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音楽雑文集


by yyra87gata

歌を作るスタンス・・・岡林信康

 ギター1本の弾き語りは、言葉の重さが時に重圧となり、生々しくなることがある。音数が少ない分ごまかしもきかず、言葉は鋭く人の心に突き刺さる。それがラブソングであれば幸せなことだが、社会問題や政治、宗教などに触れた時、全ての人が同意するとは限らない。マスコミはその歌を「メッセージソング」「プロテストソング」という簡単な言葉で片付けてしまう傾向があり、歌の発信者は計り知れない責任を負うことも多々ある。
 1970年前後のフォークブームを作り上げた歌は、ほとんどがこの類のものだった。関西から湧き出たメッセージソングやプロテストソングは当時の社会に対する反体制のノリと考えれば話は早い。その代表が高石友也や岡林信康、中川五郎、五つの赤い風船、高田渡などである。
そしてその中でも、岡林信康はダントツの人気があった。
岡林は牧師の息子である。幼い時から毎週日曜日は教会へ通う生活だったという。
父と同じ牧師を目指すため、大学も同志社大学の神学科へ進んでいる。ここで転機が訪れる。彼は入学後、あろうことかボクシング部に入部している。神学を志す人間が人を殴るスポーツを選んだことは前代未聞で、回りからの「偏見」と戦うことになる。「偏見」ということに初めて気づかされた瞬間だったそうだ。そしてそれ以降、幼い頃からキリスト教に縛られてきた男は、その呪縛を解こうと懸命だった。人間の生き方、存在、偏見などを解明する為、行動に出た。夏休みを利用して東京の山谷に入ったのだ。この山谷体験が後々まで岡林の行き方に影響を及ぼしていることは明白だ。岡林は「生きる」ということに目覚めた。自分は今までのうのうと暮らしてきていたことに気づかされたのだ。
“教会での礼拝に出席しないことを決心した時、空から岩が落ちてくるのではないか、天罰が下るのではないかと恐れた。二十歳過ぎの男がと思うことではないが習慣とはそういうものなのだ。”と、後に語っている。

 岡林はその後、高石友也が労音で歌っていることに触発され、自分でも歌を作り始める。
「山谷ブルース」「友よ」などを発表し、時代の寵児になっていく。そして今度は歌の発信者としていろいろな偏見や異文化と戦っていくことになる。発信者としての宿命である。
「フォークの神様」として奉られ、「和製ボブ・ディラン」と揶揄され、フォークの中心に座らされた。
その代償として私生活を監視される日々が続く。岡林の一挙手一投足が、面白おかしく週刊誌に書かれる。そのマスコミの重圧や、ファンからの限りない欲望が岡林の気持ちを麻痺させていった。
そして彼は自らドロップアウトする。
ある労音のライヴ中、「下痢を治してきます」と言ったきり、脱走してしまう。1969年9月のことだ。

その時、岡林が考えたことは、ギター1本で伝えることの限界。表現しづらい言葉は、どうしたらいいのか・・・。岡林はバンドサウンドで帰ってきた。これもフォークの神様という偏見との戦いだった。
『見る前に翔べ』(1970)は、そんな岡林の叫びがロックのリズムに乗って表現されたアルバムだ。
バックミュージシャンとして「はっぴいえんど」を従え、今まで歌いづらかった歌詞をシャウトしていく。当時のライヴでのMCでも岡林は「ロックのリズムだとすんなり言い切れてしまうところが、バンドという形式は都合が良い。」と言っている。
アルバムはタイトルどおり、
“じっとしていても、考えてばかりいても、始まらないなら、ゴチャゴチャ言っている前に実行すべし”
“見つめる前に跳んでみようじゃないか。俺たちにできない事もできるさ”
岡林はニューポート・ジャズ・フェスティバルでボブ・ディランがフォークギターをエレキギターに持ち替えた時と同じように叫び始めたのだ。
日本の軽音楽の黎明期としてのフォークブームが存在するとしたら、岡林の『見る前に翔べ』はそのブームのターニングポイントとして位置づけられる名盤と確信する。

 
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 しかし、その後の岡林は、相も変らぬ芸能界と音楽界に嫌気が差し、岐阜や京都の山の中に逃げ込み、自給自足の生活を行うようになる。自ら田畑を耕し、村の寄り合いに顔を出し、以前のような「歌だけの生活」とは懸け離れた生活を送るようになる。しかし、この村の生活で養われた音楽が岡林の考察の末、彼の欲求を満たすものとなった。つまり、形式にとらわれるのではなく、やりたい音楽をやりたいようにやるだけ、ということ。そしてこの村生活から岡林は周りの人々からの影響により作品をつくることになる。そしてそれが岡林の艶歌として醸成されていった。その作品は『うつし絵』(1975)というアルバムになった。美空ひばりが感動し、自ら岡林に作曲の依頼があったという。コンサートでもお互いにゲストして呼び合う仲にまでなっている。演歌を作った岡林。でも本人はいたって自然体だった。その歌は、その時やりたかった音楽に過ぎないのだから。
岡林は言う。
「一体、誰のために歌うのだろう。僕の歌を聞いてくれた人は何を僕に求めているのだろう。」
確かに、フォークブームを作り上げた張本人であるが、それは事象として残っていることであり、彼が望んでおこなっていたわけではない。どちらかというと、奉られてしまったクチで、時代の流れに利用された被害者かもしれない。

 隠居生活(?)から舞い戻り、音楽シーンへの復活は『セレナーデ』(1978)『街はステキなカーニバル』(1979)あたりからだろう。特に1979年はSMSレコードより『フォーク復活ライブシリーズ』が発表され、中津川フォークジャンボリーや春一番コンサートなどの音源が多数発表された。もちろん岡林の音源もあり、文京区公会堂でのはっぴいえんどとのライヴや中津川フォークジャンボリーでの音源が店頭を賑わした。
また、男性化粧品資生堂「ギャッビー」のCMソングとして「GOOD BYE MY DARLING」がヒットし、「フォークの神様が復活!」といわれ、ライヴ活動を再始動していった。テレビ出演もあり流れに乗るかと思ったが、岡林はどこか吹っ切れていない自分に気づいてしまう。

「一体、誰のために歌うのだろう。僕の歌を聞いてくれた人は何を僕に求めているのだろう。」
 
歌とはそもそも何なのか。岡林はコマーシャルな音を求めてこの世界に入ったわけではない。歌いたいという欲求がそうさせただけだ。魂の叫びが彼を音楽に目覚めさせたのであれば、それがレコードにならなくとも、彼は満足なのだ。
そういう流れから、かれは日本の土着民族音楽への関心を示すようになっていく。
「エンヤトット」である。そしてそれはワールドミュージックへの広がりを見せ、最近では韓国の民族音楽とのコラボレーションを深めている。
岡林は結局マスコミや一般大衆へ近づくことはできなかった。今までの流れを辿ってみると、たまたま岡林の音に一瞬、マスメディアが触れただけで、彼の本質は変わらない。ということがわかる。

 彼のアルバムに『STORM』(1980)がある。ジャケットは岡林がボクサーに扮し、拳をかまえ、こっちを見据えている。
ベアナックル・・・裸の拳にこだわる岡林の心情は、30年以上も前に山谷に飛び込んだ時と何ら変わらないのだろう。
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2004年8月1日
花形
by yyra87gata | 2012-12-15 09:09 | 音楽コラム | Comments(0)