音楽雑文集


by yyra87gata

d0286848_19051555.jpg
 音楽映画はあらかた観て来ているが、どうしても観ることができない作品がいくつかある。ましてや、サウンドトラック盤は所有しているという間抜けな感じで・・・。

その一つが1978年作品『FM』である。

私は中学生当時、ミュージックライフ誌の記事でこの作品を知ったのだが、「ロスアンゼルスのFM放送局を舞台にした映画で、ゴキゲンなラインアップで我々を楽しませてくれる」と記されていたのよ。

ゴキゲンなラインアップとは・・・

2枚組みのアルバムだったが、

1枚目

1. FM

(スティーリー・ダン)

2. ナイト・ムーヴス/Night Moves

(ボブ・シーガー&ザ・シルヴァー・ブレット・バンド)

3. フライ・ライク・アン・イーグル/Fly Like An Eagle

(スティーヴ・ミラー・バンド)

4. つめたいお前/Cold As Ice

(フォリナー)

5. ブレイクダウン/Breakdown

(トム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズ)

6. バッド・マン/Bad Man

(ランディ・マイズナー)

7. 駆け足の人生/Life In The Fast Lane

(イーグルス)

8. ドゥ・イット・アゲイン/Do It Again

(スティーリー・ダン)

9. リド・シャッフル/Lido Shuffle

(ボズ・スキャッグス)

10. 宇宙の彼方へ/More Than A Feeling

(ボストン)

2枚目

1. ダイスをころがせ/Tumbling Dice(Live)

(リンダ・ロンシュタット)

2. 私はついてない/Poor Poor Pitiful Me

(リンダ・ロンシュタット)

3. リヴィングストン・サタデイ・ナイト/Livingston Saturday Night

(ジミー・バフェット)

4. ギャンブラー/There's A Place In The World For AGambler

(ダン・フォーゲルバーグ)

5. 素顔のままで/Just The Way You Are

(ビリー・ジョエル)

6. イット・キープス・ユー・ランニン/It Keeps You Runnin'

(ドゥービー・ブラザーズ)

7. きみの笑顔/Your Smiling Face

(ジェイムス・テイラー)

8. この人生に賭けて/Life's Been Good

(ジョー・ウォルシュ)

9. ウィ・ウィル・ロック・ユー/We Will Rock Yo

(クイーン)

10. FM(リプリーズ)/FM Reprise

(スティーリー・ダン)

どうです!このラインアップ!

1978年当時のベストヒットUSA状態です。

お金の無い中学生にしてみたら、こんなお得なアルバム・・・すぐに購入しました。映画も観ていないのに。ま、そのうち日本でもやるだろうな、なんて思いながらアルバムを買った記憶があります。

で・・・全然来ない。ビージーズとピーター・フランプトンがビートルズの曲を使ったゆる~いミュージカル映画『サージェント・ペッパーズ』が封切られたり、ジャズミュージカルの『ニューヨーク・ニューヨーク』や『オール・ザット・ジャズ』なんて作品もあったのに、何故かこの『FM』はいつまでたっても封切られることはなかった。涙。

だから、アルバムだけ聴いている。

このアルバム、ただのコンピレーションではありましぇん。多分、映画の中での演出があると思うのですが、リンダ・ロンシュッタットの「ダイスをころがせ」と「私はついていない」の2曲はライブ収録なのでありまして、アタシは小躍りして喜びました。レア音源でしょうが!

d0286848_19060240.jpg

タイトル曲の「FM」だってスティーリー・ダンの書き下ろしですかんね!

こりゃ、力入ったアルバムですよ、今思えば。

でも、なんで映画やらんのかね。

アメリカでこの映画を観たという人と話したことがあるんだけど、相当つまらないコメディ映画で、観るに値しないと笑いながら言ってたな~。

そんなに酷いなら、怖いもの見たさで観てみたい。

音楽は最高なんだけどね~。

2018年8月24日

花形


[PR]
# by yyra87gata | 2018-08-24 19:06 | アルバムレビュー | Comments(0)
d0286848_10044061.jpg

洋楽で女性ヴォーカルといえば、シンガーソングライターであるキャロル・キングやジョニ・ミッチェルを好んで聴き、カントリーからロックまで幅広い表現力といえばリンダ・ロンシュタットがお気に入りだった高校時代(1980~1982)の私。ついでに言うとエミルー・ハリスなんて好きだったね~、カントリー歌手なんだけどさ。

で、女性ロックヴォーカリストというと、当時は相変わらずジャニスの亡霊がつきまとっていて、ベッド・ミドラーが天性の歌の上手さを引っさげて『ローズ』(1979)なんて映画で具現化してしまったからまさにダメ押し。伝説を次世代に引き継いでしまった。

ジャニスはヴォーカリストというより生き方も含めたロックスターなんだけど、ブルースを基調としているから1980年代には重い音だったね。

そんな中で1980年代は始まっていくんだけど、マドンナやマライヤ・キャリーの流行歌は町中に溢れ、たまにスザンヌ・ベガやトレイシー・チャップマンのような朴訥な表現でアコースティックギターを鳴らしても、彼女らのメガセールスの波にかき消されてしまう。グラミー賞の常連であるパット・ベネターが叫んでも、負けじとクリッシー・ハインドはエレキギターをかき鳴らしてテレキャスターの売上に貢献するだけ。ベリンダ・カーライルやハートのウィルソン姉妹が華やかな表現で楽しませてくれたかと思うと、チャラけたやつだと思っていたシンディーが「Time after time」なんて呟くからびっくりもする。もう、一瞬のうちに時は流れ、次から次へとニュースターが入れ替わってカオスもいいところ。こんな国取り物語のような音楽地図の中に男性ヴォーカルではマイケルやスプリングスティーン、プリンスといったアメリカチームとライブエイドで見事に復活したクィーンやデュラン・デュラン、FGTHなどのイギリスチームががっぷりよつとなって、様々なロックを奏でていたのだから、ある意味面白い時代だったね。

そんなごちゃごちゃとした1980年代にロックスターのバックコーラスなどで下積み生活をし、31歳の高齢でデビューしたシェリル・クロウは1990年代に飛び出した女性ヴォーカルで一番輝いていたのではないか。

1990年代はニルバーナやオアシス、ベックといったグランジやブリットポップが台頭してきており、かたやジャミロクワイのようなダンサブルなアシッドジャズが最先端の音楽となった。そんな時に、アコースティックギターをかき鳴らしながら、脱力系のビートで日常を淡々と表現したファーストアルバム『チューズデイ・ナイト・ミュージック・クラブ』(1993)は翌年にアルバム内の「オール・アイ・ワナ・ドゥ」のヒットを生むまでじっくりじっくりセールスを伸ばした。あたかもシェリル・クロウ自身のデビューになぞらえるように・・・。そして、それは、翌年のグラミー賞で最優秀レコード賞、最優秀新人賞、最優秀女性・ポップ・ヴォーカル賞の3冠を受賞という形で実を結ばれることとなった。33歳の新人でありますな。

では、なぜ彼女が売れたのか。

この人、大学卒業して、24歳の時には1986年のマイケルのツアーのバックコーラスをやってたんだよ。コーラスガールとして来日だってしている。その後もスティービー・ワンダーとかベリンダ・カーライルとかドン・ヘンリーのバックコーラスを努めている。だから、相当音楽的に優れている人なわけだ。で、1990年にはA&Mレコードから名プロデューサー、ヒュー・パジャムの手でメジャーデビューアルバムを制作したんだけど、出来に対してシェリル・クロウは「良し」としなかったのよね。で、お蔵入り。やっぱり長いこと下積みした後での最初の1枚だから妥協したくなかったんだろうね。普通なら「あたしもとうとうメジャーデビューよ!」なんつって浮かれてしまうのだと思うけど・・・。

それとも相当酷い出来だったのかね。ま、いいか。

で、プロデューサーもお友達に代えて、『チューズデイ・・・』を作るわけだ。

まぁ、型にはまったアルバムではないし、その頃の音楽の中で彼女の得意なカントリー色も出しながら気楽に聴くことができるアルバムとして輝き続けるアルバムとなった。

そう、もともと彼女はカントリー歌手なんだよね。「アメリカの心」を大切に歌い継いで行きたいんだろうから、デビューアルバムでA&Mがヒュー・パジャムをプロデューサーにしたことが大間違いなんだよな!だってイギリス人でポリスやフィル・コリンズやデビッド・ボウイのプロデューサーであるヒュー・パジャムじゃアメリカのカントリーを扱えるわけないじゃん。フィドルの音とか「シンセで作ればいいんじゃね!」とか言いそう。知らんけど。

シェリル・クロウは2012年に良性ではあるが、脳腫瘍を患っていることを発表した。2006年には乳がんも経験している。

先日のインタビューでは昔のような破天荒な生活を改め、乳がんを患ってからは養子を2名受入れ、母として真面目に生活をしていると言う。

そして、来年にアルバムを発表すると宣言し、スティービー・ニックスやキース・リチャーズ、ドン・ヘンリー&ジョー・ウォルシュとのコラボも予定されているとのこと。

そんな豪華なアルバム、待ち遠しいことこの上ないが、彼女の口からはショッキングな言葉も・・・。

「このアルバムが最後になると思う」

引退の名言は避けているようだか、気になるところである。まだ、56歳だし!

この人、歌っているときかっこいいんだよね。ビッグネームと並んでも見劣りしないっつうか。もっともっと輝ける人だよね。ギター持ったって、ベース弾いたって様になるし。

で、病気になっちゃったんなら無理せず、片意地張らず、やりたいことをやればいいのだ。昨年発表した『ビー・マイセルフ』(2017)もデビュー時のエンジニアと一緒に作ってたみたいだし。

なんか、生き急いでいる気がするんだよね。「ニューアルバムは来年発表」なんて言わず、もっとゆっくりゆっくり作ればいいのにね。

 ファーストアルバムのリラックスした雰囲気が今の歳で出せれば、今までの生きてきた糧が音となって凄みも加わる気がするね。

d0286848_10074409.jpg



2018/08/10

花形




[PR]
# by yyra87gata | 2018-08-10 10:10 | アルバムレビュー | Comments(0)
d0286848_08463954.gif

  ミュージシャンであれば、音楽雑誌「Player」という月刊誌をご存知だろう。創刊1968年というから今年で50年を迎える歴史ある雑誌だ。創刊当初は楽器店用の専門誌だったようだが、1973年あたりから一般化され1979年からは現状の中綴じスタイルの雑誌になったそうだ。

  私は中学時代からこの雑誌を不定期ながらも講読していた。目的はギターを弾き始め、楽器の情報が欲しかったことと、それまでの「MUSIC LIFE」誌の生ぬるい記事(外タレの明星とか平凡と言われていたからね)では飽き足らなくなり、硬派な(?)海外の音楽情報を知るニュースソースとして適していたからだ。 

  写真一つ取ってみてもアイドル的な笑顔が多いMUSIC LIFE」誌と比べるとPlayer」誌のそれはロバート・メイプルソープの撮るような刺激的なモノクロ写真であったり、日本ではマイナーなミュージシャンの掲載であったりと嗜好が異なっていた。

そして何よりも大人のミュージシャン向けと感じた「Player」誌の佇まいにしびれたのだ。

 

  私が中学3年の頃、学校の中でも購読している人間が増え始めた。ギターやベースを弾き始める時期と「Player」誌の一般化がシンクロしたのだ。そしてみんな食い入るようにジェフ・ベックリッチー・ブラックモアの「フェンダー・ストラトキャスター」を見るのだ。ジミー・ペイジジョー・ウォルシュの「ギブソン・レスポールモデル」を確認するのだ。

  それまでの「MUSIC LIFE」誌は笑顔のフレディー・マーキュリーやロバート・プラント、家族サービスをしているポール・マッカートニーといった人物にフォーカスされた写真が多かったので、ミュージシャンのライブ写真が多く掲載されていた「Player」誌は我々のハートを鷲づかみにした。

そして、我々の話で盛り上がるニュースはいつも中ほどにある「わら半紙色」のBillboardの「売ります、買います、メンバー募集」の記事であった。

  ギターを弾くものであれば、当時、フェンダー、ギブソン、マーチン、オベーション、BCリッチなど海外メーカーの楽器を手に入れるためにはこのコーナーが一つの解決策とされていた。

  当時の海外ブランドへの憧れといったら今の子供たちにはわかるまい。

  ギターヘッドのブランドロゴの威光は燦然と輝く。だから、当時の国産のメーカーはフェンダーやギブソンのロゴに似せたロゴデザインを作り、潔くなかった。また、弾く側もグレコやグヤトーンなどのブランドマークにフェンダーなどのシールを貼って自己満足に浸っていたのだ。

とにかく、当時の海外メーカーのギターやベースは「流通が少ない」「価格が高い」そして、「フェンダーやギブソンはプロが使うもの」といった妙な不文律が私の周りには存在していた。

 

  当時の中古楽器市場は、今の時代のようにネットで売買できるものはなく、中古楽器専門店もほとんど存在しなかった。中古楽器は、ヤマハ本店や石橋楽器、黒澤楽器のように規模の大きな楽器屋であればごくたまに並ぶこともあったが、期待できるような品揃えではなかった。

だから、「Player」誌のBillboardのページ(「売ります」コーナー)にある楽器は写真も掲載されていない中、我々の頭の中に物凄い想像力を掻き立てる三行広告だったのだ。

 

フェン・テレ・ローズ・ブロンド・1974年・バックル傷あるがその他きれい。15万。

手渡し希望 あなたのギブソン・レスポールと交換可

東京都世田谷区中町○丁目○番 田中太郎 03-325-01××

 

ギブソン・レスポール・カスタム 黒 1972年 ゴールドパーツくすみアリ。23万。

分割可(応相談)

山梨県甲府市大手町2丁目○○ 高橋方 山田一郎 055-232-00××(夜10時まで)

 

マーチンD-28(1965)、D-18(1962)、OOO-18(1970)他にも数台あり。連絡いただければカタログ送ります。

神奈川県川崎市川崎区川中島3丁目×× 井上二郎 044-266-04××

 

  こういった個人情報丸出しの楽器販売記事が何百件も掲載されていた。我々は眼を皿のようにして電話帳のような細かい字を追いながら、ページに穴が開くまで見た。楽器個体を想像しながら金は持っていないくせに、フェンダーやギブソンが安く手に入ることだけで所有感を満たしていたのだ。

 

  高校の時、友達はこのコーナーを利用して実際にマーチンを購入したことがある。

  渋谷の駅前で売主と待ち合わせをしてその場で現金とギターを交換した。中古とはいえ、高い買い物だったので、その場でケースを開け、傷などを確かめたそうだ。先方も封筒に入った18枚の1万円札を路上で確認するという何ともアウトサイダー的な絵面で、その話を聞いたとき喫茶店にでも入らなかったのかと聞くと、それよりも早くマーチンが見たくて会ったその場で交換してしまったようだ。

  1980年当時、新品のマーチンD28は約30万円だったので、1975年製のD28を18万で購入した友人は少しでも安く買えたことで満足していた。

  それほど、中古楽器市場は成熟していなかったのだ。

 

 私の自宅には古い音楽雑誌がヤマのようにある。その中でも音楽雑誌の広告で中古楽器屋がページを割くようになるのは1980年代の後半、バブルの頃あたりからだ。それまでの音楽雑誌は楽器メーカーの広告をメインとして、新品楽器を取り扱う大規模楽器店の広告か、いかにもB級の通信販売の広告しかなかった。

それが、ある時期を境に中古楽器が写真付で掲載されるようになったのだ。それは驚くべき事件だった。

  中古品は現物しかないものであるから、その1台が売れてしまえば二度と同じものはない。雑誌に掲載するために撮影し、製本される前に売れてしまえばその固体はないはわけで、そんなリスクがあることは商売になるものなのかという疑問が当時の私の頭にあった。今でこそ、問い合わせがあれば「売れてしまったから、代わりに同程度のものも用意している」なんてことも言えるのだろうが、当時はそんなあやふやな商売で、しかも代わりとなる固体もそれほど流通していないから、トラブルが起きないのかなどと余計なことを考えたものだ。

だから「Player」誌のBillboardの記事が重要だったわけだが、この記事ものちに衰退していくことになる。


  日本のフォーク・ニューミュージックブーム。洋楽のハードロックブームは1980年あたりを境に下降の一途を辿る。フェンダーやギブソンまでもが経営の見直しを図らなければならないほど景気が落ち込んだ。特にアコースティックギターの販売低下は顕著で、マーチンやギルドは、ギター生産労働者の首切りをしたほどだ。だから、1970年代までは猫も杓子もギターを弾いていたが、みんなギターをカラオケのマイクに持ち替えた時に、必要なくなった楽器が中古市場を作ったという仮説も立てられる。中古楽器が増えればそれを買い取る店舗も増え、中古楽器の流通相場も確立してくる。

そうなると「Player」誌のBillboardは個人情報のリスクもある中、うまみが無くなって来る。

また、ネットの発達も手伝ったことで、紙面で中古楽器を扱うよりも正確で多くの情報が掲載できる販売方法へと自然と流れていった。あのわら半紙色のあのコーナーもどんどんスペースが小さくなっていった。

 

 古い雑誌を見直すとあのBillboardに目が行く。

「この人はこのギブソン・レスポールを何で売るのか・・・秋田県・・・地元の楽器屋で購入したのか・・・」「何でこの人はこんなに古い名機を何本も持っているのだろう・・・業者かな?」など何の発展もしない時間を過ごしてしまう。

  今の「Player」誌がどうなっているかわからないが、当時はそういう楽しみ方ができ、夢を見ることができた雑誌だったのだ。

 中古楽器屋ではわからないその楽器の源泉・・・使用者の想いなど。

 

  日本人の憧れであった海外ブランド楽器を一般的に広めた「Player」誌のBillboardは陰ながら日本の音楽を作り上げた一つの功労者ではないだろうか。

d0286848_08545973.gif
2018年7月19日
花形

[PR]
# by yyra87gata | 2018-07-19 08:46 | 音楽コラム | Comments(0)
d0286848_11232235.gif

    黒人奴隷が白人に隠れて労働歌としてブルーズを作り上げた歴史。

金もないから楽器も買うことができない。しかし、声は出すことができるからと、街角でアカペラを歌うドゥーワップの歴史。

エレクトリックサウンドの発達によりロックンロールをはじめとした音楽の多様化が進んだ50年代~60年代。

時代の流れにより音楽は様々な形を私たちに見せてくれた。

    1970年代初頭、ニューヨークではビートニク思想に影響を受けた詩人たちが集まり、アンダーグランドからの音楽活動が盛んとなる。

   政治や社会には無関心であり、個人の解放や浄化といった人間の根源を追及し、そのためであれば貧困もいとわないというビートニク思想を持つミュージシャンからの発信である。そこにはドラッグ、セックス、禅などの方法を用い、性別を超えた世界や人間のマイノリティーを追及したアウトプットがスコアとなり、楽曲を彩った。思想と歌は前述にもあるとおり、時代の音とされるが、まさにこのアンダーグランドからの叫びは、ザ・ローリングストーンズに代表される肥大化したロックとは一線を画す、ニューヨーク固有の音となった。

 ベルベットアンダーグランド、ストゥージズ、MC5、テレビジョン、パティ・スミス・・・。

ニューヨーク・パンクと括られるジャンルは実は広すぎて、激しいリズムの音楽性やポエトリーリーディングに代表されるような表現が目立つようだが、ビートニク思想をベースとしたならば、そのアウトプットはコマーシャリズムに相反するもの。つまり、「思想」の問題となる。

   そこに目をつけたファッション・デザイナーがいた。

 混沌としたニューヨーク。ライブハウスCBGBの中でその男は金のにおいを嗅ぎ分けた。

ロンドン出身のマルコム・マクラーレンはニューヨークに赴いた際、「ニューヨークの音」を目の当たりにしたのだ・・・。

 帰英後、自ら所有していたブティック「Let It Rock」の店名を「SEX」に変更した。

その店はもともとフィフティーズ・ファッションのブティックだったが、店名変更とともにボンデージ・ファッションが店内に埋め尽くすようになる。

ロンドンの労働者階級の叫びは金になる・・・そんな目論見から過激なファッションを施し、セックス・ピストルズを作り上げて行った。過激な男、不満を持つ男、卑しい笑いをする男を作り上げろ!売れるためなら行き過ぎた演出が必要だ。話題性を重視し、イギリスの象徴である女王陛下の写真にピンを刺すのなんて朝飯前。いかにEMIから契約金をふんだくるか。そのためには音楽性よりもジェネレーション・ギャップを作り上げていく。挙句の果ては、演奏などはできるよりもできない方が良いという始末。パンクバンドというセックス・ピストルズの虚構を作り上げたプロデューサーである。

    1980年にイギリスで公開され、その5年後日本で公開(字幕なし)、その10年後に宝島社から日本オリジナルジャケットでビデオ発売され、同年に正式公開された映画「グレイト・ロックンロール・スウィンドル」はマルコム目線のピストルズである。

映画はマルコムが語り手となり、いかにセックス・ピストルズは作り上げられたバンドであるかという内容。

そこにはモンキービジネスで笑うものは演者ではなく、ブームを作り上げたプロデューサーであるといわんばかりの内容だ。

もちろん、バンドメンバー、特にヴォーカルのジョニー・ロットンはこの作品に対し異議を唱え、2001年に「ノー・フューチャー」という作品で正式なピストルズヒストリーを発表した。

しかし、ピストルズが輝いた1977年からたった2年の出来事について、どちらの作品が面白いかといったら、私は前者の「グレイト・ロックンロール・スウィンドル」を推してしまう。

マルコム・マクラーレンという詐欺師がパンクムーブメントを作り上げたということが重要という気がするのだ。

   そもそもビートニック思想の「ニューヨークの音」は、DIYDo It Yourself)と表現され、「パンク」などという言葉ではなかった。「パンク」はマルコム・マクラーレンがでっちあげた事で、そもそもすべてにおいてポンコツで、その事象を示したものである。それがロングヘアーにロンドンブーツという前時代のロックを完全否定し、散切りヘアスタイルや安全ピン、剃刀といったファッションも合わせてロンドンで大ブームになった。そのルーツを辿るとニューヨークということになり、「ニューヨーク・パンク」などという言葉をマスコミが使い始めたに過ぎないのだ。

ピストルズ脱退時のジョニー・ロットンの言葉がそれを裏付ける。

「自分は思想的アナーキーではなく、音楽的アナーキーであった」と。

しかし、事実関係はどうであれ、「グレイト・ロックンロール・スウィンドル」でのマルコム・マクラーレンの悪徳マネージャーぶりは腹を抱えて笑うことができる。メインヴォーカルのジョニー・ロットンが脱退すれば、一般公募でヴォーカリストを募ってめちゃくちゃなオーディションを開き、結局はヴォーカルなど誰でもいいと言ってみたり、ギターのスティーブ・ジョーンズは女狂いと喧伝し、そのままの演出を施したり・・・(本人がポルノ男優のような演出を受けている)。圧巻はシド・ビシャス。彼の行動自体がマルコムの考えるピストルズそのもので、鼻血を噴出しながらベースを弾いたり、ベースを振り回しながら観客に飛び込んだり、自分の身体を刻んでぼろぼろのTシャツが赤く染まったり・・・。極めつけはハードなアレンジを施した「マイ・ウェイ」をがなりたて、最後は観客に向かって発砲する(演出)。そんなぶっとんだパフォーマンスはシドでなければできないだろう。そして彼の最期はオーバードラッグによる死亡である。

    恋人のナンシーを殺し、自分もあの世行き。現実と虚構が彼の人生を狂わせた。それは、マルコム・マクラーレンがセックス・ピストルズを作っていなかったら、シドはドラッグに溺れることはなかったか・・・いや、形を変えて伝説になっているだろう。

 

d0286848_11240244.gif

   セックス・ピストルズをバンドと思ってはいけない。

セックス・ピストルズはファッションである。

セックス・ピストルズは音楽業界への挑戦であり、ギャング集団である。

純粋に叫びたかったジョニー・ロットンは脱退後、名前を本名のジョン・ライドンとし、パブリック・イメージ・リミテッド(PIL)を結成する。もう、そこにはパンクという言葉よりニューウェーブという名前がフィットしていた。

    マルコム・マクラーレンはピストルズのメンバーに逃げられあとは、自身がマネージメントをしていたアダム・ジ・アントのバンドからメインのアダムだけを抜いて(裏切って)、自分でバウ・ワウ・ワウを結成するところも滅茶苦茶な感覚。

   ニューウェーブの波を作り上げ、ジャングルビートで一気に勝負出たところの嗅覚などは音楽家というよりクリエイターのノリなのだろう。

とにかく胡散臭い男である。

そんな楽しい「いかさま野郎」(賛辞)の作品が「グレイト・ロックンロール・スウィンドル」(偉大なロックンロール詐欺!)である。

ま、めちゃくちゃよ。

 

d0286848_11242758.gif

2018/6/19

花形


[PR]
# by yyra87gata | 2018-06-19 11:19 | アルバムレビュー | Comments(0)
d0286848_12382511.gif

    1977年秋、原田真二はフォーライフレコードからデビューした。クシャクシャのカーリーヘアにマッチしたベビーフェイスは、歌を聞くまではそれまでのアイドルと何一つ変わらぬ出で立ちであったが、彼がピアノの前でひとたび歌い出せば、今までに聴いたことの無いポップス感覚に富んだシンガーであることは誰の目にも明らかに映った。そして、それは3ヶ月連続シングル発表という奇想天外なデビュー方法も手伝い一大センセーショナルを生んだ(後述するキャロルは7ヶ月連続シングル発表というのがあるが・・・)。

原田真二の出現は、歌謡曲ではない音楽が歌謡番組に進出し始めた先駆けとなり、お茶の間に「ロック」「ニューミュージック」という言葉が認知され始めた事件であった。

    そういえば本人達の思いとは別の場所で「ロック御三家」という芸能界的な言葉も生み出されたことも日本の「ロック」の市民権に拍車をかけたことも事実だろう。

 

     原田真二は、デビューして9か月目の1978724日、デビュー1年目かつ10代で史上初めて日本武道館単独公演に臨んだ。その"SHINJI HOT SUMMER OVER IN BUDOHKAN" コンサートを中心に、直前の 静岡県“つま恋”での合宿風景や舞台裏映像等を収録した映画が『OUR SONG and all of you(ライブ・アット・武道館)』である。

映像からも読み取れるが、当時の日本武道館の存在は、ミュージシャンにとっては特別な場所であった。それは、軽音楽の世界ではビートルズが立ったあのステージに自分もいつかは立ちたいと思わせた魅力的な場所であり、日本武道館に立てるミュージシャンは選ばれし者であった。その武道館に19歳の若者が立つということだけでもセンセーショナルな出来事であったのだ。

     監督はNHKのディレクター出身でキャロル(矢沢永吉ジョニー大倉、内海利勝、ユウ岡崎)のドキュメンタリーを制作し保守的なNHKと放映に関して揉めに揉めた挙句、NHKを解雇された龍村仁。彼はその後自己資金により映画『キャロル』を完成させ1974年の公開にこぎつけている。もちろん、当時の音楽事情において「ロック」などは存在せず、革ジャン、オートバイ、エレキギターは「不良」のレッテルを貼られるもので、保守的なNHKが放映を拒んだことも十分理解ができる。瀧村は『キャロル』を日本の音楽のニューウェーブと捉え、音楽面と合わせてカルチャー面で現代の若者像を追っていった。その意味で原田真二のこの映画は、原田真二のコンサート映画というより「原田真二」という人に焦点を当てたものとなっている。

    瀧村はNHK出身の監督なだけに映画は「NHKスペシャル」のような作りである。音楽映画として見てしまうと、肝心なライブの見せ場を逃している場面も多々あるし、音響も良くない。しかし、歴史の1コマとして見れば、ぶれの多いカメラワークや恐ろしいまでに暗い画面が1970年代という歴史を物語っており、加えて配給先がATGということもドキュメンタリー臭が漂っている。

    そして、よくぞあの天才の若い時間を記録したという事実。これはやはり華美な演出より生身の音や映像のインパクトにおいて、痛烈に私たちに訴えかけてくる。


バンドメンバー・・・( )は年齢。

原田真二19) ヴォーカル、ギター、キーボード

山田秀俊(26) キーボード

青山徹(25) リードギター

ロバート・P・ブリル(21) ドラムス

関雅夫(23) ベースギター

古田たかし(20) ドラムス

19歳の原田真二を若いバンドメンバーが固める。

 

     大きな日本武道館というターゲットを自らのものにしようとするひたむきさは、何にも変え難いもので、つま恋での合宿風景でもその表情は伺うことができる。19歳の青年が年上のプロミュージシャンに対し、自分の音楽を表現してもらうために必死に世界観を訴える。原田真二の考えたアレンジを楽譜はもとより、口伝えで指示する。そこに遠慮はなく、コンポーザーとプレイヤーの関係しかない。

 あの当時、4歳も5歳も年上の人間に、しかもプロのスタジオミュージシャンに臆することなく、自分の思いを伝えていた光景。そんな天才にバックを固めるミュージシャンも演奏で応える。若いミュージシャンたちの演奏は疾走感が溢れ、日本武道館の大きさを感じさせないものとなった。

    このバンドの後に原田真二&クライシスを結成し、音楽技術的にも更に高くなっていくが、躍動感と勢いはこのバンドメンバーには適わない。

 

    最近、原田真二を聴き直す事があり、当時のフィルムを再び見た。そして、この記事を思い立ったのだが、中学生の頃に映画館で観た頃の感情にすぐ戻ることができたことに我ながら驚いた。いろいろと突っ込みどころ満載かと思いきや、そういう「うがった見方」は飛んでしまい、集中した103分であった。それは、本当に私の13歳当時の心に深く刻まれた作品なんだということの証であり、自分の中の中二病の一角を占める作品だったのだと認識した次第だ。

とにかく原田真二の大物感が半端ない作品である。

歌謡界と自分の立ち居地。賞取りレースの辞退など19歳の青年から発する言葉にしてはすでに音楽界を達観している。甘いフェイスから発する言葉は辛らつで、現実をよく見ている言葉だ。なんのためにフォーライフレコードという新しく設立されたばかりのレコード会社のオーデションを受けたのかという答えにも頷ける。

そして、それは自分がデビューするにあたり、自らの事務所を設立し、自分に集中して欲しいとリクエストする新人が今までいたろうか(今をときめく㈱アミューズは当初原田真二のために作られた企業である)。その自信も去ることながら有言実行してしまう才能は、映像から音ともに溢れ出てくるのだ。

 

   そんな映像・・・2005年にはDVDとして発売されたが即完売となり、今ではプレミアのつく作品となっている。・・・高いぞ!

リマスターして再発して欲しいなぁ。

 

2018/06/05

花形



[PR]
# by yyra87gata | 2018-06-05 12:38 | アルバムレビュー | Comments(0)