音楽雑文集


by yyra87gata

長い長い私の受験記 前編

 2月は受験シーズンです。この時期はなんだか胸が詰まるのであります。
別に意図はないのですが、最近音楽を聴いていないもんで音日記にならんので、昔書いた私の受験記を掲載します。
超恥ずかしいけど事実です。
それから、すんげ~長いです。飽きたら読むのやめてください。ではでは。

受験にまつわるどーでもいい話・・・1985年2月受験

 この時期になると、受験のことを思い出します。
古くは中学受験。2月1日はXディなのです。だから、今でも2月1日になるとちょっと意識したりなんかします。
でもって、大学受験のころの話。19の頃・・・。時は1983年です。
 私は高校時代、プラプラ遊んでいたから当然大学へのお誘いもまったくありませんでした。その結果、相変わらずプラプラしていました。一応予備校なるところへの所属も考え、代々木ゼミナールの門を叩いたこともあるのですが、一体自分は何をしに“大学”なるところに行くのかということを不真面目に考えていたので、ただ単に友達と一緒の行動を取っていただけでした。
しかし、その期間も2ヶ月と持たず、6月には単独行動を取っておりました。
つまり、街を徘徊していたのですな。
家は定時に出るのですが、朝日を浴びたら、後はその日の気分です。西に笑う声あれば西に向かい、東に泣く声あれば西に向かい、北に怒声が飛び交えば西に向かい・・・って全部西ばっかりじゃねぇか!
  図書館にいくこともあれば、楽器屋を回ることもある。1日映画館で過ごすこともあれば、友達と午前中から麻雀ってことを言いたかったのよ。そんで、渋谷の道玄坂に行けば、相変わらず1960年代を引きずった兄ちゃんや姐ちゃんが紫の煙にまみれてたむろっていたし、たまに勉強でもと思って優秀な予備校生(?)の友達のコネで駿台予備校の授業に出て、落ち込んでみたり・・・って、ホント自由でしたわ。
親が教師なので漠然と自分も教師になることが親孝行なのかな、などと思い、「教育学部」を受けたこともありましたが、その前に何を教えるんだ、ということで海の底くらい考え込んでしまい、海底のその下まで落ち込みましたです。はい。

 家内とは、この頃知り合っております。私の高校時代の友達と同じ予備校だった彼女は、予備校の帰りに高津図書館(もう無くなっちゃったんだよね。寂しい限りだよ)に寄って、勉強していました。
私は勉強というより、図書館の隣にあった児童会館で小学生相手に卓球をして遊んでいました。そして、たまに息抜きにやってくる友達や彼女とも卓球をするようになりました。
そのとき、思ったんですよ。
あ、「石田えり」がいる、って。
その当時の家内は、体型からなにから、石田えりそっくりだったんですよ。んでもって、私は石田えりのファンだったわけですよ。そりゃああんた、盛り上がりますわな・・・。

 彼女は、自由が丘の予備校に通っておりました。で、たまに代々木の方にも通っていたようです。私は予備校なんて通っていなかったので、よくわからなかったのですが、彼女と過ごすために予備校デートを計画(あーなんて屈折してるんだろう)。“代々木はオレの庭だ!”くらいの勢いで彼女を案内していました。今思うとアホやねぇ~。
 出会ったのが11月くらいでしたから、受験日まで4ヶ月くらいしかありません。こんな時にステディな関係になるわけでもなく、かといって友達というのか・・・非常に微妙な関係が続いておりました。
但し、息抜きと称して(彼女は息抜きだが、私は日常)映画を見に行った事がありました。
銀座のみゆき座で単館上映していた「遠雷」という作品です。永島敏行、石田えり主演の文芸作品で、かなりきわどいラブシーンもあるものです(監督がまだポルノ撮ってた頃の根岸吉太郎だかんね)。
私は高校時代にスクリーンに穴が開くほど観た作品でした。彼女に石田えりを知って欲しかっただけなのですが、ま、こういう映画が好きな男ということを伝えたかったのかもしれません。

 それから、彼女とは妙な関係が続いていました。一緒に過ごしたい一心で、大晦日から元旦にかけての「徹夜!日本史講座」(by渋谷ゼミナール)なんてのにも参加し、初日の出をサンシャイン60まで見に行ったこともありました(なにしてんだろ・・・)。
電車に乗れば、暗記問題のクイズを出し合うことも・・・嗚呼、浪人のカップルってイヤね・・・。ま、要は真面目なお付き合いをしてたわけですよ。
 
 2月は大学の受験が集中します。彼女は英文科志望。私は・・・これといった方向性も無いまま、適当に受けていました。だってよくわかんないんだもん。

 2月の後半、久しぶりに彼女に会いました。受験報告であります。
彼女は3校くらい受かっておりました。
私は0校。結果待ちが1校。
2人の間に非常に嫌な雰囲気が漂いました。彼女はこちらに気を使いながら話をします。私はそんなことも気にせず、彼女の好きなチューリップのコンサートのチケットを渡していました。“2月28日だったら、お互い笑ってコンサートに行ける” なんて言いながら、2ヶ月前に買ったものでした。
  コンサートは渋谷公会堂でした。開演前に公会堂の前で彼女とバドミントンをしていたら、偶然にも高校時代の友達数人に会いました。
みんな大学に受かったとのこと(1浪)。
みんな口を揃えて私に「お前、大丈夫?」「そんなことしている場合かよ。」と心配の言葉を出しつつも、アホを見るように言いました。
私は、えへらえへら笑っていました。


 浪人中にカップルになると必ず男は再度浪人するという定説どおりに、私の浪人2年目が決まりました。そしてその頃、今まで黙っていた親も、いい加減痺れを切らしたのか、家族会議の席で(3人で会議はないだろう)、母親が「あなたは何がやりたいの・・・」と切り出してきたのです。
 「僕って何」や「Mの世界」「漂流記1972」などの著者、三田誠広を読み漁っていた私は、自分の存在のあやふやさを痛感しておりました。自分の不甲斐なさ、中ぶらりん感を認識していても、この先どうなるんだろう?と、ある種第三者的な立場で自分を見ていたことも事実です。いきなり「何がやりたいか」と問われても答えようが無かったのですが、得意の屁理屈でこう言った記憶があります。
「大学へは何かを学びに行きたい。とりあえず経済学部とか法学部とか、“つぶし”の利くという表現の学部には行きたくない」格好よく聞こえるけれど、具体的でないのよね。
 私の父親は高校の国語の教師です。当然、大学は文学部国文科。もっとも“つぶし”の利かない学部だったので、心配もひとしおだったのです。
「就職を考えた場合は、“つぶし”が利くということは必要だぞ・・・」と父親。

 親の心配は富士山よりも高いのであります。自分と同じ苦しみを味あわせたくないという親心・・・その時は良くわかりませんでした。今、自分が親になって子供の進路を考えるとき、ちょっとだけわかるようになりましたが(ちょっとだけかよ)。

 私の頭の中には、実はある大学の名前がありました。本屋で立ち読みした“キャンパスなんとか”という雑誌に掲載されていた大学・・・日本大学芸術学部(日芸・・・なんでも略すなよ!)です。
 日芸の紹介欄を見ていたら、ワクワクした記憶があります。だって、映画・演劇・写真・音楽・放送・美術・文芸という学科があり、楽しそうな人たちが写真に写っていたからです。アカデミックな匂いはぜんぜんありませんが、なにか面白いことが学べそうな気がしたのです。でも本心は、面白そうな人たちがたくさんいそうな気がしたといったほうが正確かもしれません。
 
 親は私が「働く」と決めてしまうことをもっとも気にしていたようです。両親ともにキャンパスライフを経験している中で、子供が高卒で働くことは避けたかったのでしょう。しかし私の性格上、「いかない」と言ったらいかないのです。そのことも理解していたのだと思います。

 家族会議のどんよりとした雰囲気の中で、私は口を開きました。
「日芸なんてどうだろうか。音楽や美術は専門的なので受験できないけれど、放送や映画は実技試験も無いので受けられそうなんだけど・・・。」
あの時の親の顔は、忘れられません。父親は、えっ?という渋い顔。母親はあらっ?というちょっと明るい顔。対照的な2人の表情ですが、同じ言葉が返ってきました。
「将来何になるの?」
「そんなこと分かるかい!」とは言いませんでしたが、とりあえず、4年で決めるとだけ言いました。モラトリアムっちゅうやつですな。
父親は、高校の進路指導の経験上、就職のことが気になる様で、芸術学部なんて一番“つぶし”の利かない学部じゃないかと言わんばかりでした。

 あれこれ話した結果、以下のことが決まりました。
・ 来年の受験が最後。
・ 日芸を受験することは了承したが、その代わり、滑り止めとして一般の学部(経済か法学)を受験すること。

 それから私は、そのことを彼女に告げました。彼女は大学生、僕は浪人生。世間的には非常に不釣合いでありまして、まぁ、別れるのかなぁなどとうっすらと思っていた矢先、彼女は自分の使っていた参考書類を持ってきて、“待っているから”というようなことを言いました。私はそれを素直に受け取り、受験勉強に真剣に取り組んだのでありました。

※※
 人間、目標を持つと非常に活き活きとするものでして、私は受験勉強なるものに真剣に取り組み始めました(遅いって!)。1984年の3月は、誰とも会わず部屋に篭りました。彼女から渡されたテキストを1ヶ月でやりきってしまう暴挙に出たのであります。
食事と風呂以外は部屋から出ませんでした。もちろん、音楽やラジオなど聴く事も無く、ひたすら机に向かっておりました。
2週間を過ぎたあたりで、壁に向かって話しかけた時は自分でもびっくりしたものです。生涯で一番勉強した月だと思います。
 日芸の受験科目は国語・英語・小論文(または実技)・面接です。
つまり、語学系さえしっかりやっておけば良いのです。私は、小論文なるものの書き方が良くわからなかったので、代々木ゼミナールの「小論文コース」という科目だけ受講することにしました。講師は「何でも見てやろう」の著作で有名な小田実先生でした。
それは非常に面白い授業で、30分で与えられたテーマについて小論文を書き、小田先生がその場で添削してくれるのです。論文の基礎も書き方もわからなかった私は、先生の言われるまま文章を構成し、最初はほとんど先生の文の写経のようでした。
先生は、こう言いました。
「最近、若い人の中では、日記をつける習慣が減っているように思います。“自分の行動”や“思い”を文に綴るだけでも勉強になるものです。そして、それを誰かに見てもらえれば、それが一番の上達になるでしょう。」
私はピーンときました。そして、彼女と交換日記を開始したのです。すっぺぇ~!
ノートを2冊用意し、お互いに持ちます。会ったときにそれを交換します。すると、ノートを持っていないときのタイムラグが無くなるので、常に書くことになるのであります。
 日常の風景やテーマを決めて、私はそのノートに書き込んでいきました。小論文の勉強になることと、彼女とのつながりが図れることで一石二鳥でありました。
 交換した日記を見ると、彼女の楽しそうなキャンパスライフが綴られております。体育会のバドミントン部に入部した話や高校と違って自由な分、責任が重いというようなことがノートに書かれていました。それに引き換え私は、家にずっといるわけですから生活にあまり変化が無いのです。自分でテーマを決めて書きなぐっていたと思います。
 彼女と会い、ノートを交換すると、私の記した場所に赤いペンで添削したあとが・・・。そうです、彼女は私の誤字脱字や、意味がわからないところを赤ペンで添削していたのです。同じ字ばっかり間違えていたり、主語が無く、とっちらかった文章をわかりやすく直していました。・・・そんな交換日記あるかよ!

 最初のターゲットは4月の半ばに予定されている全国模試です。この模試は、現状の自分の実力を知り、志望校への合格率を確認するのであります。
ここで、私は彼女とある約束を取り交わしました。もし、英語の偏差値が60以上だったら1日デートするというもの。このデートにはいろいろな意味が含まれておりまして、それは皆様の助平なご想像にお任せしますが、はっきり言えることは、この時まで私たちは健全にお付き合いしていたという事実だけがあります。
変な約束ですが本人は必死です。彼女も「まぁ、いきなり60はねぇ~」なんて思っていたのだと思います。

 ところが、結果は国語65。小論文58。英語64。日本史59。という結果。
志望校の合格予想も日芸は90%以上の当確。記念で書いた早稲田大学文学部も70%と好結果。ええっ?私はいきなり頭が良くなったのか!と思ったものでした。
 彼女にすぐ結果を伝えると、拍子抜けしてしまい、何で3ヶ月早くこの結果が出ないのかと言われる始末。
そんなこんなで白けてしまい、デートは取りやめました。
次なる目標は、もう翌年の大学合格だけであります。

※※※
 当時、彼女との接触は電話だけです(当たり前だよ!電報なんてあるかよ!)。
当時は携帯電話なんてありませんから、直接家に電話をかけます。
そして必ずと言っていいほど、彼女のお母さんが出ます。身分の無い私は、苗字だけを告げます。そうです、この時に“●●大学の花形ですっ。”なんて言えたら格好良いんだろうなぁなどと思ったものです。
彼女のお母さんは、この正体不明の男をどう思っていたんでしょう。
 夏も過ぎ、秋、そして冬。相変わらず、模試の結果は良好でしたが、勉強をしていたか、というとこれが全然しなくなっていたのです。近所の中学からの友達といつもつるんで喫茶店にいるか、家で麻雀にあけくれていました。
そうなんです。私の家には人がいなかったのです。父親は勤めに出ておりますし、母親は毎朝9時ごろそそくさと外に出て行ってしまい、夜まで帰ってきませんでした。
 後日、あの時何をしていたのかを母親に聞いたところ、浪人生と毎日同じ空間にいたらお互いに気が滅入ってしまうから、パチンコをしに行っていた、と言っておりました。子供に気を使わせない親心だったようですが、私はそんなこともつゆ知らず、遊びほうけていたのです。この図式を俯瞰から見ると私は友達と麻雀、母親はパチンコ。・・・とうちゃんゴメンね、といったところです。
でも母親の腕前は相当なものだったようで、損をしなかったと言っていた記憶があります。
そういえばあの頃の母親は、妙に羽振りが良かったですな。

 そして1985年の2月。日芸の受験です。
放送学科は日芸の中で一番早い受験日です。2月3日の筆記試験。2月5日には結果が出て、合格すれば、2次試験が2月8日。結果は2月14日だった気がします。
 私は、試験日にびっくりしました。試験会場での人の多さ。あんなに小さいキャンパスなのに人があふれかえっているのです。江古田という学生街が初詣状態です。
 日芸は倍率だけは高いことで有名です。(後に赤本(受験参考書)で調べたら、私の受験の時の放送学科の倍率は54倍だったようです)
 でも、偏差値をみてもたいしたこと無い学科なので、馬鹿がいっぱい受けてるんだろうな、などと思っていました。そうです、私の悪い癖で“タカをくくって”いたのであります。
そういえば、周りを見ると奇抜なファッションをした輩が多い。東京モード学園の学校説明会にいる雰囲気になりそうでした。

 筆記試験は笑いが出るくらいスラスラとできたのです。英語の長文は大好きなジョージ・オーウェルの「アニマル・ファーム」が出て、英語を左から右に日本語のように読めましたし、国語についても苦手だった漢文にこれまた好きな李白の峨眉山月が出たんですよ。これはもう大ラッキーでした。だって、「峨眉山月半輪の秋、影は平羌江の水に入りて流る・・・」ってスラスラいえる漢詩だったわけですよ。これはもう天は私に味方していると思いましたわ。
試験会場を出て、一緒に受験した友達と会ったとき、人の流れの中で「簡単だったな!楽勝楽勝!」なんて言ったら、周りにいた髪を尖らせたオニイチャンたちから睨まれてしまいました。
そしてその後、浮かれていた私を悲劇が襲うのです。

つづく
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by yyra87gata | 2013-02-07 13:50 | その他 | Comments(0)