音楽雑文集


by yyra87gata

カテゴリ:アルバムレビュー( 161 )

 先日、マイケル・ジャクソンの「スリラー」を久々に聴いた。完璧なアルバムだと再認識したのだが、あることを思い出した。
私が大学に入学した頃のこと。当時うちの学科では入学してすぐに、新入生と有志の先輩で1泊2日の懇親旅行なる企画があった。先輩たちの計らいで「とにかく仲良くなっちゃおう」という軽いノリの企画だ。
新入生、約120名は10組ほどの班に振り分けられ、そこにオブザーバーの先輩が5人ほど付いてくれる。良き相談相手である。新入生は大学生活への不安と期待が入り混じり、先輩を頼りにする。先輩たちもいろいろと便宜を図ってくれた。
 新入生は自己紹介などを行ないながら男女入り乱れての今にして思うと合コン状態であった。しかしそんな中、各班に変わり者の新入生が1人~2人まじっていた。
「やくざの息子」「おかま」「スポーツバカ」「電車オタクな女」「マスコミにコネのある金持ちのおぼっちゃん」「やたらと声のでかいやつ」・・・・。新入生の中でも浮いてしまうやつである。
バスハイク中でもこの連中はやたらと問題を起こした。中には喧嘩をはじめる始末。
私は面倒くせぇなぁと思いながら、一応年長者だったので(どうせだぶって入ったよ!)仲裁に入ったりしていた。
その騒ぎは宿に着いてからも止まらず、夜の新入生歓迎パーティーの時にピークを迎えた。とうとう、見かねた先輩とその新入生は大喧嘩を始めてしまったのだ。
ところが、である。
暗転し、「スリラー」のテーマが大音量で食堂に鳴り響く。
すると、私と同じ班でさっきまで私の太ももを触っていたおかまちゃんがすくっと立ち上がり舞台の方に歩いて行くではないか。周りを見渡すと白いスーツのやくざの息子も、車掌の帽子をかぶった電車オタクな女もみんな舞台に向かってゆらゆらと歩き始めている。
そして横一列に並ぶと、例のスリラーのゾンビダンスを完璧に踊っているのだ。
 新入生たちは大いに盛り上がり、今まで騙されていたことを気づかされた。先輩が新入生のふりをして我々に潜入していたのだ。大学生らしい企画ではあるが、班を作ってから1週間後の懇親旅行なので、潜入していた先輩たちは1週間ずっと新入生になりきって、我々と話をしていたことになる。アホもここまでやれば面白い。
私は「スリラー」を聴くとトラウマのようにこの先輩たちのダンスを思い浮かべてしまうのだ。しかし、本当に上手かった。バスハイクの責任者なんて赤いGジャンに赤いピチピチの革パンツを履いて、マイケルばりにムーンウォークしてたよ。
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 さて、この『スリラー』(1982)であるが、この作品はマイケル・ジャクソンのスター性が遺憾なく詰め込まれており、ダンスミュージック、ディスコサウンド、ソウルミュージックなどという範疇では語れない次元の作品となっている。また、MTVで大々的にプロモーションが行なわれたので、音を聴くだけで自然とマイケルのダンスシーンを想起する人も多いだろう。それだけインパクトのある映像だった。
「ウェストサイド物語」ばりの展開が見られる「ビート・イット」、ゾンビが墓場で復活し、全員でダンスする「スリラー」、ポール・マッカートニーとの共演による「ハート・オブ・マイン」など。このMTVは、映画並みのクオリティの作品で(監督:ジョン・ランディス)、アルバムヒットの原動力になっている。つまり「スリラー」は音と映像が見事にマッチした傑作であり、それまでの音中心の音楽から映像を含めた音楽を築き上げたエポックメイキングな作品である。音を聴くだけで映像が甦るというMTVの効力を十分理解し制作されたものだ。
だから、「20世紀、最も評価された作品」と評され、グラミー賞7部門獲得。発売当時から現時点で1億400万枚も売れ続けている(世界記録)。全9曲中、8曲がシングル・カット(シングル7枚)され、いずれも大ヒットを記録。37週全米1位を獲得した。ちなみに「スリラー」のビデオクリップは、100万本の売り上げだそうだ(ギネスブック掲載)。

 アルバムの制作面ではクィンシー・ジョーンズが再びプロデュースを担当し、それまでのソウル&ファンクビートが強かったマイケルの作品を見事に流行の音に仕立てあげた。例えば、ヴァン・ヘイレンがギターを弾いたことで「ビート・イット」はそれまでには無かったロックテイスト溢れる作品となり、当然のようにアルバムは全米1位を獲得した。そのため、ヴァン・ヘイレンは、「ジャンプ」「パナマ」といった大ヒットシングルを擁したアルバム『1984』でさえも全米1位に輝くことができなかったという皮肉な結果も生み出している。
この作品が巻き起こした事象を挙げていたらきりが無い。とにかくスリラーというよりモンスターと言えるアルバムである。
 最近、CDでこの作品を聴く機会があった。音の緻密さは、来たるデジタル世代の先鞭となり、その正確無比なサウンドメイキングとブラックミュージック特有のグルーブのミクスチャーは脱帽せざるを得ない。
前作の『オフ・ザ・ウォール』(1979)は、クィンシー・ジョーンズとの初タッグ作品でマイケルのソウルミュージックやファンキーな一面を整理された音で表現し、十分な成功作品に仕上げた。そしてこの「スリラー」は、表現力が一層広がり万人に受け入れられた。売れるからには何らかの理由があるわけだが、まさに時代を作った音がそこに存在している。

でも、「スリラー」を聴くとマイケルには悪いが、先輩たちのダンスを思い浮かべてしまうんだよなぁ。

2007年10月26日 
花形
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by yyra87gata | 2012-12-26 08:42 | アルバムレビュー | Comments(0)
 実は私、よく車の中で落語を聴きます。ラジオであったり、CDであったり・・・。
あの絶妙な間と江戸情緒あふれる話は、日本が世界に誇れる文化だと思います。
最近は「お笑いブーム」と呼ばれ、漫才やコントが主流です。それはそれで良いでしょうが、「お笑いブーム」というなら、もう少し落語にもスポットを当ててみてほしいものです。
そんなわけで、私は昔から贔屓にしている噺家がおります。
私が聴き始めた頃はもうすでに鬼籍に入られており、生で観たことは無いのですが、テレビの録画やラジオの音源でよく楽しんでおりました。
 その落語家とは、五代目古今亭志ん生であります。
メチャクチャな人生を歩まれた芸人の芸は、言葉ひとつひとつに説得力があります。
志ん生は、声、間、技が一体となった完璧なまでの話をする正統派の噺家というよりも、貧乏暮らしと酒におぼれ、その実生活がすでに落語であるという強みがあります。
明治23年生まれの気骨のある人物と思いきや、その日暮らしの酒飲みという噂もありますが、なにせ人柄が幸いして借金取りもあきれ返るくらい人に恨まれなかった人のようです。
そして、そんな志ん生にはたくさんのエピソードがあります。(ウィキペディア抜粋)
エピソード①
 関東大震災のときに、酒が地面にこぼれるといけないと、真っ先に酒屋へかけこみ、酒を買おうとした。
エピソード②
 東京が空襲にあっている頃、漫談師大辻司郎(初代)に「ビールを飲ましてあげるからいらっしゃい」と招かれて数寄屋橋に出かけ、しこたま呑んだ後、お土産にビールを詰めた大きな土瓶を貰った。帰宅中に空襲が始まり「どうせ死ぬならビールを残してはもったいない」と全て飲み干し、酔っ払ってそのまま寝入ってしまった。あくる朝、奇跡的に無傷のまま目覚めて帰宅。家では「志ん生は空襲で死んだらしい」とあきらめられていた。
エピソード③
 満州にて終戦を迎えたものの、混乱状態の満州からの帰国の目処がつかず、昭和21年頃の国内では「志ん生は満州で死んだらしい」と噂が流れていた。実際本人も今後を悲観して、支援者より「強い酒なので一気に飲んだら死んでしまう」と注意されたウォッカ一箱を飲み干し、数日間意識不明になったことがあった。その後意識を回復した志ん生は、「死なないのなら少しずつ呑めばよかった」と言った。
エピソード④
 ある日、志ん生は酔っ払ったまま高座に上がって、そのまま居眠りを始めてしまった事がある。それを見た客も怒るどころか粋なもので、「いいから寝かしてやろうじゃねえか。」「酔っ払った志ん生なんざ滅多に見られるもんじゃねえ。」と言って、寝たままの志ん生を楽しそうに眺めていた。

酒以外のエピソードでも、
エピソード⑤
 TBSラジオの専属時代に他局に出演し、それを指摘されたときの科白、
「何かい、専属ってえのは他に出ちゃいけないのかい?」と訊ね、TBS側も「志ん生だからしょうがない」といって諦めた。
実に愛すべき噺家です。
そういえば、先日亡くなったフォークシンガーの高田渡も同様の人でした。

 志ん生の落語は、CD全集も出ておりますので比較的簡単に手に入ります。持ちネタも多いので、選ぶのに一苦労しますが、「らくだ」「火焔太鼓」「親子酒」「鮑のし」などはすんなり志ん生の世界に入れます。
『名演集』(1994)は昭和31年から35年までのニッポン放送の専属時代の音源が収められており、一番油の乗った時期の話術を聞くことが出来ます。昭和36年に脳溢血に倒れ、その後奇跡的に高座に戻ってきたが、《病前》《病後》と形容されるくらい勢いは変わってしまったようです。但し、《病後》の落ち着いた志ん生のほうが良いというファンもいるので、一概にどちらが良いとはいえないかもしれません。

絶妙な語り口から出るキップの良い江戸弁は、聴いていてついつい真似をしてみたくなりますが、慣れない人がやるとただの野蛮人になってしまいますので、注意しましょう。
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2007年6月16日
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by yyra87gata | 2012-12-26 08:12 | アルバムレビュー | Comments(0)

『Denim』  竹内まりや

 日本の軽音楽、特にロックとカテゴライズされる音楽について歴史は非常に浅い。それはGSブームの終焉とそれに続く新たな日本のロックが、せいぜい1965年から1970年にかけての出来事で、商業的には全くといっていいほど認知されていなかったからだ。
これがポップスになるともう少し歴史は長くなる。洋楽の焼き直しが主流だった日本のポップスは、1958年から1971年まで続いた日劇ウェスタンカーニバルがその歴史を紐解いてくれる。
コニー・フランシスやリトル・エヴァなどの曲に日本語の歌詞をのせて歌ったことが、日本ポップスの黎明期の事象である。テレビでも<夢で逢いましょう>や<シャボン玉ホリデー>を欠かさず見ていた世代が現在の50歳アッパーだ。その世代の中で今でも第一線で作品を発表し続ける竹内まりやが6年ぶりの新作を発表した。
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『Denim』(2007)である。(2007年5月23日発売)
彼女は古くからある日本のポップスを上手く継承しているポップス・シンガーである。自分のスタイルを変えず、洋楽・邦楽問わず畏敬の念を持ちながら自分のオリジナリティでカバー曲を発表する。もちろん彼女のオリジナルもアメリカン・ポップスやヨーロピアンなテイストを上手く浄化し「竹内まりや」というジャンルとして確立されたものである。

 今回の竹内まりやの新作は、今までの彼女の集大成とも言える出来ではないだろうか。特にまりや自身が50歳を数え、人生を振り返り始めた大人のポップスを真正面から訴えかけてくれることが、ここにきて新たな音楽の幅を広げたようにも思えるからだ。
世代交代や2007年問題(団塊の世代のリタイヤ時期に抱える諸問題)を抱える日本の中で、同世代に対しこれほど前向きな音楽作品を投じた竹内まりやに拍手を送りたい。
拓郎や陽水が20代の頃、人生を語る歌を歌い、それに鼓舞され元気付けられたことはそれで成立するもの。しかし、20代や30代では理解できなかった歌が、この歳になって初めてうなづける瞬間もある。それをロックやフォークのようなメッセージ色の強い音楽性ではなく、ポップスとしてサラリと歌いきってしまう『Denim』は、非常に意味深い作品だ。
アルバムの曲順もこれ以外考えられないというくらいの完成度。1曲目から洋楽ビッグバンドのスタンダードで竹内まりやの世界にいきなり引き込まれる。2曲目からはオリジナルが並び、そこかしこに重い言葉がちりばめられ、軽快なポップスに踊る。
最初のヤマは、7曲目の「Never Cry Butterfly」である。6曲目「哀しい恋人」の無機質なデジタルサウンドから一転しバンドサウンドで歌い上げる。もともとはピカデリーサーカス(杉真理、伊豆田洋之、上田雅利、風祭東、松尾清憲を中心としたバンド。ビートルズに影響を受けたメンバーなのでサウンドはブリティッシュ・ポップ)が1999年に発表した作品。竹内まりやはこの曲を聴いたとき、「私が歌う曲」と確信したという。それくらい彼女自身が気に入った曲だ。歌詞の中性的な表現が、竹内まりやの中域のヴォーカルに見事にマッチしている。また、演奏もピカデリーサーカスが担当しているのでバンドのグルーヴがそのまま伝わり、躍動感に溢れている。
そしてこのアルバムの肝は12曲目の「人生の扉」である。人が歳を重ね、それぞれの生き方をデニムの色あせとオーバーラップしながら歌い上げる。歳を重ねる不安は誰でも持つものであるが、いくつになってもその歳を受け入れ、前向きに生きることを支えてくれる歌である。もし、センチメンタル・シティ・ロマンスの奏でるカントリー調のサウンドが郷愁の音に聴こえたら、このアルバムを受け入れた証となるだろう。

 竹内まりやのプロデューサーは、周知の通り山下達郎である。今までの彼女のアルバムのほとんどを手が け、時には達郎のコーラスも相まって誰のアルバムだかわからない時もあったが、今回は非常にバランスの取れた仕上がりになっている。
そんな訳で、私にとって『Denim』は、MOONレーベルにおける竹内まりやのベストアルバムである。

2007年5月24日
花形
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by yyra87gata | 2012-12-25 11:07 | アルバムレビュー | Comments(0)
 僕らの世代(40歳前後)でベンチャーズに影響を受けた人は少ないと思う。日本にエレキブームが起きたのは1965年過ぎ。加山雄三の映画、若大将シリーズにも<エレキの若大将>なんて作品があるくらいで(ちなみにこの作品の主題歌は「君といつまでも」だ)、日本中がテケテケやってたのだ。
テレビでは<勝ち抜きエレキ合戦>なんて番組もあり、東京ベンチャーズや東京ビートルズとかいうグループも出ていたらしい(何でわざわざ東京なんて付けるのかね?)。
日本のエレキブームの火付け役はもちろんザ・ベンチャーズ。江戸末期の黒船同様、エレキギターは当時の若者たちにセンセーショナルに広がっていった。衝撃の音はそれまでに聴いたことの無いものだったようだ。そしてそこに目を付けた日本の歌謡界は、グループサウンズという文化を作り上げてしまったのだ。また、ザ・ベンチャーズは渚ゆうこと組んで「京都の恋」」「京都慕情」なんて歌もヒットさせたかんね。恐るべしベンチャーズですよ。
ザ・ベンチャーズは、1965年の初来日からつい最近まで毎年のように来日している。夏になるとやってくる季節労働者のように言われていたが、最近は冬にも来るのだ。しかも夏のリードギタリストはジェリー・マギー、冬のリードギタリストはノーキー・エドワーズと言った具合に編成を変えてくる。なんちゅうバンドと思うが、曲ありきのバンドなんだろう。名曲アワーの如く、次から次へとヒット曲のオンパレードになるわけで、その曲が楽しめればそれはそれでいいのではないだろうか。

 成毛滋が昔、音楽誌に寄稿していたが、1970年前後の日本の軽音楽なんて、欧米と比べたら化石時代だった、と。レコードで聴く音を表現することなんてできない。グィーングィーンと唸る音はどうやったら出すのだろう、と真剣に悩んだらしい。実際、成毛はアメリカに渡り、フィルモアウェストでエリック・クラプトン率いるデレク&ザ・ドミノスを目の当たりにして全て理解したそうだ。クラプトンが、いとも簡単にチョーキングというテクニックで音を伸ばしている事実。また、ギターを見るとやけに細い弦が張られている・・・ライトゲージの発見。そして、マーシャルで音を歪ませていることなど・・・。
成毛はGSの衰退を肌で感じていたので、新たなるロックを探し始めたわけだ。しかし、当時は成毛のように海外に誰でも行けるわけではなく、一般人は相変わらずベンチャーズを見てエレキギターを学んだ。
今では当たり前のライトゲージ弦や、各種エフェクターも積極的に使用して、それらをメジャーにしたのもベンチャーズだし、エリック・クラプトンも、ノーキー・エドワーズには一目置いているとも聞く。日本では、ブルーノートスケールやチョーキング、ハンマリングなどのテクニックも、ノーキーがやるまでは、誰も知らなかった。
わかりやすいメロディで、しっかりとしたテクニックのもと、人の心を魅了することは並大抵のことではない。いくら速弾きや、アクロバットな奏法ができたとしても、人の心に残るメロディでなければ、通り過ぎてしまう。“ふーん、うまいね。”で終わってしまうのがオチなのである。
 そこへいくとザ・ベンチャーズはメロディ重視だかんね。ライブで聴くと意外と骨太なロックらしいし・・・。そうなのだ、私はまだ生で見たことが無いのだ。是非今年は彼らのライブを観てみたいと思っている。
 
 私にとってザ・ベンチャーズは、中学時代に教会のバザーで「10番街の殺人」のEPを手にして以来、いつも心に引っかかっていたバンドだった。昔の音楽雑誌で私の好きな日本のギタリストたち(鈴木茂、Char、徳武博文・・・)がみんなノーキー・エドワーズに影響を受けたと書いてあったこともひとつの要因。
それでは、ノーキー・エドワーズってどんなギタリストなんだろうと中学時代に思ったものだ。
後にビデオで確認したとき、ピッキング、運指ともに基本に忠実!ギターってぇのはこうやって弾くもんだ!って光線がバリバリ飛んできた。しっかりと構え、メロディアスなフレーズを奏でていた。
そう、ザ・ベンチャーズは侮れないのだ。
また、ザ・ベンチャーズはエレキ・インスト・バンド・・・ギター中心のバンドと思われがちだが、僕が一番感心したのは、ドラムである。メル・ティラー(故人)の叩くビートは、ハードロックのそれとなんら変わりない。かの山下達郎もメル・テイラーの大ファンだとか。
『ベスト・オブ・ベンチャーズVol.1+Vol.2』(1999)は、1960年代に日本独自で編まれたベスト盤2枚をリマスターし再発したもの。ボーナス曲を含む全29曲は聴き応えがある。
音の好き嫌いは別にしても、よくできたアレンジとパワフルなリズムを聴けば、テケテケなんてイメージは吹っ飛ぶ。
 今年こそライブで確認しないと、逝ってしまう人も出てきそうだ。・・・それでもメンバーを代えて歌を承継していくんだろうな~。

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2007年2月7日
花形
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by yyra87gata | 2012-12-24 13:32 | アルバムレビュー | Comments(0)

『29』  奥田民生

 とにかくだらだらなのだ。このだらだらが許せない人は聴いてはいけないのだ。歌唱法から演奏からだらだらと弛緩したサウンドが耳にこびりつく。
これがネクスト・ジェネレーションのロックなのかぁ、と意気込んで聴いてみたものの、うーん・・・だらだらでしかないのだ。
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『29』(1995)。
僕は、このアルバムが発表された年に父親になった。だからかもしれないが、このアルバムに収録されている「息子」という歌が気になってしょうがなかった。僕の子供は娘なので、父親が息子に想う同性の親子愛についてはよくわからないのだが、父と子供という観点からこの歌を聴くと非常にわかったような気になった。
「わかったような」と書いたのは、もちろんしっかりと「わからなかった」のであり、親が子供に託す歌としてすばらしいものだとは思うのだが、当時の僕は、子供に対して立派な言葉(歌)をかけてあげられるほど大人ではなかったので、「わかったような」ふりをしていたのかもしれない。
親が子供に何かを託す・・・こういう人になって欲しい、と生まれたばかりの乳児に歌が歌えるか・・・僕には無理だった。
(しかし、子供に対して何かを残してやりたいという気持ちはあったので、後年、妻と一緒に娘に送るため歌を書いたことがある)
ちょうどそんな時、僕は再びこの『29』を聴きなおしており、「息子」が際立って聴こえたのだ。

 『29』は奥田民生のデビューアルバム。「愛のために」が記録的なヒットとなり、大成功のソロデビューとなった。それまで活動を共にしていたユニコーンは、おりからのバンドブームの追い風を受けていたというものの、僕の中ではひとつのビートバンドという認識でしかない。ゴールデン枠のバラエティ番組の主題歌を担当していたから、お茶の間に顔は知られていたが、僕自身に興味が無かったので印象は薄かった。
奥田民生は、ソロになってヒットをぶっ飛ばしたときのほうが、インパクトがあった。「愛のために」にはテレビやラジオから頻繁に流れ、連日僕らの耳に届いた。続くシングル「息子」もTVCMに起用されヒットを飛ばし、アルバムはミリオンセラーになる。

そして2年後、井上陽水と一緒にアルバム『ショッピング』(1997)を発表。パフィーに「アジアの純真」を書き下ろし、小泉今日子に書き下ろしていた「月ひとしずく」も収録されていた。
同時期、僕の娘は2人に増えていた。

 この『29』と『ショッピング』の組み合わせを聴けば、奥田ワールドの片鱗が理解できる。
つまり、この2作品は、例のだらだら感もパフィーの音を作り出すプロデュース感覚も、両方詰まったものなのだ。とにかく奥田の音楽性は、ありとあらゆる音楽を彼が租借して生まれてくるものなので、ちょっと音楽をかじった人間はニヤリとさせられる場面がたくさんある。70年代の歌謡曲やレイドバック・サウンド、映画音楽、ラグタイム、アメリカン・ハードロックからグランジまで五目御飯の様相でアルバムは進む。そういう意味で『29』は1990年代のJ-POPに掲げられたモニュメントである。このJ-POPという軽い言葉も奥田民生を表現する意味で適切かもしれない。

しかし、この頃の奥田民生の顔って「よしだたくろう」(若い時ってことよ)そっくりだ。
だらだら感や音楽性はぜんぜん違うけれど、表情がそっくり。広島で育つとあの顔になるのかな。ちなみに奥田は拓郎の高校の後輩である・・・。

2007年1月4日
花形
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by yyra87gata | 2012-12-24 12:49 | アルバムレビュー | Comments(0)
 1980年代のMTVブームの中心に位置したテレビ音楽番組に《ベストヒットU・S・A》がある。僕は、毎週土曜日の深夜11時過ぎになるとテレビの前に陣取り、目を皿のようにして画面に見入っていた。
この番組は、海外の音楽事情を映像で確認できる貴重なものだったので、自分の趣味ではない音楽が流れていても決して席を立つことはなかった。
そして、外タレの貴重なインタビューやランキングなど、いろいろなメニューがある中で僕のお気に入りは“タイムマシーン”というコーナーだった。
このコーナーは、時代を彩ったオールディーズを紹介するコーナーで、時代的にビデオではなく、ほとんどがフィルム制作されたものだった。演出もあまり練られておらず、どちらかというとノンフィクションの実録映画を見ているようなのだが、これが当時の臨場感を醸し出しており、妙に新鮮だった。
ツェッペリンの「コミュニケーション・ブレークダウン」(モノクロ映像)やクラプトンの「タルサ・タイム」(‘77年あたりのコンサート映像)、ディランのローリング・サンダー・レビューなどの映像が僕をわくわくさせた。
ある日の《ベストヒットU・S・A》。
いつものように小林克也の低い声で“タイムマシーン”というコールのあと、飛び出てきた映像は、なんとインディアンだった。
ロングストレートのブラックヘアーを細い紐のバンダナできっちりまとめ、Gジャンはザックリと袖が落とされ、そこから太い二の腕が出ている。力こぶの部分にも細い紐が巻かれていた。そしてギターを叩き壊さんばかりにストロークし、叫ぶインディアン。
僕は、テレビ局が映像を間違えたかと思った。
映像は、コンサート会場を捉えていた。野外コンサート。みんな上半身裸になり、踊り狂っている。何なんだこのバンド・・・しかも、よく聴くとどこか聞き覚えのある歌。
“カモン・ベイビー・ドゥ・ザ・ロコモーション・・・”
これは、リトル・エヴァの「ロコモーション」ではないのか(キャロル・キングとジェリー・ゴフィンの作品)。
日本では伊藤ゆかりがヒットさせた有名な歌だ。それをこのインディアンが何故?

 このインディアンとは、マーク・ファーナー。グランド・ファンク・レイルロード(以降GFR)のヴォーカル&ギタリストだ。3人編成(後期は4人)のこのバンドは、アメリカを代表するバンドで、日本でも相当な人気だったようだ。1971年の初来日、雷雨の中、後楽園球場で行われたコンサートは伝説となった。漏電するマイクに感電しながらマークは歌い続け、新聞沙汰にもなった。あまりにも爆発的な音で、遠く早稲田でも曲が聴けたという噂。かつてギネスブックに、世界最大音量を出すバンドとして認定されていたくらいなので、真実かもしれない。
 
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 GFRの人気を決定づけたアルバムは、誰が何と言おうと『アメリカン・バンド』(1973)である。
カウベルのカウントと基本の8ビートリズムを刻むドラムソロから始まるノリの良いタイトル曲は、堂々全米1位に輝いた。ギミックを使わず、ストレートなロックを展開するこのバンドの特徴はひと言で言って“わかりやすい”と言うことだ。風貌や音楽性を述べるならば、アメリカの片田舎の兄ちゃんが集まってロックンロールに夢中になっている、としか言いようが無いのだが、これぞ本来のロックンロールかもしれない。
 『アメリカン・バンド』はそれまで発表してきた田舎っぽいロックとは違い、キーボードを入れた4人編成期の作品である。3人の頃の荒削りな分は多少減ったかもしれないが、音楽的にはそれまでのアルバムよりも幅が広がり、聴き易くなったことがヒットの要因であろう。また、その聴き易さを引き出したプロデューサー、トッド・ラングレンの力も大きいと思う。音の魔術師であるトッドにかかれば、シンプルなロックを洗練されたロックに変えてしまうこともたやすいことなのかもしれない。
しかも、「ロコモーション」を取り上げるなんざ、並大抵のセンスではない。
「ロコモーション」発表当時でさえ、この曲は立派なナツメロで、若いバンドが取り上げる作品ではない。この曲を採用した経緯は、レコーディング中にマークがスタジオに入る際に鼻歌で「カモン・ベイビー・ドゥ・ザ・ロコモーション・ウィズ・ミー」と歌っていたところをマネージャに呼び止められ、真剣にレパートリーにしないか、と説得され、アレンジを施したという。当初、メンバーはこの作品を扱うことに抵抗したという。なぜ、ロックの懐メロをやらなければならないのか、と。
「ご機嫌な新しいダンス・ロコモーションを踊ろう」という古臭いフレーズのこの曲を今さら歌えといわれても、それは納得のいくものではなかったのだ。しかし、そこは、プロデューサーのトッド・ラングレンの腕の見せ所。彼はハンドクラップにのせたアカペラの導入部を作り、強弱を付け、ハードロックにこの曲を消化させ、古くささを一掃した。
レイルロード(線路)にロコモーション(機関車)はあまりにもはまりすぎだが、ひとつ間違えればめちゃくちゃ格好悪いところを、ギリギリのラインで収め、パワーに変えることができたのだ。

 GFRは1980年代半ばに再結成後、再来日した。1980年代のお手軽な音楽に真っ向立ち向かっていたが、時代の音ではなく、懐古趣味で集まったファンに迎えられる。マークは一人、気をはいていたが、音楽は変わりようが無い。「アメリカン・バンド」は「ロコモーション」のように力強く海を渡ったが、「インサイド・ルッキングアウト(孤独の叫び)」を続け、最後は「ハート・ブレイカー」になった。
 『アメリカン・バンド』のジャケットはゴールドに黒い文字でタイトルとグループ名が記されているのみ。
あくまでもシンプルである。

2006年12月28日
花形
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by yyra87gata | 2012-12-24 12:45 | アルバムレビュー | Comments(0)
 時は1980年。ちょうどロックも曲がり角にさしかかっていた時分のことだ。
なぜなら、この年、ツェッペリンのジョン・ボーナムは死亡し、バンドは後に解散を表明したし、パープルはリッチー・ブラックモアの脱退が響いて人気は低迷し、解散(1976)。エアロスミスに至っては、看板ギタリストのジョー・ペリーの脱退が響き、発表されたアルバムは酷評。時代錯誤のハードロックと揶揄され、メンバーはドラッグ漬の日々だったとか。
世界中の音楽界はテクノが席巻し、ポリスやコステロといったニューウェイヴの時代に移っていった。アメリカの歌姫であるリンダ・ロンシュタットやポール・マッカートニーでさえ、ニューウェイヴの波に飲まれた。そして、リズムマシーンと打ち込みの時代に突入し、ドラマーは失業して行ったのだ。
無味乾燥なリズムは、新しい時代を表現したかもしれないが、僕の耳には平坦な音の繰り返しに過ぎなかった。

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 そんな時代に敢えてソフトロックの範疇から一人アーティストがデビューを飾った。
クリストファー・クロス。
デビューアルバムは、『CHRISTOPHER CROSS』(1980)邦題:南から来た男。
大物ゲストの参加で話題になった新人のデビューであった。ギター・ソロにラリー・カールトン、ジェイ・グレイドンなど。コーラスでは、ニコレット・ラーソン、マイケル・マクドナルド、ヴァレリー・カーター、ドン・ヘンリー&J・D・サウザー・・・。
プロデューサーがエア・プレイ系でなく M・オマーティアンというのも意外だった。
但し、参加メンバーの名前を見るだけで、音が聴こえてくるようだが、一番驚いたことは、C・クロスの歌声だ。風貌とは似つかない声が意外性を生んだ。頭髪の薄いちょっと太った年齢不詳の男がいきなりボーイソプラノで爽やかに歌い、ひとたびギターを弾き始めれば、バリバリ弾きだす。意外の連続であった。
 当時の最先端だったアクティブ・ピックアップEMGを搭載したバレー・アーツのギターで速弾きを決める。ちょっと出たお腹にギターを乗せ、弾きまくる。C・クロスは、バークレー卒業ということもあり、ギターの腕前も基礎に忠実な運指を見せた。スタイル的にはちっとも格好良くないのだが、ついついMTVでは、彼の姿(指)を見入ってしまう。

 このアルバムは、グラミー賞でロックやフォーク、ジャズ、クラシックなどのカテゴリー枠を超えた全ジャンルの作品が対象である「最優秀レコード」、「最優秀アルバム」、「最優秀ソング」、「最優秀新人」の主要4部門を総なめにしてしまった。1958年からはじまるグラミー賞の長い歴史の中でその4部門を独占したアーティストはクリストファー・クロスだけである。

 僕はこのアルバムを聴くたびに、あの頃の時代を感じるのだ。アレンジや曲調ははっきり言って驚くほどスタンダード。奇をてらったものは無く、むしろ正統派のAORである。その作品がニューウェイヴの中で輝いていたのかな、と。カミソリのような鋭いビートが街にあふれる中、落ち着いたポップスが人々の安息の地になったのか・・・。
このアルバムの後、C・クロスは映画《ミスター・アーサー》のテーマソング「ニューヨーク・シティ・セレナーデ」をヒットさせ、これは日本でも大ヒットした。
 僕は1986年の彼のライブに行ったことがあるが、相変わらずの美声がよみうりランド・イーストの野外ステージから夏の夕空に響き渡った。目を閉じて聴くと心地よいが、どうもあの風貌で歌われてもなぁ、なんて思ってライブを観ていたが、ステージにかける真面目な姿勢には好感が持てた。
ラストソングの「Ride Like The Wind」では、ギターが壊れるんじゃないかと思うほど弾きまくっていたが、体をのけぞらせていても運指はしっかりクラシックギターのようにしっかりしていた。
けっして取り乱さず、収まりの良いショーだった。カップリングでその後登場したグレン・フライのアメリカンなライブが、ダルに見えた。同じアメリカ人でこうも違うか、といった感じ。

 最近、C・クロスの話題を耳にしないが、元気に歌っているんだろうか。相変わらず太っているんだろうか。

2006年12月8日
花形
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by yyra87gata | 2012-12-24 12:41 | アルバムレビュー | Comments(0)

『BIG WAVE』  渡辺美里

 1985年6月15日。東京国立競技場では全国の民放各社の協賛による“All Together Now”が開催された。
はっぴいえんどやサディスティック・ミカ・バンド(ヴォーカルはユーミン)の再結成やオフコース、チューリップ、こうせつ、さだまさし、イルカなどのベテラン組。吉田拓郎は司会も勤めた。
若手の中では、山下久美子と白井貴子が同じステージに立ち、佐野元春、サザンオールスターズがトリをつとめた。他にもチェッカーズやアルフィー、ラッツ&スター、アン・ルイスなどが出演。総勢約50組のアーティストが一同に会したイベントだった。
その伝説的なイベントの中に同年5月にシングルデビューしていたシンガーがいた。しかし、このイベントでは、彼女の名前はパンフレットにも載らず、誰も彼女のことを認識していない。
彼女とは、白井貴子のバックコーラスというポジションを与えられた渡辺美里である。
しかし、彼女のコーラスは目立つことなく、5万人の観衆の声に消されていた。

 美里に転機が訪れたのは、やはり小室哲哉作曲の「My Revolution」との出会いだろう。
デビュー時からライブハウスでは話題になっていたものの、今一歩のところだった彼女が、この作品でオリコン1位を記録した。「My Revolution」は、テレビドラマ「セーラー服通り」の主題歌としてタイアップされ、ターゲットが見事にはまった。1986年1月のことだ。
美里は同時期に全国18ケ所19公演のコンサートツアーを開始する。“19歳の秘かな欲望”と題された。そしてこの年の夏、西武球場での伝説のスタジアムライブが開始された。
このスタジアムライブは2005年まで20年続く大イベントとなった(今年は球場を離れ、"山中湖シアターひびき"のこけら落とし公演としてイベントが行なわれた)。
 
 僕が渡辺美里の歌声を生で聴いたのは、今まで2回。しかし、“All Together Now”は、印象など全く無いし、1993年泉谷しげる提唱により開催された武道館公演“日本を救え”(奥尻島・雲仙普賢岳のチャリティーコンサート)の時も、彼女は大勢の中のひとりだった。
つまり、渡辺美里の単独ライヴを生で観たことが無いのだ。
 単独公演を生で観ると全然迫力が違うということは、テレビやLDの中で見た時のグルーヴで感じ取ることができる。歌の上手さは昔から定評があるし、表現力のある声は彼女の魅力だ。昭和と平成をまたいだ実力派ヴォーカリストの一人だ。
 
 そんな美里のアルバムの中で僕は『BIG WAVE』(1993)を推す。美里のアルバムの中では埋もれがちになるこの作品は、ロック色が強く、バンドが生み出すグルーヴと美里のヴォーカルのせめぎ合いが実にスリリングな出来になっている。
1曲目の「ブランニューヘブン」からエンジン全開。2曲目の大げさなインストはロックコンサートの始まりを予感させる。その後はラストまでコンサートを体験しているような感覚に陥る。非常に曲順が気持ち良い。
美里の主要な曲を作る作曲家といえば奇才・岡村靖幸。アップビートからスロウまで、僕たちを楽しませてくれる。彼が歌う作品は何を言っているかわからない、という人も美里の歌になった瞬間ファンになることも多いという。靖幸ちゃんごめん。
岡村靖幸の作るメランコリックな8ビートロック「BIG WAVEやってきた」やアフロビートを強調した「ジャングル・チャイルド」などは、美里のヴォーカルがいくつも表情を変える。また、小林武史も曲を提供しており、当時は仰々しいアレンジと思った作品だったが、今聴いても古さを感じさせないところは見事である。
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 アルバムを最近聴きなおして、1993年の西武球場公演を観ておけばよかったと13年経って思う今日この頃である。

2006年11月9日
花形
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by yyra87gata | 2012-12-24 12:16 | アルバムレビュー | Comments(0)
 僕はギブソンのアコースティック・ギターを購入しようと思ったことが何度かある。拓郎やジョン・レノンが使っているところを見て単純に格好良いと思ったし、色艶もよくアメ色に輝くジャンボギターを抱え、シャウトするミックなんか見ていると喉から手が出るくらい欲しくなったものだ。しかし、最後の最後にギブソンのアコースティック・ギターに手が出なかった理由は、いくつかある。
ギブソンのアコは、前述の通りシンガー向きなんじゃないか、ということ。
そういえばギタリストでギブソンのアコを好んで使う人ってあまりいない気がする。
日本人では、吉川忠英や佐橋佳幸、チャボなど数えるくらい。(ギタリスト向きではないのかなぁ)
そして、
「ギブソンのアコースティック・ギターは、当たり外れの差が激しいのであまりお勧めできませんねぇ。でも、ジャキジャキとカッティングをした時の快感はギブソンでしか味わえませんよ。」
「ネックが細いからエレキギターを弾いている人からアコに移る場合は好評ですね。」
「見た目が派手ですからステージング向きですね。」
・・・すべて行きつけの楽器屋さんの言葉。
確かにマーチンと比べると恐ろしく雑に作られている気がする。テキトー。
でも、先ほどの楽器屋さんの言葉で、ギブソンでしか味わえない快感の音というところは、同意する。

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 ギブソンJ50というサイド&バックがマホガニーで形成された有名なモデルの極上の音を堪能するなら、ジェームス・テイラーの『スィート・ベイビー・ジェームス』(1970)を聴くべき。
ストローク、アルペジオ、カーター・ピッキングなどどんな弾き方をしても、ギブソンJ-50の音が心地よく響く。低音がちょっとつぶれ、自然とコンプレッサーがかかったような音。高音はシャリシャリと軽い。
この音に魅了されたミュージシャンはたくさんいるだろう。
ジェームス・テイラーの落ち着いたヴォーカルが、1970年代初頭の疲れきったアメリカを癒す。
そう、あの頃はみんな疲れきっていたのだ。歌は内省的になり、内へ内へと発信の矛先を変えていった。そんな私小説のような作風にファットな音よりも、軽い乾いた音がマッチした。
ジェームス・テイラーの朴訥としたヴォーカルが、フォークともカントリーともいえない雰囲気を醸し出していた。
 ベトナムや公民権で揺れ動くアメリカでは、メッセージ性の無い音楽は認められなかった時期があるという。しかし、ジェームス・テイラーやキャロル・キング、ジャクソン・ブラウン、ジョニ・ミッチェルといったアーティストを好むファンは、メッセージ性がなくとも日々の生活や人物描写に優れ、音楽的に高度であれば、その作品を評価した。これがシンガー・ソングライター・ブームである。
 『スィート・ベイビー・ジェームス』の中にジェームス・テイラーの実体験を基に制作された「ファイヤー・アンド・レイン」という作品がある。この作品は、彼が重度の心身症で長期療養していた時代にそこで知り合ったガール・フレンドが、後年亡くなった事を知った際に作られたもので、
“僕は炎や雨をくぐりぬけてきた…でも、また君と会える日を夢見てきた”
それは、彼女の死がまるで自分の責任とも言わんばかりに歌い上げる。
こういった内省的な部分は、誰にもあることで、その共感が彼の作品の評価になった。

 ギブソンの特徴的な乾いた音が、心に響く。そんなアルバムである。

2006年10月30日
花形
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by yyra87gata | 2012-12-24 12:14 | アルバムレビュー | Comments(0)
~CCRの風景~
 あの日の自分に逢うために、僕は足を速めた。
忘れかけていた記憶が少しずつ甦り、あの時代を感じることができる場所の前に着いた時、店の中からは懐かしい音楽が流れていた。
あの日の友と別れてからもう20年以上も経っていた。
その友から突然の連絡。どこで調べたのか、電話の向うに聞こえる友の声は、ちょっとだけ年輪を重ね、ハスキーになっていた。

 「最近、どうよ。」彼の口癖は20年前と一緒だ。
当時と変わらないヘアスタイルに白髪が交じり、顔には年輪に不相応なシワが刻まれていたが、時々見せる“えくぼ”はあの時のままだ。
その日僕たちは、深夜まで語り合った。僕と彼とは、中学と高校そして何にも属さなかった2年間、合わせて8年間を過ごした。その後、彼はアメリカに渡り、音信が途絶えた。
そんな彼との思い出話は1日という時間では語りつくせない。
BGMはあの頃のアメリカンミュージックが流れていた。

 店にあったギターを鳴らし、2人で当時の歌を歌う。
CCRは彼の十八番だった。
ジャキジャキとカッティングを響かせながら、ジョン・フォガティのように声をつぶしながら歌う。
彼は、アメリカ人になりたいと言っていたことを一緒に歌っている時、ふと思い出した。
アメリカに渡ってグリーンカードをもらって、向うで生活したいとよく言っていたのだ。
グリーンカードは今、彼の手の中にある。
CCRの明るい歌が店内に響いた。

 1960年代後半から1970年代前半の短期間、CCRはアメリカンロックの頂点に立ち続けた。シンプルな演奏とカントリーミュージック、スワンプ・ミュージックを基調としたロックはアメリカ人の琴線に触れ、大ブームになったバンドだ。
シンプルな詩と音がストレートに届く。そして、音楽が歴史に意味を持たせることができた時代に花開いたバンドのひとつだ。社会派とも言われ、ただのガレージバンドではなかった。

 彼の歌声は止まらなかった。
「プラウド・メアリー」「スージーQ」「ルッキング・アウト・マイ・バック・ドア」・・・。
ひと通り歌い終わって、一息入れた時、彼は口を開いた。
「俺、手術するんだよ。胃癌らしい。来月あたり・・・。どうなるか、わからないじゃん。だからこうやって会いにきたってわけ。また、来月電話するよ。」
そして、見送られることを拒否し、彼は店を出て行った。

彼と別れた後、店のBGMはCCRの『ペンデュラム』(1970)が流れ始めた。
店のマスターは涙をこらえていた。
アルバムの中の「雨をみたかい」のフレーズ。

「俺は知りたくもない  そんな雨を見たことがある奴のことなんて
 俺は知りたくもない  そんな雨を見たことのある奴のことなんて
 晴れた日に降る雨のことなんて・・・」

ここに歌われている「雨」はベトナム戦争のナパーム弾のことを指しているが、
今の僕とマスターには、彼を襲う「病魔」に聞こえた。


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2006年9月29日
花形
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by yyra87gata | 2012-12-23 11:00 | アルバムレビュー | Comments(0)