音楽雑文集


by yyra87gata

カテゴリ:アルバムレビュー( 164 )

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    黒人奴隷が白人に隠れて労働歌としてブルーズを作り上げた歴史。

金もないから楽器も買うことができない。しかし、声は出すことができるからと、街角でアカペラを歌うドゥーワップの歴史。

エレクトリックサウンドの発達によりロックンロールをはじめとした音楽の多様化が進んだ50年代~60年代。

時代の流れにより音楽は様々な形を私たちに見せてくれた。

    1970年代初頭、ニューヨークではビートニク思想に影響を受けた詩人たちが集まり、アンダーグランドからの音楽活動が盛んとなる。

   政治や社会には無関心であり、個人の解放や浄化といった人間の根源を追及し、そのためであれば貧困もいとわないというビートニク思想を持つミュージシャンからの発信である。そこにはドラッグ、セックス、禅などの方法を用い、性別を超えた世界や人間のマイノリティーを追及したアウトプットがスコアとなり、楽曲を彩った。思想と歌は前述にもあるとおり、時代の音とされるが、まさにこのアンダーグランドからの叫びは、ザ・ローリングストーンズに代表される肥大化したロックとは一線を画す、ニューヨーク固有の音となった。

 ベルベットアンダーグランド、ストゥージズ、MC5、テレビジョン、パティ・スミス・・・。

ニューヨーク・パンクと括られるジャンルは実は広すぎて、激しいリズムの音楽性やポエトリーリーディングに代表されるような表現が目立つようだが、ビートニク思想をベースとしたならば、そのアウトプットはコマーシャリズムに相反するもの。つまり、「思想」の問題となる。

   そこに目をつけたファッション・デザイナーがいた。

 混沌としたニューヨーク。ライブハウスCBGBの中でその男は金のにおいを嗅ぎ分けた。

ロンドン出身のマルコム・マクラーレンはニューヨークに赴いた際、「ニューヨークの音」を目の当たりにしたのだ・・・。

 帰英後、自ら所有していたブティック「Let It Rock」の店名を「SEX」に変更した。

その店はもともとフィフティーズ・ファッションのブティックだったが、店名変更とともにボンデージ・ファッションが店内に埋め尽くすようになる。

ロンドンの労働者階級の叫びは金になる・・・そんな目論見から過激なファッションを施し、セックス・ピストルズを作り上げて行った。過激な男、不満を持つ男、卑しい笑いをする男を作り上げろ!売れるためなら行き過ぎた演出が必要だ。話題性を重視し、イギリスの象徴である女王陛下の写真にピンを刺すのなんて朝飯前。いかにEMIから契約金をふんだくるか。そのためには音楽性よりもジェネレーション・ギャップを作り上げていく。挙句の果ては、演奏などはできるよりもできない方が良いという始末。パンクバンドというセックス・ピストルズの虚構を作り上げたプロデューサーである。

    1980年にイギリスで公開され、その5年後日本で公開(字幕なし)、その10年後に宝島社から日本オリジナルジャケットでビデオ発売され、同年に正式公開された映画「グレイト・ロックンロール・スウィンドル」はマルコム目線のピストルズである。

映画はマルコムが語り手となり、いかにセックス・ピストルズは作り上げられたバンドであるかという内容。

そこにはモンキービジネスで笑うものは演者ではなく、ブームを作り上げたプロデューサーであるといわんばかりの内容だ。

もちろん、バンドメンバー、特にヴォーカルのジョニー・ロットンはこの作品に対し異議を唱え、2001年に「ノー・フューチャー」という作品で正式なピストルズヒストリーを発表した。

しかし、ピストルズが輝いた1977年からたった2年の出来事について、どちらの作品が面白いかといったら、私は前者の「グレイト・ロックンロール・スウィンドル」を推してしまう。

マルコム・マクラーレンという詐欺師がパンクムーブメントを作り上げたということが重要という気がするのだ。

   そもそもビートニック思想の「ニューヨークの音」は、DIYDo It Yourself)と表現され、「パンク」などという言葉ではなかった。「パンク」はマルコム・マクラーレンがでっちあげた事で、そもそもすべてにおいてポンコツで、その事象を示したものである。それがロングヘアーにロンドンブーツという前時代のロックを完全否定し、散切りヘアスタイルや安全ピン、剃刀といったファッションも合わせてロンドンで大ブームになった。そのルーツを辿るとニューヨークということになり、「ニューヨーク・パンク」などという言葉をマスコミが使い始めたに過ぎないのだ。

ピストルズ脱退時のジョニー・ロットンの言葉がそれを裏付ける。

「自分は思想的アナーキーではなく、音楽的アナーキーであった」と。

しかし、事実関係はどうであれ、「グレイト・ロックンロール・スウィンドル」でのマルコム・マクラーレンの悪徳マネージャーぶりは腹を抱えて笑うことができる。メインヴォーカルのジョニー・ロットンが脱退すれば、一般公募でヴォーカリストを募ってめちゃくちゃなオーディションを開き、結局はヴォーカルなど誰でもいいと言ってみたり、ギターのスティーブ・ジョーンズは女狂いと喧伝し、そのままの演出を施したり・・・(本人がポルノ男優のような演出を受けている)。圧巻はシド・ビシャス。彼の行動自体がマルコムの考えるピストルズそのもので、鼻血を噴出しながらベースを弾いたり、ベースを振り回しながら観客に飛び込んだり、自分の身体を刻んでぼろぼろのTシャツが赤く染まったり・・・。極めつけはハードなアレンジを施した「マイ・ウェイ」をがなりたて、最後は観客に向かって発砲する(演出)。そんなぶっとんだパフォーマンスはシドでなければできないだろう。そして彼の最期はオーバードラッグによる死亡である。

    恋人のナンシーを殺し、自分もあの世行き。現実と虚構が彼の人生を狂わせた。それは、マルコム・マクラーレンがセックス・ピストルズを作っていなかったら、シドはドラッグに溺れることはなかったか・・・いや、形を変えて伝説になっているだろう。

 

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   セックス・ピストルズをバンドと思ってはいけない。

セックス・ピストルズはファッションである。

セックス・ピストルズは音楽業界への挑戦であり、ギャング集団である。

純粋に叫びたかったジョニー・ロットンは脱退後、名前を本名のジョン・ライドンとし、パブリック・イメージ・リミテッド(PIL)を結成する。もう、そこにはパンクという言葉よりニューウェーブという名前がフィットしていた。

    マルコム・マクラーレンはピストルズのメンバーに逃げられあとは、自身がマネージメントをしていたアダム・ジ・アントのバンドからメインのアダムだけを抜いて(裏切って)、自分でバウ・ワウ・ワウを結成するところも滅茶苦茶な感覚。

   ニューウェーブの波を作り上げ、ジャングルビートで一気に勝負出たところの嗅覚などは音楽家というよりクリエイターのノリなのだろう。

とにかく胡散臭い男である。

そんな楽しい「いかさま野郎」(賛辞)の作品が「グレイト・ロックンロール・スウィンドル」(偉大なロックンロール詐欺!)である。

ま、めちゃくちゃよ。

 

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2018/6/19

花形


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by yyra87gata | 2018-06-19 11:19 | アルバムレビュー | Comments(0)
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    1977年秋、原田真二はフォーライフレコードからデビューした。クシャクシャのカーリーヘアにマッチしたベビーフェイスは、歌を聞くまではそれまでのアイドルと何一つ変わらぬ出で立ちであったが、彼がピアノの前でひとたび歌い出せば、今までに聴いたことの無いポップス感覚に富んだシンガーであることは誰の目にも明らかに映った。そして、それは3ヶ月連続シングル発表という奇想天外なデビュー方法も手伝い一大センセーショナルを生んだ(後述するキャロルは7ヶ月連続シングル発表というのがあるが・・・)。

原田真二の出現は、歌謡曲ではない音楽が歌謡番組に進出し始めた先駆けとなり、お茶の間に「ロック」「ニューミュージック」という言葉が認知され始めた事件であった。

    そういえば本人達の思いとは別の場所で「ロック御三家」という芸能界的な言葉も生み出されたことも日本の「ロック」の市民権に拍車をかけたことも事実だろう。

 

     原田真二は、デビューして9か月目の1978724日、デビュー1年目かつ10代で史上初めて日本武道館単独公演に臨んだ。その"SHINJI HOT SUMMER OVER IN BUDOHKAN" コンサートを中心に、直前の 静岡県“つま恋”での合宿風景や舞台裏映像等を収録した映画が『OUR SONG and all of you(ライブ・アット・武道館)』である。

映像からも読み取れるが、当時の日本武道館の存在は、ミュージシャンにとっては特別な場所であった。それは、軽音楽の世界ではビートルズが立ったあのステージに自分もいつかは立ちたいと思わせた魅力的な場所であり、日本武道館に立てるミュージシャンは選ばれし者であった。その武道館に19歳の若者が立つということだけでもセンセーショナルな出来事であったのだ。

     監督はNHKのディレクター出身でキャロル(矢沢永吉ジョニー大倉、内海利勝、ユウ岡崎)のドキュメンタリーを制作し保守的なNHKと放映に関して揉めに揉めた挙句、NHKを解雇された龍村仁。彼はその後自己資金により映画『キャロル』を完成させ1974年の公開にこぎつけている。もちろん、当時の音楽事情において「ロック」などは存在せず、革ジャン、オートバイ、エレキギターは「不良」のレッテルを貼られるもので、保守的なNHKが放映を拒んだことも十分理解ができる。瀧村は『キャロル』を日本の音楽のニューウェーブと捉え、音楽面と合わせてカルチャー面で現代の若者像を追っていった。その意味で原田真二のこの映画は、原田真二のコンサート映画というより「原田真二」という人に焦点を当てたものとなっている。

    瀧村はNHK出身の監督なだけに映画は「NHKスペシャル」のような作りである。音楽映画として見てしまうと、肝心なライブの見せ場を逃している場面も多々あるし、音響も良くない。しかし、歴史の1コマとして見れば、ぶれの多いカメラワークや恐ろしいまでに暗い画面が1970年代という歴史を物語っており、加えて配給先がATGということもドキュメンタリー臭が漂っている。

    そして、よくぞあの天才の若い時間を記録したという事実。これはやはり華美な演出より生身の音や映像のインパクトにおいて、痛烈に私たちに訴えかけてくる。


バンドメンバー・・・( )は年齢。

原田真二19) ヴォーカル、ギター、キーボード

山田秀俊(26) キーボード

青山徹(25) リードギター

ロバート・P・ブリル(21) ドラムス

関雅夫(23) ベースギター

古田たかし(20) ドラムス

19歳の原田真二を若いバンドメンバーが固める。

 

     大きな日本武道館というターゲットを自らのものにしようとするひたむきさは、何にも変え難いもので、つま恋での合宿風景でもその表情は伺うことができる。19歳の青年が年上のプロミュージシャンに対し、自分の音楽を表現してもらうために必死に世界観を訴える。原田真二の考えたアレンジを楽譜はもとより、口伝えで指示する。そこに遠慮はなく、コンポーザーとプレイヤーの関係しかない。

 あの当時、4歳も5歳も年上の人間に、しかもプロのスタジオミュージシャンに臆することなく、自分の思いを伝えていた光景。そんな天才にバックを固めるミュージシャンも演奏で応える。若いミュージシャンたちの演奏は疾走感が溢れ、日本武道館の大きさを感じさせないものとなった。

    このバンドの後に原田真二&クライシスを結成し、音楽技術的にも更に高くなっていくが、躍動感と勢いはこのバンドメンバーには適わない。

 

    最近、原田真二を聴き直す事があり、当時のフィルムを再び見た。そして、この記事を思い立ったのだが、中学生の頃に映画館で観た頃の感情にすぐ戻ることができたことに我ながら驚いた。いろいろと突っ込みどころ満載かと思いきや、そういう「うがった見方」は飛んでしまい、集中した103分であった。それは、本当に私の13歳当時の心に深く刻まれた作品なんだということの証であり、自分の中の中二病の一角を占める作品だったのだと認識した次第だ。

とにかく原田真二の大物感が半端ない作品である。

歌謡界と自分の立ち居地。賞取りレースの辞退など19歳の青年から発する言葉にしてはすでに音楽界を達観している。甘いフェイスから発する言葉は辛らつで、現実をよく見ている言葉だ。なんのためにフォーライフレコードという新しく設立されたばかりのレコード会社のオーデションを受けたのかという答えにも頷ける。

そして、それは自分がデビューするにあたり、自らの事務所を設立し、自分に集中して欲しいとリクエストする新人が今までいたろうか(今をときめく㈱アミューズは当初原田真二のために作られた企業である)。その自信も去ることながら有言実行してしまう才能は、映像から音ともに溢れ出てくるのだ。

 

   そんな映像・・・2005年にはDVDとして発売されたが即完売となり、今ではプレミアのつく作品となっている。・・・高いぞ!

リマスターして再発して欲しいなぁ。

 

2018/06/05

花形



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by yyra87gata | 2018-06-05 12:38 | アルバムレビュー | Comments(0)

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  6月は梅雨の季節。じめじめとしたうっとおしい季節。そんな時期に聞きたくなるムーディーブルース

洋楽。それもロックに目覚めた中学1年の頃、わたしの頭の中では、フリーのポール・ロジャースが何を歌っているのか、が興味の中心だった。
そして、同じ様な音楽(ロック)に興味を持ち始め、それは最終的にレッド・ツェッペリンの「独自性」「個々の実力」と「見栄え」に興味は移り、彼等は私の中のロックバンドのアイコンとなった。
ブルース、ロックンロール、ケルト、プログレ、レゲエなど多様な音楽性を打ち出す彼等をアイコンにした事は、後になってあながち間違いではなかったと気づくが、当時はパンクムーブメント花盛りの1977年。友人たちとの会話では、ツェッペリンは前時代的な遺物と称され、ビートルズに至っては化石と評され、相手にされなかった。涙。

 では、私は当時流行りの音楽に傾倒したか、というと確かにパンクは分かりやすく、時代を彩る表現でニュース性もある。しかし、音楽性が今一つ「単調」で、長く聴いていられない。「飽きる」。
 ニューヨーク地方のそれは「歌詞が面白く」盛り上がったが、ロンドン地方のそれは「不満の捌け口が中心」で、イギリスはビートルズやツェッペリンを輩出した国ではあるが、生活は大変な国なんだなぁなどと盛り下がった。

聞くところによるとロンドンはいつもぐずぐずと雨が降っているというし・・・。暗い。


  そんな事もあり、フリーやツェッペリンの音楽性とは別の新たな世界を模索していた時に1970年初頭に出版されたロバート・プラントだかジミー・ペイジだかのインタビュー記事を目にした。

「今のロック・ミュージックで本当の意味でオリジナルといえるのはピンク・フロイドムーディーブルースだけだ。レッド・ツェッペリンはロックのある一面を表現しているに過ぎない」と。私のアイコンであるツェッペリンが発する言葉である。神の言葉である。ピンク・フロイドとムーディーブルース

ピンク・フロイドは『原子心母』(1970)、『狂気』(1973)等の世界的大ヒットアルバムを発表していたので1977年当時でもメジャーなバンドであったが、もう一つのムーディーブルースとはいかなるバンドか。

  私はすぐにレコード屋に走り、「M」の欄を必死に探したが1枚も見当たらなかった。2件目のレコード屋でもかすりもせず、意地で探し回った挙句、中古専門店ハンターで見つけたアルバムが『セブンス・ソジャーン』(1972)であった。800円。


  レコードに針を落とす。予想外の厳かな音の調和。オーケストレイションやチェンバリンを多様した世界。「プログレの先駆けとなったバンド」と解説には記載されていたが、当時私が思い描いていたプログレはキング・クリムゾンやイエス、ピンク・フロイドのようにハードな音色に変拍子やギリシャ哲学のような歌詞の応酬という印象が強く、このムーディーブルースの音楽が果たしてプログレなのかという印象が先に立った。そしていろいろ調べていくうちに「メロトロンをビートルズと同時期から使い始めた」とか「もともとは1964年にR&Bのバンドとしてデビューし、ギターには後にウィングスの核となるデニー・レインも在籍していた」とかある。ビートルズと近しい関係なのかしら、などと勝手に思い、何故か妙な親近感を起こさせるバンドとなったが、日本では知名度が低くヒット曲といえば1967年発表の「サテンの夜」となるようだ。

「サテンの夜」は発売当初は大したヒットを記録しなかったが、5年後の1972年頃からラジオ局から火がつき始め、最終的に全英9位・全米2位・カナダ1位の大ヒットを記録し、彼らの代表曲となった。そして収録アルバム『デイズ・オブ・フューチャー・パスト』(1967)も1972年にはアメリカで最高位3位を記録する大ヒットとなる。


  私、この頃エレクトーンを習っていたけれど「サテンの夜」はエレクトーンの教科書に載っていて、弾いた記憶があるね。エレクトーン向きの情感溢れる歌。ロックというよりムード歌謡かカンツォーネか・・・。

しかし、それ以降、ムーディーブルースは日本では目立つ存在ではなかったのだよね。あのシンフォニックロックというか、仰々しさというか。特にシングルヒットを好んでいた日本の音楽界はコンセプトアルバムという理解が低く、ムーディーブルースのようにアルバム毎にコンセプトを打ち出す作り方をされてもピンとこなかったのではないだろうかね。ラジオで使い辛いし。

  ま、かくいう私も1977年当時『セブンス・ソジャーン』を聴いてもピンとこなかったし。なんだか温いお湯につかっているような気分になり、トロリトロトロ眠くなったものだ。

が、しかーし、最近久しぶりに針を落としてみたところ、なんだかしっくりきたのだよね。

いろいろな音楽を聴いてきてそれが上手い具合に調和し、聴く耳が育ったというのか・・・。

コーヒーじゃないけど、深みが増すというか。「Isn’t Life Strange?(神秘な世界へ)」なんてドラマチックな展開満載でありましてリピートしてしまいます。

 で、作詞作曲のベーシストのジョン・ロッジはこのアルバム制作時27歳。ヴォーカルのジャスティン・ヘイワードは24歳だから、老成しているというか才能が溢れているというか。ザ・バンドみたいな枯れ方よね。

昔、あまり聞かなかったアルバムを聴きなおすと妙な発見があるね。

なんだか得した気分になる。

でもって未だに現役というからザ・ローリング・ストーンズやザ・フーと並び称される長寿バンドでありますな。オリジナルアルバムは2003年まで発表しているようです。

  ムーディーブルースは、プログレの祖ですか・・・。

プログレの概念が今の時代だと良くわからなくなってしまうのだけれど、ムーディーブルースはプログレというよりソフトロックにカテゴライズされる気がするね。ま、いいんだけど・・・。

  あと、プログレのファンの人って物凄く拘りの強い人が多いから、このブログみても怒らないでね。私は音楽評論家のようにサンプル盤聴いて御託並べているわけでなく、しかるべきお金を自分で払って無償で感想を書いているだけなので。あしからず。

2018年6月1日

花形


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by yyra87gata | 2018-06-01 12:40 | アルバムレビュー | Comments(0)

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 この写真だけでご飯3杯は食べることが出来る。なんとも格好良いじゃありませんか!

サディスティック・ミカ・バンドがロックの本場であるイギリスに渡り、ロキシーミュージックと対等に渡りあったというツアーの時の写真でしょうか。

イギリスの古い街並みに溶け込む加藤和彦。余裕の笑顔。

音なんて聴かなくてもこの写真だけで「あーちゃんと日本にも面白いロックがある」ということを伝えてくれたのだな、と思いましたよ。

 この時の話は、様々なメディアがこのコンサートツアーを取り上げていましたが、いまいち詳細に欠けておりました。今のようにSNSもありませんから、具体的ではなく、「ツアーの最後の方ではロキシーミュージックより声援が多かった」などという記事が多く、どのような規模で行われていたのかもわからずじまいで、当時の日本の音楽雑誌でさえも大きく取り上げていませんでした。なぜなら、わからないから。せいぜい、イギリスの大衆タブロイド誌であるデイリーミラーに掲載されたのだから、現地では話題になっていたことは間違いないだろう・・・的なもんです。

 今のメディア構成で当時の活躍があったら扱いは全然違う気がしますね。

 

 サディスティック・ミカ・バンドは、実力も技術もあるミュージシャンを入れ替えながら加藤とミカが中心になり、突き進みました。しかし、名盤『黒船』(1973)の制作時にプロデューサーとして迎えたクリス・トーマスとミカが不倫関係に陥り、あっけなくバンドは解散の道を選びます。

しかし、ロキシーミュージックとのツアーは決定事項であり、2人は仮面夫婦を装いながらもツアーをこなしました。そして、イギリスツアーが終了し、帰国後、正式に離婚手続きをとりバンドは解散しました。

このような事情は1996年にミカが執筆した「ラブ&キッス英国-イギリスは暮らしの達人」を読んだからわかったことで、当時の情報は「ミュージック・ライフ」誌に《あれあれ、トノバンとミカが離婚!バンド解散だって!》みたいなノリで書かれていただけでしたから、高校時代にその情報を見た私(離婚から5年くらい経っている)は「なんだか、つまらねぇの!結局、女とバンドやると最後はケンカして解散だろ、ビートルズだって女が入ってきたから解散したようなもんだろ、だから面倒臭ぇんだよ、女が入ってくると!」なんて憤りを感じていたことは今思うと笑える話です。ま、童貞には分からない話です。

 

私が聴き始めた頃は既にバンドは解散していたわけですが、彼らのオリジナリティー溢れる作品は私の心をわしづかみにしました。なぜなら、加藤和彦という存在を知った瞬間から、他のミュージシャンが霞んで見えてしまったからです。

加藤和彦の音楽性、パロディーセンスや立ち振る舞いは他の日本のミュージシャンの次元ではなかった様に思います。

ちょうどその頃の他のミュージシャンといったら、北海道の“めぐる季節”は「テレビに出ない!」なんて息巻いていたし、大阪の“チャンピオン”はハンド・イン・ハンドだし、長崎の“バイオリン弾き”は「海は死にますか、山は死にますか」なんて呪文を唱えている始末。コンサートでバスタオルを肩に掛けて唾を飛ばしながら叫んでいる広島の“リーゼント”は、少しは大人になろうと思ったのか何故か独りでアメリカに旅立ってしまった。応援していたツッパリ兄ちゃん達は呆気にとられていたものです。そんな混沌とした日本の軽音楽界で加藤和彦はやっぱり異質でありました。

1960年代後半、雑誌「MEN’S CLUB」での呼びかけ(音楽誌ではなくファッション誌というところが違うね)により結成されたザ・フォーク・クルセダーズの「帰ってきたヨッパライ」から始まり、髪の毛を七色に染めてブギーを踊るミカ・バンド。バンド解散後は早々に次の伴侶である安井かずみと組みアメリカに渡り、マッスル・ショールズ・サウンド・スタジオで、ジミー・ジョンソンやバリー・ベケット、ロジャー・ホーキンス、デヴィッド・フッドらとレコーディングをし、「シンガプーラ」(1976)を共作。

この振れ幅の広さ・・・すべて加藤和彦のセンスであります。ロンドンからアメリカのコアまで。この柔軟な対応力は加藤和彦の一番のパワーであると確信します。なぜなら、この作品の3年後にはバハマ~ベルリン~パリと音楽性をカメレオンの様に変え、名盤を残していくからであります。

 サディスティック・ミカ・バンドのロンドン公演のアルバムの感想は、高校時代に聴いた時は、先駆者としての足跡を残したという証という意味で妙な感動を憶えましたが、今聴きなおすと演奏自体の出来は、決して良いものではなかったかもしれません。加藤のギターがバンドを下支えしているのはわかりますが、いかんせん音響設備も今と比べると稚拙なものであります。加えてこのアルバムの音源はソニーのカセット(デンスケ)の1発のマイクで録音したもので、そもそも記録用であったものをリリースしたと知りました。だからかもしれませんが、テンションは落ちます。また、後にわかったことですが、このバンドは音だけ聴いていても魅力は半減するのだと。彼らはビジュアルにも気を使っていましたからね・・・。

しかし、当時27歳で最年長である加藤和彦を筆頭にミカ、高中正義、高橋幸宏、今井裕、後藤次利の若さみなぎる演奏を目の当たりにしたイギリスの若者は、心をわしづかみにされたに違いないでしょう。

「黒船」によってロックミュージックが海を渡って日本に伝わり、そのロックミュージックは加藤により形を変えてロックミュージックの国で演奏されたわけです。

 私も今、聴きなおしてみて思いましたが、感慨に耽るより、当時、ティーンエイジャーで彼らの生演奏を聴いてみたかったですね。もちろんロンドンで。

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2018年4月4日

花形


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by yyra87gata | 2018-04-04 12:25 | アルバムレビュー | Comments(0)


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不思議なアルバムである。

タイトルはずばり『ALBUM』(1977)である。名義は松任谷由実。

荒井由実と松任谷由実の曲がランダムに並ぶ。

ユーミンとしては、松任谷正隆との結婚で荒井から松任谷に姓を変え、心機一転のアルバム『ハルジョン・ヒメジョン』(1978)でスタートを切るというシナリオもあったであろうが、いきなり出鼻をくじかれたようで、まさかのベスト盤の発表であった。

東芝EMIからの要請で渋々発表を許可したようで、発売日はまさに1977年12月25日。クリスマス商戦に乗じてか、「ユーミンの結婚記念盤」とまで宣伝されたアルバムで、大人の事情がぷんぷん匂う作品である。

そのためかユーミン自身はこのアルバムをあまり良く思っていないようで、著書「ルージュの伝言」にもそのようなことが記載されている。なんでも売上が悪かったから自分のアルバムの中で「最大の汚点」らしい。しかし、言わせて貰えば、渋々リリースした経緯もあり、本人もあまり力を入れて無かったと見受けられるので(ジャケットなんてただのレコードの写真ですから・・・しかもサンプル盤)、そんなこと書かなければいいのにと思ったけどね。

私は当時そんな事情も知らず、このアルバムを購入し愛聴していた。このアルバム『ALBUM』は(ややこしい)、荒井由実時代の曲を6曲と松任谷由実として発表された2枚のシングル盤のAB面が収録されており、予算の都合でシングル盤まで手が届かない当時中学生の私はお得感満載で購入したという記憶がある(しかし、その後シングル盤も結局揃えちゃうんだけどね)。

特に当時のシングル盤「遠い旅路」(B面「ナビゲーター」)、と「潮風にちぎれて」(B面「消灯飛行」)はこの『ALBUM』がCD化されていないので、中々陽の目を見ることが無い。

そういえば、この頃のユーミンのシングル盤は中々渋い作品が多く、CD化されていないものが多いのだ。

ESPER」(1980.3)は後のアルバム『REINCARNATION』(1983)に別テイクで収録されるがシングルヴァージョンのそれは松原正樹のギターをふんだんにフューチャーしたもので、アルバム『時の無いホテル』(1980)からこぼれたものと推察される。また、次作の「白日夢・DAYDREAM」(1980.5)は打って変わって落ち着いたヨーロピアンなミドル・オブ・ザ・ロードで、朝の番組のテーマ曲というのも頷ける作品(朝の番組ではちょっと渋すぎるかもしれんな)。

そして極めつけは、「星のルージュリアン」(1980.8)。1970年代後半から1980年代中半にかけてとにかく化粧品メーカーのタイアップを取ればみんなヒットしたという定説がある中、あまりにも渋すぎてオリコン46位というユーミンにしては不名誉な成績を残した名曲である。でも良く考えたら1980年って彼女シングルを3枚も発表してるのね。すごいパワーを感じるんだけど、みんなオリコン30位にも入らない。ユーミンは、アルバム志向といえばそれまでなんだが、レコード会社にしてみれば痛いね、こりゃ。

でも「星のルージュリアン」。これ、アタシ大好きな歌でね。こんなセンスのあるシティポップ、ユーミンじゃなければパフォーマンスできないよ、と勝手に思っていた。

ルージュリアンって言葉も聞いた事の無いワードで、ユーミンはつくづくコピーライターだなと思う。化粧品メーカーはポーラ化粧品で口紅のコマーシャルだった。

ルージュリアンの次のシングル盤は「守ってあげたい」(1981.6)だから、ここからユーミンのメガヒットアルバムの大行進が始まるんだけど、1980年までのユーミンのシングル盤・・・先ほどの『ALBUM』も含めてまとめてCD化して欲しいな。1989年にシングルCDで出た経緯はあったみたいだけど。

レコードのシングル盤は全部持っているんだけど、車で聴きたいし・・・。

とりとめのないことを書いてしまったが、ユーミンの「シングル盤でアルバム未収録&シングルヴァージョン作品集」なんて出たらすぐにポチッとする。

CDというメディアがなくなる前に形として残して欲しいのよ。ダウンロードじゃ味気ないから。


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2018年2月15日
花形





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by yyra87gata | 2018-02-15 19:45 | アルバムレビュー | Comments(0)

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 私の好きなスプリングスティーンは「アメリカで生まれた!」と叫ぶマッチョでは無い。ニュージャージーの裏町にいる痩せこけた野良犬がちょっと卑屈な眼差しで世間を斜めに見ているような・・・。いつかは雷轟く道を辿り、約束の地で栄光の日を夢見る男。
 学校の勉強より仲間とロックンロールビートに浸り、土曜の夜にはじけることだけを考えているティーンエイジャー。

そして、野心だけをカバンに詰め込み、汗のにじんだテレキャスターを背にし、ニューヨークへと旅立つ。細身の身体は粋がって大きく見せているが、どこかおどおどしていて、目だけは野心に燃えている。そんな男だ。

70年代中盤、アメリカ、イギリスの音楽はカオスだった。ハードロック、パンク、AOR、グラムロック、ブルースなどが入り乱れ、シングルヒットで評価される音楽業界がアルバムへと目が向き、その後アルバムのメガヒットへとシフトしていくようになる。

時代はクィーンやKISS、エアロスミスといったビジュアルにも長けたロックバンドやボズ・スキャッグスやスティーリーダンといった落ち着いた趣のバンドがセールスを伸ばし始め、キャロル・キングやエルトン・ジョンといったシンガーソングライターはブームが過ぎ去り、ブラックパワーはファンクビートに乗せてソウルトレインに乗車していた。そんな入り乱れた音楽地図の中をスプリングスティーンはただストレートなロックンロールで突き進む。

そんな猛々しい8ビートのロックンロールをステージ狭しと展開していたことは、海外でのライブレポートを読む私の胸を膨らませたが、フォークロックの趣深いファーストアルバム『アズベリ・パークからの挨拶』(1973)も妙なブラスが参加し、音を厚くさせたジャージーにも聞こえるセカンドアルバム『青春の叫び』(1973)も違和感が募る。

彼のパフォーマンスを必死に感じようとするのだが、「ミュージックライフ誌」に掲載されている写真とアルバムから出る音が、上手く結びつかなかったのだ。

ライブグラビアでは、スプリングスティーンはテレキャスターをかきむしり(テレキャスではなくエスクワイヤーにエクストラ・テレキャスターのピックアップを取り付けたことは後で知るのだが)、グランドピアノの上からジャンプし、聴衆を煽る分かりやすいアクション。汗を撒き散らし、細身の身体をしならせてのけぞりながらギターをかき鳴らしている。

セカンドアルバムから約2年。

とうとうそのアルバムは姿を見せる。1975年の夏だった。

FENはカオスとなっていた。

イーグルスの「呪われた夜」、ジェファーソン・スターシップの「ミラクルズ」、エアロスミスの「ウォーク・ディス・ウェイ」、クィーンの「ボヘミアン・ラプソディー」、ウィングスの「あの娘におせっかい」がぐるぐるとヘビーローテーションしている。

そんな中にいきなりのスプリングスティーンのシンプルな8ビートが炸裂した。

『明日なき暴走』(1975)。 “BORN TO RUN”を「明日なき暴走」と題するセンス。

ガキの私はしびれた。

それはどんなヘビーメタルな音よりも生音のまる裸の音圧が響きまくり、耳障りな裏街の音だった。

まさにミュージックライフ誌でみたあのライブ写真の音だ。

しかもA面からB面へと一気に炸裂し、その暴走は39分で終了。なんと潔いことか。

ロックンロールの潔さ。駆け抜ける美しさ。

華美で、様式美のロックもいいが、このアルバムは混沌とした世界に向けてストレートな一撃をくらわした。

もちろん、ただのロックンロールで終わらないことは、このアルバムの最後に収録された「ジャングルランド」を聴けば合点がいく。9分半に及ぶこの大曲のアレンジはスプリングスティーンの同郷であるチャーリー・カレロが担当しており、自身が結成したフォー・シーズンズばりの歌心を持ったアレンジとなっている。そしてそれは、スプリングスティーンの懐の深さを物語っている。

このアルバムは1970年代中盤に見られたメガヒットアルバムの仲間入りはしなかったものの、長く愛され、未だにスプリングスティーンの代表アルバムとして推す人も多い。

そして音だけでなく、アルバムデザインも秀逸で、見開きの背表紙はサックスを吹くクラレンス・クレモンズの肩越しに寄りかかり笑みを浮かべる細身のスプリングスティーン。その格好良さといったら・・・。

やっぱりロックンローラーはマッチョじゃだめなんだよ。

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2018/1/19

花形


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by yyra87gata | 2018-01-19 16:57 | アルバムレビュー | Comments(0)

Colours Fabienne


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1980年代の音楽事情はデジタルや打ち込みなどの新しい音楽機器の発達が凄まじく、それまでの音楽を一気に古臭いカビ臭いものへと変換してしまった。

そんなターニングポイントとなった1980年代半ばに、日本の音楽シーンは来るべきバンドブームの前兆があり、余震のようにグラグラと揺れ始めていた。それは、それまで栄華を誇ってきた音楽番組が冬の時代に入り、テレビ各局から消滅していくことから始まった。そしてそれまでの「歌謡曲」と呼ばれるジャンルは消えていった。

洋楽はMTVの登場で歌にドラマ性を求め始めたのも特徴であろう。

CMやテレビドラマのタイアップ曲はそれまでの「歌謡曲」ではないビートの効いたバンドサウンドが主流となり始め、徐々にヒット曲のメソッドが出来上がっていった。

そんな時代の狭間となった頃、レベッカは第2のスタートを切るべく路線変更を行ないミュージックシーンに登場した。

レベッカのデビュー時はギターの小暮体制によるハードロック路線の音楽作りで進んでいたが、音楽性の違いを理由に小暮やドラムの小沼が脱退してしまう。

バンド存続のため、メンバーを再編成し、キーボードの土橋体制によるリスタートが切られるのだが、新たなメンバーでの音楽性はファーストアルバムのそれとは異なり、かなりポップサウンドとなり、ヒット曲を狙うキャッチーなメロディを主としていた。

その時にオーディションで加入したギタリストが古賀森男である。

 リスタートを切ったレベッカは誰が見ても当時のアメリカのマドンナやシンディ・ローパーの様なポップサウンドであり(オマージュ)、NOKKOのヴォーカルと相まって、聴きやすいサウンドに成されたが、その重要なフレーズを担っていたのが古賀のギターである。

 レベッカが飛翔するきっかけとなった「ラブ・イズ・Cash」や「フレンズ」といった作品のダンサブルなカッティングやメロディアスなギターソロは、土橋の作るマドンナを彷彿させる音のフォーマットと一線を画し、オリジナリティ溢れるフレーズだ。だから、古賀のギターワールドがあってこそのレベッカ飛翔と私は勝手に思っている。

バンドサウンドはプロデューサーがどこまでメンバーに「やらせるか」によるもの。

誤解を承知で書くが、売れるためには有名なフレーズをパクってまでも、雰囲気を出してしまえばいいと言う。オリジナルを超えるアレンジで租借すればいいという意見もある。あとは、作り手は良心の呵責にさいなまれるかどうかの話だが、そんなことより売れてナンボの世界でもある。

レベッカは時代の音を反映し、NOKKOの圧倒的なヴォーカルで駆け上っていった。


古賀は自身のバンドFabienne(フェビアン)に専念するため、人気が出始めたレベッカを脱退する。

 『Colours』(1989)はフェビアン2枚目のアルバムである。ファーストの『冒険クラブ』(1988)と並び、古賀ワールド満載のポップなアルバムである。

 少し線の細いヴォーカルだが、デジタルサウンドや打ち込みサウンドがひしめき、ドラムには常にゲートリバーヴが施されている時代の音に反し、心温まるメロディに不意をつかれる。

 そして、古賀のギターはポップなのだ。

 それが例えロックンロールを刻んだとしても、グルーヴはポップサウンドになる。だからこそ、路線変更したレベッカが大ヒットしたことは頷けるのだ。

テクニックも去ることながら、グルーヴがバンドサウンドとして合致した瞬間にしか成し得ない音が必ずある。

 それを体現した古賀森男のサウンドは、唯一無二となるのだ。

 

フェビアンは商業的には成功しなかった。そして、フェビアンは1990年に解散した。

古賀森男はソロミュージシャンとして今も活動中である。

 フェビアンも1999年に再結成しているという。

Colours』をたまに聴くことがあるが、そのたびごとに新しい発見をする。今の時代の音の中に置いてもこのアルバムは聴きやすい。これを普遍性と呼ぶのだろう。

音楽は不思議だ。

声を高らかに「Holy Town」を歌い上げる古賀の姿を見てみたい。

時代に翻弄されない音がそこにあるはずだ。


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2017年10月2日
花形


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by yyra87gata | 2017-10-02 17:14 | アルバムレビュー | Comments(2)
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 アメリカと北朝鮮の代表2人が核ミサイルのボタンに指を乗せていた頃、お花見で盛り上がる日本では、一部のマスコミだけに緊張が走ったが、概ねどのテレビ局も普段どおりのバラエティ番組の中で荒唐無稽な笑いを提供していた。
そんな2017年4月14日の午後、ソロ公演のため来日していたイアン・マッカロク(エコー&ザ・バニーメン)はマネージャーと2人、無許可で日本を出国してしまった。招聘元のスタッフはもちろん、英国から連れてきていたスタッフにも話をせずにである。
戦争開始を危惧し身の危険を感じての行動なのだろうが、スタッフはもとよりファンに対する礼儀もあったものではない。
しかし、この不届きな行動・・・決して褒められたものでは無いが、果たして・・・。
核戦争の危機感をあまりにも感じ取れていない日本。
何をしでかすか分からない北朝鮮の代表と、つい1週間前に中国主席との会談中にミサイルをシリアに向けて砲撃したアメリカの代表の手元には常に核ミサイル発射装置があり、アメリカNBCは4月15日をXデイとして報道していた。
そのような報道が飛び交う中、北朝鮮とアメリカの戦場になると予想される日本の緊張感の無さといったら。
いたずらに報道を煽る必要はないが、イアン・マッカロクの取った行動を非難することができない気もする。
 
 さて、このようなマイナスな書き出しで始めてしまったが、イアン・マッカロク率いるエコー&ザ・バニーメン。
1970年代後半に結成され1980年代後半まで一線で活躍し、後世のバンドへの影響力は非常に高いものがある。
ジャンル的にはネオ・サイケやオルタナティブ・ロックと称され、コールドプレイやニルヴァーナへの影響力は多大だと言われている。
バンドとしては、アメリカでの商業的成功は成し得なかったが、世界中に根強いファンを持ち、メンバーの死亡などで一度は解散状態に陥ったが今でもマイペースに活動を続けている。

 私が彼らを最初に聞いたのは1983年頃だったか。
部屋でFENを流していたら、聞き覚えのあるヴォーカルが妙な唄を歌っていると思った。
「ドアーズにこんな唄があったか」という第一印象。「モリソンは死んでいるのだから、なにか未発表音源でも見つかったのか・・・」
それがアルバム『ポーキュパイン』(1983)との出会い。エコー&ザ・バニーメンのヴォーカルであるイアン・マッカロクは、ドアーズのジム・モリソンと間違えるくらい曲調や声のトーンが似ていたのだ。
そして、続けてイギリスのどこかで行なわれたライブ音源が放送されたのだが、テレヴィジョンの「フリクション」をトム・ヴァーラインのヴォーカルのように不安定に歌っていたのだ。このヴォーカルは只者では無いと思った。
 当時アメリカではマイケル・ジャクソンの『スリラー』(1982)をはじめ、ケニー・ロギンス、ジャーニー、ホール&オーツなどがメガヒットを連発。洋楽テレビ音楽番組の「ベストヒットUSA」は華やかなラインアップで彩られていた。
そんな弛緩した私の頭の中に入り込んできたエコー&ザ・バニーメンである。

 私はもともとニューヨークパンクが好きである。ニューヨークパンクはパティ・スミスしかりベルベット・アンダーグランドしかり、唄という作品で人間そのものを表現し、それが悲痛なロックであり静寂なバラッドであり、ポエトリー・リーディングであり、音楽表現の自由さが無限大にあるところに惹かれていた。
そんな中でイギリス、しかもリバプール出身のエコー&ザ・バニーメンの演奏はとても異質に感じられたのだ。
当時のイギリスのニューウェーブの筆頭はポリスであり、もう一つの流れとしてパンクバンドであったザ・ジャムから派生したスタイルカウンシルが人気を二分していたが、エコー&ザ・バニーメンからはイギリスの匂いよりニューヨークの匂いがした。モッドな雰囲気も無かったし・・・。
そして翌年、アルバム『オーシャン・レイン』(1984)が発表され、その中の「キリング・ムーン」は彼らの代表曲となった。
この「キリング・ムーン」・・・切ない男のラブソングだ。

 「蒼い月の下で出会い、一瞬のうちに私を魅了した貴方。
  貴方は残酷にも私にキスをした。魔法のような世界に私をいざなう。
  そして宝石をちりばめた空にキリング・ムーンが昇ってくる。
  運命・・・意志ではどうにもならないもの・・・どんなことが起きようと私は待つ
  貴方が私に身を委ねるまで・・・」

 「キリング・ムーン」に魅了され、何度も聞き込んでいたが、後に発表された12インチの「オール・ナイト・ヴァージョン」がこれまた特筆ものなのだ。
重厚なストリングスとVOXのビザールギターのチープな音のコラボレーション。
イントロを聴くだけで神経がどんどん覚醒されていく。9分にも及ぶ超大作。白眉のパフォーマンスである。
そして、この「オール・ナイト・ヴァージョン」を収録したアルバムが『まぼろしの世界(12inch+LIVE)』(1988)である(原題「NEW LIVE AND RARE))。
1988年の来日時に編集盤として制作された企画盤で、タイトル曲の「まぼろしの世界」は言わずと知れたドアーズの名曲である。イアンのヴォーカルは、ジム・モリソンが憑依した如く鬼気迫るヴォーカルとなっており、しかもこの曲のプロデュースはドアーズのキーボーディストであるレイ・マンザレクが務めているという懲りよう。
他にも、ビートルズやストーンズなどのロックの名曲をカバー。
特筆は前述したテレヴィジョンの「フリクション」まで収録されていること。これは嬉しい1曲である。
41分と最近のアルバムと比べると短い収録時間のアルバムだが、おなかいっぱいになること間違い無しである。

 逃げるように帰ってしまったイアン・マッカロクだが、もう再び日本に来ることは無いだろう。
とりあえず現段階ではミサイルは飛んでいないが、緊張は続いている。
 
2017年04月17日
花形
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by yyra87gata | 2017-04-17 10:51 | アルバムレビュー | Comments(0)
 
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 ザ・バンドはとてもユニークなバンドであった。
4人のカナダ人と1人のアメリカ人。彼らから生み出されるアーシーなサウンドは、生粋のアメリカ人よりアメリカン・ルーツミュージックを醸し出していた。
そして様々なミュージシャンとの交流は、解散コンサート「ラスト・ワルツ」を観れば一目瞭然で、彼らの演奏表現力の幅の広さを思い知らされた。
1976年に解散したザ・バンド。ドラムスのリヴォン・ヘルムは解散後、それまでの人脈を辿りながらソロアルバム『リヴォン・ヘルム&RCOオールスターズ』(1977)を制作。ロビー・ロバートソンやガース・ハドソンといったザ・バンドの面々と共にブッカー・T&ザ・MG’sの面々やドクタージョン、ポール・バターフィールドなど豪華なミュージシャンのラインアップで、彼らの繰り出すアーシーなサウンドの中で気持ちの入ったヴォーカルを聞かせた。
 リヴォンは、このようにザ・バンド解散後にソロアルバムを早々と発表した訳だが、最後まで解散に反対していた彼は独りぼっちになることを拒み、昔日のザ・バンドを追いかけた末、気心が知れた仲間とセッションバンドを組んだという形を取ったと後年語っている。だから、本当の独り立ちの意味で言うなら1978年に発表した『リヴォン・ヘルム』(1978)が彼のファーストソロアルバムという気がする(しかしながら、これがややこしく、邦題では『リヴォン・ヘルム2』となっており、所謂2枚目のアルバムという意味の2を邦題では使用している)。
 さて、この『リヴォン・ヘルム』だが、前作からの流れでブッカー・T&ザ・MG’sのスティーブ・クロッパーのギターが全面に押し出され、1曲目から伸びやかなソロで盛り上げている。他にもバリー・バケット、ジミー・ジョンソン、ロジャー・ホーキンスらマッスル・ショールズ人脈も参加しており、アメリカン・ルーツミュージックを探る上でもとても重要且つ聴きやすいアルバムとなっている。
 但し、このアルバムは先の『リヴォン・ヘルム&RCOオールスターズ』の影に隠れてしまい、あまり商業的に成功していないが非常に高レベルな作品と確信する。それは、ジャケットではスティックを持ち、ポーズをつけているリヴォンが、実はドラムをウィリー・ホールやロジャー・ホーキンスに任せ、ヴォーカルに専念している点でも歌に賭けた思いが伝わってくるからだ。プロデュースはスティーブ・クロッパーに任せ、サウンドデザインも上々である。
 
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 リヴォンはザ・バンドではドラムスを担当していたが、歌唱しながらのハートのこもったプレイが真情で、ドラムテクニックという面では同僚のリチャード・マニュエルの方が器用だったとも言われている。しかし、ライブプレイでは歌唱とドラミングが一体化し、彼独特のグルーヴを生み出す(1989年、リンゴスターのオールスターバンドで来日したときに盟友リック・ダンコと「ウェイト」をプレイしたときなどはそこにザ・バンドがいるかのような錯覚にとらわれたほど気持ちの良いグルーヴであった)。
 だから、このアルバムのサウンドがとても良いものだったので、この作品をリヴォンがドラムプレイしながら歌うというライブを観てみたかったのだが、それは実現されなかった。
『リヴォン・ヘルム&RCOオールスターズ』発表時には凄腕のメンバーを揃え初来日公演を日比谷野外音楽堂で行なったのだが、このセカンドアルバムが発表されたときにリヴォン・ヘルム名義で来日公演が行なわれなかったことが悔やまれる。
 ちなみに、その後のライブについては、1980年代に入り、ロビー・ロバートソン抜きでザ・バンドを名乗り来日したことがあったが、それはもうジミー・ペイジが抜けたレッド・ツェッペリン、ポールやジョンが抜けたザ・ビートルズに等しいもので、私はコンサートを観る気もおきなかった。ロビーのキコキコと鶏の鳴くようなピッキングなくしてザ・バンドは語れないのだ。

 さて、この『リヴォン・ヘルム』。私はこのレコードをいつどこで購入したのかを思い出してみる。私の記憶ではFENでアルバムの1曲目である「エイント・ノー・ウェイ・トゥ・フォーゲット・ユー」がオンエアされ、感動し、そのサビの部分だけを紙に書きとめレコード屋に走った。
当然レコード屋のお姉ちゃんは何のことだか分からず「リヴォン・ヘルム?何ですか、それ、食べれるんですか?」と言うような顔で私を見て、メモ用紙にカタカナで「レボンヘルム  エイントノーウェイトウフォーゲッチュー」って書いて、「あとで店長からレコード会社さんに聞いてもらいます」と神妙な表情で答えてくれた。
 その2週間後、家の電話が鳴り「お客様のレコード、あれ、リヴォン・ヘルムのアルバムの1曲目でしたね・・・注文しますか?」という恐ろしいほどのサーチ能力のあるレコード屋の店長の声が私の耳に木霊した。

 いまほど情報も無い中、あのレコード屋のスキルはピカいちだった。

2017/2/17
花形

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by yyra87gata | 2017-02-17 13:54 | アルバムレビュー | Comments(0)

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 ジョニ・ミッチェルは音楽家であると共に画家であり写真家である。物事や考えをビジュアルに映し出す力を持ち、同時に音を操る。元々はギターやピアノの弾き語りで素直なフォークソングを歌っていたが、概念に囚われない音作り。レギュラーチューニングの限界を感じたのかオリジナルの変則チューニングを駆使しながら独自の世界観を構築していく。
「これまでの人生で、一般的なチューニングで曲を書いたのは2曲だけ。もしもあのチューニング(オープンチューニング)を教えてもらっていなかったら、たぶん音楽を辞めていたか、ピアノに転向していたと思う」(ミッシェル・マーサ著「ジョニ・ミッチェルという生き方 ありのままの私を愛して」より)

 ジョニのファーストアルバムはディビッド・クロスビーによって制作された。そして、その後2人の仲は急速に近づく。その後、クロスビーのバンド仲間のグラハム・ナッシュとも恋仲となる。
他にもレーナード・コーエンとの関係は、彼の親に挨拶に行き、結婚に一番近かったとも言われている。
『Blue』(1971)制作時にはギタリストで参加していたジェームス・テイラーと・・・。『Hejira(逃避行)』(1976)以降はジャズ色が色濃くなり、この頃からジャコ・パストリアスと良い関係になっていく。
彼女は付き合う男の才能を超えたところで作品を制作する才能の塊なのだ。
まるで女郎蜘蛛のような存在。その結果、名作は残るので食われる男はある意味幸せかもしれない。
若い頃の写真や映画の中のジョニを観ると、芯の通った「いかした姐さん」という感じで、みんなその魅力にイチコロだったんだろう。
 生まれる時代が10年早かったらプリンスだって男性遍歴に名を連ねたかもしれない。なぜなら、プリンスがまだ15歳の少年の頃、せっせとファンレターを書き綴り、コンサートでは1番前の席でステージを見つめていたその先にジョニ・ミッチェルがいたというのは有名な話である。
プリンスは生前『The Hissing of Summer Lawns(夏草の誘い)』(1975)を生涯最高のアルバムと大絶賛している。だから、もしプリンスとジョニが付き合ってアルバムを制作していたら、ジョニの音楽遍歴にファンクを超えた新しい音楽が生み出されていたかもしれない。

 私は、ヒット曲が好きである。ヒット曲には何かしらの魅力があり、必ず一般大衆の心を鷲掴むパワーを持っていると思っている。しかし、ヒット曲の定義を記載することはあまりにも不毛なのでここでは避けるが、ヒット曲(商業的成功)がさほど無いのにレコードを出し続けるアーティストというのも存在している。特に洋楽の中には日本人では理解できない文化や考え方を持ち、その土地で愛される魅力を持ち合わせている作品も多い。
 ジョニ・ミッチェルは日本でさほど名が売れていない。日本において商業的成功という部分では語れないだろう。それは、日本人が彼女の作品の変幻についていけない部分もあり、彼女の作品がキャッチーなメロディーメイカーというより歌詞の芸術性を多く含んだ作品が多いからかもしれない。また、変則チューニングや近年のジャズ寄りな音楽性も日本人の好むメロディーから離れた存在だったのかもしれない(稀に「サークル・ゲーム」のように優しいフォークソングであるなら映画の主題歌ということもありヒットを記録したが、歌唱はジョニでは無い)。
 私が中学の時に見たザ・バンドの解散コンサートを綴った映画「ラストワルツ」で、「コヨーテ」を歌うジョニ。抑揚も無く、ドラマチックな展開も無いこの歌で正直猛烈な眠気に誘われたが、スクリーンの画面を凝視していると、あることに気づいた。そう、この退屈な歌を歌う女性シンガーに対し、ザ・バンドの面々もニール・ヤングも彼女に対し畏敬の念を抱いていることが読み取れたのだ。彼らのジョニに向ける目線。そして音。そこには私の幼稚な頭では理解できない歌を構築していく世界があり、音で会話をしているという情景がそこにあったのだ。私は、そんな光景を消化することができずモヤモヤとした気分で映画館を出た。そして、すぐに「ラストワルツ」のサントラとジョニ・ミッチェルのアルバム『Hejira(逃避行)』を購入した。
 映画の中で歌っていた「コヨーテ」。「コヨーテ」と呼ばれる男とのロードムービー。
歌の最後の「A prisoner of the white lines on the freeway」の一遍が詩的で虜になった。
それから私は、ボブ・ディランのアルバムを買うことと同じ感覚で、なけなしの小遣いの中から2500円の彼女のレコードを購入していった。ディランと同じ感覚・・・とにかく詩が難しい。メロディも難解な音楽ではあったが、2500円分の価値は十分に感じとっていたつもり。
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 今回ご紹介するアルバムは、ジョニ・ミッチェルの10枚組CDボックス。いやぁこれは凄い。ジョニ・ミッチェル初期10枚のアルバムが紙ジャケで収められている。
しかし、このボックス、Amazonで購入したら5480円。1枚あたり548円!。
私はこのボックスを3年前に購入したのだが、何とその時は2670円。1枚あたり267円だったのだ!
価格が倍近く上がっているが、それでも1枚あたり548円で天才を感じ取れるなら安いものである(ジョニを聴き始めた頃の私にこのボックスのことを伝えたらきっと怒るだろう)。
ファーストから10枚目の『ミンガス』(1979)まで!この溢れんばかりの才能が詰まった10枚組のボックスを改めて聴き直すと、それはそれは1人の音楽家の生き様を感じ取ることが出来る。

 最後に、ジョニ・ミッチェルの音楽が大きく変化を遂げた1970年代後半。そこにはジャコがいた。
先日、私はジャコの映画「JACO」を観た。ジャコの栄光と挫折を描くドキュメンタリー作品。
天才ジャコが天才ジョニと初めて組んだアルバム『Hejira(逃避行)』は私が購入したジョニの初めてのアルバム。「ラストワルツ」の興奮から40年経っている。
 軽快なリズムの中、ウッドベースのように自在に音を紡ぐジャコとその音の上で滑らかに歌い上げるジョニ。
 今日はCDボックスの方ではなく、レコードの『Hejira(逃避行)』を聴こう。
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2016/12/22
花形
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by yyra87gata | 2016-12-22 09:50 | アルバムレビュー | Comments(0)