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音楽雑文集


by yyra87gata
 器材が進化し、打ち込みやエフェクト、リズムまでもがコンピューターによって支配されている昨今、
1970年代の音楽までが純粋なライヴだった気がする。そのライヴは単純で、楽器を持ち寄り、PAシステムででかい音を解き放つだけ。ライヴで再現できない音は代替の音を作るか、曲調やアレンジを変え、その場を凌ぐ。昔のライヴってそんなものだった。だから、ライヴは面白かった。レコードの音をそのまま再現するのであれば、ライヴ会場でレコードを流せばいい。極論すればカラオケで歌えばいい。(実際に今、ライヴハウスでカラオケを使って歌うシンガーが結構いることに驚く)
 1980年代に入り、音楽にコンピューターが大々的に導入されるようになると、打ち込みが主流となりドラマーは失業に追いやられた。しかし、台頭したリズムマシーンは薄っぺらな音で、ハードロックがポップスのように軽くなっていった。だから1980年以降の音は音圧を上げ、全ての音にコンプレッサーをかけまくったぶあつい音になった。はっきりいって気持ち悪いし、本当の音を聴いている気がしない。そんなことを思いつつ、1970年代のライヴアルバムを聞くと非常に感慨深いものがある。音圧は無いが、本物の音がそこにある。
 1970年代のライヴで名盤はたくさんあるが、LP3枚組みの超大作を紹介したい。ポール・マッカートニー&ウィングスの『ウィングス・オーバー・アメリカ』(1976)である。ジョンは主夫宣言をし、リンゴは役者稼業、ジョージは目立つことなく淡々とアルバム制作を行なっていた1970年中盤、ポールだけはウィングスを結成し精力的にライヴ活動を行なっていた。その大規模な1976年の全米ツアーを収録。《ロックショー》というタイトルで映画にもなった。LP3枚組、しかもライヴアルバムという形態で全米1位にランクされたという事実は、この時期のウィングスの勢いを伝える大きな手がかりだ。全28曲中ビートルズナンバーはたった5曲。過去の栄光よりも今を生きるポールの前向きな力がウィングスを通じて感じることができる。
 僕は映画を見たあとでアルバムを購入したので、入りやすかったのだと思う。いくらポールのアルバムだからといっても、何の予備知識も無く、中学生で3枚組のライヴアルバムを購入することは大変勇気のいる行為だ。しかし、3枚はあっという間に過ぎていく。それだけすばらしい出来だ。針を落とすといきなりヒット曲メドレーが始まる。アコースティックコーナー、エンディングに向けての大きな作品の応酬に僕は何度ウィングスの観客になったことか。下手だ足手まといだと非難されたリンダだってしっかりポールをサポートしているし、デニー・レインは要所要所でポールの影武者になっている。特筆すべきはリードギターのジム・マッカロウがギブソンSGをギンギン弾きまくり、甘いという評判のウィングスサウンドに渇を入れている(このコンサートの数年後に死去・哀)。がっちりとタッグを組んだウィングスの素晴らしい演奏が展開されている。バンドサウンドがしっかり確立されている。技術的に優れているわけではなく、アンサンブルの勝利なのだろう。ポールの天才ぶりがよくわかるバンドである。
ウィングスはその後、数枚のアルバムを発表し、デニー・レインの脱退が一番大きかったと思うが、自然的に解散状態となってしまった。
 ウィングスは来日公演の予定もあったが、薬関係で公演は流れていた。そして、例の成田での逮捕劇。ポールは2度と日本の土が踏めないと思った。しかし、その後、性懲りも無く何度も日本に来ている。そのうちの1回は、観に行った。但し、そこにはウィングスという名義はなく、ポールの単独公演である。僕はバンドサウンドに徹したポールが観たかったなぁ。

 聴き応えのある熱いライヴアルバムで寒い冬を乗り切ろう!

2005年12月26日
花形
『ウィングス・オーバー・アメリカ』   ポール・マッカートニー&ウィングス_d0286848_8163463.jpg

# by yyra87gata | 2012-12-18 08:17 | アルバムレビュー | Comments(0)

渋谷

 
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 人間の行動パターンはそんなに簡単に変わるものではない。朝パソコンに向かうとき、インターネットで必ずチェックする“お気にいり”が数個あって、それらを閲覧しないと1日が始まった気にならない。これは習慣みたいなもので、これをしないとリズムが狂うというやつだ。
リズムといえば、僕には以前渋谷に行くと必ず取っていたルートがあった。それは1人の時も友達といる時も、デートの時でさえも、そのルートを通らないと渋谷に来た気がしなかった。駅から公園通りを上り、中古レコード屋の“ハンター”をチェック。その後、パルコ方面に降り、ハンズの前のレコファンとシスコレコードで中古盤や外盤をチェック。目当てのものが無い時は、そのまま、タワーレコードでめぼしい盤を探す。ある程度戦利品を得たときは、そのまま道玄坂のBYGか、OHWADAのサンドイッチを食べに行く。これがパターンだった。もちろん、途中途中でイシバシ楽器のビンテージ館などに立寄り、オールドのレスポールなんかを見ながらため息をついていたこともあった。

 僕が渋谷に通い始めたのは小学5年生からだ(1975)。その頃は半蔵門線も通ってなく、田園都市線と東横線を乗り継ぎ渋谷に出ていた。第一の目的は映画だった。気の利いた映画は、渋谷か新宿、日比谷が相場だったから、家から一番近い渋谷が選択されたのは自然の流れだった。
中学に上がると(1977)、ドラムをやり始めたことも手伝って、ヤマハ渋谷本店が映画の後にメニューに加わった。ドラムを試奏できるコーナーがあったので、そこでへたくそなリズムを刻んで悦に入っていた。渋谷は、まだ文化村(1989年オープン)も109も無く(1979年オープン)、西武デパートやLOFTも無かった。東急文化会館と五島プラネタリウムがぽつんとあった記憶がある。道玄坂から宮益坂にかけて町並みがスッキリしており、メインストリートから1本奥に入った道筋、例えば、東急プラザの裏や百軒飲み屋街の地区は闇市のなごりがたくさんあり、おしゃれな女の子が歩く今では考えられない場所だった。
高校生になると(1980)、僕のメニューにデートコースが加わる。今まで歩いたことも無いブティック街やパルコに緊張しながら入ったのもこの頃だ。ファイアー通りが脚光を浴び始めていた。また、ライブハウスに初めて入ったのも彼女と一緒だった。今ではなくなってしまった小屋もたくさんあり、“ジャンジャン”“屋根裏”“LIVE INN”などがよく行ったライブハウスだ。酒やタバコはつきものの席に高校生が入っていることは当時としては奇異の目で見られたが、そんなの気にしちゃいなかった。
それから時代錯誤も甚だしい人たちとの交流があり、道玄坂にたむろするヒップな人たちと過ごした店は紙面では書けないようなことが日常的に行なわれていた。

 僕が大学に入る頃(1985)は、渋谷はだんだん昔の面影が薄れ、後に109パート2も建てられた(1987年オープン)。当時の渋谷駅前の風景は三千里薬局の赤い看板が大きく目立っていたが、今ではでかいビルに囲まれた本当の谷になってしまった。ハチ公の場所が移動され、モヤイ像が建てられ、みんなの集合場所が分散したのもこの頃だ。僕は高校時代に伊豆七島にキャンプに行ったことがあったので、モヤイには馴染があったから、もっぱら出来たばかりのモヤイ像が待ち合わせの場所だった。そして彼女とは、裏通りの“ナカヤ無限堂”のようなインド雑貨を覗いたり、代々木公園でお昼寝したり、のんびりとしたデートコースが昔の渋谷にはあった。もちろん歩き疲れると円山町の奥に行けば休む場所はたくさんあった。
今、渋谷の街を歩くとカラオケ屋とゲームセンターが乱立し、ホストのようないでたちのスカウトマンが、獲物を狙う怖い街になっている。娘を持つ親としては非常に心配な街である。しかし、当時の僕達を当時の大人達がどういう目で見ていたのだろうか。難しい問題だが、自己完結型の悪さ(?)はあったかもしれないけれど、少なくとも人を陥れるような悪さはしていなかった気がする。ちなみに僕は、渋谷の交差点で警官に職務質問をされたことがある。そのときのいでたちは、まさにヒッピーで、薬の売人かと思われたようだ。
渋谷は僕が社会人になった1990年あたりから本当に治安が悪くなった。今では聞かなくなったが、“チーマー”とか“ギャング”とか物騒な人たちがセンター街にいて、トラブルの多い街になっていた。僕は社会人になり、移動手段に車の頻度が高くなってきたこともあり、渋谷から遠ざかるようになっていった。

 いつの間にか“ハンター”は無くなり、OHWADAのサンドイッチもなくなっていた。
それでも、渋谷あたりで飲むと、BYGに寄ることは変わらない。酔っ払って道玄坂を上り、細い路地に入るとBYGの看板が浮かび上がる。左手にカレーのムルギーを確認し、“まだここもつぶれてない”と安心する。BYGの古ぼけた椅子に座り大音量の音楽に包まれる。ザ・バンドの“ラストワルツ”のポスターとニール・ヤングのポスターが20年前と同じ位置で迎えてくれる。しかし、だ。BGMが変わっていた。ブリテッシュ・ロックがかかっているじゃないか。ここはアメリカン・ミュージックしかかからなかったのに・・・。こんなところでも、時代が変わったのだな。

2005年12月26日
花形
# by yyra87gata | 2012-12-17 16:32 | その他 | Comments(0)
 
『マイシャ』  渡辺貞夫_d0286848_16285834.jpg
 小林克也のナレーションで始まる《ブラバス・サウンド・トリップ・渡辺貞夫・マイ・ディア・ライフ》というラジオ番組があった。土曜の午前0時、FM東京。タイトル通りナベサダのスタジオライヴやコンサート、ナベサダゆかりのミュージシャンのライヴなどをオンエアしたとても良質な音楽番組だった。その番組で聴いたナベサダに僕は参ってしまった。日本人がアメリカ人のミュージシャンをバックにつけて堂々と演奏していることに単純に驚いてしまったのだ。まだ矢沢永吉もアメリカに行く前の話なので、ロック界やポップス界ではありえないことだったし、ジャズ界でもあれだけのメンバーとセッションできるアーティストはほんの一握りだろう。リー・リトナー、ラリー・カールトン、スティーヴ・ガッド、リチャード・ティー、デイブ・グルーシン、ビクター・ベイリー、ミノ・シネルなど有名どころがセッションに加わる。
 この番組は、音が勝負だった。リスナーがスタジオにいる錯覚に囚われるほどライヴな状況を伝えてくれる。なぜなら、番組の前フリを小林克也が伝えるだけで、あとは演奏のみ。スタジオでのミュージシャンどおしの会話が生で聞こえてくる。ナベサダはリスナーの葉書を読むわけでもなく、とにかく音楽だけなのだ。この徹底した番組作りに感心してしまう。
番組のテーマソングでもある「マイ・ディア・ライフ」は、ナベサダの代表曲である。今でもアンコールなどで演奏される曲だ。僕はこの曲が大好きで、大学1年のときに組んでいたバンドで演奏するため、メンバーにお伺いを立てた。サックスのK先輩は一言、「曲がいいのはわかるけどさ、俺、ソプラニーノ持ってないんだよ。」
僕は?マークになり、「ソプラニーノってなんですか?」と聞いた。
K先輩は「いいか、お前ちょっとギター弾いてみろ、サックスで合わせるから。」
合わせると、あの爽やかな曲がいきなりナイトラウンジの雰囲気に様変わりしてしまった。アルトサックスで吹いた「マイ・ディア・ライフ」は1オクターブ低く、ちょっとイヤらしかった。
 でも僕はどうしてもナベサダがやりたかった。すると、同じバンドのベーシストのS先輩が当時発売されたばかりの『マイシャ』(1985)を持ってきた。タイミングよく、その中から「グッド・ニュース」を選択した。軽快な16ビートにチョッパーベースのアクセントが心地よい作品だ。ベースは当時新鋭のネーザン・イーストが勤めており、ベースラインのユニゾンスキャットを決めていた。このアルバムは、西海岸のミュージシャン達中心にレコーディングされ、ブレンダ・ラッセルのヴォーカルをフューチャー、初のセルフ・プロデュースを行なった意欲作であった。西海岸の爽やかなジャズやアフリカンビート、マリンバを多用した明るいラテン調の作品もあり、とても聞きやすいアルバムだ。それまでの4ビートや『カリフォルニアシャワー』(1978)がナベサダの代表作という印象だったが、『マイシャ』や次作の『グッド・タイム・フォー・ラブ』(1986)あたりから作風が変わり、ネイティブなビート(レゲェにかなり入り込んでいた)と都会的な洗練されたメロディが融合した作風になっていったように思う。

 ナベサダはその当時毎年“六本木PIT INN”でクリスマス・コンサートを開催していた。僕はこのコンサートが大好きで、何回か通った。1流のミュージシャンを間近で観ることができることもさることながら、コンサート終了後のくじ引き大会が面白く、ナベサダが出品したシャツ(ちゃんとクリーニングしてあった)や小物が来場者に配られる。ナベサダの私物放出くじ引きは、チャリティを兼ねていて世界を飛び回っているナベサダらしい企画だ。僕は彼の愛用のシャツが当たったが、サイズが合わず、いまだにビニールに入ったままだ。

2005年12月22日
花形
# by yyra87gata | 2012-12-17 16:29 | アルバムレビュー | Comments(2)
 
『思いっきり気障な人生』  沢田研二_d0286848_16272643.jpg
 僕はGSブームの時のタイガースは知らず、ソロになってからのジュリーしか覚えていないが、あの頃のアイドルシンガーの中でオーラが一番強かった気がする。見た目に中性的な魅力があり、マーク・ボランとかぶってしまうが、話すと京都弁を話すお兄ちゃんになり、気さくにバラエティー番組にも出ていた。
GSブームの王者、タイガース解散直後は萩原健一や井上尭之らとPYGというロックバンドを組むがGSとロックと歌謡曲の中間に位置したこのバンドは方向性が定まらず、短命に終わる。ジュリーは直ぐにソロシンガーとして歌謡曲の世界に飛び込み、タイガースの頃の華やかさを持ちつつ、ワイルドになっていった。これは、バックバンドに井上尭之バンドをセレクトしたことで、泥臭さも備え持つロック重視の方向性を生んだ結果だった。井上のブルージーなギターは、ジュリーの歌の幅を広げた。「君をのせて」「危険な2人」のような歌謡曲ぜんとした作品から「追憶」「時の過ぎ行くままに」といったバラッドまで、井上尭之バンドとのコラボレーションが生んだ作品は多く、極めつけは歌謡大賞、レコード大賞を総なめにした「勝手にしやがれ」だろう。1977年のことだ。
 第8回日本歌謡大賞は、日本武道館で開催された。大賞受賞後、井上尭之バンドは涙で崩れそうになるジュリーのサポートをしっかり行なった。声が出なくなりそうになると井上がアイコンタクトでバックにヴォリームを落とさせ、メリハリのある演奏が続く。武道館のアリーナは全員ジュリーファンじゃないかと思うくらい両手を上にかざし(通称・壁塗り)、エンディングの“あーあー”というコーラスを大合唱していた。

 『思いっきり気障な人生』(1977)は、大ヒット曲「勝手にしやがれ」「憎みきれないろくでなし」「サムライ」を含むヒットアルバム。音楽を大野克夫が手がけ、井上尭之バンドの演奏。ジュリーのノリに乗ったヴォーカルはとどまるところを知らない。特に「今夜はあなたにワインをふりかけ」はジュリーらしいゴージャスさも醸し出し、このアルバムタイトルが実感できる。“気障”なんて言葉が堂々と語れるアーティストはジュリーしかいなかった。そして、このアルバムからはいまだにジュリーのライヴで必ず演奏される重要な作品が多い。
 その後、ジュリーは“渚のラブレターバンド”改め“エキゾチックス”と行動を取るようになる。井上尭之バンドとは180度路線が異なり、時代の最先端の音を出すこのバンドは、ベース・吉田健とドラム・上原-ユカリ-裕のコンビネーションが光っていた。また、ギターの柴山兄弟はテクノデリカルなエフェクトで尖った音作りを率先して行い、コンピューターミュージックに対応した。ちょうどテクノとパンクが入り乱れ、男も化粧することに違和感の無い時代になっていた。ジュリーはいち早くその波を取り入れ、「TOKIO」「ストリッパー」「麗人」「6番目のユ・ウ・ウ・ツ」など井上尭之バンドでは再現できない音楽へと変革していった。
歌番組の衰退とともに歌謡曲の歌手は、俳優に転向する人、バラエティーのタレントになる人、ディナーショー専門の人など路線変更を強いられ、昭和の歌がテレビから消えていった。ジュリーも舞台や映画出演が多くなっていった。でも、彼は生まれもってのシンガーである。今でもアルバムを製作し、毎年コンサートツアーを開催している。
 昨年、井上尭之バンドのコンサートを観ていたとき、井上が客席にジュリーを見つけた。舞台上から手招きし、即興で「時の過ぎ行くままに」を披露してくれた。歌い終わると、恥ずかしそうにそそくさと自分の席に戻っていった。歳を重ねたジュリーの歌声は重みがあった。もう一度、井上尭之バンドと一緒にやったら、面白いかもしれないな、と僕は思った。あの頃のジュリーの歌を今のジュリーで聴いてみたくなった。

2005年12月21日
花形
# by yyra87gata | 2012-12-17 16:27 | アルバムレビュー | Comments(0)
 人に指図されず、自分達の作りたい音楽を作っていく。だからレコード会社を作った。そうすれば、日本の音楽の歴史を変えることができるはずだ。この4人が集まれば怖いものは無い。そんな調子でフォーライフ・レコードは1975年に設立された。初代社長はレコード会社設立の話を持ってきた小室等が就任。吉田拓郎、井上陽水、泉谷しげるは取締役&プロデューサーという役職に就くことになった。僕はたまたまフォーライフの設立記者会見を《3時のあなた》で見た。4人は金屏風の前に座り、終始小室さんが話していた。陽水と泉谷はサングラスをかけて怖そうだった。拓郎は仏頂面で上目遣いに何かを睨んでいた。僕は『元気です』(1972)や『今はまだ人生を語らず』(1974)のジャケットでしか拓郎を知らなかったので、ベージュのスリーピースを着ていることに驚き、意外と太っているんだな、という印象だった。
 レコード会社設立後、第1弾のアルバムは泉谷しげるの『LIVE泉谷 王様達の夜』(1975)が発表された。2枚組のこのアルバムはそれまで在籍していたエレックレコードの頃の代表曲を中心に行われたライヴの模様を余すことなく収録しており、エレックへの決別とも取れた。そしてその数ヶ月後には空前の野外コンサート“吉田拓郎・かぐや姫 つま恋オールナイトコンサート”が開催された。静岡県掛川市つま恋多目的広場には5万人以上の観客が詰め掛けた。これはフォーライフにとって追い風となり、まさに新しい光が音楽界に降り注いでいた。僕は小学生だったから行けなかったが、参加した親戚のおじさんはセイヤングで実況中継していたテープを聞かせてくれながら、興奮して話してくれた。
 その後、小室は『明日』(1975)、陽水は『招待状のないショー』(1976)、最後に拓郎は『明日に向かって走れ』(1976)を立て続けに発表し、世間を騒がせた。長者番付の1位2位を独占していた陽水と拓郎の2人が同じレコード会社になったわけで、その新譜が出ることは大事件だったのだ。
 人間、驕りが出ると、とんでもないことをしでかす。自分達はスーパースターの集まりだ、売れている、自分達が世の中を動かしている、と錯覚してしまう。そんなときに企画されたアルバムが『クリスマス』(1976)である。4人がカバー曲とオリジナルを寄せ合い1枚のクリスマスアルバムを作るというものだ。
 4人が集まるのだから売れないはずはない。ミリオンセラーの陽水や5万人以上もコンサートで集められる拓郎がいる。4人の売上を単純に足し算してプレス枚数を割り出した結果だとして、大船に乗ったつもりで初回プレスも破格の30万枚で行こう!なんて決めてしまった。陽水の『招待状のないショー』でさえ、この時期そこまで売上は上げていないのにである。案の定『クリスマス』の売上は予想プレス枚数を大きく下回るものであった。一応このアルバムは発売直後に1位にはなるが、当初の売上見込みへは遠く及ばず約20万枚が返品あるいは出荷されなかった。季節ものだったせいもあって継続的な売上は見込めず、制作費の回収ができずにフォーライフ・レコードが倒産寸前まで追い詰められてしまった。この事件により小室等から吉田拓郎への社長交替劇を生み、支払えなくなった『クリスマス』の制作費を補う為に拓郎は時間の無い中、風邪をおして、アルバム『ぷらいべえと』(1977)を制作した。緊急のことなのでミュージシャンもアマチュアが使われ、スタジオも深夜しか押えられなかった。鼻づまりの拓郎の声が痛々しかったが、このアルバムが意外なヒットを生み、フォーライフは復活する。
 驕れる作品『クリスマス』は、そんなごたごたが無ければ、良質な企画盤として成立したのだ。拓郎が「諸人こぞりて」を景気良く歌い、陽水が艶のある上手いヴォーカルで「ホワイト・クリスマス」を歌う。圧巻は泉谷の「きよしこの夜」。伴奏もなく吐き捨てるように歌う。そのレコーディング・トークバックから小室や拓郎が“本当に今のでOKテイクなのか”と確認する。泉谷は“いいんだよ、これで”と面倒臭そうに言う。一同大爆笑。そんな和気藹々としたおおらかなアルバムなのである。
『クリスマス』  小室等、泉谷しげる、井上陽水、吉田拓郎_d0286848_1625773.jpg

2005年12月19日
花形
# by yyra87gata | 2012-12-17 16:25 | アルバムレビュー | Comments(0)