音楽雑文集


by yyra87gata

カテゴリ:アルバムレビュー( 160 )

 
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 不安定な日本の状態。この状態は、いつまで続くのか。そもそも近代日本で安定していた時期などあったのか。
高度経済成長時代は公害が、バブル時代には土地転がしや錬金術師が薄ら笑いを浮かべ、株やマネーロンダリングでひと財産を築いた輩はその後の経済破綻を迎え、頭を抱える。
ITバブルは、いとも簡単に勝ち組と負け組みを生み出し、そんな矢先の自然災害。沖縄をはじめとする国際問題、人災と呼ばれる原発事故、老後・年金問題など政治が抱える問題も経済が抱える問題もいつの時代にもそれなりに存在している。
世界に対しリードしていた産業は人件費の安い国にいつしか抜かれ、日本の産業は冬の時代へと。
警笛をならす評論家はいても改善策は誰も出さない。

 音楽家は音で警笛を鳴らすしかない。
1980年に吉田拓郎は『アジアの片隅で』を発表した。
1970年代をトップランナーとして走り続け、1970年後半からはフォーライフレコードの経営者として敏腕を振るっていた。そういった観点からかその時の拓郎はミュージシャン側と経営側の二面で物事を判断していたように思う。
それは1979年の拓郎の発言をまとめていけば理解できる。彼は来るべき1980年代にある種の恐れを感じていたこと。見えない世界、不安定な世界を迎えることに対しどう向き合っていくのかを模索していたとも言える。それは、軽音楽を生業とした彼らの将来とは誰もが未知の世界だったからだ。
30歳を過ぎてもステージに立つことは、今の時代ではさほど騒ぐことでは無くなったが、当時は先人もいない中、これから何歳(いくつ)まで歌をロックビートにのせて歌えるのかは多くのミュージシャンの心の隅にそっと置かれていた問題だったのだ。プレスリーは死に、ビートルズもそこにはいない。ミュージシャンは職業なのか、生き方なのか。
 拓郎の出したひとつの答は、70年代との決別であった。
それまでの歌を封印し、一から出直す。もう一度起点に立ち返り、歌いなおすと言うもの。
客との馴れ合い・・・「落陽」や「人間なんて」を演奏すれば盛り上がることはわかっている。しかし、その盛り上がりにアンチテーゼを見出した。コンサートでの盛り上がりを懐疑的に思うなど演者と観る側の関係で考えればありえない論理であるが、それも新たな時代を迎える上での重い十字架となり拓郎の肩にのしかかっていたのだ。

 拓郎には「人間なんて」という大きな歌がある。1970年代のコンサートではアンコールでよく歌われていた歌だ。延々と続くリフ。そのリフに乗せて拓郎の雄叫びが会場に木霊する。この歌で拓郎も客も完全燃焼する。しかし、その歌を拓郎は1979年の篠島コンサートを境に歌わなくなった。1979年の秋のツアーのラストは新曲の「ファミリー」となっている。
 観客は戸惑いながらも、拍手を続け、「人間なんて」を待ったが、いつも会場の明りがそれを阻止していく。
 1980年代を迎える拓郎なりの答の出し方であった。

 そして、1980年。
コンサートツアーはニューアルバム『シャングリラ』(1980)から中心に新曲のみというセットリストで臨んだ。客との馴れ合いもリセットしたかったのだ。
そして、そのツアーでニューアルバム以外から演奏された曲が数曲ある。それらはレコードとして発表されていない歌たちだ。「愛しておやり」「街角」「ファミリー」「古いメロディー」そして「アジアの片隅で」。
「アジアの片隅で」はコンサートの前半で唐突に歌われた。アコースティックギターの激しいカッティングが数小節繰り返され、そこにバンドが音を乗せる。そして拓郎の激しい言葉が畳み掛けるように空を舞った。
拓郎はこの頃、ボブ・マーリーをコンサートで観ており、レゲエリズムの単調さに荒々しい内容の言葉を乗せることに何かヒントを得たようであった。そのためか拓郎の1980年代初期にはレゲエを多く用いた作品が多い。ただ、観客からしてみれば妙なリズムに言葉が乗っている印象はあり、トーキングブルースのように聞こえていた。
拓郎は何かにとりつかれたように言葉をぶつけてきた。その言葉は預言者の言葉のような語りで、しかも抽象的でなく具体的なシーンを聴く者に想起させた。
作詞は岡本おさみ。拓郎がデビューしたときからの付き合いで、その頃、岡本はニッポン放送の放送作家であった。「落陽」「旅の宿」「襟裳岬」「リンゴ」などの詞を書き、『シャングリラ』にも「いつか夜の雨が」「愛の絆を」を収めている。
拓郎と岡本は会うことなく、いつも電話でのやり取りで作品を作ってきた。その日も岡本からの電話を取り、拓郎は電話口で彼の言葉を紙に書き綴った。
 拓郎は、岡本は狂ったのでは無いかと電話口で思った。ただただ、あふれ出てくる言葉を書き留める中で熱い血がたぎる思いだったと言う。


ひと晩たてば 政治家の首がすげかわり 子分共は慌てふためくだろう
闇で動いた金を新聞は書きたてるだろう 
ひと晩たてば 国境を戦火が燃えつくし 子供達を飢えが襲うだろう
むき出しのあばら骨は戦争を憎みつづけるだろう 
アジアの片隅で狂い酒飲みほせば
アジアの片隅で このままずっと
生きていくのかと思うのだが

ひと晩たてば 街並は汚れ続けるだろう 車は人を轢き続けるだろう
退屈な仕事は野生の魂を老けさせるだろう 
ひと晩たてば チャンピオンはリングに転がり セールスマンは道路に坐りこむだろう
年寄りと放浪者は乾杯の朝を迎えないだろう 
アジアの片隅で狂い酒飲みほせば
アジアの片隅でこのままずっと
生きていくのかと思うのだが
  
ひと晩たてば 秘密の恋があばかれて 女たちは噂の鳥を放つだろう
古いアパートの部屋で幸せな恋も実るだろう 
ひと晩たてば 頭に彫った誓いがくずれ落ちて 暮らしの荒野が待ち受けるだろう
甘ったれた子供達は権利ばかり主張するだろう 
アジアの片隅で狂い酒飲みほせば
アジアの片隅で このままずっと
生きていくのかと思うのだが

ひと晩たてば 働いて働きづくめの男が 借りた金にほろぼされるだろう
それでも男は政治などをあてにしないだろう 
ひと晩たてば 女まがいの唄があふれだして やさしさがたたき売られる事だろう
悩む者と飢えた者は両手で耳をふさぐだろう 
アジアの片隅でお前もおれもこのままずっと
アジアの片隅でこのままずっと生きていくのかと
アジアの片隅で・・・ アジアの片隅で・・・ アジアの片隅で・・・  おれもお前も・・・
       
 激しい言葉が鋭く突き刺さる。拓郎節の早口は何をもがいているのか。
そして、何を訴えているのか。耳に神経を集中させ、約13分の演奏に身を投じる。

 1980年は日本ではオフコースが全盛を極め、ブラウン管からはサザンやアリスが頻繁に流れていた。いわゆる女性向けの作品が多く発表されていた時にこのような辛口の詞が受入れられるはずが無い。しかし、発表するのは今しかないと思ったという。

 新曲のみのコンサート「1980年・春のツアー」は4月から始まり7月の日本武道館まで20箇所で開催された。
すべての会場で「アジアの片隅で」は演奏され、その中から『シャングリラ』のプロデューサーでもあるブッカー・T・ジョーンズを迎えた日本武道館公演の音源がのちに『アジアの片隅で』(1980)に収録され、それが公式音源となった。

 80年代初頭、拓郎は悩んでいた。コンサートツアーを精力的に行なっていたが、経営者とミュージシャンと言うアクセルとブレーキの関係を一手に引き受けていたが、精神的には悲鳴をあげていたのだ。拓郎が出した答は経営者を降り、いちミュージシャンを選んだ。
 そして、1985年のつま恋のイベントを挟み、「アジアの片隅で」はコンサートで歌われなくなった(例外的に1987年のツアー、追加で行なわれたライブハウス「パワーステーション」で演奏されたことはある)。1970年代の「人間なんて」に変わる歌としてファンが受入れた大曲は、終焉を迎えたのだ。

 「アジアの片隅で」がひと時代を築いた歌であることは間違いない。混沌とした生ぬるい1980年。高度成長も伸びきってバブル期に向かっていった狂乱前夜にこの歌は発表され、そして終了した。
しかし、今でもこの作品を渇望する声は多数ある。なぜなら、歌詞がいまだに当時のまま生きているからだ。
35年前に発表された内容が、何ひとつ変わらず日本を取り巻く不安と共にあるからだ。
今、この作品を聴いて何を思うか。
私は今の拓郎に歌ってほしいとは思わない。70歳を迎える今の拓郎が歌う歌でもないからだ。
その時代のオピニオンリーダーが歌うことの意味があるはずだから・・・。

 岡本おさみが2015年11月に亡くなった。
私は、そのニュースを聞き、岡本おさみの詞で真っ先に出てきた言葉は「落陽」でも「襟裳岬」でもない。
ひと晩たてば・・・だった。
拓郎はどう思っただろう。

2015/12/28
花形
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by yyra87gata | 2015-12-28 12:11 | アルバムレビュー | Comments(0)
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  27年という短い季節を駆け抜けた天才は伝説となり、女性ロックヴォーカリストのアイコンとなった。
1960年代は、きれいな声で、朗らかに歌う女性ヴォーカルが主だったアメリカンポップス。しっとりと濡れるような絹のヴォーカルのジャズヴォーカル。黒人音楽の世界でコーラスグループやゴスペルなどのレイスミュージックもあれば白人のそれはカントリーソングとなり、明るいヤンキー娘のヴォーカルがフィドルの上で踊っていた。しかし、ジャニス・ジョプリンのそれはどこにも属さない魂の叫びだ。果たしてジャニスの前に女性ロックヴォーカリストと呼べるシンガーがいただろうか・・・。もしかしたら、ロックミュージックという男社会の中で気を吐いていたのはグレイス・スリックくらいだっただろう。しかしそれは、ジェファーソン・エアプレーンの一員として、どちらかといえばセックスシンボル的な役割を担っていたかもしれない。
  ヴォーカルというシンプルな表現方法。その一点のみに集中し、パフォーマンスを行なう。観客を唸らせたジャニスはその時、天にも昇る思いだったろう。学生時代に自分を蔑んだクラスメイトに対し、唯一信じられる歌で・・・。そしてそれは、そんな低次元の話から始まったが、最後は世界に向けたメッセージとしてありのままの自分を曝け出していくことになる。
  ジャニスはサンフランシスコでビッグ・ブラザー・アンド・ザ・ホールディング・カンパニーの一員となり、音楽活動を始める。モンタレー・ポップ・フェスティバルで注目を浴び、バンドを変え、メインストリートを走り始め、ウッドストックでのパフォーマンスは全世界の注目の的となった。

  注目され続ける人は孤独が慰めとなる。そして、その時、人は自然の一部だと再認識する。
人生を支えてくれるもの。栄光?金?野心?愛する人?
人情の機微に触れた時、それをやすらぎと取ることができるか。
舞台で観客と向き合っていたあなたは、いつが至福の時間だったのだろうか。
その時間を求め、彷徨い、行き着いた先が悪魔の水であれば、それはあまりにも哀し過ぎる。
カリスマと呼ばれ、人生を生き急いだ先に見た桃源郷はあまりにもつらく、厳しい空間だったろう。

“いつかお前は成長し旅立っていく”と子守唄を歌う。切々と歌われた「サマータイム」での名唱は語り継がれる。
“いつかメルセデスに乗る夢”を歌っていた時の表情は希望に満ちていただろう。
それはけっして欲望ではなかったはずだ。

  ジャニスが残した数々の名唱。アルバムはどれも宝物が収まる魔法の皿。
ビッグ・ブラザー・アンド・ザ・ホールディング・カンパニー名義の『チープスリル』(1968)も、レコーディング中に倒れ未完に終わる『パール』(1971)もすべて彼女の言霊が入った魔法の皿だ。
そんな歌たちが網羅されている『ジャニス・ジョプリンズ・グレイテスト・ヒッツ』(1973)はコンパクトにまとめられた良作である。
ハーレーにまたがり、笑顔を見せるジャニス。
屈託の無い笑顔が哀しい。


2015/12/22
花形
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by yyra87gata | 2015-12-22 08:28 | アルバムレビュー | Comments(0)
  
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  スティーヴィー・レイ・ヴォーンは、1980年代初頭に煌き、その10年間を駆け抜け伝説となったブルースギタリストである。
  スティーヴィーはテキサス生まれのコテコテのブルースマンだったが、陽の目を見るきっかけを作ったのはグラムロックやポップミュージックの雄であるデビッド・ボウイやウェストコーストサウンドのシンガーソングライターであるジャクソン・ブラウンに見出されたからで、それまでのブルースには収まることができない強烈な個性があったと思われる。特に1980年代初頭はMTVの影響からかビジュアルと音楽がシンクロしており、ブルースといったプリミティブな音楽は下火であった。到底商業的に成功できる土壌(ジャンル)ではなかったが、その中でもスティーヴィーのパフォーマンスは一流のミュージシャンたちを唸らせる何かがあったのだ。
その勢いの中、スティーヴィー2作目の『Couldn't Stand the Weather』(邦題「テキサス・ハリケーン」)(1984)はゴールド・ディスクを獲得。
ブルースという偏ったジャンルの中、このヒットは後世に対し非常に大きな役割を果たしたと私は思う。
ロバート・クレイのデビュー盤『STRONG PERSUADER』(1986)のヒットやボニー・レイットのグラミー賞受賞作の『Nick of Time』(1989)など軽いお手軽なポップソングが華やかだった80年代に、スティーヴィーが火を点けたモダンブルースの道筋は確実に実を結んでいったといえる。
なにせ、あのエリック・クラプトンでさえ『Behind the Sun』(1985)では80’sポップの波に呑まれ軽いシンセサイザーのサウンドの中、前時代的なソロを爪弾いていたのだから。
そういう意味でも初志貫徹した演奏のスティーヴィーは、白人として本来黒人のソウルミュージックであるところのブルース・ミュージックに挑み、昇華することができた稀有な存在である。

  そんなスティーヴィーに起こった悲劇。
1990年8月。ウィスコンシン州アルパイン・ヴァレイ・ミュージック・シアターで開催されたブルース・フェスティバル。そこではエリック・クラプトンやバディ・ガイらと共演。堂々とギターバトルで渡り合った。クラプトンは新たな親友ができたと喜び、公演終了後、スティーヴィーの次の仕事先であるシカゴ行きのヘリコプターを見送ったほどであった。スティーヴィーがそのまま還らぬ人となってしまうなんて誰も想像できなかったであろう。あまりにも突然すぎる別れ。
スティーヴィーにとってもまさにこれから・・・という時であった。

  『The Sky Is Crying』(1991年)は彼の死後、残されていた未発表音源を集めたコンピレーションである。未発表の弟の作品を兄のジミー・レイ・ヴォーンが選曲した。発売後3ヶ月以内に150万枚以上の売上げを記録、プラチナ・レコードになった。
そして、このアルバムに収録されているジミ・ヘンドリックスの「Little Wing」はスティーヴィー最初のヒットを記録したアルバム『Couldn't Stand the Weather』制作時にレコーディングされたもので、ノリに乗っている時期の演奏。スティーヴィーの中でも名演中の名演の1曲と言っても良いだろう。
その他にもライブでの定番曲もあり、未発表音源のアルバムというよりしっかりと作り込まれた内容の作品となっている。

  「タラレバ」の話はしてもしょうがない。
ジミヘンが下戸でよく眠れる人だったら・・・レノンがあの日スタジオで徹夜のレコーディングでもしていたら・・・あの時デュアンがオートバイに乗らなければ・・・ボンゾがオレンジウォッカを2杯でやめてれば・・・
それが運命という人もいる。
スティーヴィーがヘリコプター墜落という痛ましい事故で亡くなって四半世紀。
名演が残されていたというだけでも音楽の神様に感謝しなければならないか・・・。

2015/12/09
花形
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by yyra87gata | 2015-12-09 08:30 | アルバムレビュー | Comments(0)
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 アタシはどうしたってツェッペリン派だったから、あまりパープルというのはある時期まで真剣に聴いていなかったのよね。
もちろん代表的なアルバムは所有しているし、それなりに曲も知ってはいるが、どうも座り心地が悪いというか、なんかしっくりこなかったのよ。
 ツェッペリンとパープルは全盛期もかなりリンクしているからブリティッシュハードロックバンドとして、世間的には重要なアイコンなわけだが、何故パープルにそんなに惹かれなかったか・・・。
すげー幼稚な理由なんだけど、好き嫌いってそんなもんだし・・・。
で、誤解を承知で書くんだけど、まず、イアン・ギランのヴォーカル。
イアンのヴォーカルが破壊型というか、あのシャウトが、気持ちよ過ぎるくらい叫ぶわけで、そのシャウトにアタシが反応しないのよ。アタシはどちらかというとブルース系というか演歌というかこぶしが回るヴォーカルの方が好きなわけで、そうなるとロバート・プラントに軍配が上がってしまうのだよ。だからといってパープルがこぶしをブンブンに回すデビカバにヴォーカルを交代したときに好きになったかというとそうでもなくて、バンドのメインヴォーカルが変わるなんてことは、もうそのバンドはバンドとして成立していないなんて固苦しいことを考えてしまうわけ。たかが中2の分際で。しかもアタシが聴いた時点ではもうすでにデビカバはホワイトスネイクを結成していたんだけど・・・ね(笑)。とにかく、ヴォーカルが気に食わないとなるとバンドとしては致命的でしょ(ちなみに、ホワイトスネイクのデビカバは好きなんだけどね)。
でも、パープルは全体的にみて嫌いなバンドではないんだよ。私が聴く機会が少なかったというだけ。
だって、ベースのロジャー・グローバーなんてアタシ、大好きで、ロジャーがツェッペリンに入ったらもっとすごくなるのになんて思ってたくらいだもん。もちろん、ジョン・P・ジョーンズの寡黙さと底知れぬ音楽性には敬意を表するんだけど、ロジャーがツェッペリンにいたら・・・どうだったんだろう。リッケンの図太い音を響かせながら「移民の歌」とかやって欲しいな、なんて(笑)。やかましいか?!

 ギタリストはリッチー・ブラックモア。トミー・ボーリンじゃあない。そのリッチーだけど、どの写真見ても怖そうでしょ。いつも何か怒っているみたいで。真面目な人なんだろうと思うんだけど、もう少し笑ってくれても良いのに。もちろん、テクニックやステージパフォーマンスは最高なんだろうけど、顔が・・・怖い。その点ジミー・ペイジは笑っちゃうくらい笑顔が可愛い。特に若い頃。最近は太ってしまって大阪のおばちゃんみたいな顔になってしまっているが、手足が長く、レスポールを股間までずり下げて同じようなペンタトニックスケールをせっせと上下上下と弾きまくる姿は(馬鹿にしてんのかなぁアタシ)、中2の坊主をイチコロにするのに5秒もいらなかった。
「おーっ!カッケー!」ってな具合で、なけなしの小遣いで買ったミュージックライフのグラビアを見ながら、当時もっていたモーリスのクラッシックギターに紐を括り付けて足を広げて真似をしたもんだ。あー恥ずかしい。

 アタシは大学に入り、先輩にエレキギターの取り扱いについて教えて頂いた時に、その先輩に尋ねた。アタシは大学までエレキなんてまとも弾く環境が無かったもんで、入ったバンドの都合で突然弾かなければならなくなった。そんで、ある先輩に師事した。なんせシールドの向きすらまともに知らなかったアタシは、先輩に貸していただいたギターを手にするとおもむろにローコードでスリーフィンガーを弾いてしまった過去がある。ストラトでかぐや姫かなんか弾いた(恥)。

「先輩はミュージシャンで誰が好きなんすか? 好きなアルバムとかあります?」
その先輩は7thコードが得意でシティポップのギターなんか弾かせたら最高の人だったのだが、その先輩の口から出てきた言葉は・・・
「『イン・ロック』(1970)。パープルの『イン・ロック』じゃ。あのアルバムは聴き倒したわい」と仙人のような雰囲気で応えてくれた。
「それは何故っすか?」と聞き返すと、
「あれにはロックの全てが入っている」と話された。多くは語らない。
いつもは7thコードをお洒落に決めていたギタリストから出てきたアルバムとしてはかなり異質で、でもその異質さが妙に心に残ったのだった。
アタシは家に帰り、納戸からレコードを探し、ターンテーブルに置く。そう、とりあえず、揃えることは揃えているのよ。『イン・ロック』に加え『ファイアーボール』(1971)、『マシン・ヘッド』(1972)、『ライブ・イン・ジャパン』(1972)という黄金の時期のアルバムは中古盤屋のハンターでせっせと1枚700円で購入していたの。なんか、聴いとかなきゃいけない作品って無意識に買ってたんだよ。中2の分際で。

 先輩の言葉を心で反芻しながら『イン・ロック』を聴く。
このアルバム、パープルがハードロックバンドとして飛翔するために重要な作品として位置づけられている。
バンドには勢いというものが必ずあって、その上り調子になる時のアルバムだけに、音にその躍動感が溢れている。
ギターテクニック的に優れた先輩が教えてくれた1枚。しかし、それがヒット曲満載の『マシン・ヘッド』ではなくその成功を作り上げる序章であった『イン・ロック』であることに先輩の言いたいことがわかった気がした。
ロックは理屈じゃないということ。目に見えない勢いって一番大事なこと。
 先輩から『イン・ロック』と聞かなければ、アタシは単にツェッペリンのライバルバンドと言われている、くらいの認識しかなかったと思う。
いまだにイアン・ギランのヴォーカルはそんなに好きじゃないし、リッチーは怒りんぼだし・・・だけどアルバムは無性に聴きたくなる時があるのよ。
何か、気合を入れるとき、『イン・ロック』を取る。
『マシン・ヘッド』じゃないんだよ。

2015/10/7
花形
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by yyra87gata | 2015-10-07 13:05 | アルバムレビュー | Comments(0)
  
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 「こういう音楽は自分には合わなかった・・・」ってアルバムを発表してからコメントしてしまう潔さというか何と言うか。
やはりジョンは天使の子供なのだ。

澄み渡るエンジェル・ヴォイス。
バッキングはドラマチックあり、変拍子ありの曲者YES。そのヴォーカリスト、ジョン・アンダーソンが1988年に発表した『イン・ザ・シティ・オブ・エンジェル』は当時の流行であったAORを取り入れた意欲作だ、と思っていた。
冒頭のインタビューを聴くまでは。

 当時、私は心待ちにしてこのアルバムを聴いたわけでもなかった。ただ何となくレコード屋に行き、何となく手にとってみただけだった。ほんの気まぐれ。
ジョンが西海岸のミュージシャンとどんなアルバムを作ったんだろうか、くらいの軽い気持ちだったと思う。
なんせ、霧雨の降るロンドンのジトジトした地下室のスタジオでガッチャンガッチャンと変拍子を刻んでいるイメージのYESのヴォーカリストが西海岸でTOTOのメンバーとどんな音を出すんだという興味本位だけだったかもしれない。

 YESは当時『ビッグ・ジェネレーター』(1987)を発表しており、トレヴァー・ラヴィン色の強いアルバムでジョンはどこか居心地が悪そうだった。実際ライブのセットリストでも揉めることがあり、バンドに対してフラストレーションが溜まっていたのではないかと思われる。だからソロアルバム制作ということもわからないではないが、今までの曲調と180度違う音楽ともいえるAOR。いくら時代がそうであってもブリティッシュ・プログレの雄であるYESのフロントマンが・・・と思うのだが、私はとにかく軽い気持ちで聴いた。

 これが実に気持ちよいのである。
ジョンのハスキーハイトーンヴォーカルが一つの楽器の如く、乾いた軽快なブライトサウンドに溶け込む。
なんせ、アメリカ西海岸の一流どころのミュージシャンが集まって制作したアルバムだ。クォリティ的に悪いはずが無い。あとは好みの問題。
ついでに言えば、ヴォーカリストとしてのジョンが好きなのか、YESのジョンが好きなのかと問われそうだが、どちらの音楽性にも音はフィットしているということは、私はきっとジョンの声が好きなんだろうなと思うのだ。
 
 今、改めてアルバムを聴くとシンセサイザーの音色やリズムパターンに多少の古臭さは感じるが、80年代ポップスのフォーマットに則った上質なアルバムである。
跳ねるようなジョンのヴォーカルが、お気楽なリズムに適用し、YESでは出すことのできないシーンを私たちに体感させてくれる。
世間的には名盤とは言い難いかもしれないが、決して侮れない作品であるし、少なくとも私は発表されてから何度も聴きなおしているので、私にはとてもフィットした作品だ。

 偉大なバンドのヴォーカリストがソロアルバムを出すと、比較対象が有る分余計な感想を持たれる。
ストーンズのミックやキース、フロイドのギルモア、ビートルズのジョンやポールだってそうだった。
私は、バンドではできないことをソロアルバムに託すミュージシャンが結構好きなのでこのアルバムもすんなり入ったのかもしれない。たとえジョンが冒頭のコメントのように失敗作だと言ったとしても!
だから、バンドと同じようなことをされるとゲンナリすることもある。
誰とは言わないが、それバンドでやれば良いじゃない!って突っ込みを入れたくなる。
そういう意味でこのアルバムは満足である。


2015年9月25日
花形
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by yyra87gata | 2015-09-25 19:26 | アルバムレビュー | Comments(0)
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貧困、親との確執、犯罪、人種差別、チャンス、一攫千金、金、金、金、名声、王様、プライド、嫉妬、欺瞞、傲慢、裏切り、孤独、実力、栄光、孤高・・・。

 ジェームス・ブラウン(JB)の映画が話題になっている。2006年に星になったファンクの神様の人生を綴る作品で、50年代から死ぬまで歌い続けた黒人のシンガーは山と谷を経験しながら孤高の人となっていく。
JBの人生を綴りながらも、バンドメンバーや家族ら周囲の人々の生き様も合わせ、JBの影の部分にも、敢えて踏み込みながら映像は進む。このスケール感のある人生、日本人では理解できない世界だ。
戦後、焼け野原になり貧困にあえぎ、栄光を掴んだアーティストがいるかもしれないが、日本人の中で肌の色は関係ない。差別はあっても肌の色で交通機関に乗れないということは無いし、ましてやプールに入る制限もない。

人種差別・・・。
レイ・チャールズの映画も同様であったが、とにかく黒人が立身出世する物語に人種差別は避けて通れないのだ。それはアフリカから奴隷を輸入した国であれば必ずついて回る問題だからだ。そしてその差別を正常化するための礎を築いたキング牧師やマルコムX、ブラックパンサーなど物騒な団体も登場するが、これもブラックパワーの尊厳のために必要だったという見方も認識されている。
 JBの生い立ちは様々な資料が発表されているので割愛するが、日本では商業的な成功という印象が薄いので過小評価もしくは誤解を招いていると私は思う。
特に「Get on up !」のシャウトが「ゲロッパ」となり、“派手派手しい前時代的なエンターテイナーのおじさんが変な言葉を叫んでいる”という断片的な印象がメディアから流されている気がする。いや、あえてイロモノ的に紹介していたCMや映画など・・・。だから日本人にはファンクもソウルも理解できていないんだ。
そんなJBだが、私はミュージシャンというより当初はご他聞に漏れずエンターテイナーもしくはパフォーマーという概念で捕らえていた。しかし、この「アポロシアターのライブ」を聴き、その印象が180度変わったのだ。
私の持論は、JBはタイガー・ジェット・シンなのだ。
 タイガー・ジェット・シンと聞いて反応する人は40代後半の男性だと思うが、とにかくめちゃくちゃなプロレスラーだったのだ。リングに登場するときは観客の中を縦横無尽に練り歩き、サーベルを振り回し、危険極まりない。凶器攻撃やチョーク攻撃など当たり前で、戦う相手をみんな血祭りに上げた。アントニオ猪木はシンと戦ったことにより正統派のレスリングスタイルから闘魂のストロングスタイルに変わったとも言われている。しかし、このタイガー・ジェット・シンはただのヒールではなかった。ここぞという時は正統派のレスリングで猪木にだってフォール勝ちしてしまう。凄腕のテクニシャン。観客が求めるヒールを演じ、肝心なところでは自分のプライドのため勝負に出る。
つまり真のエンターテイナーなんだと思う。
 JBも一緒。
 ど派手な舞台や生活面での立ち振る舞いに目がいきがちだが、実は最高のヴォーカリスト。スローバラードを切々と歌い上げるハスキーヴォイスとマイクパフォーマンスを行いながらステージアクションをするJB。
ワンコードミュージックを延々と続けるが、その中に強弱だけではなく、グルーヴを作り出す妙技。ホーンセクションをまるでオーケストラの様に操り、絶対的な存在で音楽を組み立てていく。バンドをしっかりと統制するには、専制君主でなければ出せない技であるし、そのスキルが無ければ、あのような表情豊かなヴォーカルにはつながらないのだ。

 JBのホームグランドはニューヨーク・ハーレムのアポロシアターだ。
この劇場で何度となく名演を残している。JBがデビュー公演を行なったこの地。2006年に亡くなった際もこの劇場に棺は運ばれ、ファンと永遠の挨拶を行なった。そして、アポロシアターの裏通りの名称がジェームス・ブラウン・ウェイとなったことからもこの劇場は特別と言うことがわかる。
やはり、私はJBのアルバムではこのシアターの音源が一番しっくり来る。
 
 2013年にこれまでリリースされたジェームス・ブラウンの3枚のアポロ収録ライヴ・アルバムを1枚のアルバムにまとめた作品が発表されたが、私は何よりも最初のアポロをアナログで聴くのが好きだ。
勢いがあるソウルミュージックは、JBの真骨頂であると同時に彼の生き様でもある。
JBという巨星が放つ強烈な光は、後世のミュージシャンに継がれているし、ショービジネスとエンターテイメントに多大な影響を与えている。映像は見えないが、このレコードからはなんだか見える気がするのだ。
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 JBの映画を見終わり、さっさと家に帰り、針を落としたのがアポロのライブ。
やっぱ名演だわ。

2015年6月25日
花形
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by yyra87gata | 2015-06-26 08:46 | アルバムレビュー | Comments(4)
 80年代はキーボードが一番発達し、音楽が変わった時代である。
シンセサイザーの発展が一番の理由だが、そもそもデジタルという「連続性で無く単一のデータを組み合わせた」概念が芸術を変えてしまった。
それは、テクノサウンドというわけではない。すべての音楽がデジタル化し、作品の定義が変わってしまったのだ。
 「打ち込み」や「サンプリング」、「シーケンサー」などといった語句が生まれ、音楽の作り方をも変わり、今まででは再現できないような音の構成が簡単にアウトプットされるようになった。
ドラマーは廃業に追い込まれ、生ギターは前時代の化石と言われ、楽譜も読めない素人がパソコンソフトで音楽を作り出す時代に変化していったのだ。これに異を唱えるかどうかはここでは避けるが、そんな1980年代半ばに前時代的なテイストで、且つ、新鮮な風が吹いた。
 ブライアン・アダムスの登場である。もちろんブライアンは1980年代初頭から活躍はしていたが、全世界的に名を馳せたのは自身の誕生日である11月5日に発表された名盤『Reckless』(1984)である。このアルバムは、全米アルバム・チャート1位を獲得し全世界で1200万枚以上の売り上げを記録した。
 前述のとおり、無味乾燥なお気楽な80年ポップスの中でいきなりアナログチックなこの作品。はっきりいって異質であった。それは、間違えて女子専用車両に飛び乗ったと同じくらい違和感がある(経験者は語る、まぁそれはさておき・・・)。
その異質な状況・・・ブライアンの若さゆえ、まっすぐな歌がギミックとフェイクに溢れたお気楽なシンセサウンドに喝を入れた形となったのではないか。
正直、私もレコードに針を落とした瞬間、ストーンズやスプリングスティーンのような重厚感あるドラムの音で背筋を伸ばしたものだ。
おっ、やる気にさせるね。誰かね・・・ミックスは・・・レコーディング・エンジニア・共同プロデューサーのボブ・クリアマウンテン、マスタリング・エンジニアのボブ・ラディック・・・なるほどね。やっぱりの音だわ・・・。ただ単に古臭くなく、80年代の音でしっかりロックしている音。
パワーステーション系の音が80年代ロックのアイコンであることも付け加えておこう。
 
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 アルバムに針を落とす。
1曲目に相応しい・・・スタートダッシュの表現がぴったり合う「One Night Love Affair」、3曲目の「Run To You」から「Heaven」に続く最初の盛り上がり。高揚する展開。
裏面に進めば「Summer Of '69」で郷愁のロックンロール、B面3曲目の「It's Only Love」でのティナ・ターナーとのゴージャスなデュエット。そしてラストの「Ain't Gonna Cry」まで突っ走っていく。
これ、CDで聴くのとレコードで聴くので比べたら断然レコードの方がドラマチックな展開なわけ。つまり、盤面をひっくり返すところも音楽の一部と言うくらい、間(ま)が合う。

 時は1985年夏。ブライアンがノリノリで全米ツアーを行ない、そのままの勢いでLIVE AIDに参加。「Kids Wanna Rock」と「Summer Of '69」が世界に生中継された。
大御所たちが出演する中、若さあふれる、さわやかなロックンロールを灼熱のJFKスタジアムに奏でていた。
そしてその年の秋には来日公演を果たす。大盛り上がりで武道館が揺れたという伝説もあるらしい(私は1991年、全日本プロレスでジャンボ鶴田が三冠ヘビー級戦を当時最も勢いのあった三沢相手に防衛した時、武道館が揺れた体験をしているが・・・関係ないか!)。

 話がとっちらかってきたが、ブライアン・アダムスの『Reckless』は、80年代の中でも飛びっきりなロックンロールアルバムで、この先、いつの時代でも聞き手を若々しくさせる作品となるだろう。
ちなみにReckless・・・訳すと「むこうみずな、無謀な・・・、意に介さず」。
これじゃあんまりなので、「青春の暴走」とでも訳そうか。

2014年10月21日
花形
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by yyra87gata | 2014-10-21 17:05 | アルバムレビュー | Comments(2)

「21」 アデル

 音楽を趣味としていても、私はなかなかに最近のヒットチャートに疎い。邦楽洋楽問わず、あまり興味が湧かないのだ。ラジオでたまたま流れていた音に耳を傾け、反応することはあるにせよ、昔ほどリサーチしようなどとは思わなくなった。それは歳のせいかもしれないが、自分の心地よい音だけを聞いていたいという本能的な反応なのかもしれない。
但し、片方の自分で「それじゃいけない」と警笛を鳴らす。そう、自分は音楽を作るという趣味があるのだから、様々な音を取り入れ、肥やしにしなければならないのだ。多少苦手な音にも耳を傾け、自分の音楽の幅を広めなければ自分の中の音はマンネリで陳腐化していく。創作するとはアイデアが湯水のように湧いて出てくるだけでは成立しないもので、特に現代音楽は周りの音との調和も考えなければならない。

 今回取り上げるアルバムだが、アデルの『21』(2011)を紹介したい。何を今さらアデルなの、と思う方もいらっしゃると思うが、私はアデルというシンガーを今まで知らなかった。この『21』もたまたま社有車の中にセットされていたから聞いただけで、自分の意思で聞いたものではないのだ。そう、それは私が車を走らせ、ラジオも面白くないからザッピングのようにCDボタンを押した瞬間、スピーカーから流れ出た生々しい音に眩暈を覚えた。何の先入観も予備知識も無く、流れてきた音楽。妙に老練な歌い回しが気にかかり、後から調べるとそれが21歳時の歌声と知った時、2度目の眩暈が私を襲った。
ジャンル的にはポップスになるのだろうが、今風の言い方だとR&Bという括られ方もするのだろうか・・・ま、そんなことはどうでもいいか。
妙に生々しい楽器の音。ミックスがガレージロックっぽい。しかし、歌はハスキーがかった情念の表現力もある。
情念・・・つまりこの『21』は、「離別」の内容がコンセプトにあるアルバムで、アデルの感情がもろに反映されている。自らを切り売りしながら創作活動をするシンガーということはアルバムタイトルの『21』からも容易に判断される。
ファーストは『19』セカンドは『21』。ともにレコーディングされた時の年齢という。つまり、その時点での自分を表現するに一番シンプルなタイトルである。
 私は昔から売れ線という言葉が好きである。ヒットパレードを追っていた時期もあるし、どんなに嫌いなアーティストでも売れるからには何かしら要因があり、そこには人を魅了する何かがあるのだと思うのだ。だから、一時期は好きでもないアーティストのCDをしこたま購入し、譜面に落とし、聞き込んだこともあった。しかし、感性的に許せない音楽はいくら売れていても理解不能に陥るだけで苦痛な時間を過ごすことがわかり、その行為はもう何年もしていない。そんなわけで、そういう耳を持っている自負もあるから社有車の中で聞いたアデルは自分の中で久々のヒット要因をもつアーティストと合致したのだ。
CDを2回繰り返し車の中で聞き、信号待ちでプロデューサーをチェック。リック・ルーヴィンの名前を見つけ妙に納得。エアロとRun-D.M.Cのコラボヒットである「ウォーク・ディス・ウェイ」を手掛けたことで有名となり、レッチリやメタリカなどのビッグネームを扱うプロデューサーで名を馳せている。

 ヒットする要因が分かれば何の苦労もない。誰もがそのメソッドを実行すればいいだけだ。しかし、ヒットは時として気まぐれであり、一筋縄でいくようなものでもない。プロモーションを無尽蔵にかけても結果につながることは保証されないし、ヒット曲の作家やプロデューサーを用意しても同様だ。
そこに人を惹きつける魔法が無いとヒットは生まれないものだ。
 『21』を社有車の中で聞いた時の胸のざわめきは、きっと惹きつける魔法の一つだったに違いない。だって、私はあの時、本当にアデルのことなど何も知らなかったのだから。
調べてわかったことは2012年第54回グラミー賞で主要6部門を受賞し、全世界で約3,000万枚近いセールスを記録したということである。

好きか嫌いかというより今のヒット曲のスタンダードとして記録される作品である。

 
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2013年7月12日
花形
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by yyra87gata | 2013-07-12 19:53 | アルバムレビュー | Comments(2)
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 ライノがアッパー40に向けたロックエイジへの叩き売り企画であるオリジナル・アルバム・シリーズ。70年代や80年代の名盤を紙ジャケに無造作に突っ込んでBOXセットで販売。その価格が2,000円台という破格の安さ!もう、CDというメディアの終焉を予測したレコードメーカー側の最後の儲けどころとしか言いようがない企画なのだ。
サイモン&ガーファンクル、イーグルス、キャロル・キング(この企画は泣かせる。なんと「タペストリー」を除くその近辺で発表されたアルバム5枚組。もちろん「タペストリー」みんな持っているよね的な配慮なのねん)、ブルース・スプリングスティーン、ボズ・スキャッグス、ジャーニー、ジョニ・ミッチェルに至っては10枚組で2,887円!1枚287円ですよ。もうこれはダウンロードミュージックに対する最後の反撃てな感じか。
 さて、今回取り上げるアルバムはそんな中「即買い」してしまったフォリナーのBOXである。1枚目の『Foreigner』(1977)から5枚目の『Agent Provocateur』(1985)までのアルバムが紙ジャケで収録。洋盤なので歌詞カードなんてついていないが、1枚1枚楽しみにして購入していた中学、高校のあの頃のLPが5枚で1,982円という価格(ちょっと寂しい気持ちになった)。
 こういったライノのBOXシリーズは、昔アナログで所有していた人が再度聞いてみようという気にさせるための企画であり、アナログ盤のライナーなどを眺めながらこのCDを聞くというのが効果的なのかもしれない。昔、レコードが購入できず、テープでしか持ってなかったという人もいるだろう。ま、聞き方は買った人にそれぞれお任せするとして、音楽に罪は無いのでスピーカーからは当時の音ががんがん響き渡る。ミック・ジョーンズの古臭いフレーズやルー・グラムの泣き節。イアン・マクドナルドのアナログシンセに時代を感じるが、もう35年も前のことだから仕方ないか。
 私の中学高校時代、フォリナーはもっとも売れていたバンドの一つで、うるさがたの音楽評論家たちからは「産業ロック」と揶揄されていた。しかし、当時の私には「それがどうした」と不思議な気分で聞いていた記憶がある。売れる前が良かったとか、売れたら迎合しているとか、そんな声はどうでもよくて、聞き手の気持ちひとつなんじゃねぇの心の中で叫びながら聞いていた思い出がある。
確かにまだあの頃はプロモーションビデオも無く、「ベストヒットUSA」も無かった。洋楽はよっぽどヒットしなければお茶の間まで届かない音楽だったのだ。
しかし、そんな中フォリナーは突然やってきたのだ。
当時の洋楽音楽雑誌といえば「ミュージックライフ」か「ロッキングオン」なのだが、確か「ミュージックライフ」が大々的に取り上げており、私も中学生ながらちょっと興奮したものだった。
“クリムゾンのイアン・マクドナルドがスプーキートゥのミック・ジョーンズとニューグループ結成!”なんてデカデカと掲載されていたのだ。しかもその佇まいはイギリス、アメリカ混成のバンドとは言いつつも限りなくイギリスに近く、ファーストのアルバムのジャケットデザインもヨーロッパのギルド職人の集まりのような雰囲気だったのだ。
 当時流行していた他のバンドはキッスが火を噴きながら「ラブガーン」と叫んでいたり、エアロは「ドローザライン」で腰をくねらせていた。ボストンはファーストからの流れを組んだ「ドントルックバック」をワンパターンリズムフィルで大ヒットさせていたっけ。フレディはちょうど伝説のチャンピオンに輝いた頃だ。片や日本では中島みゆきが「道に倒れて誰かの名を呼び続けたことがありますか」という恐ろしい情景描写を歌にしてヒットを飛ばしていたあの頃、フォリナーは「Cold as Ice」の印象的なピアノイントロで鮮烈なデビューを飾ったのだ。キッスやエアロが悪いわけではない。ちょうど売れ始めたチープトリックなんてものあったし、下着姿で股を広げながら「チェリーボム!」と叫んだお嬢さんもいたが、フォリナーと比べるとみんな子供っぽく見えたのだ。
中学生の分際でまだ大人の恋愛も知らない僕がフォリナーのファーストで大人っぽくなったのだね、きっと。
だって「Cold as Ice」を「つめたいお前」と訳すその感覚。中学生の私は痺れたねぇ。

 さて、僕の中学校の文化祭。クラスの出し物は「ロック喫茶」だった。ロック好きの友人数人が家から何枚もレコードを持ってくる。事前にアメリカン系、ブリティッシュ系と打ち合わせを行ない、ダブらないようにしていたはずだったが、フォリナーのファーストとセカンドアルバムの『Double Vision』(1978)は4枚もだぶってしまった。みんなフォリナーにいかれていたのだ。



2013年6月21日
花形
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by yyra87gata | 2013-06-21 22:55 | アルバムレビュー | Comments(0)
 定番だが『ムーンダンス』を推す。ヴァン・モリソンである。
アイリッシュのブルー・アイド・ソウルのコアを担っていたゼム。その中心的存在のヴァン・モリソンが1966年にソロとなり、『アストラル・ウィークス』(1968)は時代に合わない名盤として有名になってしまったが、その後R&B路線に回帰した『ムーンダンス』(1970)を発表。わずか21歳の時の作品で、ゼム以上の人気を博すことになる。
 当時の音楽を見ると1960年代の終焉、つまりビートルズの解散やニューロックと呼ばれるサイケデリックやプログレの登場、ブラックミュージックの台頭など様々なジャンルの音が巷に溢れていた頃、アイドルポップに嫌気がさし、一時期はジャズ方面に動いたモリソンだったが、もともとのソウルフルな歌声や音楽性を活かしロック、ソウル、ブルースを融合し世界的なブルー・アイド・ソウルの一人者となっていく。

 『ムーンダンス』は「捨て曲が無い」「名曲揃い」と数多くの方に支持されているアルバムである。特に1曲目から4曲目の流れは秀逸で、その4曲で満足される方もいる。
思いっきり跳ねるわけでもなく、キャッチーなフレーズがあるというわけでもない。ただそこにはひたむきに音楽と対峙している若者の声があるだけだ。
よく聴きこめばミキシングも稚拙であり、音の分離についても悪い。サックスとピアノが左右のスピーカーに分かれ、今の技術からしてみるとバランスなんてあったものではない。ヴォーカルの位相も決して良いとは言えないが、そのような次元でつっこみを入れてもビクともしない音楽の完成度がそこに存在する。しかもそれが21歳の時の作品なのだ。老成しているというか、なんというか・・・。
 僕はザ・バンドが好きだ。つかみどころのないあの老成された音楽。妙な落ち着きを持ち、この道何十年という顔をして若い時から活動していた彼ら。ヴァン・モリソンを聴いたときに同じ匂いがしたのだ(ちなみにザ・バンドの4作目『カフーツ』(1971)にモリソンは参加している)。
時代に流されない不変さといえば聞こえは良いが、頑固一徹の音楽という方が言い得ていると思う。とにかく「筋が通っているというのはこういうこと」という典型で、「本物は華美な演出はいらない」と黙っていても顔がそう訴えてかけてくる。もちろんフロントラインに立つアーティストは容姿も大切なファクターだが、マイク1本で声を出せば、本物かどうかの見分けは誰でもつく。そんな本物のアーティストなのだ。

 彼が動いている姿を日本で見た人はいない。未だに来日していない大物シンガーのひとりである。飛行機嫌いというもっぱらの噂だが、何か別な理由もありそうだ。多分、期を逸してしまったアーティストなので、彼を収容する箱とギャランティのバランスが取れないのかもしれない。彼の音楽性からして東京ドームや日本武道館という箱ではない気がするし、かといって洒落たライブハウスというわけにはいかないだろう。気難しいというモリソンのお眼鏡に叶う箱とモリソンの人気がリンクしていればいいのだが、まず来日は望めないだろう。

 さて、『ムーンダンス』の中で僕はなんといっても「クレイジー・ラブ」を推す。ザ・バンドのラストステージで弾けながら歌った「キャラバン」や確実にスティングの音楽性に影響を与えている「ムーンダンス」なんていうのも良いのだが、若干21歳の男が老練な歌唱を響かせる「クレイジー・ラブ」は秀逸なのだ。
 
1000マイル先からでも彼女の鼓動がわかる
それから、彼女が微笑むたびに天国が開ける
それから、彼女のもとに行く時はそこが僕の居る場所になる
流れる川のように
僕は彼女のもとに 流れていってるんだ
彼女は僕に愛、愛、愛、愛、夢中になるほどの愛をくれるんだ
彼女は僕に愛、愛、愛、愛、夢中になるほどの愛をくれるんだ

 一番の歌詞だけでも狂おしいほどの愛の感情が湧き出ている。そして、彼女が微笑んでいるかのような優しい音が曲全体を包んでいるのだ。モリソンのヴォーカルも秀逸。
これほどのラブソング。そうは見たことがない。

 何回も書くが、ヴァン・モリソン21歳の作品だ。
脱帽。
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2013年5月17日
花形
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by yyra87gata | 2013-05-17 15:36 | アルバムレビュー | Comments(2)