音楽雑文集


by yyra87gata

ライブハウスについて

 未成年の頃は、何か背伸びをしてみたい年頃なのである。大人のマネをしてタバコを吸ってみたり、ちょっと悪ぶってバイクを乗り回してみたり、異性との付き合いもそのひとつかもしれないな。しかし、ちょっと悪ぶったところで、所詮高校生のすることはたかがしれているし、親や先生の目を気にしている時点で可愛いものなのだ。
僕の高校は、キリスト教の学校。一応進学校だったので、校則は結構厳しかった。下校中の買い食いや喫茶店への立ち寄りは禁止だし、タバコが見つかると常習者は退学処分にまで発展した。みんな隠れて喫茶店でタバコを吸っていたようだが、今思うと相当なリスクだったのだ。そんな中で僕が犯していたリスクは・・・。
ライブハウスへの出入りである。
今の時代であれば、なぁんだと思うことなのだが、当時はライブハウスに行く高校生はそんなにいなかった。
ライブハウスはタバコとアルコールが「つき物」であり、高校生の出入りするようなところではないのである。しかし、現在は高校生が制服姿でライブハウスに行くことも珍しくなくなってきている。それはきっと1990年代初頭のバンドブームから変革したのではないだろうか。バンドは生来不良のやるものと決まっていた。しかし、あの時は猫も杓子もバンドバンドで、親が子供にバンドを奨励していたぐらいだ。団塊の世代が親になり、必然的に起きたブームといえるのかもしれない。そして、ライブハウスがいつの間にか親公認の音楽の発表の場という存在になってしまった。後ろめたさも何も無いもんなぁ。
さて、それはそれとして、そのライブハウスだが、僕が高校時代に通っていた主なところは、
渋谷LIVE INN・・・ブルーズロック系
渋谷Egg Man・・・ポップス系
渋谷クロコダイル・・・ロック系
渋谷ジャンジャン・・・フォーク、ロック系
新宿ロフト・・・ロック系
新宿ピットイン・・・ジャズ
新宿ルイ―ド・・・ポップス系   などである。
ライブハウスでのライブはコンサートと違って、開演時刻も少し遅いが、その分終了時刻も遅かった。
ちょっと前までのホールコンサートは大体18時30分の開演で21時には終わっていた。多分、公共施設の貸し出し時間によるものなのだろうが、とにかく、アンコール含めて21時が目安だったと思う(今は条例の緩和かどうか知らないけれど、割合遅くなってきている)。
しかし、ライブハウスは関係ない。19時くらいからダラダラと始まる。休憩を入れたりしながら、22時くらいまで平気で演奏している。ジャズやブルーズはそれが顕著だった。
高校2年の時、ピンククラウドを渋谷LIVE INNで観たことがある。
彼ら3人はとにかくマイペースな人たちなので、客も十分それを理解しており、全体的にリラックスした雰囲気が漂っていた。19時開演だったが、時間が来ても始まる気配は一向に見えない。その間、客はずーっと立って待っている。タバコを吸いながら、ビールを呑みながら・・・。僕と友人のW君も大人たちに習い、制服姿だったが、煙を吐いていた。
チャーを先頭に舞台に3人が上がったときは、20時を過ぎていた。何とルーズなことか!その後、ライブハウスはバケツの水をひっくり返す勢いの盛り上がりを見せた。みんな若かったし・・・。
1時間ほど演奏すると、おもむろにチャーがMCを入れた。
「ほんじゃあ、ここで休憩を取ります。みんなもリラックスしててくれ。酒を呑むとか・・・。売上に貢献してやってくれ・・・なんちゃって!」
と言ったかと思うと、舞台袖から椅子が3脚とテーブルが運ばれ、ビールが設置された。
なんと彼ら3人は、舞台で休憩を取り始めた!客は大爆笑。野次を飛ばすが、3人は客を無視し続け、タバコを吸いながら談笑している。3人が休んでいるところを客は見ている。変な構図である。
15分ほどした頃、チャーが言う。
「そろそろ、残業に取りかかりますか・・・。」
3人はそれぞれの持ち場に戻り、またまた怒号のライブが始まった。
とても印象深いライブ体験である。コンサート会場には無いノリである。ちなみにこの日のピンククラウドはとにかくぶっとんでいて、ジョニーのドラムソロでは10分間ずーっとスネアを連打していたり、ルイスはベースをリードギターのように弾いていた(ちなみにピンククラウドのコアなファンの間では、ルイスはチャーよりギターが上手いとされている)。その後2回の休憩を挟み、ライブが終了した時は、24時を回っていた。当然、終電もなくなり、僕とW君は歩いて帰った。しかし家に帰らず、そのまま学校に直行し、朝方5時頃に到着、そのまま部室で寝ていた。
 
 
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 大学生になってからは、自分でもライブハウスに出演するようになり、ライブハウスの敷居も低く感じられるようになった。格好良く見えていた舞台の裏が意外にも狭かったり、汚かったりすると昔観たアーティストたちへ妙な親近感がわいてしまう。
ボウイを経て、売れっ子ギタリストである布袋寅泰は、ボウイだけでは食べていけない頃、泉谷しげるのバックをつとめていた頃がある。ライブハウスの狭い舞台や狭い更衣室で、あんな大男(185cmくらいある)が泉谷に怒鳴られて小さくなっていたかと思うと感慨もひとしおだ。
 ライブハウスは客との距離が近いので、ごまかしが効かない。ぽっと出のアイドルが、ライブハウスで勝負にならないのはこういうことだ。
 ビートルズはよく、演奏が上手くないと言われることがあるが、それは全くのガセで、彼らは当時のボーカル・インストゥルメンタル・グループの中では相当上手なバンドだったのだ。その理由は、ハンブルグやリバプールのライブハウスに出まくっていたことに起因する。下積み時代に相当なライブハウス体験をしているのだ。ハンブルグでは1日に3ステージをこなし、異国の小さなクラブの中でもがいていたのだ。当時の実況盤を聴くとリズムこそ危ういが、立派なコーラスとグルーブのある演奏をしている。
ビートルズが売れたことで、同じリバプールからマージービートサウンドがブームになった。二匹目の何とか、というやつだ。しかし、このブームがすぐに終息を向かえる。原因は、みんな演奏が下手だったからだ。ライブハウスにも出ず、いきなりレコーディング(演奏はスタジオミュージシャン)を行い、ヒットパレードに出演した。生演奏のできないバンドにバンドとしての魅力は無い。そんなアーティストは一時的な流行で終わるしかないのだ。そしてこのことは、情けないが、日本のGSブームが踏襲してしまう。だから、GSブームの時に活躍した人で今でも残っている人は、みんな演奏が上手いことで証明される。みんなライブを鬼のようにやってきた人たちだ。
(ザ・ゴールデン・カップス) ミッキー吉野、ルイズ・ルイス加部、柳ジョージ
(ザ・スパイダース) 井上尭之、大野克夫、かまやつひろし
(ブルーコメッツ) 三原綱木、井上大輔(故人)
(フィンガーズ) 成毛 滋
(モップス) 星 勝

 ライブハウスの魅力は、あの狭い空間に潜む爆発寸前のパワーが感じ取れることだ。それはホールや武道館では味わうことの出来ない見えない強力なパワーである。ライブハウスで大きくなったアーティストは多い。矢沢永吉は横浜や川崎、井上陽水やチューリップは博多のライブハウスで修行した。
ライブハウスで大きくなったアーティストは武道館の舞台に立ってもそのことを意識している。
「今日はちょっと大きなハコだけど、いつもと変わらないでやるよ。」(チャーが武道館に初めて立ったときのコメント)
「ライブハウス、武道館へようこそ!」(ボウイ・氷室が武道館に初めて立ったときのコメント)
「今、ここで演っているわけだが、今度ライブハウスというものに挑戦しようと思う!」(1988年コンサートツアー中の吉田拓郎がライブハウス公演に向けたコメント)

 僕は気が向くとライブハウスのスケジュールをインターネットで見る。新しいミュージシャンは良く分からないが、往年の名プレイヤーの名前を見つけるとワクワクしてしまう。まだ、歌っているんだなぁ、と嬉しくなる。間近で名演が堪能できるところがライブハウスの魅力だ。そういえば、昔よく渡辺貞夫を観に行っていたが、新宿厚生年金で観るよりも、六本木ピットインで見た方が感動したものなぁ。グルーブが伝わるというか、ミュージシャンの息づかいまで聞こえるところがいいのかもしれないね。
しかし、最近ライブハウスの経営もキツイようで、古くからの伝統的なハコが消え始めている。大きな資本の入った近代的な小ホールが続々建築されている。小ホールだからいいってモンじゃあないんだよなぁ。ちょっと暗くてタバコのにおいが充満していて、無造作にスピーカーがドカンと置いてある昔ながらのコヤじゃないと雰囲気が出ないね。パワーの源という感じかな。

2005年3月19日(土)
花形
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# by yyra87gata | 2012-12-13 00:37 | 音楽コラム | Comments(0)

オイラはドラマー・・・

 僕はびんぼうゆすりをする。嫁さんにいつも注意されるが直らない。それと、机やひざをパシパシ叩く癖がある。何かしらリズムを取ってしまう中学時代から続く癖だ。

 僕がドラムに興味を持ち始め、実際にスティックを握ったのは、中学2年の頃だ。たまたま、隣に座ったE君がドラマーだった。彼はいつも机の端に両手の人差し指を連打していた。足を見るとしっかりキックしている。ドコドコうるさいけど、なぜか格好よく見えてしまった。E君はバンドを組んでおり、アリスやチャー、レインボーなんかを叩いていた(メチャクチャだね)。中学生のバンドだから、今思うとたいしたことではないかもしれないが、ホールを借りて自主コンサートを開催していた。僕はそんな彼を見ながら、ロックやフォークを演ずることに目覚めていったのかもしれない。
僕はその頃エレクトーンを習っていたので、音楽には係わっていたが、ロックというよりムード音楽や映画音楽、クラッシックなど、中学生の男がやる音楽かぁ?というものばかりで、少々飽き飽きしていた。しかもエレクトーンはメロディ、リズム、ベースを独りでやってしまうので自己完結型の楽器であり、仲間が増えない。流行歌を弾いていても、自分で勝手にアレンジして弾いていても、発表の場が無く、友達に聞かせてもフーンって感じだ。
そこへもってきて、世の中はニューミュージック・ブームとテクノ・ブームが入り乱れ、イギリスからはパンクやパブロックなど新しい形態の音楽が入ってきていた。もう、榊原郁恵ちゃんやキャンディーズの音楽を聴いている場合ではなかった。親戚の女の子からよしだたくろうやかぐや姫のLPを借りまくり、深夜放送を聴き始めたのもこの頃だ。自然と「僕もバンドがやりたい!」と思うようになっていった。
ギターは中学1年から音楽の時間で習っていたが、のめりこむことは無かった。それよりも、バンドが組みたいと思っていたところへE君の登場である。僕は見よう見まねで彼をコピーした。彼も快く教えてくれた。
「これ、8ビートね。これ、基本だから。右手は一定のリズムだよ。左手は間に入れるんだよ・・・。」なんていいながら、僕とE君の席はいつもうるさかった。
ドン・パ・ド・ドンパ  ドン・パ・ド・ドンパ ドン・パ・ド・ドンパ
「これ、ツーバスね!コージーかっきー!(コージー・パウエル 格好いい!)」
ドコドコドコドコ・・・・タタンタタンタタタタタ!
休み時間になると机で特訓。授業が終わると、音楽室にある小太鼓と大太鼓を駆使して簡易ドラムを作り、叩きまくりの毎日。
そのうち、ブラスバンド部がドラムを購入したので一気にヒートアップ。ブラバンの練習が終わると、
「俺達が片付けるから貸してくれ・・・。」と言って毎日叩いていた。
僕はエレクトーンを習っていたから、手と足がバラバラに動くということはある程度理解できていた。しかし、頭でわかってはいても実際にやってみるとこれがなかなか難しいもので体がついていかない。
「何か簡単な曲をコピーすればいいんだよ。スローなバラードより8ビートの方が叩きやすいよ。そうだな・・・甲斐バンドの『ヒーロー』なんか簡単かもよ。」
僕の課題曲は『ヒーロー』になった。
ドン・パ・ド・ドンパ  ドン・パ・ド・ドン ドコドコドコ 「ヒーロー!」ってな感じ。

 8ビートをマスターするとバラードの課題曲が与えられた。アリスの「遠くで汽笛を聞きながら」だ。
E君は一生懸命教えてくれた。右手は4つで足がシンコペーションをしながらキックする、なんてことは練習あるのみである。リズム感は決して悪くは無いので本当に練習漬けになった。

 文化祭でE君は引っ張りだこだった。ドラムを上手に叩けるやつはそんなにいない。ましてや、僕が中学の頃の文化祭はハードロックを演奏する環境が無かったので、フォークソングに毛がはえた軽い音楽が主流だった。E君は3~4つのバンドをかけ持ちしていた。
文化祭の当日、僕はE君のドラムを客席から見ていた。すると彼が曲間に出てきてマイクで言った。
「すいません。僕、ドラムばっかりなんで、たまにはピアノを弾きたいんですよ。というか、ピアノも弾けるんだぞ、っていうところを見せたいんだよね。んでもって、今からピアノを弾きます。曲はアリスの『遠くで汽笛を聞きながら』です。はーなー!(僕のこと)いる?叩いて!」
「?!」聞いてないよ・・・。
手招きされて、ドラムに座らされた。バンドのメンバーはE君がこの曲をやることに同意しており、練習もしていた。知らないのは僕だけだった。
E君が一生懸命この曲を教えてくれたのは、こういう裏があったんだとその時になって思った。
戸惑っている僕をよそに、ピアノはもうイントロを弾き、そしてヴォーカルが歌い始めた。
えーい、もうどうにでもなれ!という気持ちで一生懸命叩いた。
E君の指導が良かったのか、何とか間違えず、1曲叩ききることが出来た。
しかし、ひどい話だ。もし、僕がいなかったらどうしていたんだろう。
こうして中学2年の秋に僕はドラムデビューを果たした。

 それからというもの、みんなの中で僕は「ドラマー」という認識になった。
バンドの誘いもあり、多いときでは3つのバンドに在籍していた。いろいろな音楽も聴くようになり、ドラムを中心に聴くようにもなった。当時の人気ドラマーは、コージー・パウエルであったり、イアン・ペイスであったり、みんなハードロックのドラマーだった。しかし僕はどちらかというと、当時から古いロックを好んで聴いていたので、サイモン・カーク(FREE)やレボン・ヘルム(THE BAND)、デビッド・ガリバルディ(TOWER OF POWER)など、同世代では誰も知らないようなドラマーが好きだった。
僕のドラマーの好みは、ちゃんとドラミングが歌っている、という日本で言えば村上ポンタのようなドラムだ。テクニックがいくらあっても、歌っていないドラムを聴くと、興ざめしてしまうからだ。

 Gパンの後ポケットにスティックを2本さして歩くと何か格好良い気がしたものだ。友達を待つ間にちょっと手すりかなんかを叩いていたりして・・・(そんなCMが昔あったなぁ)。
結局、僕は中学2年から高校2年までずーっとドラマーだった。本当は高校3年の文化祭でもドラムを叩きたかったが、バンドのヴォーカルがあまりにも下手だったので、僕がヴォーカルをとる事になった。その時のドラムは迷うことなくE君に頼んだ。E君は快く引き受けてくれた。僕との友人関係もあったんだろうが、それよりも今まで誰も叩いたことの無い体育館でコンサートが出来るという企画(前コラムを参照)が彼の心を動かした。

 僕は大学に入っても、ドラマー志望だった。大学のクラブ活動であるフォークソング倶楽部の入部手続きの時も「ドラム希望」と記入した。
倶楽部では1年生(初心者)の為に楽器講座という「簡易的な楽器教室」が開催されていた。当然、僕はドラム講座を選択し、ドンパンドンパン叩いていた。
楽器講座はある意味、1年生の力量を試す空間でもあるので、欠員補充をしたい先輩バンドは鋭い視線を送りながら1年生の演奏を見ていた。僕はそんなことも気にすることなくドンパンドンパン叩いていた。先輩のNさんからもっと丁寧にタム回しをした方がいいよ、とか、同期のAさんからは肩の力を抜いて叩かないと疲れるよ・・・とかアドバイスを受けていた。
先輩のMさんが
「俺のバンド、ドラムがいなくなっちゃったから、お前、入らない?好きな音楽やってもいいぞ。俺達はチューリップとか世良公則とかやってるんだよ。」
「はぁ、僕はFREEとかTHE BANDとか好きなんすよ。」
「?」
会話にならなかった。

新入生歓迎コンパでは、必ず1年生は潰される。そして、2年生の下宿へ運ばれることが慣例となっていた。僕も御多分に漏れずしっかり運ばれた。自然反芻運動を繰り返しながらすっぱい気分で先輩の下宿で寝かされていた。
朝方、気分もだいぶ良くなってきたので、倒れている同期の男の横で立てかけてあったエレキギターを爪弾いていた。そこに、家主である先輩のNさんが帰ってきた。
僕はたわいない話をしながら、ギターを弾き続けていた。先輩はそれをじっと見ていた。
次の日、二日酔いの頭で学校に行き、倶楽部練習を始めようとした矢先、4年生のT先輩(女性)に声をかけられた。
「花形君ってギター弾くんだってね。うちのバンドで弾かない?」
「えーっ、でも、僕はドラムがやりたくて・・・。」
「えーっ、そうなの?でもギター弾けるんでしょ?うちのバンド、ギターがいなくなっちゃったから、探してるのよ・・・。やってよ!」
僕を誘ってくれたT先輩は、後にプロデビューするくらい上手なドラマーだったのだ。僕も倶楽部のバンドをいろいろと見てきた中で、上手だなぁと思っていたバンドであった。そこへギタリストとして加入することは僕にとって大変なプレッシャーだった。

 結局僕はドラマーの道を諦め、ギタリストになった。
しかし、どうしてT先輩は僕がギターを弾けるとわかったのか・・・。
答えは簡単だった。僕がギターを弾いているところを見ていたN先輩とT先輩が付き合っていて、情報が流れていたらしい。

 あれからずーっとギターばかり弾いている。
でも、今でもドラマーにはあこがれてしまう。
コンサートに行っても、ドラマーやベーシストに目がいってしまう。ギタリストなんて実はあまり興味が無かったりして・・・。いやいや・・・。
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2005年3月10日(木)
花形
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# by yyra87gata | 2012-12-12 21:20 | 音楽コラム | Comments(0)
 「水の無いプール」「10階のモスキート」「コミック雑誌なんかいらない」「餌食」「嗚呼!おんなたち 猥歌」など人間の狂気を演じ、独特な地位を築いているアーティストがいる。助演作品でも「ブラックレイン」や「魚からダイオキシン!!」「エロティックな関係」など個性派俳優としても有名だ。内田裕也その人である。

  もともとはロカビリーシンガーであり、タイガース(沢田研二)を発掘したが、日本の芸能界のシステムやGSの歌謡曲っぽい世界に嫌気がさし、外に飛び出してしまった。想いはひとつ「R&R」である。
日本にR&Rを根付かせる為に奔走したロック界の重鎮である。30年前の日本にはロックという文化は無かった。当然、アーティストは単独公演など出来るわけが無く、ロックフェスティバルと称して日比谷野外音楽堂や日劇のステージを使用しながら細々とライヴは行われていた。もちろん、そのプロデュースをほとんど手がけてきたのが裕也である。大々的なもので言えば、1974年に小野ヨーコを呼んで福島・郡山で「ワン・ステップ・フェスティバル」を主催したり、1976年にフランク・ザッパの公演をプロデュースしたり・・・。年末恒例の「浅草ロックフェス」も32年続いている。

 強面の内田裕也に不釣合いな美女がいる。「国際女優」という形容をされる島田陽子である。70年代の青春ドラマのスターで、清純派で通っていた人であるが、内田裕也との共演作「花園の迷宮」あたりから不思議キャラの女優になってしまった。お姫様女優という認識がいつの間にかダーティーなイメージになった。
その2人が目の前にいる。

 僕は大学を卒業して、アメリカの自動車メーカー販売に就職した。1年目は販売店に出向する決まりがあり、実際にエンドユーザーに車を販売する「販売研修」を行う。新入社員は全国のF店にそれぞれ配属されるのだが、僕は横浜在住ということもあり、本牧店に出向することになった。本牧店は出来たばかりのショッピングセンター内に位置し、平日でも込み合うほど、来店客の多い店だった。当然、冷やかし客ばっかりで、来店する客全員に声をかけると疲弊してしまうので、新人のくせに生意気だが、買ってくれそうな客を選んでいた。
日曜のショッピングセンターは大混雑である。しかも、世の中はバブルで浮かれており、みんな景気の良さそうな顔をしていた。特に輸入車を扱うわが店舗は、モーターショーの展示場状態と化していた。その黒山の人だかりの中、一角だけポッカリ空いた空間があった。
僕の隣にいた先輩が言った。
「シェキナ・ベイビーだ・・・。」

 内田裕也の姿が目に映った。僕はロックコンサートでしか見たことが無かったが、あの時のように全身黒尽くめで、ちょっと異様に見えた。目をずらすと横には華やかな白いワンピースに身を包んだすらりとした女性が立っていた。島田陽子である。2人は映画「花園の迷宮」で共演してから、噂になっていた。内田裕也には樹木希林という奥さんがいたので、公然の不倫状態であった。
島田陽子はフェスティバという人気が高い小型車を真剣な眼差しで見ていた。その横で裕也は島田陽子を微笑ながら見ている。周りのギャラリーなど気にすることも無く完全に2人の世界だ。
裕也が手を上げて言う。
「ちょっと!いいかな!」(裕也のイントネーションは独特だから紙面では表現できない)
先輩が僕を見てあごで指図する。「接客して来い!」


 ロケンローラーは言う。「島田さんにこの車の説明をしてくれる?」
「はい。ではこちらへどうぞ・・・。」と言いながら島田陽子を運転席に座らせた。
汗をかきながら、たどたどしく商品説明を行ったが、島田陽子は真剣に聞いてくれた。そして、欲しいモードのキラキラとした眼差しに顔つきが変化していった。ギャラリーはとり囲むように動こうとしない。僕は、本社で行われた商品説明のロープレテストをしている感覚に陥った。
「裕也さん、これ、すごくいいわ。小型だし、ここら辺を走るのに、ジャガーじゃちょっと大きすぎるし。」
「島田さんの誕生日プレゼントにしようと思って・・・。これ、いくらになるの?」
ギャラリーからはため息が漏れる。そりゃあそうだ、誕生日プレゼントに車を買うなんて庶民の感覚ではない。150万から200万もする車だ。
「はい、それではお見積もりを出させていただきますので、どうぞ、こちらへ・・・。」

  商談は普段使われないVIPルームで行われた。
先輩やマネージャーは、内田裕也を警戒して同席してくれなかった。
僕は初めてお客さんに見積書を出した。そして、与えられた条件内で交渉を続けた。唯一のよりどころは島田陽子が商品を気に入っている、という点だけだ。
値引き交渉も済み、ロケンローラーは言った。
「大体分かったよ・・・。ところで、これローンきく?」
僕はいすから落っこちそうになりながら、
「はい、ききますよ。少々お待ちください・・・」と言って中座した。
事務所に入ると、店長以下みんなが僕を見る。
「あの~ローンはきくかと言っているんですけど、芸能人ってローン組めるんですかね?」
すると、店長の後ろからローン会社の営業が顔を覗かせた。
「内田さんはワーナーパイオニアとプロデューサー契約をしているので、大丈夫ですよ。ご入用のときは是非当社のローンでお願いします!」と言った。店長がローン会社の営業を呼んでいたのだ。用意周到である。
商談ルームに帰り、契約書、ローン申込書に記入してもらった。ロケンローラーは職業欄に(ワーナーパイオニア/プロデューサー)、年収に(1500万)と記載していた。へぇ~。

帰り間際に裕也は言った。
「花形さん、実はここに来る前にホンダに寄って、シビックの契約をしてきちゃったんだよ。でも、島田さんはこっちの方が気に入ってるから・・・。ホンダに断りの電話を入れといてくれない?」
「えーっ?それは無理ですよ~。」
「そうだよな、じゃあ俺が言うか・・・」と言っていたずらっ子のような笑顔を見せた。

契約者:内田裕也、使用者:島田陽子。僕のお客様第1号になった。

 翌日の朝、定例のミーティングをしている時のことだ。店のガラスドアをガンガン叩く音がした。
みんなの顔に緊張が走る。先輩は僕を見てあごで指図する。「ちょっと見て来い・・・」
僕は恐る恐る近づくと黒ずくめの男が立っていた。
「あれ?内田さん!・・・おはようございます!」
「朝早く悪ぃな。頭金、33万持ってきたから・・・、これ。」
「えーっ?ありがとうございます、領収書を切りますので・・・」
「いいよそんなの・・・適当に処理しておいてよ。よろしく。」
33万円を置いて、風のように走り去ってしまった。

2日後、ロケンローラーから電話がかかってきた。
「島田さんの車、誕生日の納車は大丈夫だよね?」
「はい、昨日、車庫証明を出しましたから、大丈夫だと思いますよ。」
「花形さん、俺は大丈夫です、って言ってほしいんだよ。誕生日は1日しかないんだよ!」
見えないプレッシャーがかけられた。やっぱりロケンローラーはするどい。

 島田陽子の誕生日前日、納車準備も終え、ホッと安心していた時、僕はふと思った。
誕生日プレゼントなんだから、何か喜んでもらえるような納車にしようと・・・。
店長に決裁をもらい、花屋でステアリングにリボンを巻いてもらった。ちょっとはプレゼントらしくなった。でももう少し工夫が必要か・・・。
 納車日、ステアリングにリボンが巻きついているので運転しづらかったが、時間通りに島田陽子の家に到着した。家の前で、僕はリアシートに積んであった大きなリボンを車全体に巻いた。そして自分の頭より大きい造花を天井に乗せた。車全体が装飾された。チャイムを押すと島田陽子が出てきた。そして、その瞬間・・・。
「まぁ!ステキ!裕也さーん!裕也さーん!ちょっと来てーっ!」
満面の笑顔で家に入ってしまった。ほどなくすると白いガウンをはおった内田裕也がボサボサの頭で出てきた。車を見てニヤリと笑いながら言った。
「花形さん、ありがとうよ。いかしてるじゃねぇか・・・。」
「これから、ドライブ行きましょうよ。」と島田陽子。
「俺は嫌だよ。・・・花形さん、付き合ってくれるよな。」・・・この「よな」がロケンローラーの武器だ。
僕はどちらにしても店舗に帰らなければならなかったので、
「それじゃあ、店まで送って頂けますか・・・。」と言うと、島田陽子はもうすでに運転席に座っていた。
「あの~、リボンや花を取らないと運転しづらいですよ・・・。」
「何言ってるの。このまま走るからいいんじゃない。早く乗って!」
ロケンローラーと付き合っていると国際女優もぶっ飛んだ人になってしまうのか、と思いながら本牧の街を妙な車が走りぬけた。

 新車には無償で行われる1ヶ月点検がある。車を預かり、簡単な調整を行うものだ。
島田陽子からの電話で車を引き取りに行った時のこと。車を預かる際は、紛失などの間違いがおきない様、助手席の前のグローブボックス(物入れ)やトランクルームをお互い確認する。僕も島田陽子の前でひとつひとつ確認していった。グローブボックスからは『テレビ出演・衣装代80万円也』『映画イベント出演料111万円也』など目が飛び出そうな領収書や請求書が数々出てきた。
「あの~これ・・・」と言うと、「私、よく分からないの・・・。」国際女優はよくわからない。
トランクには木刀が3~4本転がっていた。一体何に使うのだろう(使ったのだろう)。出入りにでも使ったのだろうか・・・。裕也の顔がちらついた。

 島田陽子はフェスティバでショッピングタウンによく来ていた。いつも車をうちの店の前に停めて買い物に行き、帰りに立ち寄ってコーヒーを飲んで帰る。うちの店を喫茶店代わりに使っていたんだろうか。
ある日、コーヒーを飲みながら言った。
「花形さん、うちの母の車がとても古くて、買い替えようと思っているの。何かあるかしら・・・。」
商談開始!中型車の「レーザー」という車を見積もり、その日のうちに注文を取っていた。島田陽子の金遣いの荒さはこの頃から有名だったので、ローンを組むときも個人名義にはせず、個人事務所名義で登録した。お母さんはとても気のいい婦人で、新しい車をとても喜んでいた。
納車してから3日後のことである。ロケンローラーが店にやってきた。
「花形さん!困るよ!あの車!まずいなぁ!」
「ど・ど・どうしたんですか!」
「お母さんの車のカタログある?」
カタログを見せると窓ガラスの枠の部分を指して言った。
「ここの枠の色、何とかなんない?黒いだろ?これじゃ死んじゃった人みたいで・・・」
「?」
「お母さんが乗っているのを見ると、何か、仏壇の写真みたいなんだけど・・・別の色に塗れない?」
「へ?窓枠を塗るんですか?ここは鉄じゃないんで、塗っても落ちちゃうと思うんですけど・・・。」
「落ちないように塗ってよ。」
ロケンローラーはまたまた見えないプレッシャーをかけた。
そもそも車の窓枠はほとんどが黒いものだ。車のデザイン上、窓枠が黒いことで引き締まったボディラインになる。でも、そんなことはロケンローラーの感性に合わなければ関係ないことだ。
翌日、お母さんのところに車を引き取りに行き、すぐにサービス工場に入れた。サービスマネージャーは困惑していた。
 1週間後、完成した車を見て笑ってしまった。シルバーの車だったから、てっきり窓枠もシルバーに塗られて帰ってくるものだと思っていたが、見てビックリした。何とゴールドに塗られていたのだ。
「ロックやってる人が文句言ってんだから、ゴールドの方が良いと思って・・・。矢沢永吉もゴールドラッシュとか言ってたじゃん・・・。」とサービスマネージャーは前歯の無い笑顔で言った。
納車・・・。ロケンローラーと島田陽子が店に来た。車と対面。
「花形さん、いいよコレ、ありがとな、よろしく。」
「今回はわがまま言っちゃってすいません。でもいいわ、とてもステキ。」
ロケンローラーと国際女優の感性には誰もついていけない。
島田陽子は続ける。
「ところで、裕也さんが車の中でゆったりと作曲ができる大きな車とかあるかしら・・・。」
僕はその頃トップセールスマンだったので、こういった言葉を言われるとエンジンに火が入ってしまう。
彼らが座っていたテーブルの前に展示されていた車がまさにそれだった。
トーラス・ワゴンという8人乗りの車だ。左ハンドルの本格的ワゴンである。
「これ、乗れるの?試乗できる?」
スタッフ4人がかりでショールームから表に出し、仮ナンバーを付けた。
大型のワゴンは勇壮な走りで本牧の街を走る。ロケンローラーは手馴れたハンドルさばきで左ハンドルを操る。島田陽子はそんな裕也を惚れ惚れしながら見つめている。愛だ。
「ワゴンはいいなぁ。宇崎(竜童)はボルボのワゴンに乗ってるんだ。俺はフォードの方がいいな・・・。」
「アメリカにレコーディングに行ったとき、レンタカーはみんなフォードだったなぁ・・・。」
試乗中にいろいろな話で盛り上がった。これだけ盛り上がれば、成約も同然である。
ショールームに戻り、見積もりを書こうと思っていた矢先のことである。島田陽子が言った。
「花形さん、この辺で免許が取れる学校知りませんか?」
「?」
「へへへ、俺、免許持ってねぇんだよ。」ロケンローラーは笑いながら言った。

 秋の夕暮れに1本の電話が鳴る。せわしない口調で言った。
「花形さん!島田です。車が欲しいの・・・。裕也さんの誕生日プレゼントに・・・。」
こいつらアホか。お互いの誕生日に車を贈りあうカップルなんて見たことがない。
「えっ?でも内田さんは免許取られたんですか?」
「いいのよ。マネージャーが運転するし・・・。」  ??????
「電話じゃなんなんで・・・今から行きます。」
長期在庫になっていたスペクトロンというワンボックスカーのカタログを持って行った。トーラスワゴンの価格ではローンが通らないと判断したからだ。

 何も無い20畳のリビングで島田陽子と商談。
長期在庫車だったが、裕也さんのためにとっておきました、なんて言ったらまたまた目の色が変わってくる。本当に商談のしやすい人だ。
「裕也さんの誕生日に贈りたいの、明日なの!」
「えーっ?車は車庫証明とかありますから、最低1週間はかかりますよ・・・。」
「でもぉ、誕生日は待ってくれないのよ。」
本当に変な人だ。天然なのか馬鹿なのか良くわからない。
「こうしましょう!今、ここで僕は契約書を頂く。そして、明日の朝、車を運んできます。その代わり、ナンバーは付いていませんから動かすことは出来ません。1日お貸しします。あさってになったら引き取りに伺いますので、それから登録をしましょう。」
「わかったわ。ところで、支払いはローンで・・・。」
注文書をもらったが複雑な気持ちで店に帰った。クレジット会社との交渉である。ローンが通らなかったら、契約自体がなくなってしまう。
3つのクレジット会社に断られた。とにかく、クレジット枠ギリギリまで買い物をしてしまい、支払いが滞るらしい。どこも金を貸したがらないヘビーユーザーなのだ。途方にくれたが、4つ目のクレジット会社に泣く泣く通してもらった。
 納車はいつものように(?)ステアリングにリボンを巻いた。ナンバーのついていない車だけがガレージに納まった。ロケンローラーも島田陽子もとても喜んでいた。
僕は1年半の営業実績で162台の新車を販売したが、半年で3台も購入していただいたお客様はこの2人だけだ。こういうお客様をVIPと言う。

 僕は1年半の営業研修を終え、本社に帰任した。
ある日、仕事で帝国ホテルの前を歩いていた時のことだ。僕の後ろから大きな声で、女性が叫んでいる。
「車屋さーん!車屋さーん!」
振り返ると日比谷通りの真ん中に白いジャガーを停め、美女がこっちに手を振っている。国際女優だ!
僕が近寄ると
「久しぶりじゃな~い。どうしたのこんなところで・・・。」
「僕、新宿の本社に帰任したんですよ。今日はマツダの本社があるのでこっちへ来たんですけど・・・。」
「あらぁ、栄転じゃなーい。おめでとう。」・・・・僕は帰任の挨拶に行ったのに・・・すっかり忘れている。
島田陽子の車の後ろには長蛇の列ができ、クラクションを鳴らされた。
国際女優は急いで車に戻り、帝国ホテルのコンコースに車を滑らせた。帝国ホテルに用事かな、などと思いつつ佇んでいると彼女は車を降り、僕に向かって歩いてきた。立ち話を15分くらいした後、彼女は何事も無かったかのように車で走り去ってしまった。恐るべし。帝国ホテルを駐車場代わりにする女。
 その後、僕は本社に戻るため西新宿を歩いていた。すると、けたたましい音の中で叫び声が聞こえてきた。
「金髪だからって変な目で見るんじゃねぇ~」
「戦争反対!ミサイル打つなら、うた歌え!」
「ロックンロールに市民権を!」
「シェキナ・ベイビー!アイ・ラブ・ロックンロール!」
人ごみをかきわて確認すると、そこにはロケンローラーが車の上に乗り、パフォーマンスしていた。
僕の納車したスペクトロンの屋根には頑丈な荷台が据え付けられ、その上で安岡力也が腕組みをしていた。その前で、内田裕也が踊り狂いながらパフォーマンスしている。4つの拡声器からは右翼の街宣車まっさおのヴォリュームでロックが流れていた。
時は、東京都知事選挙真っ只中。青島幸男、アントニオ猪木、ドクター中松、麻原昇晃、東郷健(おかま)など変わり者大会となっていた。そこへ内田裕也の参戦である。
めちゃくちゃな選挙だ。
1日のうちにロケンローラーと国際女優に会ってしまった。僕の大切なお客様だが、非常に疲れる人たちだ。

 その後、2人は別れたようだ。
ロケンローラーは樹木希林の元に帰り、娘婿にモックンを向かえ、おじいさんになった。孫のいるロケンローラーになった(M・ジャガーやP・マッカートニーもそうだけど)。
それでも浅草ロックフェスは相変わらず継続中だし、映画俳優としても奇才を放っている。

  
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国際女優はロケンローラーと別れた後、借金がかさんで自己破産の噂が流れた。ヘアヌードにもなったが、借金苦を理由にいろいろと揶揄された。確かどこかの実業家と結婚したみたいだが、離婚したという噂もある。最近では期限切れの国際免許で車に乗っていたらしく、無免許運転でパクられたとか。とにかくハチャメチャな人だ。ロケンローラー以上のパンクな人。

もうずいぶん、彼らには会っていない。

2005年3月8日(水)
花形
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# by yyra87gata | 2012-12-12 21:12 | その他 | Comments(0)

ラジオデビュー

 その日は、朝からわくわくしていた。友達との約束の時間に30分も前に着いてしまった。僕の手に握られた往復はがきに「2名様まで入場できます」とあり「全席自由」と連なって書かれていた。
場所は今は無きTBSホール。500人位で満杯になってしまう中ホールだ。
入場時間より2時間も前にホールに着いたが、すでに100人位並んでいた。僕が最後列にチョコンと並ぶと、30分もしないうちに列はどんどん伸びていった。
そうこうしているうちに、友達のH君がやってきた。
「すごいねぇ。前の方の人は酒を飲みながらギター弾いて歌っているよ。」
吉田拓郎のコンサートではよく見る光景だが、あの雰囲気がまた一層気分を高めてくれる。
僕たちは、吉田拓郎と小室等がパーソナリティーを勤めるTBSラジオの「サタデーナイトカーニバル」の公開生放送に来ていた。高校2年の秋のことだ。

 開場とともにホールに人がなだれ込んだ。僕たちはホールの丁度中央の席が取れた。舞台にはテーブルにマイクがしつらえてあり、ラジオスタジオのセットが組まれていた。机をはさんで2人が座り、マイクに向かってしゃべるのだろう。上手にはキューサインを送るディレクターの席も用意されていた。
 時間が近づく。オンエアー10分前に2人が登場。ヤンヤ、ヤンヤの大声援。オヤジ(拓郎35歳小室さん38歳)2人のしゃべりを見に、会場は満杯に膨れ上がっていた。会場内にラジオのオンエアー状況が流され、ラジオCMがこだましていた。ちょっと不思議な感覚だ。
 夜8時の時報とともにテーマソングが流れ、拓郎と小室さんの軽快なトークが始まった。家にいて独りでラジオを聴いているときより、当然テンションも高くなっているので、ちょっとしたことでも笑っていた。
放送開始から30分位たった頃、拓郎がおもむろに、はがきを読み出した。
「・・・公開生放送に当選させて頂きましてありがとうございます。今僕はTBSホールの中におります。名前を呼んでいただければ返事をします。・・・花形!」
「はーい!」と僕。
会場内大爆笑。
「お前、中にいるって、本当にまん真ん中いるな・・」
「はぁ」(緊張して声が出ない)
小室さんがすかさず「有名希望って書いてあるよ・・・君!有名になりたいのか!」
「はい」(緊張して声が裏返る)
「そうか、じゃあちょっとインタビューしてこよう・・・」といいつつ席を立ち、でかいマイクをもって客席に乗り込んできた。
僕も友達のH君も舞い上がってしまった。
数分に及ぶインタビューの後、
「君は何か得意な事はあるのか?何か得意なものが無いと有名になれないよ。」と小室さん。
「いや~・・・・ギターかな・・・」
「ほう!ギターで有名になる自信があるのだな!」
「いや、あの・・・」
小室さんはきびすを返し舞台へ戻っていく。
「きっと無理だと思うよ。僕たちの頃は、ギターが弾ければ何とか有名になれたけど、今は結構厳しいからね・・・、あとで時間があったらギター弾かしてあげるよ・・・。」

 僕とH君は放心状態になっていた。
拓郎と小室さんのミニライヴがあったが、その後の内容はあまり憶えていない。ゲストが三原順子だったかなぁ。
 番組のエンディングでは、その日にはがきを読まれたリスナーを再度紹介し、新譜アルバムを贈ることが慣例となっていた。この日のプレゼントはオフコースの『ベストセレクション』だった。
拓郎が次から次へとはがきを紹介していき早々と読み終えてしまった。すると小室さんが、
「えっ!もう(君の読む分)終わったの・・・俺、まだいっぱいあるよ。えーと、横浜市、花形裕・・・」
「はい!」(僕)。会場大爆笑。
小室さん「おー、すっかり君の事は忘れていたよ・・・」
拓郎「早く、花形にギター弾かせるか!」と言って僕に手招きをする。
僕は「しまった!」と思ったが、舞台に上がるしかなかった。だって拓郎に「来い!」って言われたら断れない。その場所は、さっきまで拓郎や小室さんのミニライヴが行われていた場所だ。拓郎がいすを用意してくれ、ピックを渡してくれた。ギターは小室さんが弾いていたマーチンのD19である。非常に珍しいギターだ(僕のマーチン初体験)。
僕はマイクの位置を拓郎にセッティングされながら、何をやるか、まだ決めかねていた。会場からは無責任な野次が飛ぶ。「人間なんてやれ~!」「落陽!」など怒号が飛び交う。高校2年の僕のハートは口から出そうになっていた。そして、勝手に手が動き始めていた。
力強いストロークに小室さんは「オッ!」と声を上げていた。
「あついーガラスの向こうに光る、白い河のような高速道路・・・」
一瞬みんな何の歌だかわからない顔をしている。しかし、そのうち笑い声が広がってきた。一番最初に笑ったのは拓郎だった。

 僕は小室さんの歌をモノマネしながら歌っていた。「都会の朝」という小室さんには珍しいアップテンポの歌だ。手拍子が広がり、サビの部分では小室さんがハモってくれた。ワンコーラスを歌いきったところで拓郎が拍手で「すげぇ、すげぇ・・・小室さんから影響受けてるの?」と割り込んできた。
「ええ、まぁ。」
「よく観ると顔も似てるよ!」と拓郎。当時僕は銀ブチの眼鏡をかけていた!
「君はひょっとしたら、有名になれるかもしれない!」小室さんが笑いながら話しかけてきた。

 番組のエンディングまで僕は舞台に残され、満杯の会場に手を振っていた。
番組が終わり、客席に戻るとき、小室さんが話しかけてきた。
「君はもう帰っちゃう?よかったら簡単だけど打ち上げに行くかい。」優しい声をかけてくれた。

 僕とH君は2人でTBSホールの会議室で行われた打ち上げに参加していた。
もちろん高校生なので、最初はジュースをもらっていたが、いつの間にか・・・。
「今まで小室さんのモノマネをしたやつはいなかった」とか、「もう一回歌え」とか、「何で高校生が小室さんや俺(拓郎)を聞くの?」とか「流行の音楽に興味は無いの?」などいろいろ根掘り葉掘り聞かれた。
小室さんは酒が入ると目が据わってきて、「戦争はなぜ起こると思う?」という名言も聞くことが出来た。
2時間ほどで宴は終わり、終電で帰った。拓郎や小室さんは六本木に場所を移して行った。
家に帰るとお袋が開口一番に「あなた、何してきたの?」
「えっ?ラジオの公開生放送を見てきたよ。」
「さっきまで友達から電話がいっぱいかかってきてたわよ!」と困惑そうな顔をするお袋。
「あ~。ラジオに出ちゃったからかな・・・。さっきまで拓郎とか小室等と飲んでたんだよ。」
「何、馬鹿なこと言ってんの・・・。早く寝なさい。」

  
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 週が明けて学校に行くとヒーローになっていた・・・なっていたらカッコイイんだが、何故かみんなに笑われた。度胸あるなぁ、と言われたが、今思うとあのときの演奏は火事場の馬鹿力というやつだったかもしれない。
翌週の放送でも僕のことは話題に上った。リスナーからの葉書で、僕の歌い方の感想とか・・・。小室さんもよっぽど嬉しかったのか、僕の名前を何度もラジオで言ってくれた。小室さんのモノマネをした人なんていなかったのではないか。

 拓郎は、当時、僕の家の近所に住んでいた。たまに自転車で行くと当時の奥様である浅田美代子さんに何回か遭遇したことがある。黄色いワーゲンを危なっかしそうな運転で、せわしなく走らせる。
僕は近所に住んでいたS君とラジオ公開生放送に行ったH君と一緒に、当時出たばっかりの『アジアの片隅で』(1980)というLPを持って拓郎の家のチャイムを鳴らした。3回目でジャージ姿の拓郎が出てきた。
「おっ!小室さん!」
LPにサインをもらった。
変な思い出である。

2005年2月21日(月)
花形
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# by yyra87gata | 2012-12-12 20:43 | その他 | Comments(0)

ラジオは勉強の友?

 東京にまだFM局が2局しか営業していなかった頃、ラジオは圧倒的にAM時代で、特に深夜放送が幅を利かせていた。「文化は深夜から始まる」とか「深夜放送が生んだスター」などという形容も珍しくなかった。そんな頃のお話。
  d0286848_20355592.jpg僕は自分の部屋を与えられ、初めて自分だけの空間を所有したとき、メディアといえばラジオであった。夕食を食べ、適当な時間に自分の部屋に入る。そう、我が家ではよっぽどのことが無い限り僕は親と一緒にテレビを見なかった。食事のときにテレビが点いていることはあっても、10分くらいの食休みの後はすぐに自分の部屋に移動した。だから、小学校高学年から高校卒業まで夜8時以降のテレビをあまり見た記憶が無い。
 親は僕が部屋に入ること、イコール勉強をしているものだと思っていたようだ。僕も何度かはそのフリをしていたし、文句も言われないなら部屋にいることもいいだろう、と思っていた。
では、部屋で何をしていたのか・・・。本を読むか、ラジオを聴いていたのだ。だから、この時期は相当な本を読み、ラジオを聴いたことになる。本についてはまた別の機会に話すとして・・・。
ラジオについて。神奈川県はニッポン放送の受信中継所が横須賀にある関係で比較的、電波が良好に受信できた。逆に文化放送は中継所が練馬にあるせいか、埼玉県に強く、神奈川県には電波傷害も起きる事があり、ちょっと敬遠していた。だから自然とニッポン放送派(?)になった。
「欽ちゃんのドンといってみよう」「日立ミュージック・イン・ハイフォニック」「ゼロの世界(怪談話)」「モーリス・フォーク・ビレッジ」「あおい君とさとう君」「コッキー・ポップ」など。それらの番組は夕方から深夜にかけての時間帯にOAされていた。そして、曜日によってはNHK-FMの「サウンドストリート」を。「小室等の音楽夜話」なんてぇのもあったな。土曜日はFM東京の「ライヴアワー」「コーセー歌謡ベスト10」「テクニクス・ポップス・ベスト10」。日曜は夜の11時から“そらまめさん”というパーソナリティーが仕切る「ANAサウンドフライト」まで・・・。もちろん、それに「オールナイトニッポン」「セイ!ヤング」「パック・イン・ミュージック」が加わる。そういえば、文化放送は時代を取り入れることが早く、今は妖艶な川島なおみも当時はキャピキャピのパーソナリティーをしていた「女子大生電話リクエスト」なんて番組があり、当時の女子大生ブームの火付け役になっていた。そういえば、リクエストカードが読まれたこともあったなぁ。
拓郎と小室等のTBSラジオの「サタデーナイトカーニバル」では、公開生放送でひょんなことから実際にギター1本で小室さんと歌ったこともある。オンエアーを聞いた友達はビックリしたらしい。「ラジオから花形の歌が聞こえる・・・。」
 
 音楽が好きになった要因にラジオがある。テレビはアイドルという作り物の世界が当たり前。しかしラジオはフォーク・ロック系のアーティストが格好つけず、本音で、リスナーと対話していたから真実味があった。また、トークも絶妙で腹を抱えて笑うこともしばしば。選曲も凝っていて、実際に生で聴いてみたいという欲求にも駆られていった。
ラジオという媒体から好きになったミュージシャンは、本当に多い。
吉田拓郎、小室等、甲斐よしひろ、山下達郎、中島みゆき、松山千春、尾崎亜美、財津和夫、谷村新司、さだまさし・・・。また、彼らの番組に来るミュージシャンの話も面白かった。当時、矢沢永吉は拓郎の放送にしか出なかったため、永ちゃんの本音は拓郎の放送を聞くしかなかった。しかし、この2人、濃いんだよ、話が・・・。
 音楽評論家の番組も大好きだった。
大貫憲章、渋谷陽一、萩原健太、田家秀樹・・・山下達郎もこのセグメントにいれたい。
いろいろな情報が聞け、少し頭が良くなった錯覚に陥る。・・・大きな勘違いなんだけど。
僕は、この人たちに影響を受けたことが2つある。何か時代を話すときに和暦から西暦の読み方に変わったことが1つ。例えば、
「このアルバムは'68年にクリームが結成され・・・」「この頃のジョンは'70年のビートルズ解散まで・・・」などとスラスラと年号を言っているパーソナリティーが格好良いと思ってしまった。だから今でもその癖が残っており、音楽以外の時も西暦で話をしてしまう。
そしてもうひとつは、レコードを買うとき、プロデューサーやディレクター、スタジオミュージシャンを見て判断するようになったことだ。
「このアルバムはトム・ダウトがプロデュースとエンジニアをやっているのでこういう音になっている・・・」
「ポンタと岡沢章のリズムだから、間違いない。」
「マッスルショールズの頃のデュアン・オールマンは、そりゃあいい音を唸らせていたよ・・・」
なんて会話をするようになってしまった。
LPを買う時もシンガーは知らなかったけれど、プロデューサーで選んで成功したこともあれば失敗したことも多々あった。中学生が少ない小遣いの中からLPを買うわけだが、かなり無謀な買い方をしていた。これについては弊害もあり、あまりヒット曲を買わない癖がついてしまったのもこの影響だ。ヒット曲はラジオで聴けば十分であり、手元に残すものは別物と考えていた。なんとマニアックな考え方か。
 
 ラジオは今でもよく聞くほうだと思う。車の中がほとんどだが、毎日聞いている。昔のように音楽ばかりに偏ってはいないが、たまに昔よく聞いていたパーソナリティーの声を見つけるとあの頃にもどってしまう。10代の頃の感性と40代になった今とでは、全然違っているはずなのだが・・・進歩していないということか・・・。
 最近、よく聞く番組はNHKの「ラジオ深夜便」とか「落語」が多い。歳をとった証拠だ。妙に落ち着いてしまう。別に楽しいわけでもないが、夜遅く家に帰る車の中では心地よく車内に響く。
 学生時代は勉強の代わりにラジオを聴いていたが、今は世の中の動きをラジオから学んでいる。
そう!芸術学部の学生が一般企業に就職すると、結構大変なのだ。政治や経済のことなんてまったく興味が無く、就職してしまったからね。そんな時ラジオは結構わかりやすく解説してくれるのだ。画像が出ない分、わかりやすいんだろうな。経済用語や一般常識的な言葉をラジオから学んだ。そういう意味では今でも勉強の友である。

2005年1月15日(土)
花形
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# by yyra87gata | 2012-12-12 20:36 | その他 | Comments(0)