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音楽雑文集


by yyra87gata
 
甲斐よしひろ 『翼あるもの』_d0286848_12195783.jpg
 カバーアルバムが一般化したのはいつか?
 2000年以降でいえば徳永英明の『Vocalist』(2005)のシリーズは7作を数え、中性的なハスキーヴォイスで女性ヴォーカルの楽曲をパフォーマンスしている。
 福山雅治の『The Golden Oldies』(2002)はテレビ番組「福山エンヂニヤリング」内で福山がカバーした日本の名曲をアルバム化したもの。
最近ではさだまさしのデビュー50周年を記念して『みんなのさだ』(2023)で複数のミュージシャンがさだまさしをカバーしている。トリビュートというジャンルだ。昔は亡くなったミュージシャンのトリビュートアルバムが通例だったが、最近では先程のさだまさし同様ユーミンや加山雄三など存命のミュージシャンのトリビュートアルバムも多く発表されている。

 日本で最初にオリコン1位を記録したカバーアルバムは吉田拓郎の『ぷらいべえと』(1977)である。
この作品が製作されるきっかけは、吉田拓郎が所属していたフォーライフレコードが倒産の危機にあり、制作スタッフ側から何か発表して売上を上げなければ!という中で吉田拓郎がボブ・ディランのカバーアルバム『セルフ・ポートレート』(1970)を思い出し、そのアイデアで作り上げたもの。
 新曲が当時全く用意できなかったので作曲家として書いた曲をセルフカバーしたり、風呂で良く口ずさんでいた歌をカバーしたりと急ごしらえの作品となった。しかし、これが大ヒットしフォーライフは倒産の危機を免れた。
しかし、当時カバーアルバムは今ほど世間に受け入れられるものではなかった。特にシンガーソングライターが他人の歌を歌うという事は、才能の枯渇やら安易な楽曲制作と言われたからだ。
しかし、そんなカバーアルバムが一般的でなかった時代、製作当初から「カバーアルバム」を作る企画として制作された作品が、1978年発表の甲斐よしひろ『翼あるもの』である。

 この作品は甲斐よしひろが甲斐バンド在籍中に発表され、レコーディングミュージシャンはメンフィス録音のためすべて現地のミュージシャンで行なわれた。また、レコード会社も甲斐バンドが所属している東芝EMIではなくポリドールレコードだったため、甲斐バンド解散説も出たいわくつきのアルバムである。(後に甲斐よしひろがバンドの雰囲気を変えるためにわざとポリドールとワンポイント契約までしてソロアルバムを作ったと言及した)
 このアルバムが作られた頃、甲斐よしひろはNHK-FM「サウンドストリート」のパーソナリティーを務めており、その選曲は毎週とてもユニークなラインアップだった。甲斐は日本のフォークやロックに造詣が深く、お喋り以上に選曲も楽しみなプログラムを放送していた。
だから、『翼あるもの』は放送での選曲センスで制作されたものだろうと思料する。

『翼あるもの』 ( )内は原曲のミュージシャン
Side A
1.グッド・ナイト・ベイビー(キングトーンズ)
 メンフィスのノリのファンキーなブラスで日本のドゥワップを明るく歌い上げる。
この曲が好きで中学時代に音楽の授業で弾き語りしたら先生から「もう少し学生らしい歌を歌え」と怒られた記憶がある。

2.えんじ(森山達矢)
 ザ・モッズのヴォーカリスト森山達矢の楽曲。森山のアマチュア時代の歌なので、誰の歌だかよくわからなかった。

3.10$の恋(憂歌団)
 この歌はよく番組でオンエアしていた。
所謂コールガールの歌なのだが、
「お前にゃすべての男が親戚みたいなものだから 愛しいお前に会うために ちょっとの金を わたすだけ」という歌詞が大人だなぁと中学生の私は感嘆した。

4.サルビアの花(早川義夫)
 伝説のバンドジャックスを解散し、ソロアルバム『かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう』(1969)に収録。数多くのミュージシャンにカバーされた名曲。

5.喫茶店で聞いた会話(かまやつひろし)
 シングル『四つ葉のクローバー』(1971)のB面。歌詞に3億円強奪犯のことやYOKOというワードが頻繁に出てくるところが時代を表している。

Side B
1.ユエの流れ(ザ・フォーク・クルセーダーズ)
 マリオ清原の楽曲をザ・フォーク・クルセーダーズがカバーしたものを甲斐よしひろがカバー。

2.あばずれセブン・ティーン(浜田省吾)
 アメリカンポップスな作品なのでレコーディングミュージシャンたちのノリも良い。浜田省吾が同じプロダクションだった山口百恵にこの歌を作ったがボツにされたので、浮いてしまったため、甲斐が録音させてもらった。このアルバム制作時、浜田省吾はこの歌をレコーディングしていないので、1980年のアルバム『Home Bound』でセルフカバーしている。

3.恋のバカンス(ザ・ピーナッツ)
 ここらへんのジャパン・ポップスを持ってくるセンスが素晴らしい。甲斐少年が一番多感な頃の歌。甲斐はテレビ番組「シャボン玉ホリデー」での歌は全部歌えると豪語していた。

4.マドモアゼル・ブルース(ザ・ジャガーズ)
 GSも外さないところが甲斐よしひろ。しかもザ・ジャガーズをもってくるあたり、痒い所に手が届く選曲。『翼あるもの』から出した唯一のシングル盤のA面。(B面は「ユエの流れ」)
「シルクのドレスを着せてあげたい」のリフレインは、甲斐よしひろが作ったかのような熱唱で、カバーとはこういうもの、という良い例。

5.薔薇色の人生(甲斐バンド)
 ヒットシングル『裏切りの街角』(1975)のB面。セルフカバー。君と過ごした日々が薔薇色だったと回想する歌。メンフィスの乾いたサウンドとはかけ離れたエンディング。

 このアルバムのレコーディングミュージシャンで特筆すべきは、ギターにレジー・ヤング、ドラムにラリー・ロンデンを迎えている事。プレスリーのレコーディングで有名。流石メンフィス。
そして、ハービー・マンの『メンフィス・アンダーグランド』(1969)に参加している名うてのミュージシャンが揃っている事。
 甲斐よしひろの伸びやかなハスキーヴォイスとメンフィスのミュージシャン、選曲の妙。どれを取っても納得のいくアルバムだ。
甲斐よしひろ 『翼あるもの』_d0286848_12203185.jpg

 このアルバムが発表された後、中島みゆきは『おかえりなさい』(1979)というセルフカバーアルバムを。(オリコン2位)
尾崎亜美は『POINTS』(1983)から2009年まで合計5枚のセルフカバーアルバムを。
井上陽水は『9.5カラット』(1984)でセルフカバー。155万枚売上。
竹内まりや『REQUEST』(1987)セルフカバーアルバム。4年かけてミリオンセラー。
 他にも小田和正、玉置浩二、泉谷しげる、谷村新司、さだまさし、椎名林檎などセルフカバーアルバムを発表するミュージシャンは後を絶たない。セルフカバーブームが訪れた。
 セルフカバーには2種類あり、他人に書いた曲を自分で歌うというパターンと一度自身で発表した楽曲を再録音するというパターン。
 私は前者は本人歌唱が世に出ていないのである意味新曲として受け止められるが、後者は一度発表した作品の録り直しなので、リスナーは一度その歌を受け入れている訳だから「余計なお世話」と感じてしまうのだ。初めて聴いた時の感動や思い出を勝手に書き換えないで欲しいということだ。
また、後者のセルフカバーはその時代の音に変わるので、その時は良くても変化を付けた事で色褪せるのも早い気がしてならない。ヴォーカルだけは老いた筈だし、失望する割合も大きい。そういった意味で私は後者のセルフカバー否定論者であるが、カバーアルバムは違う。カバーする人の解釈で新たな歌が生まれる。
歌を愛しているからこそのカバーであるから、元歌の作詞家や作曲家は作家冥利に尽きるだろう。
 甲斐よしひろがその楽曲にもう一つの命を授け、新たな歌を生み出しているのだ。
(因みに甲斐バンドもセルフカバーを発表しているが、それには全然興味が湧かない)

1978年の『翼あるもの』は今でも全然色褪せない新たな命を授けた作品である。

2023年11月4日
花形

# by yyra87gata | 2023-11-06 12:03 | アルバムレビュー | Comments(0)

デジタルミュージックの功罪_d0286848_15374972.jpg

エリック・クラプトンの『ビハインド・ザ・サン』(1985)のレコードに針を落とした瞬間、ぶったまげた。それまでのレイドバックしたクラプトンの音はそこになく、デジタルで処理されたディストーションサウンドのカッティングが響いたからだ。

ドラムの音も深いゲートリバーブが施され、時代の寵児となっていたプロデューサーであるフィル・コリンズの音にクラプトンが踊らされているという雰囲気だった。

また、1985年のクラプトンのワールドツアーは、バリライト(当時ジェネシスが利権を持っていたと言われている)で演出された派手派手しいステージ。それまでのブルースとロックとカントリーの音をミックスしたようなのんびりとしたステージではなく、出てくる音にコンプがかかったような音圧を感じた。レコードと共にステージも時代の音になっていた。

1985年のツアーを境にクラプトンは70年代を共に過ごしてきた彼のトレードマークだったビンテージのストラトキャスター(ブラッキー)を引退させる。1987年のツアーからはアクティブピックアップのレースセンサー仕様である新たなストラトキャスターで臨んでいる。アンプはゾルダーノ。デジタルと音圧という時代の音に対応した流れの動きだったのか。

 1980年代の音楽はシンセサイザーやドラムマシーンの進化に拍車がかかり、音楽そのものが変わっていった。

 テクノミュージックから派生したリズムマシーンが「打ち込み」や「ドラムマシーン」「シーケンサー」などと名前を変え、デジタルミュージックに変革していく。

70年代のシャウト系のヴォーカリストたちはそんな80年代の平面なデジタルな音と必死で立ち向かい、苦労したと思う。

熱の入ったヴォーカルの感情とフラットな背景の音がマッチしない違和感。汗をかきながらパフォーマンスするロックンロールが無機質なドラムマシーンとぶつかる・・・。

しかしながら、そのぶつかりが化学反応を起こし80年代の洋楽は、新しいポップスも生み出していく。

クラフトワークから始まったデジタルビートの歴史はものの5年間でデュラン・デュランやヒューマン・リーグ、フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッド、マドンナなどのスーパースターを生み出した。時代の音に乗るというのはこういう事だ。

では、日本はどうだろうか。

YMOに始まるデジタルビート。テクノミュージックなどのマーケットは別として歌謡曲やニューミュージックのアーティストのリズムがどんどんデジタルビートに変換されていく。

例えば、私の好きな吉田拓郎。

1985年の拓郎のアルバム『俺が愛した馬鹿』にはドラムがいない。ドラムマシーンが無機質なビートを刻んでいる。

また、同年に行われたオールナイトイベント「ONE LAST NIGHT inつま恋」ではドラムにゲートリバーブがかかり過ぎており、ドンシャリなリズム音が拓郎の70年代の歌にマッチしておらず、曲調が変わってしまっていた。

拓郎も以前ラジオで1985年~1990年辺りのアルバムについてほぼほぼ記憶が無く、シンセが多いアルバムだった、という印象を述べている。

時代の音に対応したものの、そのミュージシャンの音楽性に良い影響を及ぼすとは限らないのだ。

70年代を生き抜いたミュージシャンの80年代中盤の作品はみんな同じような音をしている。歌は浪花節で音はデジタルという違和感・・・。

そんな中、松任谷由実は、時代の音に上手く乗ったミュージシャンだ。

80年代のユーミンは『昨晩お会いしましょう』(1981)から全国ツアーを行なうようになり、『パールピアス』(1982)や『REINCARNATION(1983)のツアーでは、観客動員数を伸ばしていく。そして、デジタル世代の真ん中に発表された『ダイアモンドダストが消えぬまに』(1987)からは10作連続のミリオンセラーを記録する。

ユーミンのポップな曲作りや時代を切り取ったコンセプトなどヒット要因はいくつもあろうが、私はデジタルの音にユーミンの声が違和感なく溶け込んだのではないかと思料する。ユーミンの歌唱法であるノンビブラートの歌がデジタルな音に上手く呼応したのではないか。

例えば、言い方は悪いが情熱的なヴォーカル(暑苦しいヴォーカル)よりもユーミンの歌い方がマッチした・・・。

当時のドラムマシーンの機能的な部分も大きいが、テクノやニューウェイブと呼ばれたジャンルのヴォーカリストに暑苦しいヴォーカリストは皆無だったし、みんなYMOの高橋ユキヒロのように感情を殺して呟くように歌っていたヴォーカルが多かった気がする。

ユーミンはその部分を上手く表現し、彼女のヴォーカルも楽器の一部という溶け込み方で違和感なくデジタルミュージックにもマッチしたのではないか。

CDという媒体への変化もあるだろうが、デジタル世代になってからのセールスの方が桁違いに高いことは、ユーミンの普遍的な部分(曲の中身)と革新的な部分(演奏と録音)が上手くミックスされた結果なのだろう。

デジタルな音は進化する。

打ち込みのドラムは、一時期は毛嫌いされていたが、技術の発展と共にドラマーが叩くような間合いなども調整ができるようになり、今では違和感ない状態にまでなっている。

それはシンセサイザーも同様。

 今では「打ち込み」なのか実際にプレイしているか区別がつかないほど技術は向上している。リズムはおろか、技術の進歩でヴォ―カロイドなるジャンルやパソコン知識だけで作曲や演奏を行なうデジタリアンも数多く登場している。

アナログからデジタルに移行した1980年代の音楽は、明らかに色が違う。

技術の発展による芸術の変化。クラプトンや拓郎、ユーミンを例にあげたが、彼らのアルバムを横並びにした時、それぞれの音の変化や録音の変化を読み取ることができる。

心情や想いを伝えるための歌が、伝え方の違いで色合いを変えていく。それもまた現代音楽の面白さか。クラシック音楽では味わえない趣きだろう。

20231016

花形


# by yyra87gata | 2023-10-16 15:38 | 音楽コラム | Comments(0)

公開放送

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 中学や高校の頃は、ラジオ中心の生活をしており、番組にハガキを出すような少年であった。番組で読まれるように工夫を凝らして様々なネタを書く。所謂「ハガキ職人」のようなことをしていた。
 また、ラジオ番組以外では、映画の試写会、放送局主催ライブの公開生放送などの応募は常に行ない、お金を使わずにいかにエンタメを楽しむかという事に力を注いでいた。その甲斐あってか、月に2~3個は映画やコンサートを只で観覧していた。
 とりあえず「数打ちゃ当たる作戦」だから好みなど無視して応募しまくっていたので、この頃に雑食の嗜好が醸成してしまった。
 当たった公開生放送で思い出に残っているものを書いてみた。でもって、結局大人になっても応募癖は直らないんだけど…。

①    ヤンヤン歌うスタジオ
1978年5月14日 戸塚ドリームランド公開放送。(東京12チャンネル)
あのねのねのラジオで何故かテレビの公開放送の案内があり、応募。ヤンヤン歌うスタジオはメイン司会があのねのねだったからか。
当時ファンだった榊原郁恵を見る為だけに参加。「いとしのロビンフットさま」を唄う郁恵ちゃんは可愛かったなぁ。

②    モーリスフォークビレッジ
1980年6月19日 中野サンプラザホールにて公開放送。(ニッポン放送)
堀内孝雄と滝ともはるが、それぞれソロパートのコンサートを行なう。滝はモーリスのフォークギターで弾き語りをしていたが、べーやんはギブソンのハミングバードを弾いており、MCで「本当はモーリスを使わなきゃ怒られるんだけど、このギブソンがいい音しててね~」なんて呑気なことを言っていた。
2人のステージが終わったのが21時過ぎ。さて、帰ろうかと思ったところに、TBSの松宮アナウンサーが舞台に登場!なんと「ザ・ベストテン」の生中継となった。
黒柳徹子と久米宏の声が会場にこだましていた。
堀内孝雄と滝ともはるは「南回帰線」という歌をヒットさせていたので、その中継。
会場がやんややんやの大騒ぎ。私と一緒に行っていた友達もしっかりテレビに映った。

③    ヤングタウン東京 サタデーナイトカーニバル
1981年9月5日 TBSホールでの公開生放送。(TBSラジオ)
吉田拓郎と小室等がパーソナリティー。番組リスナーを集めての公開生放送。この時の内容は「ラジオデビュー」を参照してください。

ラジオデビュー|はなっちの音日記 #note 
https://note.com/fair_ixora89/n/nb37ec149caed

④    日立ミュージック・イン・ハイフォニック
1985年5月10日 ニッポン放送銀河スタジオで公開録音。(ニッポン放送)
落ち着いた大人の音楽番組という印象が強いが、ヤングジェネレーションの台頭というテーマで登場したのはデビュー間もない爆風スランプとNOBODY。双方とも熱い演奏を行なった。
特にサンプラザ中野のパフォーマンスは突き抜けており、正統派ビートポップのNOBODYが苦笑い。江川ほーじんも元気だったしなぁ・・・。
NOBODYの二人は、永ちゃんファンにしてみれば家族みたいなもんで、永ちゃんのバックメンバーから離れて好きなマージ―ビートを奏でている姿は微笑ましかった。

⑤    トップ・オブ・ジャパン
1987年1月31日 FM東京ホール公開放送。(FM東京)
1か月4週に渡りアーティストを紹介する番組。憂歌団の特集。
フォーライフレコードに移籍してアルバムを量産していた頃の憂歌団。
司会者のインタビューを挟みながらのライブ演奏だが、歌はブルース、MCはお笑いという感情がぐちゃぐちゃになる内容だった。収録終了後、内田勘太郎のビール瓶で作ったボトルネックを触らせてもらって感激していたら「(アンタ)変わってまんな~」と言われた。

⑥    おしゃべりトマト
1989年1月26日 神奈川県民ホール公開録画(テレビ神奈川)
泉谷しげるwith LOSER の「HOWLING LIVE Ⅱ」の招待券が当たったので、お袋と一緒に観覧。実はこのツアーは既に1月23日の渋谷公会堂の公演を見ていたが、招待券が後から当選してしまったのだ。
おしゃべりトマトでは、ライブの模様を収録しており、その後放送で流しているが、驚くべきことは、渋谷公会堂の時は満員だったが、神奈川県民ホールは1階の半分くらいしか埋まっていない!だから、収録された映像は殆ど客席を映していなかった。

⑦    フォークの達人
2007年8月20日 南青山MANDARA(NHK)公開録画。
斉藤哲夫。フォークが再びブームになっており、NHKもレギュラー番組として2年間フォークシンガーにスポットを当てて放映していた。
この公開録画で一番驚いたのは、斉藤哲夫が2曲だけバックバンドを付けて歌ったこと。しかもそのバンドがハードでパンキッシュなTHE NEWSというガールズバンドだったこと。THE NEWSは私も学生の頃に対バンをした経験もあり、懐かしさもあったが、斉藤哲夫の音楽性とは全く違うし、誰がコーディネートしたんだろうと首を傾げた。しかもその時のTHE NEWSのドラムはシシド・カフカだった!

⑧    オールナイトニッポン・エバーグリーン
2009年2月8日 ニッポン放送イマジンスタジオ公開録音(ニッポン放送)
加藤和彦と坂崎幸之助のユニット・和幸がゲスト。司会は斉藤安弘。
夜中の3時の番組。早起きの年寄りを狙ったプログラムだ。加藤和彦はこの放送の後、同年の10月16日に亡くなっている。目の前で楽しそうに音楽の話をし、最後には「あの素晴らしい愛をもう一度」を唄った加藤和彦が忘れられない。

まだまだあるが、きりがないね。
招待券なんて合わせたら書ききれないや。

2023年9月27日
花形

# by yyra87gata | 2023-09-29 11:04 | 音楽コラム | Comments(0)

音楽の聴き方

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 先日夕飯を食べながらテレビを見ていた。
最近のゴールデンタイムは、グルメ系か動物系かクイズ系のバラエティー番組が大半を占めており、辟易することもしばしば。ニュースを見ていても気分が悪くなる話題ばかりなので、気楽に見ることができるバラエティー番組を「ながら見」してしまう。
そんな中で、8月28日にテレビ朝日で放映していた「葉加瀬太郎が出題&解説!現役音大生が選ぶ!本当にスゴいクラシック音楽家ベスト10から出題SP」という番組は面白かった。
音大生にアンケートを取り、クラシック音楽家の人気投票をし、その音楽家にまつわるクイズが出されるというもの。
 最初はダラダラと見ており、クイズが出題するたびに食事をしながら答えていた。
私は無意識のうちに答えていたようで、音楽家とはかけ離れた出題があったとしてもブツブツと文句をいいながらも答えていた。そして、何故か音楽問題を外すことは、アタシのアイデンティティを傷つける錯覚に陥るかのように最後の方は結構真剣に答えていた。
それを横で見ていた家人は、感心したように「音楽好きだとは思っていたけど、全部正解していてすごいね~」と言う。半ば呆れていたかもしれないが。
 クイズは知識で答える部分と出題の意図を読み取る部分の二つの方向で考えると意外と正解を導くことは簡単なのだ。増してや音楽の知識は他の学問よりも多少はあると自負しているので、ほぼ100%の正解だったことに満足して食事を終えた。

 では何故音楽問題にそんなにこだわるか。
小学生から高校生まで私の音楽の成績は常に5だった。「音楽」は学生時代5以外取ったことがない唯一の教科。そんな些細なことが妙なプライドとなっていた。笑。
そして、小学2年生から習い始めたエレクトーンのお陰で、日常より音楽漬けになったことも一つの要因か。
特に覚えているのは、エレクトーンを習い始め1年後、最初の壁にぶつかる。楽譜をしっかり読み込まないとアレンジすら出来ないという事を当時のスパルタ講師に叩き込まれるのだ。10歳にも満たない子供に課題曲を普通に弾くだけでは許してくれない講師だったのだ。間違えたら手は出る足は出るといった昭和には沢山いた暴力講師だ(女だけど)。
 例えば課題曲を普通に間違えずに弾くと、つまらなそうな顔で「楽しかった?」と聞いてくる。何か工夫をして来なさい(アレンジ)、と課題を常に与えられる。すると、当然楽譜を書き直さなければならない。だから楽理を習わなければ到底追いつかないのだ。
小学3年生の夏休みはヤマハエレクトーン教室の楽理の特訓講習を受けた記憶しかない。
 エレクトーンは電子楽器でポピュラー音楽が主体であるが、楽理は当然クラシック音楽が基礎になっているので、18世紀~20世紀の音楽の変遷やらなにやらを叩きこまれる。
友達が仮面ライダーの怪人を覚えるのと同じくらいヨーロッパの音楽家やその代表曲を覚えさせられた。譜面はもとより、エレクトーンの講師はその楽曲の特徴を掴む練習をしろ、と言う。
 ポピュラー音楽を聴いていてもその特徴は何かを直ぐに探れという教え。もちろん、音楽は心で感じるものだから、最初は素直な気持ちで聞きなさいと言う。言うには言う。しかし、その次のステップは作曲家や歌い手の特徴を掴む事を叩きこまれた。
 その甲斐あってか、譜面アレルギーは無くなり、曲のアレンジについても「●●風で弾きなさい」などと言われてもまごつくことは無くなっていった。
 エレクトーンにはグレード試験があり、講師コース(グレード5級)には「カデンツ」というその場で楽譜を渡され即興で山谷を作り(アレンジ)演奏するという難題があった。もちろん試験の直前に予見室で10分間即興演奏の予見を行なう。その後、試験では予見したメロディーを2つの曲に構成し、演奏する。即興といっても適当に弾いていれば良いものではなく、テーマとなったメロディーにいかに戻れるかということも重要である。
そして、初見演奏。30秒間楽譜を見せられ、予見を行ない演奏するというもの。
 課題曲の演奏は死ぬほど練習すれば何とかなるが、即興演奏はいかに引き出しをもっているかがカギである。これを克服するために普段からの音楽の聴き方も不自然なものだったのかと今になって思う。
中学生~高校生になり、自分でレコードを購入する時でも分析癖がついているので、友達と会話にならず、言い合いになることもしばしば。友達が「聖子ちゃんっていいよな~」なんて言ってるそばから「アレンジがみんな一緒だよ。サビはすべてドミナントモーションでドッカーンっていく曲ばっかり」なんてことばかり言っていたから、みんなポカーンとしているし、最後は「お前、うるさいよ」となる。
 エレクトーンは結局講師コースまで行ったが、大学に入ってしまったので、バンド活動が忙しくなり、辞めてしまった。夏休みや冬休みといった、まとまった長い休みの時にバイトで講師をすることはあったにせよ、エレクトーン自体もどんどん進化し(私が大学の頃にデジタル化が一気に進みエレクトーンはコンピューターの塊のようになっていった)、手に負えない存在になったことも遠ざかる要因だった。

先日、物真似をテーマにしてギターの弾き語りを行なったが、物真似をするという事の根本はそのミュージシャンの特徴を掴むということなので、小さいころからの音楽の聴き方で自然と身についたスキルだったのかもしれない。
「誰々に影響を受けているからこの人の歌い方にも似ている」とか「声の出し方の特徴」なんてことは時代を俯瞰で見ると意外と簡単に答えは出る。あとはそれをどうやってデフォルメするか。別に物真似芸人になるわけではないが・・・。
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 音楽は字の如く音を楽しむものであるが、エレクトーンの鬼講師のお陰でかなり偏った音楽との触れ合いを経験した。しかし、あの講師を別に恨んではいないし、あの講師のお陰で今の自分があると思う。音楽クイズで全問正解して鼻高々というのもあの講師のお陰だ。
2023年8月31日
花形

# by yyra87gata | 2023-09-04 05:45 | 音楽コラム | Comments(0)

松尾氏と山下達郎

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今回のジャニーズ性被害問題について山下達郎という個人名が独り歩きしてしまったことを鑑み、思うところを記載したい。

まず、大前提としてジャニー喜多川氏の性加害問題についてBBCの特番やその後の被害者の証言から事実として受け止めた場合、これは絶対にあってはならないということである。アメリカ映画界でもハーヴェイ・ワインスタインのセクハラ・パワハラの問題でも広く世の中に喧伝され、その後も有名な俳優たちがその罪を暴露され俳優生命を絶たれている。

ジャニー喜多川氏の問題はデビューを餌に少年たちに襲いかかっていたことであり、この異常さをBBCが報道したことが発端となった。ジャニー喜多川氏の問題はそれまでにもフォーリーブスの故・北公次氏の暴露本「光GENJIへ」を出版し10刷の重版を数えたが、マスコミは殆ど取り上げることもせず闇へと葬った。何故か・・・。

この時点で刑事罰が及ばないものについては、資本の原理からマスコミはジャニーズ事務所に対しての忖度により何も報じなかったと思料する。

1904年(明治41年)に施行された「強姦罪」はあくまでも男性が加害者、女性が被害者と規定している。男性から男性の強姦という概念が罪として定められておらず、この改定は2017年(平成29年)の「強制性交等罪」「準強制性交等罪」の施行まで変わらなかったのである。

人道上の罪と法令上の罪がないまぜとなり、ジャニーズという日本でのトップ芸能事務所の力により事実がマスコミに出なかったと仮定するには容易いことだ。

しかし、それまでにもジャニー喜多川氏の男色の噂はあり、一般人である私も知っていたぐらいであるから、業界内では公然の事実という事も考えられる。但し、一般人である私の知る範囲はジャニーズJrが被害に遭っていたという血生臭い話ではなく、笑いのレベルでの男色だったのではないかと回想する。もちろん、ハラスメントであれば、どんなことであっても許されることではないが。

さて、202376日の松尾繁氏のツイート。

「長年業務提携契約を結んでいたスマイルカンパニーから業務提携契約解除の申し出を受け、スマイルカンパニーの稼ぎ頭で自分を業務提携に誘ってくれた山下達郎もその解除を認めている」とツイートした。

そして、その後松尾氏のブログ「松尾繁のメロウな木曜日」にて「スマイルカンパニー契約解除の全真相」と題し、長々と経緯を連ねている。

日刊ゲンダイでは毎日のように松尾氏の発言を掲載し、SNS上でも情報が交錯し、ネット住民やYouTuberも騒ぎ始めたため、山下達郎も自身のラジオレギュラー番組内で事態の説明を行った。

ここでの山下達郎の発言においても賛否は分かれたが、山下達郎自身がSNSを行っておらず、7分間の説明だけが独り歩きし、切り取り記事となってメディアを駆け巡る事態に発展。SNSの使い手である松尾氏は山下達郎の説明の一つ一つを否定しながら異論を発信した。

以上が一般人の知り得る事実。

松尾氏のブログも山下達郎のラジオでの説明も、ツイッターやYouTubeで確認できる。

ここからがネット社会の闇というか妙な集団心理というか・・・。

切り取り記事で発信するバカや妙な思い込みで山下達郎を非難するバカ、の多いこと。山下達郎を糾弾しておけば正義と言わんばかりに。

今回のこの騒動の私の意見は、松尾氏のツイッターに「山下達郎の名前」を出したこと。これが全ての始まりであり、悪の根源。

松尾氏はブログ内でもこの自身のツイートは弁護士の確認を取って出したと記載していたが、弁護士に確認すれば何でもいいのか、ということ。

そして何故山下達郎の名前を出したかというと、松尾氏と山下達郎の両者を知る人がこのツイートを見て当然抱くであろう疑問に予め答える為と記載されている。何のことやら・・・このブログの一文を見て松尾氏は自分に酔ってる、と思ったのは私だけか。

なぜなら、不特定多数の一般人も見ることができるツイッターというSNSで松尾氏が山下達郎の名前を出した理由はどう見ても世間に問うているように見えるからである。

山下達郎という憧れのミュージシャンと音楽の話で意気投合し、仕事も一緒に行うようになり、コンサートパンフレットの一文も任された関係。それが自分の正義と思って発したジャニーズ問題が発端となりスマイルカンパニーとの業務提携解除。山下達郎もその解除を認めたと発信。松尾氏からしてみたらスマイルカンパニーとジャニーズ事務所の関連やその影響力はわからなかったのだろうが、まさに青天の霹靂だったのだろう。

スマイルカンパニーの社長に泣きながら説得された後、双方の弁護士立ち合いのもと業務提携解消。

 山下達郎の名前をツイートに出したことが、ここまで大きな問題になると松尾氏は予想していたかどうかわからないが、結果的には修復不可能な間柄になったのではないか。

そして、双方の弁護士が合意した業務提携解消という一般人では知らなくても良い情報を公に出したこと。松尾氏が業務提携解消について異議を申し立て、訴訟を起こすというなら話は別だが、解消後にわざわざ山下達郎の名前を出して大きな話題としたところに常識を逸した行為と私は見る。

 もし、ここで山下達郎をスケープゴートとして立てたのであれば、相当狡猾な人という印象だ。

 山下達郎のラジオでの説明は、性加害という事については絶対あってはならない事、と明言している。但し、その被害内容については自分のあずかり知らぬところというスタンス。自分は音楽を作ることを生業とし、そのような行為が行われていたことは知らなかったと言っている。当然一般人の私同様、噂レベルでは知っていたかもしれないが、ラジオでは知らないという事を表明している。

 「知らない」と「知っていて黙っている」は大違い。

また、この性加害の問題についてノンポリを通す人がいるならば、それは中立ではなく、既存権力の追認であることを覚えておかなければならないだろう。

山下達郎は「知らない」と言ったが、世間はその言葉を吹き飛ばし、性加害について意見を言った松尾氏を支持し山下達郎を糾弾した。

 そんなこともあったからか、山下達郎のラジオでの説明は「悪いことは悪い」と言った後、ジャニー喜多川の功績やジャニーズのタレントの素晴らしさを訴える。罪と芸は別物という考え方であり、ジャニーズに忖度などしているというのは根拠の無い憶測であると言い放った。そしてここで再度「繰り返しますが、性加害を容認しているものではない」と話した。

最後に「それでも私がジャニーズに忖度しているというなら、きっとそういう方々には私の音楽は不要でしょう」と締めたのだ。

本来ならば音楽専門の番組内で話す内容では無い。それを聞きかじりのネット住民や日刊ゲンダイや原稿代を稼ぎたいライター達がくだらない憶測記事を出すに至り、そんな声が本人に届いたかどうかはわからないが、山下達郎も江戸っ子のノリで最後の言葉を言い放ったのだろう。

この一言に世間は大きく反応した。

 そもそも、山下達郎の音楽性は一般大衆に受け入れられるものではなかったが、1980年にブレイクし、いつの間にか日本のポップス界の中心に添えられるものとなった。しかし、山下達郎自身は拘りの塊で、CDにしろコンサートにしろ、しっかりとした不文律があるミュージシャンである。ミュージシャンの中でも頑固な部類に入る人だ。

それをネット住民が今回のことで「発言にがっかりした」「ファンを辞める」「CDを捨てる」などと書き込み、それが可視化することで気にも留めていない人の目に晒されることにも繋がった。本質もつかめないまま進んでいくこのネットの流れは、この1か月の動きをみて私は気分が悪くなるのを通り越して恐怖にすら感じてしまった。

山下達郎は業務提携解消を認めたから糾弾されているの?

ラジオで余計な一言を最後に言い放ったから、不買運動が起きるの?

山下達郎にみんなは何を求めているんだ?公正な裁判官かい?清廉潔白な理解のあるおじさんかい?

ネットの便所の落書きみたいな記事を信じて、さも自分が裁判官になったようにブログを書くバカが多過ぎはしないかい。

何も成し得ていないバカほど人のことが気になって、正論ぶるのではないかい。

今回のこの騒ぎの中、私は山下達郎のコンサートを観た。

冒頭の挨拶で

「今、何かと世間を騒がせております。しかし、コンサートは全然関係ありませんから!最後まで楽しんでいってください!」のコメントだけ。

それからの3時間は、70歳のミュージシャンの精一杯のパフォーマンスを堪能した。マイクを通さぬ生声で3階の座席まで響かせる歌声はミュージシャンの至宝である。

 片や松尾氏はそれからも山下達郎の名前を出し、ツイートをくり返す。

松尾氏自身も2017年にジャニーズWESTのプロデュースをしているのだから、当時からその噂を知っていたのではないのか。知らないと言うなら山下達郎の気持ちはわかるはずだし、知っていたのなら罪はもっと重くなるだろう。

日本の大作曲家服部良一の次男も性加害の被害者を表明。調査が進めば、これからも被害者は声を上げるだろう。加害者であるジャニー喜多川氏が死亡している事や2017年以前の法令は適用できないと仮定するなら、どのような落としどころになるかはわからないが、少なくとも、今回の山下達郎は、松尾氏の言いがかりに付き合っただけという気がしてならない。

 業務提携契約解消の話は本来なら会社間でやってくれ。その後、松尾氏がジャニー喜多川氏の問題について先頭きってやる分には問題ないのだから。

2023728

花形


# by yyra87gata | 2023-08-03 10:01 | 音楽コラム | Comments(0)