなかったものの、長く愛され、未だにスプリングスティーンの代表アルバムとして推す人も多い。

そして音だけでなく、アルバムデザインも秀逸で、見開きの背表紙はサックスを吹くクラレンス・クレモンズの肩越しに寄りかかり笑みを浮かべる細身のスプリングスティーン。その格好良さといったら・・・。

やっぱりロックンローラーはマッチョじゃだめなんだよ。

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2018/1/19

花形


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# by yyra87gata | 2018-01-19 16:57 | アルバムレビュー | Comments(0)