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MTVがまだ世に出る前、ビデオ上映会という催しが渋谷や新宿のビルの一室ではしばしば開催されていた。

ツェッペリンやウッドストックのように映画作品として上映されているものではなく、そのほとんどは海外のビデオを直輸入し、50人ほどの規模の上映会であった。

その中で記憶に残っている作品に1979年の『ノーニュークス・コンサート』がある。

最近このコンサートの神がかったスプリングスティーンの出演部分がデジタルリマスターされ蘇っているニュースを耳にしたが、僕は熱いスプリングスティーンよりもジャクソン・ブラウンの方が心に残っていた。

 ちょうどこのフィルムを観た時期はジャクソン・ブラウンがニューアルバム『愛の使者』(1983)を発表した頃で、シングルヒット「誰かが彼女を見つめてる(Somebody’sBaby)」もヒットしていたこともその一因か。

そう、僕がジャクソン・ブラウンに初めて触れたのはこの頃で、名盤『レイト・フォー・ザ・スカイ』(1974)でも『孤独なランナー』(1977)でもない。それはすべて後追いだった。

 何故、『ノーニュークス・コンサート』での彼が印象的だったか。それは、ギャップ。

あの頃、美少女と呼ばれる女優がスクリーンを賑わしていた。

ブルック・シールズ、ソフィー・マルソー、ダイアン・レイン、メグ・ライアン・・・中でもフィービー・ケイツは青春映画「初体験リッチモンド・ハイ」で健康的な色気で人気が出ていた。その映画の主題歌「誰かが彼女を見つめてる(Somebody’s Baby)」をジャクソン・ブラウンが歌っており、その印象があの映画にシンクロしていたのだ。軽い8ビートを歌うシンガーを想像していたのだが、目の前の小さなスクリーンに映し出されたノーニュークス・コンサートのジャクソン・ブラウンは、ボブ・ディランのような孤高な印象ではなく、また、ブルース・スプリングスティーンまでの躍動感も感じられない。しかし、歌の一節一節が心に刺さるような感覚に陥る。軽く歌っていた「Somebody’s Baby」は何だったのか・・・。

その足でニューアルバムの『愛の使者』を購入。サウンド的には明るい歌も、ロックンロールも収録されていたが、歌の本質として当時のレーガン政権を揶揄した作品と知ったのは、次作の『ライヴズ・イン・ザ・バランス』(1986)を発表した時、本人がインタビューに答えていた時だった。

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「『愛の使者』にも政治的な歌はあった。米ソの問題に対する人々の態度を皮肉ったつもりだったが、殆どの人に気づいてもらえなかった。それで、みんなにわかってもらうためには皮肉ではだめだ。もっと直接的な言葉で歌わなければ・・・」

ノーニュークス・コンサートは文字通り反核の運動である。ジャクソン・ブラウンはジョン・ホールやグラハム・ナッシュと共に運動を進めていく。時に原発反対のデモに参加して2回逮捕されたとも伝えられた。こうした行動から生まれた『愛の使者』であったが、不完全燃焼に終わり次作へと引き継がれていく。

『ライヴズ・イン・ザ・バランス』はアルバムジャケットからして問題をはらんでいた。

アメリカの象徴である自由の女神が何本もの線に囲まれている。それは補修工事のようであるし、檻のようにも見える。

ジャクソン・ブラウンはわかりやすい提示をしたのだ。かつてのゴールデンエラのアメリカはそこには無く、原発、移民、中米への関与・・・確実に病んでいると。

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1987114日新宿厚生年金ホールでのジャクソン・ブラウン。

「フォー・アメリカ」(『ライヴズ・イン・ザ・バランス』1曲目収録)の後に「プリテンダー」を歌った。そして、MCでは、

「アメリカのために生きてきたと歌ったが、それはある意味真実で、そういう風に育てられた。しかし、大統領が先頭に立って真実を隠そうとする今・・・少し前に作ったプリテンダー・・・つまり、何か偽りのふりをしながら生きていくということに、疑問を持つことになった。それはあくまでも個人的なプリテンダー※だったはずが、いつの間にか生活の中でのプリテンダーになっている危機感を感じたのだ・・・」と訥々と話していた。

「個人的なプリテンダー」とは1976年当時最愛の妻を亡くし残された子供とこれからどう生きていくかを歌にした。「プリテンダー」の歌詞にはミュージシャンという詐称者(プリテンダー)として子供と生きていく、といった内省的な歌詞になっている。)

 青春映画「初体験リッチモンド・ハイ」のテーマソングで知ったジャクソン・ブラウンだが、知れば知るほど言葉を大事に紡ぐ「詩人」であることが分かった瞬間だった。

耳障りの良いサウンドで落ち着いたバラードが心地よいジャクソン・ブラウンだが、歌詞は年を経るごとにシンプルになり、過激にもなる。

『ライヴズ・イン・ザ・バランス』の次作の『ワールド・イン・モーション』(1989)も政治色が強い作品。

普遍的な愛のアルバムは『アイム・アライブ』(1993)まで待つことになる。

「誰かが彼女を見つめてる(Somebody’sBaby)」から10年。

彼の作品の中ではあまり目立たない『愛の使者』と『ライヴズ・イン・ザ・バランス』の思い出。

そういえば、新宿厚生年金でコンサートを観た帰り、ジャクソン・ブラウンのバックミュージシャンが同じギター(ESP製)を使っていたから嬉しくなって早く家に帰って弾こうと思っていたら、焦っていたのかバイクでこけて骨折したんだった。

結局ギター弾けなかった・・・。それも思い出。

20211012

花形


# by yyra87gata | 2021-10-12 19:22 | 音楽コラム | Comments(0)
レッド・ツェッペリン 狂熱のライブ_d0286848_18134828.jpg

友達のMが待ち合わせ時間に30分も遅刻してくるものだから、僕たちは飯田橋の駅から全速力で映画館に向かって走った。息が上がり、ふらふらになりながらチケットを買ったときはもうすでに上映時間を3分ほど過ぎていた。

重い映画館の扉を開けると、暗闇の向こうに上映の明かりが見えた。

目を暗闇に慣らしながら空いている席を探す。

するとM君が僕のシャツを引っ張りながら「おい、間違えてないか?」と画面の方を見て言った。

僕たちは「レッド・ツェッペリン 狂熱のライブ」と「ウッドストック・愛と平和の3日間」を観に来たはずなのだ。しかし、画面には音楽映画の雰囲気は無く、クラッシックカーから降りてくるマフィアのような大男。

「あれー!間違えて入ったか?もしかしたら地下の方の映画館だっけ・・・ギンレイホールは地下にも映画館があるから、そっちかぁ~?」なんて小声でいいながら2人はロビーに戻って来てしまった。そして、モギリのおじさんに尋ねた。

「すいません。ツェッペリンを観に来たんですが、映画館、間違えちゃってますか?」

すると、おじさんは、

「いーえ。今上映している作品はツェッペリンですよ。ほら、早く入って入って」と急かされてしまう僕ら。

首を傾げながら2人は再び映画館の中に・・・。

すると、さっきの大男がマシンガンをぶっ放した!撃たれた男の首が取れ、緑色の血が噴き出る・・・B級映画のアクションシーンにも劣る演出。これが、ツェッペリン?

そう、とんだ茶番の演出から「レッド・ツェッペリン 狂熱のライブ」は始まる。

この映画、ニューヨーク、マジソン・スクエア・ガーデンの3日間の公演の模様を捉えているが、映画にするには出来が悪く、2時間強の演奏シーンしか使えなかったという有様。映画作りの素材どりの時点でとてもアバウトだったようだ。そしてもう一つこの映画を難解にしているもの・・・。

それは、もともとただの音楽記録映画を作ろうとは思っていなかったようで、メンバーの内面をフィクション仕立ての映像にしてメンバー自身が表現するシーンを作ること。

ジョン・ポール・ジョーンズはツアーやライブでのアクティブな部分と穏やかな家庭人との2重人格的な表現。

ロバート・プラントはケルト神話に出てくる王子様キャラクター。

ジミー・ペイジは、タロットカードの隠者に翻弄される男。一気に歳をとってしまう男。

ジョン・ホーナムは破天荒な趣味と家族を愛するありのままの姿・・・。

そして、映画冒頭の大男はプロデューサーのピーター・グラント、そしてツアーマネージャーのリチャード・コール。この2人が敵対するギャング(海賊盤業者)を殺戮していくという演出であると知ったのはずっと後年になってからのことであった。

 1976年公開のこの映画。

当時の音楽専門誌などを見るとかなり評判が悪い。また、この映画のサウンドトラック盤として発表された『永遠の詩(狂熱のライブ)』の渋谷陽一のライナーノーツには辛辣な言葉が並べられていた。

何故1976年の今、1973年のライブなんだ!

新しいアルバム『プレゼンス』が発表されているのだから、そのプロモーションから考えてみてもぼやけてしまわないか!

途中に入る演劇部分は果たして必要なのか!などなど。

ツェッペリンフリークの渋谷陽一が言っているのだから、本当に良くない映画なのかな、などと思う高校生の僕。

そんな大人の意見を受けながらも、当時はミュージックビデオも無い時代で映像は映画館に観に行くことしかできなかった。であれば、何度も何度も通ってツェッペリンワールドに浸り頭の中に焼き付けるしかない。カッコイイと思う反面、ジミー・ペイジは本当に上手いのかなぁなんて感じの繰り返し。

しかし、今思うと、2003年に2枚組公式DVDが発表されるまで、この演劇と演奏の合体した映画がステージのツェッペリンを観ることができる公式作品だったことは驚きなのだ。

(稀に『スーパーセッション』での「幻惑されて」や初期PVの「コミュニケーション・ブレイクダウン」などあるが・・・)

そして、ライブ盤に至ってはサウンドトラック盤として発表された『永遠の詩(狂熱のライブ)』が公式ライブ盤としての認識となり、それ以降は1997年に発表された『BBCライブ』まで待つことになる。

映像作品も音源も4人が揃っていた頃は「狂熱のライブ」しかない、ということ。

これってどういうことなんだろう。

金にうるさいピーター・グラントがもっとライブ盤や映像作品で儲けようと思わなかったのか、と素直に思う。

キーマンはジミー・ペイジなのだろうけど、相当ライブには神経質だったらしい。日本に来ても海賊盤屋に入り浸りでツェッペリンの海賊盤を買い占めていったなんて噂もある。

2度目だけど、これってどういうことなんだろうね。

「狂熱のライブ」はDVDを購入したので家でよく観る。2003年のDVDよりも「狂熱のライブ」の方を多く観てしまう。変な演劇が入っていても観てしまう。これはつまり、ティーンエイジャーの頃の感受性豊かな時期に体感した「音」と「映像」がしっくりくるということなのか。

「狂熱のライブ」を映画作品として観ると、レッド・ツェッペリンというバンドをぼんやりと表現した感じ。イギリスのロックバンドがアメリカ公演を行い、なんだかいろいろな事件があって、最後は売上金を取られて専用機でのほほんと帰るって話だからね。

しかし、音楽好きのロック好きであれば、演奏シーンのカッコよさはピカイチ。手足の長いジミー・ペイジやギリシャ神話に出てきそうな半裸のロバート・プラント。ひたむきなジョン・ポール・ジョーンズのプレイやワイルドなプレイのボンゾなど、シーン毎がそれぞれ名場面だ。本当に何度も見直してしまう。

 

 ギンレイホールはまだまだ健在の名画座。地下の映画館は成人映画専門館だったが、今はもう無い。

 音楽映画は、本当は映画館で観るものだ。DVDで満足してはいけない。

閉ざされた空間で2時間集中してハードロックに浸かること。この醍醐味を感じることができた作品だから、演出内容はともかく未だにベストな作品として僕の心にあるのだ。

 こういう音楽映画・・・たまには映画館で観たいもんだ。

 ツェッペリンもマッカートニーもウッドストックもザ・バンドもレット・イット・ビーも・・・。

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2021914

花形


# by yyra87gata | 2021-09-14 18:15 | 映画 | Comments(0)

映画「サマー・オブ・ソウル」(あるいは、革命がテレビ放映されなかった時)_d0286848_09092039.jpg

SUMMER OF SOUL (OR,WHENTHE REVOLUTION COULD NOT BE TELEVISED)

邦題「サマー・オブ・ソウル(あるいは、革命がテレビ放映されなかった時)」

多様性の時代、人権、差別、LGBTQなど様々な問題が一気に溢れ、時代は確実に変わろうとしている。

オリンピックや戦争など大きな出来事には必ずこれらの事柄は取り上げられ、年を経る中で社会問題として大きくなり、現在に至っている。

特に最近はテレビよりもSNSによる秒速の発信がそのスピード感を上げ、ともするとこれらの問題を一瞬にして過去のものとしたり、もしくは問題を軽視した場合の見返りの方が高くつく世の中になってきている。

人類は平等であるし、命の重さに順番は無い。

これらに反する発言をしようものなら、今の世では直ぐに抹殺されるだろうが、ほんの数十年前までは当たり前のように命には順番があった。

いや、今でも「ブラック・ライブズ・マター」を叫ぶ黒人社会ではそれを主張するかもしれないが・・・。

この作品は1969年の夏、45万人の観客を動員した「ウッドストック・フェスティバル」と同時期に行われた「ハーレム・カルチュラル・フェスティバル」の全貌を明らかにしたものだ。

スティービー・ワンダーやBB・キングといったブラック・ミュージックのスターが集結し、のべ30万人以上の観客を動員したコンサートだが、この事実は作品タイトルにもあるように封印されたフェスティバルとなっている。

革命がテレビ放映されなかったという副題がこの時代を物語っているのだ。

同じ年に開催されたウッドストックは「愛と平和の3日間」の副題が付けられ、ヒッピーを中心としたフラワーチルドレンの集まりだが、このハーレム・カルチュラル・フェスティバルはニューヨークのハーレムを中心とした黒人主体のイベントで、「テレビ・・・」の副題のとおり黙殺されたイベントである。

作中の発言を取れば、「白人にとっては、取るに足らないただの歴史の1ページ」なのだと。

1969年は時代的にも音楽的にもそれまでの常識がどんどん崩れていき、新しい勢いが噴出した時期だ。

創作活動に疲れを見せていたイギリスの4人組は「Get Back!」と叫んだが、最後は「Let It Be」と言いながら翌年にその翼を閉じた。そのイギリスではキング・クリムゾンやイエスといった新たな音楽が産声を上げ、アメリカではプレスリーが映画界からカンバックし本格的に歌手活動を復活させる準備を整えていた。そんな1969年の夏。ウッドストックからたった160キロ離れた場所、ニューヨークのハーレムでこのイベントは開催された。

発掘された古いフィルムを観ながら、出演者や同じ時代を生きたジャーナリスト、活動家、当時の観客が熱い解説を加えていく。

その時々のシーンに合わせて当時のフィルムをオーバーラップさせるなど、きめ細かい演出が飽きさせない。

5th・ディメンションがヒットさせた「アクエリアス」の誕生秘話やグラディス・ナイトのキュートなステージ。若きスティービー・ワンダーが数々のヒット曲を持っているにも関わらず、いま変わらなければ次のステップに行けない、と鼓舞しながら歌う姿は、音楽的に良く纏められている。

片やステイプル・シンガーズやマヘリア・ジャクソンの歌うゴスペルは、神への信仰と生きる力を与えて欲しいと願う血の叫びである。観客はどれほど勇気づけられただろう。

また、ニーナ・シモンは「戦う準備はできているか!?」と客席を強烈にアジる。彼女の熱いメッセージは時代をも巻き込んで、生きる証として我々の心に突き刺さって来る。

公民権運動のアジテーションで有名なニーナ・シモンはジュリアード音楽院で学んだあとカーティス音楽学校に入校を試みたが、断られた経験を持つ(差別の疑い)。カラードと蔑まれた黒人の鬱積はこのステージでも表現者として主張する。

そして、彼女の生き様はベトナム戦争に突入しているアメリカの暗部が露呈していく速度に呼応しているかのようにブラックパワーを呼び起こしていくが、なぜかこのコンサート後にイベリアに転居し、ビートルズのカバーソングを含む2枚のアルバムを発表し音楽活動から離れてしまう。だから、このコンサートでのニーナのパフォーマンスは最後の鬼気迫るアジテーションとして刻まれているのだ。

圧巻はスライ&ザ・ファミリーストーンだ。それまでの揃いのタキシードを着て、ユニゾンのダンスをしながらコーラスをするショーケースの歌手とは別格。白人2人を含む男女混成のバンド。

「いろんな人がいていい。白も黒も黄色も緑も。それぞれが嫌ってはいけない。僕らは普通の人じゃないか!」とビートに乗せて歌うスライ。共生のメッセージは正に現代を表すバンドだった!

ウッドストックのステージでも圧倒的な存在感を魅せたスライがこのステージでも観客を興奮の坩堝に陥れている。

1960年代末期のスライを止めることは誰にもできない。

1969年は変革の年として刻まれる。

言葉の表現においてもニューヨーク・タイムズでは黒人を蔑む「ニグロ」から「ブラック」へ変わったのだそうだ。

前年にマーチン・ルサー・キング、差別撤廃を訴えていたロバート・ケネディ(ケネディ大統領の弟)を暗殺という形で失い、公民権運動は激化していく。

このフェスティバルの警備もマルコムXのブラックパンサー党が買って出ているくらいだから、白人との対立構造は想像を絶する。

この作品の監督であるアミール・クエストラブ・トンプソンは語る。

「現代のBLM運動との比較は敢えてしなかった。それをすると当時の観客を愚弄することにもなるから。しかし、そんなことをしなくても50年経った今でも変わっていないことに気づくだろう」

スティービー・ワンダーやBB・キングの若かりし姿やザ・ステイプル・シンガーズのゴスペルに魂を撃たれたた観客のパワーは画面からも熱気が伝わってくる。

このフェスティバルの5年後には、アフリカ・ザイールにてモハメド・アリ対ジョージ・フォアマンの世紀の一戦キンシャサの奇跡に先駆けて、ジェームズ・ブラウン、B・Bキングらが集った歴史的なコンサートが開催されている(映画「ソウル・パワー」)。ジェームズ・ブラウン、BB・キング、ビル・ウィザースの熱気あふれるライブシーンに加え、その裏側にも迫った貴重な映像作品だが、この作品も中々陽の目を見ることがなかった。

「サマー・オブ・ソウル」も「ソウル・パワー」もフィルムは撮られたが、発表されなかった事実は、何を示しているのか。そして、それはまだ陽の目を見ない作品もあるということなのか。

このように黙殺された音楽を知り、これを広めていくことも一つの活動になるのではないだろうか。

音楽はピュアなものである。

音楽で戦争や差別など歴史が変わった試しは、悲しいかな無い。

しかし、SNSの現代。隠し事がどんどん暴かれていく中、もしかしたら時代は変わっていくのかもしれないとこの作品を観て思った。

最後に作中の観客の印象的な一言。

イベント開催中にアポロ11号が月に到着し、インタビュアーが観客に感想を問うと

「アポロで月に人を送る金があるなら、ハーレムを助けてくれ」

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花形


# by yyra87gata | 2021-09-02 09:23 | 映画 | Comments(0)

私のMARTIN GUITAR遍歴

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私の初めてのマーチンは1980年製のD28

お茶の水のシモクラセカンドハウスで購入した。19988月のことだ。

アコースティックギターの弾き語りのバックサウンドを担う中で、ライブ活動においては取り回しのよいエレアコが常套手段であり、それまではオベイション・レジェンド1617を愛用していた。しかし、オベイションの音色はどこか人工的であり、アコースティックサウンドというよりオベイション・サウンドになってしまうことから、狭まれたサウンドという印象があった。

それならば、アコースティックギターを中学生から弾いてきて、やはり一度はマーチンかギブソンのフラットトップのギターを手にしたいという欲求が爆発し、購入に至ったのである。

そしてそのトリガーを引いたのは、拓郎や陽水のレコード、クラプトンのアンプラグドを聴いたからではなく、音楽仲間の弾くアコースティックギター(ヤマハやマーチン)の美しい響きだったのだ。間近で聴くマーチンの豊潤なサウンド。オベイションでは絶対出せない深みのある音。木が共鳴する鈴のような響きが私の心に共鳴したのだ。彼の奏でるマーチンD28の響きはアルペジオもストロークも私の心を動かした。

となると、居ても立っても居られなくなりマーチンを探す日々。

当時の現行マーチンではなく、彼のD28と同様にネックにスクエアロッドが埋め込まれた時代のモデルを探していた。

お茶の水の楽器屋を何件か探し回り、1980年製のD28を発見。表板は弾き傷がかなり多かったが、試奏した時に何本か弾いた中で一番鳴っていたもの選択。サンライズのピックアップも装着されており即戦力だったので、購入に至った。このギターは本当に良く鳴ったギターで2014年にD45を購入するためにトレードに出してしまったが、本当は残しておきたかったギターであった。ペグは1980年からシャーラ製にモデル変更となったが、このペグは非常に高性能で、狂いが殆どなかった。そこも高評価の理由。

2本目のマーチンは1979年製のD18。お茶の水Hobo’sで購入。20048月。

アコギの音をバンドサウンドの中でも埋もれないようにするにはマホガニーボディ系のアコースティックギターが必要と考えギブソンを物色していたが、J45J50もあまり良い個体を見つけることができなかった。そこで、マーチンD18である。

ギブソンとの大きな違いは胴の厚さ。わずかな胴の厚さの差でも出音の深みがこんなに違うものかと思うほどである。

 しかしこの個体は購入から1年半で3本目のマーチンへトレード。

3本目のマーチンは1978年製のD19。お茶の水Wood manで購入。20063月。

ふらっと立ち寄った楽器屋に展示されていたD19D19D18をベースに表板がサテンフィニッシュされておりD18の上位機種の位置付けで、1977年から1988年までしか生産されていなかったモデル。音もD18と比べると中音域の伸びがあった。

そして、私が生まれて初めて弾いたマーチンが小室等さんのD19だったのだ。

高校生の頃に小室等さんと吉田拓郎さんのラジオの公開生放送でいきなり弾き語りをやらされたのだが(これはこれで凄いこと!全国オンエアですぜ!)、その時に貸して頂いたギターがD19。滅多に中古市場でも出てこないそんな思い出深いギターを発見してしまったので、直ぐにD18をトレードに出して購入に至った。

 そして、しばらくはD28D19でライブやレコーディングをこなしていた。ローズウッドもマホガニーもあれば鬼に金棒というもの。

しかし、自分の好みのアコースティックサウンドというものがどんどん確立していった時に、自分の中でマホガニーサウンドは少々物足りなさを感じていたのだ。お腹にズドンと来るサウンドが欲しいと思い、D28をもう一本購入することを考え始めた。

また、音楽活動をしている相方がD35を購入したことも新たにギターを購入したいと思った理由の一つだった。

そのD35の音は素晴らしく、バランスの取れた中にもパワーもあり、非常にベストなサウンド。1973年製。

私もD35を購入しようかと思ったくらいだったが一つだけ躊躇した理由として、ネックとヘッドの間のボリュートが無いこと。そんな些細なことか?と思われるかもしれないが、D28を弾いた時に感じたあのボリュートのデザインは私の中ではマーチンの重要なアイコンになっていたのだ。

だからD19を手放す理由の一つはマホガニーボディだったこと、そして、もう一つはボリュートが無かったこと、になる。

 4本目のマーチンは1976年製のD28。お茶の水BlueGで購入。201110月。

この頃はインターネットの環境も整い始め、都内の楽器屋の在庫状況がPCで確認することが容易に出来るようになった。だから70年代のD28の在庫状況は常に頭の中に入っており、暇があれば試奏しに行くという日々。

購入したD28もネットに掲載され2時間後には訪問、購入したものだった。

1981年のD28と比べるとドンシャリ感は大きいが、高音の伸びは1976年のD28に軍配が上がるといった感じ。同じ構造のモデルでも全然キャラクターの違った音が出るところに生の楽器の面白さもあるというもの。

そして、5本目のマーチンはD45と相成る。

インターネットの普及により、簡単に在庫状況がわかるようになったことは、購買意欲が直ぐに購入に直結することもある。

ましてやマーチンプレイヤーなら一度は憧れるD45。ネット画面をじーっと眺めているとなんだか買えそうな気になって来るところがもう既に狂っている。

そう、D45なんてモデルはある程度狂っていないと購入できないもので、そんなお化けのようなモデルが一堂に4本も同じ店に登場したのだから、これに行かないでどうする!というもの。

・・・1981年のD28を泣く泣くトレードに出して1975年のD45を神保町リムショットで購入。20146月。

(このギターの購入については、当ブログの「マーチンD45」にありますのでそちらを参照願います)

https://hanatti.exblog.jp/23044768/

 現在はD451975)とD281976)の2本。ベストな状態。

他に欲しいアコギは無い。しいて言うなら、サブギター代わりに70年代のD45がもう一本あってもいいかと思う。SQネックなら近年ものでもいいかな・・・。

ネックで反っていなくて、チューニングが狂わないチューナーが付いていて、表板が波打っていなくて、フレット音痴でないもので、手ごろな価格・・・そんなのあるか!?

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花形


# by yyra87gata | 2021-08-03 16:44 | 音楽コラム | Comments(0)

客席の有名人

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コンサート会場の客席で有名人やミュージシャンを見かけると、なんだか気分が上がりませんか。

これからお目当てのミュージシャンを観るわけですが、その会場で同じコンサートを観る同胞というか・・・意外性もあったりして、うれしくなりますね。

コンサートはもう40年以上も通っているわけですが、何度かの体験をざっと記載してみましょう。


●19811212日 日本青年館 小室等

小室さんの「東京23区コンサート」の千秋楽。ゲストは東京23区の各々の会場のゲストが一堂に集まりましたからそりゃ大変なゲスト数(井上陽水、谷山浩子、吉田拓郎、さいたまんぞう、井上堯之、三上寛、舟木一夫・・・)。で、客席の真ん中あたりに松原みきさんが座って観覧していました。途中、舞台上から小室さんに話しかけられていました。


●1983520日 日本武道館 吉田拓郎

 開演前にざわざわと人だかりと共に私の座っている席(アリーナ)の5席隣に来た女性。

現拓郎夫人の森下愛子さんであります。拓郎さんはまだ前夫人の美代子さんと夫婦関係にありましたから、ま、お友達と言うことだったのでしょうね。・・・よく知りませんが。

女優さんってきれいだなぁと思いました。


●1986616日 NHKホール 井上陽水

 バンマスを大村憲司さんが勤め、村上秀一さんがドラム。「クラムチャウダー」というライブアルバムで後に発表されたコンサート。とてもシックでジャージーな陽水さんでありました。

コンサート開始前にコンサートパンフレットを購入しようとしていると大柄な黒い男が私にぶつかってきて横入り。ムッとして「ちゃんと並べよ!」って文句を言ったら、「すまんすまん。急いでいるけぇ、ホンマ・・・」とか言って握手してきたのは鮎川誠さんでありました。呆気に取られました。


●1989315日 東京ドーム 吉田拓郎

 前から2番目というベストな席。東京ドームは前年に観たクラプトンのコンサート(エルトン・ジョン、マーク・ノップラーとジョイント)以来2回目でありまして、結構ウキウキしていました。大きいなぁなどと呑気に後ろを振り返りますと、スーツ姿でロングヘアーと髭面の青山徹さんがいるではありませんか。拓郎バンドの名ギタリストが何故客席に?。同時に「では今日は誰がギターなの?」なんて感情が湧きました。

コンサートはニューアルバム『ひまわり』(1989)からの曲が多く、演奏しているギタリストも観たこともない人だったので、自分的にはあまり盛り上がらなかったですね。

青山さんを観た時、なんだか、いきなり種明かしされた気分でした。


●199036日 東京ドーム ポール・マッカートニー

 いよいよ初のポールであります。成田で捕まった時の雪辱。あの時は高校生だったからお金も無いので払い戻してしまったけど、チケットを取っておけばよかったと思う今日この頃。

さて、客席にはいろいろなミュージシャンがいました。オフコースの面々、かまやつひろしさん、ユーミンなど。


 

●1990525日 日本武道館 エコーズ

 とうとうエコーズも武道館でコンサートが開けるようになったか、と思いながら2階席へ。彼らとの出会いは彼らがデビューして学園祭巡りをしていた頃。彼らは私の大学の学園祭にも来て、中庭ステージという大きな舞台で演奏していました。どうして覚えているかと言うと、私もそのステージで演奏していて、彼らは私らのバンドの3つくらい後だったから。アラームみたいなバンドだなぁが初印象でした。その後、いろいろな絡みもあり、彼らの事務所に出入りするようになるわけで、非常に親和性が高いバンドでありました。

念の為、ヴォーカルは辻仁成さんです。

さて、武道館の2階席。のんびりと観ようかと思っていたら、端の方に大柄な黒い影。田中一郎さんです。そういえばこの頃エコーズが発表した『Eggs』(1990)でもドライブしたギターを弾いておりました。でも、田中さんが座っていた席は招待席なのか関係者席なのかわかりませんがかなり悪い席でしたね。大きな体を小さくして観ていました。


●1991425日 新宿厚生年金ホール クロスビー・スティルス&ナッシュ

 憧れの3人です。ちょっと太ってました・・・いや、だいぶデブでした。しかし、ハーモニーは流石であります。ヴィンテージギターも惜しげもなく使ってくれました。

 名曲「青い眼のジュディ」を完璧なコーラスで締めた後、やんややんやの大歓声。ひときわ高音のうるさい声が後ろから聴こえたので振り返ると、THE ALFEE3人が喜んで観ておりました。



●1999414日 青山CAY 鈴木茂&TALKAGE

鈴木茂さんが休んでいたソロ活動を再開させた辺りのライブです。TALK AGEはとても良いバンドでしたが、青山純さん(Dr)も佐藤博さん(Key)も既に鬼籍に入ってしまっています。他にベースは田中章宏さん、サイドギターには市川祥治さんが固めていて、この2人は今でもユーミンのバックバンドメンバーであります。ということで、会場には松任谷夫妻がど真ん中に座っており、いろいろと野次を飛ばしておりました。鈴木茂さんもやりづらそうでした。


●1999521日 代々木オリンピックプール globe

当時勤めていた会社が協賛していたので観に行ったライブです。飛ぶ鳥を落とす勢いの小室哲哉さんでありましたから、会場の席にもエイベックス関係の人が沢山おりました。でも、その中でも安室奈美恵さんと浜崎あゆみさんはオーラが出てましたね。


●2000712日 日本武道館  竹内まりや、SING LIKE TALKIN'CANNAのジョイント

 この頃は山下達郎バンドのバックコーラスの佐々木久美さんから席を融通して頂いておりましたので、かなり良い席で観ておりました。武道館南側1階スタンドであります。

関係者ばかり。通路を挟んだ隣のブロックには浜田省吾さん、森光子さん、滝沢秀明さんがおりました。

コンサート終了後、森光子さんは滝沢さんと腕を組んで立ち去りました。

浜省って意外と小さかった印象。


 

●2002919日 NHKホール パット・メセニー・グループ

 開演前、「はかせー、頭でかいから見えねーぞ」という野次が飛びます。私の3列後方に葉加瀬太郎さんが座っていました。葉加瀬さんはそんな野次を笑っていました。みんなも笑っていました。

 コンサート終了後、ホールに出ると葉加瀬太郎さん、やっぱり目立ちます。でかいです。頭も体も。で、私は発見したんです。葉加瀬さんに向かってまっしぐら。葉加瀬さんの横にはネイザン・イーストがいたんです。きっと友達なのでしょう。

私は“I’m glad.Shake hands please.”と口走っていました。

手を差し出すと、ネイザンは最初驚いた顔をしていましたが、直ぐにニコニコ笑って握手をしてくれました。やわらかいアンパンみたいな手でした。私は葉加瀬さんには握手を求めなかったので、おや?みたいな顔をしていましたね。


●2013115日 神奈川県民ホール 山下達郎

 山下達郎の中野サンプラザホールや大宮ソニックシティホールでのコンサートには有名人が押し寄せると言います。以前大宮で観た時はミキサーの吉田保さんをお見掛けしました。そんな中、神奈川県民ホールで意外な方をお見掛けしました。

伊勢正三さんです。多分奥様とお嬢さんと3人でいらしてましたね。開場前の混雑した待合いスペースの中で静かに佇んでおりました。

1970年代の日本のシティポップを支えてきた盟友なんでしょうね。


 つらつらと書いてしまいましたが、きっと皆さんもコンサート会場で見かけた有名人っていらっしゃいますよね。

どんなに有名なミュージシャンでも有名人でもお目当てのアーティストの前では子供のようにはしゃいでしまうのではないでしょうか。

そんな一面を見ることが出来るのも良いものですよね。

2021719

花形


# by yyra87gata | 2021-07-19 17:48 | 音楽コラム | Comments(0)