人気ブログランキング |

カテゴリ:音楽コラム( 123 )

d0286848_16550856.jpg

 

 私はピアノが弾けない。これは、音楽を嗜好する私にとって長年のコンプレックスである。エレクトーンは10年以上も続け、それなりにできるようになったが、同じ鍵盤楽器でもピアノとエレクトーンは全然違う。エレクトーンを始めた7歳の頃の自分に戻れるなら、エレクトーンではなく、ピアノを・・・と今なら言うだろう。

ビル・エヴァンスのようなピアノを聴くと尚更その想いが募る。

ビルのタッチは絶対に電子音楽では表現できないものであるし、その丁寧な旋律や奏法など彼独自の世界がピアノから満ち溢れてくる。

当然ビル・エヴァンスのように弾くことはできないが、少しでもピアノに触れていれば、彼に近づきたいという念が出てくるのは自然ではないだろうか。

 横浜の小さな映画館でビル・エヴァンスの映画「タイム・リメンバード」(2015)を観覧した。ビル・エヴァンスの日常と音楽観を多くの証言と彼自身のインタビュー(生声)を元に編集したドキュメンタリー映画である。

演奏シーンも断片的にではあるが、数多く収録されており、時代性からしても全体的にモノクロ画像が多い中、編集の妙で全然飽きることなく最後まで画面に釘付けになった。ビル・エヴァンスのピアノプレイに全てが語りつくされている、そんな作品だ。

映画のキャッチコピーは、

「美と真実だけを追究し、他は忘れろ」

「時間をかけた自殺」とも言われた“ジャズピアノの詩人”51年の人生と魂の音楽。

言葉が出ない・・・このキャッチコピーに全て言い尽くされている。

ビルの生き様だ。

 私はマイルスの『カインド・オブ・ブルー』(1959)で初めてビル・エヴァンスを知った。このアルバムは、それまでのビバップのジャズから進化したモード奏法への変換点となったアルバムとして評価も高い。コード(和音)ではなくモード(旋法)による音の構築。簡単に言うと全体的に落ち着きも盛り上がりも無く、どこか浮遊している音楽がモード・ジャズを表現するに適していると思うのだが、ビル・エヴァンスのピアノがまさにそれだった。

 私はこの作品を初めて聴いたのが1980年(発表から20年以上も経っている)。当事の世の中はテクノ全盛で、音の塊がどこかギスギスしており、アナログサウンドからデジタルに移行し始めた頃だったので、音楽そのものが音の洪水状態に陥っていた。

そんな時、そういう騒がしい音楽の中でもピアノの音だけは反比例するかのようにシンプルに聴こえてくることがたまにあり、そのことについてピアノを弾く友人に聞いたことがあった。

「ビル・エヴァンスに影響を受けたプレイヤーじゃないか」

なるほど、坂本龍一はビル・エヴァンスをフェイバリット・プレイヤーにあげているし、ビル・エヴァンスは、ピアノプレイヤーなら意識する存在なのだな、ということをその時初めて知った次第だ。そうなるとマイルスのアルバムよりビル・エヴァンスを聴き漁る日々となり、ジャズの何たるかなどは無視し、彼の多様な音楽性、特にポール・モチアン(ドラム)とスコット・ラファロ(ベース)とのトリオアルバムは外れがないことを知ることになる。
そして突然すぎるお別れ。

 1980915日に肝硬変で死去。

出会ったばかりでいきなりいなくなってしまった喪失感。ちなみにその10日後にはレッド・ツェッペリンのジョン・ボーナムも突然の鬼籍入り。

とにかくビル・エヴァンスの物悲しい旋律が妙に響く秋となった。

 映画は本当に良くできた作品だった。

インタビューに応えるミュージシャンや親族などみんなビル・エヴァンスが好きで好きでたまらないという印象。

「彼は自分の音をもっている」

「朝、目覚めたらすぐにピアノに向かって弾き始めるんだ」

「彼は兄を慕っていたし、兄も弟のビルを守っていた・・・」

「マイルスのバンドは黒人ばかりだ。そんな中に白人のビルだけが入ってジャズプレイをすることの大変さ・・・相当辛い思いをしたんじゃないか・・・客が何故白人がいるんだ!って怒る。俺たちはマイルスが選んだんだよ・・・っていうと黙ったけどな」

そしてビル・エヴァンス本人が「ジャズは人生の中心。もっとも重要なものだ」と語る。

 名曲「ワルツ・フォー・デビー」の作詞者で音楽評論家のジーンリースは「彼の生涯は世界で最も時間をかけた自殺のようなものだった」と語った。

病におかされ、死の5日前までライブを続けたビル・エヴァンス。指が腫れ上がっても演奏を止めず、鬼気迫るプレイだったと後年語っている。

そんな音楽に取り憑かれた天才の生き様を体感して欲しい。

2019/5/14

花形


by yyra87gata | 2019-05-14 16:58 | 音楽コラム | Comments(0)

献杯 ルパン三世


 
d0286848_15242719.jpg


 ルパン三世の生みの親であるモンキー・パンチが亡くなった。

ルパンの声優だった山田康雄が亡くなった時もルパンはこれからどうなるのか、なんて話があったが、原作者がいなくなったら新作はないのかね。
それとも「サザエさん」のようにキャラクターが生き残って永遠に続くのかね。

 それはそれとして、私の世代はルパン三世の真っ只中の世代で、エメラルドグリーンのジャケットの初代ルパン三世の頃から見てきている。
映画にしろドラマにしろ最初のシリーズが一番インパクトがあるもので、その後のルパン三世にはあまり興味がなく、多くの方がベスト作品にあげる映画「カリオストロの城」は、ルパンの顔がジブリの丸顔で妙な気分だったし、山田さんが亡くなった後の栗田貫一の声に至っては、モノマネじゃねぇかという事で真剣に見ていない。
アニメは、長年続いていると声優が歳を取るので交代することがあるが、キャラクターにイメージがついてしまうから中々慣れることができないのだ。
特に峰不二子は、初代の二階堂有希子が一番良かった。それ以降の増山江威子はちょっとコミカルになってしまう。
これは、もともとルパン三世が青年漫画「漫画アクション」の連載漫画ということもあり、第1期のルパン三世はその色が濃かった。だから、テレビ漫画としては理解されず、視聴率も伸びなかったそうだ。しかし、再放送放映料が安い事で、日本テレビが幾度となく放映を繰り返していたら人気に繋がって第2期シリーズ(ルパンのジャケットが赤ね)の誕生となった。もちろん同じ間違いはできないので、脚色もテレビ用にして峰不二子のお色気シーンもコミカルになっていったということだ。
原作に近い第1期シリーズとはインパクトが違うのだ。

 映画ではルパン三世の実写版もある。
最近では2014年に小栗旬がルパンを演じた劇場版が制作された。まぁこのキャストが酷い。
小栗旬はまだしも、スレンダーな黒木メイサが峰不二子だったり、綾野剛の五ェ門って舐めてんのかってくらいイメージが違う。
1974年には「ルパン三世 念力珍作戦」という実写版があった。
当時は超能力ブームでユリ・ゲラーがスプーンを毎日曲げていたからルパン三世も便乗したと思われるこの作品。この頃「ノストラダムスの大予言」や「日本沈没」がベストセラーとなっており次々と映画化され、「ルパン三世 念力珍作戦」も映画「ノストラダムスの大予言」と併映だった。だから超能力ブームやオカルトブームに合わせたのだろう。
小学生の時に友達と連れ立ってこの映画を観に行ったが、ルパン三世役の目黒祐樹がいかにも詐欺師という顔。でも顔に緊張感がないので、どこのオヤジだよ、という感じで見ていた。加えて次元大介は田中邦衛だよ。もう、全然違うでしょ!
伊東四朗の銭形警部ってのが、唯一の救いか?
 峰不二子は知らない女優だったけど妙にイロっぽいから良かったのかもしれないが、とにかくルパンと次元の顔に慣れるころには物語が終わってしまうという感想。なんで作ったのかわからないくらい内容が無かった。
小学生低学年で私は漫画(あの頃アニメなんて言葉はなかった)が実写映画になるとつまらなくなるという事を知り、その事は未だに間違いではないと思っている。
d0286848_15251965.jpg

 ルパン三世のテーマソングは何と言ってもチャーリー・コーセイの歌う「ルパン・ザ・サード」。
物語挿入歌も数曲あり、歌詞とも言えないスキャットはチャーリー・コーセイの気だるい歌い方が良い。作曲家、山下毅雄の曲に次々とチャーリー・コーセイはアドリブで英語のフレーズを乗せたという。レコーディングもほぼ初見の譜面で、次々と進められていったようでかなりスリリングである。
   ルパン三世という日本でいうところのネズミ小僧次郎吉のような反体制の悪党は庶民から支持され、正義の味方なのか盗賊なのかわからない立ち位置が緊張感も含め、気だるい音楽という化学反応を起こしたのではないか。
妙に明るくもなく、ロックビートのような頼もしさもない。
あるのは明日の見えないアウトローな音である。

 やはり、テレビアニメにしても実写版にしてもキャラクターが変わってしまいすぎて、初代を好む私としては、今のルパン三世のテーマソングよりチャーリー・コーセイのルパン三世で献杯。

2019年4月17日
はながた

by yyra87gata | 2019-04-17 15:26 | 音楽コラム | Comments(0)

   

d0286848_20200674.gif

   2018年12月19日に偉大なるベーシストであるジョー・オズボーンが鬼籍に入った。

81歳であった。

晩年は膵臓癌との闘いだったそうだ。

山下達郎のラジオ番組「サンデーソングブック」でも追悼特集が組まれていたが、アメリカ近代音楽の中でも、とても重要なミュージシャンであった。

レコーディンググループ「レッキング・クルー」において数々のミュージシャンとのレコーディングは、ビルボードTOP40に200曲以上もランキングされ、レコーディング曲数も数千曲に及ぶという。

まさにスタジオミュージシャンの神である。

 

  同世代のハル・ブレイン(ドラム)、ラリー・ネクテル(キーボード)とリズムセクションを組み「ダンヒル・リズム・セクション」と名乗り、数々のレコーディングを行なう。

デビュー間もないカーペンターズのサポートから大ヒット曲「クロース・トゥ・ユー」のプレイ。サイモン&ガーファンクルの大ヒット「明日にかける橋」やその他もアソシエイションやママス&パパス、アメリカなど60年代から70年代のアメリカサウンドの核を創った功労者である。

 

 私がジョー・オズボーンとハル・ブレインのリズムセクションを意識したのは、フィフス・ディメンションの「アクエリアス~レット・ザ・サンシャイン・イン」(1969)である。

この曲は1968年のブロードウェイミュージカル「ヘアー」の主題歌として有名であるが、私の高校時代に「ヘアー」の映画が製作され、話題になった。そしてこの映画を見たことで、私の中に化学反応が起き、それからどっぷりとヒッピーの世界に入り込んでいった思い出の曲なのだ。


 最初は圧倒的なコーラスワークとその歌詞に惚れ込み、フィフス・ディメンションの声ばかり聴いていたが、よくよく後ろのリズム隊に耳を傾けるとなんと表情豊かなサウンドか、と姿勢を正したものだった。

黒人コーラスグループ特有の張りのあるヴォーカルは決して演奏に埋もれることが無いので、ハルもジョーも思いっきりドライブしたグルーブが出せたのだと思う。それは、カーペンターズアソシエイションのリズムとは明らかに違う表情を見せているのだ。

そして「アクエリアス~レット・ザ・サンシャイン・イン」の完成度は、このミュージシャンたちでなければ出来なかったであろうと思うくらいの高揚感がある。

   ディストーションなんて要らない。ツインバスドラも要らない。ベースのフレーズとドラムのコンビネーション、そしてソウルフルなヴォーカルだけで十分だ。

   この曲は高校時代の私のバイブルで、今でもシングル盤をターンテーブルに良く乗せる。

そして私はこの曲が好きすぎて自分の結婚式の退場の音楽に使った。

   厳かに両親への花束を贈り、挨拶をし、列席のお客様をお見送りする時にスピーカーから怪しげなイントロが・・・。

「ウェンザムーン イズ・イン・ザ・セブンスハーウス」なんて流れたから、知っている人はびっくりしただろう。ま、結婚式には絶対流れない歌だろうね。

奥さん、よく許してくれたよね。

あの当時、みんなホイットニーとかドリカムとか流していたからね・・・。


d0286848_20203893.gif


Aquarius ~Let the sunshine in

 

When the moon is in the Seventh House

And Jupiter aligns with Mars

Then peace will guide the planets

And love will steer the stars

This is the dawning of the age of Aquarius

The age of Aquarius
Aquarius! Aquarius!

Harmony and understanding

Sympathy and trust abounding

No more falsehoods or derisions

Golden living dreams of visions

Mystic crystal revelation

And the mind's true liberation

Aquarius! Aquarius!


Let the sunshine,

Let the sunshine in

The Sunshine in

Let the sunshine,

Let the sunshine in

The Sunshine in


 

アクエリアス(輝く星座)~レット・ザ・サンシャイン・イン

 

月が第7宮にあり 木星が火星と直列となるとき 

そのときこそ、平和が惑星たちを導くことだろう

そして愛が星々の舵を取るのだ

いまは水瓶座の時代の夜明けのとき

水瓶座の時代だ

アクエリアス! アクエリアス!

調和と理解と

共感と信頼が満ち溢れる

インチキやまがいものはもうおしまいだ

光り輝く活き活きとした夢の光景

神秘的で筋道がしっかりとある黙示

そして心の真の解放

アクエリアス! アクエリアス!


陽の光を

太陽の輝きを差し込ませよう

陽の光を僕らの中へ!

太陽の輝きを

陽の光を入れるんだ!

さぁ!太陽の光が差してくるぞ

 

 

ジョー・オズボーンさん、輝く星座に還ってブイブイ弾いてください。

 

2019年1月31日

花形


by yyra87gata | 2019-01-31 20:15 | 音楽コラム | Comments(0)

中学性音楽日記


d0286848_12123057.jpg


 中学生の頃って本当に性について興味津々だったわけ。
そりゃそうだよね、そういう年頃なんだから。

だから、ちょっとでもエッチなテレビや写真などに反応してしまい(昔は深夜番組に限らず、おっぱいがテレビから流れていたんだよ)、それはすぐに学校で話題になっていた。

そんな時だよ、友達のU君が血相を変えて1枚のアルバムをもってきた。

「兄貴のレコード棚に、こ、こ、こんなものが!」

スコーピオンズの『狂熱の蠍団 ヴァージン・キラー』(1976)!

なんとも言えないジャケット。中学1年の私たちはアワアワと言葉にならない言葉を繰り返すのみ。

ま、そこからスコーピオンズを聞き始めるきっかけにはなったんだけど、何ともねぇ。

後日、アルバムを購入し、家で聴く時も親の目を気にしたりして・・・エロ本と同じ感覚だ。


 そして、そうこうしているうちにテレビから下着姿のお姉ぇちゃんが股を広げて歌っているやないですか。

そうです、ランナウェイズの登場です。

『悩殺爆弾〜禁断のロックンロール・クイーン』(1976)。

凄い邦題だね。悩殺爆弾って・・・。

ヴォーカルのシェリー・カーリーがコルセットとガーターベルト姿で股を広げて

「チェチェチェチェチェチェチェチェ・チェーリ!ボーム!」って叫んでんのよ。

なんだか中学生のアタシは正視できなかったのよね。

思春期でもあり、女の子と話すこともだんだん意識し始める時に、いきなりランナウェイズの悩殺爆弾はいかんだろ。

d0286848_12130051.jpg

そういう時って、音楽好きの友達はいろいろと話を持ってくるのよ。例えばアタシが吉田拓郎を好きになったきっかけのひとつに『青春の詩』(1970)ってあるのね。

「お前、拓郎が好きとか言ってな。これ知ってるか?」といって友達が『青春の詩』のシングル盤を貸してくれたわけ。

ま、面白い歌で、

「喫茶店に彼女と二人で入って、コーヒーを注文すること あーそれが青春」

「繁華街で前を行くイカシた女の娘を ひっかけること  あーそれが青春」

といったC調の歌詞や

「飛行機のっとり 革命叫び 血と汗にまみれること   あーそれが青春」

「フォークソングにしびれてしまって 反戦歌を歌うこと あーそれが青春」 

という時代を反映した歌詞もある中で

「セックスを知り始めて大人になったと 大喜びすること あーそれが青春」

といった若者のホンネの部分を包み隠さず歌ってしまっていて、そういうところに人生経験の浅い中学生は衝撃を受けてしまったりしたわけ。

 あー、もう歌詞に書いてあるんだから声を大にして歌っていいんだ、なんて思ってしまい、セックスなんてしたことないのにわかったような顔して大声で歌うという、今から思うと恥ずかしい体験もしたわけでありますな。


音楽と性という結びつきは、歌詞の意味がダブルミーニングだったりすることがよくあるパターンなんだけど(ストーンズとか得意だね)、中学生のアタシは即物的というか本能というか、「女の裸=スケベ」なんて具合に行っちゃうからわかりやすいったらないね。

みんなも国語辞書で意味も無くスケベな単語を調べたことあるでしょ、あんなもんよ。

だから、スコーピオンズもランナウェイズも拓郎も未だに好きだもん。

d0286848_12134791.jpg

で、最後にブラインド・フェイスね。


『スーパージャイアント』(1969)。


これはエリック・クラプトンがクリームを解散して、スティーブ・ウィンウッドやジンジャー・ベイカー、リック・グレッチと組んだバンドで、「マイ・ウェイ・ホーム」とか「プレゼンス・オブ・ザ・ロード」などといった名曲が収録されているんだけど、これもまた凄いジャケットでね。

ま、親と一緒に聞けない部類のやつだったね。

で、こういう類のアルバムジャケットでキャーキャー言ってた中学時代でしたが、高校生になり都心の輸入盤屋などに行くようになると、ソウル系やブラコン系などのジャケットはそんなんばっかなのね。で、スコーピオンズやブラインド・フェイスのようなロリータではなく、大人の女の人なのよね。でもって、艶っぽい。


それからは、ブラックも聴くようになるというわかりやすさ。

あー、女の人に支配されてきた音楽人生なのでありますな。


わかりやすい。


新年1発目がこれでいいのか・・・。


2019122


花形


by yyra87gata | 2019-01-22 12:18 | 音楽コラム | Comments(0)

d0286848_11200489.jpg

 私は1991年12月に結婚し、新婚旅行はブラジルに行きました。
当時、日本ではまだJリーグも発足されておらず、ブラジルが今ほ
ど身近な国ではありませんでした。

せいぜいF1のアイルトン・セナが有名で、一般的にはコーヒーの産地とかプロレスのアントニオ猪木が幼少の頃、移民として渡った国、という印象。また、「未来世紀ブラジル」なんてSF映画もあり、果てしなく遠く、本当に地球の裏側はあるんだね、なんて印象でありました。
では何故ブラジルを選んだのか。
それは、家内の一言です。
リオに行きたい。サンバを見たい。解放的な国に触れてみたい。という単純なもの。
そして、どうせ行くなら日本人がいない場所に行きたいと・・・。

ブラジルは日系の人も暮らす国なので日系2世の多いサンパウロは選ばず、リオ・デ・ジャネイロとアマゾン川の中域に位置する都市マナウスの2都市を選択しました。
 リオは、コパカバーナビーチやコルコバードの丘(キリストの巨大な像)、サッカーの聖地マラカナンスタジアムなどがあり、どこを訪ねても日本人の若い男女が来たということで珍しがられました。
 マナウスはリオから国内線で4時間ほど北上します。アマゾネス州に属し、アマゾンのジャングルの中に位置する都市で19世紀には天然ゴムやジュート、コーヒー豆で栄えました。スペインやポルトガルからの移民が多く、市街地にはコロニアル設計の建物が並びます。そして、ここがジャングルの中にあるということを忘れさせるくらい近代的な都市でした。

その中のホテル、トロピカル・マナウスでの出来事。

トロピカル・マナウスはマナウスの中で一番高級なホテルで、5つ星のホテルです。

宿泊客も欧米からのリゾート客が占めており、年齢もリタイヤした老夫婦やビジネスで成功を収めた人といった感じの方が多く、私たちのような東洋の20代のカップルがいる場所ではありませんでした。しかし、物珍しげに接してくる彼らと話しているうちに打ち解けて来て、すぐに和やかな雰囲気になりました。こういったところもラテン系の良いところかもしれません。

ディナーはプールサイドでした。

ブラジルの美味しい肉を使った料理と強力なアルコール度数のピンガというラム酒で気分も良くなります。BGMはクラッシックギターの生演奏。とても落ち着いた雰囲気でありました。

年老いたギタリストはなにやら言葉を発し、ある曲を演奏し始めました。

クイーンの「LOVE OF MY LIFE」です。

静かなイントロから徐々に盛り上がる曲の構成。いつの間にか、私は口ずさんでいました。

そして、周りを見ると他の客も歌い始めているではありませんか。

歌詞カードなど配られていないのに。そのうち給仕しているウェイターやウェイトレスも呟くように歌っているのがわかりました。

クイーンは南米で大人気のグループです。特にフレディー・マーキュリーは南米人の好みの顔だそうで、短髪に髭、姿勢が良く、マッチョな姿で歌が上手いときたら100点満点の男なわけです。

そして、その日は、フレディーが亡くなって1ヶ月後のクリスマスの日だったのです。

ギタリストは続けて「SOMEBODY TO LOVE」を情熱的に弾いています。

神に祈る人、涙声で歌う人・・・

ポルトガル語で話していたので、正確なことはわかりませんが、フレディーを亡くした悲しみと追悼の意を表現していたと思います。

とても感動的なディナーでありました。

食事を終え、私はギタリストに歩み寄り“It’s a good performance! I love QUEEN.”と笑顔で伝えると、

ギタリストはしわくちゃの笑顔でうなずきながら、

Another One Bites the Dust”(地獄へ道連れ)のリフを弾いてくれました。

私は笑いながら天を指し、

Another One Bites the Heaven”と歌ったら大笑いしていました。

南十字星が光り、フレディーが亡くなったことを実感した夜でありました。

d0286848_11220809.jpg

2018/12/14(明日が27回目の結婚記念日だ・・・)

花形


by yyra87gata | 2018-12-14 11:24 | 音楽コラム | Comments(0)
d0286848_17551416.jpg


「グレイテスト・ラブ・オブ・オール」を初めて聴いたのは中学時代、モハメッド・アリの伝記映画「アリ/ザ・グレーテスト」(1977)を観覧した時のこと。映画の主題歌としてジョージ・ベンソンが仰々しく歌い上げており、華々しく最強の男を称えていた。作曲はこの映画の音楽を担当したマイケル・マッサー。

シャープで激しい戦い。予告KOで仕留める。

蝶のように舞い、蜂のように刺すとはよく言ったもので、モハメド・アリの戦い方は常にドラマチックだった。そして、絶対的王者、まさにグレイテストな存在は当時の世界最強を誇示しており、その男にふさわしい伝記映画であった。

映画はアリが18歳の時、ローマオリンピックで金メダルを獲得してから1974年のアフリカ・ザイールでジョージ・フォアマンと戦った「キンシャサの奇跡」と呼ばれる伝説の闘いまでを追っている。

この映画でアリ本人がアリ役として出演しており、本人が本人を演じ、本人の言葉で語られている。・・・アリは誰と戦っていたのか・・・。

アリは誰よりも強かった。なぜならアリはボクサーとしてアメリカという国と戦っていたのだ。ボクシングでアメリカの人種差別と闘い、黒人の権利と環境、奴隷という立場の開放を訴え続けた男。

18歳でアメリカ代表としてオリンピックの舞台で金メダルを獲得しても、地元に帰ればカラードと蔑まされ、選挙権すらない。「人にあらず」という扱いを受けたことによる屈辱を何で返すかを模索した。

プロに転向し、発言権を得るために最強の男になっていく。自分の頑張りが黒人社会の向上になると信じて。しかし、アメリカはそんな面倒な男に対し強靭な黒人ボクサーを当て、黙らそうとする。白人に雇われた黒人ボクサーに立ち向かう黒人解放を訴える黒人ボクサー・・・。そして、アリは世界チャンピオンに輝くが、国は動かなかった。

ベトナム戦争が激化する中、アリにも召集令状が届くが、彼の答えはNO。そのために世界ヘビー級チャンピオンを剥奪されてしまう。

英語ネームのカシアス・クレイという名前を捨てたこともアメリカに対する不信感から起きたものと伝えられている。イスラム教徒であることを公表し、イスラム信徒名であるモハメド・アリに改名したことも世の中に対するテーゼであったのだ(その昔黒人奴隷には名前も無く、ファミリーネームは雇い主になっていた。だからクレイという名の元は自分とは一切関わりの無い白人ということ)。

アリはビッグマウスと言われるが、それも全て自分を追い込むためにやっていた業であると・・・。

「俺は最強の男だ!あいつを5回KOにしとめてやる」と言えば、試合までに必死に練習と努力を重ね、自分を律した。天才が陰で猛練習をするのだから弱いはずが無い。

 そんな彼の生き様が歌になったものが「グレイテスト・ラブ・オブ・オール」だ。

歌詞の端々にアリの精神が注入されている。

「私はどんなことがあってもくじけない。成功しようと失敗しようと、私は私の信じる道を行く。

誰が私の全てを奪おうとも、私の尊厳だけは絶対に奪えない。」

「誰もがヒーローを求めているが、私自身の心を満たしてくれる人はどこにもいない。それは、自分自身しかいないからだ。」

「世界で一番の愛は簡単に手が届く。それは自分自身を信じ、愛すること。」

黒人は当事「人ではない」ので、自分自身を愛することも出来なかった。黒人総鬱状態だった。鬱だから、みんな背筋も曲がり、小さな声で否定的なことしか言わない。そんな時代に声を大にして「まずは自分を信じ(白人に翻弄されずに)、自分自身を愛そう!」と叫ぶアリがいたのだ。

「グレイテスト・ラブ・オブ・オール」は1985年にホイットニー・ヒューストンがカバーした。華やかな歌声と「そよ風の贈り物」という邦題のアルバムも大ヒットし、デビューアルバムとしては史上最多の2300万枚を売り上げる作品となった。

その歌声にアリの精神を想起させる人が果たしてどれだけいたか。バックボーンも知らず、英語も良くわからない日本人は概ね「素敵なラブソング」という認識であろう。

アリの映画を観ていただけのことではあるが、ホイットニーの歌声を聴きながら昔ほど黒人差別は無くなったよ、と当時大学生の私は心の中で呟いていた。

追記。

1976年にアリは、アントニオ猪木と異種格闘技戦を行い、世界の凡戦と揶揄されたが、あの試合には副産物があった。

対戦後、猪木を称え、アリから猪木へ歌の進呈があったとか(諸説あり)。

その歌こそ「イノキ・ボンバイエ」である。

もともとは「グレイテスト・ラブ・オブ・オール」の作曲者であるマイケル・マッサーが制作した歌である「アリ・ボンバイエ」が元になっている。

映画「アリ/ザ・グレーテスト」のエンディングではジョージ・ベンソンが編曲しこの歌をバラードとして歌っている。

ちなみに「ボンバイエ」は、アリが南アフリカに遠征した際に現地民族の言葉で「やっちまえ!」。「アリ!ボンバイエ!」のコールがリングに木霊し、そこからあの歌の構想が出来たようだ。

d0286848_17553924.jpg

2018/11/1

花形



by yyra87gata | 2018-11-01 10:49 | 音楽コラム | Comments(0)
d0286848_08463954.gif

  ミュージシャンであれば、音楽雑誌「Player」という月刊誌をご存知だろう。創刊1968年というから今年で50年を迎える歴史ある雑誌だ。創刊当初は楽器店用の専門誌だったようだが、1973年あたりから一般化され1979年からは現状の中綴じスタイルの雑誌になったそうだ。

  私は中学時代からこの雑誌を不定期ながらも講読していた。目的はギターを弾き始め、楽器の情報が欲しかったことと、それまでの「MUSIC LIFE」誌の生ぬるい記事(外タレの明星とか平凡と言われていたからね)では飽き足らなくなり、硬派な(?)海外の音楽情報を知るニュースソースとして適していたからだ。 

  写真一つ取ってみてもアイドル的な笑顔が多いMUSIC LIFE」誌と比べるとPlayer」誌のそれはロバート・メイプルソープの撮るような刺激的なモノクロ写真であったり、日本ではマイナーなミュージシャンの掲載であったりと嗜好が異なっていた。

そして何よりも大人のミュージシャン向けと感じた「Player」誌の佇まいにしびれたのだ。

 

  私が中学3年の頃、学校の中でも購読している人間が増え始めた。ギターやベースを弾き始める時期と「Player」誌の一般化がシンクロしたのだ。そしてみんな食い入るようにジェフ・ベックリッチー・ブラックモアの「フェンダー・ストラトキャスター」を見るのだ。ジミー・ペイジジョー・ウォルシュの「ギブソン・レスポールモデル」を確認するのだ。

  それまでの「MUSIC LIFE」誌は笑顔のフレディー・マーキュリーやロバート・プラント、家族サービスをしているポール・マッカートニーといった人物にフォーカスされた写真が多かったので、ミュージシャンのライブ写真が多く掲載されていた「Player」誌は我々のハートを鷲づかみにした。

そして、我々の話で盛り上がるニュースはいつも中ほどにある「わら半紙色」のBillboardの「売ります、買います、メンバー募集」の記事であった。

  ギターを弾くものであれば、当時、フェンダー、ギブソン、マーチン、オベーション、BCリッチなど海外メーカーの楽器を手に入れるためにはこのコーナーが一つの解決策とされていた。

  当時の海外ブランドへの憧れといったら今の子供たちにはわかるまい。

  ギターヘッドのブランドロゴの威光は燦然と輝く。だから、当時の国産のメーカーはフェンダーやギブソンのロゴに似せたロゴデザインを作り、潔くなかった。また、弾く側もグレコやグヤトーンなどのブランドマークにフェンダーなどのシールを貼って自己満足に浸っていたのだ。

とにかく、当時の海外メーカーのギターやベースは「流通が少ない」「価格が高い」そして、「フェンダーやギブソンはプロが使うもの」といった妙な不文律が私の周りには存在していた。

 

  当時の中古楽器市場は、今の時代のようにネットで売買できるものはなく、中古楽器専門店もほとんど存在しなかった。中古楽器は、ヤマハ本店や石橋楽器、黒澤楽器のように規模の大きな楽器屋であればごくたまに並ぶこともあったが、期待できるような品揃えではなかった。

だから、「Player」誌のBillboardのページ(「売ります」コーナー)にある楽器は写真も掲載されていない中、我々の頭の中に物凄い想像力を掻き立てる三行広告だったのだ。

 

フェン・テレ・ローズ・ブロンド・1974年・バックル傷あるがその他きれい。15万。

手渡し希望 あなたのギブソン・レスポールと交換可

東京都世田谷区中町○丁目○番 田中太郎 03-325-01××

 

ギブソン・レスポール・カスタム 黒 1972年 ゴールドパーツくすみアリ。23万。

分割可(応相談)

山梨県甲府市大手町2丁目○○ 高橋方 山田一郎 055-232-00××(夜10時まで)

 

マーチンD-28(1965)、D-18(1962)、OOO-18(1970)他にも数台あり。連絡いただければカタログ送ります。

神奈川県川崎市川崎区川中島3丁目×× 井上二郎 044-266-04××

 

  こういった個人情報丸出しの楽器販売記事が何百件も掲載されていた。我々は眼を皿のようにして電話帳のような細かい字を追いながら、ページに穴が開くまで見た。楽器個体を想像しながら金は持っていないくせに、フェンダーやギブソンが安く手に入ることだけで所有感を満たしていたのだ。

 

  高校の時、友達はこのコーナーを利用して実際にマーチンを購入したことがある。

  渋谷の駅前で売主と待ち合わせをしてその場で現金とギターを交換した。中古とはいえ、高い買い物だったので、その場でケースを開け、傷などを確かめたそうだ。先方も封筒に入った18枚の1万円札を路上で確認するという何ともアウトサイダー的な絵面で、その話を聞いたとき喫茶店にでも入らなかったのかと聞くと、それよりも早くマーチンが見たくて会ったその場で交換してしまったようだ。

  1980年当時、新品のマーチンD28は約30万円だったので、1975年製のD28を18万で購入した友人は少しでも安く買えたことで満足していた。

  それほど、中古楽器市場は成熟していなかったのだ。

 

 私の自宅には古い音楽雑誌がヤマのようにある。その中でも音楽雑誌の広告で中古楽器屋がページを割くようになるのは1980年代の後半、バブルの頃あたりからだ。それまでの音楽雑誌は楽器メーカーの広告をメインとして、新品楽器を取り扱う大規模楽器店の広告か、いかにもB級の通信販売の広告しかなかった。

それが、ある時期を境に中古楽器が写真付で掲載されるようになったのだ。それは驚くべき事件だった。

  中古品は現物しかないものであるから、その1台が売れてしまえば二度と同じものはない。雑誌に掲載するために撮影し、製本される前に売れてしまえばその固体はないはわけで、そんなリスクがあることは商売になるものなのかという疑問が当時の私の頭にあった。今でこそ、問い合わせがあれば「売れてしまったから、代わりに同程度のものも用意している」なんてことも言えるのだろうが、当時はそんなあやふやな商売で、しかも代わりとなる固体もそれほど流通していないから、トラブルが起きないのかなどと余計なことを考えたものだ。

だから「Player」誌のBillboardの記事が重要だったわけだが、この記事ものちに衰退していくことになる。


  日本のフォーク・ニューミュージックブーム。洋楽のハードロックブームは1980年あたりを境に下降の一途を辿る。フェンダーやギブソンまでもが経営の見直しを図らなければならないほど景気が落ち込んだ。特にアコースティックギターの販売低下は顕著で、マーチンやギルドは、ギター生産労働者の首切りをしたほどだ。だから、1970年代までは猫も杓子もギターを弾いていたが、みんなギターをカラオケのマイクに持ち替えた時に、必要なくなった楽器が中古市場を作ったという仮説も立てられる。中古楽器が増えればそれを買い取る店舗も増え、中古楽器の流通相場も確立してくる。

そうなると「Player」誌のBillboardは個人情報のリスクもある中、うまみが無くなって来る。

また、ネットの発達も手伝ったことで、紙面で中古楽器を扱うよりも正確で多くの情報が掲載できる販売方法へと自然と流れていった。あのわら半紙色のあのコーナーもどんどんスペースが小さくなっていった。

 

 古い雑誌を見直すとあのBillboardに目が行く。

「この人はこのギブソン・レスポールを何で売るのか・・・秋田県・・・地元の楽器屋で購入したのか・・・」「何でこの人はこんなに古い名機を何本も持っているのだろう・・・業者かな?」など何の発展もしない時間を過ごしてしまう。

  今の「Player」誌がどうなっているかわからないが、当時はそういう楽しみ方ができ、夢を見ることができた雑誌だったのだ。

 中古楽器屋ではわからないその楽器の源泉・・・使用者の想いなど。

 

  日本人の憧れであった海外ブランド楽器を一般的に広めた「Player」誌のBillboardは陰ながら日本の音楽を作り上げた一つの功労者ではないだろうか。

d0286848_08545973.gif
2018年7月19日
花形

by yyra87gata | 2018-07-19 08:46 | 音楽コラム | Comments(0)

ギブソン社倒産について

d0286848_18583716.jpg


   ギブソン社倒産の理由は、楽器販売にとどまらず音響機器などへの投資により、その部門の負債が溜まり経営破綻に繋がったとあります。本来の楽器製造販売については採算が合っていたとも聞きます。

ギブソン社は今後は楽器販売に経営を集約させ、再生を図ると報じられていましたが、経営の立て直しはいばらの道でしょう。

なぜなら、一般コンシューマーをターゲットとしている楽器販売は時代の岐路に立たされているからです。

果たして楽器販売だけで今後も運営していくことができるのでしょうか。

ギブソン社と並ぶアメリカの楽器メーカー、フェンダー社も1965年、1985年の2回も経営陣が変更した歴史があり、サンタナの使用でも有名なポール・リード・スミス社も経営に苦しんでいるというニュースも届きました。

若者をターゲットとし、時代と共に繁栄した楽器メーカーの倒産話は、見逃せないニュースです。



   ギターはピアノや管楽器と違って同じようなモデルが多数存在しているので、人気商品の商売なのだと思います。

   1960年代後期、フェンダー・ストラトキャスターは、まとめ売りしても買い手がつかないほど人気が落ちた事があるといいますが、ジミ・ヘンドリクスが使いはじめ、その楽器のポテンシャルにミュージシャンは再度気づかされヒット商品に

1961年より生産中止となっていたギブソン・レスポールモデル(ギブソンSGに継承)も、1970年初頭レッド・ツェッペリンの大ブームにより全世界的にギターポジションをだらりと下げたジミー・ペイジのクローンが登場。レスポールモデルも大ヒット。数々のコピー商品が出回りました。

また、エレキギターの神様はアコギでも神様だったということで、1990年代にアンプラグドブームを決定づけ、グラミー賞を総なめにしたエリック・クラプトンはマーチンギターの看板となり、クラプトンモデルを大ヒットさせています。


つまり、商品ヒットの一番の近道は、オピニオンリーダーがそのギターを使うかどうかという説もあります。


   ギブソン社は毎年ノルマのように「○○年のレスポールモデルです!」と宣伝し、操作面などでプレイヤー視点に立ったアップデートを強調していましたが、ヒット商品の手っ取り早い作り方としては、もはや「そこ」ではない気がします。

往年のモデルの細かい変更に敏感なプレイヤーがどれだけいるんですか!ということ。

その変更のために生産工程を変え、商材を新たにストックしなければなりません。

アメリカに次ぐ大きなマーケットである日本では年と共にプレイヤー人口が減る中、「そこ」に拘るよりも買いたいと思わせる理由は別にあるのではないかと思料します。それは、ギブソンマニアはいても商業的成功にはなかなか結びつかないという事ではないでしょうか。

前述のストラトキャスターもレスポールモデルもクラプトンモデルもヒットした第一の要因は弾きやすさではないはずです。

ビートルズが使っていたからリッケンバッカーを、ベンチャーズが使っているからモズライトを使いたいというファン心裡は真理だと思います。

楽器販売という点から、人気アーティストとのコラボを進めることは手っ取り早い一つの意見です。

ポール・マッカートニーは、ギター業界不振の原因についてインタビューで残念そうに振り返っています。

「電子音楽が増えて、若者は以前と違った聴き方をしている。私はジミ・ヘンドリックスに憧れたものだが、ギターのヒーローは、もういないんだ。かつては誰もがギターを欲しがったものだが......


   ギブソン社の2017年モデルは価格設定を抑えたモデルが多く発表されていましたが、往年のモデルのコストダウンのマイナーチェンジであることは一目瞭然でありました。それでは、いくら学生のエントリーモデルを作っても結果は出ないでしょう。安くすれば売れるのか、という事を企業側は議論したのでしょうが、ギブソン社というブランドで安いモデルを出されてもブランドに「傷しかつかない」気がしてしまうのは私だけでしょうか。

   ベビーブーマーである我々の世代は、エレキギターの歴史そのもので、社会の高度成長と共にエレキギターを手にしてきました。

その中でもギブソンは高嶺の花で、みんなが憧れたブランドです。それは他の楽器メーカー(特に日本の楽器メーカーは隣の大国を笑えないほど露骨にコピーモデルを量産しました)がコピーモデルを量産し、ギブソンの特徴的なロゴを真似してヘッドにデザインした事からも、その想いが伝わります。

その思い入れがある一流ブランドが販売不振の恐怖に震えながら、生産工程や材料を見直し価格を安くして販売する。

それは企業努力をしているように見えますが、往年のファンには響かない行為と私は感じました。そしてそのことには、安価なモデルは中国や韓国で生産され、その品質に問題が出ているという事も付け加えておきます。


   今までは感覚から述べましたが、今度はデータから述べてみましょう。

ギブソンの本国アメリカの話ですが、あるマーケティング調査によると、音楽業界は決して斜陽産業では無いと言います。

フォーブス誌でのフェンダー社CEOアンディ・ムーニー氏のインタビュー記事に興味深い事が記載されていました。


「音楽売上(CDやライブ)は成長しており、12500万人もの人々がデジタルストリーミングサービスを利用しており、こちらも伸び続けています。

LiveNation によると、昨年ライブに行った人の数は、前年比21% 増の8200万人。

スポティファイやアップルミュージックが音楽業界を縮小させるという兆候はありませんし、世界最大のイベント会社であるLiveNation 11年連続で成長しています。」


   驚くなかれ、成長している産業であるにも関わらず、その雄たるギブソン社が倒産とは。いくら不採算部門を整理して再生するなどと説明しても説得力に欠けるエクスキューズに聞こえます。

一度ならず二度も地獄を経験したフェンダー社のアンディ・ムーニー氏は楽器メーカーとしての生産能力もさることながら、その販売方法にも意見を述べています。

楽器販売店とネット販売についての現状を述べています。


「現在の楽器店には、ネット販売をしないリアル店舗のみの店、両方やる店、ネット専門店の3種類があります。

それぞれの状況はというと、まずリアルオンリーは現状維持。両方の店は一桁から二桁台前半の成長、そしてオンライン専門店は右肩上がりです。そして、地域によって異なりますが、北米では総売上の半分が、なんらかのオンライン販売によるものだと推測しています。過去3年で35% 50% へと増えました。」


   これが事実なら、私はすでに取り残された古い人間です。なぜなら楽器には個体差が必ずあり、購入する前には新品だろうが中古だろうが必ず試奏するものと思っているからです。

では、どのような人がネットで楽器を購入しているのか。アンディ氏は続けます。


2年ほど前、我々はギターを初めて買う人について大規模な調査をしました。

我々が毎年販売するすべてのギターのうち、45% を初心者が購入していることが分かりました。これは我々の想像を遥かに超える数字でした。

そして初心者の90% が、最初の12か月のうちにギターをやめてしまいます。

一方で残りの10% は、最初に買ったギターを使い続けるのではなく、複数のギターやアンプを購入する傾向にありました。

加えて新たにギターを始める人の50% が女性であることもわかりました。

彼女たちはリアル店舗について敷居が高いと感じており、ネット通販を利用する割合が高めです。

そして最後の発見は、初心者はレッスンに楽器の4倍以上のお金をかけているということです。

これらの事実は色々なビジネスモデルを形作りました。我々がFender Play というオンラインレッスンサービスを始めたのは、楽器とは別の新たなビジネスチャンスがあると思ったからです。

レッスンというと教室に通うイメージですが、世界的にはオンラインレッスンが主流になってきています。

Fender Play や各種マーケティングを実施して、ギターに興味がなかった人にギターをやってみたいと思わせることができたのは、衝撃的な出来事でした。

そして女性のオーディエンスへのアピールも強化する必要があるので、契約アーティストや宣伝画像に使う女性、そしてウェブマーケテイング全般について日々検討しています。」

   

このインタビューこそが、地獄を経験し、売上を毎年15%平均で伸ばしているフェンダー社と今回のギブソン社との差かもしれません。

そして、こう付け加えます。

「ここ最近で伝えられているギブソンの不振は、彼らが自ら招いたものであり、業界の現状を表しているものではありません。」と。

業界の展望を自社製品のビジネスモデルに繋げているフェンダー社とギター専業メーカーから総合音響メーカーへの脱皮を進めて失敗したギブソン社との差が露呈しました。


   メーカーとして一流の商品を我々に届ける役割は経営陣にかかっています。いくら最高の職人が極上の商品を作っても売り方一つでそのブランドは地に落ちます。

   今回のギブソン社の経営破綻は、不採算部門の影響とありますが、ここ近年の商品ラインアップを見ても、果たしてその問題を解決するだけの施策なのか。

負債の解消のため、何か大切なギブソン社の財産が処分されてしまわないように

ギブソンギターのオーナーとして、栄光のブランドに傷をつけて欲しくないという思いから書き綴りました。

d0286848_19000614.gif
2018年5月4日
花形

by yyra87gata | 2018-05-04 19:18 | 音楽コラム | Comments(0)

大杉漣さんの思い出

d0286848_20314063.jpg

 大杉漣の訃報をテレビのテロップで観た時…そして、急性心不全で亡くなったと発表されたとき、私は不覚にも「自殺?」と思ってしまった。

近親者の方々からしてみたらそんなことは絶対ないという確信はあるだろうが、私はテレビドラマもバラエティも普段からそんなに観る方では無いので、大杉漣の活躍はスクリーンの中でしか知らない。だから、コミカルな役で若手アイドルとドラマに出演したり、お笑い芸人と一緒に食事の金額を当てるような彼をあまり想像することができないのだ。

 私の最近のイメージの大杉漣は北野映画に出演されている大杉漣であり、数々の邦画に出演されている彼だ。だから順調に活躍されているな、という認識もあり、そんな人が急に亡くなるなんてことは事故か自殺しかないと思ってしまったのだ。

 急性心不全という曖昧模糊とした響きの病名。原因などいくつもあるようだが実は特定されることもなく、生活習慣、ストレスという言葉で括れば全てに通じてしまう病のようだ。ここで病気の話を展開しても仮定の話しかできないので切り上げるが、私の思い描く大杉漣はそんな66歳で亡くなるようなヤワな体ではない。


 泉谷しげるは圧倒的な詩人である。エレックレコード、フォーライフレコード、ワーナーパイオニア、ポリドールとレコード会社を渡り歩き、それぞれに名盤を残してきた。しかし、名盤と商業的成功は比例しないもので、実験的な行為を好む泉谷はフォークというジャンルでは括りきれなくなりアバンギャルドな世界に突き進んでいく。ちょうど1980年代半ばのことだ。

 その頃はレコードも出せるような状況でなくなり、ポツポツとライブを開く程度。

ワーナーパイオニアは必死にプロモーションしたが、あまりにも世相を切りすぎた作品は歌というより演説に近いものがあり、そんな言葉の嵐を無機質な鈴木さえ子のシンセドラムや吉田健のベース、柴山兄弟のギターがエキゾチックになぞっていく。

d0286848_20375206.jpg

 私はそんな泉谷の作品が嫌いではなかった。歌の世界観や到底リズムに乗らない歌詞を怒鳴り続けている彼を男らしいと思っていたほどだ。

 私は大学にも行かず、宙ぶらりんな立場だった頃なので、世の中の優しい歌は全然響かず泉谷の本音の声が心に届いていたのかもしれない。

 そして、大学に入学した後、友達に誘われて行った泉谷のコンサート。1985年の横浜国大の文化祭の野外ステージでのライブだったが、そのステージはレコードで聴いていた泉谷の言葉の嵐が見事にリズムに乗って私の心にガンガン突き刺さったライブだった。

 以前のギター2本、ベース、ドラム、シンセサイザー、サックスを擁した6人のバンドで電子音の洪水の中で叫んでいた彼はそこにはおらず、シンプルにギター、ベース、ドラムという最小限の編成の中でパフォーマンスしていた。

ベース、吉田健。ドラム、友田真吾。ギター、布袋寅泰。

 とにかくこのメンバーの出すビートは泉谷の歌詞にぴったり嵌った。布袋はBOOWYがまだ商業的成功を収める前で、アルバイト感覚でバックを務めていたのかもしれないが、私はこのバンドの布袋のプレイは忘れられないくらいのインパクトがあった。出てくる音、出てくる音が理解できないくらい煌びやかだったのだ。

そして、ライブはエンディングに近づくと会場内はどんどんヒートアップし、圧死者が出るのでは無いかというほどの状況となる。人の流れが前へ前へと押し寄せる。そしてエンディングに近づき、「火の鳥」「国旗はためく下に」ではステージ後方からの火炎放射器により、ステージに押し寄せた我々の身体が吹き飛ばされるのではないかという炎が我々の顔を染めたのだ。ドラムの友田真吾なんて火傷をしていたのではないか。

 そのライブから3ヶ月後、同じメンバーで、ある劇場のこけら落としコンサートを行うことが決まった。3日連続公演。場所は地下鉄有楽町線氷川台駅(現在は副都心線)。

「転形劇場T2スタジオ」と呼ばれた場所だった。転形劇場は1960年後半、太田省吾を中心に結成された劇団で、当時の世相から寺山修司の天井桟敷、唐十郎の赤テントなど小劇場やアングラ演劇が華やかな時代から活動していた。

 活動拠点をまだ田畑が残る氷川台の牧歌的な空間に移し、その倉庫のような建物に回転舞台を組んだ劇場をオープンし、そのこけら落としの一環で泉谷しげるのコンサートが開催されたのだ。

 私は3日間通った。

席は自由だったから毎回並んで開演を待ったが、その会場係や誘導係に大杉漣がいた。彼は転形劇場の劇団員だったのだ。

口ひげを蓄え、ウルフカットのような髪型にこけた頬の彼を見つけたとき、自然と「大杉漣だ!大杉漣がなぜ、ここに居るんだ?」と口走っていた。

一緒に並んでいた彼女(家内)は、「大杉漣?誰?バンドの人?」などと言う。

 私は大杉漣をすぐに認識した。なぜなら、私は日活ロマンポルノでの彼の演技がとても好きだったからだ。日活ロマンポルノは成人映画だが、日本の裏社会の機微や東映セントラルに負けないくらいのハードボイルドな作品も多く排出していた。それこそ、大杉漣のようないぶし銀の俳優がそこかしこに居て、独特な作風を醸し出していた。そして、当然日活ロマンポルノに出演している俳優は中々テレビにも出演しないので、彼女のような発言も決しておかしくはない。しかし、そんな俳優が目の前で客の整列を促している・・・。

黒いTシャツに黒いスリムパンツ。人を寄せ付けない風貌で客を誘導している。私の近くに彼が来た時、私は意を決し、声を掛けた。「大杉漣さんですよね」。

かみそりのような表情が崩れ、「はい、そうですが・・・」彼は笑って応えてくれた。

「転形劇場T2スタジオ」は翌年も泉谷しげるの公演を行っている。因みに泉谷のその時のバックはボイス&リズム(石田長生、藤井裕、正木五郎)に変わっており、大阪のイナタイビートの泉谷が堪能できた。そしてその時も大杉漣は会場誘導を率先して行っていた。

 大杉漣が亡くなって泉谷しげるのコメントが発表された。

80年代に、大杉さん主幹の「転形劇場」のステージで、渾身の3日間ライブは今だに忘れられない。それからもズッとオイラのライブファンでいてくれて、最近もライブに来てくれててさ》、《大杉漣とは楽しいことばかりしてきたのだ急性心不全で急死なンて信じられるワケないだろ 漣さん66だろ オイラは受け入れないからな だから哀悼もしない またすぐ会おう》

実に泉谷らしい言葉である。清志郎の時も同じようなことをつぶやいていたっけ。

 私は学校も近かったこともあり、転形劇場にはその後数回足を運んでいる。

泉谷の激しいビートが木霊した劇場が一変し、その中で無言劇を演じる大杉漣。

痩せた身体の大杉漣は舞台をゆっくりと歩くだけ。そして水を飲むだけ。そんな動きから様々な自然を表現したり、男と女を表現したり・・・。

d0286848_20345514.jpg
 転形劇場は1988年に解散しているから、T2スタジオは正味3年の出来事だった。

 しかし、大杉漣を見るたびに誘導してくれていたあの姿を思い出し、笑顔で顔を崩した彼が蘇る。



2018/03/28


花形


by yyra87gata | 2018-03-28 08:44 | 音楽コラム | Comments(0)

d0286848_17525648.jpg
 今年も沢山の著名人が鬼籍に入りました。

俳優では松方弘樹さん、根津甚八さん、神山繁さん、渡瀬恒彦さん、藤村俊二さん。女優の野際陽子さん。ミュージシャンではロックンロールの創始者チャック・ベリーやスワンプミュージックの雄、レオン・ラッセル。日本でもかまやつひろしさんといったベテランが次々と倒れました。昭和は遠く成りにけりでありますが、12月に入ってショッキングなニュースが・・・。

サックス奏者のジェイク・H・コンセプションが12月4日に亡くなったのです。81歳。

ジェイクは日本の軽音楽の立役者であり、歌謡曲からロック、フォーク、ポップスとジャンルを超えて活躍したミュージシャンであります。フィリピン出身で1964年に単身来日しており、1970年代中半から大活躍となります。

ひと昔もふた昔も前のサックス奏者は、ジャズに固執するあまり、他のジャンルのミュージシャンとはプレイできない、ましてや演歌をプレイするなんて「魂を売った」というような妙なプライドを持っていたと聞きます。それはそれでいいでしょうが、そんな前時代にジェイクは一人黙々と日本の音楽に溶け込みながら名曲のバックをこなしていきます。

都はるみの「北の宿から」も西城秀樹の「YMCA」も岩崎宏美の「聖母たちのララバイ」も近藤真彦の「ギンギラギンにさりげなく」もみんなジェイクのサックスです。他にも数多くの大ヒット作品を手がけ、いつもニコニコ笑いながら仕事をしていたそうです。

皆さん、思い浮かべてみましょう。先ほどあげた作品。きっとサックスのメロディーが頭に浮かぶと思います。そういうメロディーを吹くことが出来、心に残る音色を出すことが出来るミュージシャンなのであります。

1980年代の渡辺貞夫の言葉

「今、日本で吹いているサックスプレイヤーでジェイクに勝てるミュージシャンはいないね。あいつは凄いよ。なんでも吹けるからね。僕もかなわない」

先日の吉田拓郎の言葉

「レコーディングするでしょ。「タクロー、ダイジョウブ。OKOKマカセテオイテ!」とか言ってサッと終わらせちゃうんだよ。その仕事の早さと出来といったら。凄いミュージシャンだったよ」

以前、山下達郎はサックスプレイヤーをバックにつける時の条件を、その音色と話していました。テクニックではなく、自分の音楽に絡んだときに心地良い音色となるかどうかということ。

まさに、ジェイクは日本のポップスの求める音色だったのだと思います。

そして、ジェイクのサックスは歌物のバックに適していたのでは無いでしょうか。

ジェイクは、1978年にリーダーアルバム『リーサ』を発表しています。

レイ・チャールズの「ジョージア・オン・マイ・マインド」といった定番の曲からコール・ポーターが1929年にミュージカルのために書き下ろした「恋とはなんでしょう(What is this thing called love)」といったスタンダードナンバーまで、日本の一流ミュージシャンを迎え制作されました。

非常に聴き易いアルバムで、とっつきにくいジャズの世界ではない、明るくライトな仕上りとなっていますが、あまり話題にはなりませんでした。インストゥルメンタルよりも歌物のバックで活きるサックスなのだと思います。

丁度この頃、ジェイクは吉田拓郎のアルバム『ローリング30』(1978)の制作に加わっており、「英雄」「裏街のマリア」といったヘビーなファンクサウンドから「冷たい雨が降っている」「素敵なのは夜」といった感傷的なソロまで変幻自在の音を紡いでいます。そして、その後、大々的に始まったコンサートツアーでその姿を私たちの前に見せたのであります。

おおらかな笑顔で両手を広げながらリズムを取り、黙々とサックスをプレイする。時にギターの青山徹や鈴木茂とバトルをする激しいサックスも披露してくれました。

それは、あたかもスプリングスティーンの横で客を威嚇するようにサックスをぶちかましていたクラレンス・クレモンズを髣髴させるものがありましたが、ジェイクの方が笑顔が多い分、人柄が良さそうでした(クレモンズさん、ごめん)。

歌物のバックに生える音なのです!

ジェイクはひっぱりだこのミュージシャンでしたから、まとまったコンサートツアーは1979年~1980年頃の吉田拓郎のツアーぐらいしか活動はなかったのでは無いでしょうか。

そんな彼のプレイを生で観ることができたことは、今となっては幸せなことだと思っております。

艶があり、どこまでも伸びるアルトサックスの音は我々の情感を刺激しました。

レコードのミュージシャンクレジットを見てみましょう。

必ずジェイクの名前を見つけることが出来ると思います。

2017/12/20

花形


by yyra87gata | 2017-12-20 17:55 | 音楽コラム | Comments(2)