音楽雑文集


by yyra87gata

カテゴリ:アルバムレビュー( 161 )

 
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 ロッド好きの芸能人ってけっこう多いと聞く。ビートたけしも歌手として歌を歌っていた頃があったが、まるっきりロッドだった。あんまりイメージ湧かない?

 ブロンドのロングヘアーをなびかせ、いつも両手にいい女がいるプレイボーイ。
男が憧れる世界を地でいっているシンガー。
ハスキーボイスもセクシーだから、女もメロメロ(死語)になっちゃうわけ。
でも、よーくロッドの顔を見るとたいして美男子(イケメン)でもない。体の割りに頭がでかくて個性的な顔をしているだけ。多分、あのハスキーな声が女性にはたまらなくセクシーに聞こえるのだろうな。
1970年代の若者はああいったわかりやすいロックスターに憧れていた。見るからにスーパースター。ロングヘアーにサングラス。女をはべらせ、いい車に乗っていて、ま、所謂ロックスターのアイコンだな。ステージも華やかだし。でもって、私生活を含めて、それはそれですばらしいエンターテイメントの演出なんだよな。
例えば、ロッドはスーパースターだからど派手なステージングを行なう。どんなに跳ねたり飛んだりしても平常心を保ったヴォーカルがスピーカーから流れてくる。・・・ま、あれが口パクと気づくのにそんなに時間はかからなかったけれど。大枚はたいて武道館まで見に行ってロッドが口パクだった時は、正直ずっこけたが、それでもロッドだからってんで許しちゃったしね・・・。
何年か前、矢沢の永ちゃんが日本人で初めてロンドンのウェンブリーアリーナに立った時、ロッドも一緒だったな。あん時のロッドは、腹は出てるは顔はむくんでいるわ・・・ちょっとひどかった記憶がある。やっぱり、人前に出るなら鍛錬をしなければね。さすがにあん時は口パクではなかったようだがね。

 なんだか悪口っぽいことが続いているが、実は私、結構ロッドの事が好きなのである。スーパースターを地でいっているところに憧れを感じるし、そういう世間からかけ離れている人って魅力的なのだよね。ちょっと古い話だけどF1界でいったら間違いなくネルソン・ピケだよ。世界中の美女と浮名を流し、大型高級クルーザーで暮らし、七つの海を渡りながらF1サーカスを転戦していた。勝手に一夫多妻制を取り入れて何人子供を認知したかも分からんし・・・。それでもみんな幸せなんだからすごいことだわ。
つまり、ロッドもそういう人なわけですよ、私の中では・・・。
でも、ロッドにしろ、ネルソンにしろただの「女ったらし」じゃないわけで、甲斐性があって、仕事も一流なわけですよ。そうでなければスーパースターにはならんもんね。
 
 そんなロッドも最近ではめっきりお歳を召しまして、ここ数年はアメリカのスタンダードばっかり歌うAOR歌手に鞍替えしちまってるね。『ザ・グレイト・アメリカン・ソングブック』はなんと第5集まで出ている。
古いスタンダードをカバーしていて・・・そりゃあんな上手いヴォーカルでスタンダードなんて歌おうもんなら、単純なアメリカ人は即買いだわな。しかもダイアナ・ロスやチャカ・カーンとのデュエットといった鉄板のネタもあるし。
・・・でも、私は嫌いだね。
 ロッドはストーンズまではいかなくても、常に女に対して強いビートに乗りながら挑発的であってほしいし、スタンダードを歌うにはまだ早いって!
グダグダの女ったらしを死ぬまで続けてほしいわ。
そういう意味で、私の一押しはロック不遇の1980年代の初頭に発表した『Tonight I’m Yours』(1981)である。もちろん、1970年代の名盤『Atlantic Crossing』(1975)、『Foot Loose & Fancy Free』・・・邦題「明日へのキックオフ」(1977)とかあるんだけど1960年代後半からジェフ・ベックと喧嘩しながら走ってきて、1970年代でヴォーカリストの地位を築き上げ、一気に昇華した作品が『Tonight I’m Yours』なわけですよ。
これ、もうこのタイトルだけで買いでしょ!
あーた、こんなこと言ったことありますか?
こういう台詞をさらっと言ってしまうロッドってやっぱり格好良いわけですよ。

 スーパースターなんて音楽やヴォーカルがいいに決まってるんだから、あとはどれだけ格好をつけることができるかなんです。最近、そういうスターっていなくなったね。



2011年10月26日 
花形
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by yyra87gata | 2012-12-27 14:05 | アルバムレビュー | Comments(0)
 80年代はロック不毛の時代と言われている。録音技術や楽器、特にシンセサイザーの技術革新により音楽自体が変化した。
シモンズのドラムやシーケンサーなど、打ち込みとペラペラなシンセが軽い音楽となって街にあふれていた。ちょっとでも70年代風のロックテイストがあろうものなら、「古臭い」と全否定されてしまうのもあの頃の風潮だった。
あの泥臭い声のスプリングスティーンだって「ボーン・イン・ザ・USA」での軽さは時代の流れによるものだし、クラプトンだってフィル・コリンズと蜜月だった80年代はブルースシンガーというより恥ずかしいくらいのポップシンガーになっていた。
所謂60~70年代の確固たるアーティストがハードの技術革新により音楽性をも変えられてしまうというところに私は不満があった。私は、往年のアーティストは古臭い音の方がいいと言っているわけではない。技術に溺れ、自らの音楽が浄化できていないのでは、と感じていたのだ。
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 では、80年代の音楽は軽くて最悪かということだが、そんな中でも名盤はちゃんとある。
フリートウッドマックの「タンゴ・イン・ザ・ナイト」(1987)である。
前作の「ミラージュ」から5年の年月が経っており、当時のグループはフロント3人のソロ活動により実質冬眠状態。特にスティービー・ニックスのソロは華々しいものがあり、グループの解散を何度も噂されていた。そこへきて突然のアルバムリリース。
特に騒がれもせず、往年のビッグバンドがアルバムをリリースしたという事実しか報道されていなかったが、実際に音を聴くと・・・これがすごい。リンジー、クリスティーン、ニックスのバランスが絶妙であり、70年代の「噂」(1976)「牙(タスク)」(1979)を彷彿とさせるポップ感覚は、長年やっているだけあっていつの時代になってもちゃんとフリートウッドマックの音になっていた。
録音技術の革新はあるにせよ、音楽性が変わることなく音が跳ねている。そして、なによりも「聴きやすい」というところが一番の良さである。
 フリートウッドマックはもともとブリテッシュ・ブルース・バンドとしてデビューした。ピーター・グリーンというブルースギタリストが輝いていたが、ドラッグによる体調不良も手伝い戦線離脱。ボブ・ウェルチというアメリカ人のギタリストが加入し、ジャズロックのテイストとなるもセールス的にはイギリス国内に留まっていた。
 全盛期となる70年代半ば、バンドはアメリカ人とイギリス人の混成グループとなりコスモポリタンの音を奏で始めた。リンジー・バッキンガム、スティービー・ニックスそして初期からずっとフリートウッドマックのボトムを支え続けたジョン・マクビーの妻であるクリスティン・マクビーのフロントラインは、バンドを昇華させ、最高のポップグループを完成させた。
 70年代半ばからの彼らの活躍を見ればわかることだが、バンドにも良い時もあれば悪い時もある。しかも男女混成、夫婦関係など音楽とは離れた部分のコミュニティは時として複雑な事象を生み出し、活動が休止することもあった。
誰かがソロアルバムを発表すると「やれ、解散だ」と周りが騒ぎ立てることなども彼らは飽き飽きしていたに違いない。
そんな時に彼らの出した答えが『タンゴ・イン・ザ・ナイト』だったのだ。
前述したが、本当に最初はそれほどプロモーションも無く、突然発表されたように記憶している。当時愛読していた音楽誌のアルバムレビュー欄にも小さく掲載されていたし、「あのフリートウッドマックが復活!」なんて仰々しいコピーなどひとつもなかった。
レビューも冷静に感想を述べていたし、華が無い印象であった。
私は「それは、どんなマックだよ」という好奇心でアルバムを購入したと思う。
そして実際に聞いて見ると・・・。

ファンタスティック!マック!

2011年9月16日
花形
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by yyra87gata | 2012-12-27 12:58 | アルバムレビュー | Comments(0)
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 1977年、秋。ラジオで頻繁にオンエアされていた「迷い道」。
新人歌手だったので顔も知らなかったが、印象的な歌いだしのフレーズの『現在、過去、みら~い・・・』。
中学生だった僕の第一印象は、その歌のことよりも「この人、なんて普通の名前なんだろう」と思った。失礼だと思うんだけど、ぜんぜん名前からメディアに出てくるという名前のオーラが感じられなかったわけよ。どこのお姉さん?ってな感じ。
当時は、ニューミュージックと呼ばれる音楽がテレビ、ラジオから溢れ、音楽番組花盛り。ちょっと前まではフォークシンガーやロックシンガーはテレビに出ないという暗黙の規則があったが、世良公則とツイストや原田真二、チャーなどが積極的にブラウン管から登場し、サザンオールスターズもこの頃デビューした。また、女性陣も竹内まりやや越美晴などといったポップシンガーがお茶の間を賑わし、歌番組の中でピンクレディーや山口百恵などと同じひな壇に座っていた。そんな中での渡辺真知子である。
ほんとっ、ふつーの人なんだよ。顔だって十人並みだったし、スタイルだって決して良い方じゃないし。別にアイドルじゃないんだけど、中学生だった僕はそういうところを見るじゃない。で、歌っている歌も『現在、過去、みら~い・・・』だしね。何がいいんだか当時の僕ではわからなかったんだけど、他のアイドルタレント(同期は石野真子、中原理恵、畑中葉子など)と比べると歌は上手いのかなぁ・・・なんて程度の認識だった。しかし、そんな中「迷い道」は長い時間をかけて大ヒット(62万枚)となり、この年の紅白歌合戦に出場するまでになる。
翌年、渡辺真知子は「カモメが翔んだ日」を発表。高らかに歌い上げるイントロのインパクトは相当なもので、一躍新人歌手の中で頭ひとつ飛び出した。そして「ブルー」といったボサノバ調の雰囲気のある曲で歌唱力を打ち出し、その年の新人賞を総なめにしていった。
しかし中学生の僕は、歌が上手い、ということはわかるんだけど、興味が湧く対象ではなかった。その要因のひとつは、歌が全てマイナー調で、別れの歌ばかりだったということ。当時の別れの歌の定番は中島みゆきや山崎ハコが定番であり、渡辺のそれは歌謡曲なんだかポップスなんだかよくわからないセグメントで、しかも楽器を持って歌わないという些細なことで僕の中では低評価だったような気がする。 
 そんな渡辺真知子を忘れ始めていた時、ラジオからあの声が響いた。しかも今度はメジャーな響き。ラジオCMのバックで流れる伸びやかなあの声はまぎれもない渡辺真知子。そしてその後すぐにTVCMでも大量投下された「唇を、熱く君を語れ」は43万枚の大ヒットとなった。テレビでは新人モデルの松原千明(石田純一の元奥さん)がにこやかに笑い、画面の右下には『歌:渡辺真知子』の文字。この歌はカネボウ化粧品のCMに採用され、溌剌とした女性とその唇に映える口紅とが渡辺の声量に相まってファットな印象を出していた。
たった15秒のCMだったが他の化粧品のCMよりインパクトがあり、打ち出し方もわかりやすかったのだ。(ちなみに他のCMは竹内まりやの「不思議なピーチパイ」(資生堂)、庄野真代の「Hey! Lady優しくなれるかい」(コーセ化粧品)で、2曲ともニュアンスを伝えるようなCMだった)
「唇を、熱く君を語れ」は、作詞・東海林良(田端義夫、石川さゆりから木ノ内みどりまで幅広い作風)、作曲・渡辺真知子。着目したい点は、編曲の船山基紀である。
1980年発表のこの作品。当時の流行の最先端ともいえるデビッド・フォスターの匂いがプンプンするのだ。
リズムを際立たせ、活力が溢れる楽曲。ブラスの使い方などは、この2年後に発表される「シカゴ16」でシカゴ復活の立役者となったデビッド・フォスターの編曲にそっくりである。ギターソロなどはマイケル・ランドゥばりに弾きまくっているし・・・。

 テンポ良い楽曲に声量がある渡辺真知子がその声をふんだんに使い、声で表情をつける。
いままでのマイナーで翳りのある作品と打って変わって、シンガーとしての幅を広げた作品といえるだろう。

 現在、彼女のアルバムはデビュー盤「海へ連れて行って」(1977)か、もしくはベスト盤という選択しかできないようだ。ベスト盤の中でも30周年のベスト盤は再度アレンジを施したものなので、まずは当時の音源のベスト盤をお勧めする。

 最近でもテレビやコンサートなどで歌い続けている彼女。
いつまでもあの頃のままで声を高らかに歌い上げてほしいシンガーである。

2010年6月4日
花形
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by yyra87gata | 2012-12-26 16:25 | アルバムレビュー | Comments(0)
 聞くところによるとシカゴの初来日公演(1971年6月)の第1曲目は、ビートルズの「マジカルミステリーツアー」だったそうだ。
観客はヒット曲の「長い夜」などを期待していたそうだが、いきなりの選曲にみんなぶっ飛んだらしい。

 シカゴは、「ブラスロック」というカテゴリーに属するバンドで、シカゴデビュー時(1969年)にはそういったバンドが竹の子のようにいくつもアメリカ各地でデビューした。
奇才アル・クーパーが率いるブラッド・スウェット&ティアーズ(BS&T)、タワー・オブ・パワー(TOP)、ブラス・セクションがトランペットのみの4人編成であるチェイスなど。

 このような形態は、もともとは1960年代後半に起こった軽音楽の多様化により、ロックとジャズの融合から生れたものだ。エレキギターやキーボード(ハモンドなど)が主役であったロックの中でそれまでは演奏の引き立て役であったブラスが主旋律をとることは当時珍しかったようで、これらの音楽はニューロックの象徴とされた。しかし、ブラスプレイヤーがギタリストのように神格化されなかったことや、誰でも気軽にプレイできる楽器ではなかったこと。そして、インプロビゼイション主体の音楽の衰退などが原因でブラスロック自体が長続きしなかった。

 そんな中で、メンバーチェンジはあれこそ、解散もせず現時点まで活動を続けているシカゴというバンドはまことに不思議なバンドである。
初代ギタリストの死亡、リードヴォーカリストのチェンジなどいくつもの苦境を乗り越えての活動維持は、見上げたものだ(意地?惰性?いやいや情熱でしょう)

 シカゴの活動時期は大きく3つに分けられる。
デビューから1980年あたりまでのブラスロック主体の時期。
デビッド・フォスターをプロデューサーに迎えバラード路線主体に移行した1980年代。
そして、メインヴォーカリストを換えビッグバンドカバーなど新たなチャレンジをしている1990年以降から現在までと、まさにどの時代もシカゴはそれぞれの顔を持っている。
名前だけ生き続け、全然別物というわけではなく、シカゴのエッセンスがどの時代にもある。それゆえ、リスナーは安心しながら演奏を楽しむことが出来る。だから、デビュー以来12回も来日しているし、ここ最近は2年連続の来日だ。

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 私は名曲が多いシカゴの中で意外と地味なアルバムが好きだ。1979年発表の『ホット・ストリート』である。この作品は私がちょうど中学3年でブラスバンド部の友達と遊んでいたときに学校の音楽室で聞き、その「真似事」をした、というのも大きい。このアルバムからスマッシュヒットになった「アライブ・アゲイン」は、当時音楽の方向性がいまいち定まらなくなってきたシカゴ自体が自ら「もう一度!」と鼓舞しているように聞こえるのだ。
軽快な8ビートにブラスが絡み、エンディングでは長いワウギターが続く。
このギタープレイは往年の「長い夜」のエンディングを思い出す(マイナーとメジャーの違いはあるが・・・)。
当時の私たちは、ブラスロックの真似事をしていただけなので、単純に生(ブラス)と電気音(エレキギター)の絡み合いに非常に興奮したものだった。もちろん、当時の私は全然ワウギターなんて弾くことは出来なかったが、重厚なブラスの上で奏でるエレキギターのソロはとにかく気持ちよかった。
そして、『こりゃ、テクニックがあればあるだけ楽しいんだろうなぁ』なんてことを考えていたように記憶している。
ちょうど同じ時期のことだが、前述の「ブラスロック」の衰退の要因のひとつに世の中はフュージョンという新しいジャンルの音楽が流行しはじめていたことも挙げられるだろう。
 フュージョンサウンドは、同じブラスでもサックスがメインとなり、重々しいバスドラのリズムと16を刻むハイハットが強調され、その上にスラップベースが重なるといった音楽で、同じブラスを使用している「ブラスロック」とは全く異なるもので、たちまち「ブラスロック」は「古臭い音楽」に成り下がってしまったのだ。
そしていつしか「ブラスロック」というくくりさえなくなってしまった。
 こういったこともあって、この頃のシカゴは本当に迷走していたのだ。当時はそんなことも良くわからずにブラスとエレキで遊んでいた私は幸せだったのかもしれない。

2010年1月9日
花形
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by yyra87gata | 2012-12-26 16:20 | アルバムレビュー | Comments(0)
 久々に間近かで見た加藤和彦は素敵なおじさんに変わっていた。『ひっぴいえんど』(2009)のプロモーションで穏やかに語る加藤和彦は、すべてを達観した音楽の神様に見えた。

 加藤和彦はTHE ALFEEの坂崎幸之助と「和幸」というユニットを組み、セカンドアルバムを発表した。
『ひっぴいえんど』は、はっぴいえんど世代の音楽が凝縮されたアルバムである。もともとパロディ音楽を得意とする加藤和彦の真骨頂といえるだろう(フォーク・クルセイダースやサディスティック・ミカ・バンドでも洋楽のパロディを数多く手掛けた)。しかしそれらの作品はただのパロディではなく、日本人にわかりやすく、非常に高水準な音の構築がそこにあることを忘れてはいけない。
そうでなければ、学生が録音ギミックだけで作った「ヨッパライ」で大ヒットを飛ばせるわけがないし、日本人のロックバンドが本場イギリスでチャートインし、メインアクトのロキシー・ミュージックをくってしまうほどのパフォーマンスなんてできないからだ。

 加藤和彦は昔から「時代を1歩も2歩も先に行っているミュージシャン」という表現をよくされている。
フォーク・クルセイダースがまだアマチュアの時代に発表したシングル「帰ってきたヨッパライ」のアイディア。
「イムジン河」が放送禁止となり、それに反発しその曲の終わりからコードをつけて作った「悲しくてやりきれない」。
ソロになり様々なミュージシャンとの交流の中で作り上げられた名盤『スーパーガス』(1972)。そのアルバムに収録され、いつの間にか住宅メーカーの歌として今も歌い継がれている「家を作るなら」の普遍性。
 常に海外の音楽動向を気にし、それをいち早く取り入れる感性。また、それを自分以外のミュージシャンにも惜しげもなく使い切るプロデュース能力。
日本の音楽として海外に渡り十分に渡り合ったサディスティック・ミカ・バンドの功績など挙げていけばきりがない。そういう意味では、ミュージシャンというよりプロデューサーという方がしっくりくるのかもしれない。
それから考えると、加藤和彦はもともと大々的にソロプロジェクトを組むミュージシャンでもないが、1970年代後半から1980年代前半にかけて発表されたソロアルバム3部作は、今聞いても加藤和彦の世界観が伝わってくる逸品である確信する。『パパ・ヘミングウェイ』(1979)『うたかたのオペラ』(1980)『ベル・エキセントリック』(1981)
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 その中でも『パパ・ヘミングウェイ』は僕が中学生の頃よく聴いたアルバムだ。アーネスト・ヘミングウェイの軌跡をイメージしたトータルアルバムである。それまでの日本のミュージシャンで、こんな世界観を持った音作りを行なっている作品を僕は聴いたことがなかった。
作品発表当時の日本の音楽事情は、歌謡曲はもとより、ニューミュージックとテクノポップが街に溢れ、耳障りの良いCMソングがヒットするという方程式が出来上がっていた。そんなC調な空間に突如現れた硬派なポップス。浮遊するような加藤和彦のヴォーカルと耳に残る鋭利な音。色とりどりな曲が次から次へと飛び出し、ファッション誌が音を出しているような作品だ。
参加ミュージシャンもサディスティックス系、YMO系といった当時の売れっ子ミュージシャンが集結しており、緊張感の溢れるプレイを楽しむことが出来る。
『パパ・ヘミングウェイ』はバハマのコンパスポイント・スタジオ、マイアミのクリテリア・スタジオで収録されているためか、音色が青い。本当に青い。ちなみに『うたかたのオペラ』はベルリン録音だからちょっと影のかかった灰色の音だし、『ベル・エキセントリック』はパリのシャトゥ・スタジオだから華やかさの反面ちょっとセピアがかった色の音がする。
 音を自在に操る加藤和彦ならではの3部作。その中でも『パパ・ヘミングウェイ』は聞きやすいし、秀逸な出来だと思う。
彼の浮遊するヴォーカルが妙に心地よいのだ。

 ただ、「ジョージタウン」のイントロが高中正義の「ブルー・ラグーン」のスローテンポに聞こえるのは僕だけだろうか。ちなみにギターは高中が弾いているんだけど・・・。

2009年3月5日
花形
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by yyra87gata | 2012-12-26 14:45 | アルバムレビュー | Comments(0)
 
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再発万歳! ボーナストラック付の紙ジャケ!
よくぞ復刻してくれましたという感じ。レコードを買いそびれて私の唯一の音源であったカセットテープはとっくにベロベロに伸びてしまっていた。
ネットでは高額でレコードが取引されていたが、私はレコードコレクターではないので、とにかくまともな音で聴きたかっただけ。いやぁこの再発は本当に嬉しい。

 上田正樹と有山淳司。2人クレジット。アコースティック・ブルーズの名盤である。
もともとは“上田正樹とサウス・トゥ・サウス”のアコースティックコーナーで繰り広げられていた演奏をアルバム化したもの。
もちろん作品として残るので、ライヴで実際に歌っていた内容よりはかなり抑えられているが、それでもけっこうきわどい事をきわどい表現で素直に歌っている。この「素直」にということが非常に重要で、悪気も無く大阪の生の姿を歌っているのだ。
私は大阪人ではないが、このアルバムを聴くと埃っぽい昭和の大阪のダウンタウンが垣間見える気がするのだ。

 さて、音の話だが、有山が奏でるアコースティック・ブルーズに上田のハスキーヴォイスが絡む。ソウルフルな上田のヴォーカルはサウス・トゥ・サウスで見せるパワー全開のそれではない。どこか乾いたヴォーカルで、いい意味で力が抜けている。反して有山がヴォーカルを取る曲は、有山のハイトーンが曲をまろやかにしており、女性ヴォーカルと間違えるかもしれない。
 そんな2人の歌で大阪の真髄を歌い上げる。
労働者の悲哀、いつかは成功して北新地に呑みに行くことをサラリと歌う。
この作品を聞きながらウンウンと頷いた人も多いだろう。
特にこのアルバムが発表された1975年は、まだ“日本のロック”はサブカルチャーであり、一部の人間だけのものだった。その中でもこのアルバムは、特定の人だけ(関西人もしくは上田正樹ファン)しか理解できないものだったのではないか。
(私も中学時代に甲斐よしひろのラジオで聴いたのが最初。最初はぜんぜん理解できなかった)
70年代中盤の日本の軽音楽事情は、フォークブームの翳りによりニューミュージックへの移行が音を立てて行なわれていた。その中で日本のロックだけは混沌としており、相変わらずのマイナーリーグだった。商業的に一向に花開かない“日本のロック”の中で関西といえばブルーズだったのだ。
なぜ関西でブルーズが流行したのかは疑問だが、関西弁とブルーズの音感が非常にマッチしているからだろうか。それとも、もともとのブルーズ=黒人の労働歌という図式が、関東と比べて飾らない本音勝負の関西人に合ったのか。
また、関西ブルーズは本場アメリカで例えるなら、シカゴブルーズというより、ミシシッピ・デルタ・ブルーズのような土臭い音。
歌い上げる歌詞も生活感の溢れるものばかりで、好き嫌いもはっきり分かれるだろう。だからそんな関西の生活臭がラジオから流れてきても、関東に住んでいた中学生の当時の私にはよくわからなかったのだ。今でこそ、お笑いブームで関西弁がTVから日常会話のように流れ出て、流行語のように関東人がめちゃくちゃな関西弁を使うなんてことが普通となっているが、30年前では考えられないことだった。
 だから当時、友人の家で「ぼちぼちいこか」を全曲通して聴いた時、半分も理解できなかった。但し、何を言っているのかわからないが、とにかく関西弁で何かしょうも無いことを訴えているだな、ということだけがわかったと思う。
でもそれで十分だった。あんなグルーヴはきいたことが無かったから。いや、後にも先にもあのグルーヴを出している作品は聴いたことが無いかもしれない。
「ぼちぼちいこか」・・・なんて気の抜けたタイトルだろうと当初は思ったものだが、上田と有山のデビュー作というこの作品。「もうそろそろ、本気出すよ!」とも聞こえる。

 話は変わるが、この作品、ジャケットにも映っている「食いだおれ太郎」と一緒に大阪の文化的遺産として永久に残しても良いのではないか。
新聞社とケンカしている場合じゃないよ、府知事!

2008年10月26日 
花形
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by yyra87gata | 2012-12-26 14:35 | アルバムレビュー | Comments(0)

『Superfly』  Superfly

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 いやぁ困ったものだ。
たまたまつけた音楽番組“僕らの音楽”。Superflyが歌っていた。携帯の小さな画面で、しかも音も内臓スピーカーという小さいものだったが「I Remember」という歌を聴いて、私はSuperflyの虜になった。
翌日、したり顔で中学1年の長女に
「お前、Superflyって知ってるか?あれ、良いぞ。」と言うと
「あっ!いいよね、パパ持ってないの?私、ラジオでエアチェックはしているんだけど・・・
ちゃんと聴いてみたいんだよね。テレビドラマの主題歌とかCMソングになっているやつとか・・・。」
私は「I Remember」しか聴いたことがないというと、不思議そうな顔をして
「Superflyって結構有名だよ。アルバムが新人初登場1位、しかも2週連続は記録らしいよ。」

私は急いでSuperflyのファーストアルバム『Superfly』(2008)を手にした。

アルバムジャケットからして音が見えてきそうだ。HIPなスタイル。細いヘアバンドや花をちりばめていて、どこか懐かしい。ジャニスやフラワーチルドレンの香りが漂う。

“Superfly”は越智志帆のソロユニット。当初は2人組のユニットだったが、ギターの多保孝一がコンポーザー・アレンジャーに専念するという理由でソロユニットになった経緯がある。
影響は「1969」という作品もあるように、あの頃の音楽をオマージュしたものが多い。
一瞬、ひと昔前の「ラブサイケデリコ」を想起させたが、Superflyのほうがストレートなサウンドだ。
時代は廻るとよく言うが、30年の歳月の中であの当時のサウンドを現代のアレンジに施すことで、今のリスナーに受け入れられたのだろう。

 1984年生まれの越智がティーンエイジャーだった1990年代の半ばは、小室哲哉に代表されるレイブ系のダンスミュージックが日本の音楽界を席巻しており、街中テクニカルなサウンドで溢れていた。
海外でもグランジやヒップホップがトレンドで、そんな音の洪水の中、高校3年の時に聴いたジャニスの声は彼女の心にストレートに入って来たに違いない。
シンプルな音の中で一本筋の通ったヴォーカル、愛と自由を訴えた1960年代後半の音は、混沌とした1990年代後半とオーバーラップするものがあったのかもしれない。

 アルバム13曲を通して聴くと、なるほど音は60年代70年代のテイストに溢れているが、肝心のヴォーカルはことのほか素直であることに気づかされた。しかもソウルフルである。これは簡単なようで、とても難しいこと。ジャニスが好きなヴォーカリストは当然物真似の歌いまわしがあるもので、せっかくのサウンドに水をさしてしまうことが多い。そのヴォーカルを聴くくらいなら本家本元を聴いていた方がいいと言う判断になるのだ。例えば、ビートルズが好きでプロミュージシャンになったチューリップや矢沢永吉がなぜ確固たる地位を築き上げることができたのか、という答がそこにあると言うものだ。
(最近のミュージシャンで言うならミスチルはビートルズを上手く浄化したと思う)

 Superflyのファーストはとにかく聴きやすい。但し、次回作の方向性をどこに持っていくのか、非常に難しい選択を強いられるだろう。このままHIP路線で走り続けるのか、新たな道を作るのか。
懐かしいテイストが散りばめられたSuperflyは、ティーンエイジャーから私のような40代まで幅広い層のフォロワーを作り出した。これは紛れも無い事実である。

この先、流れの速い女性ヴォーカルの世界でどこまでいけるかが楽しみなミュージシャンである。


2008年6月6日
花形
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by yyra87gata | 2012-12-26 10:03 | アルバムレビュー | Comments(0)
 実はキャロル・キングについては、『LOVE MAKES THE WORLD』(2001)発表の時にレビューを書こうと思っていた。なぜなら彼女が59歳の時に発表したこのアルバムは、慈愛に満ちたとても幸せになれる音が溢れていたからだ。名盤『TAPESTRY』(邦題:つづれおり)(1971)の時のような躍動感は抑えられているが、歳を重ねなければ出せない音、声、表現力など・・・自分も歳を重ね日々生活をしている中で非常に共感する部分が多かった。

何も特別なことはいらない・・・お互いを認め、世界に愛を溢れさせる・・・

 18歳から職業作曲家として活動し、世界中の音楽ファンから愛され、私生活でも数々の出会いや別れがあり、それでもミュージシャンとして常に現役でフロントラインにいるキャロル・キングが歌うから意味がある。そのキャロル・キングが2枚組みのライブアルバムを発表したのは2005年のことだった。
居間でくつろぎながら聴くことが出来るコンサート・・・。キングはそのような依頼を数回受けてサロンコンサートを幾度か行なっていた。そして、それはとても好評で、数々の公演依頼を受けることになった。そして、このサロンコンサートをコンサートツアーという形で実現できないか、という企画がもちあがった。2004年のことである。舞台は本当にキングの居間に招待されたかのようにグランドピアノのバックには家具が並べられ、そこで生活をしているかのようだ。そこで招いたお客様相手に和気藹々とキングは歌う。その模様を2枚組みのアルバムとして発表した作品が『ベスト・ヒッツ・ライブ~リビング・ルーム・ツアー~』(2005)である。
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 “私のリビングルームにようこそ・・・何もおもてなしはできないけれど、楽しい音楽を聞かせることはできるわ。でも私も62歳のおばあちゃんだからあまり張りきって歌うことはできないけれどね・・・”と茶目っ気タップリに歌いだす「Welcome To My Living Room」からステージは始まる。
もうこの時点で観客はコンサートという概念を超え、とてもくつろいだ雰囲気に心が満たされる。
そしてそれはCDからも伝わり、無機質なスピーカーから暖かいキングの歌唱や演奏を間近で聴いている気分になる。
バッキングのミュージシャンもでしゃばりすぎず、キングを盛り上げ、絶妙なギターやコーラスを添える。
一人目の夫、ジェリー・ゴフィンとの間に生まれた長女であるルイーズ・ゴフィンとのデュエットも飛び出し、会場は熱気に包まれていく。
キングはヴォーカリストとして絶頂期があるのか(あったのか)どうかは疑問だが、昔と変わらぬヴォーカルを聴かせ、たまに声が枯れる瞬間があるがそれもひとつのライブ感ということで納得できるものだ。
またMCも面白く、会場をいじくることも忘れない。どんどんキングの世界に引き込まれていく。

 アルバムではアンコールを含めて全21曲がクレジットされている(メドレー含)。得てしてエレクトリックギターもドラムもないアコースティックライブは、アレンジが似通うため中だるみが生じるものだが、このアルバムは一気に聴くことが出来る。2枚組というヴォリュームがあっという間だ。その基本路線は、キングは客を楽しませることに全神経を集中させており、演奏に緊張感がある。少ない編成の難しさを克服し、逆に強みにしている。その重要なポイントは、なによりもキングのピアノが絶品なのである。こんなに上手い弾き語りがいるのか・・・しかも62歳!
脱帽である。

 ぜひ、コーヒーでもゆっくり飲みながらリラックスして聴いてほしいアルバムである。
またひとつ私のCD棚にひとつの名盤が加えられた。

2008年5月28日
花形
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by yyra87gata | 2012-12-26 10:00 | アルバムレビュー | Comments(0)
 日本のフォークソングは1960年中期よりカレッジフォーク、1960年後期より関西系フォークなどのムーブメントが起き、程なくしてよしだたくろうや井上陽水といったメガセールスが日本を席巻した。そして、かぐや姫やガロがセールスを伸ばし、一大フォークブームに発展していった。
荒井由実が命名した「四畳半フォーク」という言葉も世になじみ、フォークは若者の象徴として1975年の「吉田拓郎・かぐや姫 つま恋オールナイトコンサート」で昇華した。
しかし、その1975年を境に音楽の多様化に伴いフォークは事実上ニューミュージックに名前を変えることになる。但し、その中でも「叙情派フォーク」と言う言葉だけは残っていた気がする。
特にヤマハ主催の「ポプコン」から登場するミュージシャンにこの傾向が強く、シティポップやクロスオーバーといったジャンルと双璧を成していた。NSPやふきのとうはその代表格である。
また、数あるフォークシンガーやグループが時代と共に音楽性を変え、エレクトリック色が強くなっていく中、この叙情派フォークのミュージシャンはかたくなにアコースティックに拘っていた。その音楽性は音の氾濫する最新の音楽の中でとても潔く聴こえてくる。

 私とふきのとうの出会いは、私が中学生でラジオ少年だった頃に遡る。勉強をしながらラジオをつけていると、毎日のようにふきのとうの「風来坊」がオンエアされていたのだ。刷り込みというものは恐ろしいもので、顔も見たこともない得体の知れない「ふきのとう」なるグループの歌を登下校時に口ずさむようになった。
自転車に乗りながら“この空どこまで高いのかぁ~”なんて具合。
しかしそれ以上は発展することも無かった。レコードを買うわけでもなく、ライブに行くわけでもなく、気がついてみるといつも“この空どこまで高いのかぁ~”という具合だった。

 時は過ぎ、1987年8月。休業していた拓郎が復活するというニュースを聞きつけ、九州・海の中道まで出かけ、南こうせつのサマーピクニックに参加した。このオールナイトイベントの会場には、こうせつファンと拓郎ファンが詰め掛け、雨上がりのグチャグチャになった地面の上で異様な熱気に包まれていた。その中で、拓郎が登場する前に何人かのミュージシャンが登場したが、その中にふきのとうがいた。
その時のふきのとうは、「緑輝く日々」のツアー中であり、武道館公演も7月に成功させていた。
彼らの演奏が始まった時、客席は当初ざわざわと騒がしかったが、曲が進むにつれて彼ら2人のコーラスに魅了されていった。バックバンドの演奏も無駄が無いもので、整理された音が2人の歌を盛り上げた。私は不謹慎ながらも、後で出てくる拓郎登場のためにふきのとうや伊藤かづえなど他のシンガーの出番では体力を温存させようと休憩の体勢をとろうと思っていたが、聴こえてくる演奏があまりにすばらしいので、結局40分の彼らの出番をじっくり堪能してしまった。彼らのステージが終了した時には感動に包まれていたし、この日のイベントでいまだに記憶として残っているのは、拓郎でもこうせつでもなくふきのとうだったのだ。

 細坪の高音と山木の低音。字にしてみるとなんて単純な、と思われるがこれこそがふきのとうの音なのである。
正確に書くと、細坪の高音の主旋律に山木は6度下のコーラスをつける。つまり3度上のハーモニーの1オクターブ下のコーラスということだ。このちょっと変わったハーモニーがふきのとうの特徴である。そして、詩の世界は山や風、雨などの自然を歌い、親や友へ飾らない自然な言葉をつむいでいる。
控えめな印象のグループで、ヒット曲に恵まれたわけでもないが、コンサート会場は全国的に盛況だったと聞くと、なんだかメガセールスで踊らされている音楽業界の鼻をあかしているようでとても興味深い。
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 『2000 BEST ふきのとう』(2000)は初期から中期までのベスト盤。
彼らのデビュー曲「白い冬」の音源を捜していたところ、たまたま手に取ったベスト盤であるが、これがなかなか良い。
彼らの大切にしている音と世界が凝縮されているアルバムである。

追記。
「白い冬」をコピーしているが、山木のコーラスは難しい。3度上のコーラスで慣れているととんでもなく高い声になってしまうし、低音で歌いきるには出しづらい音域だし。
高音の主旋律という点においても、歌いきる人も少ないだろう。
あの雰囲気を出すのは並大抵なことではないのだ。

2008年5月27日
花形
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by yyra87gata | 2012-12-26 09:56 | アルバムレビュー | Comments(0)
 “この道何十年”なんてこの人には全然当てはまらない。出すアルバムごとに表面的な音楽性の変化がこれほど激しい人も珍しいだろう。それだけ引出しがたくさんあるのか、それとも飽きやすい性格なのか・・・。もちろん才能が無いとこの変化は昇華しないわけで、今回改めてベスト盤を聴きなおしてみてこの人の才能を確信した。
オリジナル・ラブ=田島貴男である。
 いろいろな音楽性(ネオGS、ポストパンク、民俗音楽、アシッドジャズなど)を次から次へと発表し、“渋谷系”などのくくり方をされたこともあった。これはそのサウンドが、ファッション界やクリエイターと呼ばれるカタカナ業界に多かったことにも起因している。そういえば、ブティックなどでBGMとして頻繁に使用されていたことを遠い昔に思い出す。
その“おしゃれなサウンド”もオリジナル・ラブがバンドとして存在していた時と現在とでは大きくその音楽性を変えている。クラブサウンドに狂ったかと思いきや、いきなりアコースティック・サウンドに変幻。こういった雑食系な才能はミュージシャンからも熱い信望を得ている。ミュージシャンズ・ミュージシャンということだ。
 本人は“渋谷系”と呼ばれることにかなり抵抗があり、その表現を否定している。その気持ちは十分理解できる。彼のこぼれんばかりの音楽性を一括りにされるのはいかがなものかという気もしないでもないからだ。

 16ビートの軽い刻みとソウルフルなブラスが満ちた音の中からバリトンの効いた田島のヴォーカルが浮かび上がると、そこはもうオリジナル・ラブの世界である。あの声はあの体と彼の骨格からくるのだろうな、と思う。いつも半分目を閉じたような薄目で、時より不適な笑いを口元に持つ田島貴男は、独特な雰囲気を持って歌う。ミュージシャンというよりどこか悟りを開いた宗教家のようでもある。その彼が魔術師のように音を組み上げて行く様は、音楽がパズルのように感じられる。そういった中で詞をどう活かすかが課題となるのではないか。
なぜなら、耳あたりの良い音楽と心に残る音楽は同一とは言い切れないからだ。
だからこのことに意識して、田島は意識し「プライマル」(1996)を発表したのではないか。
ユーザーにしてみれば、新たな一面を見ることが出来たという満足感はあるが、作品の出来があまりにも“はまって”しまったのでオリジナル・ラブ=バラードという安直なイメージをつけられてしまうのだ。器用な田島ならではの悩みが再び噴出してしまう。

 現在もオリジナル・ラブは独自のスタンスで作品を発表している。いろいろな音楽を実験的に行なってきているが、あくまでも田島に流れるポップスのセンスの結晶が作品として昇華されるのだ。
あまり考え込んで聴く音楽でもないのかもしれないし、考え込み始めると抜け出せなくなるような気もする。そんなミュージシャンである。
今回紹介する『ベリー・ベスト・オブ・オリジナル・ラブ』(1995)はオリジナル・ラブの初期4年間分の作品が中心で、様々な音楽がシャワーのように降り注ぐ。
深みにはまる前のカタログ的なアルバムとしては最適である。

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2008年3月15日(土)
花形
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by yyra87gata | 2012-12-26 09:54 | アルバムレビュー | Comments(0)