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1965、1969、1973、1979

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私は今日で還暦が終わり明日61歳になる。
日本には「早生まれ」とか「数え年」とかいろいろな種類の歳の数え方があるが、年度の境ということで学校も企業も大抵が4月を頭と考える。
1月1日に「あけましておめでとう」を高らかに叫ぶが、人間関係上の上下は4月基準だ。
この数え方が「早生まれ」の私を面倒くさくしている。
 私の同級生の大半が辰年生まれ。早生まれの私は巳年。
「昭和40年生まれ」とか「巳年だ」と言っても「早生まれ」だからと付け加えないと年下に見られるのでいちいち面倒くさい。
それはそれとして、私の生まれた1965年。
生まれ年だから1965という数字に何故か愛着がある。昭和40年の40は別に愛着を感じないのだが、それは何故だろうか。ま、いい。

 他に西暦で好きな年が私には他に3つある。1969年、1973年、1979年だ。
この3つに共通していることは、私の好きな音楽的な事象があった年ということである。
 1969年はウッドストックの年。ビートルズが終焉を迎えプログレなどのニューロックが台頭し始めた年。高校終りから2年もの間渋谷のヒッピーに囲まれていた身としては1969年は聖なる年なのだ。Love&Peace
 そして、その年の10年後である1979年はハードロックやディスコ、テクノ、パンクといった音楽ジャンルが溢れかえった年で、日本ではそれまでのフォークやニューミュージックがシティポップスなどへと多様化していった年だ。ジャズがいつの間にかクロスオーバーやらフュージョン。おまけにニューウェーブやテクノサウンドと百花繚乱の音楽地図となった。
 TBSの音楽番組『ザ・ベストテン』が開始された年は1978年1月。それまでのお茶の間の音楽番組は、1964年から始まったフジテレビの『シオノギ・ミュージックフェア』や1968年開始の『夜のヒットスタジオ』、日本テレビの『NTV紅白歌のベストテン』が主流とされていた。それは演歌や歌謡曲が中心の構成で、予定調和な内容。音楽の多様化もあってか、目新しさに欠けてきていたところに『ザ・ベストテン』は登場した。
内容は音楽番組に変わりはないが、テレビ局や事務所の都合も多少はあったものの歌をランキング形式に紹介し、そのランキングは絶対とされた。歌い手側の事情があって出演出来ないのであれば、致し方ないという考え方。地方公演や移動中だからスタジオに行けないというなら1曲のためだけにロケを敢行し、オンエアをするという前代未聞の内容だった。それもあってか、「スタジオに行かなくて良いのなら出演する」というミュージシャンも登場し、コンサート会場からのオンエアが日常的になっていく。
 1979年は化粧品メーカーや食品メーカー、時計、カメラなど様々なCMタイアップがヒットチャートを駆け上ったことから、松山千春や甲斐バンド、矢沢永吉など決してテレビでは見ることが無かった歌謡界以外のミュージシャンが『ザ・ベストテン』に登場した。

 1979年当時中学3年だった私は、日本の音楽が溢れかえる中、軽音楽の洗礼を浴びた年だった。そして、この頃から頻繁にコンサートに出かけるようになり、果ては愛知県篠島まで吉田拓郎のオールナイトコンサートを一人で観に行くという暴挙に出るのである。

  1973年は拓郎好きの私にとって名盤『LIVE73』の発表年。
吉田拓郎は、その年の4月に起きた金沢事件で傷つき、復活の狼煙を上げるためにコンサートを11月に開催。名曲「落陽」を収録した『LIVE73』を発表した。

このアルバム収録時、拓郎は27歳。演奏しているドラムの田中清司は25歳、ベースの岡澤章やキーボードの松任谷正隆は22歳。ギターの高中正義に至っては20歳である。この若者たちの勢いある演奏は今聞いても恐ろしいまでの完成度である。
 そして通常ライブ盤といえば、ヒット曲やそのミュージシャンの代表曲をライブヴァージョンで聴くことを目的とされたが、このアルバムは新曲だらけという異色のもので当時の拓郎の人気のほどがわかる。
 また、アルバムサウンドの特長としてラジオでも本人が語っていたが、「自身のヴォーカルが小さく聴こえても構わない、勢いのあるバンドサウンドを聴かせたい」という。どういうことかというと、演奏の音量レベルにてマスタリングを行なっているので、確かに数か所MCの部分があるが、恐ろしいまでにその音量が低い。だからMC時にステレオのヴォリュームを上げ、耳を凝らしてMCを聞いていると突然演奏が始まることがあった。スピーカーからは大音量が響き渡り何度もびっくりしたことがある。そんな破天荒な作りのアルバムで、当時の拓郎人気もあり、大ヒットした。
 1973年当時の日本の軽音楽の中心がフォークブーム全盛の拓郎や井上陽水、かぐや姫とするなら、もう一つ潮流があった。拓郎のアルバムとこの潮流があったので私は1973年が特別な年と捉えている。

 もう一つの潮流とは、はっぴいえんどの解散である。正確に言うとはっぴいえんどは1972年12月31日をもって解散しているが、1973年9月21日に解散コンサートを文京公会堂で開催している。そしてその模様はアルバム『ライブ!!
はっぴいえんど』(1974年1月15日)にて聴くことが出来る。

何故はっぴいえんどの解散が気にかかるかというと、当然私はこの事実を原体験したわけではない。しかし、先ほど述べた1979年の溢れる日本の軽音楽にはっぴいえんどの4人が大活躍しているという事実があるということ。そして、その流れは1973年の解散コンサートから始まったのではないかと確信しているからである。
このコンサートにははっぴいえんど以外にも彼らの演奏のサポートや解散後のそれぞれのソロ活動の演奏のため数多くのミュージシャンが参加している。
シュガーベイブ(山下達郎、大貫妙子、村松邦男)、伊藤銀次、鈴木慶一、西岡恭蔵、吉田美奈子、南佳孝、田中章弘、駒沢裕城、上原裕、松田幸一など、まさに新しい日本のポップスを作り出す職人が競演した。
つまり、はっぴいえんどの4人がそれぞれの道を歩み始めたことで、ニューミュージックと呼ばれる新しい音楽の流れを作ったのではないかということだ。
 はっぴいえんどは神格化されやすい。それは1978年から1983年辺りの日本の歌謡界、ニューミュージックと呼ばれるポップス界を4人が席巻していたからに他ならない。
チャート1位になる松田聖子も寺尾聡も森進一もアイドル歌手もみんなみんな4人が関わっていた事実があるからだ。
 しかしながら、1973年の日本の軽音楽の主流はフォーク。はっぴいえんどの4人は時代の音楽と折り合いをつけながら活動していた。
 バンド解散後も大瀧詠一のサウンド、細野晴臣のサウンドは、それぞれの作風に拘り過ぎてヒット曲の対象とはならなかった。その分、鈴木茂は単身渡米して製作した『BAND WAGON』(1975)の話題性はあったが商業的な成功という訳ではなく、その筋で話題になったに過ぎなかった。
4人の中で松本隆だけはドラムから作詞家に転向しすぐに結果を出したが、その作品は、歌謡界にも足を伸ばしていたので、まだまだ日本の軽音楽に市民権は無かったと言っていいだろう。

 では、日本の軽音楽の市民権はいつ頃成立したのだろうか。
少なくとも1973年には拓郎や陽水といった商業的成功があったのでフォークというジャンルの市民権はあった。しかしながら、はっぴいえんどの4人が携わっていた日本のポップス、つまりフォークでもロックでもブルースでもない音楽についてはとても小さなマーケットであった。テレビの音楽番組にも取り上げられず、レコードも売れていない筆頭である山下達郎や矢野顕子、大貫妙子といったミュージシャンは、はっぴいえんどからティンパン・アレイに変革したメンバーと一緒に日本の軽音楽の世界でもがいていたのだ。
 しかしながら、時代が漸く追いつき始めるのだ。鈴木茂は自らリーダーアルバムを出しながらもスタジオミュージシャンとして歌謡界やロック、ポップスのレコーディングで売れっ子となり、松本隆も「木綿のハンカチーフ」等のヒットを連発する。3年もしないうちに細野晴臣はYMOの世界的な成功を勝ち取り、大瀧詠一も『A
LONG VACATION』(1981)の大ヒットを記録する。
 はっぴいえんどの4人が作った1979年頃の活動は、日本の歌謡界を終わらせ、歌謡曲というジャンルをJポップスという音楽に変えてしまったといっても過言ではない。
それは、それまでの職業作詞家・作曲家の作る楽曲とは明らかに違い、シンガーソングライターが歌謡界の歌手に作品を提供するという事が当たり前のようになっていったからだ。
そういった事から、
「Jポップは1973年に始まり、1979年で昇華した」と私は見ている。

 今日あげた年。
私は1965年に生まれ、1969年は4歳。1973年は8歳。1979年は14歳。
やっぱり14歳(これだって同学年はみんな15歳なんだよ)辺りで受けた影響は後を引く。
特に1979年の1年間が私の軽音楽のスタートラインとしたら、翌年すぐにポールが成田で捕まり、秋にボンゾやビル・エバンスが死んで、冬にジョンが殺された。このあたりの事象は未だに引きずっているし、引きずってなければ音楽なんてやめていたかもしれないな。
 2026年にこんなことを書いている私。15歳の私はきっと想像もしていないだろうな。

2026年1月15日
花形

by yyra87gata | 2026-01-17 13:32 | 音楽コラム | Comments(0)