音楽雑文集


by yyra87gata
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    黒人奴隷が白人に隠れて労働歌としてブルーズを作り上げた歴史。

金もないから楽器も買うことができない。しかし、声は出すことができるからと、街角でアカペラを歌うドゥーワップの歴史。

エレクトリックサウンドの発達によりロックンロールをはじめとした音楽の多様化が進んだ50年代~60年代。

時代の流れにより音楽は様々な形を私たちに見せてくれた。

    1970年代初頭、ニューヨークではビートニク思想に影響を受けた詩人たちが集まり、アンダーグランドからの音楽活動が盛んとなる。

   政治や社会には無関心であり、個人の解放や浄化といった人間の根源を追及し、そのためであれば貧困もいとわないというビートニク思想を持つミュージシャンからの発信である。そこにはドラッグ、セックス、禅などの方法を用い、性別を超えた世界や人間のマイノリティーを追及したアウトプットがスコアとなり、楽曲を彩った。思想と歌は前述にもあるとおり、時代の音とされるが、まさにこのアンダーグランドからの叫びは、ザ・ローリングストーンズに代表される肥大化したロックとは一線を画す、ニューヨーク固有の音となった。

 ベルベットアンダーグランド、ストゥージズ、MC5、テレビジョン、パティ・スミス・・・。

ニューヨーク・パンクと括られるジャンルは実は広すぎて、激しいリズムの音楽性やポエトリーリーディングに代表されるような表現が目立つようだが、ビートニク思想をベースとしたならば、そのアウトプットはコマーシャリズムに相反するもの。つまり、「思想」の問題となる。

   そこに目をつけたファッション・デザイナーがいた。

 混沌としたニューヨーク。ライブハウスCBGBの中でその男は金のにおいを嗅ぎ分けた。

ロンドン出身のマルコム・マクラーレンはニューヨークに赴いた際、「ニューヨークの音」を目の当たりにしたのだ・・・。

 帰英後、自ら所有していたブティック「Let It Rock」の店名を「SEX」に変更した。

その店はもともとフィフティーズ・ファッションのブティックだったが、店名変更とともにボンデージ・ファッションが店内に埋め尽くすようになる。

ロンドンの労働者階級の叫びは金になる・・・そんな目論見から過激なファッションを施し、セックス・ピストルズを作り上げて行った。過激な男、不満を持つ男、卑しい笑いをする男を作り上げろ!売れるためなら行き過ぎた演出が必要だ。話題性を重視し、イギリスの象徴である女王陛下の写真にピンを刺すのなんて朝飯前。いかにEMIから契約金をふんだくるか。そのためには音楽性よりもジェネレーション・ギャップを作り上げていく。挙句の果ては、演奏などはできるよりもできない方が良いという始末。パンクバンドというセックス・ピストルズの虚構を作り上げたプロデューサーである。

    1980年にイギリスで公開され、その5年後日本で公開(字幕なし)、その10年後に宝島社から日本オリジナルジャケットでビデオ発売され、同年に正式公開された映画「グレイト・ロックンロール・スウィンドル」はマルコム目線のピストルズである。

映画はマルコムが語り手となり、いかにセックス・ピストルズは作り上げられたバンドであるかという内容。

そこにはモンキービジネスで笑うものは演者ではなく、ブームを作り上げたプロデューサーであるといわんばかりの内容だ。

もちろん、バンドメンバー、特にヴォーカルのジョニー・ロットンはこの作品に対し異議を唱え、2001年に「ノー・フューチャー」という作品で正式なピストルズヒストリーを発表した。

しかし、ピストルズが輝いた1977年からたった2年の出来事について、どちらの作品が面白いかといったら、私は前者の「グレイト・ロックンロール・スウィンドル」を推してしまう。

マルコム・マクラーレンという詐欺師がパンクムーブメントを作り上げたということが重要という気がするのだ。

   そもそもビートニック思想の「ニューヨークの音」は、DIYDo It Yourself)と表現され、「パンク」などという言葉ではなかった。「パンク」はマルコム・マクラーレンがでっちあげた事で、そもそもすべてにおいてポンコツで、その事象を示したものである。それがロングヘアーにロンドンブーツという前時代のロックを完全否定し、散切りヘアスタイルや安全ピン、剃刀といったファッションも合わせてロンドンで大ブームになった。そのルーツを辿るとニューヨークということになり、「ニューヨーク・パンク」などという言葉をマスコミが使い始めたに過ぎないのだ。

ピストルズ脱退時のジョニー・ロットンの言葉がそれを裏付ける。

「自分は思想的アナーキーではなく、音楽的アナーキーであった」と。

しかし、事実関係はどうであれ、「グレイト・ロックンロール・スウィンドル」でのマルコム・マクラーレンの悪徳マネージャーぶりは腹を抱えて笑うことができる。メインヴォーカルのジョニー・ロットンが脱退すれば、一般公募でヴォーカリストを募ってめちゃくちゃなオーディションを開き、結局はヴォーカルなど誰でもいいと言ってみたり、ギターのスティーブ・ジョーンズは女狂いと喧伝し、そのままの演出を施したり・・・(本人がポルノ男優のような演出を受けている)。圧巻はシド・ビシャス。彼の行動自体がマルコムの考えるピストルズそのもので、鼻血を噴出しながらベースを弾いたり、ベースを振り回しながら観客に飛び込んだり、自分の身体を刻んでぼろぼろのTシャツが赤く染まったり・・・。極めつけはハードなアレンジを施した「マイ・ウェイ」をがなりたて、最後は観客に向かって発砲する(演出)。そんなぶっとんだパフォーマンスはシドでなければできないだろう。そして彼の最期はオーバードラッグによる死亡である。

    恋人のナンシーを殺し、自分もあの世行き。現実と虚構が彼の人生を狂わせた。それは、マルコム・マクラーレンがセックス・ピストルズを作っていなかったら、シドはドラッグに溺れることはなかったか・・・いや、形を変えて伝説になっているだろう。

 

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   セックス・ピストルズをバンドと思ってはいけない。

セックス・ピストルズはファッションである。

セックス・ピストルズは音楽業界への挑戦であり、ギャング集団である。

純粋に叫びたかったジョニー・ロットンは脱退後、名前を本名のジョン・ライドンとし、パブリック・イメージ・リミテッド(PIL)を結成する。もう、そこにはパンクという言葉よりニューウェーブという名前がフィットしていた。

    マルコム・マクラーレンはピストルズのメンバーに逃げられあとは、自身がマネージメントをしていたアダム・ジ・アントのバンドからメインのアダムだけを抜いて(裏切って)、自分でバウ・ワウ・ワウを結成するところも滅茶苦茶な感覚。

   ニューウェーブの波を作り上げ、ジャングルビートで一気に勝負出たところの嗅覚などは音楽家というよりクリエイターのノリなのだろう。

とにかく胡散臭い男である。

そんな楽しい「いかさま野郎」(賛辞)の作品が「グレイト・ロックンロール・スウィンドル」(偉大なロックンロール詐欺!)である。

ま、めちゃくちゃよ。

 

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2018/6/19

花形


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# by yyra87gata | 2018-06-19 11:19 | アルバムレビュー | Comments(0)
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    1977年秋、原田真二はフォーライフレコードからデビューした。クシャクシャのカーリーヘアにマッチしたベビーフェイスは、歌を聞くまではそれまでのアイドルと何一つ変わらぬ出で立ちであったが、彼がピアノの前でひとたび歌い出せば、今までに聴いたことの無いポップス感覚に富んだシンガーであることは誰の目にも明らかに映った。そして、それは3ヶ月連続シングル発表という奇想天外なデビュー方法も手伝い一大センセーショナルを生んだ(後述するキャロルは7ヶ月連続シングル発表というのがあるが・・・)。

原田真二の出現は、歌謡曲ではない音楽が歌謡番組に進出し始めた先駆けとなり、お茶の間に「ロック」「ニューミュージック」という言葉が認知され始めた事件であった。

    そういえば本人達の思いとは別の場所で「ロック御三家」という芸能界的な言葉も生み出されたことも日本の「ロック」の市民権に拍車をかけたことも事実だろう。

 

     原田真二は、デビューして9か月目の1978724日、デビュー1年目かつ10代で史上初めて日本武道館単独公演に臨んだ。その"SHINJI HOT SUMMER OVER IN BUDOHKAN" コンサートを中心に、直前の 静岡県“つま恋”での合宿風景や舞台裏映像等を収録した映画が『OUR SONG and all of you(ライブ・アット・武道館)』である。

映像からも読み取れるが、当時の日本武道館の存在は、ミュージシャンにとっては特別な場所であった。それは、軽音楽の世界ではビートルズが立ったあのステージに自分もいつかは立ちたいと思わせた魅力的な場所であり、日本武道館に立てるミュージシャンは選ばれし者であった。その武道館に19歳の若者が立つということだけでもセンセーショナルな出来事であったのだ。

     監督はNHKのディレクター出身でキャロル(矢沢永吉ジョニー大倉、内海利勝、ユウ岡崎)のドキュメンタリーを制作し保守的なNHKと放映に関して揉めに揉めた挙句、NHKを解雇された龍村仁。彼はその後自己資金により映画『キャロル』を完成させ1974年の公開にこぎつけている。もちろん、当時の音楽事情において「ロック」などは存在せず、革ジャン、オートバイ、エレキギターは「不良」のレッテルを貼られるもので、保守的なNHKが放映を拒んだことも十分理解ができる。瀧村は『キャロル』を日本の音楽のニューウェーブと捉え、音楽面と合わせてカルチャー面で現代の若者像を追っていった。その意味で原田真二のこの映画は、原田真二のコンサート映画というより「原田真二」という人に焦点を当てたものとなっている。

    瀧村はNHK出身の監督なだけに映画は「NHKスペシャル」のような作りである。音楽映画として見てしまうと、肝心なライブの見せ場を逃している場面も多々あるし、音響も良くない。しかし、歴史の1コマとして見れば、ぶれの多いカメラワークや恐ろしいまでに暗い画面が1970年代という歴史を物語っており、加えて配給先がATGということもドキュメンタリー臭が漂っている。

    そして、よくぞあの天才の若い時間を記録したという事実。これはやはり華美な演出より生身の音や映像のインパクトにおいて、痛烈に私たちに訴えかけてくる。


バンドメンバー・・・( )は年齢。

原田真二19) ヴォーカル、ギター、キーボード

山田秀俊(26) キーボード

青山徹(25) リードギター

ロバート・P・ブリル(21) ドラムス

関雅夫(23) ベースギター

古田たかし(20) ドラムス

19歳の原田真二を若いバンドメンバーが固める。

 

     大きな日本武道館というターゲットを自らのものにしようとするひたむきさは、何にも変え難いもので、つま恋での合宿風景でもその表情は伺うことができる。19歳の青年が年上のプロミュージシャンに対し、自分の音楽を表現してもらうために必死に世界観を訴える。原田真二の考えたアレンジを楽譜はもとより、口伝えで指示する。そこに遠慮はなく、コンポーザーとプレイヤーの関係しかない。

 あの当時、4歳も5歳も年上の人間に、しかもプロのスタジオミュージシャンに臆することなく、自分の思いを伝えていた光景。そんな天才にバックを固めるミュージシャンも演奏で応える。若いミュージシャンたちの演奏は疾走感が溢れ、日本武道館の大きさを感じさせないものとなった。

    このバンドの後に原田真二&クライシスを結成し、音楽技術的にも更に高くなっていくが、躍動感と勢いはこのバンドメンバーには適わない。

 

    最近、原田真二を聴き直す事があり、当時のフィルムを再び見た。そして、この記事を思い立ったのだが、中学生の頃に映画館で観た頃の感情にすぐ戻ることができたことに我ながら驚いた。いろいろと突っ込みどころ満載かと思いきや、そういう「うがった見方」は飛んでしまい、集中した103分であった。それは、本当に私の13歳当時の心に深く刻まれた作品なんだということの証であり、自分の中の中二病の一角を占める作品だったのだと認識した次第だ。

とにかく原田真二の大物感が半端ない作品である。

歌謡界と自分の立ち居地。賞取りレースの辞退など19歳の青年から発する言葉にしてはすでに音楽界を達観している。甘いフェイスから発する言葉は辛らつで、現実をよく見ている言葉だ。なんのためにフォーライフレコードという新しく設立されたばかりのレコード会社のオーデションを受けたのかという答えにも頷ける。

そして、それは自分がデビューするにあたり、自らの事務所を設立し、自分に集中して欲しいとリクエストする新人が今までいたろうか(今をときめく㈱アミューズは当初原田真二のために作られた企業である)。その自信も去ることながら有言実行してしまう才能は、映像から音ともに溢れ出てくるのだ。

 

   そんな映像・・・2005年にはDVDとして発売されたが即完売となり、今ではプレミアのつく作品となっている。・・・高いぞ!

リマスターして再発して欲しいなぁ。

 

2018/06/05

花形



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# by yyra87gata | 2018-06-05 12:38 | アルバムレビュー | Comments(0)

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  6月は梅雨の季節。じめじめとしたうっとおしい季節。そんな時期に聞きたくなるムーディーブルース

洋楽。それもロックに目覚めた中学1年の頃、わたしの頭の中では、フリーのポール・ロジャースが何を歌っているのか、が興味の中心だった。
そして、同じ様な音楽(ロック)に興味を持ち始め、それは最終的にレッド・ツェッペリンの「独自性」「個々の実力」と「見栄え」に興味は移り、彼等は私の中のロックバンドのアイコンとなった。
ブルース、ロックンロール、ケルト、プログレ、レゲエなど多様な音楽性を打ち出す彼等をアイコンにした事は、後になってあながち間違いではなかったと気づくが、当時はパンクムーブメント花盛りの1977年。友人たちとの会話では、ツェッペリンは前時代的な遺物と称され、ビートルズに至っては化石と評され、相手にされなかった。涙。

 では、私は当時流行りの音楽に傾倒したか、というと確かにパンクは分かりやすく、時代を彩る表現でニュース性もある。しかし、音楽性が今一つ「単調」で、長く聴いていられない。「飽きる」。
 ニューヨーク地方のそれは「歌詞が面白く」盛り上がったが、ロンドン地方のそれは「不満の捌け口が中心」で、イギリスはビートルズやツェッペリンを輩出した国ではあるが、生活は大変な国なんだなぁなどと盛り下がった。

聞くところによるとロンドンはいつもぐずぐずと雨が降っているというし・・・。暗い。


  そんな事もあり、フリーやツェッペリンの音楽性とは別の新たな世界を模索していた時に1970年初頭に出版されたロバート・プラントだかジミー・ペイジだかのインタビュー記事を目にした。

「今のロック・ミュージックで本当の意味でオリジナルといえるのはピンク・フロイドムーディーブルースだけだ。レッド・ツェッペリンはロックのある一面を表現しているに過ぎない」と。私のアイコンであるツェッペリンが発する言葉である。神の言葉である。ピンク・フロイドとムーディーブルース

ピンク・フロイドは『原子心母』(1970)、『狂気』(1973)等の世界的大ヒットアルバムを発表していたので1977年当時でもメジャーなバンドであったが、もう一つのムーディーブルースとはいかなるバンドか。

  私はすぐにレコード屋に走り、「M」の欄を必死に探したが1枚も見当たらなかった。2件目のレコード屋でもかすりもせず、意地で探し回った挙句、中古専門店ハンターで見つけたアルバムが『セブンス・ソジャーン』(1972)であった。800円。


  レコードに針を落とす。予想外の厳かな音の調和。オーケストレイションやチェンバリンを多様した世界。「プログレの先駆けとなったバンド」と解説には記載されていたが、当時私が思い描いていたプログレはキング・クリムゾンやイエス、ピンク・フロイドのようにハードな音色に変拍子やギリシャ哲学のような歌詞の応酬という印象が強く、このムーディーブルースの音楽が果たしてプログレなのかという印象が先に立った。そしていろいろ調べていくうちに「メロトロンをビートルズと同時期から使い始めた」とか「もともとは1964年にR&Bのバンドとしてデビューし、ギターには後にウィングスの核となるデニー・レインも在籍していた」とかある。ビートルズと近しい関係なのかしら、などと勝手に思い、何故か妙な親近感を起こさせるバンドとなったが、日本では知名度が低くヒット曲といえば1967年発表の「サテンの夜」となるようだ。

「サテンの夜」は発売当初は大したヒットを記録しなかったが、5年後の1972年頃からラジオ局から火がつき始め、最終的に全英9位・全米2位・カナダ1位の大ヒットを記録し、彼らの代表曲となった。そして収録アルバム『デイズ・オブ・フューチャー・パスト』(1967)も1972年にはアメリカで最高位3位を記録する大ヒットとなる。


  私、この頃エレクトーンを習っていたけれど「サテンの夜」はエレクトーンの教科書に載っていて、弾いた記憶があるね。エレクトーン向きの情感溢れる歌。ロックというよりムード歌謡かカンツォーネか・・・。

しかし、それ以降、ムーディーブルースは日本では目立つ存在ではなかったのだよね。あのシンフォニックロックというか、仰々しさというか。特にシングルヒットを好んでいた日本の音楽界はコンセプトアルバムという理解が低く、ムーディーブルースのようにアルバム毎にコンセプトを打ち出す作り方をされてもピンとこなかったのではないだろうかね。ラジオで使い辛いし。

  ま、かくいう私も1977年当時『セブンス・ソジャーン』を聴いてもピンとこなかったし。なんだか温いお湯につかっているような気分になり、トロリトロトロ眠くなったものだ。

が、しかーし、最近久しぶりに針を落としてみたところ、なんだかしっくりきたのだよね。

いろいろな音楽を聴いてきてそれが上手い具合に調和し、聴く耳が育ったというのか・・・。

コーヒーじゃないけど、深みが増すというか。「Isn’t Life Strange?(神秘な世界へ)」なんてドラマチックな展開満載でありましてリピートしてしまいます。

 で、作詞作曲のベーシストのジョン・ロッジはこのアルバム制作時27歳。ヴォーカルのジャスティン・ヘイワードは24歳だから、老成しているというか才能が溢れているというか。ザ・バンドみたいな枯れ方よね。

昔、あまり聞かなかったアルバムを聴きなおすと妙な発見があるね。

なんだか得した気分になる。

でもって未だに現役というからザ・ローリング・ストーンズやザ・フーと並び称される長寿バンドでありますな。オリジナルアルバムは2003年まで発表しているようです。

  ムーディーブルースは、プログレの祖ですか・・・。

プログレの概念が今の時代だと良くわからなくなってしまうのだけれど、ムーディーブルースはプログレというよりソフトロックにカテゴライズされる気がするね。ま、いいんだけど・・・。

  あと、プログレのファンの人って物凄く拘りの強い人が多いから、このブログみても怒らないでね。私は音楽評論家のようにサンプル盤聴いて御託並べているわけでなく、しかるべきお金を自分で払って無償で感想を書いているだけなので。あしからず。

2018年6月1日

花形


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# by yyra87gata | 2018-06-01 12:40 | アルバムレビュー | Comments(0)

ギブソン社倒産について

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   ギブソン社倒産の理由は、楽器販売にとどまらず音響機器などへの投資により、その部門の負債が溜まり経営破綻に繋がったとあります。本来の楽器製造販売については採算が合っていたとも聞きます。

ギブソン社は今後は楽器販売に経営を集約させ、再生を図ると報じられていましたが、経営の立て直しはいばらの道でしょう。

なぜなら、一般コンシューマーをターゲットとしている楽器販売は時代の岐路に立たされているからです。

果たして楽器販売だけで今後も運営していくことができるのでしょうか。

ギブソン社と並ぶアメリカの楽器メーカー、フェンダー社も1965年、1985年の2回も経営陣が変更した歴史があり、サンタナの使用でも有名なポール・リード・スミス社も経営に苦しんでいるというニュースも届きました。

若者をターゲットとし、時代と共に繁栄した楽器メーカーの倒産話は、見逃せないニュースです。



   ギターはピアノや管楽器と違って同じようなモデルが多数存在しているので、人気商品の商売なのだと思います。

   1960年代後期、フェンダー・ストラトキャスターは、まとめ売りしても買い手がつかないほど人気が落ちた事があるといいますが、ジミ・ヘンドリクスが使いはじめ、その楽器のポテンシャルにミュージシャンは再度気づかされヒット商品に

1961年より生産中止となっていたギブソン・レスポールモデル(ギブソンSGに継承)も、1970年初頭レッド・ツェッペリンの大ブームにより全世界的にギターポジションをだらりと下げたジミー・ペイジのクローンが登場。レスポールモデルも大ヒット。数々のコピー商品が出回りました。

また、エレキギターの神様はアコギでも神様だったということで、1990年代にアンプラグドブームを決定づけ、グラミー賞を総なめにしたエリック・クラプトンはマーチンギターの看板となり、クラプトンモデルを大ヒットさせています。


つまり、商品ヒットの一番の近道は、オピニオンリーダーがそのギターを使うかどうかという説もあります。


   ギブソン社は毎年ノルマのように「○○年のレスポールモデルです!」と宣伝し、操作面などでプレイヤー視点に立ったアップデートを強調していましたが、ヒット商品の手っ取り早い作り方としては、もはや「そこ」ではない気がします。

往年のモデルの細かい変更に敏感なプレイヤーがどれだけいるんですか!ということ。

その変更のために生産工程を変え、商材を新たにストックしなければなりません。

アメリカに次ぐ大きなマーケットである日本では年と共にプレイヤー人口が減る中、「そこ」に拘るよりも買いたいと思わせる理由は別にあるのではないかと思料します。それは、ギブソンマニアはいても商業的成功にはなかなか結びつかないという事ではないでしょうか。

前述のストラトキャスターもレスポールモデルもクラプトンモデルもヒットした第一の要因は弾きやすさではないはずです。

ビートルズが使っていたからリッケンバッカーを、ベンチャーズが使っているからモズライトを使いたいというファン心裡は真理だと思います。

楽器販売という点から、人気アーティストとのコラボを進めることは手っ取り早い一つの意見です。

ポール・マッカートニーは、ギター業界不振の原因についてインタビューで残念そうに振り返っています。

「電子音楽が増えて、若者は以前と違った聴き方をしている。私はジミ・ヘンドリックスに憧れたものだが、ギターのヒーローは、もういないんだ。かつては誰もがギターを欲しがったものだが......


   ギブソン社の2017年モデルは価格設定を抑えたモデルが多く発表されていましたが、往年のモデルのコストダウンのマイナーチェンジであることは一目瞭然でありました。それでは、いくら学生のエントリーモデルを作っても結果は出ないでしょう。安くすれば売れるのか、という事を企業側は議論したのでしょうが、ギブソン社というブランドで安いモデルを出されてもブランドに「傷しかつかない」気がしてしまうのは私だけでしょうか。

   ベビーブーマーである我々の世代は、エレキギターの歴史そのもので、社会の高度成長と共にエレキギターを手にしてきました。

その中でもギブソンは高嶺の花で、みんなが憧れたブランドです。それは他の楽器メーカー(特に日本の楽器メーカーは隣の大国を笑えないほど露骨にコピーモデルを量産しました)がコピーモデルを量産し、ギブソンの特徴的なロゴを真似してヘッドにデザインした事からも、その想いが伝わります。

その思い入れがある一流ブランドが販売不振の恐怖に震えながら、生産工程や材料を見直し価格を安くして販売する。

それは企業努力をしているように見えますが、往年のファンには響かない行為と私は感じました。そしてそのことには、安価なモデルは中国や韓国で生産され、その品質に問題が出ているという事も付け加えておきます。


   今までは感覚から述べましたが、今度はデータから述べてみましょう。

ギブソンの本国アメリカの話ですが、あるマーケティング調査によると、音楽業界は決して斜陽産業では無いと言います。

フォーブス誌でのフェンダー社CEOアンディ・ムーニー氏のインタビュー記事に興味深い事が記載されていました。


「音楽売上(CDやライブ)は成長しており、12500万人もの人々がデジタルストリーミングサービスを利用しており、こちらも伸び続けています。

LiveNation によると、昨年ライブに行った人の数は、前年比21% 増の8200万人。

スポティファイやアップルミュージックが音楽業界を縮小させるという兆候はありませんし、世界最大のイベント会社であるLiveNation 11年連続で成長しています。」


   驚くなかれ、成長している産業であるにも関わらず、その雄たるギブソン社が倒産とは。いくら不採算部門を整理して再生するなどと説明しても説得力に欠けるエクスキューズに聞こえます。

一度ならず二度も地獄を経験したフェンダー社のアンディ・ムーニー氏は楽器メーカーとしての生産能力もさることながら、その販売方法にも意見を述べています。

楽器販売店とネット販売についての現状を述べています。


「現在の楽器店には、ネット販売をしないリアル店舗のみの店、両方やる店、ネット専門店の3種類があります。

それぞれの状況はというと、まずリアルオンリーは現状維持。両方の店は一桁から二桁台前半の成長、そしてオンライン専門店は右肩上がりです。そして、地域によって異なりますが、北米では総売上の半分が、なんらかのオンライン販売によるものだと推測しています。過去3年で35% 50% へと増えました。」


   これが事実なら、私はすでに取り残された古い人間です。なぜなら楽器には個体差が必ずあり、購入する前には新品だろうが中古だろうが必ず試奏するものと思っているからです。

では、どのような人がネットで楽器を購入しているのか。アンディ氏は続けます。


2年ほど前、我々はギターを初めて買う人について大規模な調査をしました。

我々が毎年販売するすべてのギターのうち、45% を初心者が購入していることが分かりました。これは我々の想像を遥かに超える数字でした。

そして初心者の90% が、最初の12か月のうちにギターをやめてしまいます。

一方で残りの10% は、最初に買ったギターを使い続けるのではなく、複数のギターやアンプを購入する傾向にありました。

加えて新たにギターを始める人の50% が女性であることもわかりました。

彼女たちはリアル店舗について敷居が高いと感じており、ネット通販を利用する割合が高めです。

そして最後の発見は、初心者はレッスンに楽器の4倍以上のお金をかけているということです。

これらの事実は色々なビジネスモデルを形作りました。我々がFender Play というオンラインレッスンサービスを始めたのは、楽器とは別の新たなビジネスチャンスがあると思ったからです。

レッスンというと教室に通うイメージですが、世界的にはオンラインレッスンが主流になってきています。

Fender Play や各種マーケティングを実施して、ギターに興味がなかった人にギターをやってみたいと思わせることができたのは、衝撃的な出来事でした。

そして女性のオーディエンスへのアピールも強化する必要があるので、契約アーティストや宣伝画像に使う女性、そしてウェブマーケテイング全般について日々検討しています。」

   

このインタビューこそが、地獄を経験し、売上を毎年15%平均で伸ばしているフェンダー社と今回のギブソン社との差かもしれません。

そして、こう付け加えます。

「ここ最近で伝えられているギブソンの不振は、彼らが自ら招いたものであり、業界の現状を表しているものではありません。」と。

業界の展望を自社製品のビジネスモデルに繋げているフェンダー社とギター専業メーカーから総合音響メーカーへの脱皮を進めて失敗したギブソン社との差が露呈しました。


   メーカーとして一流の商品を我々に届ける役割は経営陣にかかっています。いくら最高の職人が極上の商品を作っても売り方一つでそのブランドは地に落ちます。

   今回のギブソン社の経営破綻は、不採算部門の影響とありますが、ここ近年の商品ラインアップを見ても、果たしてその問題を解決するだけの施策なのか。

負債の解消のため、何か大切なギブソン社の財産が処分されてしまわないように

ギブソンギターのオーナーとして、栄光のブランドに傷をつけて欲しくないという思いから書き綴りました。

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2018年5月4日
花形

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# by yyra87gata | 2018-05-04 19:18 | 音楽コラム | Comments(0)

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 この写真だけでご飯3杯は食べることが出来る。なんとも格好良いじゃありませんか!

サディスティック・ミカ・バンドがロックの本場であるイギリスに渡り、ロキシーミュージックと対等に渡りあったというツアーの時の写真でしょうか。

イギリスの古い街並みに溶け込む加藤和彦。余裕の笑顔。

音なんて聴かなくてもこの写真だけで「あーちゃんと日本にも面白いロックがある」ということを伝えてくれたのだな、と思いましたよ。

 この時の話は、様々なメディアがこのコンサートツアーを取り上げていましたが、いまいち詳細に欠けておりました。今のようにSNSもありませんから、具体的ではなく、「ツアーの最後の方ではロキシーミュージックより声援が多かった」などという記事が多く、どのような規模で行われていたのかもわからずじまいで、当時の日本の音楽雑誌でさえも大きく取り上げていませんでした。なぜなら、わからないから。せいぜい、イギリスの大衆タブロイド誌であるデイリーミラーに掲載されたのだから、現地では話題になっていたことは間違いないだろう・・・的なもんです。

 今のメディア構成で当時の活躍があったら扱いは全然違う気がしますね。

 

 サディスティック・ミカ・バンドは、実力も技術もあるミュージシャンを入れ替えながら加藤とミカが中心になり、突き進みました。しかし、名盤『黒船』(1973)の制作時にプロデューサーとして迎えたクリス・トーマスとミカが不倫関係に陥り、あっけなくバンドは解散の道を選びます。

しかし、ロキシーミュージックとのツアーは決定事項であり、2人は仮面夫婦を装いながらもツアーをこなしました。そして、イギリスツアーが終了し、帰国後、正式に離婚手続きをとりバンドは解散しました。

このような事情は1996年にミカが執筆した「ラブ&キッス英国-イギリスは暮らしの達人」を読んだからわかったことで、当時の情報は「ミュージック・ライフ」誌に《あれあれ、トノバンとミカが離婚!バンド解散だって!》みたいなノリで書かれていただけでしたから、高校時代にその情報を見た私(離婚から5年くらい経っている)は「なんだか、つまらねぇの!結局、女とバンドやると最後はケンカして解散だろ、ビートルズだって女が入ってきたから解散したようなもんだろ、だから面倒臭ぇんだよ、女が入ってくると!」なんて憤りを感じていたことは今思うと笑える話です。ま、童貞には分からない話です。

 

私が聴き始めた頃は既にバンドは解散していたわけですが、彼らのオリジナリティー溢れる作品は私の心をわしづかみにしました。なぜなら、加藤和彦という存在を知った瞬間から、他のミュージシャンが霞んで見えてしまったからです。

加藤和彦の音楽性、パロディーセンスや立ち振る舞いは他の日本のミュージシャンの次元ではなかった様に思います。

ちょうどその頃の他のミュージシャンといったら、北海道の“めぐる季節”は「テレビに出ない!」なんて息巻いていたし、大阪の“チャンピオン”はハンド・イン・ハンドだし、長崎の“バイオリン弾き”は「海は死にますか、山は死にますか」なんて呪文を唱えている始末。コンサートでバスタオルを肩に掛けて唾を飛ばしながら叫んでいる広島の“リーゼント”は、少しは大人になろうと思ったのか何故か独りでアメリカに旅立ってしまった。応援していたツッパリ兄ちゃん達は呆気にとられていたものです。そんな混沌とした日本の軽音楽界で加藤和彦はやっぱり異質でありました。

1960年代後半、雑誌「MEN’S CLUB」での呼びかけ(音楽誌ではなくファッション誌というところが違うね)により結成されたザ・フォーク・クルセダーズの「帰ってきたヨッパライ」から始まり、髪の毛を七色に染めてブギーを踊るミカ・バンド。バンド解散後は早々に次の伴侶である安井かずみと組みアメリカに渡り、マッスル・ショールズ・サウンド・スタジオで、ジミー・ジョンソンやバリー・ベケット、ロジャー・ホーキンス、デヴィッド・フッドらとレコーディングをし、「シンガプーラ」(1976)を共作。

この振れ幅の広さ・・・すべて加藤和彦のセンスであります。ロンドンからアメリカのコアまで。この柔軟な対応力は加藤和彦の一番のパワーであると確信します。なぜなら、この作品の3年後にはバハマ~ベルリン~パリと音楽性をカメレオンの様に変え、名盤を残していくからであります。

 サディスティック・ミカ・バンドのロンドン公演のアルバムの感想は、高校時代に聴いた時は、先駆者としての足跡を残したという証という意味で妙な感動を憶えましたが、今聴きなおすと演奏自体の出来は、決して良いものではなかったかもしれません。加藤のギターがバンドを下支えしているのはわかりますが、いかんせん音響設備も今と比べると稚拙なものであります。加えてこのアルバムの音源はソニーのカセット(デンスケ)の1発のマイクで録音したもので、そもそも記録用であったものをリリースしたと知りました。だからかもしれませんが、テンションは落ちます。また、後にわかったことですが、このバンドは音だけ聴いていても魅力は半減するのだと。彼らはビジュアルにも気を使っていましたからね・・・。

しかし、当時27歳で最年長である加藤和彦を筆頭にミカ、高中正義、高橋幸宏、今井裕、後藤次利の若さみなぎる演奏を目の当たりにしたイギリスの若者は、心をわしづかみにされたに違いないでしょう。

「黒船」によってロックミュージックが海を渡って日本に伝わり、そのロックミュージックは加藤により形を変えてロックミュージックの国で演奏されたわけです。

 私も今、聴きなおしてみて思いましたが、感慨に耽るより、当時、ティーンエイジャーで彼らの生演奏を聴いてみたかったですね。もちろんロンドンで。

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2018年4月4日

花形


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# by yyra87gata | 2018-04-04 12:25 | アルバムレビュー | Comments(0)