関西の熱い風
2017年 08月 18日
それまでの日本の歌の世界は職業作家が作った歌を「歌手」が歌うという分業が当り前で、自分で歌を作って発表するといったことは皆無であった。きっとこれは海外からの、特にボブ・ディランに感化された若者の行動がそのムーブメントにつながったのではないだろうか。ディランやビートルズがそうであったように自分の言葉で自分の歌を作る。東のカレッジフォークと共に関西を起点にフォークブームは、素人が自作自演を行なうきっかけとなっていった。
そして、それから数年後、ブルースやソウルの声も上がっていく。ライブハウスからブルースバンドが数々生まれ、その中からプロとしてデビューするバンドも増え始めた。
音楽の中心は東京と考えられていた時代は昔日のものとなり、関西発の音が全国に発信されていった。
その関西発の音楽の中でもこの2つのバンドは伝説となっている。
「ソー・バッド・レビュー」と「上田正樹とサウス・トゥ・サウス」。
関西フォークでは割と標準語で歌詞を作り、標準語で歌われる歌が多い中、このソー・バッド・レビューや上田正樹とサウス・トゥ・サウスは関西弁を駆使し標準語にはないノリをビートに乗せていった。そしてそれは現代のラップにも繋がる言葉遊びも存在した。また、関西弁をあの時代にここまでフューチャーすることができたのは、当時日本のロックと言うものが全然ビジネスになっておらず、超マイノリティな音楽だったので、逆に自由度が大きかったからでは無いだろうか。つまり、それまでの日本のロック業界は、「GS」で失敗していたので、職業作家によってガチガチに作り上げられたGSとは一線を画したかったのかもしれない。
方言丸出しのロックバンド。そのような歌がレコード化されること。まさに、自由なのである。
その言葉の問題だが、東北弁でも、べらんめぇの江戸っ子の言葉でも、九州弁でもない。関西弁はビートに乗りやすいことをソー・バッド・レビューや上田正樹といったバンドマンは知っていたのだろうか。それとも気負い無く生活の歌をビートにのせていっただけなのか。あまりにも音楽的グルーヴにマッチした化学反応ではないか。
関西弁は今でこそ標準語のようにテレビからあふれ出てきているが、1980年ごろまでは一つの方言であり、ブラウン管からは今ほど飛び出してはこなかった。
関東の人間からすれば、関西のテレビ局が制作するバラエティーでしか関西弁はお茶の間には入ってこなかったのだ。
「ヤングおー!おー!」「ラブアタック」「プロポーズ大作戦」「パンチDEデート」など。
「新婚さんいらっしゃい」といった長寿番組もあるが、その番組でしか関西弁は登場しなかったし、関西の芸人も今ほど東京の番組に出演していなかった。そして前述の番組を揚げて分かるとおり、殆どがバラエティー番組である。歌の世界に関西弁はそれほど登場していなかったのだ。
では、関西弁はいかにしてお茶の間に入っていったのか。
やはり、1980年ごろのMANZAIブームが起点となり、「オレたちひょうきん族」がドリフや欽ちゃんを駆逐したことで明石家さんまや紳助が台頭し、東京進出により関西弁が本格的に東京に上陸したのだ。
だから、私は、そんな時代背景の中でまだ「オレたちひょうきん族」が生まれる前に、先ほどのソー・バッド・レビューのレコードを聴いた時の衝撃といったらなかったのだ。
これが同じ日本語かと思えるほど、ブルースの八分の六のリズムに心地良く乗る言葉たち。
それまでの関西出身の歌手、例えば沢田研二でも和田アキ子でも歌ってしまえば標準語の歌となっていたので、これほどまでに関西弁を強調した歌というものを私は聴いたことが無かったのだ。
関東圏で生きてきた者にしてみれば、関西弁は外国語の発音に近かった。また、語彙も標準語とはかけ離れている。自分は「わい」あなたは「自分」。もうこれだけでも可笑しい。
今の若者にしてみれば、小さいときから関西弁を聞き、東京の子供でも「めっちゃ」とか平気で使う昨今。そんな人にしてみたら私の驚きなど気にも掛けないことかもしれないが、当時は独立した言葉に聞こえたのだ。
例えば、ソー・バッド・レビューの「おおきにブルース」などはトーキングブルースで、「そやがな・・・おおきに」とか「わいや、わいやがな・・・おおきに」とか、大阪人の口癖をすべて「おおきに」という魔法の言葉で括ってしまったブルース。このような歌は、東京出身の人間は絶対作ることはできない。
また、上田正樹とサウス・トゥ・サウスのアルバム『この熱い魂を伝えたいんや』(1975)の「むかでの錦三」という歌。まずもってこのタイトルのセンス。そういえばソー・バッド・レビューのアルバム『SOOO BAAD REVUE』(1976)に収録されている「青洟小僧」「しょぼくれあかんたれ」「お母ちゃん、俺もう出かけるで」も相当なセンスである。
タイトルだけみていると演歌のような雰囲気もあるが、どの曲も黒いグルーヴが溢れる聴き応えのあるソウルフルな曲ばかりである。
私の高校時代、日比谷野外音楽堂で開かれるイベントに行けば、関西系のバンドが必ず1〜2つは出演していた。その中で上田正樹とサウス・トゥ・サウスもいたし、ソー・バッド・レビューを解散した石田長生がヴォイス・アンド・リズムを率いてソウルフルなギターを奏でていたこともあった。
そんな光景を切り取ってみても、関西のノリは明らかに違っていた。
とにかく客を乗せることが上手い。汗をかきながら身体全体でシャウトし客を鼓舞する。
「乗ってるか!ええか?ええのんか?!」という関西弁が木霊する。
変な意味で関西弁に慣れていない我々は、この言葉は笑福亭鶴光のオールナイトニッポンで鶴光が卑猥な意味としてラジオで話していたから、上田正樹が汗まみれになって「ええか?ええのんか?」と叫んでもニヤニヤ笑ってしまうということもあった。
それほど関西弁は普通に入ってこなかったのだと今改めて思う。
また、東京のバンドは演奏を黙々と行なって、どちらかと言うと技を見せつけるようなバンドが多かったように思うが、関西のバンドはMCを聞いていても「ノリつっこみ」をしたり、バンドメンバー同士での会話を聞いていても漫才をしているようなノリで、どこまで本気なのか分からなくなる時もあった。しかし、演奏に入ると「いなたいビート」の応酬となり泥臭くなっていく。そのギャップが面白かった。
上田正樹の「悲しい色やね-OSAKA BAY BLUES」、BOROの「大阪で生まれた女」、やしきたかじんの「やっぱ好きやねん」など1980年前後から大阪弁を使う歌はバラッドが多くなってきた。
時代の音楽性もあるかもしれないが、ブルースやソウルでは商業的な成功は出来ないということの答えになるかもしれないが、聞き手からすると『SOOO BAAD REVUE』や『この熱い魂を伝えたいんや』というような熱いサウンドを再び聴いてみたいと思う冷たい夏である。