音楽雑文集


by yyra87gata

カテゴリ:アルバムレビュー( 160 )


d0286848_19393230.jpg

不思議なアルバムである。

タイトルはずばり『ALBUM』(1977)である。名義は松任谷由実。

荒井由実と松任谷由実の曲がランダムに並ぶ。

ユーミンとしては、松任谷正隆との結婚で荒井から松任谷に姓を変え、心機一転のアルバム『ハルジョン・ヒメジョン』(1978)でスタートを切るというシナリオもあったであろうが、いきなり出鼻をくじかれたようで、まさかのベスト盤の発表であった。

東芝EMIからの要請で渋々発表を許可したようで、発売日はまさに1977年12月25日。クリスマス商戦に乗じてか、「ユーミンの結婚記念盤」とまで宣伝されたアルバムで、大人の事情がぷんぷん匂う作品である。

そのためかユーミン自身はこのアルバムをあまり良く思っていないようで、著書「ルージュの伝言」にもそのようなことが記載されている。なんでも売上が悪かったから自分のアルバムの中で「最大の汚点」らしい。しかし、言わせて貰えば、渋々リリースした経緯もあり、本人もあまり力を入れて無かったと見受けられるので(ジャケットなんてただのレコードの写真ですから・・・しかもサンプル盤)、そんなこと書かなければいいのにと思ったけどね。

私は当時そんな事情も知らず、このアルバムを購入し愛聴していた。このアルバム『ALBUM』は(ややこしい)、荒井由実時代の曲を6曲と松任谷由実として発表された2枚のシングル盤のAB面が収録されており、予算の都合でシングル盤まで手が届かない当時中学生の私はお得感満載で購入したという記憶がある(しかし、その後シングル盤も結局揃えちゃうんだけどね)。

特に当時のシングル盤「遠い旅路」(B面「ナビゲーター」)、と「潮風にちぎれて」(B面「消灯飛行」)はこの『ALBUM』がCD化されていないので、中々陽の目を見ることが無い。

そういえば、この頃のユーミンのシングル盤は中々渋い作品が多く、CD化されていないものが多いのだ。

ESPER」(1980.3)は後のアルバム『REINCARNATION』(1983)に別テイクで収録されるがシングルヴァージョンのそれは松原正樹のギターをふんだんにフューチャーしたもので、アルバム『時の無いホテル』(1980)からこぼれたものと推察される。また、次作の「白日夢・DAYDREAM」(1980.5)は打って変わって落ち着いたヨーロピアンなミドル・オブ・ザ・ロードで、朝の番組のテーマ曲というのも頷ける作品(朝の番組ではちょっと渋すぎるかもしれんな)。

そして極めつけは、「星のルージュリアン」(1980.8)。1970年代後半から1980年代中半にかけてとにかく化粧品メーカーのタイアップを取ればみんなヒットしたという定説がある中、あまりにも渋すぎてオリコン46位というユーミンにしては不名誉な成績を残した名曲である。でも良く考えたら1980年って彼女シングルを3枚も発表してるのね。すごいパワーを感じるんだけど、みんなオリコン30位にも入らない。ユーミンは、アルバム志向といえばそれまでなんだが、レコード会社にしてみれば痛いね、こりゃ。

でも「星のルージュリアン」。これ、アタシ大好きな歌でね。こんなセンスのあるシティポップ、ユーミンじゃなければパフォーマンスできないよ、と勝手に思っていた。

ルージュリアンって言葉も聞いた事の無いワードで、ユーミンはつくづくコピーライターだなと思う。化粧品メーカーはポーラ化粧品で口紅のコマーシャルだった。

ルージュリアンの次のシングル盤は「守ってあげたい」(1981.6)だから、ここからユーミンのメガヒットアルバムの大行進が始まるんだけど、1980年までのユーミンのシングル盤・・・先ほどの『ALBUM』も含めてまとめてCD化して欲しいな。1989年にシングルCDで出た経緯はあったみたいだけど。

レコードのシングル盤は全部持っているんだけど、車で聴きたいし・・・。

とりとめのないことを書いてしまったが、ユーミンの「シングル盤でアルバム未収録&シングルヴァージョン作品集」なんて出たらすぐにポチッとする。

CDというメディアがなくなる前に形として残して欲しいのよ。ダウンロードじゃ味気ないから。


d0286848_19403365.jpg


2018年2月15日
花形





[PR]
by yyra87gata | 2018-02-15 19:45 | アルバムレビュー | Comments(0)

d0286848_16530731.jpg
 私の好きなスプリングスティーンは「アメリカで生まれた!」と叫ぶマッチョでは無い。ニュージャージーの裏町にいる痩せこけた野良犬がちょっと卑屈な眼差しで世間を斜めに見ているような・・・。いつかは雷轟く道を辿り、約束の地で栄光の日を夢見る男。
 学校の勉強より仲間とロックンロールビートに浸り、土曜の夜にはじけることだけを考えているティーンエイジャー。

そして、野心だけをカバンに詰め込み、汗のにじんだテレキャスターを背にし、ニューヨークへと旅立つ。細身の身体は粋がって大きく見せているが、どこかおどおどしていて、目だけは野心に燃えている。そんな男だ。

70年代中盤、アメリカ、イギリスの音楽はカオスだった。ハードロック、パンク、AOR、グラムロック、ブルースなどが入り乱れ、シングルヒットで評価される音楽業界がアルバムへと目が向き、その後アルバムのメガヒットへとシフトしていくようになる。

時代はクィーンやKISS、エアロスミスといったビジュアルにも長けたロックバンドやボズ・スキャッグスやスティーリーダンといった落ち着いた趣のバンドがセールスを伸ばし始め、キャロル・キングやエルトン・ジョンといったシンガーソングライターはブームが過ぎ去り、ブラックパワーはファンクビートに乗せてソウルトレインに乗車していた。そんな入り乱れた音楽地図の中をスプリングスティーンはただストレートなロックンロールで突き進む。

そんな猛々しい8ビートのロックンロールをステージ狭しと展開していたことは、海外でのライブレポートを読む私の胸を膨らませたが、フォークロックの趣深いファーストアルバム『アズベリ・パークからの挨拶』(1973)も妙なブラスが参加し、音を厚くさせたジャージーにも聞こえるセカンドアルバム『青春の叫び』(1973)も違和感が募る。

彼のパフォーマンスを必死に感じようとするのだが、「ミュージックライフ誌」に掲載されている写真とアルバムから出る音が、上手く結びつかなかったのだ。

ライブグラビアでは、スプリングスティーンはテレキャスターをかきむしり(テレキャスではなくエスクワイヤーにエクストラ・テレキャスターのピックアップを取り付けたことは後で知るのだが)、グランドピアノの上からジャンプし、聴衆を煽る分かりやすいアクション。汗を撒き散らし、細身の身体をしならせてのけぞりながらギターをかき鳴らしている。

セカンドアルバムから約2年。

とうとうそのアルバムは姿を見せる。1975年の夏だった。

FENはカオスとなっていた。

イーグルスの「呪われた夜」、ジェファーソン・スターシップの「ミラクルズ」、エアロスミスの「ウォーク・ディス・ウェイ」、クィーンの「ボヘミアン・ラプソディー」、ウィングスの「あの娘におせっかい」がぐるぐるとヘビーローテーションしている。

そんな中にいきなりのスプリングスティーンのシンプルな8ビートが炸裂した。

『明日なき暴走』(1975)。 “BORN TO RUN”を「明日なき暴走」と題するセンス。

ガキの私はしびれた。

それはどんなヘビーメタルな音よりも生音のまる裸の音圧が響きまくり、耳障りな裏街の音だった。

まさにミュージックライフ誌でみたあのライブ写真の音だ。

しかもA面からB面へと一気に炸裂し、その暴走は39分で終了。なんと潔いことか。

ロックンロールの潔さ。駆け抜ける美しさ。

華美で、様式美のロックもいいが、このアルバムは混沌とした世界に向けてストレートな一撃をくらわした。

もちろん、ただのロックンロールで終わらないことは、このアルバムの最後に収録された「ジャングルランド」を聴けば合点がいく。9分半に及ぶこの大曲のアレンジはスプリングスティーンの同郷であるチャーリー・カレロが担当しており、自身が結成したフォー・シーズンズばりの歌心を持ったアレンジとなっている。そしてそれは、スプリングスティーンの懐の深さを物語っている。

このアルバムは1970年代中盤に見られたメガヒットアルバムの仲間入りはしなかったものの、長く愛され、未だにスプリングスティーンの代表アルバムとして推す人も多い。

そして音だけでなく、アルバムデザインも秀逸で、見開きの背表紙はサックスを吹くクラレンス・クレモンズの肩越しに寄りかかり笑みを浮かべる細身のスプリングスティーン。その格好良さといったら・・・。

やっぱりロックンローラーはマッチョじゃだめなんだよ。

d0286848_16535134.jpg

2018/1/19

花形


[PR]
by yyra87gata | 2018-01-19 16:57 | アルバムレビュー | Comments(0)

Colours Fabienne


d0286848_17080510.jpg

1980年代の音楽事情はデジタルや打ち込みなどの新しい音楽機器の発達が凄まじく、それまでの音楽を一気に古臭いカビ臭いものへと変換してしまった。

そんなターニングポイントとなった1980年代半ばに、日本の音楽シーンは来るべきバンドブームの前兆があり、余震のようにグラグラと揺れ始めていた。それは、それまで栄華を誇ってきた音楽番組が冬の時代に入り、テレビ各局から消滅していくことから始まった。そしてそれまでの「歌謡曲」と呼ばれるジャンルは消えていった。

洋楽はMTVの登場で歌にドラマ性を求め始めたのも特徴であろう。

CMやテレビドラマのタイアップ曲はそれまでの「歌謡曲」ではないビートの効いたバンドサウンドが主流となり始め、徐々にヒット曲のメソッドが出来上がっていった。

そんな時代の狭間となった頃、レベッカは第2のスタートを切るべく路線変更を行ないミュージックシーンに登場した。

レベッカのデビュー時はギターの小暮体制によるハードロック路線の音楽作りで進んでいたが、音楽性の違いを理由に小暮やドラムの小沼が脱退してしまう。

バンド存続のため、メンバーを再編成し、キーボードの土橋体制によるリスタートが切られるのだが、新たなメンバーでの音楽性はファーストアルバムのそれとは異なり、かなりポップサウンドとなり、ヒット曲を狙うキャッチーなメロディを主としていた。

その時にオーディションで加入したギタリストが古賀森男である。

 リスタートを切ったレベッカは誰が見ても当時のアメリカのマドンナやシンディ・ローパーの様なポップサウンドであり(オマージュ)、NOKKOのヴォーカルと相まって、聴きやすいサウンドに成されたが、その重要なフレーズを担っていたのが古賀のギターである。

 レベッカが飛翔するきっかけとなった「ラブ・イズ・Cash」や「フレンズ」といった作品のダンサブルなカッティングやメロディアスなギターソロは、土橋の作るマドンナを彷彿させる音のフォーマットと一線を画し、オリジナリティ溢れるフレーズだ。だから、古賀のギターワールドがあってこそのレベッカ飛翔と私は勝手に思っている。

バンドサウンドはプロデューサーがどこまでメンバーに「やらせるか」によるもの。

誤解を承知で書くが、売れるためには有名なフレーズをパクってまでも、雰囲気を出してしまえばいいと言う。オリジナルを超えるアレンジで租借すればいいという意見もある。あとは、作り手は良心の呵責にさいなまれるかどうかの話だが、そんなことより売れてナンボの世界でもある。

レベッカは時代の音を反映し、NOKKOの圧倒的なヴォーカルで駆け上っていった。


古賀は自身のバンドFabienne(フェビアン)に専念するため、人気が出始めたレベッカを脱退する。

 『Colours』(1989)はフェビアン2枚目のアルバムである。ファーストの『冒険クラブ』(1988)と並び、古賀ワールド満載のポップなアルバムである。

 少し線の細いヴォーカルだが、デジタルサウンドや打ち込みサウンドがひしめき、ドラムには常にゲートリバーヴが施されている時代の音に反し、心温まるメロディに不意をつかれる。

 そして、古賀のギターはポップなのだ。

 それが例えロックンロールを刻んだとしても、グルーヴはポップサウンドになる。だからこそ、路線変更したレベッカが大ヒットしたことは頷けるのだ。

テクニックも去ることながら、グルーヴがバンドサウンドとして合致した瞬間にしか成し得ない音が必ずある。

 それを体現した古賀森男のサウンドは、唯一無二となるのだ。

 

フェビアンは商業的には成功しなかった。そして、フェビアンは1990年に解散した。

古賀森男はソロミュージシャンとして今も活動中である。

 フェビアンも1999年に再結成しているという。

Colours』をたまに聴くことがあるが、そのたびごとに新しい発見をする。今の時代の音の中に置いてもこのアルバムは聴きやすい。これを普遍性と呼ぶのだろう。

音楽は不思議だ。

声を高らかに「Holy Town」を歌い上げる古賀の姿を見てみたい。

時代に翻弄されない音がそこにあるはずだ。


d0286848_17130156.jpg

2017年10月2日
花形


[PR]
by yyra87gata | 2017-10-02 17:14 | アルバムレビュー | Comments(2)
d0286848_10493076.jpg

 アメリカと北朝鮮の代表2人が核ミサイルのボタンに指を乗せていた頃、お花見で盛り上がる日本では、一部のマスコミだけに緊張が走ったが、概ねどのテレビ局も普段どおりのバラエティ番組の中で荒唐無稽な笑いを提供していた。
そんな2017年4月14日の午後、ソロ公演のため来日していたイアン・マッカロク(エコー&ザ・バニーメン)はマネージャーと2人、無許可で日本を出国してしまった。招聘元のスタッフはもちろん、英国から連れてきていたスタッフにも話をせずにである。
戦争開始を危惧し身の危険を感じての行動なのだろうが、スタッフはもとよりファンに対する礼儀もあったものではない。
しかし、この不届きな行動・・・決して褒められたものでは無いが、果たして・・・。
核戦争の危機感をあまりにも感じ取れていない日本。
何をしでかすか分からない北朝鮮の代表と、つい1週間前に中国主席との会談中にミサイルをシリアに向けて砲撃したアメリカの代表の手元には常に核ミサイル発射装置があり、アメリカNBCは4月15日をXデイとして報道していた。
そのような報道が飛び交う中、北朝鮮とアメリカの戦場になると予想される日本の緊張感の無さといったら。
いたずらに報道を煽る必要はないが、イアン・マッカロクの取った行動を非難することができない気もする。
 
 さて、このようなマイナスな書き出しで始めてしまったが、イアン・マッカロク率いるエコー&ザ・バニーメン。
1970年代後半に結成され1980年代後半まで一線で活躍し、後世のバンドへの影響力は非常に高いものがある。
ジャンル的にはネオ・サイケやオルタナティブ・ロックと称され、コールドプレイやニルヴァーナへの影響力は多大だと言われている。
バンドとしては、アメリカでの商業的成功は成し得なかったが、世界中に根強いファンを持ち、メンバーの死亡などで一度は解散状態に陥ったが今でもマイペースに活動を続けている。

 私が彼らを最初に聞いたのは1983年頃だったか。
部屋でFENを流していたら、聞き覚えのあるヴォーカルが妙な唄を歌っていると思った。
「ドアーズにこんな唄があったか」という第一印象。「モリソンは死んでいるのだから、なにか未発表音源でも見つかったのか・・・」
それがアルバム『ポーキュパイン』(1983)との出会い。エコー&ザ・バニーメンのヴォーカルであるイアン・マッカロクは、ドアーズのジム・モリソンと間違えるくらい曲調や声のトーンが似ていたのだ。
そして、続けてイギリスのどこかで行なわれたライブ音源が放送されたのだが、テレヴィジョンの「フリクション」をトム・ヴァーラインのヴォーカルのように不安定に歌っていたのだ。このヴォーカルは只者では無いと思った。
 当時アメリカではマイケル・ジャクソンの『スリラー』(1982)をはじめ、ケニー・ロギンス、ジャーニー、ホール&オーツなどがメガヒットを連発。洋楽テレビ音楽番組の「ベストヒットUSA」は華やかなラインアップで彩られていた。
そんな弛緩した私の頭の中に入り込んできたエコー&ザ・バニーメンである。

 私はもともとニューヨークパンクが好きである。ニューヨークパンクはパティ・スミスしかりベルベット・アンダーグランドしかり、唄という作品で人間そのものを表現し、それが悲痛なロックであり静寂なバラッドであり、ポエトリー・リーディングであり、音楽表現の自由さが無限大にあるところに惹かれていた。
そんな中でイギリス、しかもリバプール出身のエコー&ザ・バニーメンの演奏はとても異質に感じられたのだ。
当時のイギリスのニューウェーブの筆頭はポリスであり、もう一つの流れとしてパンクバンドであったザ・ジャムから派生したスタイルカウンシルが人気を二分していたが、エコー&ザ・バニーメンからはイギリスの匂いよりニューヨークの匂いがした。モッドな雰囲気も無かったし・・・。
そして翌年、アルバム『オーシャン・レイン』(1984)が発表され、その中の「キリング・ムーン」は彼らの代表曲となった。
この「キリング・ムーン」・・・切ない男のラブソングだ。

 「蒼い月の下で出会い、一瞬のうちに私を魅了した貴方。
  貴方は残酷にも私にキスをした。魔法のような世界に私をいざなう。
  そして宝石をちりばめた空にキリング・ムーンが昇ってくる。
  運命・・・意志ではどうにもならないもの・・・どんなことが起きようと私は待つ
  貴方が私に身を委ねるまで・・・」

 「キリング・ムーン」に魅了され、何度も聞き込んでいたが、後に発表された12インチの「オール・ナイト・ヴァージョン」がこれまた特筆ものなのだ。
重厚なストリングスとVOXのビザールギターのチープな音のコラボレーション。
イントロを聴くだけで神経がどんどん覚醒されていく。9分にも及ぶ超大作。白眉のパフォーマンスである。
そして、この「オール・ナイト・ヴァージョン」を収録したアルバムが『まぼろしの世界(12inch+LIVE)』(1988)である(原題「NEW LIVE AND RARE))。
1988年の来日時に編集盤として制作された企画盤で、タイトル曲の「まぼろしの世界」は言わずと知れたドアーズの名曲である。イアンのヴォーカルは、ジム・モリソンが憑依した如く鬼気迫るヴォーカルとなっており、しかもこの曲のプロデュースはドアーズのキーボーディストであるレイ・マンザレクが務めているという懲りよう。
他にも、ビートルズやストーンズなどのロックの名曲をカバー。
特筆は前述したテレヴィジョンの「フリクション」まで収録されていること。これは嬉しい1曲である。
41分と最近のアルバムと比べると短い収録時間のアルバムだが、おなかいっぱいになること間違い無しである。

 逃げるように帰ってしまったイアン・マッカロクだが、もう再び日本に来ることは無いだろう。
とりあえず現段階ではミサイルは飛んでいないが、緊張は続いている。
 
2017年04月17日
花形
[PR]
by yyra87gata | 2017-04-17 10:51 | アルバムレビュー | Comments(0)
 
d0286848_13541781.jpg

 ザ・バンドはとてもユニークなバンドであった。
4人のカナダ人と1人のアメリカ人。彼らから生み出されるアーシーなサウンドは、生粋のアメリカ人よりアメリカン・ルーツミュージックを醸し出していた。
そして様々なミュージシャンとの交流は、解散コンサート「ラスト・ワルツ」を観れば一目瞭然で、彼らの演奏表現力の幅の広さを思い知らされた。
1976年に解散したザ・バンド。ドラムスのリヴォン・ヘルムは解散後、それまでの人脈を辿りながらソロアルバム『リヴォン・ヘルム&RCOオールスターズ』(1977)を制作。ロビー・ロバートソンやガース・ハドソンといったザ・バンドの面々と共にブッカー・T&ザ・MG’sの面々やドクタージョン、ポール・バターフィールドなど豪華なミュージシャンのラインアップで、彼らの繰り出すアーシーなサウンドの中で気持ちの入ったヴォーカルを聞かせた。
 リヴォンは、このようにザ・バンド解散後にソロアルバムを早々と発表した訳だが、最後まで解散に反対していた彼は独りぼっちになることを拒み、昔日のザ・バンドを追いかけた末、気心が知れた仲間とセッションバンドを組んだという形を取ったと後年語っている。だから、本当の独り立ちの意味で言うなら1978年に発表した『リヴォン・ヘルム』(1978)が彼のファーストソロアルバムという気がする(しかしながら、これがややこしく、邦題では『リヴォン・ヘルム2』となっており、所謂2枚目のアルバムという意味の2を邦題では使用している)。
 さて、この『リヴォン・ヘルム』だが、前作からの流れでブッカー・T&ザ・MG’sのスティーブ・クロッパーのギターが全面に押し出され、1曲目から伸びやかなソロで盛り上げている。他にもバリー・バケット、ジミー・ジョンソン、ロジャー・ホーキンスらマッスル・ショールズ人脈も参加しており、アメリカン・ルーツミュージックを探る上でもとても重要且つ聴きやすいアルバムとなっている。
 但し、このアルバムは先の『リヴォン・ヘルム&RCOオールスターズ』の影に隠れてしまい、あまり商業的に成功していないが非常に高レベルな作品と確信する。それは、ジャケットではスティックを持ち、ポーズをつけているリヴォンが、実はドラムをウィリー・ホールやロジャー・ホーキンスに任せ、ヴォーカルに専念している点でも歌に賭けた思いが伝わってくるからだ。プロデュースはスティーブ・クロッパーに任せ、サウンドデザインも上々である。
 
d0286848_13502815.jpg

 リヴォンはザ・バンドではドラムスを担当していたが、歌唱しながらのハートのこもったプレイが真情で、ドラムテクニックという面では同僚のリチャード・マニュエルの方が器用だったとも言われている。しかし、ライブプレイでは歌唱とドラミングが一体化し、彼独特のグルーヴを生み出す(1989年、リンゴスターのオールスターバンドで来日したときに盟友リック・ダンコと「ウェイト」をプレイしたときなどはそこにザ・バンドがいるかのような錯覚にとらわれたほど気持ちの良いグルーヴであった)。
 だから、このアルバムのサウンドがとても良いものだったので、この作品をリヴォンがドラムプレイしながら歌うというライブを観てみたかったのだが、それは実現されなかった。
『リヴォン・ヘルム&RCOオールスターズ』発表時には凄腕のメンバーを揃え初来日公演を日比谷野外音楽堂で行なったのだがら、このセカンドアルバムが発表されたときにリヴォン・ヘルム名義で来日公演が行なわれなかったことが悔やまれる。
 ちなみに、その後のライブについては、1980年代に入り、ロビー・ロバートソン抜きでザ・バンドを名乗り来日したことがあったが、それはもうジミー・ペイジが抜けたレッド・ツェッペリン、ポールやジョンが抜けたザ・ビートルズに等しいもので、私はコンサートを観る気もおきなかった。ロビーのキコキコと鶏の鳴くようなピッキングなくしてザ・バンドは語れないのだ。

 さて、この『リヴォン・ヘルム』。私はこのレコードをいつどこで購入したのかを思い出してみる。私の記憶ではFENでアルバムの1曲目である「エイント・ノー・ウェイ・トゥ・フォーゲット・ユー」がオンエアされ、感動し、そのサビの部分だけを紙に書きとめレコード屋に走った。
当然レコード屋のお姉ちゃんは何のことだか分からず「リヴォン・ヘルム?何ですか、それ、食べれるんですか?」と言うような顔で私を見て、メモ用紙にカタカナで「レボンヘルム  エイントノーウェイトウフォーゲッチュー」って書いて、「あとで店長からレコード会社さんに聞いてもらいます」と神妙な表情で答えてくれた。
 その2週間後、家の電話が鳴り「お客様のレコード、あれ、リヴォン・ヘルムのアルバムの1曲目でしたね・・・注文しますか?」という恐ろしいほどのサーチ能力のあるレコード屋の店長の声が私の耳に木霊した。

 いまほど情報も無い中、あのレコード屋のスキルはピカいちだった。

2017/2/17
花形

[PR]
by yyra87gata | 2017-02-17 13:54 | アルバムレビュー | Comments(0)

d0286848_9471265.jpg

 ジョニ・ミッチェルは音楽家であると共に画家であり写真家である。物事や考えをビジュアルに映し出す力を持ち、同時に音を操る。元々はギターやピアノの弾き語りで素直なフォークソングを歌っていたが、概念に囚われない音作り。レギュラーチューニングの限界を感じたのかオリジナルの変則チューニングを駆使しながら独自の世界観を構築していく。
「これまでの人生で、一般的なチューニングで曲を書いたのは2曲だけ。もしもあのチューニング(オープンチューニング)を教えてもらっていなかったら、たぶん音楽を辞めていたか、ピアノに転向していたと思う」(ミッシェル・マーサ著「ジョニ・ミッチェルという生き方 ありのままの私を愛して」より)

 ジョニのファーストアルバムはディビッド・クロスビーによって制作された。そして、その後2人の仲は急速に近づく。その後、クロスビーのバンド仲間のグラハム・ナッシュとも恋仲となる。
他にもレーナード・コーエンとの関係は、彼の親に挨拶に行き、結婚に一番近かったとも言われている。
『Blue』(1971)制作時にはギタリストで参加していたジェームス・テイラーと・・・。『Hejira(逃避行)』(1976)以降はジャズ色が色濃くなり、この頃からジャコ・パストリアスと良い関係になっていく。
彼女は付き合う男の才能を超えたところで作品を制作する才能の塊なのだ。
まるで女郎蜘蛛のような存在。その結果、名作は残るので食われる男はある意味幸せかもしれない。
若い頃の写真や映画の中のジョニを観ると、芯の通った「いかした姐さん」という感じで、みんなその魅力にイチコロだったんだろう。
 生まれる時代が10年早かったらプリンスだって男性遍歴に名を連ねたかもしれない。なぜなら、プリンスがまだ15歳の少年の頃、せっせとファンレターを書き綴り、コンサートでは1番前の席でステージを見つめていたその先にジョニ・ミッチェルがいたというのは有名な話である。
プリンスは生前『The Hissing of Summer Lawns(夏草の誘い)』(1975)を生涯最高のアルバムと大絶賛している。だから、もしプリンスとジョニが付き合ってアルバムを制作していたら、ジョニの音楽遍歴にファンクを超えた新しい音楽が生み出されていたかもしれない。

 私は、ヒット曲が好きである。ヒット曲には何かしらの魅力があり、必ず一般大衆の心を鷲掴むパワーを持っていると思っている。しかし、ヒット曲の定義を記載することはあまりにも不毛なのでここでは避けるが、ヒット曲(商業的成功)がさほど無いのにレコードを出し続けるアーティストというのも存在している。特に洋楽の中には日本人では理解できない文化や考え方を持ち、その土地で愛される魅力を持ち合わせている作品も多い。
 ジョニ・ミッチェルは日本でさほど名が売れていない。日本において商業的成功という部分では語れないだろう。それは、日本人が彼女の作品の変幻についていけない部分もあり、彼女の作品がキャッチーなメロディーメイカーというより歌詞の芸術性を多く含んだ作品が多いからかもしれない。また、変則チューニングや近年のジャズ寄りな音楽性も日本人の好むメロディーから離れた存在だったのかもしれない(稀に「サークル・ゲーム」のように優しいフォークソングであるなら映画の主題歌ということもありヒットを記録したが、歌唱はジョニでは無い)。
 私が中学の時に見たザ・バンドの解散コンサートを綴った映画「ラストワルツ」で、「コヨーテ」を歌うジョニ。抑揚も無く、ドラマチックな展開も無いこの歌で正直猛烈な眠気に誘われたが、スクリーンの画面を凝視していると、あることに気づいた。そう、この退屈な歌を歌う女性シンガーに対し、ザ・バンドの面々もニール・ヤングも彼女に対し畏敬の念を抱いていることが読み取れたのだ。彼らのジョニに向ける目線。そして音。そこには私の幼稚な頭では理解できない歌を構築していく世界があり、音で会話をしているという情景がそこにあったのだ。私は、そんな光景を消化することができずモヤモヤとした気分で映画館を出た。そして、すぐに「ラストワルツ」のサントラとジョニ・ミッチェルのアルバム『Hejira(逃避行)』を購入した。
 映画の中で歌っていた「コヨーテ」。「コヨーテ」と呼ばれる男とのロードムービー。
歌の最後の「A prisoner of the white lines on the freeway」の一遍が詩的で虜になった。
それから私は、ボブ・ディランのアルバムを買うことと同じ感覚で、なけなしの小遣いの中から2500円の彼女のレコードを購入していった。ディランと同じ感覚・・・とにかく詩が難しい。メロディも難解な音楽ではあったが、2500円分の価値は十分に感じとっていたつもり。
d0286848_9482463.jpg

 今回ご紹介するアルバムは、ジョニ・ミッチェルの10枚組CDボックス。いやぁこれは凄い。ジョニ・ミッチェル初期10枚のアルバムが紙ジャケで収められている。
しかし、このボックス、Amazonで購入したら5480円。1枚あたり548円!。
私はこのボックスを3年前に購入したのだが、何とその時は2670円。1枚あたり267円だったのだ!
価格が倍近く上がっているが、それでも1枚あたり548円で天才を感じ取れるなら安いものである(ジョニを聴き始めた頃の私にこのボックスのことを伝えたらきっと怒るだろう)。
ファーストから10枚目の『ミンガス』(1979)まで!この溢れんばかりの才能が詰まった10枚組のボックスを改めて聴き直すと、それはそれは1人の音楽家の生き様を感じ取ることが出来る。

 最後に、ジョニ・ミッチェルの音楽が大きく変化を遂げた1970年代後半。そこにはジャコがいた。
先日、私はジャコの映画「JACO」を観た。ジャコの栄光と挫折を描くドキュメンタリー作品。
天才ジャコが天才ジョニと初めて組んだアルバム『Hejira(逃避行)』は私が購入したジョニの初めてのアルバム。「ラストワルツ」の興奮から40年経っている。
 軽快なリズムの中、ウッドベースのように自在に音を紡ぐジャコとその音の上で滑らかに歌い上げるジョニ。
 今日はCDボックスの方ではなく、レコードの『Hejira(逃避行)』を聴こう。
d0286848_9491973.jpg

2016/12/22
花形
[PR]
by yyra87gata | 2016-12-22 09:50 | アルバムレビュー | Comments(0)
d0286848_18564531.jpg

 ユーミンが全国ツアーに出るようだ。
長いこと一線で走ってきて、まだ全国ツアーができるということはとてもすばらしいことであるし、何度か彼女のコンサートを観たことがあるが、あのクォリティーをずっと保ち続けていること想像すると、心底関心してしまう。

 私はたまにユーミンのアルバムをターンテーブルに乗せる。以前、このコラムにも書いたが、私の好きなアルバムは『ミスリム』(1974)『時のないホテル』(1980)『昨晩お会いしましょう』(1981)の3枚。この3枚は他のアルバムに比べて聴く頻度が高い。
他のアルバムも聴くことは聴くが、販売がCDオンリーになった『Delight Slight Light KISS』(1987)からはあまりユーミンを聴かなくなった。正確に書くと、聴きこまなくなった。CDはお手軽なのでカーステなどでは流すこともあるが、車の運転中は音楽に没頭出来ないし、部屋で聴くのならレコードに手が伸びる。そして、ユーミンの落ち着いた世界観はアナログレコードで聴かないと心に沁みない、などと勝手なこと思いながら盤面の埃を取る日々が続いたのだ。
 
 それでいて私はメジャーな歌が収録されたアルバムを避け、あまり目立たない歌が多く入った作品を好んで聴いていた(例えば『紅雀』(1976)や『悲しいほどお天気』(1979))。「卒業写真」や「ルージュの伝言」が収録された『COBALT HOUR』(1975)、「恋人がサンタクロース」が収録された『SURF&SNOW』(1980)などは殆どターンテーブルに乗せたことが無い。ラジオから頻繁に流れる作品をわざわざ聴くのも、という思いからかもしれない。 
 私は無性にレコードが聴きたくなる周期があり、夜通し空が明るくなるまで聴くことがある。荒井由実時代からゆっくりと聴き込んでいこうかなと思い、先日その機会を得た。
中学時代から聴いてきた歌だが、歳を重ね、50歳を超えて聴くユーミンはなんとも言えぬものがあった。もちろんユーミン自体が20歳台に作った作品が多いし、その多くは女性目線の歌で占められる。だから、中年の男が聴くと少し俯瞰でモノを見る感覚だったので非常に面白かった。そして、ふとした瞬間にほろっと来る情景が出てくると、やはりユーミンは天才なんだと改めて思う。
今回のレコードを聴き直して一番の収穫は『14番目の月』(1976)であった。この作品は荒井由実名義の最後のオリジナルアルバムで、つまりは彼女の独身最後のアルバムである。この作品からプロデューサーは松任谷正隆となる。
 
 さて、何が収穫かというと、このアルバムがそれまでのアルバムと違う大きな点があるということだ。そう、それはミュージシャンである。このアルバムで「キャラメルママ」は、ユーミンのレコーディングメンバーという不文律が崩れたのだ。ベースの細野晴臣、ドラムスの林立夫がアメリカ人ミュージシャンに変更された。
中でも、ベースのリーランド・スクラーのプレイは圧巻であった。
私は先ほども書いたが、ユーミンを聴く時に彼女のメジャーな曲を避ける傾向があり、それらをあまり聴き込まないで来た。そして、このアルバムのメジャーな曲といえば数々のシンガーにカバーされている「中央フリーウェイ」なのだが、この曲の凄さが今回聴きこんでやっと分かったのだ。
この歌、ユーミン自身も出来上がった時に相当自信があったようで「私は天才だ」「この曲は日本のシティポップと呼ばれる相応しい歌だ」と喧伝していた事を思い出す。
私もそんなユーミンの声を聴きながら、当時はそんなものかな、と思いつつ聞き流していた。何故なら、この歌をカバーしていたハイ・ファイ・セットや庄野真代の歌ったヴァージョンの方が私は聞きやすかったし、そのせいか曲の成り立ちよりもヴォーカルのレベル差を感じてしまい、ユーミンのヴォーカルが中々耳に入ってこなかったのもしれない。
 しかし、今回アルバムをターンテーブルに乗せて聴き始め、「さざ波」「14番目の月」の軽快なリズム、「さみしさのゆくえ」「朝日の中で微笑んで」へ続くドラマチックな展開。そして場面展開するように「中央フリーウェイ」へと続く、流れるような曲順に酔いしれた。
 恋人を乗せた車が中央高速道路を八王子に向けて走る様を描くこの曲。松任谷氏が荒井由実とデートを終え、自宅に送り届ける時の情景なのかもしれない。そんな切なくも幸せに満ちた瞬間を切り取った秀作だ。そして音楽的に言えば、この歌はリーランド・スカラーのベースに尽きるといっても過言では無い。
リーランド・スカラーはジェームス・テイラーのバックバンドや「ザ・セクション」というスタジオミュージシャンの集合体バンドに属してした腕利きである。録音当時は29歳。
d0286848_18574592.jpg

 彼のベースから繰り出される西海岸の音とヨーロピアンなユーミンが融合するのかどうか。なぜ、リーランド・スカラーなのかという疑問もあるが、1970年代当時の日本のスタジオミュージシャンに絶大な人気のあったジェームス・テイラーのバックメンバーを起用するという単純な理由だったのか。
それはともかく曲を聴く。とにかく、ベースの動きに注目。お洒落なイメージなこの曲の成立はベースのノリなのだ。16ビートでスウィングしているというか・・・とにかくベースが歌っているのだ。それこそ、ユーミンを邪魔することなく、ユーミンより歌っている。
 最近、私はレコーディングしていてトラックごとに楽器を分離して聴くことがよくあるが、気持ちの良い演奏はベースを単体で聴いても成立する。そして、リーランド・スカラーのベースはまさにそのもので、ベース単体で気持ち良くなれるのだ。こんな気持ちの良い音・・・メジャーな歌を避けていたため、今まで気がつかなかったのだ。

 『14番目の月』の1作前のオリジナルアルバムは『COBALT HOUR』(1975)。このアルバムも先ほど書いた理由であまり聴きこまなかった。
が、しかーし。もう1曲目からノックアウト。
ベースが・・・ベースが・・・。
 1曲目はタイトル曲の「COBALT HOUR」。「中央フリーウェイ」が中央高速だったら、この曲は「首都高速1号線」である。いすゞべレットGTをぶっ飛ばしている風景。
ベースは細野晴臣。まぁなんというか、イナタイというかロイクゥというか、もう「ド・ファンク」である。
「タワー・オブ・パワー好きでしょ、細野さん」といいたくなるようなベースが繰り広げられているのである。耳をつんざくような茂のスライドギターで私は虫の息となる。
d0286848_18584744.jpg

 で、2曲目の「卒業写真」で一気にクールダウン。もう頭をかきむしった。
5曲目の「ルージュの伝言」を聴き終り、盤をひっくり返していきなり「航海日誌」という壮大な歌。「こんな濃密なアルバム、集中して聴き込んでいると死ぬな」と思っていたら、この歌には死生観が込められていることに気づく。ユーミンの歌には時々こういう死生観の歌があるが、非常に心地良く聴くことができるのは彼女のフラットな歌唱と高度な演奏、編曲の妙なのだと思う。「ひこうき雲」「ツバメのように」「ANNIVERSARY」なども同様で、死を扱った作品はナーバスになりがちだが、彼女の手に掛かると、かえって潔く感じられる。
 7曲目はその死生観が恋人に移る。「CHINESE SOUP」は恋人をスープに煮込んじゃう歌。
さやえんどうの「さや」は私で豆は別れた男たち。さやをむきながら、豆は鍋に落ちていく。そして「煮込んでしまえば、形もなくなる、もうすぐできあがり」と歌う。ちなみに吉田美奈子ヴァージョンはこの歌詞の最後に「愛してるわダーリンいつもいっしょにいてね」と早口で呟く。これが・・・怖い。もう死んじゃう。
 8曲目は軽快で愛らしい「少しだけ片思い」。毒気のある7曲目の次にこの歌を持ってくることで、馬鹿な男たちは手玉に取られてしまうのである。山下達郎のコーラスも秀逸。
 9曲目の「雨のステーション」でたっぷり聴かせ、最後の「アフリカに行きたい」で終結。と思いきや、飛行機のSEは1曲目の「COBALT HOUR」に戻るのだ。
この構成力。当時の若手スタジオミュージシャンの英知が詰まった作品である。

 2枚のアルバムを聴く中で、リーランド・スカラーと細野晴臣。時代性もあるが、同世代の2名が繰り出す音は、アメリカ人の方が細かく緻密な音を出し、日本人の方が黒人のグルーヴを出しているようにも聴こえた。
『14番目の月』で最後に収録されている「晩夏(ひとりの季節)」はユーミンの真骨頂とも言える日本的なスローバラードだが、リーランド・スカラーは要所要所を抑えながら見事にプレイしている。

 新たに発見したことに喜びを感じたが、今まで気がつかなかったこと(気がつけなかったこと)を残念に思う秋の夕暮れである。

2016/9/14
花形
[PR]
by yyra87gata | 2016-09-14 19:03 | アルバムレビュー | Comments(0)
d0286848_18355842.jpg
d0286848_1836526.jpg

  アメリカンニューシネマの主人公たちは、ヒーローでもなければ、絶世の美女というわけでもなく、みな市井の人たちである。アメリカンニューシネマは、反体制的な人間(主に若者)の心情を綴った作品群を指し、先ほどの主人公たちは時代の波に飲まれながら自分と向き合い、新たな展開を生み出すところに最大の見所があった。
そしてどの作品にも当時の若者の意見を代弁した等身大のテーマがあった。
気ままに生きる「イージーライダー」は、長髪で髭を蓄え、大型バイクで大陸を走る。しかし、最後は保守的な男(社会)に撃たれる。
悪党は悪党でも、もっと金持ちの悪党から金を奪う。「スティング」のどんでん返しはいつ観ても痛快だ。
同じ悪党でも「俺たちに明日はない」「明日に向かって撃て!」といった悪党にスポットを当て無軌道な行動ながらも硬い友情で綴られた儚さ。死という明日しかない悪党の笑顔が画面に広がる。
ニューヨークの底辺で生きる男。破滅的な末路を迎える「真夜中のカーボーイ」や「タクシードライバー」の狂気はアンハッピーエンドだが、誰もが陥るかもしれない現実として共感できる内容だ。

 もともと「風と共に去りぬ」や「ローマの休日」に代表される黄金のハリウッド映画は、栄華に満ちた古き良き時代のアメリカを代表する作品で、予算をかけて観客に夢と希望を与えるハッピーエンドを世に送り出していた。しかし時代も変わり、ベトナム戦争や不況の波が押し寄せるとアメリカ国民は次第に国に対して懐疑的になって行く。
そんな中、映画も楽しむだけのものから表現の一部という認識に変わり、若者が低予算で制作する映画が増えていく。そしてそこに世の中の懐疑的な部分を訴える内容が多く盛り込まれ、若者たちの共感を生んでいった。
しかし、作品はただ世の中に反抗するだけの内容ではなく、最後は結局体制に潰されてしまうというオチもつく。それは暴力や法を犯すことしか解決できない若者だから、その結末は現状の世の中では「こういうオチになります」ということを提示する。つまり、「不条理」を訴えているのだ。
ちなみに、アメリカンニューシネマは、1960年後半から1970年半ばまでの限られた作品を指す。この期間・・・ベトナム戦争とリンクしている。だから、ベトナム戦争終了と共に反体制の意見が弱まっていき、その証拠に1970年代後半のアメリカ映画は「スターウォーズ」や「未知との遭遇」といったSF作品や「キャノンボール」のような娯楽作品といったハリッウッド大作に戻っていくのだ。
 
 アメリカンニューシネマは、テーマや映像の斬新さも去ることながら、音楽が良い。
特にお勧めは『イージーライダー』(1969)と『いちご白書』(1970)だ。
『イージーライダー』のサントラは「ワイルドで行こう」でおなじみのステッペンウルフやジミ・ヘンドリックス、ロジャー・マッギンがサイケデリックな映像に合った曲調から寂寥感溢れるバラードまでラインアップされている。そしてこのアルバムには60年代末の多様な音楽が満載である。しかし、難を一つ言わせて貰えば、夕闇の荒野のシーンに流れる「ザ・ウェイト」はザ・バンドのヴァージョンが欲しかった。スミスというミュージシャンが演奏しているが、レヴォン・ヘルムやリック・ダンコのヴォーカルでないとあの雰囲気は出ない。少々残念である。
  そして、『いちご白書』。
ノンポリの男子大学生が学生運動の女性リーダーに惹かれ、いつしか運動に参加していく。そこで芽生える小さな恋。どんな状況であっても愛しく想う人との時間はかけがえの無いものなのだ。しかし、結末はバリケードを粉砕され引き離される2人。
正しいと思っていたことが、実は社会的には許されないという不条理さ。今の時代にも通じる作品である。
その音楽は何と言ってもバフィー・セントメリーの歌う「サークル・ゲーム」である。作者はジョニ・ミッチェル。
子供が大人に成長する過程を希望、美しさと共に、もう戻ることが出来ない寂しさ伝える秀作だ。
We’re captive on the carousel of time
We can’t return
We can only look behind from where we came
And go round and round and round
In the circle game

他にもニール・ヤング「ローナー」やクロスビー・スティルス&ナッシュ「ロング・タイム・ゴーン」、
そして絶望感漂うクロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング「ヘルプレス」・・・。
レノンの「平和を我等に」をシュプレヒコールと共に叫ぶ学生たちに、警官隊は容赦なく突っ込んでいく。
音楽と映像が一体化した作品である。

ハリッウッド作品のような流麗なストリングスや荘厳なブラスがある映画音楽ではないが、メッセージ性が高く、音楽も台詞の一部となっているこの2作品を映画と共にお勧めする。

2016/8/22
花形
[PR]
by yyra87gata | 2016-08-22 18:37 | アルバムレビュー | Comments(2)

Beauty and the Beat The Go-Go's

d0286848_1735060.jpg
 
 ヤンキーガールがロックする。
中学時代に「銀座NOW」で観たランナウェイズはよくわからなかった。
下着姿でガーターベルトをだらしなく着こなし、股を広げて「チェリーボム!」って叫んでいる。なんか、そういうところでしか表現できないのかという気持ちで、受入れることができなかった。
スージー・クワトロもキャーキャー叫んでいるだけで何を歌っているのかわからなかった。しかし、音楽雑誌「ミュージックライフ」では大きく取り上げられ、絶賛している。どうして女性がロックを歌うとヒステリックになるのかわからなかった。ジャニスの亡霊にでもとり憑かれているのだろうか。
黒人女性シンガーなら余裕で歌いきっちゃうところも白人女性シンガーだと青筋立ててキィキィ言っている感じが駄目だったなぁ。
だから、80年代に入りパット・ベネターが出てきた時は「おお、さすがジュリアード!歌うめぇなぁ」なんて思ったものだ。
 80年代に入り、あるバンドがデビューし(1981年)、女性ロックグループで初の全米1位に輝いた。The Go-Go'sである。
ストレートなロックンロールとパンキッシュなサウンドが融合し、たちまちブレイクした。
デビュー当初は女性だけのバンドということで中々受入れられなかったようだが、持ち前の明るさと根性、そして何よりもMTV世代の申し子のようにプロモーションビデオでは屈託の無い笑顔で女の子がロックバンドを楽しむ姿が好感を呼んだのだ。
 1981年発表のデビューアルバム『Beauty and the Beat』は、6週連続トップを記録し、女性だけのロックバンドで初の全米1位に輝いた。
まだ、マドンナもホイットニーもジャネットもスターになる前の話。
ロスアンゼルスのローカルシーンから全米に羽ばたき、大ヒットを記録。翌年は『Vacation』も大ヒット。The Go-Go'sは、一大ブームとなった。
何はともあれ、明るいロック。
原色の衣装を身にまとい、後の女の子バンドの定番ステップになったピョコピョコとミニジャンプを左右に繰り広げながら演奏する。
 ヴォーカルのべリンダは可愛い顔に似合わずドスの効いたヴォーカルを聞かせることもあり、いろいろな表情を見せた。
演奏力というより総合演出力といったほうが理解されるバンド。
このバンドの出現で勇気付けられたガールズバンドは全世界に数多くいるのでは無いだろうか。

 バンドはメンバー間の確執やアルコール問題などお決まりの理由で1985年に解散するが、その後も何度も再結成を繰り返し、今でも活動をしている。
 ベリンダ・カーライルはソロ活動で一番成功した。セカンドアルバムからシングルカットされた「Heaven is a Place on Earth」は全米1位に輝き、世界中のチャートで1位を記録した。
 そのベリンダもThe Go-Go'sにもどり、バンド活動をしているという。
 若さ溢れるガールズバンドに時代がマッチし、結果的に全米1位に輝いたが、今再び活動を続けるメンバーの心にあの頃の気持ちがあるか・・・。
リスナーは出てくる音でしか判断できないが、明るいメジャーコードをかき鳴らしていてもこの30年間の歴史はマイナーにも7thにも聞こえてくるに違いない。

 今、改めて『Beauty and the Beat』に針を落とす。
フロアタムを連打し、粋が良いビートがスピーカーを揺らす。
「We Got The Beat」の跳ねるビートを聴いていると・・・元気になるんだよ。
元気になる音楽なんだよ。そこに理由は何も無いんだよ。
若さ溢れる良盤である。

2016年4月1日
花形
[PR]
by yyra87gata | 2016-04-01 17:35 | アルバムレビュー | Comments(0)

THE FIRM(1985) THE FIRM

d0286848_18323529.jpg

ARMSコンサートとは、多発性脳脊髄硬化症という難病に冒された元スモール・フェイセズのベーシスト、ロニー・レインのよる呼びかけにより、自身の高額な治療費とARMS(多発性硬化症の研究機関)の研究費捻出のために行なわれたチャリティー・コンサートである。
このコンサートは、エリック・クラプトン、ジェフ・べック、ジミー・ペイジが一堂に介した歴史的な出来事であり、時は1983年9月、イギリス・ロンドン・ロイヤルアルバートホールで開催された。3大ギタリストがセッションを行なうという事件も去ることながら、特にジミー・ペイジはレッド・ツェッペリン解散後、サウンドトラック『DEATH WISH 2』(邦題:ロスアンゼルス)(1982)を制作したが、ステージからは離れており、どのような音を出すのかということもオーディエンスの話題の中心となった。
コンサートは試合巧者のエリック・クラプトン、ジェフ・べックにリードされつつ、スティーヴィー・ウィンウッドの熱演と堅牢なバッキングミュージシャンの盛り上げの中、大盛況に終わった。
そして、コンサートは一夜限りの夢とならず、プロモーターの大御所ビル・グレアムによりアメリカに持ち込まれ、ダラス、サンフランシスコ、ロサンゼルス、ニューヨークの4公演が追加された。
イギリス公演時のジミー・ペイジのセットでヴォーカルを担当していたスティーヴィー・ウィンウッドは、アメリカ公演ではポール・ロジャースに替わり、ここにTHE FIRMの原型が作られたのだ。

FIRM・・・強固な、 硬い と言う意味。
ラジオからその言葉を聴いたとき、「だっせー名前だな。農夫ってなんだよ!」と思ったが、それはFARMであり、FIRMは、実はとてもハードな意味なのである。
さて、そんなことより、このバンド、相当な期待を持って迎えられた。
なんせ、あのジミー・ペイジが復活する。しかも、新バンドで。
ファン心理からすれば、何故ロバート・プラントと組まないのか、などといった基本的な疑問があったが、待たされ続けたファンとしては、とにかくジミー・ペイジに表舞台に戻ってきて欲しかったと言うことが本音だろう。
  THE FIRM結成の一報はFMラジオだった。DJのシリア・ポールが結成のいきさつを簡単に紹介し、早速1曲目としてシングル「ラジオアクティブ」を紹介した。
乾ききったゲートリバーヴの効きまくったリズムが、スピーカーから零れ落ちる。
そしてフレットレスベースがそのリズムの上を踊る。
(ドラムス:クリス・スレイド、ベース:トニー・フランクリン)

ポール・ロジャースのヴォーカルはブレることなく、唯一無二のキャラクターであり、音色だけは80’sになったブルースロックを形成していく。ジミーのプレイもツェッペリンの頃のそれとは異なり、随分ポップなフレーズが目立つ。
以前読んだインタビュー記事でポール・ロジャース夫人だったマチさんは「あのプロジェクトは、ジミーに再びギターを持たせることが目的だった」みたいなことを懐述していた。まさにそんな印象のファーストアルバムである。ヒット曲は1stシングルの「ラジオアクティブ」がスマッシュヒットを記録。あとは目立った動きは無かった。
ただ、アルバムを通して聞くと選曲もかなり頑張っている。バリー・マンの「ふられた気持ち」なぞをカバーするなどポール・ロジャースでなければ出ないアイデアである。決してロバート・プラントのヴォーカルでは聞くことができないだろう。
また、この当時のライブ映像を見たが(海賊版屋で探した)、「ミッドナイト・ムーンライト」は後期レッド・ツェッペリンを彷彿させる出来である。もちろんこの「ツェッペリン」とついつい比較する表現になってしまうが、それはしょうがない事で、あれほどのビッグネームの次のバンドとなればその洗礼は受けざるを得ない。しかし、ジミー・ペイジがどう思ってポール・ロジャースを誘ったのかはわからないが、稀代のヴォーカリストであるポール・ロジャースを連れてくればそれなりの作品はできると言うことだ。
お互いにアメリカのブルースを基調とした音楽に影響を受けたイングリッシュマンである。そんなに目新しい化学反応は起きないのだが、さえない時期の2人ががんばって新しいことをやろうとした気概だけは感じ取ることが出来る作品である。
後にジミーはデビッド・カバーデイルと組んだり、ロバート・プラントと組んだりと同じような路線を行き来するが、その2つのユニットに比べたらTHE FIRMの方がよっぽど変化している。プラントもカバーデイルも何の化学変化は起きないユニットで退屈極まりない。どうせツェッペリンには勝てないんだから、似たような音楽やったって比較されてポシャるだけなのだ。

THE FIRM。私は好きなバンドだし、ファーストもセカンドの『ミーン・ビジネス』(1986)も評価できる。
d0286848_18332849.jpg

2016年2月17日
花形
[PR]
by yyra87gata | 2016-02-17 18:34 | アルバムレビュー | Comments(0)