音楽雑文集


by yyra87gata

カテゴリ:アルバムレビュー( 167 )

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アメリカにはスタジオの音が明確にあるようだ。マイアミのクライテリア・スタジオやニューヨークのザ・パワーステーション(現アバター・スタジオ)、ロスアンゼルスのA&Mスタジオ(現ヘンソン・レコーディング・スタジオ)などそれぞれの音色があるという。

そして、そのスタジオにはその場所を中心にプレイするスタジオミュージシャンがいるところもあり、そのスタジオの音色というものを大きく形成している。

アラバマ州シェフィールドで1968年から1979年まで稼動したマッスル・ショールズ・サウンド・スタジオは、南部のアーシーなサウンドが特徴だ。

「マッスル・ショールズ・サウンド」という言葉まで出来上がっているが、これはマッスル・ショールズ・サウンド・スタジオが出来る前にその近隣にフェイム・スタジオがあり、ここから白人黒人のミュージシャン問わず、ヒットソングを量産していたため、そのスタジオに詰めていた4人のミュージシャンが注目されたところから始まる。

ジミー・ジョンソン(ギター)、バリー・ベケット(ピアノ)、デビッド・フッド(ベース)、ロジャー・ホーキンス(ドラムス)の4人の音を求めて全国各地からミュージシャンが集まったのだ。

名プロデューサーのトム・ダウトの勧めもありその4人は独立し、近隣のマッスル・ショールズ・スタジオを買い取り、その場所に行けばその4人の音が提供されるという「スタジオの音」を実現させたのだ。

ロッド・スチュアートは名盤『アトランティック・クロッシング』(1975)をこのスタジオで制作しているが、前作の『スマイラー』(1974)までのロッドはフェイセズの活動も行ないながらのアルバム発表であり、レコーディングメンバーもフェイセズの人脈でほとんどがイギリス人であった。しかし、フェイセズを解散し、レコード会社もワーナー・ブラザースに移籍。彼が心機一転を図る上でも本場アメリカ南部のスタジオを選ぶことは自然の流れだったのだろう。イギリス人であるが、アメリカのリズム&ブルースを好む当時のミュージシャンはみんなアメリカ南部サウンドに魅了されたのだ。

ザ・ローリングストーンズも『ベガーズ・バンケット』(1968)からアメリカ南部音楽への影響が作品に出始め、『レット・イット・ブリード』(1969)まではロンドンのオリンピックスタジオでレコーディングされていたが、本場の音を求めてか『スティッキー・フィンガーズ』(1971)ではマッスル・ショールズ・サウンド・スタジオもレコーディングの場所となっている。

日本でも加藤和彦は、サディスティック・ミカ・バンド解散後すぐに新たなパートナー安井かずみを連れマッスル・ショールズでレコーディングを行なっている。『それから先のことは』(1976)は、「シンガプーラ」のようなオリエンタルな作風も多い作品だが、アーシーなサウンドとの融合で新たな波を感じ取りたかったのかもしれない。

マッスル・ショールズ・スタジオのミュージシャンとしても活躍したデュアン・オールマン。言わずと知れたオールマン・ブラザースバンドのリーダーであり名ギタープレイヤーである。

「イン・ザ・ミッドナイトアワー」(1965)や「ダンス天国」(1966)のヒット曲で知られるウィルソン・ピケットのアルバム『ヘイ・ジュード』(1968)はマッスル・ショールズのスタジオミュージシャンになったばかりのデュアン・オールマンのアイデアによりレコーディングされたという。このアルバムのヒットからデュアンはひっぱりだこの売れっ子スタジオミュージシャンとなり、キング・カーティスやアレサ・フランクリン、ボズ・スキャッグスらと名盤を残していく。後のデラニー&ボニーとのレコーディングからだと推測されるが、その関わりからエリック・クラプトンと知り合うことになり名盤「いとしのレイラ」(1970)の制作に加わるようになることは想像に容易い。

そんなデュアン・オールマンのマッスル・ショールズ時代の音源も収録されている『アンソロジー』(1972)はオートバイ事故で亡くなり追悼の意味で発表された彼のレコーディング作品集である。このアルバムにはマッスル・ショールズでレコーディングされたソウル作品が多く収録されているので、スタジオの音が堪能できる2枚組である。そして稀有な天才ギタリストの短い生涯も同時に感じ取ることが出来る名盤である。

後に『アンソロジー2』(1974)も発表されたが、どちらもお薦め。

2018/10/17 花形



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by yyra87gata | 2018-10-17 15:21 | アルバムレビュー | Comments(0)

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 音楽映画はあらかた観て来ているが、どうしても観ることができない作品がいくつかある。ましてや、サウンドトラック盤は所有しているという間抜けな感じで・・・。

その一つが1978年作品『FM』である。

私は中学生当時、ミュージックライフ誌の記事でこの作品を知ったのだが、「ロスアンゼルスのFM放送局を舞台にした映画で、ゴキゲンなラインアップで我々を楽しませてくれる」と記されていたのよ。

ゴキゲンなラインアップとは・・・

2枚組みのアルバムだったが、

1枚目

1. FM

(スティーリー・ダン)

2. ナイト・ムーヴス/Night Moves

(ボブ・シーガー&ザ・シルヴァー・ブレット・バンド)

3. フライ・ライク・アン・イーグル/Fly Like An Eagle

(スティーヴ・ミラー・バンド)

4. つめたいお前/Cold As Ice

(フォリナー)

5. ブレイクダウン/Breakdown

(トム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズ)

6. バッド・マン/Bad Man

(ランディ・マイズナー)

7. 駆け足の人生/Life In The Fast Lane

(イーグルス)

8. ドゥ・イット・アゲイン/Do It Again

(スティーリー・ダン)

9. リド・シャッフル/Lido Shuffle

(ボズ・スキャッグス)

10. 宇宙の彼方へ/More Than A Feeling

(ボストン)

2枚目

1. ダイスをころがせ/Tumbling Dice(Live)

(リンダ・ロンシュタット)

2. 私はついてない/Poor Poor Pitiful Me

(リンダ・ロンシュタット)

3. リヴィングストン・サタデイ・ナイト/Livingston Saturday Night

(ジミー・バフェット)

4. ギャンブラー/There's A Place In The World For AGambler

(ダン・フォーゲルバーグ)

5. 素顔のままで/Just The Way You Are

(ビリー・ジョエル)

6. イット・キープス・ユー・ランニン/It Keeps You Runnin'

(ドゥービー・ブラザーズ)

7. きみの笑顔/Your Smiling Face

(ジェイムス・テイラー)

8. この人生に賭けて/Life's Been Good

(ジョー・ウォルシュ)

9. ウィ・ウィル・ロック・ユー/We Will Rock Yo

(クイーン)

10. FM(リプリーズ)/FM Reprise

(スティーリー・ダン)

どうです!このラインアップ!

1978年当時のベストヒットUSA状態です。

お金の無い中学生にしてみたら、こんなお得なアルバム・・・すぐに購入しました。映画も観ていないのに。ま、そのうち日本でもやるだろうな、なんて思いながらアルバムを買った記憶があります。

で・・・全然来ない。ビージーズとピーター・フランプトンがビートルズの曲を使ったゆる~いミュージカル映画『サージェント・ペッパーズ』が封切られたり、ジャズミュージカルの『ニューヨーク・ニューヨーク』や『オール・ザット・ジャズ』なんて作品もあったのに、何故かこの『FM』はいつまでたっても封切られることはなかった。涙。

だから、アルバムだけ聴いている。

このアルバム、ただのコンピレーションではありましぇん。多分、映画の中での演出があると思うのですが、リンダ・ロンシュッタットの「ダイスをころがせ」と「私はついていない」の2曲はライブ収録なのでありまして、アタシは小躍りして喜びました。レア音源でしょうが!

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タイトル曲の「FM」だってスティーリー・ダンの書き下ろしですかんね!

こりゃ、力入ったアルバムですよ、今思えば。

でも、なんで映画やらんのかね。

アメリカでこの映画を観たという人と話したことがあるんだけど、相当つまらないコメディ映画で、観るに値しないと笑いながら言ってたな~。

そんなに酷いなら、怖いもの見たさで観てみたい。

音楽は最高なんだけどね~。

2018年8月24日

花形


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by yyra87gata | 2018-08-24 19:06 | アルバムレビュー | Comments(0)
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洋楽で女性ヴォーカルといえば、シンガーソングライターであるキャロル・キングやジョニ・ミッチェルを好んで聴き、カントリーからロックまで幅広い表現力といえばリンダ・ロンシュタットがお気に入りだった高校時代(1980~1982)の私。ついでに言うとエミルー・ハリスなんて好きだったね~、カントリー歌手なんだけどさ。

で、女性ロックヴォーカリストというと、当時は相変わらずジャニスの亡霊がつきまとっていて、ベッド・ミドラーが天性の歌の上手さを引っさげて『ローズ』(1979)なんて映画で具現化してしまったからまさにダメ押し。伝説を次世代に引き継いでしまった。

ジャニスはヴォーカリストというより生き方も含めたロックスターなんだけど、ブルースを基調としているから1980年代には重い音だったね。

そんな中で1980年代は始まっていくんだけど、マドンナやマライヤ・キャリーの流行歌は町中に溢れ、たまにスザンヌ・ベガやトレイシー・チャップマンのような朴訥な表現でアコースティックギターを鳴らしても、彼女らのメガセールスの波にかき消されてしまう。グラミー賞の常連であるパット・ベネターが叫んでも、負けじとクリッシー・ハインドはエレキギターをかき鳴らしてテレキャスターの売上に貢献するだけ。ベリンダ・カーライルやハートのウィルソン姉妹が華やかな表現で楽しませてくれたかと思うと、チャラけたやつだと思っていたシンディーが「Time after time」なんて呟くからびっくりもする。もう、一瞬のうちに時は流れ、次から次へとニュースターが入れ替わってカオスもいいところ。こんな国取り物語のような音楽地図の中に男性ヴォーカルではマイケルやスプリングスティーン、プリンスといったアメリカチームとライブエイドで見事に復活したクィーンやデュラン・デュラン、FGTHなどのイギリスチームががっぷりよつとなって、様々なロックを奏でていたのだから、ある意味面白い時代だったね。

そんなごちゃごちゃとした1980年代にロックスターのバックコーラスなどで下積み生活をし、31歳の高齢でデビューしたシェリル・クロウは1990年代に飛び出した女性ヴォーカルで一番輝いていたのではないか。

1990年代はニルバーナやオアシス、ベックといったグランジやブリットポップが台頭してきており、かたやジャミロクワイのようなダンサブルなアシッドジャズが最先端の音楽となった。そんな時に、アコースティックギターをかき鳴らしながら、脱力系のビートで日常を淡々と表現したファーストアルバム『チューズデイ・ナイト・ミュージック・クラブ』(1993)は翌年にアルバム内の「オール・アイ・ワナ・ドゥ」のヒットを生むまでじっくりじっくりセールスを伸ばした。あたかもシェリル・クロウ自身のデビューになぞらえるように・・・。そして、それは、翌年のグラミー賞で最優秀レコード賞、最優秀新人賞、最優秀女性・ポップ・ヴォーカル賞の3冠を受賞という形で実を結ばれることとなった。33歳の新人でありますな。

では、なぜ彼女が売れたのか。

この人、大学卒業して、24歳の時には1986年のマイケルのツアーのバックコーラスをやってたんだよ。コーラスガールとして来日だってしている。その後もスティービー・ワンダーとかベリンダ・カーライルとかドン・ヘンリーのバックコーラスを努めている。だから、相当音楽的に優れている人なわけだ。で、1990年にはA&Mレコードから名プロデューサー、ヒュー・パジャムの手でメジャーデビューアルバムを制作したんだけど、出来に対してシェリル・クロウは「良し」としなかったのよね。で、お蔵入り。やっぱり長いこと下積みした後での最初の1枚だから妥協したくなかったんだろうね。普通なら「あたしもとうとうメジャーデビューよ!」なんつって浮かれてしまうのだと思うけど・・・。

それとも相当酷い出来だったのかね。ま、いいか。

で、プロデューサーもお友達に代えて、『チューズデイ・・・』を作るわけだ。

まぁ、型にはまったアルバムではないし、その頃の音楽の中で彼女の得意なカントリー色も出しながら気楽に聴くことができるアルバムとして輝き続けるアルバムとなった。

そう、もともと彼女はカントリー歌手なんだよね。「アメリカの心」を大切に歌い継いで行きたいんだろうから、デビューアルバムでA&Mがヒュー・パジャムをプロデューサーにしたことが大間違いなんだよな!だってイギリス人でポリスやフィル・コリンズやデビッド・ボウイのプロデューサーであるヒュー・パジャムじゃアメリカのカントリーを扱えるわけないじゃん。フィドルの音とか「シンセで作ればいいんじゃね!」とか言いそう。知らんけど。

シェリル・クロウは2012年に良性ではあるが、脳腫瘍を患っていることを発表した。2006年には乳がんも経験している。

先日のインタビューでは昔のような破天荒な生活を改め、乳がんを患ってからは養子を2名受入れ、母として真面目に生活をしていると言う。

そして、来年にアルバムを発表すると宣言し、スティービー・ニックスやキース・リチャーズ、ドン・ヘンリー&ジョー・ウォルシュとのコラボも予定されているとのこと。

そんな豪華なアルバム、待ち遠しいことこの上ないが、彼女の口からはショッキングな言葉も・・・。

「このアルバムが最後になると思う」

引退の名言は避けているようだか、気になるところである。まだ、56歳だし!

この人、歌っているときかっこいいんだよね。ビッグネームと並んでも見劣りしないっつうか。もっともっと輝ける人だよね。ギター持ったって、ベース弾いたって様になるし。

で、病気になっちゃったんなら無理せず、片意地張らず、やりたいことをやればいいのだ。昨年発表した『ビー・マイセルフ』(2017)もデビュー時のエンジニアと一緒に作ってたみたいだし。

なんか、生き急いでいる気がするんだよね。「ニューアルバムは来年発表」なんて言わず、もっとゆっくりゆっくり作ればいいのにね。

 ファーストアルバムのリラックスした雰囲気が今の歳で出せれば、今までの生きてきた糧が音となって凄みも加わる気がするね。

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2018/08/10

花形




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by yyra87gata | 2018-08-10 10:10 | アルバムレビュー | Comments(0)
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    黒人奴隷が白人に隠れて労働歌としてブルーズを作り上げた歴史。

金もないから楽器も買うことができない。しかし、声は出すことができるからと、街角でアカペラを歌うドゥーワップの歴史。

エレクトリックサウンドの発達によりロックンロールをはじめとした音楽の多様化が進んだ50年代~60年代。

時代の流れにより音楽は様々な形を私たちに見せてくれた。

    1970年代初頭、ニューヨークではビートニク思想に影響を受けた詩人たちが集まり、アンダーグランドからの音楽活動が盛んとなる。

   政治や社会には無関心であり、個人の解放や浄化といった人間の根源を追及し、そのためであれば貧困もいとわないというビートニク思想を持つミュージシャンからの発信である。そこにはドラッグ、セックス、禅などの方法を用い、性別を超えた世界や人間のマイノリティーを追及したアウトプットがスコアとなり、楽曲を彩った。思想と歌は前述にもあるとおり、時代の音とされるが、まさにこのアンダーグランドからの叫びは、ザ・ローリングストーンズに代表される肥大化したロックとは一線を画す、ニューヨーク固有の音となった。

 ベルベットアンダーグランド、ストゥージズ、MC5、テレビジョン、パティ・スミス・・・。

ニューヨーク・パンクと括られるジャンルは実は広すぎて、激しいリズムの音楽性やポエトリーリーディングに代表されるような表現が目立つようだが、ビートニク思想をベースとしたならば、そのアウトプットはコマーシャリズムに相反するもの。つまり、「思想」の問題となる。

   そこに目をつけたファッション・デザイナーがいた。

 混沌としたニューヨーク。ライブハウスCBGBの中でその男は金のにおいを嗅ぎ分けた。

ロンドン出身のマルコム・マクラーレンはニューヨークに赴いた際、「ニューヨークの音」を目の当たりにしたのだ・・・。

 帰英後、自ら所有していたブティック「Let It Rock」の店名を「SEX」に変更した。

その店はもともとフィフティーズ・ファッションのブティックだったが、店名変更とともにボンデージ・ファッションが店内に埋め尽くすようになる。

ロンドンの労働者階級の叫びは金になる・・・そんな目論見から過激なファッションを施し、セックス・ピストルズを作り上げて行った。過激な男、不満を持つ男、卑しい笑いをする男を作り上げろ!売れるためなら行き過ぎた演出が必要だ。話題性を重視し、イギリスの象徴である女王陛下の写真にピンを刺すのなんて朝飯前。いかにEMIから契約金をふんだくるか。そのためには音楽性よりもジェネレーション・ギャップを作り上げていく。挙句の果ては、演奏などはできるよりもできない方が良いという始末。パンクバンドというセックス・ピストルズの虚構を作り上げたプロデューサーである。

    1980年にイギリスで公開され、その5年後日本で公開(字幕なし)、その10年後に宝島社から日本オリジナルジャケットでビデオ発売され、同年に正式公開された映画「グレイト・ロックンロール・スウィンドル」はマルコム目線のピストルズである。

映画はマルコムが語り手となり、いかにセックス・ピストルズは作り上げられたバンドであるかという内容。

そこにはモンキービジネスで笑うものは演者ではなく、ブームを作り上げたプロデューサーであるといわんばかりの内容だ。

もちろん、バンドメンバー、特にヴォーカルのジョニー・ロットンはこの作品に対し異議を唱え、2001年に「ノー・フューチャー」という作品で正式なピストルズヒストリーを発表した。

しかし、ピストルズが輝いた1977年からたった2年の出来事について、どちらの作品が面白いかといったら、私は前者の「グレイト・ロックンロール・スウィンドル」を推してしまう。

マルコム・マクラーレンという詐欺師がパンクムーブメントを作り上げたということが重要という気がするのだ。

   そもそもビートニック思想の「ニューヨークの音」は、DIYDo It Yourself)と表現され、「パンク」などという言葉ではなかった。「パンク」はマルコム・マクラーレンがでっちあげた事で、そもそもすべてにおいてポンコツで、その事象を示したものである。それがロングヘアーにロンドンブーツという前時代のロックを完全否定し、散切りヘアスタイルや安全ピン、剃刀といったファッションも合わせてロンドンで大ブームになった。そのルーツを辿るとニューヨークということになり、「ニューヨーク・パンク」などという言葉をマスコミが使い始めたに過ぎないのだ。

ピストルズ脱退時のジョニー・ロットンの言葉がそれを裏付ける。

「自分は思想的アナーキーではなく、音楽的アナーキーであった」と。

しかし、事実関係はどうであれ、「グレイト・ロックンロール・スウィンドル」でのマルコム・マクラーレンの悪徳マネージャーぶりは腹を抱えて笑うことができる。メインヴォーカルのジョニー・ロットンが脱退すれば、一般公募でヴォーカリストを募ってめちゃくちゃなオーディションを開き、結局はヴォーカルなど誰でもいいと言ってみたり、ギターのスティーブ・ジョーンズは女狂いと喧伝し、そのままの演出を施したり・・・(本人がポルノ男優のような演出を受けている)。圧巻はシド・ビシャス。彼の行動自体がマルコムの考えるピストルズそのもので、鼻血を噴出しながらベースを弾いたり、ベースを振り回しながら観客に飛び込んだり、自分の身体を刻んでぼろぼろのTシャツが赤く染まったり・・・。極めつけはハードなアレンジを施した「マイ・ウェイ」をがなりたて、最後は観客に向かって発砲する(演出)。そんなぶっとんだパフォーマンスはシドでなければできないだろう。そして彼の最期はオーバードラッグによる死亡である。

    恋人のナンシーを殺し、自分もあの世行き。現実と虚構が彼の人生を狂わせた。それは、マルコム・マクラーレンがセックス・ピストルズを作っていなかったら、シドはドラッグに溺れることはなかったか・・・いや、形を変えて伝説になっているだろう。

 

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   セックス・ピストルズをバンドと思ってはいけない。

セックス・ピストルズはファッションである。

セックス・ピストルズは音楽業界への挑戦であり、ギャング集団である。

純粋に叫びたかったジョニー・ロットンは脱退後、名前を本名のジョン・ライドンとし、パブリック・イメージ・リミテッド(PIL)を結成する。もう、そこにはパンクという言葉よりニューウェーブという名前がフィットしていた。

    マルコム・マクラーレンはピストルズのメンバーに逃げられあとは、自身がマネージメントをしていたアダム・ジ・アントのバンドからメインのアダムだけを抜いて(裏切って)、自分でバウ・ワウ・ワウを結成するところも滅茶苦茶な感覚。

   ニューウェーブの波を作り上げ、ジャングルビートで一気に勝負出たところの嗅覚などは音楽家というよりクリエイターのノリなのだろう。

とにかく胡散臭い男である。

そんな楽しい「いかさま野郎」(賛辞)の作品が「グレイト・ロックンロール・スウィンドル」(偉大なロックンロール詐欺!)である。

ま、めちゃくちゃよ。

 

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2018/6/19

花形


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by yyra87gata | 2018-06-19 11:19 | アルバムレビュー | Comments(0)
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    1977年秋、原田真二はフォーライフレコードからデビューした。クシャクシャのカーリーヘアにマッチしたベビーフェイスは、歌を聞くまではそれまでのアイドルと何一つ変わらぬ出で立ちであったが、彼がピアノの前でひとたび歌い出せば、今までに聴いたことの無いポップス感覚に富んだシンガーであることは誰の目にも明らかに映った。そして、それは3ヶ月連続シングル発表という奇想天外なデビュー方法も手伝い一大センセーショナルを生んだ(後述するキャロルは7ヶ月連続シングル発表というのがあるが・・・)。

原田真二の出現は、歌謡曲ではない音楽が歌謡番組に進出し始めた先駆けとなり、お茶の間に「ロック」「ニューミュージック」という言葉が認知され始めた事件であった。

    そういえば本人達の思いとは別の場所で「ロック御三家」という芸能界的な言葉も生み出されたことも日本の「ロック」の市民権に拍車をかけたことも事実だろう。

 

     原田真二は、デビューして9か月目の1978724日、デビュー1年目かつ10代で史上初めて日本武道館単独公演に臨んだ。その"SHINJI HOT SUMMER OVER IN BUDOHKAN" コンサートを中心に、直前の 静岡県“つま恋”での合宿風景や舞台裏映像等を収録した映画が『OUR SONG and all of you(ライブ・アット・武道館)』である。

映像からも読み取れるが、当時の日本武道館の存在は、ミュージシャンにとっては特別な場所であった。それは、軽音楽の世界ではビートルズが立ったあのステージに自分もいつかは立ちたいと思わせた魅力的な場所であり、日本武道館に立てるミュージシャンは選ばれし者であった。その武道館に19歳の若者が立つということだけでもセンセーショナルな出来事であったのだ。

     監督はNHKのディレクター出身でキャロル(矢沢永吉ジョニー大倉、内海利勝、ユウ岡崎)のドキュメンタリーを制作し保守的なNHKと放映に関して揉めに揉めた挙句、NHKを解雇された龍村仁。彼はその後自己資金により映画『キャロル』を完成させ1974年の公開にこぎつけている。もちろん、当時の音楽事情において「ロック」などは存在せず、革ジャン、オートバイ、エレキギターは「不良」のレッテルを貼られるもので、保守的なNHKが放映を拒んだことも十分理解ができる。瀧村は『キャロル』を日本の音楽のニューウェーブと捉え、音楽面と合わせてカルチャー面で現代の若者像を追っていった。その意味で原田真二のこの映画は、原田真二のコンサート映画というより「原田真二」という人に焦点を当てたものとなっている。

    瀧村はNHK出身の監督なだけに映画は「NHKスペシャル」のような作りである。音楽映画として見てしまうと、肝心なライブの見せ場を逃している場面も多々あるし、音響も良くない。しかし、歴史の1コマとして見れば、ぶれの多いカメラワークや恐ろしいまでに暗い画面が1970年代という歴史を物語っており、加えて配給先がATGということもドキュメンタリー臭が漂っている。

    そして、よくぞあの天才の若い時間を記録したという事実。これはやはり華美な演出より生身の音や映像のインパクトにおいて、痛烈に私たちに訴えかけてくる。


バンドメンバー・・・( )は年齢。

原田真二19) ヴォーカル、ギター、キーボード

山田秀俊(26) キーボード

青山徹(25) リードギター

ロバート・P・ブリル(21) ドラムス

関雅夫(23) ベースギター

古田たかし(20) ドラムス

19歳の原田真二を若いバンドメンバーが固める。

 

     大きな日本武道館というターゲットを自らのものにしようとするひたむきさは、何にも変え難いもので、つま恋での合宿風景でもその表情は伺うことができる。19歳の青年が年上のプロミュージシャンに対し、自分の音楽を表現してもらうために必死に世界観を訴える。原田真二の考えたアレンジを楽譜はもとより、口伝えで指示する。そこに遠慮はなく、コンポーザーとプレイヤーの関係しかない。

 あの当時、4歳も5歳も年上の人間に、しかもプロのスタジオミュージシャンに臆することなく、自分の思いを伝えていた光景。そんな天才にバックを固めるミュージシャンも演奏で応える。若いミュージシャンたちの演奏は疾走感が溢れ、日本武道館の大きさを感じさせないものとなった。

    このバンドの後に原田真二&クライシスを結成し、音楽技術的にも更に高くなっていくが、躍動感と勢いはこのバンドメンバーには適わない。

 

    最近、原田真二を聴き直す事があり、当時のフィルムを再び見た。そして、この記事を思い立ったのだが、中学生の頃に映画館で観た頃の感情にすぐ戻ることができたことに我ながら驚いた。いろいろと突っ込みどころ満載かと思いきや、そういう「うがった見方」は飛んでしまい、集中した103分であった。それは、本当に私の13歳当時の心に深く刻まれた作品なんだということの証であり、自分の中の中二病の一角を占める作品だったのだと認識した次第だ。

とにかく原田真二の大物感が半端ない作品である。

歌謡界と自分の立ち居地。賞取りレースの辞退など19歳の青年から発する言葉にしてはすでに音楽界を達観している。甘いフェイスから発する言葉は辛らつで、現実をよく見ている言葉だ。なんのためにフォーライフレコードという新しく設立されたばかりのレコード会社のオーデションを受けたのかという答えにも頷ける。

そして、それは自分がデビューするにあたり、自らの事務所を設立し、自分に集中して欲しいとリクエストする新人が今までいたろうか(今をときめく㈱アミューズは当初原田真二のために作られた企業である)。その自信も去ることながら有言実行してしまう才能は、映像から音ともに溢れ出てくるのだ。

 

   そんな映像・・・2005年にはDVDとして発売されたが即完売となり、今ではプレミアのつく作品となっている。・・・高いぞ!

リマスターして再発して欲しいなぁ。

 

2018/06/05

花形



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by yyra87gata | 2018-06-05 12:38 | アルバムレビュー | Comments(0)

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  6月は梅雨の季節。じめじめとしたうっとおしい季節。そんな時期に聞きたくなるムーディーブルース

洋楽。それもロックに目覚めた中学1年の頃、わたしの頭の中では、フリーのポール・ロジャースが何を歌っているのか、が興味の中心だった。
そして、同じ様な音楽(ロック)に興味を持ち始め、それは最終的にレッド・ツェッペリンの「独自性」「個々の実力」と「見栄え」に興味は移り、彼等は私の中のロックバンドのアイコンとなった。
ブルース、ロックンロール、ケルト、プログレ、レゲエなど多様な音楽性を打ち出す彼等をアイコンにした事は、後になってあながち間違いではなかったと気づくが、当時はパンクムーブメント花盛りの1977年。友人たちとの会話では、ツェッペリンは前時代的な遺物と称され、ビートルズに至っては化石と評され、相手にされなかった。涙。

 では、私は当時流行りの音楽に傾倒したか、というと確かにパンクは分かりやすく、時代を彩る表現でニュース性もある。しかし、音楽性が今一つ「単調」で、長く聴いていられない。「飽きる」。
 ニューヨーク地方のそれは「歌詞が面白く」盛り上がったが、ロンドン地方のそれは「不満の捌け口が中心」で、イギリスはビートルズやツェッペリンを輩出した国ではあるが、生活は大変な国なんだなぁなどと盛り下がった。

聞くところによるとロンドンはいつもぐずぐずと雨が降っているというし・・・。暗い。


  そんな事もあり、フリーやツェッペリンの音楽性とは別の新たな世界を模索していた時に1970年初頭に出版されたロバート・プラントだかジミー・ペイジだかのインタビュー記事を目にした。

「今のロック・ミュージックで本当の意味でオリジナルといえるのはピンク・フロイドムーディーブルースだけだ。レッド・ツェッペリンはロックのある一面を表現しているに過ぎない」と。私のアイコンであるツェッペリンが発する言葉である。神の言葉である。ピンク・フロイドとムーディーブルース

ピンク・フロイドは『原子心母』(1970)、『狂気』(1973)等の世界的大ヒットアルバムを発表していたので1977年当時でもメジャーなバンドであったが、もう一つのムーディーブルースとはいかなるバンドか。

  私はすぐにレコード屋に走り、「M」の欄を必死に探したが1枚も見当たらなかった。2件目のレコード屋でもかすりもせず、意地で探し回った挙句、中古専門店ハンターで見つけたアルバムが『セブンス・ソジャーン』(1972)であった。800円。


  レコードに針を落とす。予想外の厳かな音の調和。オーケストレイションやチェンバリンを多様した世界。「プログレの先駆けとなったバンド」と解説には記載されていたが、当時私が思い描いていたプログレはキング・クリムゾンやイエス、ピンク・フロイドのようにハードな音色に変拍子やギリシャ哲学のような歌詞の応酬という印象が強く、このムーディーブルースの音楽が果たしてプログレなのかという印象が先に立った。そしていろいろ調べていくうちに「メロトロンをビートルズと同時期から使い始めた」とか「もともとは1964年にR&Bのバンドとしてデビューし、ギターには後にウィングスの核となるデニー・レインも在籍していた」とかある。ビートルズと近しい関係なのかしら、などと勝手に思い、何故か妙な親近感を起こさせるバンドとなったが、日本では知名度が低くヒット曲といえば1967年発表の「サテンの夜」となるようだ。

「サテンの夜」は発売当初は大したヒットを記録しなかったが、5年後の1972年頃からラジオ局から火がつき始め、最終的に全英9位・全米2位・カナダ1位の大ヒットを記録し、彼らの代表曲となった。そして収録アルバム『デイズ・オブ・フューチャー・パスト』(1967)も1972年にはアメリカで最高位3位を記録する大ヒットとなる。


  私、この頃エレクトーンを習っていたけれど「サテンの夜」はエレクトーンの教科書に載っていて、弾いた記憶があるね。エレクトーン向きの情感溢れる歌。ロックというよりムード歌謡かカンツォーネか・・・。

しかし、それ以降、ムーディーブルースは日本では目立つ存在ではなかったのだよね。あのシンフォニックロックというか、仰々しさというか。特にシングルヒットを好んでいた日本の音楽界はコンセプトアルバムという理解が低く、ムーディーブルースのようにアルバム毎にコンセプトを打ち出す作り方をされてもピンとこなかったのではないだろうかね。ラジオで使い辛いし。

  ま、かくいう私も1977年当時『セブンス・ソジャーン』を聴いてもピンとこなかったし。なんだか温いお湯につかっているような気分になり、トロリトロトロ眠くなったものだ。

が、しかーし、最近久しぶりに針を落としてみたところ、なんだかしっくりきたのだよね。

いろいろな音楽を聴いてきてそれが上手い具合に調和し、聴く耳が育ったというのか・・・。

コーヒーじゃないけど、深みが増すというか。「Isn’t Life Strange?(神秘な世界へ)」なんてドラマチックな展開満載でありましてリピートしてしまいます。

 で、作詞作曲のベーシストのジョン・ロッジはこのアルバム制作時27歳。ヴォーカルのジャスティン・ヘイワードは24歳だから、老成しているというか才能が溢れているというか。ザ・バンドみたいな枯れ方よね。

昔、あまり聞かなかったアルバムを聴きなおすと妙な発見があるね。

なんだか得した気分になる。

でもって未だに現役というからザ・ローリング・ストーンズやザ・フーと並び称される長寿バンドでありますな。オリジナルアルバムは2003年まで発表しているようです。

  ムーディーブルースは、プログレの祖ですか・・・。

プログレの概念が今の時代だと良くわからなくなってしまうのだけれど、ムーディーブルースはプログレというよりソフトロックにカテゴライズされる気がするね。ま、いいんだけど・・・。

  あと、プログレのファンの人って物凄く拘りの強い人が多いから、このブログみても怒らないでね。私は音楽評論家のようにサンプル盤聴いて御託並べているわけでなく、しかるべきお金を自分で払って無償で感想を書いているだけなので。あしからず。

2018年6月1日

花形


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by yyra87gata | 2018-06-01 12:40 | アルバムレビュー | Comments(0)

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 この写真だけでご飯3杯は食べることが出来る。なんとも格好良いじゃありませんか!

サディスティック・ミカ・バンドがロックの本場であるイギリスに渡り、ロキシーミュージックと対等に渡りあったというツアーの時の写真でしょうか。

イギリスの古い街並みに溶け込む加藤和彦。余裕の笑顔。

音なんて聴かなくてもこの写真だけで「あーちゃんと日本にも面白いロックがある」ということを伝えてくれたのだな、と思いましたよ。

 この時の話は、様々なメディアがこのコンサートツアーを取り上げていましたが、いまいち詳細に欠けておりました。今のようにSNSもありませんから、具体的ではなく、「ツアーの最後の方ではロキシーミュージックより声援が多かった」などという記事が多く、どのような規模で行われていたのかもわからずじまいで、当時の日本の音楽雑誌でさえも大きく取り上げていませんでした。なぜなら、わからないから。せいぜい、イギリスの大衆タブロイド誌であるデイリーミラーに掲載されたのだから、現地では話題になっていたことは間違いないだろう・・・的なもんです。

 今のメディア構成で当時の活躍があったら扱いは全然違う気がしますね。

 

 サディスティック・ミカ・バンドは、実力も技術もあるミュージシャンを入れ替えながら加藤とミカが中心になり、突き進みました。しかし、名盤『黒船』(1973)の制作時にプロデューサーとして迎えたクリス・トーマスとミカが不倫関係に陥り、あっけなくバンドは解散の道を選びます。

しかし、ロキシーミュージックとのツアーは決定事項であり、2人は仮面夫婦を装いながらもツアーをこなしました。そして、イギリスツアーが終了し、帰国後、正式に離婚手続きをとりバンドは解散しました。

このような事情は1996年にミカが執筆した「ラブ&キッス英国-イギリスは暮らしの達人」を読んだからわかったことで、当時の情報は「ミュージック・ライフ」誌に《あれあれ、トノバンとミカが離婚!バンド解散だって!》みたいなノリで書かれていただけでしたから、高校時代にその情報を見た私(離婚から5年くらい経っている)は「なんだか、つまらねぇの!結局、女とバンドやると最後はケンカして解散だろ、ビートルズだって女が入ってきたから解散したようなもんだろ、だから面倒臭ぇんだよ、女が入ってくると!」なんて憤りを感じていたことは今思うと笑える話です。ま、童貞には分からない話です。

 

私が聴き始めた頃は既にバンドは解散していたわけですが、彼らのオリジナリティー溢れる作品は私の心をわしづかみにしました。なぜなら、加藤和彦という存在を知った瞬間から、他のミュージシャンが霞んで見えてしまったからです。

加藤和彦の音楽性、パロディーセンスや立ち振る舞いは他の日本のミュージシャンの次元ではなかった様に思います。

ちょうどその頃の他のミュージシャンといったら、北海道の“めぐる季節”は「テレビに出ない!」なんて息巻いていたし、大阪の“チャンピオン”はハンド・イン・ハンドだし、長崎の“バイオリン弾き”は「海は死にますか、山は死にますか」なんて呪文を唱えている始末。コンサートでバスタオルを肩に掛けて唾を飛ばしながら叫んでいる広島の“リーゼント”は、少しは大人になろうと思ったのか何故か独りでアメリカに旅立ってしまった。応援していたツッパリ兄ちゃん達は呆気にとられていたものです。そんな混沌とした日本の軽音楽界で加藤和彦はやっぱり異質でありました。

1960年代後半、雑誌「MEN’S CLUB」での呼びかけ(音楽誌ではなくファッション誌というところが違うね)により結成されたザ・フォーク・クルセダーズの「帰ってきたヨッパライ」から始まり、髪の毛を七色に染めてブギーを踊るミカ・バンド。バンド解散後は早々に次の伴侶である安井かずみと組みアメリカに渡り、マッスル・ショールズ・サウンド・スタジオで、ジミー・ジョンソンやバリー・ベケット、ロジャー・ホーキンス、デヴィッド・フッドらとレコーディングをし、「シンガプーラ」(1976)を共作。

この振れ幅の広さ・・・すべて加藤和彦のセンスであります。ロンドンからアメリカのコアまで。この柔軟な対応力は加藤和彦の一番のパワーであると確信します。なぜなら、この作品の3年後にはバハマ~ベルリン~パリと音楽性をカメレオンの様に変え、名盤を残していくからであります。

 サディスティック・ミカ・バンドのロンドン公演のアルバムの感想は、高校時代に聴いた時は、先駆者としての足跡を残したという証という意味で妙な感動を憶えましたが、今聴きなおすと演奏自体の出来は、決して良いものではなかったかもしれません。加藤のギターがバンドを下支えしているのはわかりますが、いかんせん音響設備も今と比べると稚拙なものであります。加えてこのアルバムの音源はソニーのカセット(デンスケ)の1発のマイクで録音したもので、そもそも記録用であったものをリリースしたと知りました。だからかもしれませんが、テンションは落ちます。また、後にわかったことですが、このバンドは音だけ聴いていても魅力は半減するのだと。彼らはビジュアルにも気を使っていましたからね・・・。

しかし、当時27歳で最年長である加藤和彦を筆頭にミカ、高中正義、高橋幸宏、今井裕、後藤次利の若さみなぎる演奏を目の当たりにしたイギリスの若者は、心をわしづかみにされたに違いないでしょう。

「黒船」によってロックミュージックが海を渡って日本に伝わり、そのロックミュージックは加藤により形を変えてロックミュージックの国で演奏されたわけです。

 私も今、聴きなおしてみて思いましたが、感慨に耽るより、当時、ティーンエイジャーで彼らの生演奏を聴いてみたかったですね。もちろんロンドンで。

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2018年4月4日

花形


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by yyra87gata | 2018-04-04 12:25 | アルバムレビュー | Comments(0)


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不思議なアルバムである。

タイトルはずばり『ALBUM』(1977)である。名義は松任谷由実。

荒井由実と松任谷由実の曲がランダムに並ぶ。

ユーミンとしては、松任谷正隆との結婚で荒井から松任谷に姓を変え、心機一転のアルバム『ハルジョン・ヒメジョン』(1978)でスタートを切るというシナリオもあったであろうが、いきなり出鼻をくじかれたようで、まさかのベスト盤の発表であった。

東芝EMIからの要請で渋々発表を許可したようで、発売日はまさに1977年12月25日。クリスマス商戦に乗じてか、「ユーミンの結婚記念盤」とまで宣伝されたアルバムで、大人の事情がぷんぷん匂う作品である。

そのためかユーミン自身はこのアルバムをあまり良く思っていないようで、著書「ルージュの伝言」にもそのようなことが記載されている。なんでも売上が悪かったから自分のアルバムの中で「最大の汚点」らしい。しかし、言わせて貰えば、渋々リリースした経緯もあり、本人もあまり力を入れて無かったと見受けられるので(ジャケットなんてただのレコードの写真ですから・・・しかもサンプル盤)、そんなこと書かなければいいのにと思ったけどね。

私は当時そんな事情も知らず、このアルバムを購入し愛聴していた。このアルバム『ALBUM』は(ややこしい)、荒井由実時代の曲を6曲と松任谷由実として発表された2枚のシングル盤のAB面が収録されており、予算の都合でシングル盤まで手が届かない当時中学生の私はお得感満載で購入したという記憶がある(しかし、その後シングル盤も結局揃えちゃうんだけどね)。

特に当時のシングル盤「遠い旅路」(B面「ナビゲーター」)、と「潮風にちぎれて」(B面「消灯飛行」)はこの『ALBUM』がCD化されていないので、中々陽の目を見ることが無い。

そういえば、この頃のユーミンのシングル盤は中々渋い作品が多く、CD化されていないものが多いのだ。

ESPER」(1980.3)は後のアルバム『REINCARNATION』(1983)に別テイクで収録されるがシングルヴァージョンのそれは松原正樹のギターをふんだんにフューチャーしたもので、アルバム『時の無いホテル』(1980)からこぼれたものと推察される。また、次作の「白日夢・DAYDREAM」(1980.5)は打って変わって落ち着いたヨーロピアンなミドル・オブ・ザ・ロードで、朝の番組のテーマ曲というのも頷ける作品(朝の番組ではちょっと渋すぎるかもしれんな)。

そして極めつけは、「星のルージュリアン」(1980.8)。1970年代後半から1980年代中半にかけてとにかく化粧品メーカーのタイアップを取ればみんなヒットしたという定説がある中、あまりにも渋すぎてオリコン46位というユーミンにしては不名誉な成績を残した名曲である。でも良く考えたら1980年って彼女シングルを3枚も発表してるのね。すごいパワーを感じるんだけど、みんなオリコン30位にも入らない。ユーミンは、アルバム志向といえばそれまでなんだが、レコード会社にしてみれば痛いね、こりゃ。

でも「星のルージュリアン」。これ、アタシ大好きな歌でね。こんなセンスのあるシティポップ、ユーミンじゃなければパフォーマンスできないよ、と勝手に思っていた。

ルージュリアンって言葉も聞いた事の無いワードで、ユーミンはつくづくコピーライターだなと思う。化粧品メーカーはポーラ化粧品で口紅のコマーシャルだった。

ルージュリアンの次のシングル盤は「守ってあげたい」(1981.6)だから、ここからユーミンのメガヒットアルバムの大行進が始まるんだけど、1980年までのユーミンのシングル盤・・・先ほどの『ALBUM』も含めてまとめてCD化して欲しいな。1989年にシングルCDで出た経緯はあったみたいだけど。

レコードのシングル盤は全部持っているんだけど、車で聴きたいし・・・。

とりとめのないことを書いてしまったが、ユーミンの「シングル盤でアルバム未収録&シングルヴァージョン作品集」なんて出たらすぐにポチッとする。

CDというメディアがなくなる前に形として残して欲しいのよ。ダウンロードじゃ味気ないから。


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2018年2月15日
花形





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by yyra87gata | 2018-02-15 19:45 | アルバムレビュー | Comments(0)

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 私の好きなスプリングスティーンは「アメリカで生まれた!」と叫ぶマッチョでは無い。ニュージャージーの裏町にいる痩せこけた野良犬がちょっと卑屈な眼差しで世間を斜めに見ているような・・・。いつかは雷轟く道を辿り、約束の地で栄光の日を夢見る男。
 学校の勉強より仲間とロックンロールビートに浸り、土曜の夜にはじけることだけを考えているティーンエイジャー。

そして、野心だけをカバンに詰め込み、汗のにじんだテレキャスターを背にし、ニューヨークへと旅立つ。細身の身体は粋がって大きく見せているが、どこかおどおどしていて、目だけは野心に燃えている。そんな男だ。

70年代中盤、アメリカ、イギリスの音楽はカオスだった。ハードロック、パンク、AOR、グラムロック、ブルースなどが入り乱れ、シングルヒットで評価される音楽業界がアルバムへと目が向き、その後アルバムのメガヒットへとシフトしていくようになる。

時代はクィーンやKISS、エアロスミスといったビジュアルにも長けたロックバンドやボズ・スキャッグスやスティーリーダンといった落ち着いた趣のバンドがセールスを伸ばし始め、キャロル・キングやエルトン・ジョンといったシンガーソングライターはブームが過ぎ去り、ブラックパワーはファンクビートに乗せてソウルトレインに乗車していた。そんな入り乱れた音楽地図の中をスプリングスティーンはただストレートなロックンロールで突き進む。

そんな猛々しい8ビートのロックンロールをステージ狭しと展開していたことは、海外でのライブレポートを読む私の胸を膨らませたが、フォークロックの趣深いファーストアルバム『アズベリ・パークからの挨拶』(1973)も妙なブラスが参加し、音を厚くさせたジャージーにも聞こえるセカンドアルバム『青春の叫び』(1973)も違和感が募る。

彼のパフォーマンスを必死に感じようとするのだが、「ミュージックライフ誌」に掲載されている写真とアルバムから出る音が、上手く結びつかなかったのだ。

ライブグラビアでは、スプリングスティーンはテレキャスターをかきむしり(テレキャスではなくエスクワイヤーにエクストラ・テレキャスターのピックアップを取り付けたことは後で知るのだが)、グランドピアノの上からジャンプし、聴衆を煽る分かりやすいアクション。汗を撒き散らし、細身の身体をしならせてのけぞりながらギターをかき鳴らしている。

セカンドアルバムから約2年。

とうとうそのアルバムは姿を見せる。1975年の夏だった。

FENはカオスとなっていた。

イーグルスの「呪われた夜」、ジェファーソン・スターシップの「ミラクルズ」、エアロスミスの「ウォーク・ディス・ウェイ」、クィーンの「ボヘミアン・ラプソディー」、ウィングスの「あの娘におせっかい」がぐるぐるとヘビーローテーションしている。

そんな中にいきなりのスプリングスティーンのシンプルな8ビートが炸裂した。

『明日なき暴走』(1975)。 “BORN TO RUN”を「明日なき暴走」と題するセンス。

ガキの私はしびれた。

それはどんなヘビーメタルな音よりも生音のまる裸の音圧が響きまくり、耳障りな裏街の音だった。

まさにミュージックライフ誌でみたあのライブ写真の音だ。

しかもA面からB面へと一気に炸裂し、その暴走は39分で終了。なんと潔いことか。

ロックンロールの潔さ。駆け抜ける美しさ。

華美で、様式美のロックもいいが、このアルバムは混沌とした世界に向けてストレートな一撃をくらわした。

もちろん、ただのロックンロールで終わらないことは、このアルバムの最後に収録された「ジャングルランド」を聴けば合点がいく。9分半に及ぶこの大曲のアレンジはスプリングスティーンの同郷であるチャーリー・カレロが担当しており、自身が結成したフォー・シーズンズばりの歌心を持ったアレンジとなっている。そしてそれは、スプリングスティーンの懐の深さを物語っている。

このアルバムは1970年代中盤に見られたメガヒットアルバムの仲間入りはしなかったものの、長く愛され、未だにスプリングスティーンの代表アルバムとして推す人も多い。

そして音だけでなく、アルバムデザインも秀逸で、見開きの背表紙はサックスを吹くクラレンス・クレモンズの肩越しに寄りかかり笑みを浮かべる細身のスプリングスティーン。その格好良さといったら・・・。

やっぱりロックンローラーはマッチョじゃだめなんだよ。

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2018/1/19

花形


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by yyra87gata | 2018-01-19 16:57 | アルバムレビュー | Comments(0)

Colours Fabienne


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1980年代の音楽事情はデジタルや打ち込みなどの新しい音楽機器の発達が凄まじく、それまでの音楽を一気に古臭いカビ臭いものへと変換してしまった。

そんなターニングポイントとなった1980年代半ばに、日本の音楽シーンは来るべきバンドブームの前兆があり、余震のようにグラグラと揺れ始めていた。それは、それまで栄華を誇ってきた音楽番組が冬の時代に入り、テレビ各局から消滅していくことから始まった。そしてそれまでの「歌謡曲」と呼ばれるジャンルは消えていった。

洋楽はMTVの登場で歌にドラマ性を求め始めたのも特徴であろう。

CMやテレビドラマのタイアップ曲はそれまでの「歌謡曲」ではないビートの効いたバンドサウンドが主流となり始め、徐々にヒット曲のメソッドが出来上がっていった。

そんな時代の狭間となった頃、レベッカは第2のスタートを切るべく路線変更を行ないミュージックシーンに登場した。

レベッカのデビュー時はギターの小暮体制によるハードロック路線の音楽作りで進んでいたが、音楽性の違いを理由に小暮やドラムの小沼が脱退してしまう。

バンド存続のため、メンバーを再編成し、キーボードの土橋体制によるリスタートが切られるのだが、新たなメンバーでの音楽性はファーストアルバムのそれとは異なり、かなりポップサウンドとなり、ヒット曲を狙うキャッチーなメロディを主としていた。

その時にオーディションで加入したギタリストが古賀森男である。

 リスタートを切ったレベッカは誰が見ても当時のアメリカのマドンナやシンディ・ローパーの様なポップサウンドであり(オマージュ)、NOKKOのヴォーカルと相まって、聴きやすいサウンドに成されたが、その重要なフレーズを担っていたのが古賀のギターである。

 レベッカが飛翔するきっかけとなった「ラブ・イズ・Cash」や「フレンズ」といった作品のダンサブルなカッティングやメロディアスなギターソロは、土橋の作るマドンナを彷彿させる音のフォーマットと一線を画し、オリジナリティ溢れるフレーズだ。だから、古賀のギターワールドがあってこそのレベッカ飛翔と私は勝手に思っている。

バンドサウンドはプロデューサーがどこまでメンバーに「やらせるか」によるもの。

誤解を承知で書くが、売れるためには有名なフレーズをパクってまでも、雰囲気を出してしまえばいいと言う。オリジナルを超えるアレンジで租借すればいいという意見もある。あとは、作り手は良心の呵責にさいなまれるかどうかの話だが、そんなことより売れてナンボの世界でもある。

レベッカは時代の音を反映し、NOKKOの圧倒的なヴォーカルで駆け上っていった。


古賀は自身のバンドFabienne(フェビアン)に専念するため、人気が出始めたレベッカを脱退する。

 『Colours』(1989)はフェビアン2枚目のアルバムである。ファーストの『冒険クラブ』(1988)と並び、古賀ワールド満載のポップなアルバムである。

 少し線の細いヴォーカルだが、デジタルサウンドや打ち込みサウンドがひしめき、ドラムには常にゲートリバーヴが施されている時代の音に反し、心温まるメロディに不意をつかれる。

 そして、古賀のギターはポップなのだ。

 それが例えロックンロールを刻んだとしても、グルーヴはポップサウンドになる。だからこそ、路線変更したレベッカが大ヒットしたことは頷けるのだ。

テクニックも去ることながら、グルーヴがバンドサウンドとして合致した瞬間にしか成し得ない音が必ずある。

 それを体現した古賀森男のサウンドは、唯一無二となるのだ。

 

フェビアンは商業的には成功しなかった。そして、フェビアンは1990年に解散した。

古賀森男はソロミュージシャンとして今も活動中である。

 フェビアンも1999年に再結成しているという。

Colours』をたまに聴くことがあるが、そのたびごとに新しい発見をする。今の時代の音の中に置いてもこのアルバムは聴きやすい。これを普遍性と呼ぶのだろう。

音楽は不思議だ。

声を高らかに「Holy Town」を歌い上げる古賀の姿を見てみたい。

時代に翻弄されない音がそこにあるはずだ。


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2017年10月2日
花形


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by yyra87gata | 2017-10-02 17:14 | アルバムレビュー | Comments(2)