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「グレイテスト・ラブ・オブ・オール」を初めて聴いたのは中学時代、モハメッド・アリの伝記映画「アリ/ザ・グレーテスト」(1977)を観覧した時のこと。映画の主題歌としてジョージ・ベンソンが仰々しく歌い上げており、華々しく最強の男を称えていた。作曲はこの映画の音楽を担当したマイケル・マッサー。

シャープで激しい戦い。予告KOで仕留める。

蝶のように舞い、蜂のように刺すとはよく言ったもので、モハメド・アリの戦い方は常にドラマチックだった。そして、絶対的王者、まさにグレイテストな存在は当時の世界最強を誇示しており、その男にふさわしい伝記映画であった。

映画はアリが18歳の時、ローマオリンピックで金メダルを獲得してから1974年のアフリカ・ザイールでジョージ・フォアマンと戦った「キンシャサの奇跡」と呼ばれる伝説の闘いまでを追っている。

この映画でアリ本人がアリ役として出演しており、本人が本人を演じ、本人の言葉で語られている。・・・アリは誰と戦っていたのか・・・。

アリは誰よりも強かった。なぜならアリはボクサーとしてアメリカという国と戦っていたのだ。ボクシングでアメリカの人種差別と闘い、黒人の権利と環境、奴隷という立場の開放を訴え続けた男。

18歳でアメリカ代表としてオリンピックの舞台で金メダルを獲得しても、地元に帰ればカラードと蔑まされ、選挙権すらない。「人にあらず」という扱いを受けたことによる屈辱を何で返すかを模索した。

プロに転向し、発言権を得るために最強の男になっていく。自分の頑張りが黒人社会の向上になると信じて。しかし、アメリカはそんな面倒な男に対し強靭な黒人ボクサーを当て、黙らそうとする。白人に雇われた黒人ボクサーに立ち向かう黒人解放を訴える黒人ボクサー・・・。そして、アリは世界チャンピオンに輝くが、国は動かなかった。

ベトナム戦争が激化する中、アリにも召集令状が届くが、彼の答えはNO。そのために世界ヘビー級チャンピオンを剥奪されてしまう。

英語ネームのカシアス・クレイという名前を捨てたこともアメリカに対する不信感から起きたものと伝えられている。イスラム教徒であることを公表し、イスラム信徒名であるモハメド・アリに改名したことも世の中に対するテーゼであったのだ(その昔黒人奴隷には名前も無く、ファミリーネームは雇い主になっていた。だからクレイという名の元は自分とは一切関わりの無い白人ということ)。

アリはビッグマウスと言われるが、それも全て自分を追い込むためにやっていた業であると・・・。

「俺は最強の男だ!あいつを5回KOにしとめてやる」と言えば、試合までに必死に練習と努力を重ね、自分を律した。天才が陰で猛練習をするのだから弱いはずが無い。

 そんな彼の生き様が歌になったものが「グレイテスト・ラブ・オブ・オール」だ。

歌詞の端々にアリの精神が注入されている。

「私はどんなことがあってもくじけない。成功しようと失敗しようと、私は私の信じる道を行く。

誰が私の全てを奪おうとも、私の尊厳だけは絶対に奪えない。」

「誰もがヒーローを求めているが、私自身の心を満たしてくれる人はどこにもいない。それは、自分自身しかいないからだ。」

「世界で一番の愛は簡単に手が届く。それは自分自身を信じ、愛すること。」

黒人は当事「人ではない」ので、自分自身を愛することも出来なかった。黒人総鬱状態だった。鬱だから、みんな背筋も曲がり、小さな声で否定的なことしか言わない。そんな時代に声を大にして「まずは自分を信じ(白人に翻弄されずに)、自分自身を愛そう!」と叫ぶアリがいたのだ。

「グレイテスト・ラブ・オブ・オール」は1985年にホイットニー・ヒューストンがカバーした。華やかな歌声と「そよ風の贈り物」という邦題のアルバムも大ヒットし、デビューアルバムとしては史上最多の2300万枚を売り上げる作品となった。

その歌声にアリの精神を想起させる人が果たしてどれだけいたか。バックボーンも知らず、英語も良くわからない日本人は概ね「素敵なラブソング」という認識であろう。

アリの映画を観ていただけのことではあるが、ホイットニーの歌声を聴きながら昔ほど黒人差別は無くなったよ、と当時大学生の私は心の中で呟いていた。

追記。

1976年にアリは、アントニオ猪木と異種格闘技戦を行い、世界の凡戦と揶揄されたが、あの試合には副産物があった。

対戦後、猪木を称え、アリから猪木へ歌の進呈があったとか(諸説あり)。

その歌こそ「イノキ・ボンバイエ」である。

もともとは「グレイテスト・ラブ・オブ・オール」の作曲者であるマイケル・マッサーが制作した歌である「アリ・ボンバイエ」が元になっている。

映画「アリ/ザ・グレーテスト」のエンディングではジョージ・ベンソンが編曲しこの歌をバラードとして歌っている。

ちなみに「ボンバイエ」は、アリが南アフリカに遠征した際に現地民族の言葉で「やっちまえ!」。「アリ!ボンバイエ!」のコールがリングに木霊し、そこからあの歌の構想が出来たようだ。

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2018/11/1

花形



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by yyra87gata | 2018-11-01 10:49 | 音楽コラム | Comments(0)
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  ミュージシャンであれば、音楽雑誌「Player」という月刊誌をご存知だろう。創刊1968年というから今年で50年を迎える歴史ある雑誌だ。創刊当初は楽器店用の専門誌だったようだが、1973年あたりから一般化され1979年からは現状の中綴じスタイルの雑誌になったそうだ。

  私は中学時代からこの雑誌を不定期ながらも講読していた。目的はギターを弾き始め、楽器の情報が欲しかったことと、それまでの「MUSIC LIFE」誌の生ぬるい記事(外タレの明星とか平凡と言われていたからね)では飽き足らなくなり、硬派な(?)海外の音楽情報を知るニュースソースとして適していたからだ。 

  写真一つ取ってみてもアイドル的な笑顔が多いMUSIC LIFE」誌と比べるとPlayer」誌のそれはロバート・メイプルソープの撮るような刺激的なモノクロ写真であったり、日本ではマイナーなミュージシャンの掲載であったりと嗜好が異なっていた。

そして何よりも大人のミュージシャン向けと感じた「Player」誌の佇まいにしびれたのだ。

 

  私が中学3年の頃、学校の中でも購読している人間が増え始めた。ギターやベースを弾き始める時期と「Player」誌の一般化がシンクロしたのだ。そしてみんな食い入るようにジェフ・ベックリッチー・ブラックモアの「フェンダー・ストラトキャスター」を見るのだ。ジミー・ペイジジョー・ウォルシュの「ギブソン・レスポールモデル」を確認するのだ。

  それまでの「MUSIC LIFE」誌は笑顔のフレディー・マーキュリーやロバート・プラント、家族サービスをしているポール・マッカートニーといった人物にフォーカスされた写真が多かったので、ミュージシャンのライブ写真が多く掲載されていた「Player」誌は我々のハートを鷲づかみにした。

そして、我々の話で盛り上がるニュースはいつも中ほどにある「わら半紙色」のBillboardの「売ります、買います、メンバー募集」の記事であった。

  ギターを弾くものであれば、当時、フェンダー、ギブソン、マーチン、オベーション、BCリッチなど海外メーカーの楽器を手に入れるためにはこのコーナーが一つの解決策とされていた。

  当時の海外ブランドへの憧れといったら今の子供たちにはわかるまい。

  ギターヘッドのブランドロゴの威光は燦然と輝く。だから、当時の国産のメーカーはフェンダーやギブソンのロゴに似せたロゴデザインを作り、潔くなかった。また、弾く側もグレコやグヤトーンなどのブランドマークにフェンダーなどのシールを貼って自己満足に浸っていたのだ。

とにかく、当時の海外メーカーのギターやベースは「流通が少ない」「価格が高い」そして、「フェンダーやギブソンはプロが使うもの」といった妙な不文律が私の周りには存在していた。

 

  当時の中古楽器市場は、今の時代のようにネットで売買できるものはなく、中古楽器専門店もほとんど存在しなかった。中古楽器は、ヤマハ本店や石橋楽器、黒澤楽器のように規模の大きな楽器屋であればごくたまに並ぶこともあったが、期待できるような品揃えではなかった。

だから、「Player」誌のBillboardのページ(「売ります」コーナー)にある楽器は写真も掲載されていない中、我々の頭の中に物凄い想像力を掻き立てる三行広告だったのだ。

 

フェン・テレ・ローズ・ブロンド・1974年・バックル傷あるがその他きれい。15万。

手渡し希望 あなたのギブソン・レスポールと交換可

東京都世田谷区中町○丁目○番 田中太郎 03-325-01××

 

ギブソン・レスポール・カスタム 黒 1972年 ゴールドパーツくすみアリ。23万。

分割可(応相談)

山梨県甲府市大手町2丁目○○ 高橋方 山田一郎 055-232-00××(夜10時まで)

 

マーチンD-28(1965)、D-18(1962)、OOO-18(1970)他にも数台あり。連絡いただければカタログ送ります。

神奈川県川崎市川崎区川中島3丁目×× 井上二郎 044-266-04××

 

  こういった個人情報丸出しの楽器販売記事が何百件も掲載されていた。我々は眼を皿のようにして電話帳のような細かい字を追いながら、ページに穴が開くまで見た。楽器個体を想像しながら金は持っていないくせに、フェンダーやギブソンが安く手に入ることだけで所有感を満たしていたのだ。

 

  高校の時、友達はこのコーナーを利用して実際にマーチンを購入したことがある。

  渋谷の駅前で売主と待ち合わせをしてその場で現金とギターを交換した。中古とはいえ、高い買い物だったので、その場でケースを開け、傷などを確かめたそうだ。先方も封筒に入った18枚の1万円札を路上で確認するという何ともアウトサイダー的な絵面で、その話を聞いたとき喫茶店にでも入らなかったのかと聞くと、それよりも早くマーチンが見たくて会ったその場で交換してしまったようだ。

  1980年当時、新品のマーチンD28は約30万円だったので、1975年製のD28を18万で購入した友人は少しでも安く買えたことで満足していた。

  それほど、中古楽器市場は成熟していなかったのだ。

 

 私の自宅には古い音楽雑誌がヤマのようにある。その中でも音楽雑誌の広告で中古楽器屋がページを割くようになるのは1980年代の後半、バブルの頃あたりからだ。それまでの音楽雑誌は楽器メーカーの広告をメインとして、新品楽器を取り扱う大規模楽器店の広告か、いかにもB級の通信販売の広告しかなかった。

それが、ある時期を境に中古楽器が写真付で掲載されるようになったのだ。それは驚くべき事件だった。

  中古品は現物しかないものであるから、その1台が売れてしまえば二度と同じものはない。雑誌に掲載するために撮影し、製本される前に売れてしまえばその固体はないはわけで、そんなリスクがあることは商売になるものなのかという疑問が当時の私の頭にあった。今でこそ、問い合わせがあれば「売れてしまったから、代わりに同程度のものも用意している」なんてことも言えるのだろうが、当時はそんなあやふやな商売で、しかも代わりとなる固体もそれほど流通していないから、トラブルが起きないのかなどと余計なことを考えたものだ。

だから「Player」誌のBillboardの記事が重要だったわけだが、この記事ものちに衰退していくことになる。


  日本のフォーク・ニューミュージックブーム。洋楽のハードロックブームは1980年あたりを境に下降の一途を辿る。フェンダーやギブソンまでもが経営の見直しを図らなければならないほど景気が落ち込んだ。特にアコースティックギターの販売低下は顕著で、マーチンやギルドは、ギター生産労働者の首切りをしたほどだ。だから、1970年代までは猫も杓子もギターを弾いていたが、みんなギターをカラオケのマイクに持ち替えた時に、必要なくなった楽器が中古市場を作ったという仮説も立てられる。中古楽器が増えればそれを買い取る店舗も増え、中古楽器の流通相場も確立してくる。

そうなると「Player」誌のBillboardは個人情報のリスクもある中、うまみが無くなって来る。

また、ネットの発達も手伝ったことで、紙面で中古楽器を扱うよりも正確で多くの情報が掲載できる販売方法へと自然と流れていった。あのわら半紙色のあのコーナーもどんどんスペースが小さくなっていった。

 

 古い雑誌を見直すとあのBillboardに目が行く。

「この人はこのギブソン・レスポールを何で売るのか・・・秋田県・・・地元の楽器屋で購入したのか・・・」「何でこの人はこんなに古い名機を何本も持っているのだろう・・・業者かな?」など何の発展もしない時間を過ごしてしまう。

  今の「Player」誌がどうなっているかわからないが、当時はそういう楽しみ方ができ、夢を見ることができた雑誌だったのだ。

 中古楽器屋ではわからないその楽器の源泉・・・使用者の想いなど。

 

  日本人の憧れであった海外ブランド楽器を一般的に広めた「Player」誌のBillboardは陰ながら日本の音楽を作り上げた一つの功労者ではないだろうか。

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2018年7月19日
花形

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by yyra87gata | 2018-07-19 08:46 | 音楽コラム | Comments(0)

ギブソン社倒産について

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   ギブソン社倒産の理由は、楽器販売にとどまらず音響機器などへの投資により、その部門の負債が溜まり経営破綻に繋がったとあります。本来の楽器製造販売については採算が合っていたとも聞きます。

ギブソン社は今後は楽器販売に経営を集約させ、再生を図ると報じられていましたが、経営の立て直しはいばらの道でしょう。

なぜなら、一般コンシューマーをターゲットとしている楽器販売は時代の岐路に立たされているからです。

果たして楽器販売だけで今後も運営していくことができるのでしょうか。

ギブソン社と並ぶアメリカの楽器メーカー、フェンダー社も1965年、1985年の2回も経営陣が変更した歴史があり、サンタナの使用でも有名なポール・リード・スミス社も経営に苦しんでいるというニュースも届きました。

若者をターゲットとし、時代と共に繁栄した楽器メーカーの倒産話は、見逃せないニュースです。



   ギターはピアノや管楽器と違って同じようなモデルが多数存在しているので、人気商品の商売なのだと思います。

   1960年代後期、フェンダー・ストラトキャスターは、まとめ売りしても買い手がつかないほど人気が落ちた事があるといいますが、ジミ・ヘンドリクスが使いはじめ、その楽器のポテンシャルにミュージシャンは再度気づかされヒット商品に

1961年より生産中止となっていたギブソン・レスポールモデル(ギブソンSGに継承)も、1970年初頭レッド・ツェッペリンの大ブームにより全世界的にギターポジションをだらりと下げたジミー・ペイジのクローンが登場。レスポールモデルも大ヒット。数々のコピー商品が出回りました。

また、エレキギターの神様はアコギでも神様だったということで、1990年代にアンプラグドブームを決定づけ、グラミー賞を総なめにしたエリック・クラプトンはマーチンギターの看板となり、クラプトンモデルを大ヒットさせています。


つまり、商品ヒットの一番の近道は、オピニオンリーダーがそのギターを使うかどうかという説もあります。


   ギブソン社は毎年ノルマのように「○○年のレスポールモデルです!」と宣伝し、操作面などでプレイヤー視点に立ったアップデートを強調していましたが、ヒット商品の手っ取り早い作り方としては、もはや「そこ」ではない気がします。

往年のモデルの細かい変更に敏感なプレイヤーがどれだけいるんですか!ということ。

その変更のために生産工程を変え、商材を新たにストックしなければなりません。

アメリカに次ぐ大きなマーケットである日本では年と共にプレイヤー人口が減る中、「そこ」に拘るよりも買いたいと思わせる理由は別にあるのではないかと思料します。それは、ギブソンマニアはいても商業的成功にはなかなか結びつかないという事ではないでしょうか。

前述のストラトキャスターもレスポールモデルもクラプトンモデルもヒットした第一の要因は弾きやすさではないはずです。

ビートルズが使っていたからリッケンバッカーを、ベンチャーズが使っているからモズライトを使いたいというファン心裡は真理だと思います。

楽器販売という点から、人気アーティストとのコラボを進めることは手っ取り早い一つの意見です。

ポール・マッカートニーは、ギター業界不振の原因についてインタビューで残念そうに振り返っています。

「電子音楽が増えて、若者は以前と違った聴き方をしている。私はジミ・ヘンドリックスに憧れたものだが、ギターのヒーローは、もういないんだ。かつては誰もがギターを欲しがったものだが......


   ギブソン社の2017年モデルは価格設定を抑えたモデルが多く発表されていましたが、往年のモデルのコストダウンのマイナーチェンジであることは一目瞭然でありました。それでは、いくら学生のエントリーモデルを作っても結果は出ないでしょう。安くすれば売れるのか、という事を企業側は議論したのでしょうが、ギブソン社というブランドで安いモデルを出されてもブランドに「傷しかつかない」気がしてしまうのは私だけでしょうか。

   ベビーブーマーである我々の世代は、エレキギターの歴史そのもので、社会の高度成長と共にエレキギターを手にしてきました。

その中でもギブソンは高嶺の花で、みんなが憧れたブランドです。それは他の楽器メーカー(特に日本の楽器メーカーは隣の大国を笑えないほど露骨にコピーモデルを量産しました)がコピーモデルを量産し、ギブソンの特徴的なロゴを真似してヘッドにデザインした事からも、その想いが伝わります。

その思い入れがある一流ブランドが販売不振の恐怖に震えながら、生産工程や材料を見直し価格を安くして販売する。

それは企業努力をしているように見えますが、往年のファンには響かない行為と私は感じました。そしてそのことには、安価なモデルは中国や韓国で生産され、その品質に問題が出ているという事も付け加えておきます。


   今までは感覚から述べましたが、今度はデータから述べてみましょう。

ギブソンの本国アメリカの話ですが、あるマーケティング調査によると、音楽業界は決して斜陽産業では無いと言います。

フォーブス誌でのフェンダー社CEOアンディ・ムーニー氏のインタビュー記事に興味深い事が記載されていました。


「音楽売上(CDやライブ)は成長しており、12500万人もの人々がデジタルストリーミングサービスを利用しており、こちらも伸び続けています。

LiveNation によると、昨年ライブに行った人の数は、前年比21% 増の8200万人。

スポティファイやアップルミュージックが音楽業界を縮小させるという兆候はありませんし、世界最大のイベント会社であるLiveNation 11年連続で成長しています。」


   驚くなかれ、成長している産業であるにも関わらず、その雄たるギブソン社が倒産とは。いくら不採算部門を整理して再生するなどと説明しても説得力に欠けるエクスキューズに聞こえます。

一度ならず二度も地獄を経験したフェンダー社のアンディ・ムーニー氏は楽器メーカーとしての生産能力もさることながら、その販売方法にも意見を述べています。

楽器販売店とネット販売についての現状を述べています。


「現在の楽器店には、ネット販売をしないリアル店舗のみの店、両方やる店、ネット専門店の3種類があります。

それぞれの状況はというと、まずリアルオンリーは現状維持。両方の店は一桁から二桁台前半の成長、そしてオンライン専門店は右肩上がりです。そして、地域によって異なりますが、北米では総売上の半分が、なんらかのオンライン販売によるものだと推測しています。過去3年で35% 50% へと増えました。」


   これが事実なら、私はすでに取り残された古い人間です。なぜなら楽器には個体差が必ずあり、購入する前には新品だろうが中古だろうが必ず試奏するものと思っているからです。

では、どのような人がネットで楽器を購入しているのか。アンディ氏は続けます。


2年ほど前、我々はギターを初めて買う人について大規模な調査をしました。

我々が毎年販売するすべてのギターのうち、45% を初心者が購入していることが分かりました。これは我々の想像を遥かに超える数字でした。

そして初心者の90% が、最初の12か月のうちにギターをやめてしまいます。

一方で残りの10% は、最初に買ったギターを使い続けるのではなく、複数のギターやアンプを購入する傾向にありました。

加えて新たにギターを始める人の50% が女性であることもわかりました。

彼女たちはリアル店舗について敷居が高いと感じており、ネット通販を利用する割合が高めです。

そして最後の発見は、初心者はレッスンに楽器の4倍以上のお金をかけているということです。

これらの事実は色々なビジネスモデルを形作りました。我々がFender Play というオンラインレッスンサービスを始めたのは、楽器とは別の新たなビジネスチャンスがあると思ったからです。

レッスンというと教室に通うイメージですが、世界的にはオンラインレッスンが主流になってきています。

Fender Play や各種マーケティングを実施して、ギターに興味がなかった人にギターをやってみたいと思わせることができたのは、衝撃的な出来事でした。

そして女性のオーディエンスへのアピールも強化する必要があるので、契約アーティストや宣伝画像に使う女性、そしてウェブマーケテイング全般について日々検討しています。」

   

このインタビューこそが、地獄を経験し、売上を毎年15%平均で伸ばしているフェンダー社と今回のギブソン社との差かもしれません。

そして、こう付け加えます。

「ここ最近で伝えられているギブソンの不振は、彼らが自ら招いたものであり、業界の現状を表しているものではありません。」と。

業界の展望を自社製品のビジネスモデルに繋げているフェンダー社とギター専業メーカーから総合音響メーカーへの脱皮を進めて失敗したギブソン社との差が露呈しました。


   メーカーとして一流の商品を我々に届ける役割は経営陣にかかっています。いくら最高の職人が極上の商品を作っても売り方一つでそのブランドは地に落ちます。

   今回のギブソン社の経営破綻は、不採算部門の影響とありますが、ここ近年の商品ラインアップを見ても、果たしてその問題を解決するだけの施策なのか。

負債の解消のため、何か大切なギブソン社の財産が処分されてしまわないように

ギブソンギターのオーナーとして、栄光のブランドに傷をつけて欲しくないという思いから書き綴りました。

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2018年5月4日
花形

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by yyra87gata | 2018-05-04 19:18 | 音楽コラム | Comments(0)

大杉漣さんの思い出

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 大杉漣の訃報をテレビのテロップで観た時…そして、急性心不全で亡くなったと発表されたとき、私は不覚にも「自殺?」と思ってしまった。

近親者の方々からしてみたらそんなことは絶対ないという確信はあるだろうが、私はテレビドラマもバラエティも普段からそんなに観る方では無いので、大杉漣の活躍はスクリーンの中でしか知らない。だから、コミカルな役で若手アイドルとドラマに出演したり、お笑い芸人と一緒に食事の金額を当てるような彼をあまり想像することができないのだ。

 私の最近のイメージの大杉漣は北野映画に出演されている大杉漣であり、数々の邦画に出演されている彼だ。だから順調に活躍されているな、という認識もあり、そんな人が急に亡くなるなんてことは事故か自殺しかないと思ってしまったのだ。

 急性心不全という曖昧模糊とした響きの病名。原因などいくつもあるようだが実は特定されることもなく、生活習慣、ストレスという言葉で括れば全てに通じてしまう病のようだ。ここで病気の話を展開しても仮定の話しかできないので切り上げるが、私の思い描く大杉漣はそんな66歳で亡くなるようなヤワな体ではない。


 泉谷しげるは圧倒的な詩人である。エレックレコード、フォーライフレコード、ワーナーパイオニア、ポリドールとレコード会社を渡り歩き、それぞれに名盤を残してきた。しかし、名盤と商業的成功は比例しないもので、実験的な行為を好む泉谷はフォークというジャンルでは括りきれなくなりアバンギャルドな世界に突き進んでいく。ちょうど1980年代半ばのことだ。

 その頃はレコードも出せるような状況でなくなり、ポツポツとライブを開く程度。

ワーナーパイオニアは必死にプロモーションしたが、あまりにも世相を切りすぎた作品は歌というより演説に近いものがあり、そんな言葉の嵐を無機質な鈴木さえ子のシンセドラムや吉田健のベース、柴山兄弟のギターがエキゾチックになぞっていく。

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 私はそんな泉谷の作品が嫌いではなかった。歌の世界観や到底リズムに乗らない歌詞を怒鳴り続けている彼を男らしいと思っていたほどだ。

 私は大学にも行かず、宙ぶらりんな立場だった頃なので、世の中の優しい歌は全然響かず泉谷の本音の声が心に届いていたのかもしれない。

 そして、大学に入学した後、友達に誘われて行った泉谷のコンサート。1985年の横浜国大の文化祭の野外ステージでのライブだったが、そのステージはレコードで聴いていた泉谷の言葉の嵐が見事にリズムに乗って私の心にガンガン突き刺さったライブだった。

 以前のギター2本、ベース、ドラム、シンセサイザー、サックスを擁した6人のバンドで電子音の洪水の中で叫んでいた彼はそこにはおらず、シンプルにギター、ベース、ドラムという最小限の編成の中でパフォーマンスしていた。

ベース、吉田健。ドラム、友田真吾。ギター、布袋寅泰。

 とにかくこのメンバーの出すビートは泉谷の歌詞にぴったり嵌った。布袋はBOOWYがまだ商業的成功を収める前で、アルバイト感覚でバックを務めていたのかもしれないが、私はこのバンドの布袋のプレイは忘れられないくらいのインパクトがあった。出てくる音、出てくる音が理解できないくらい煌びやかだったのだ。

そして、ライブはエンディングに近づくと会場内はどんどんヒートアップし、圧死者が出るのでは無いかというほどの状況となる。人の流れが前へ前へと押し寄せる。そしてエンディングに近づき、「火の鳥」「国旗はためく下に」ではステージ後方からの火炎放射器により、ステージに押し寄せた我々の身体が吹き飛ばされるのではないかという炎が我々の顔を染めたのだ。ドラムの友田真吾なんて火傷をしていたのではないか。

 そのライブから3ヶ月後、同じメンバーで、ある劇場のこけら落としコンサートを行うことが決まった。3日連続公演。場所は地下鉄有楽町線氷川台駅(現在は副都心線)。

「転形劇場T2スタジオ」と呼ばれた場所だった。転形劇場は1960年後半、太田省吾を中心に結成された劇団で、当時の世相から寺山修司の天井桟敷、唐十郎の赤テントなど小劇場やアングラ演劇が華やかな時代から活動していた。

 活動拠点をまだ田畑が残る氷川台の牧歌的な空間に移し、その倉庫のような建物に回転舞台を組んだ劇場をオープンし、そのこけら落としの一環で泉谷しげるのコンサートが開催されたのだ。

 私は3日間通った。

席は自由だったから毎回並んで開演を待ったが、その会場係や誘導係に大杉漣がいた。彼は転形劇場の劇団員だったのだ。

口ひげを蓄え、ウルフカットのような髪型にこけた頬の彼を見つけたとき、自然と「大杉漣だ!大杉漣がなぜ、ここに居るんだ?」と口走っていた。

一緒に並んでいた彼女(家内)は、「大杉漣?誰?バンドの人?」などと言う。

 私は大杉漣をすぐに認識した。なぜなら、私は日活ロマンポルノでの彼の演技がとても好きだったからだ。日活ロマンポルノは成人映画だが、日本の裏社会の機微や東映セントラルに負けないくらいのハードボイルドな作品も多く排出していた。それこそ、大杉漣のようないぶし銀の俳優がそこかしこに居て、独特な作風を醸し出していた。そして、当然日活ロマンポルノに出演している俳優は中々テレビにも出演しないので、彼女のような発言も決しておかしくはない。しかし、そんな俳優が目の前で客の整列を促している・・・。

黒いTシャツに黒いスリムパンツ。人を寄せ付けない風貌で客を誘導している。私の近くに彼が来た時、私は意を決し、声を掛けた。「大杉漣さんですよね」。

かみそりのような表情が崩れ、「はい、そうですが・・・」彼は笑って応えてくれた。

「転形劇場T2スタジオ」は翌年も泉谷しげるの公演を行っている。因みに泉谷のその時のバックはボイス&リズム(石田長生、藤井裕、正木五郎)に変わっており、大阪のイナタイビートの泉谷が堪能できた。そしてその時も大杉漣は会場誘導を率先して行っていた。

 大杉漣が亡くなって泉谷しげるのコメントが発表された。

80年代に、大杉さん主幹の「転形劇場」のステージで、渾身の3日間ライブは今だに忘れられない。それからもズッとオイラのライブファンでいてくれて、最近もライブに来てくれててさ》、《大杉漣とは楽しいことばかりしてきたのだ急性心不全で急死なンて信じられるワケないだろ 漣さん66だろ オイラは受け入れないからな だから哀悼もしない またすぐ会おう》

実に泉谷らしい言葉である。清志郎の時も同じようなことをつぶやいていたっけ。

 私は学校も近かったこともあり、転形劇場にはその後数回足を運んでいる。

泉谷の激しいビートが木霊した劇場が一変し、その中で無言劇を演じる大杉漣。

痩せた身体の大杉漣は舞台をゆっくりと歩くだけ。そして水を飲むだけ。そんな動きから様々な自然を表現したり、男と女を表現したり・・・。

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 転形劇場は1988年に解散しているから、T2スタジオは正味3年の出来事だった。

 しかし、大杉漣を見るたびに誘導してくれていたあの姿を思い出し、笑顔で顔を崩した彼が蘇る。



2018/03/28


花形


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by yyra87gata | 2018-03-28 08:44 | 音楽コラム | Comments(0)

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 今年も沢山の著名人が鬼籍に入りました。

俳優では松方弘樹さん、根津甚八さん、神山繁さん、渡瀬恒彦さん、藤村俊二さん。女優の野際陽子さん。ミュージシャンではロックンロールの創始者チャック・ベリーやスワンプミュージックの雄、レオン・ラッセル。日本でもかまやつひろしさんといったベテランが次々と倒れました。昭和は遠く成りにけりでありますが、12月に入ってショッキングなニュースが・・・。

サックス奏者のジェイク・H・コンセプションが12月4日に亡くなったのです。81歳。

ジェイクは日本の軽音楽の立役者であり、歌謡曲からロック、フォーク、ポップスとジャンルを超えて活躍したミュージシャンであります。フィリピン出身で1964年に単身来日しており、1970年代中半から大活躍となります。

ひと昔もふた昔も前のサックス奏者は、ジャズに固執するあまり、他のジャンルのミュージシャンとはプレイできない、ましてや演歌をプレイするなんて「魂を売った」というような妙なプライドを持っていたと聞きます。それはそれでいいでしょうが、そんな前時代にジェイクは一人黙々と日本の音楽に溶け込みながら名曲のバックをこなしていきます。

都はるみの「北の宿から」も西城秀樹の「YMCA」も岩崎宏美の「聖母たちのララバイ」も近藤真彦の「ギンギラギンにさりげなく」もみんなジェイクのサックスです。他にも数多くの大ヒット作品を手がけ、いつもニコニコ笑いながら仕事をしていたそうです。

皆さん、思い浮かべてみましょう。先ほどあげた作品。きっとサックスのメロディーが頭に浮かぶと思います。そういうメロディーを吹くことが出来、心に残る音色を出すことが出来るミュージシャンなのであります。

1980年代の渡辺貞夫の言葉

「今、日本で吹いているサックスプレイヤーでジェイクに勝てるミュージシャンはいないね。あいつは凄いよ。なんでも吹けるからね。僕もかなわない」

先日の吉田拓郎の言葉

「レコーディングするでしょ。「タクロー、ダイジョウブ。OKOKマカセテオイテ!」とか言ってサッと終わらせちゃうんだよ。その仕事の早さと出来といったら。凄いミュージシャンだったよ」

以前、山下達郎はサックスプレイヤーをバックにつける時の条件を、その音色と話していました。テクニックではなく、自分の音楽に絡んだときに心地良い音色となるかどうかということ。

まさに、ジェイクは日本のポップスの求める音色だったのだと思います。

そして、ジェイクのサックスは歌物のバックに適していたのでは無いでしょうか。

ジェイクは、1978年にリーダーアルバム『リーサ』を発表しています。

レイ・チャールズの「ジョージア・オン・マイ・マインド」といった定番の曲からコール・ポーターが1929年にミュージカルのために書き下ろした「恋とはなんでしょう(What is this thing called love)」といったスタンダードナンバーまで、日本の一流ミュージシャンを迎え制作されました。

非常に聴き易いアルバムで、とっつきにくいジャズの世界ではない、明るくライトな仕上りとなっていますが、あまり話題にはなりませんでした。インストゥルメンタルよりも歌物のバックで活きるサックスなのだと思います。

丁度この頃、ジェイクは吉田拓郎のアルバム『ローリング30』(1978)の制作に加わっており、「英雄」「裏街のマリア」といったヘビーなファンクサウンドから「冷たい雨が降っている」「素敵なのは夜」といった感傷的なソロまで変幻自在の音を紡いでいます。そして、その後、大々的に始まったコンサートツアーでその姿を私たちの前に見せたのであります。

おおらかな笑顔で両手を広げながらリズムを取り、黙々とサックスをプレイする。時にギターの青山徹や鈴木茂とバトルをする激しいサックスも披露してくれました。

それは、あたかもスプリングスティーンの横で客を威嚇するようにサックスをぶちかましていたクラレンス・クレモンズを髣髴させるものがありましたが、ジェイクの方が笑顔が多い分、人柄が良さそうでした(クレモンズさん、ごめん)。

歌物のバックに生える音なのです!

ジェイクはひっぱりだこのミュージシャンでしたから、まとまったコンサートツアーは1979年~1980年頃の吉田拓郎のツアーぐらいしか活動はなかったのでは無いでしょうか。

そんな彼のプレイを生で観ることができたことは、今となっては幸せなことだと思っております。

艶があり、どこまでも伸びるアルトサックスの音は我々の情感を刺激しました。

レコードのミュージシャンクレジットを見てみましょう。

必ずジェイクの名前を見つけることが出来ると思います。

2017/12/20

花形


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by yyra87gata | 2017-12-20 17:55 | 音楽コラム | Comments(0)


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1970年代は、松田優作のハードボイルドの時代だ。テレビドラマの破天荒な刑事役や東映の遊戯シリーズ、そして角川映画「蘇る金狼」で昇華する。

「気をつけろよ、刺すような毒気がなけりゃ、男稼業もおしまいさ。」こんないかしたキャッチコピーは松田優作しか似合わない。

1980年代からは鈴木清順や森田芳光などと組み、人間ドラマの新境地を開いていくが、私はクールで熱い狙撃者としての優作の方が好みである。

だから、尖った演技に通じるものがある彼の音楽活動にも興味があったし、そんな雰囲気一発で決める彼の唄るスンY TONK BLUES         も含めてファンであった。

神奈川県の地方局であるテレビ神奈川。

地元の企業や店舗のローカルCMが頻繁に流れているが、その中で私の中学時代によく流れていたCMは「横浜シェルガーデン」というライブレストランだった。

ライブを楽しみながら食事を取るという内容だったので、金の無い私には縁遠い所であったが、ライブスケジュールを「Player」誌で確認するとかなり有名どころの名前も挙がっていたので、興味本位で行ってみたことがある。

山下公園の外れ。マリンタワーの近くにそのライブレストランはあった。隣はバンドホテル。いや、正確に言うとバンドホテルの別館に造られたライブハウスが「横浜シェルガーデン」なのだ。

バンドホテルはホテル・ニューグランドと並ぶ横浜の有名なホテルである(であった)。

趣深い外観を持ち、創業は1929年。戦時中は同盟国であったドイツ軍専用のホテルであり、敗戦後はアメリカに接収された。

接収が解かれた後は、その雰囲気から数多くの映画やドラマの舞台になった。また、淡谷のり子の「別れのブルース」、五木ひろしの「よこはま・たそがれ」、いしだあゆみの「ブルー・ライト・ヨコハマ」はバンドホテルが舞台となって制作されたといわれているほど愛されたホテルである。そんなバンドホテルを松田優作は定宿にしていたという噂もあったし、そんな雰囲気の良い場所でライブも観ることができるのかという期待で訪ねた記憶がある。もちろん松田優作を観るためである。

1984年初夏。横浜国大の学園祭でシーナ&ロケットを観た時、配付されていたフライヤーに「松田優作with X・横浜シェルガーデン」の文字。

私は、期待に胸膨らませ、横浜シェルガーデンに向かった。

デートで山下公園を歩くと、港と雰囲気の良いホテルが絵になって、気分も高まったものだが、松田優作を観るために横切る山下公園は確か男友達と行った記憶がある。

古ぼけた洋館の佇まいを奥に見て、その雰囲気に飲まれそうになりながら会場に入ると思っていたより狭い空間に驚いた。

テレビCMではゆったりとした空間で料理に舌鼓を打ちながらラテン系のバンドが楽しそうに演奏している映像だった気がするが、目の前の空間は新宿ロフトのような殺風景な空間に見えた。

優作はバーボン片手にふらふらと現れ、ブルースを歌った。


ひとり飲む酒 悲しくて 映るグラスは 

ブルースの色

たとえばトム・ウェイツなんて聴きたい夜は YOKOHAMA HONKY TONK BLUES


隣で聴いていた黒人の米兵が奇声を上げて喜んでいた。

彼は優作の不安定ながらも味のあるヴォーカルを神の声と讃え、国の母親に聴かせたいと言っていた。

男は「ブルース」をしゃがれ声で「ブルーズ」「ブルーズ」と繰り返す。

そうか、ブルーズなのかと思い、それから私は背伸びして「ブルース」を意識して「ブルーズ」と言うようになった。

バンドホテルはブルーズが似合う。

朽ち果て方もいかしていた。

そんな別館のライブスポットで優作を観ることができた幸運。

後にも先にも彼のワンマンライブを観たのはこの時だけ。

だって、その5年後には帰らぬ人となってしまったから。


 あなたの影を 探し求めて ひとり彷徨っ 
た この街角

本牧あたりの昔の話さ YOKOHAMA 

HONKY TONK BLUES


革ジャンはおって ホロホロトロトロ バー

ボン片手に 千鳥足

ニューグランドホテルの灯りがにじむ セン

チメンタルホンキートンク・マン


ひとり飲む酒 わびしくて 映るグラスは 

過去の色

あなた恋しい たそがれの YOKOHAMA 

HONKY TONK BLUES

        

バンドホテルが解体された後はドン・キホーテが建ち、時代に飲まれたんだなという感慨に耽ったが、それも今では無くなり、東京オリンピックを見据えた大型商業施設が建築中である。

そんな建築現場に建つとブルーズだなぁと感じる。

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2017年11月24日
花形

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by yyra87gata | 2017-11-24 20:17 | 音楽コラム | Comments(0)

関西の熱い風

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 GSブームと同時期に関西フォークという呼ばれ方をしたムーブメントが1960年代後半に存在した。高石友也や岡林信康がその中心に位置し、若者が自分の言葉で歌を作り、発表し始めた。今では当り前のようなこの事象。

それまでの日本の歌の世界は職業作家が作った歌を「歌手」が歌うという分業が当り前で、自分で歌を作って発表するといったことは皆無であった。きっとこれは海外からの、特にボブ・ディランに感化された若者の行動がそのムーブメントにつながったのではないだろうか。ディランやビートルズがそうであったように自分の言葉で自分の歌を作る。東のカレッジフォークと共に関西を起点にフォークブームは、素人が自作自演を行なうきっかけとなっていった。

そして、それから数年後、ブルースやソウルの声も上がっていく。ライブハウスからブルースバンドが数々生まれ、その中からプロとしてデビューするバンドも増え始めた。

音楽の中心は東京と考えられていた時代は昔日のものとなり、関西発の音が全国に発信されていった。

その関西発の音楽の中でもこの2つのバンドは伝説となっている。

「ソー・バッド・レビュー」と「上田正樹とサウス・トゥ・サウス」。

関西フォークでは割と標準語で歌詞を作り、標準語で歌われる歌が多い中、このソー・バッド・レビューや上田正樹とサウス・トゥ・サウスは関西弁を駆使し標準語にはないノリをビートに乗せていった。そしてそれは現代のラップにも繋がる言葉遊びも存在した。また、関西弁をあの時代にここまでフューチャーすることができたのは、当時日本のロックと言うものが全然ビジネスになっておらず、超マイノリティな音楽だったので、逆に自由度が大きかったからでは無いだろうか。つまり、それまでの日本のロック業界は、「GS」で失敗していたので、職業作家によってガチガチに作り上げられたGSとは一線を画したかったのかもしれない。

方言丸出しのロックバンド。そのような歌がレコード化されること。まさに、自由なのである。

その言葉の問題だが、東北弁でも、べらんめぇの江戸っ子の言葉でも、九州弁でもない。関西弁はビートに乗りやすいことをソー・バッド・レビューや上田正樹といったバンドマンは知っていたのだろうか。それとも気負い無く生活の歌をビートにのせていっただけなのか。あまりにも音楽的グルーヴにマッチした化学反応ではないか。

関西弁は今でこそ標準語のようにテレビからあふれ出てきているが、1980ごろまでは一つの方言であり、ブラウン管からは今ほど飛び出してはこなかった。

関東の人間からすれば、関西のテレビ局が制作するバラエティーでしか関西弁はお茶の間には入ってこなかったのだ。

「ヤングおー!おー!」「ラブアタック」「プロポーズ大作戦」「パンチDEデート」など。

「新婚さんいらっしゃい」といった長寿番組もあるが、その番組でしか関西弁は登場しなかったし、関西の芸人も今ほど東京の番組に出演していなかった。そして前述の番組を揚げて分かるとおり、殆どがバラエティー番組である。歌の世界に関西弁はそれほど登場していなかったのだ。

では、関西弁はいかにしてお茶の間に入っていったのか。

やはり、1980年ごろのMANZAIブームが起点となり、「オレたちひょうきん族」がドリフや欽ちゃんを駆逐したことで明石家さんまや紳助が台頭し、東京進出により関西弁が本格的に東京に上陸したのだ。

だから、私は、そんな時代背景の中でまだ「オレたちひょうきん族」が生まれる前に、先ほどのソー・バッド・レビューのレコードを聴いた時の衝撃といったらなかったのだ。

これが同じ日本語かと思えるほど、ブルースの八分の六のリズムに心地良く乗る言葉たち。

それまでの関西出身の歌手、例えば沢田研二でも和田アキ子でも歌ってしまえば標準語の歌となっていたので、これほどまでに関西弁を強調した歌というものを私は聴いたことが無かったのだ。

関東圏で生きてきた者にしてみれば、関西弁は外国語の発音に近かった。また、語彙も標準語とはかけ離れている。自分は「わい」あなたは「自分」。もうこれだけでも可笑しい。

今の若者にしてみれば、小さいときから関西弁を聞き、東京の子供でも「めっちゃ」とか平気で使う昨今。そんな人にしてみたら私の驚きなど気にも掛けないことかもしれないが、当時は独立した言葉に聞こえたのだ。

例えば、ソー・バッド・レビューの「おおきにブルース」などはトーキングブルースで、「そやがな・・・おおきに」とか「わいや、わいやがな・・・おおきに」とか、大阪人の口癖をすべて「おおきに」という魔法の言葉で括ってしまったブルース。このような歌は、東京出身の人間は絶対作ることはできない。

また、上田正樹とサウス・トゥ・サウスのアルバム『この熱い魂を伝えたいんや』(1975)の「むかでの錦三」という歌。まずもってこのタイトルのセンス。そういえばソー・バッド・レビューのアルバム『SOOO BAAD REVUE』(1976)に収録されている「青洟小僧」「しょぼくれあかんたれ」「お母ちゃん、俺もう出かけるで」も相当なセンスである。

タイトルだけみていると演歌のような雰囲気もあるが、どの曲も黒いグルーヴが溢れる聴き応えのあるソウルフルな曲ばかりである。

私の高校時代、日比谷野外音楽堂で開かれるイベントに行けば、関西系のバンドが必ず1〜2つは出演していた。その中で上田正樹とサウス・トゥ・サウスもいたし、ソー・バッド・レビューを解散した石田長生がヴォイス・アンド・リズムを率いてソウルフルなギターを奏でていたこともあった。

そんな光景を切り取ってみても、関西のノリは明らかに違っていた。

とにかく客を乗せることが上手い。汗をかきながら身体全体でシャウトし客を鼓舞する。

「乗ってるか!ええか?ええのんか?!」という関西弁が木霊する。

変な意味で関西弁に慣れていない我々は、この言葉は笑福亭鶴光のオールナイトニッポンで鶴光が卑猥な意味としてラジオで話していたから、上田正樹が汗まみれになって「ええか?ええのんか?」と叫んでもニヤニヤ笑ってしまうということもあった。

それほど関西弁は普通に入ってこなかったのだと今改めて思う。

また、東京のバンドは演奏を黙々と行なって、どちらかと言うと技を見せつけるようなバンドが多かったように思うが、関西のバンドはMCを聞いていても「ノリつっこみ」をしたり、バンドメンバー同士での会話を聞いていても漫才をしているようなノリで、どこまで本気なのか分からなくなる時もあった。しかし、演奏に入ると「いなたいビート」の応酬となり泥臭くなっていく。そのギャップが面白かった。

上田正樹の「悲しい色やね-OSAKA BAY BLUES」、BOROの「大阪で生まれた女」、やしきたかじんの「やっぱ好きやねん」など1980年前後から大阪弁を使う歌はバラッドが多くなってきた。

時代の音楽性もあるかもしれないが、ブルースやソウルでは商業的な成功は出来ないということの答えになるかもしれないが、聞き手からすると『SOOO BAAD REVUE』や『この熱い魂を伝えたいんや』というような熱いサウンドを再び聴いてみたいと思う冷たい夏である。

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2017年8月18日
花形


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by yyra87gata | 2017-08-18 19:57 | 音楽コラム | Comments(0)
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  中学、高校時代はとにかくレコードを買うためにいかに金を工面するかということに心血を注いだ。

部活や委員会の仕事もあったので、バイトなんて出来ない。かといって小遣いだけではLPレコードを1枚購入するのがやっとである。当然、昼飯を削って金を作ってもタカが知れているし、毎日昼飯を抜くのも辛いものがある。

そんな時に手っ取り早く金を手に入れる方法として考えたことは、自分の持っている不要なものを友達に売るということだった。自分の家にある本や漫画、Tシャツやらトレーディングカード類など・・・それらをノートに書き込んで販売価格を書く。そして、休み時間にみんなに見せると、意外や意外、これが飛ぶように売れた。そして、噂が噂を呼び、隣のクラスのヤツも私のノートを覗きにくるようになった。

「あ、これくれ!」「じゃ、500円ね、商品は明日持ってくるわ」なんてなもん。

そうこうしているうちに、自分で売るものがなくなり始めた時、I君が「俺の家にある要らないものも売ってくんない?」と言い出した。

「お前も同じようにやればいいじゃん」と言うと、「俺は口下手だからなかなかそんなようにできないよ・・・」なんて言いやがる。

「いいよ。その代わり、販売手数料で10%差し引くぜ」と言ったら、I君どころか他にも大勢の委託者が集まってきた。

私のノートは友達の商品で真っ黒になっていった。

これ、本当は学則で禁止されている学内での商品販売行為だったのだが、そんなことはお構いなしに私は売上を伸ばしていた。

因みに・・・大学時代、家内と伊丹十三監督の「マルサの女」という映画を観ていた。その映画の中で、脱税をしている山崎努の息子(小学生)が当時の私と同じことをして友達と商売をしているという逸話が流れたとき、家内は大声で笑っていた。

「ここにもおんなじことしていた人いますよ~」

これって、今考えるとフリーマーケットから派生したメルカリと同じ仕組みだ。

私は約40年前にメルカリの仕組みを実践していたことになるのだ。

ま、そのおかげで、レコードを購入することができたのだが、私の場合、闇雲にヒットアルバムを購入するわけでなく、中古レコード店「ハンター」に通い、誰もが購入しそうなものは敢えて外し、誰も聞きそうにないレコードを選んでいた。

ヒットアルバムは何年経っても在庫はあるだろうし、最悪、友達も持っているだろうから借りることもできるだろう。しかし、マニアックなものは流通が少ないし、一度逃すと次が無いという感覚もあり、そういったレコードがあるとすぐに購入していた。

そんな中、ブルース・スプリングスティーンが『明日なき暴走』(1975)の大ヒットをアメリカで記録した。次作の『闇に吠える街』(1978)も順調なセールスを上げていた時、ようやく日本でもちらほらと話題になってきていた。

私は、『明日なき暴走』も『闇に吠える街』も揃えてはいたが(スプリングスティーンはそんなに有名ではなかったので中古市場にもあまり出回っていなかったので購入するのに苦労した思いがある)、彼のファーストアルバムである『アズベリーパークからの挨拶』(1973)は持っていなかった。

スプリングスティーンは「土曜日の夜、可愛いあの娘とデートするために他の日は犬のように働く」と歌う労働者の匂いがぷんぷんしたミュージシャンだったから、そんな生活習慣の無い日本人にはなかなか理解されなかったのだ。

そんな彼のファーストアルバムはディランの真似事と言われることもあったようだが、私にはただのロックンロール好きの兄ちゃんという印象だった。

『アズベリーパークからの挨拶』は中古盤屋をいくら探してもその盤は無く、ようやく見つけた先が、丁度日本に進出してきたばかりのタワーレコードだった。しかも、その盤はカット盤(B級品)として陳列されていた。

しかし、その時、私はもう1枚欲しいアルバムを見つけてしまっていた。

レーナード・スキナードの『セカンド・ヘルピング』(1974)である。しかし、2枚いっぺんに購入するだけの余裕はない。

そこで、一緒にいた友達のY君に交渉。

「スプリングスティーンのデビュー盤に興味ない?今、すげ~流行っているスプリングスティーンだよ。え?ヒット曲?あ、それは・・・収録されていないな・・・でも、若い息吹というか情熱というか・・・お前が買えばいいって?いやいや俺はレーナードを買おうかと思っててね・・・あ、レーナード貸してあげるから、スプリングスティーンを貸してよ・・・え?レーナード知らないの?・・・おお!知らないミュージシャン2枚も聞く事ができるじゃない。こりゃいいよ、いい!」なんて言いながらY君をその気にさせていた。


ターンテーブルでスプリングスティーンが回っている。

レコードジャケットも折り目がついて本当の挨拶状のようなデザインでお洒落である。

Y君はこのレコードを貸してくれる時に「なんだかよくわからなかったよ・・・、イーグルスを買えば良かった気がする」なんて言ってたっけ。

スプリングスティーンがもがきながらようやくデビューを果たし、それでもレコード制作過程でコロンビアレコード社長のクライブ・ディビスから「今のままじゃヒット曲の要素がまったくないから、何か作れ!」と言われて作った「光で目もくらみ(Blind by the Light)と「夜の精(Spirit in the Night)」。この2曲はアルバムの中で異質な雰囲気となったが、それがアクセントになってアルバムを起伏あるものにしていると思うし、スプリングスティーンの荒削りな部分も際立ち、躍動感を感じることもできる。

このアルバムはすぐにカセットテープに録音し、Y君にレコードは返却したが、カセットテープでは飽き足らず、結局、翌月には自分のレコード棚に収めた記憶がある。

もしかしたら、Y君が私のところに来て「このレコード売ってくんない?」と頼み、それを安く私が購入したのかもしれない・・・。

2017/7/5

花形


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by yyra87gata | 2017-07-05 15:48 | 音楽コラム | Comments(0)

ディランにみるブルース


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 ブルースはもともと黒人の労働歌から派生したものなので、小難しい歌詞が並ぶわけでは無い。そしてそれは、賛美歌やゴスペルのような神へのリスペクトを歌い上げるものでもない。どちらかと言えば、同じフレーズを繰り返し、人間のみじめさや憂いを醸し出す表現が多く、時に攻撃の言葉で彩られる。しかし、決してそのフレーズは白人に聴かれてもわからないような隠語やスラングを使い、笑顔で白人に対時しながら心の中で中指を立てて歌う。そんな刃のような歌だ。

虐げられた世界・・・貧困、差別、諦め・・・未来の無いプランテーションの中だけの世界。そんな苦境の中でも、農民は働いていれば幾ばくかの食料を得ることが出来る。動きを止めたら死に直結する下層社会に生きる彼らの上階で白人はパーティーを開いていた。そんな不平等を裁く者は無く、司法、警察も全て白人寄りで動くとなれば、気概のある黒人から黒人開放の運動が起きても何ら不思議では無い。その運動が最終的に暴力なのか、歌という表現なのか・・・。

ブルースはアメリカの作り上げた社会の汚点から派生した歌といえる。

ブルースのスタンダードは数多くある。

“Key to the Highway”というトラディショナルブルースがある。誰が作ったかもわからない歌だ。

この歌詞の中の“Key”は「鍵」?。“Highway”は「ハイウェイ」?

「ハイウェイの鍵」では意味が通じないが、黒人の境遇を慮ると、ハイウェイは自由な土地に続く道かもしれない。ハイウェイの先には自由があって、そのハイウェイに乗る権利を得るということでしっくりする。

それが証拠に、

Cause when I leavehere, baby. I won’t be back, no I won’t be back anymore.”

とある。つまり、もうここには帰ってこないよ、ということは、新たな希望の土地に行くと言うことであるからだ。


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 “Further on up the road”は、古くから歌い継がれるブルースのスタンダードである。フレディ・キングやTボーン・ウォーカー、ジェームズ・ブラウン、ゲイリー・ムーアなどがカバーしており、中でもエリック・クラプトンは映画「ラスト・ワルツ」の中でザ・バンドと競演している姿が印象的である。

さて、この“Further on up the road”だが、直訳すれば「この道のずっと先で…」となる。そして“Someone's gonna hurt you like hurt me”と続く。

「お前が俺にしたようにお前も誰かに傷つけられるぞ!」となる。

これも、まさにブルース。

You gotto reap just you sow. That old saying is true.”

蒔いた種を 刈り入れることになる 古い諺は真実だ」

因果応報の世界なのである。

こういったブルースの世界・・・魂の叫びは多くの人の心を動かすもので、そんな黒人音楽に共感した白人の若者たちは、1960年初頭よりエレキギターを手に取り始めた。

ホワイトブルースの誕生である。

その流れはアメリカよりもイギリスのバンドであるビートルズやローリング・ストーンズ、ヤードバーズやアニマルズなどがいち早く反応し、その流れを作り上げて行った。

そう、ホワイトブルースの主流はイギリスにあった。

それはアメリカの闇である差別が生んだ副産物である。

なぜなら、アメリカで中々歌う場所に恵まれなかった黒人のマディー・ウォーターズやオーティス・スパンが次々に渡英。特にソニーボーイ・ウィリアムソンⅡのイギリス公演にはバックミュージシャンとして若いヤードバーズが務めたことも大きな転機となったからだ。それまでのイギリスはアメリカでいうところのロカビリー~スキッフルブームで沸いていたが、刺激を求める若者はその軽さに飽き飽きしており、1950年代よりアレクシス・コーナーやジョン・メイオールが演じるブルースに火が点き始めていたのだ。

そして、1960年代半ばから後半にかけて、ブルース・ブレイカーズからクリームへと渡り歩いたエリック・クラプトンやヤードバーズから派生したレッド・ツェッペリンへの系譜がブリティッシュブルースを確立していくことになる。


同時期のアメリカでは、ロックンロールリバイバルに踊り、アメリカンポップスが花開いていたが、すぐにビートルズ旋風やブリティッシュ・インベイジョンの影響で蔑んでいた黒人の音楽を彼らから知ることになった。だから、音楽業界と前時代の大人たちは真っ向から黒人音楽に立ち向かうことになってしまったのだ。

しかし、白人はここでもパブリッシュという仕組みで黒人音楽で金儲けを始めていくから抜け目ないというかなんというか・・・。

そのような音楽のマグマが沸騰しかけていた頃、ボブ・ディランはサードアルバム『The Times They Are A-Changin'』(邦題「時代は変わる」)(1964)の中に衝撃的な作品を収録する。

“Only a Pawn in Their Game”(邦題「しがない歩兵」)は、黒人解放運動家が暗殺された事件を歌った作品だが、それまでの歌には無い表現がこの歌には組み込まれている。

冒頭のブルースしかり、黒人開放を訴える歌しかり・・・その事象をあるときはオブラートに包みながら、あるときは赤裸々に表現することが今までの歌にはなされてきた。しかし、ディランは「Only a Pawn in Their Game」の中で、黒人を虐げた者、暗殺をした白人のことについて、その男もある意味被害者なんだと訴えた。

しょせんそのプア・ホワイトは、大きな仕組みの中に組み込まれたただの駒に過ぎないのだと・・・。

貧しい白人は「お前は黒人にならなかっただけでもいいだろう・・・文句は言うな」とリッチな白人に言われるだけ。そして、「そのしがない歩兵はバカな上官の言うことが絶対なのだから、そのこと事体が一番の不幸なんだ!」と歌う。

黒人開放を事象だけ捉える歌はごまんとあるが、そのような作品とは一線を画す仕上りに、ディランの非凡さが際立つ作品となっている。

ディランは詩の世界が評価されているが、音楽の基本はブルースの3コードが意外と多い。但し、ディランのそれはトラディショナルブルースと違い、難解な歌詞が延々と紡がれている。

ディランを代表とするプロテストソングは、ただ嘆いたり憂いたりするだけでなく、政治的抗議のための歌であることから1960年代から派生したこれもひとつのホワイトブルースと読み替えても良いのではないだろうか。

白だ黒だと規制し、歌で意見を表現しなければならない境遇・・・。

歌の持つ力が遺憾なく発揮されるとも言えるが、住みにくい世界にこそ生まれた至宝の産物かもしれない。

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2017/6/21

花形


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by yyra87gata | 2017-06-21 19:57 | 音楽コラム | Comments(0)

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私は出張先のビジネスホテルで映画を良く観る。多い時では月に15本くらい観る時もある。

先日、出張先で観たクライムホラー映画。2016年の作品「ミュージアム」(主演:小栗旬)は、雨の日に起こる猟奇殺人を追う刑事と犯人との壮絶な駆け引きの映画だ。

映画の内容はともかくとして、その映画の英語タイトルに目が行く。

THE SERIAL KILLER IS LAUGHING IN THE RAIN. ”

邦題タイトルの「ミュージアム」は猟奇殺人を衆人に晒すという犯人の残虐性から来るタイトルだが、英語タイトルはどちらかというと「雨」というストーリーのキーワードに触れたタイトルで、なるほどな、と思った。


さて、このタイトルを見た時に思ったことは、かつてニール・セダカのヒット曲で雨の歌がこんなタイトルだったな、と。(・・・全然映画と関係ないんだけどね)

邦題「雨に微笑を」、“LAUGHTER IN THE RAIN”である。

のどかでおおらかなポップスの大ヒット曲である。

のどかでおおらかなミドルテンポの具現化したものこそニール・セダカ私が最初にこの歌に触れたのは、小学生の頃に弾いたエレクトーンでのこと。譜面の端に記載されたアーティスト名を見るとニール・セダカとある。

私は、小学生ながらエレクトーンを弾いていたおかげで1950年〜1970年あたりのアメリカンポップスは熟知していた。だから、その曲の制作者にニール・セダカとあることにビックリしたのだ。

なぜなら私の中のニール・セダカ像は、「おお!キャロル」「カレンダーガール」や「悲しき慕情」といった脳天気なアメリカンポップスの人というイメージだったからで、白人の作り出す重厚なオーケストレーションや軽やかなピアノのタッチ、ロックンロールのビートなど古き良き時代の音を具現化したものこそ彼の持ち味という印象があったからだ。

そして、後日「雨に微笑を」のヴォーカル入りを聴いた時に再び驚いた。

なんと、柔らかなヴォーカルなのか。女性が歌っていると錯覚した人も多かったのでは無いだろうか。そこにはニール・セダカのやさしい高音が心地良く響いていた。


1950年代から1960年代中盤まで、アメリカの古き良きポップスはニール・セダカやポール・アンカ、当時作曲家デビューした新進気鋭のキャロル・キングなどが活躍するゴールデン・エラがあったのだ。

アメリカは太平洋戦争に勝利し、朝鮮戦争を終え、ゆったりとした時間が流れていた時・・・そこにはまだベトナム戦争も始まる前の裕福なアメリカがあり、急速に発達した楽器(エレクトリックギターやベース、電子オルガンなど)で、どんどん新しい音楽やビートが生まれていった。

シナトラがスウィングしながら軽やかに歌い、若手のプレスリーが新しいビートを刻む。アメリカンポップスが一番輝いていた時かもしれない。

しかし、その輝きもビートルズやローリング・ストーンズの登場で音楽地図が塗り替えられていった。第一次ブリティッシュ・インベイジョンの到来だ。シンプルな力強いビートと下世話な歌詞にティーンエイジャーは狂喜乱舞し、大人たちは眉を顰めた。

あんな髪の長いヒッピーのような男が鶏を絞めたような声で叫んでいるものが音楽なのか、と。

そして、その激流(ブリティッシュ・インベイジョン)はあっさりとアメリカンポップスを飲み込んでしまい、ポール・アンカやニール・セダカは一気に時代遅れの音楽に成り下がってしまった。

それからというものニール・セダカは、ブリティッシュ・インベイジョンに影響を受けたアメリカ版ビートルズであるモンキーズに曲を提供するといった皮肉な仕事もこなし、ドサ回り公演を経験するまで落ち込んで行った。

ひと晩39ドルでピアノを弾くという仕事まで請けた大スターは、再起を誓いつつ家族とともにイギリスに渡ることとなる。そのサポートをしたのがエルトン・ジョンであり、そこから起死回生の大ヒット曲が1974年に生まれた。

かつて自分を栄光の座から引き摺り下ろしたイギリスの音楽シーン・・・そのイギリスで再起の芽を掴んだニール・セダカ。

因みにこの「雨に微笑みを」はハリッウッド録音で、若手実力ミュージシャンだったラス・カンケル(Dr)、リー・スクラー(B)、ダニー・コーチマ(G)、ディーン・パークス(G)、ジム・ホーン(Brass)がバックを固めている。上質で丁寧なつくりだ。

LAUGHTER IN THE RAIN


Strolling along country roads with mybaby
It starts to rain, it begins to pour
Without an umbrella we're soaked to the skin
I feel a shiver run up my spine

I feel the warmth of her hand in mine

Oo, I hear laughter in the rain,
walking hand in hand with the one I love.
Oo, how I love the rainy days
and the happy way I feel inside.

After a while we run under a tree.
I turn to her and she kisses me.
There with the beat of the rain on the leaves
softly she breathes and I close my eyes.

Sharing our love under stormy skies

Oo, I hear laughter in the rain,
walking hand in hand with the one I love.
Oo, how I love the rainy days
and the happy way I feel inside.


突然の土砂降り・・・

冷たい雨の中、君が僕の手を包む

愛する人と行けば、こんな雨だって素敵なものさ

雨に微笑みを・・・

幸せは近くにあるものさ


雨は様々な苦難に書き換えられる。

突然襲ったブリティッシュ・インベイジョンに耐えながら・・・。

しかし、愛する家族は彼を応援し続け、彼は再起を果たす。

歌詞だけを見るととても甘いラブソングだが、そこにはニール・セダカの生き様が記されている。

一番の苦境に立ったときにこんなに優しいメロディーをあの柔らかいヴォーカルで歌うことができるミュージシャン。

だから、今でも現役でステージに立つことができるのだ。

音楽家生活60年を超えるレジェンドである。

妙な内容の映画から想起した素敵な歌の紹介でした。

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2017年5月31日
花形


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by yyra87gata | 2017-05-31 16:29 | 音楽コラム | Comments(0)