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音楽雑文集


by yyra87gata

大杉漣さんの思い出

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 大杉漣の訃報をテレビのテロップで観た時…そして、急性心不全で亡くなったと発表されたとき、私は不覚にも「自殺?」と思ってしまった。

近親者の方々からしてみたらそんなことは絶対ないという確信はあるだろうが、私はテレビドラマもバラエティも普段からそんなに観る方では無いので、大杉漣の活躍はスクリーンの中でしか知らない。だから、コミカルな役で若手アイドルとドラマに出演したり、お笑い芸人と一緒に食事の金額を当てるような彼をあまり想像することができないのだ。

 私の最近のイメージの大杉漣は北野映画に出演されている大杉漣であり、数々の邦画に出演されている彼だ。だから順調に活躍されているな、という認識もあり、そんな人が急に亡くなるなんてことは事故か自殺しかないと思ってしまったのだ。

 急性心不全という曖昧模糊とした響きの病名。原因などいくつもあるようだが実は特定されることもなく、生活習慣、ストレスという言葉で括れば全てに通じてしまう病のようだ。ここで病気の話を展開しても仮定の話しかできないので切り上げるが、私の思い描く大杉漣はそんな66歳で亡くなるようなヤワな体ではない。


 泉谷しげるは圧倒的な詩人である。エレックレコード、フォーライフレコード、ワーナーパイオニア、ポリドールとレコード会社を渡り歩き、それぞれに名盤を残してきた。しかし、名盤と商業的成功は比例しないもので、実験的な行為を好む泉谷はフォークというジャンルでは括りきれなくなりアバンギャルドな世界に突き進んでいく。ちょうど1980年代半ばのことだ。

 その頃はレコードも出せるような状況でなくなり、ポツポツとライブを開く程度。

ワーナーパイオニアは必死にプロモーションしたが、あまりにも世相を切りすぎた作品は歌というより演説に近いものがあり、そんな言葉の嵐を無機質な鈴木さえ子のシンセドラムや吉田健のベース、柴山兄弟のギターがエキゾチックになぞっていく。

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 私はそんな泉谷の作品が嫌いではなかった。歌の世界観や到底リズムに乗らない歌詞を怒鳴り続けている彼を男らしいと思っていたほどだ。

 私は大学にも行かず、宙ぶらりんな立場だった頃なので、世の中の優しい歌は全然響かず泉谷の本音の声が心に届いていたのかもしれない。

 そして、大学に入学した後、友達に誘われて行った泉谷のコンサート。1985年の横浜国大の文化祭の野外ステージでのライブだったが、そのステージはレコードで聴いていた泉谷の言葉の嵐が見事にリズムに乗って私の心にガンガン突き刺さったライブだった。

 以前のギター2本、ベース、ドラム、シンセサイザー、サックスを擁した6人のバンドで電子音の洪水の中で叫んでいた彼はそこにはおらず、シンプルにギター、ベース、ドラムという最小限の編成の中でパフォーマンスしていた。

ベース、吉田健。ドラム、友田真吾。ギター、布袋寅泰。

 とにかくこのメンバーの出すビートは泉谷の歌詞にぴったり嵌った。布袋はBOOWYがまだ商業的成功を収める前で、アルバイト感覚でバックを務めていたのかもしれないが、私はこのバンドの布袋のプレイは忘れられないくらいのインパクトがあった。出てくる音、出てくる音が理解できないくらい煌びやかだったのだ。

そして、ライブはエンディングに近づくと会場内はどんどんヒートアップし、圧死者が出るのでは無いかというほどの状況となる。人の流れが前へ前へと押し寄せる。そしてエンディングに近づき、「火の鳥」「国旗はためく下に」ではステージ後方からの火炎放射器により、ステージに押し寄せた我々の身体が吹き飛ばされるのではないかという炎が我々の顔を染めたのだ。ドラムの友田真吾なんて火傷をしていたのではないか。

 そのライブから3ヶ月後、同じメンバーで、ある劇場のこけら落としコンサートを行うことが決まった。3日連続公演。場所は地下鉄有楽町線氷川台駅(現在は副都心線)。

「転形劇場T2スタジオ」と呼ばれた場所だった。転形劇場は1960年後半、太田省吾を中心に結成された劇団で、当時の世相から寺山修司の天井桟敷、唐十郎の赤テントなど小劇場やアングラ演劇が華やかな時代から活動していた。

 活動拠点をまだ田畑が残る氷川台の牧歌的な空間に移し、その倉庫のような建物に回転舞台を組んだ劇場をオープンし、そのこけら落としの一環で泉谷しげるのコンサートが開催されたのだ。

 私は3日間通った。

席は自由だったから毎回並んで開演を待ったが、その会場係や誘導係に大杉漣がいた。彼は転形劇場の劇団員だったのだ。

口ひげを蓄え、ウルフカットのような髪型にこけた頬の彼を見つけたとき、自然と「大杉漣だ!大杉漣がなぜ、ここに居るんだ?」と口走っていた。

一緒に並んでいた彼女(家内)は、「大杉漣?誰?バンドの人?」などと言う。

 私は大杉漣をすぐに認識した。なぜなら、私は日活ロマンポルノでの彼の演技がとても好きだったからだ。日活ロマンポルノは成人映画だが、日本の裏社会の機微や東映セントラルに負けないくらいのハードボイルドな作品も多く排出していた。それこそ、大杉漣のようないぶし銀の俳優がそこかしこに居て、独特な作風を醸し出していた。そして、当然日活ロマンポルノに出演している俳優は中々テレビにも出演しないので、彼女のような発言も決しておかしくはない。しかし、そんな俳優が目の前で客の整列を促している・・・。

黒いTシャツに黒いスリムパンツ。人を寄せ付けない風貌で客を誘導している。私の近くに彼が来た時、私は意を決し、声を掛けた。「大杉漣さんですよね」。

かみそりのような表情が崩れ、「はい、そうですが・・・」彼は笑って応えてくれた。

「転形劇場T2スタジオ」は翌年も泉谷しげるの公演を行っている。因みに泉谷のその時のバックはボイス&リズム(石田長生、藤井裕、正木五郎)に変わっており、大阪のイナタイビートの泉谷が堪能できた。そしてその時も大杉漣は会場誘導を率先して行っていた。

 大杉漣が亡くなって泉谷しげるのコメントが発表された。

80年代に、大杉さん主幹の「転形劇場」のステージで、渾身の3日間ライブは今だに忘れられない。それからもズッとオイラのライブファンでいてくれて、最近もライブに来てくれててさ》、《大杉漣とは楽しいことばかりしてきたのだ急性心不全で急死なンて信じられるワケないだろ 漣さん66だろ オイラは受け入れないからな だから哀悼もしない またすぐ会おう》

実に泉谷らしい言葉である。清志郎の時も同じようなことをつぶやいていたっけ。

 私は学校も近かったこともあり、転形劇場にはその後数回足を運んでいる。

泉谷の激しいビートが木霊した劇場が一変し、その中で無言劇を演じる大杉漣。

痩せた身体の大杉漣は舞台をゆっくりと歩くだけ。そして水を飲むだけ。そんな動きから様々な自然を表現したり、男と女を表現したり・・・。

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 転形劇場は1988年に解散しているから、T2スタジオは正味3年の出来事だった。

 しかし、大杉漣を見るたびに誘導してくれていたあの姿を思い出し、笑顔で顔を崩した彼が蘇る。



2018/03/28


花形


by yyra87gata | 2018-03-28 08:44 | 音楽コラム | Comments(0)