『ファースト・ステップ』 大村憲司
2012年 12月 21日
しかし、最近になってこのソロは茂ではないことが判明した。
軽いショックを受けたが、プレイヤーの名を聞いて納得した。大村憲司だった。
そういえば、“茂にしては音色がちょっとハードだな”とか“明らかにシングルコイルの音だけどあの頃の茂はストラトでMXRのダイナコンプとフェイザーをかけまくっていた音だったな”とか後から考えると思い当たるフシもある。うーん、複雑。
大村憲司は、もうこの世にはいない。1998年に肝臓疾患で亡くなっている。
大村は神戸の生まれ。音楽に理解のある家庭に育ち、学生時代からエレキギターのクリニックを受け(その頃からギブソンのバードランドを持っていた!ボンですよ!)、1970年にはアメリカに渡り、フィルモア・ウェストのステージに立った。その時、ドミノス時代のエリック・クラプトンと交流していたという逸話からデビュー前にして、すでに伝説的なミュージシャンになっていた。
その後、村上秀一と一緒に“赤い鳥”に参加し、アルバムを発表。ソロに転向し、ジャズに傾倒。“バンブー”“カミーノ”とフュージョンの魁となるバンドを渡り歩く。この時の演奏はジャズとロックの架け橋となる新しい音楽として、後年まで語り継がれている。
また、『ギター・ワークショップ』(1978)への参加が転機となり、一般にも名が知られるようになった。このアルバムはフュージョン・ギター中心のアルバムで、大村憲司、渡辺香津美、山岸潤史、森園勝敏といった4人のギタリストが顔を合わせている。
そして、決定的なニュースは、YMO・ワールドツアーの参加である。大村の決して派手ではないが、ツボを押さえたプレイは、1回目のワールドツアーのギタリスト渡辺香津美と比べて、YMOそのものを引き出すことに成功していたと思う。
大村のプレイは後年になるに従って、無駄な音は極力排除し、“ココ一発”の音で勝負するスタイルになっていった。
1986年頃、井上陽水のサウンドプロデューサー兼ギタリストとしてコンサートツアーに参加していたが、僕は“いつになったらソロを取るのだろう”というくらい“弾かないギター”だったことを思い出す。
最近、大村の作品が次々と再発されている。
レコード化されなかった“バンブー”や“カミーノ”の音源もCD化され、ファンにはたまらないものだろう。
僕は高校時代によく聴いた『ファースト・ステップ』(1978)を買いなおし、改めて聴いてみた。
当然30年前の音、アレンジなので時代を感じさせるところもあるが、粒のはっきりした音を出し、しっかりと主張してくる職人芸のような作品に改めて聴き惚れてしまった。
大村の最大の特徴は、曲を重視し、全体の中のギターバランスを常に考え、弾きすぎず、それでいて印象に残るフレーズを出していくというまさに職人芸である。だから、“インストもの”でも“歌もの”でも対応できるギタリストといえるのだろう。
ミュージシャンズ・ミュージシャンである大村憲司を失って8年が経つ。しかし、音楽雑誌に目を通していると毎月1回はどこかで大村の名前を見る。そのことからも彼の偉大さがわかるというものだ。
2006年5月13日
花形